junshan_yin 发表于 2009-6-6 19:55:31

文化史

本帖最后由 junshan_yin 于 2010-11-10 21:06 编辑

┃旧石器時代の文化/縄文文化のノート

○旧石器時代の文化
 ・更新世の時代、打製石器(握槌、細石器)・骨角器の使用
  狩猟・採集生活、土器使用なし、一定範囲の移動
 ・日本列島と大陸は陸続き
 ・相沢忠洋が石器発掘→岩宿遺跡、化石人骨(浜北人・港川人など)の発見
 ・代表遺跡…岩宿遺跡・野尻湖底遺跡、早水台遺跡

○縄文文化
 ・完新世→温暖化→列島は大陸と分離、樹林帯・生息動物・生活の変化
 ・磨製石器(石斧・石鏃・石匙・石皿)、骨角器(釣針・銛・鏃)の登場
  石錘・土錘、丸木舟の使用
 ・縄文土器…黒褐色・厚手、低温で焼く、もろい。6期区分
 ・竪穴住居、貝塚
 ・アニミズム、土偶・石棒、屈葬、抜歯
 ・交易を示すもの…黒曜石(和田峠、白滝、神津島など)
          ひすい(姫川・糸魚川)・サヌカイト(二上山)
 ・代表遺跡…三内丸山遺跡、上野原遺跡、加曽利貝塚、大森貝塚など

┃文章
 旧石器時代は更新世{こうしんせい}の時代で、地球上に広く氷河が発達し
た時代である。そして、打製石器・骨角器{こっかくき}は使用したが、土器
の製作や家畜の飼育は知らず、狩猟{しゅりょう}・漁労{ぎょろう}・採集
生活をしていた時代である。氷期の頃、日本列島と大陸は陸続きで、北からマ
ンモスやヘラジカ、南からナウマン象やオオツノジカ、ステゴドン象などが日
本列島に来た。

 なお、旧石器時代の由来は、1819年にデンマークのトムセンが人類文化を石
器・青銅器・鉄器に分け、イギリスのラボックが石器時代を新・旧の2段階に
分けたものである。新石器時代は完新世{かんしんせい}<注1>で、磨製
{ませい}石器・土器の製作と使用、家畜の飼育、農耕を特徴とし、日本では
縄文文化以降がそれに当たる。

  <注1>更新世の後で現在に至る1万年

 戦前、日本に旧石器時代の遺跡はなく、完新世になってから住み始めたとい
う考え方が定説だった。1946年、相沢忠洋{あいざわただひろ}が人類の遺物
は出土しないとされていた関東ローム層で、槍先のようにとがった石器を発見
した。そして、1949年の学術調査で、旧石器時代の遺跡と確認された。岩宿遺
跡は日本の旧石器時代文化の解明の端緒となり、日本各地で発掘調査が行なわ
れ、各地で更新世の地層から石器の発見が相次ぎ、旧石器文化の存在が明らか
になった。さらに、浜北人{はまきたじん}(静岡)、港川人{みなとがわじ
ん}(沖縄)などの化石人骨の発見につながった。相沢の発見は、戦前の考古
学の定説を知らなかったのが幸いしたものである。

 この時代の人々は、打製石器を使って、狩猟や植物性植物の採集の生活を送
っていたが、土器の製作や使用は確認されていない。狩猟は、ナイフ型石器や
尖頭器{せんとうき}などの石器を棒の先端につけた石槍を使い、ナウマン象
やオオツノジカなどの大型動物を捕らえた。打製石器は石同士をたたいて作っ
た石器のことで、握槌{にぎりつち:ハンドアックスとも}は叩く・割る・切
るなどの万能石器として、細石器{さいせっき}は3センチ以下の石刃{せき
じん}をいくつか木や骨の柄にはめ込んで使われた。また、人々は獲物や植物
性植物を求めて、一定範囲を移動した。このため、簡単なテント式住居や洞窟
{どうくつ}、岩陰{いわかげ}を一時的に住居として利用した。

