咖啡日语论坛
标题:
【广外】《日本社会文化》详细笔记+历年真题
[打印本页]
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:17
标题:
【广外】《日本社会文化》详细笔记+历年真题
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑
笔记 01----65楼
历年真题 66楼后
笔记还在整理中,试题有部分没有,谁有请跟帖补充!
广外考试只考01旧石器時代の文化/縄文文化----- 15化政文化,
16文明開化期の文化以后不会考到。
01旧石器時代の文化/縄文文化
02弥生文化
03古墳文化
04飛鳥文化
05白鳳文化
06天平文化
07弘仁 貞観文化
08国風文化
09院政期の文化/平安末期の文化
10鎌倉文化
11室町文化
12桃山文化
13寛永期の文化/元禄文化
14江戸時代の学問 思想
15化政文化
16文明開化期の文化
17明治文化①
18明治文化②
19大正 昭和初期の文化
20戦時下の文化
21占領期の文化
22現代の文化
真人游戏|足球篮球|时时ネ彩| 六合投ネ注|
网络赚钱:顶级信用ネ提现百分百即时到账SO.CC
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:19
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑
L001 旧石器時代の文化/縄文文化
○旧石器時代の文化
?更新世の時代、打製石器(握槌、細石器)?骨角器の使用
狩猟?採集生活、土器使用なし、一定範囲の移動
?日本列島と大陸は陸続き
?相沢忠洋が石器発掘→岩宿遺跡、化石人骨(浜北人?港川人など)の発見
?代表遺跡…岩宿遺跡?野尻湖底遺跡、早水台遺跡
○縄文文化
?完新世→温暖化→列島は大陸と分離、樹林帯?生息動物?生活の変化
?磨製石器(石斧?石鏃?石匙?石皿)、骨角器(釣針?銛?鏃)の登場
石錘?土錘、丸木舟の使用
?縄文土器…黒褐色?厚手、低温で焼く、もろい。6期区分
?竪穴住居、貝塚
?アニミズム、土偶?石棒、屈葬、抜歯
?交易を示すもの…黒曜石(和田峠、白滝、神津島など)
ひすい(姫川?糸魚川)?サヌカイト(二上山)
?代表遺跡…三内丸山遺跡、上野原遺跡、加曽利貝塚、大森貝塚など
真人游戏|足球篮球|时时e彩| 六合投e注|
网络赚钱:顶级信用e提现百分百即时到账SO.CC
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:19
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑
(1)
旧石器時代は更新世{こうしんせい}の時代で、地球上に広く氷河が発達した時代である。そして、打製石器?骨角器{こっかくき}は使用したが、土器の製作や家畜の飼育は知らず、狩猟{しゅりょう}?漁労{ぎょろう}?採集生活をしていた時代である。氷期の頃、日本列島と大陸は陸続きで、北からマンモスやヘラジカ、南からナウマン象やオオツノジカ、ステゴドン象などが日本列島に来た。
なお、旧石器時代の由来は、1819年にデンマークのトムセンが人類文化を石器?青銅器?鉄器に分け、イギリスのラボックが石器時代を新?旧の2段階に分けたものである。新石器時代は完新世{かんしんせい}<注1>で、磨製{ませい}石器?土器の製作と使用、家畜の飼育、農耕を特徴とし、日本では縄文文化以降がそれに当たる。
注1>更新世の後で現在に至る1万年
戦前、日本に旧石器時代の遺跡はなく、完新世になってから住み始めたという考え方が定説だった。1946年、相沢忠洋{あいざわただひろ}が人類の遺物は出土しないとされていた関東ローム層で、槍先のようにとがった石器を発見した。そして、1949年の学術調査で、旧石器時代の遺跡と確認された。岩宿遺跡は日本の旧石器時代文化の解明の端緒となり、日本各地で発掘調査が行なわれ、各地で更新世の地層から石器の発見が相次ぎ、旧石器文化の存在が明らかになった。さらに、浜北人{はまきたじん}(静岡)、港川人{みなとがわじん}(沖縄)などの化石人骨の発見につながった。相沢の発見は、戦前の考古学の定説を知らなかったのが幸いしたものである。
この時代の人々は、打製石器を使って、狩猟や植物性植物の採集の生活を送っていたが、土器の製作や使用は確認されていない。狩猟は、ナイフ型石器や尖頭器{せんとうき}などの石器を棒の先端につけた石槍を使い、ナウマン象やオオツノジカなどの大型動物を捕らえた。打製石器は石同士をたたいて作った石器のことで、握槌{にぎりつち:ハンドアックスとも}は叩く?割る?切るなどの万能石器として、細石器{さいせっき}は3センチ以下の石刃{せきじん}をいくつか木や骨の柄にはめ込んで使われた。また、人々は獲物や植物性植物を求めて、一定範囲を移動した。このため、簡単なテント式住居や洞窟{どうくつ}、岩陰{いわかげ}を一時的に住居として利用した。
この時代の代表的な遺跡は、岩宿遺跡以外にもいくつかある。野尻湖底遺跡群(長野県)は、1962年から始まった市民参加の学術大発掘で、後期旧石器時代のオオツノジカやナウマン象などの化石獣骨や骨器?石器が見つかった。早水台{そうずだい}遺跡(大分県)は、1964年の調査で前期旧石器時代の遺跡とされる握槌?石核{せきかく}などが出土し、前期旧石器研究のきっかけとなった。
(2)
今から約1万年余り前、完新世になると、地球は温暖な気候となった。そして、氷河が溶けて海面が上昇して、日本列島が大陸と分離し、原形が形成された。また、気候も現在に近くなった。動物もシカやイノシシなど中小動物が多くなった。樹林帯も変化し、東日本に落葉広葉樹林が、西日本を中心に照葉樹林が広がった。
人々の生活も変化した。中小動物を捕らえるため、イヌを飼って狩猟に用いたり、弓矢を使った。各地に入江{いりえ}が出来、魚介類を捕る漁労の発達を促した。また、落葉広葉樹林の木の実の種類?量は豊富で、ドングリなどの木の実の採集も行なわれた。
狩猟?漁労?採集の道具には、これまでの打製石器に代わって磨製石器が作られた。磨製石器は木を加工しやすいように表面を磨いて作った石器で、石斧{せきふ}?石鏃{せきぞく}?石匙{せきひ}?石皿などがある。また、動物の骨?角?牙で作られた骨角器は、釣針?銛{もり}?鏃{やじり}などに使われた。漁労では、網のおもりに使う石錘{せきすい}?土錘{どすい}、火などで丸木を焼きえぐって丸木舟{まるきぶね}を作った。
縄文時代の名の由来となっている縄文土器は、表面に撚糸{よりいと}状の縄目文様が多いことから、その名が付いた<注2>。この土器は黒褐色{こっかっしょく}?厚手で、600~800度の低温で焼かれたためもろい。土器の形式から草創?早?前?中?後?晩の6期に区分され、縄文時代の時代区分とほぼ一致する。土器は煮沸?貯蔵に使われた。また、採集した木の実などは、貯蔵穴に保存された。