 この時代の代表的な遺跡は、岩宿遺跡以外にもいくつかある。野尻湖底遺跡
群(長野県)は、1962年から始まった市民参加の学術大発掘で、後期旧石器時
代のオオツノジカやナウマン象などの化石獣骨や骨器・石器が見つかった。早
水台{そうずだい}遺跡(大分県)は、1964年の調査で前期旧石器時代の遺跡
とされる握槌・石核{せきかく}などが出土し、前期旧石器研究のきっかけと
なった。



 今から約1万年余り前、完新世になると、地球は温暖な気候となった。そし
て、氷河が溶けて海面が上昇して、日本列島が大陸と分離し、原形が形成され
た。また、気候も現在に近くなった。動物もシカやイノシシなど中小動物が多
くなった。樹林帯も変化し、東日本に落葉広葉樹林が、西日本を中心に照葉樹
林が広がった。

 人々の生活も変化した。中小動物を捕らえるため、イヌを飼って狩猟に用い
たり、弓矢を使った。各地に入江{いりえ}が出来、魚介類を捕る漁労の発達
を促した。また、落葉広葉樹林の木の実の種類・量は豊富で、ドングリなどの
木の実の採集も行なわれた。

 狩猟・漁労・採集の道具には、これまでの打製石器に代わって磨製石器が作
られた。磨製石器は木を加工しやすいように表面を磨いて作った石器で、石斧
{せきふ}・石鏃{せきぞく}・石匙{せきひ}・石皿などがある。また、動
物の骨・角・牙で作られた骨角器は、釣針・銛{もり}・鏃{やじり}などに
使われた。漁労では、網のおもりに使う石錘{せきすい}・土錘{どすい}、
火などで丸木を焼きえぐって丸木舟{まるきぶね}を作った。

 縄文時代の名の由来となっている縄文土器は、表面に撚糸{よりいと}状の
縄目文様が多いことから、その名が付いた<注2>。この土器は黒褐色{こっ
かっしょく}・厚手で、600~800度の低温で焼かれたためもろい。土器の形式
から草創・早・前・中・後・晩の6期に区分され、縄文時代の時代区分とほぼ
一致する。土器は煮沸・貯蔵に使われた。また、採集した木の実などは、貯蔵
穴に保存された。

  <注2>モースのcord marked potteryの訳語に由来する。

 縄文時代は山や海の幸に恵まれ、土器で煮沸できるようになり、食生活は大
幅に改善され、老人・幼児も栄養が取りやすくなった。しかし、食料の長期保
存が難しかったため、社会の仕組みが大きく変わることはなく、縄文時代が80
00年近くに及ぶことになった。

 その一方、人口は着実に増加し、湧き水の得られる台地上に集落を形成して
定住し、集落も数戸から十数戸へと拡大した。集落は環状集落が多く、竪穴住
居には数人から10人程度が住み、中央には炉{ろ}が置かれた。海岸近くの集
落には貝塚が見られ、どのようなものを食べていたかが分かる。貝塚は貝類が
層をなして堆積している遺跡で、集落の一角にあり、食べ物の残りや土器・石
器の破片などが捨てられた。

 人は亡くなれば共同墓地に埋葬されたが、副葬品らしいものはなく、貧富や
階級の差はなかったと考えられている(違うという説もある)。


 この時代の人々は、すべての自然物や自然現象に霊威があると考え、それを
畏怖{いふ}し、崇拝した。アニミズム(精霊信仰)である。そして、呪術で
災いを避けて、獲物などの増加を祈った。このような習俗を示すものに、土偶
{どぐう}や石棒{せきぼう}などがある。土偶は大きさ20センチ内外の土人
形で女性像が多く、生殖・収穫を祈る呪術に用いたと考えられる。中期~後期
に東日本で分布した。多くは壊され、完全形での出土は少ない。顔面や文様を
刻んだ土面{どめん}・土版{どばん}や岩製の岩版{がんばん}もある。ま
た、石棒は、武器の一種とも生殖器崇拝の対象とも考えられる。

 死者の多くは、手足の関節を折り曲げて埋葬された。この方法を屈葬{くっ
そう}といい、死霊の活動を防ぐとか、墓穴を掘る労力を節約するため、など
諸説ある。また、犬歯{けんし}・門歯{もんし}などを左右対称に抜き取る
抜歯{ばっし}は、縄文後~晩期の風習で、成年式の意味を持つと推定されて
いる。

 この時代、遠方集団との交易が行なわれていた。それを示すものが、黒曜石
{こくようせき}・ひすい(硬玉{こうぎょく})・サヌカイトなどである。
黒曜石は黒色透明の火成岩で、鋭利な切り口のために打製石器などの製作に適
した岩石である<注3>。産地は長野県和田峠、熊本県阿蘇山、北海道白滝
{しらたき}と十勝岳{とかちだけ}、神奈川県箱根、伊豆七島の神津島{こ
うづしま}、大分県姫島{ひめじま}などに限定されるので、黒曜石の石鏃の
分布は、当時の交易状況を物語る。

  <注3>黒曜石製のナイフ形石器は、鋭利で脂肪が付きにくいため、肉を
      切っても切れ味がにぶることはなかった。

 ひすいは半透明で緑色を呈{てい}し、勾玉{まがたま}などの材料として
使われた。新潟県姫川{ひめかわ}・糸魚川{いといがわ}流域が特産地であ
る。サヌカイトは、香川県白峰山{しらみねさん}で多産するので讃岐石{さ
ぬきいし}ともいうが、大阪府と奈良県境の二上山{にじょうざん}でも多く
産出する。


 この時代の代表的な遺跡は多い。青森県の三内丸山{さんないまるやま}遺
跡は約1500年間続いた大集落跡で、大型掘立柱建築跡などを発掘し、原始農耕
の存在も考えられてている。鹿児島県の上野原{うえのはら}遺跡は草創期の
最古・最大級の大集落跡で、竪穴集落跡が52軒あり、早期に定住性の高い集落
が営まれていたことが明らかになった。千葉県の加曽利{かそり}貝塚は、日
本最大規模の貝塚である。東京都の大森貝塚は、アメリカ人モースによって日
本最初の発掘調査が行なわれた貝塚で、日本考古学発祥の地である。岡山県の
津雲{つくも}貝塚は、出土した170体ほどの人骨のほとんどは屈葬だが、伸
展葬{しんてんそう}もある。また、抜歯の風習を示すものも出土している。

flamingo7625 发表于 2009-6-6 20:12:39

啊 这是哪个学校的呢。。。好像上外没有

风樯遥度天际 发表于 2009-6-6 21:30:07

是广外的?总之,非常谢谢楼主提供的资料,期待继续...

小琳若叶 发表于 2009-6-6 21:41:47

广外的吗?????谢谢楼主啊!!

yunzhier 发表于 2009-6-7 11:18:23

どうも ありがとうございます。

junshan_yin 发表于 2009-6-10 22:37:18

桃山文化のノート
○桃山文化…16世紀後半の信長・秀吉の時代の文化
 ・特徴…豪壮雄大な文化、現実的な文化、南蛮文化の影響

 ・建築…城郭建築-姫路城・彦根城・安土城・伏見城など
       伏見城遺構→都久夫須麻神社本殿・唐門、西本願寺書院・唐門
       聚楽第遺構→大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣
     書院造-醍醐寺三宝院表書院
     茶 室-妙喜庵待庵(千利休?)、如庵(織田有楽斎)

 ・絵画(狩野姓の人物は名字省略)
  ・水墨画-『松鷹図』(山楽)、『山水図屏風』(海北友松)など
  ・濃 絵-『唐獅子図屏風』(永徳)
       『智積院襖絵』(長谷川等伯)など
  ・風俗画-『洛中洛外図屏風』(永徳)
       『花下遊楽図屏風』(野長信)など
  ・南蛮屏風

 ・工芸…高台寺蒔絵、欄間彫刻など

 ・芸能・風俗
  ・茶道…千利休が大成。北野大茶会の開催
      古田織部・今井宗久・津田宗牛久の茶人
  ・阿国歌舞伎(出雲阿国)→歌舞伎へ
  ・人形浄瑠璃  ・隆達節(高三隆達)
  ・名人…碁の本因坊算砂、将棋の大橋宗桂ら
  ・生活…小袖、1日3食の風