縄文時代は山や海の幸に恵まれ、土器で煮沸できるようになり、食生活は大幅に改善され、老人?幼児も栄養が取りやすくなった。しかし、食料の長期保存が難しかったため、社会の仕組みが大きく変わることはなく、縄文時代が8000年近くに及ぶことになった。
その一方、人口は着実に増加し、湧き水の得られる台地上に集落を形成して定住し、集落も数戸から十数戸へと拡大した。集落は環状集落が多く、竪穴住居には数人から10人程度が住み、中央には炉{ろ}が置かれた。海岸近くの集落には貝塚が見られ、どのようなものを食べていたかが分かる。貝塚は貝類が層をなして堆積している遺跡で、集落の一角にあり、食べ物の残りや土器?石器の破片などが捨てられた。
人は亡くなれば共同墓地に埋葬されたが、副葬品らしいものはなく、貧富や階級の差はなかったと考えられている(違うという説もある)。
注2>モースのcord marked potteryの訳語に由来する。
(3)
この時代の人々は、すべての自然物や自然現象に霊威があると考え、それを畏怖{いふ}し、崇拝した。アニミズム(精霊信仰)である。そして、呪術で災いを避けて、獲物などの増加を祈った。このような習俗を示すものに、土偶{どぐう}や石棒{せきぼう}などがある。土偶は大きさ20センチ内外の土人形で女性像が多く、生殖?収穫を祈る呪術に用いたと考えられる。中期~後期に東日本で分布した。多くは壊され、完全形での出土は少ない。顔面や文様を刻んだ土面{どめん}?土版{どばん}や岩製の岩版{がんばん}もある。また、石棒は、武器の一種とも生殖器崇拝の対象とも考えられる。
死者の多くは、手足の関節を折り曲げて埋葬された。この方法を屈葬{くっそう}といい、死霊の活動を防ぐとか、墓穴を掘る労力を節約するため、など諸説ある。また、犬歯{けんし}?門歯{もんし}などを左右対称に抜き取る抜歯{ばっし}は、縄文後~晩期の風習で、成年式の意味を持つと推定されている。
注3> 黒曜石製のナイフ形石器は、鋭利で脂肪が付きにくいため、肉を切っても切れ味がにぶることはなかった。
(4)
この時代、遠方集団との交易が行なわれていた。それを示すものが、黒曜石{こくようせき}?ひすい(硬玉{こうぎょく})?サヌカイトなどである。黒曜石は黒色透明の火成岩で、鋭利な切り口のために打製石器などの製作に適した岩石である<注3>。産地は長野県和田峠、熊本県阿蘇山、北海道白滝{しらたき}と十勝岳{とかちだけ}、神奈川県箱根、伊豆七島の神津島{こうづしま}、大分県姫島{ひめじま}などに限定されるので、黒曜石の石鏃の分布は、当時の交易状況を物語る。
ひすいは半透明で緑色を呈{てい}し、勾玉{まがたま}などの材料として使われた。新潟県姫川{ひめかわ}?糸魚川{いといがわ}流域が特産地である。サヌカイトは、香川県白峰山{しらみねさん}で多産するので讃岐石{さぬきいし}ともいうが、大阪府と奈良県境の二上山{にじょうざん}でも多く産出する。
この時代の代表的な遺跡は多い。青森県の三内丸山{さんないまるやま}遺跡は約1500年間続いた大集落跡で、大型掘立柱建築跡などを発掘し、原始農耕の存在も考えられてている。鹿児島県の上野原{うえのはら}遺跡は草創期の最古?最大級の大集落跡で、竪穴集落跡が52軒あり、早期に定住性の高い集落が営まれていたことが明らかになった。千葉県の加曽利{かそり}貝塚は、日本最大規模の貝塚である。東京都の大森貝塚は、アメリカ人モースによって日本最初の発掘調査が行なわれた貝塚で、日本考古学発祥の地である。岡山県の津雲{つくも}貝塚は、出土した170体ほどの人骨のほとんどは屈葬だが、伸展葬{しんてんそう}もある。また、抜歯の風習を示すものも出土している。
真人游戏|足球篮球|时时の彩| 六合投の注|
网络赚钱:顶级信用の提现百分百即时到账SO.CC
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:20
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑
L002 弥生文化
○弥生文化…BC4世紀頃~AD3世紀頃
?薩南諸島~東北地方→北海道は続縄文文化?擦文文化?オホーツク文化
南西諸島は貝塚文化(南島文化)
?弥生土器…薄手?硬い、赤褐色、甕?壺?鉢?高杯など
?金属器…鉄 器(工具?農具?武器に使用)
青銅器(祭器?宝器に使用、銅剣?銅矛?銅戈?銅鐸)
?水稲耕作…初 期:湿田に田植え、石包丁で穂首刈り、木臼?竪杵で脱穀
木製農具の使用(鍬?鋤、えぶり、田下駄、田舟)
中期末:乾田の登場、鉄製刃先を付けた鍬?鋤、鉄鎌で根刈り
磨製石器から鉄製工具へ
?集落…竪穴住居?高床倉庫、集落の増加
環濠集落(吉野ヶ里遺跡)?高地性集落(紫雲出山遺跡)
→身分?貧富の差、戦いの発生
?埋葬方法…伸展葬
甕棺墓?箱式石棺墓?支石墓(九州北部)、再葬墓(東日本)
土壙墓?木棺墓?壺棺墓?方形周溝墓(各地)
大きな墳丘墓(平安後期、東日本)
?代表遺跡…登呂遺跡、神庭荒神谷遺跡、垂柳遺跡など
真人游戏|足球篮球|时时ǎ彩| 六合投ǎ注|
网络赚钱:顶级信用ǎ提现百分百即时到账SO.CC
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:23
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑
(1)
弥生文化は、通説では紀元前4世紀頃に九州北部で始まり、薩南諸島から東北地方まで紀元3世紀頃まで栄えた文化である。農耕?金属器?弥生土器を特徴とし、階級社会を生み、小国家の段階に進んだ。なお、北海道は農耕を行なわず、漁労と狩猟を中心とする続縄文文化?擦文{さつもん}文化?オホーツク文化となった。沖縄を含む南西諸島は農耕が及ばず、貝類などの食料採集を行なう貝塚文化(南島文化)となった。
弥生土器<注1>は、縄文土器に比べて薄手で硬く、赤褐色{せきかっしょく}を帯びている。形態は煮沸用の甕{かめ}、貯蔵用の壺{つぼ}、盛り付け用の鉢{はち}?高杯{たかつき}など、実用を旨として分化した。金属器は、鉄器と青銅器がほぼ同時に伝来した。青銅器は祭器?宝器に用いられ、銅剣?銅矛{どうほこ}?銅戈{どうか}?銅鐸{どうたく}などがある。銅鐸は日本独特の釣鐘型青銅器で、生物?人?高床倉庫などの絵が描かれており、農耕祭祀に用いられたと考えられている。鉄器は、工具?農具?武器に用いられた。
水稲耕作は、縄文晩期に伝わったと考えられている。稲作は、低湿地に水田(湿田{しつでん})を作って田植えを行ない<注2>、実ると石包丁{いしぼうちょう}を使って穂首刈{ほくびが}りした。木製農具がたくさん使われた。耕作具に鍬{くわ}?鋤{すき}、水田をならすえぶりを使い、足が水田にもぐらないように田下駄{たげた}を履いた。収穫した穂首束{たば}を田舟{たぶね}で運び、高床倉庫や貯蔵穴に収めた。木臼{きうす}?竪杵{たてぎね}を使って脱穀した。
中期末に灌漑{かんがい}水路を備えた乾田{かんでん}が現われ、鉄製の刃先を付けた鍬?鋤で耕し、収穫も鉄鎌を使って根刈りした。また、肥料から踏み込む大足{おおあし}も使われた。木製工具の制作も、次第に磨製石器から鉄製工具へと代わっていった。
これまでの狩猟?漁労?植物採集も行なわれた。水稲耕作が始まり、集落も丘陵地から平地に移ったが、竪穴住居に住み、穀物を保管する高床倉庫も造られた。集落も20~50戸程度に増えた。一方、貧富?身分の差が発生し、耕地や生産物をめぐる戦いも発生した。環濠{かんごう}集落や高地性集落はこうした状況下で出現したと考えられ、勝った集落は負けた集落を統合し、小国に発展した。
環濠集落は周囲を濠{ほり}や土塁{どるい}で囲んだ集落で、防御的機能を持っている。佐賀県の吉野ヶ里{よしのがり}遺跡、奈良県の唐古?鍵{からこ?かぎ}遺跡、大阪府の池上曽根{いけがみそね}遺跡などが知られる。高地性集落は生活に不便な山頂に位置する集落で、香川県の紫雲出山{しうでやま}遺跡、兵庫県の会下山{えげのやま}遺跡など瀬戸内沿岸を中心とした西日本に分布している。
注1> 1880年、東京府本郷区向ヶ丘{むこうがおか}弥生町(現、東京都文京区弥生2丁目)の向ヶ丘貝塚(弥生町遺跡とも)で発見された。そこで発見されたため、弥生土器という。この遺跡は東京大学農学部構内にあったとされるが、正確な位置は確定しておらず、複数の候補地がある。
注2> もみを水田に直接播{ま}く方法もある。
真人游戏|足球篮球|时时ギ彩| 六合投ギ注|
网络赚钱:顶级信用ギ提现百分百即时到账SO.CC
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:24
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑
(2)
死者は手足を伸ばして葬る伸展葬{しんてんそう}が主流で、集落近くの共同墓地に埋葬された。九州北部に甕棺墓{かめかんぼ}?箱式石棺墓{はこしきせっかんぼ}?支石墓{しせきぼ}、東日本で再葬墓{さいそうぼ}、各地に土壙墓{どこうぼ}?木棺墓{もっかんぼ}?壺棺墓{つぼかんぼ}?方形周溝墓{ほうけいしゅうこうぼ}が見られ、弥生後期に東日本で大きな墳丘墓{ふんきゅうぼ}が見られた。
甕棺墓は、土製の甕形の棺{ひつぎ}に死者を入れて埋葬した墓である。箱式石棺墓は、扁平{へんぺい}な板石を長い箱形に組み合わせ、同様な板石でふたをした棺に遺体を収めた墓である。支石墓は、自然石の支柱の上に大きな平石をのせたもので、その下や周囲に甕棺が群がる。再葬墓は、死者の骨を洗骨した後に、壺に入れて改めて葬った墓である。土壙墓は地中に穴を掘り、棺を使わず遺体を埋めた墓である。方形周溝墓は、方形の低い墳丘の周りに溝をめぐらせたものである。墳丘墓は、盛り土をして墓域を画した墳丘を持つ墓である。
(3)
この時代の遺跡も数多い。静岡県の登呂{とろ}遺跡は太平洋戦争中に発見され、戦後の調査で住居跡?高床倉庫群?畦?水田跡を発掘した。島根県の神庭荒神谷{かんばこうじんだに}遺跡は、銅剣358本?銅矛16本?銅鐸6個がまとまって出土した。また、加茂岩倉{かもいわくら}遺跡は、山の中腹から銅鐸39個が出土した。福岡県の板付{いたづけ}遺跡は、水田跡を発掘した。青森県の垂柳{たれやなぎ}遺跡や砂沢{すなざわ}遺跡も有名である。
真人游戏|足球篮球|时时ぶ彩| 六合投ぶ注|
网络赚钱:顶级信用ぶ提现百分百即时到账SO.CC
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:25
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑
L003 古墳文化
○古墳文化…3期区分
?古墳…形状-前方後円墳?前方後方墳?円墳?方墳など
葺石、埴輪、濠をめぐらす
?前期古墳…大規模、竪穴式石室、円筒埴輪、呪術的副葬品
箸墓古墳が代表
?中期古墳…巨大化、竪穴式石室→横穴式石室、形象埴輪、軍事的副葬品
誉田御廟山古墳と大仙陵古墳が代表
?後期古墳…群集墳?横穴墓?装飾古墳、横穴式石室、円筒?形象埴輪
武具?土器など、石舞台古墳?高松塚古墳
?渡来人の伝来
新文化?技術の伝来…鉄器や須恵器の生産、
機織り?金属工芸?土木工事など→品部に組織
王仁?阿知使主?弓月君らの渡来
漢字?儒教?仏教の伝来
仏教…百済の聖明王が欽明天皇に仏像などを伝えた。
538年(元興寺縁起など)と552年(日本書紀)説
?生活…竪穴住居?平地住居に住む、土師器?須恵器の使用
衣服-筒袖の衣、男は袴?女は裳
頭髪-男は美豆良、女は髷を結う
?祭祀…祈年祭?新嘗祭、禊?祓 占法-太占?盟神探湯
自然神を祀る…大神神社、宗像神社の沖津宮など
氏神を祀る…天照大神を祀る伊勢神宮内宮
大国主命を祀る出雲大社など
真人游戏|足球篮球|时时з彩| 六合投з注|
网络赚钱:顶级信用з提现百分百即时到账SO.CC
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:26
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑
(1)
弥生時代後期、有力者の墓は大きな墳丘墓だった。3世紀後半~4世紀初頭に瀬戸内海沿岸から近畿にかけて古墳{こふん}が現われ、4世紀後半に各地へ広がった。古墳は、特定の個人を埋葬した墳丘を持つ墓である。古墳が作られた時代を古墳時代といい、特徴によって前?中?後期と区分される。古墳の形は、前方後円墳{ぜんぽうこうえんぷん}?前方後方墳{ぜんぽうこうほうふん}?円墳?方墳など様々である<注1>。そして、墳丘の斜面は葺石{ふきいし}で覆われ、墳丘の周りに濠をめぐらすことも多い。また、埴輪{はにわ}<注2>を表土に列をなして並べられた。
前期古墳は、畿内の台地や丘陵に大規模な前方後円墳が造営された。竪穴式石室や粘土槨{ねんどかく}に木棺?石棺を収納し、銅鏡や玉{ぎょく}など呪術的なものが副葬された。被葬者は、司祭者的性格を持つ者と推定される。埴輪は、円筒埴輪が多い。中期古墳は全国に拡大し、平野部では巨大化した。竪穴式石室に木棺?石棺を収納していたが、4世紀末に九州北部に横穴式石室が現われ、5世紀末に近畿地方に広まった。副葬品は武器?武具など軍事的な者が多く、武人的性格を持つ者が埋葬されたと推定される。埴輪は、各種形態の形象埴輪を製作した。
竪穴式石室は、遺体を埋葬後に長方形の石室を作り、上部から土をかぶせたものである。横穴式石室は、入口をふさぐ石を取れば玄室{げんしつ:遺体安置場所}までいけるため、いつでも追葬できる家族墓的性格を持っている。
後期古墳は全国に拡大し、近畿中央部では大規模なものが作られたが、各地には小型古墳(群集墳{ぐんしゅうふん})が増加した。横穴式石室が全国的に普及した。副葬品は武具などの他、飲食用の土器なども多くなった。円筒?形象埴輪を盛んに使ったが、畿内では次第に減少する。また、山腹や台地の縁辺に穴を掘った横穴墓{よこあなぼ}や石室の壁画に絵画を描いた装飾古墳も見られる。