 ・南蛮文化
  ・活版印刷術の伝来(ヴァリニャーニ)
               →天草版の刊行(『天草版平家物語』など)
  ・『日葡辞書』の刊行


┃文章
 桃山文化は、16世紀後半の信長・秀吉の時代の文化である。特徴は、新興武
士と豪商の財力を土台にした豪壮雄大{ごうそうゆうだい}な文化で、仏教色
も薄れて現実的な文化である。また、南蛮文化の影響を受けた文化でもある。
秀吉の居城伏見{ふしみ}城の跡地に桃を植えたことから、その地を桃山とい
うようになった。


 建築では、城郭{じょうかく}建築が有名である。城郭は、壮麗な天守{て
んしゅ}を持つ本丸を中心に、二の丸・三の丸などの郭{くるわ}や櫓{やぐ
ら}を配したもので、その中核をなす高層の楼閣を天守閣という。現在も残る
城郭は、姫路城<注1>、彦根城、松本城、二条城二の丸御殿など、残ってい
ないものは安土城、伏見城がある。なお、現存最古の天守閣は、犬山城のもの
である。

  <注1>別名、白鷺{しらさぎ}城。池田輝政{てるまさ}の居城。

 江戸時代に取り壊された伏見城の遺構は、都久夫須麻{つくぶすま、ちくぶ
すま}神社本殿・唐門<注2>、西本願寺書院(鴻の間{こうのま})・唐門
とされている。また、豊臣秀吉が京都に作った聚楽第{じゅらくだい}も、豊
臣秀次の死後に取り壊され、西本願寺飛雲閣{ひうんかく}、大徳寺唐門はそ
の遺構とされている。

  <注2>都久夫須麻神社は、琵琶湖の竹生島{ちくぶしま}にある。

 城郭以外に、書院造の醍醐寺三宝院表書院{だいごじさんぽういんおもてし
ょいん}やその庭園がある。茶室も、千利休{せんのりきゅう}のものと伝え
られる妙喜庵待庵{みょうぎあんたいあん}、織田有楽斎{うらくさい}の如
庵{じょあん}がある。


 絵画では、障壁画と風俗画がある。障壁画は、襖や壁・屏風・障子に描かれ
た絵で、水墨画と金碧{きんぺき}濃彩画があり、後者を濃絵{だみえ}とい
う。濃絵は、余白を金銀地で仕立て、緑青や朱などの濃彩を用いた絵画で、狩
野永徳{かのうえいとく}の発明とされる。

 狩野永徳の『唐獅子{からじし}図屏風』や『檜{ひのき}図屏風』、狩野
山楽{さんらく}の『松鷹{しょうよう}図』や『牡丹{ぼたん}図』、長谷
川等伯{とうはく}の『智積院{ちしょういん}襖絵楓{かえで}図・桜図』
や『松林図屏風』<注3>、海北友松{かいほうゆうしょう}の『山水{さん
すい}図屏風』などがある。

  <注3>『智積院襖絵』は子の久蔵{きゅうぞう}との合作。『松林図屏
      風』は水墨画。

 風俗画は、庶民生活・風習などを題材とする絵である。狩野永徳の『洛中洛
外図屏風』、狩野吉信{よしのぶ}の『職人尽{づくし}図屏風』、狩野長信
{ながのぶ}の『花下遊楽{かかゆうらく}図屏風』、狩野秀頼{ひでより}
の『高雄観楓{たかおかんぷう}図屏風』などがある。また、南蛮屏風も作ら
れ、『世界地図屏風』や『泰西{たいせい}王侯騎馬図屏風』などがある。

 工芸は、高台寺蒔絵{こうだいじまきえ}がある。高台寺は、豊臣秀吉の正
室北政所{きたのまんどころ}が秀吉の冥福を祈るために建立した寺である。
その霊屋{おたまや}は、伏見城の遺構で金蒔絵が施されている。秀吉・北政
所の蒔絵調度品を含めて、高台寺蒔絵という。彫刻は、西本願寺浪の間{なみ
のま}の欄間{らんま}彫刻が有名である。欄間は、鴨居{かもい}と天井の
間にはめ込まれた格子や透し彫{すかしぼり}<注4>の板で、通風・採光を
目的としている。また、甲冑{かっちゅう}も多く作られた。