有名な古墳も多い。前期は奈良県の箸墓{はしはか}古墳、中期はともに大阪府の誉田御廟山{こんだごびょうやま}古墳と大仙陵{だいせんりょう}古墳、後期はともに奈良県の石舞台{いしぶたい}古墳と藤ノ木{ふじのき}古墳、高松塚{たかまつづか}古墳などが知られる。大仙陵古墳は日本第1位、誉田御廟山古墳は日本第2位の大きさの前方後円墳である。石舞台古墳は蘇我馬子の墓といわれ、盛り土が失われて巨石を積んで築かれた横穴式石室が露出している。高松塚古墳は、装飾古墳の代表である。
注1> 数は円墳?方墳が多く、大規模なものは前方後円墳である。
注2> 素焼きの焼き物。土留め?器台形土器の発展など諸説がある。
(2)
5世紀頃、新しい文化や技術が朝鮮半島からやってきた渡来人によって伝えられた。彼らは、鉄器や須恵器{すえき}の生産、機織{はたお}り?金属工芸?土木工事などの諸技術や文字が伝えられた。ヤマト政権は、彼らを韓鍛冶部{からかぬちべ}?陶作部{すえつくりべ}?錦織部{にしごりべ}?史部{ふひとべ}などの品部{しなべ}に組織し、技術や知識を活用した。
注3> 易経{えききょう}?詩経{しきょう}?書経{しょきょう}?春秋{しゅんじゅう}?礼記{らいき}の5つ
応神天皇朝に、王仁{わに}?阿知使主{あちのおみ}?弓月君{ゆづきのきみ}らが渡来した。王仁は百済の博士で、『論語』や『千字文{せんじもん:識字?習字のテキスト}』をもたらし、文筆?出納{すいとう}に従ったという。西文氏{かわちのふみうじ}の祖とされる。阿知使主は文筆に優れ、史部を管理したという。東漢氏{やまとのあやうじ}の祖とされる。養蚕?機織りを伝え、秦氏{はたうじ}の祖とされる。
大陸から漢字?儒教?仏教が伝わった。漢字?儒教は、王仁が儒教の経典を伝えたとされる。漢字が伝わったことで、漢字の音を借りて人名や地名を表わすことが出来るようになり、政権の記録、出納、外交文書の作成もできるようになった。欽明天皇朝頃には、大王家の系譜『帝紀{ていき}』と神話?王権物語『旧辞{きゅうじ}』が編纂された。漢字の銘文を持つ刀剣?鏡も相次いで見つかった。埼玉県の稲荷山{いなりやま}古墳から出土した鉄剣、熊本県の江田船山{えたふなやま}古墳から出土した鉄刀、和歌山県の隅田{すだ}八幡神社が所蔵する人物画像鏡などがある。
儒教の思想は王仁の時に伝わったが、6世紀初めの継体{けいたい}天皇朝に五経{ごきょう}博士が百済から来日し、五経<注3>を講じて儒教を伝えたとされている。6世紀中頃の欽明天皇朝に易{えき:占い}?暦{れき}?医博士が来日し、学術も伝えた。
仏教は、百済の聖明王{せいめいおう}が欽明天皇に仏像と経論{きょうろん}などを伝えたとされる。公的には『元興寺縁起{がんごうじえんぎ}』や『上宮聖徳法王帝説{じょうぐうしょうとくほうおうていせつ}』は538年、『日本書紀』は552年とあるが、538年が有力とされる。また、『扶桑略記{ふそうりゃっき}』には、司馬達等{しばたっと}が私宅で仏像を礼拝したとあり、その時期が「継体天皇即位十六年(522年)」とあることから、私的にはそれ以前に伝わっていた可能性が高い。
真人游戏|足球篮球|时时n彩| 六合投n注|
网络赚钱:顶级信用n提现百分百即时到账SO.CC
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:26
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑
(3)
この頃の民衆は、竪穴住居?平地{へいち}住居に住んでいた。土器は、土師器{はじき}と須恵器が使われた。土師器は、弥生土器の製法を受け継ぎ、800度前後で焼かれた赤焼きの土器で、主に日用具とされた。須恵器は、ろくろ?登り窯{のぼりがま}など朝鮮半島伝来の新技術を用い、1000度以上の高温で焼かれた灰色?硬質の土器で、主に祭祀用に用いた。2つとも平安時代にまで製作?使用された。
衣服は上下に分かれ、男女とも筒袖{つつそで}の衣{ころも}をつけ、男は下に乗馬ズボン風の袴{はかま}、女はスカート風の裳{も}をつけた。そして、男は頭髪を中央から左右に分け、耳の当たりで輪のようにして緒{お}で結んだ。美豆良{みずら}という。女は髷を結んだ。この姿は人物埴輪から分かってきた。
(4)
水稲耕作の普及?発達により、農耕祭祀が大切なものとなった。春に五穀豊穣{ごこくほうじょう}を祈る祈年祭{としごいのまつり/きねんさい}と秋に収穫を感謝する新嘗祭{にいなめのまつり/しんじょうさい}は、特に重要だった。また、禊{みそぎ}や祓{はらえ}で身を清め、けがれをはらった。禊は、心身の罪やけがれを海?川?滝などの清浄な水で身を洗い流すことである。祓は、水以外での方法での罪?けがれを除去することである。
一方、神々の意向を知るために占法が行なわれ、呪術的な風習も盛んに行なわれた。太占{ふとまに}は、鹿の肩甲骨{けんこうこつ}を焼いて、そのひび割れの形で今後の策を占うことである。盟神探湯{くかたち}は、熱湯に手を入れて、やけどの有無で真偽を確かめるもので、氏姓の不正を正すために行なったという。
自然神を祀る神社の中には、この頃を起源とするものもある。三輪山{みわやま}を神体とする奈良県の大神{おおみわ}神社、玄界灘の孤島沖ノ島{おきのしま}を神体とする福岡県の宗像{むなかた}神社の沖津宮{おきつのみや}などである。沖ノ島には5~9世紀の祭祀遺跡も多く、出土品の貴重さ?豊富さから「海の正倉院」ともいわれる。
氏神も祀るようになった。天照大神{あまてらすおおみかみ}を祀る三重県の伊勢神宮内宮{ないくう}、大国主命{おおくにぬしのみこと}を祀る島根県の出雲大社{いずもたいしゃ}、海神を祀る大阪府の住吉{すみよし}大社などがその例である<注4>。また、土地の神を祀る産土神{うぶすながみ}も祀られた。
注4> 伊勢神宮は神明造{しんめいづくり}、出雲大社は大社造、住吉大社は住吉造で作られる。
真人游戏|足球篮球|时时、彩| 六合投、注|
网络赚钱:顶级信用、提现百分百即时到账SO.CC
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:27
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑
L004 飛鳥文化
○飛鳥文化…7世紀前半、推古天皇朝を中心とする時代
?特徴…日本初の仏教文化、中国南北朝?朝鮮の影響
ギリシア?インドとの共通性も
?仏教…氏寺-飛鳥寺、太秦寺、仏教興隆の詔、厩戸王の三経義疏
?建築…礎石建ち?瓦葺?朱塗柱で寺院建立
四天王寺?法隆寺?中宮寺など
伽藍配置-飛鳥寺式、四天王寺式、法隆寺式など
?彫刻…飛鳥寺釈迦如来像、法隆寺金堂釈迦三尊像など(北魏様式)
法隆寺百済観音像、広隆寺と中宮寺の半跏思惟像など
(百済?中国南朝様式)
仏師-鞍作鳥が有名
?工芸…法隆寺玉虫厨子、中宮寺天寿国繍帳など
?絵画…玉虫厨子の扉絵や須弥座絵(捨身飼虎図や施身聞偈図など)
曇徴が絵の具?紙墨の製法を伝える
?暦法?天文…観勒が伝える
真人游戏|足球篮球|时时Ⅹ彩| 六合投Ⅹ注|
网络赚钱:顶级信用Ⅹ提现百分百即时到账SO.CC
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:27
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-27 21:50 编辑
(1)
飛鳥文化は、7世紀前半の推古天皇朝を中心とする時代の文化である。特徴は、日本初の仏教文化であること、中国南北朝?新羅?百済?高句麗の影響を受け、ギリシア?インドとの共通性も見られる。
飛鳥時代の仏教は、先祖の崇拝や戦争の勝利、病気平癒を祈るなど呪術性が強かった。そこで、豪族はこぞって氏寺を建立し、氏族の発展と先祖の追善を行なった。蘇我馬子の飛鳥寺{あすかでら:法興寺{ほうこうじ}とも}、秦河勝{はたのかわかつ}の太秦寺{うずまさでら:広隆寺{こうりゅうじ}とも}がその例である。
厩戸王{うまやとおう}(聖徳太子)は、594年に仏教興隆の詔を出し、仏法僧{ぶっぽうそう}<注1>の三宝{さんぽう}を興させた。そして、三経義疏{さんぎょうぎしょ}を著わした。これは法華{ほっけ}?勝鬘{しょうまん}?維摩{ゆいま}の3経の注釈書で、『法華経{ほけきょう}義疏』は彼の自筆とされ、現存する日本最古の著作である。また、彼には恵慈{えじ}という仏教の師がいた。恵慈は高句麗の僧で、595~615年に在日し、飛鳥寺に住んだ。帰国後、彼の死を聞き、彼と同日の死を願って、翌年同日に入寂{にゅうじゃく:亡くなる}したといわれる。
注1> 仏は釈迦{しゃか}、法は仏の説いた教え、僧は仏に従う教団。
(2)
建築の分野では、渡来人が伝えた礎石{そせき}建ち?瓦葺{かわらぶき}?朱塗柱{しゅぬりばしら}(丹{に}塗柱)で、寺院が建てられるようになった。これまでは掘立柱{ほったてばしら}?檜皮葺{ひわだぶき}の建築法だった。礎石建ちは、柱の基礎に石を据える建築法で、瓦葺建築の重量に耐える工法である。掘立柱は、柱の基底部を地中に埋め込んだ工法である。朱塗柱は、朱(硫化水銀)や丹(四酸化三鉛)などで赤く塗った柱である。
この頃の寺院には飛鳥寺?太秦寺以外に、四天王寺?法隆寺?中宮寺{ちゅうぐうじ}などがある。3つとも聖徳太子が建立した寺で、四天王寺は、物部守屋との戦いで、四天王に祈って勝利を得たために建立した寺院である。中宮寺は、母の穴穂部間人{あなほべのはしひと}皇后の宮跡{きゅうせき}を寺にしたものである。
法隆寺の金堂?中門?五重塔?歩廊{ほろう:回廊{かいろう}とも}は、旧山田寺廻廊{やまだでらかいろう}遺材に続く世界最古の木造建築である。金堂は、柱のエンタシス<注2>など南北朝様式を特色とする。南北朝様式は、エンタシスや大斗{だいと}?雲形肘木{くもがたひじき}?卍崩{まんじくず}しの勾欄{こうらん}?人字形割束{ひとじがたわりづか}を建築物の特徴とする。五重塔は、法起寺{ほっきじ}<注3>三重塔とともに飛鳥様式を伝える最古の塔である。
『日本書紀』によると、670年に法隆寺炎上の記事があり、歴史学者は現存の金堂?五重塔の670年以降の再建を主張した。建築史家は、様式?尺度から創建当時のものと非再建を主張した。1939年に若草伽藍跡の発掘で、再建論が有力となった。法隆寺再建?非再建論争である。
寺院の建物の配置を伽藍{がらん}配置といい、それぞれに特徴がある。最古の飛鳥寺式は、塔を囲んで3つの金堂が配置されている。四天王寺式は、金堂の前に塔を建て南北一直線に配置されている。法隆寺式は、西の五重塔と東の金堂が中門から見て左右対称に建てられている。当初、釈迦の骨(仏舎利{ぶっしゃり})を収める塔が中心だったが、本尊を祀る金堂が中心となり、学問のための講堂や経蔵{きょうぞう}が重視されていった。白鳳文化の薬師寺式以降、塔は装飾的存在となった。
注2> 柱の中央部が膨らんでいるもの。
注3> 山背大兄王{やましろのおおえのおう}が太子の岡本宮{おかもとのみや}を寺にしたものである。
真人游戏|足球篮球|时时ぴ彩| 六合投ぴ注|
网络赚钱:顶级信用ぴ提现百分百即时到账SO.CC
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:28
(3)
仏像彫刻も多く作られた。飛鳥彫刻の源流は、中国の雲崗{うんこう}や竜門{りゅうもん}の石仏とされている。また、北魏{ほくぎ}様式と百済・中国南朝様式に分けられる。北魏様式は杏仁形{きょうにんけい}の目、仰月形{ぎょうげつけい}の唇<注4>、左右対称の幾何学的衣文{えもん}が特徴で、力強く端正で男性的である。一方、百済・中国南朝様式は、顔や姿など全体に柔和で丸味があり、衣文にも変化があり、自然の姿に近い。両者に共通する特徴はアルカイック・スマイル(古拙の微笑{えみ})があることである。
この時代の仏師には、北魏様式の像を造った鞍作鳥{くらつくりのとり:止利{とり}仏師とも}が知られる。彼は司馬達等の孫とされ、主な作品に飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏)<注5>、法隆寺金堂釈迦三尊像がある。この2作品は、銅像の表面に鍍金{ときん:めっき}を施した金銅像である。北魏様式の仏像は鞍作鳥の作品以外に、明治時代になってフェノロサが調査した法隆寺夢殿救世{くぜ}観音像などがある。また、百済・中国南朝様式の仏像は、法隆寺百済観音像<注6>、広隆寺と中宮寺の半跏思惟{はんかしい}像(弥勒菩薩{みろくぼさつ}像)<注7>などがある。
注4> 杏仁形の目はまぶたの上下が同じような弧を描いているもの、仰月形の唇は三日月を上向きにしたように、口の両端を引き上げているもの。
注5> 日本最古の仏像(完成は606・609年説がある)。鎌倉時代初めの落雷で伽藍が焼失した時、「仏頭ト手トノミ残ル」の大損害を受けた。目と額と右手指3本ほどだけ火を浴びず、その他は焼けただれ、後世に補修したものと推定されている。
注6> 百済から渡来したとの伝承は否定的である。
注7> 片足を他の足の股の上に組み、手を頬に当てて思惟する。
(4)
工芸は、法隆寺玉虫厨子{たまむしのずし}が有名である。玉虫厨子は、小型の仏像を安置する箱で、2563枚の玉虫の羽が伏せられていたことが名の由来である。中宮寺天寿国繍帳{てんじゅこくしゅうちょう}(断片)は、聖徳太子の死後に妃の橘大郎女{たちばなのおおいらつめ}が聖徳太子が往生した天寿国のあり方を写した刺繍である。
法隆寺四騎獅子狩文様錦{しきししかりもんようきん}は、円形を連ねた連珠文{れんじゅもん}の円の中に4頭の獅子に弓を引き絞る4騎の狩猟者を配した錦で、西アジアに多い狩猟文様の1つである。法隆寺竜首水瓶{りゅうしゅすいびょう}は、形はペルシアの水瓶で、胴部に天馬{てんば:ペガサス}が彫られている。伎楽面{ぎがくめん}は、高い鼻などギリシアの仮面やイラン人の顔に似ており、西方の影響を受けている。