  <注4>一枚の板を表から裏まで彫り通した彫刻技法。


 芸能・風俗では、茶道は千利休{せんのりきゅう}によって大成され、古田
織部{おりべ}・今井宗久{そうきゅう}・津田宗及{そうぎゅう}らの茶人
が現われた。織部は武道的茶道を成立させ、宗久・宗及・利休は三宗匠と称さ
れた。1587年、秀吉主催の北野大茶会{きたのおおちゃのえ}が開かれ、身分
・貧富の差なく自由に参集を求めた。

 出雲阿国{いずものおくに}は、阿国歌舞伎というかぶき踊りを始めた。か
ぶき踊りは、異様な風体{ふうてい}をした傾奇者{かぶきもの}の踊りであ
る。後に歌舞伎に発展していった。人形浄瑠璃{じょうるり}は、三味線{し
ゃみせん}を伴奏に取り入れ、人形操りと結合して発展した。三味線は琉球か
ら伝わり、猫皮を利用して日本特有のものとなった。高三隆達{たかさぶりゅ
うたつ}は、小歌を節付けして隆達節{ぶし}(隆達小歌)を始めた。

 娯楽は、碁{ご}の本因坊算砂{ほんいんぼうさんさ}、将棋{しょうぎ}
の大橋宗桂{そうけい}らの名人が現われた。生活は、小袖{こそで}がはや
り、1日3食の風も生まれた。


 南蛮文化の流入も、この文化の大きな特徴である。ヴァリニャーニは活字印
刷術を伝え、それを用いた天草版{あまくさばん:キリシタン版とも}は、宗
教書や辞書・文典を主にポルトガル系のローマ字で刊行された。『天草版平家
物語』や『天草版伊曽保{いそほ}物語』など34点が現存する。『日葡{にっ
ぽ}辞書』が長崎で刊行された。教会堂(南蛮寺{なんばんじ})・コレジオ
・セミナリオ・ノビシャド(修練院)などの施設も作られた。地球儀・時計・
眼鏡・外来語など生活文化への影響もあった。

rireiume 发表于 2009-6-11 10:07:09

本人也在考日本文化,觉得有点难.太感谢了!不知道哪有卖日本文化的日文版的书?
哪位知道?谢谢了!

小琳若叶 发表于 2009-6-11 18:19:33

请问楼主还有多少没传的呢?

junshan_yin 发表于 2009-6-12 22:01:01

室町文化のノート
室町文化…南北朝期の文化、北山文化、東山文化の総称
 ・特徴…公家文化+禅宗文化融合の武家文化+民衆的要素
     文化の民衆化と地方普及(戦国時代)

南北朝期の文化…14世紀中頃の南北朝の動乱期の文化
 ・特徴…世相の反映、武士・民衆の台頭
 ・学問…歴史書-『神皇正統記』(北畠親房)
     有職故実-『建武年中行事』(後醍醐天皇)
          『職原抄』(北畠親房)
 ・文学…軍記物-『太平記』『難太平記』『曽我物語』
     歴史書-『梅松論』『増鏡』
     和 歌-『新葉和歌集』(宗良親王)
 ・連歌…『菟玖波集』(二条良基と救済)、『応安新式』(二条良基)

○北山文化…3代将軍足利義満の頃の14世紀末~15世紀初めの文化
 ・特徴…武家文化が公家文化を摂取、禅宗文化・明文化の普及
 ・仏教…五山十刹-臨済宗統制。京都五山・鎌倉五山。五山僧の活躍
 ・文学…五山文学の全盛-義堂周信・絶海中津が双璧、五山版
     歴史書-『難太平記』(今川了俊)  軍記物-『義経記』
 ・建築…鹿苑寺金閣など
 ・庭園…西芳寺庭園(夢窓疎石)、天竜寺庭園、鹿苑寺庭園
 ・絵画…水墨画-『瓢鮎図』(明兆)、『寒山拾得図』(周文か?)など
 ・芸能…能-観阿弥・世阿弥が大成、『風姿花伝』(世阿弥)
     狂言

junshan_yin 发表于 2009-6-12 22:05:22

どうして発送するとき、下記のエラが出てきったのか?
对不起,您填写的内容(如签名、帖子、短消息等)包含不良内容而无法提交,请修改。
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