絵画は、玉虫厨子の扉絵や須弥座絵{しゅみざえ}が有名である。須弥座絵は、捨身飼虎{しゃしんしこ}図や施身聞偈{せしんもんげ}図が特に有名である。また、絵の具を油で溶かし、これに密陀僧{みつだそう:一酸化鉛のこと}を加えた塗料で油絵が描かれた。密陀絵{みつだえ}と呼ばれ、漆のような光沢がある。610年に高句麗の僧曇徴{どんちょう}が来日し、絵の具・紙墨の製法を伝えた。
602年、百済の僧観勒{かんろく}が来日し、暦法・天文を伝えた。
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:28
L005 白鳳文化
○白鳳文化…大化の改新~平城京遷都に至る時代
・特徴…律令国家建設期の若々しい文化、仏教文化を基調
初唐・西アジア・高句麗の影響
・宗教
・仏教…官大寺の造営→大官大寺・薬師寺・川原寺・法興寺など
・葬制…薄葬令、火葬が広まり古墳は消滅、庶民はほとんど土葬
・神道…斎王の派遣、式年遷宮の制
・建築…薬師寺東塔(凍れる音楽)、山田寺
・彫刻…興福寺仏頭、薬師寺金堂薬師三尊像、薬師寺東院堂聖観音像、
法隆寺夢違観音像、法隆寺阿弥陀三尊像など
・絵画…法隆寺金堂壁画、高松塚古墳壁画、キトラ古墳壁画など
・文学…漢詩の隆盛-大津皇子
和歌の発展-額田王や柿本人麻呂ら
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:29
(1)
白鳳文化は、大化の改新から平城京遷都に至る時代の文化である。律令国家建設期の若々しい文化で、仏教文化を基調としている。また、初唐文化・西アジア・高句麗の影響も見られる。文化の名称となっている「白鳳」は、公的な元号である白雉{はくち}の異称で、中瑞{ちゅうずい}<注1>の雉{きじ}から大瑞{だいずい}の鳳{おおとり}へ読み替えたともいわれている。
仏教では、伽藍{がらん}の造営・維持管理を行なう官大寺{かんだいじ:官寺{かんじ}とも}が建てられた。藤原京の四大寺{したいじ}は、大官大寺{だいかんだいじ}<注2>・薬師寺・川原寺{かわらでら:弘福寺{ぐふくじ}とも}・法興寺<注3>である。大官大寺は、舒明{じょめい}天皇創建と伝えられる百済大寺{くだらおおでら}が起源で、移転後に高市大寺{たけちおおでら}と称し、677年にこの名称となった<注4>。薬師寺は、天武天皇が皇后の病気平癒を祈って創建した寺である。
葬制に関して、646年に大化の薄葬令{はくそうれい}が出され、喪や葬制が簡素化される一方、公地公民による私葬方式を改め、官人の葬送はすべて政府の手によるものとした。また、遺体を火で処理する火葬が行なわれるようになった。その風習は、700年に法相宗{ほっそうしゅう}の僧道昭{どうしょう}が火葬されてから貴族層に広まったとされ、8世紀にはかなり普及し、古墳は急速に消滅した。しかし、庶民はほとんど土葬だった。
神道では、天皇に代わって伊勢神宮に奉仕する未婚の女性が派遣された。斎王{さいおう}である。斎王は、天武天皇朝頃から置かれ始めたと考えられている。また、諸社で一定の年数を定めて新殿を作り、神体を奉遷する式年遷宮が定められた。特に伊勢神宮が有名で、持統天皇朝以来20年ごと(1343年以降は21年ごと)に行なわれている。
注1> 瑞は、めでたいこと。
注2> 大官は天皇家、大寺は国家から最高待遇を受ける格式の高い寺の意味。国家寺院として初めて建立された寺。
注3> 奈良時代に元興寺{がんごうじ}となる。
注4> 711年に焼失、716年に移転して大安寺{だいあんじ}と改称。東大寺建立以前は官寺筆頭。
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:29
(2)
建築は、リズムある姿が「凍{こお}れる音楽」と評される薬師寺東塔{とうとう}が有名である。頂上の天女と飛雲を配した水煙{すいえん}<注5>も独特である。また、寺院では山田寺も知られる。寺は平安末期に荒廃したが、1982年に廻廊の一部が発見された。
彫刻は興福寺仏頭{ぶっとう}、薬師寺金堂薬師三尊像、薬師寺東院堂聖観音{とういんどうしょうかんのん}像、法隆寺夢違{ゆめたがい/ちがい}観音像、法隆寺阿弥陀三尊像(橘夫人念持仏{たちばなふじんねんじぶつ})などが知られる。興福寺仏頭は、1187年に飛鳥の山田寺から興福寺僧徒が奪い、1411年に火災にあった丈六{じょうろく}の薬師三尊像の本尊の頭部と推定される<注6>。法隆寺阿弥陀三尊像は、光明皇后の母橘夫人の念持仏と伝えられる。
絵画は、法隆寺金堂壁画<注7>、高松塚古墳壁画、キトラ古墳壁画、上淀廃寺{かみよどはいじ}金堂壁画<注8>などが知られる。法隆寺金堂壁画は、外陣{げじん:人々が礼拝する所}の柱間に12面描かれ、特に西6号の壁阿弥陀浄土図が著名である。高松塚古墳壁画は1972年に発見され、石室の天井が極彩色で描かれている<注9>。キトラ古墳壁画は、石室の壁画に四神図<注10>や精緻な天文図が描かれている。
文学は漢詩が隆盛を迎え、大津皇子{おおつのみこ}の詩が知られる。また、和歌が発展し、この頃の歌人に額田王{ぬかたのおおきみ}や柿本人麻呂{かきのもとのひとまろ}らが有名である。
注5> 火焔形{かえんけい}の装飾。火と称するのを忌み、同時に火を調伏{ちょうぶく}する縁起からこの名が付いた。
注6> 1937年に興福寺東金堂本尊台座の下から偶然見つかった。
注7> 1949年1月26日の火災で、内陣{ないじん:本尊が安置している部分}の小壁の20面の飛天を除いてすべて焼失。これを機に、翌年に文化財保護法が制定された。この飛天は解体修理のため取り外されていた。
注8> 鳥取県西伯郡淀江町{さいはくぐんよどえちょう}にある。
注9> 2004年、青色顔料には西アジア産の宝石ラピスラズリが使われていることが判明した。
注10> 青龍・白虎・朱雀・玄武の4神
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:30
L006 天平文化
○天平文化…8世紀の奈良時代の文化
・特徴…国際色豊かな文化、豪壮雄大、貴族的、仏教的色彩が濃い
・仏教 国家仏教…僧尼令の規制、官寺の建立、鎮護国家の法会
南都七大寺・唐招提寺、南都六宗、戒壇の設置
社会事業…光明皇后の施薬院・悲田院、行基の民間布教など
・教育…大学(式部省管轄)・国学(国司管轄)、石上宅嗣の芸亭
・文学…歴史書-『古事記』『日本書紀』 地 誌-『風土記』
漢詩集-『懐風藻』 和歌集-『万葉集』
・建築…法隆寺伝法堂・夢殿、東大寺法華堂・転害門、正倉院宝庫、
唐招提寺金堂・講堂など
・彫刻…東大寺法華堂日光・月光菩薩像と執金剛神像、戒壇院四天王像(塑像)
興福寺八部衆像・十大弟子像、東大寺法華堂不空羂索観音像
唐招提寺鑑真像(脱乾漆像)
・絵画…薬師寺吉祥天像(仏画)、正倉院鳥毛立女屏風(美人画)
過去現在絵因果経(絵巻物の最初)
・工芸…正倉院宝物、東大寺大仏殿八角灯籠など
百万塔陀羅尼(世界最古の印刷物)
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:30
(1)
天平文化は、聖武天皇朝の天平時代を中心とした8世紀の奈良時代の文化の総称である。盛唐文化を中心とした国際色豊かな文化で、律令国家最盛期を繁栄して豪壮雄大で、貴族的で仏教的色彩の濃い文化である。
奈良時代の仏教は、国家の保護・支配の下に置かれた国家仏教<注1>である。僧侶は、僧尼令{そうにりょう}の規制を受ける国家公認の官僧のみが認められ、許可なく得度{とくど:出家}する私度僧{しどそう}は禁止された。また、僧尼を統轄する僧綱{そうごう}という官職が設けられた。官寺が多く建てられ、鎮護国家の法会{ほうえ}を行なった。
官大寺制は、8世紀末に大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・法隆寺・東大寺・西大寺が南都七大寺とされた。寺院は、鑑真{がんじん}が建立した唐招提寺{とうしょうだいじ}も有名である。官寺には仏教教学を研究する学派があり、三論{さんろん}宗・倶舎{くしゃ}宗・律{りつ}宗・成実{じょうじつ}宗・法相{ほっそう}宗・華厳{けごん}宗の6学派を南都六宗と総称された。東大寺などには数派が同時に存在した。
正式な官僧になるには得度して修行し、戒壇で授戒{じゅかい}する必要があった。授戒は、一定の戒律{かいりつ}<注2>を所定の手続きで授けることをいい、それを行なう場所を戒壇{かいだん}といった。754年に初めて鑑真が東大寺大仏殿前に築き、翌年から常設の戒壇院を建立した。東大寺戒壇院と下野薬師寺・筑紫観世音寺{ちくしかんぜおんじ}の戒壇を天下三戒壇という。
国王(ここでは天皇)が仏教を尊崇すれば、諸仏が国を護ってくれると説いた教典を「護国の経典」といい、法華経{ほけきょう}・仁王経{にんのうきょう}・金光明経{こんこうみょうきょう}を護国三部経といった。また、一切経{いっさいきょう:大蔵経{だいぞうきょう}とも}の写経が盛行した。仏典を書写する写経事業も行なわれた。
政治と仏教が深く結びついたため、玄〔日方〕{げんぼう}や道鏡{どうきょう}のように政治に介入する僧侶もいた。民間への布教は禁止されていたが、行基は民間に布教して弾圧を受けた。戒律を伝えるため、盲目になりながらも来日した鑑真も有名である。
仏教思想に基づく社会事業も行なわれた。光明{こうみょう}皇后は、皇后宮職{ぐうしき}<注3>に施薬院{せやくいん}・悲田院{ひでんいん}を設置した。施薬院は、病人に薬を施して治療を行なう施設である。悲田院は、貧しい人々や孤児を収容して飢餓から救う施設である。和気広虫{わけのひろむし}は、仲麻呂{なかまろ}の乱に連坐した人々の助命を乞い、乱後の捨て子を養育した。称徳天皇は、仲麻呂の乱による戦没者の霊を弔うために木製の三重塔百万基(百万塔)を作った。行基は民間に布教し、灌漑施設や橋、布施屋{ふせや:休憩宿泊所}を設けるなどの社会福祉事業を行なった。大仏造営に協力し、大僧正{だいそうじょう}に任じられた。
注1> 寺田{じでん:寺所有の田}が不輸租{ふゆそ:税金がかからない}で、僧の課役{かえき:調庸と雑徭}も免除された。
注2> 僧尼が守るべき一定の規範。戒は心の規律、律は行動の規範。
注3> 皇后に付された家政機関
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:30
(2)
教育では、中央に式部{しきぶ}省管轄の大学(大学寮)が置かれ、貴族や東西史部{やまとかわちのふひとべ}の子弟を学生{がくしょう}とした。明経{みょうぎょう}・明法{みょうぼう}・文章{もんじょう}・算などが教授され、大学の試験を通ると太政官に推薦され、式部省で秀才・明経・進士・明法の4科に分けて試験を受けて登用された。また、中務{なかつかさ}省管轄の陰陽{おんみょう}寮では陰陽・暦・天文を教え、宮内{くない}省管轄の典薬{てんやく}寮では医学・薬学(本草{ほんぞう}学)を教えた。地方には国司管轄の国学が置かれ、郡司の子弟を教育した。修了者は上京して、大学修了者同様に試験を受けて、官吏に登用された。
さらに、石上宅嗣{いそのかみのやかつぐ}は旧宅に公開図書館を開いた。芸亭{うんてい}と呼ばれ、仏教以外の書を好学の士に閲覧させた。
(3)
文学では、歴史書の『古事記{こじき}』『日本書紀{にほんしょき}』、地誌の『風土記{ふどき}』、漢詩集の『懐風藻{かいふうそう}』、和歌集の『万葉集{まんようしゅう}』が編纂された。
681年、天武天皇は『帝紀』『旧辞』を検討し、記憶力に優れた稗田阿礼{ひえだのあれ}に誦{よ}み習わせた。また、勅語で川島皇子{かわしまのみこ}・刑部{おさかべ}親王ら12名に「帝紀及び上古の諸事(旧辞)を記し定める」よう命じた。
『古事記』は、稗田阿礼が誦み習わせた推古天皇までの天皇系譜や皇室の伝承を太安万侶{おおのやすまろ}が筆録して、712年に元明天皇に献上したものである。漢字の音訓を用いて、口頭の日本語を文章表現した。『日本書紀』は、神代~持統天皇に至る天皇中心の国家成立史を漢文・編年体<注4>で記した、最古の官撰正史である。編者は舎人{とねり}親王らで、720年に元正{げんしょう}天皇に献上された。この後に編纂される六国史{りっこくし}の最初である。
『風土記』は、713年に諸国に地名の由来・産物・伝承などを記して提出させた各国別の地誌である。現存は常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5か国のみで、出雲だけが完全に残っている。
『懐風藻』<注5>は、64人の詩120編を集めた日本最古の漢詩集である。撰者は淡海三船{おうみのみふね}、石上宅嗣といわれるが不明である。天武天皇の皇子大津皇子{おおつのみこ}はその代表詩人である。
『万葉集』は、奈良時代後期までの約4500首を収録した日本最古の歌集である。撰者は、大伴家持{おおとものやかもち}が有力である。漢字の音訓を用いて日本語を表わす万葉仮名を使い、詩形・作者とも幅広い。歌風は素朴で力強く、万葉調と呼ばれる。恋愛を詠む相聞歌{そうもんか}、死者を哀悼する挽歌{ばんか}、両者に属さない雑歌{ぞうか}などに分かれる。短歌・長歌以外に、東歌{あずまうた}や防人{さきもり}の歌も多く収められている。代表的歌人に、『貧窮問答歌{ひんきゅうもんどうか}』で知られる山上憶良{やまのうえのおくら}、大伴旅人{おおとものたびと}、山部赤人{やまべのあかひと}、大伴家持らがいる。
注4>時代を追って出来事を記述する歴史叙述法。
注5>先人の遺風を懐{おも}う美しい藻(詩文)の意
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:31
(4)
建築では、法隆寺伝法堂{でんぽうどう}・夢殿、東大寺法華堂・転害{てがい}門、正倉院宝庫、唐招提寺金堂・講堂などが知られる。法隆寺伝法堂は橘古那可智{こなかち}(聖武夫人)宅<注6>の移築とされ、当時の貴族住宅を知る貴重な遺構である。夢殿は、八角形の仏殿である。東大寺法華堂は、毎年3月に法華会{え}が行なわれるので、三月堂ともいう。正堂{しょうどう}は創建時、礼堂{らいどう}は鎌倉時代のものである。転害門は、東大寺に現存する創建当時の建造物7棟のうち、唯一の門である。
正倉院宝庫は東大寺宝庫群で現存する唯一のもので、南・中・北倉の3倉に分かれ、南と北は校倉造{あぜくらづくり}で作られている。校倉造は、柱を用いず断面が三角形の木材を井桁{いげた}に積み上げて、壁面を構成したものである。唐招提寺金堂は、奈良時代の金堂で唯一現存する遺構で、和様建築の起点とされている。講堂は平城宮朝集殿{ちょうしゅうでん}<注7>を移築し、鎌倉時代に修築されたが、平城宮唯一の遺構である。
注6> 橘三千代{みちよ}(光明子の母)宅とも
注7> 儀式の時に臣下が参集する場所で東西2棟あった。
(5)
彫刻は、粘土で作る塑像{そぞう}と漆で固めて作った乾漆像{かんしつぞう}がある。乾漆像には脱{だつ}乾漆と木心{もくしん}乾漆があり、前者は土の原形の上に麻布を漆で塗り固め、土を抜いて木枠を入れるもの、後者は原形を木で造り、麻布と漆で整形するものである。ともに、経費と時間がかかる。
塑像は、東大寺法華堂日光・月光{がっこう}菩薩像と執金剛神{しつこんごうしん}像、東大寺戒壇院四天王像(持国天{じこくてん}・増長天{ぞうじょうてん}・広目天{こうもくてん}・多聞天{たもんてん})、新薬師寺十二神将像{しんしょうぞう}(迷企羅{めきら}大将像など)などがある。脱乾漆像は、興福寺八部衆像(阿修羅{あしゅら}像など)・十大弟子像(須菩提{すぼだい}像など)、東大寺法華堂不空羂索{ふくうけんじゃく}観音像、唐招提寺鑑真像<注8>・金堂盧舎那仏像などがある。木心乾漆像は、聖林寺{しょうりんじ}十一面観音像などがある。
絵画は、仏画の薬師寺吉祥天{きちじょうてん}像、美人画の正倉院鳥毛立女{とりげだちおんなの}屏風(樹下美人図)、絵巻物の最初とされる過去現在絵因果経がある。鳥毛立女屏風の髪や衣服には日本のキジの羽毛が貼ってあったが、現在は剥落している。
工芸は、正倉院宝物<注9>が有名である。この宝物は、光明皇太后が聖武上皇の没後に冥福を祈って東大寺に寄進したのが始まりで、それ以外の献納物をあわせると1万点余になるという。奈良時代の貴族文化の実際を見ることが出来る。また、由緒・来歴が明白で、宝物の数量が多く、世界性・国際性があることなどに価値がある。現在は鉄筋コンクリート造りの新宝庫に保存されている。螺鈿紫檀五絃琵琶{らでんしたんごげんのびわ}、銀薫炉{ぎんのくんろ}、白瑠璃碗{はくるりわん}<注10>、瑠璃杯{るりのつき}、漆胡瓶{しっこへい}などの他に、光明皇太后44歳の書『楽毅{がっき}論』も納められている。
正倉院宝物の他に、東大寺大仏殿八角灯籠{はっかくどうろう}・大仏蓮弁毛彫{れんべんけぼり}がある。また、世界最古の印刷物とされる百万塔陀羅尼{だらに}(経)は、称徳天皇の発願で作られたものである。
注8> 松尾芭蕉は唐招提寺でこの像を拝み、「若葉して 御{おん}めの雫{しずく} ぬぐはばや」(若葉で鑑真の見えなくなった目の涙をぬぐって差し上げたい)と詠んだ(『笈{おい}の小文{こぶみ}』)。
注9> 毎年、秋の虫干しの期間だけ正倉院展として一般公開される。1946年に始まり、毎年異なる宝物が奈良国立博物館で公開されている。
注10> 瑠璃は中国でガラスのこと
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:31
L007 弘仁・貞観文化
○弘仁・貞観文化…平安前期の文化
・特徴…唐の文化の消化、漢文学の隆盛、密教の発展
・文学 漢詩文 勅撰…『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』
私撰…『性霊集』(空海)、『菅家文草』(菅原道真)
評 論…空海の『文鏡秘府論』 説話集…景戒の『日本霊異記』
その他…『新撰姓氏録』、菅原道真の『類聚国史』
円仁の『入唐求法巡礼行記』
・書道 三筆(嵯峨天皇、空海、橘逸勢)
・教育 紀伝道の重視
大学別曹 学館院-橘嘉智子 弘文院-和気広世
勧学院-藤原冬嗣 奨学院-在原行平
空海の綜芸種智院
・宗教
・最澄の天台宗…延暦寺・園城寺、台密、後に円仁派と円珍派に分裂
・空海の真言宗…金剛峰寺・東寺、東密
・修験道…役小角を祖。大峰山、白山などが舞台
・密教美術
・建築…室生寺金堂・五重塔
・彫刻…一木造、翻波式
密教彫刻…神護寺薬師如来像、室生寺金堂釈迦如来像など
神像彫刻…薬師寺僧形八幡神像など
・絵画…神護寺と教王護国寺の両界曼荼羅、不動明王像
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:32
(1)
弘仁・貞観{こうにん・じょうがん}文化は、嵯峨・清和{さが・せいわ}天皇朝の弘仁・貞観年間を中心とする平安時代前期の文化である。唐の文化の影響を受けながらも、次第にそれを消化していった。密教と密教芸術の発展、漢文学の隆盛などを特色とする文化である。
文学では、文章経国{もんじょうけいこく}思想から漢詩文が全盛となり、天皇の命で勅撰漢詩文集が撰定・編纂された。特に嵯峨・淳和{じゅんな}両天皇の在位中に撰集されたのが、『凌雲集{りょううんしゅう}』、『文華秀麗集{ぶんかしゅうれいしゅう}』、『経国集{けいこくしゅう}』を三大勅撰集(3勅撰漢詩文集)という。嵯峨天皇を初め、宮廷の漢詩文への強い意欲を繁栄している。文章経国思想は、文芸は国家の支柱で国家の隆盛の鍵であるとする思想である。
『凌雲集』は初の勅撰漢詩文集で、嵯峨天皇の命で小野岑守{おののみねもり}らが撰集した。『文華秀麗集』は、嵯峨天皇の命で藤原冬嗣らが編集し、天皇自ら作品を撰定した。『経国集』は、淳和天皇の命で良岑安世{よしみねのやすよ}らが編集した。
また、空海の漢詩文などを弟子の真済{しんぜい}が、『性霊集{しょうりょうしゅう}』(『遍照発揮性霊集{へんじょうほっきせいれいしゅう}』)にまとめた。菅原道真は、『菅家文草{かんけぶんそう}』を編集して醍醐天皇に奏進し、大宰府へ流された後に『菅家後集{こうしゅう}』を撰した。著名な漢詩文作者には、小野篁{おののたかむら}・都良香{みやこのよしか}らの文人官僚が知られる。
漢詩集以外に、空海の『文鏡秘府論{ぶんきょうひふろん}』は、六朝・唐代の文学・評論を選び、詩文の格式や声韻などを評論したものである。景戒{きょうかい}の『日本霊異記{にほんりょういき}』は現存する最古の説話集で、仏教思想の影響を受けた因果応報譚{たん}が多い。『新撰姓氏{しょうじ}録』は古代の畿内諸氏1182氏の系譜を書いたもので、氏姓秩序の混乱を収拾するのが編集の目的である。菅原道真が編集した『類聚{るいじゅう}国史』は、六国史の内容を部門別に分類し、編年順に並べた史書である。円仁{えんにん}の『入唐求法{にっとうぐほう}巡礼行記{こうき}』は、五台山{ごだいさん}などを巡礼した旅の日記である。
書は唐風の力強い筆蹟が尊ばれ、嵯峨天皇・空海・橘逸勢{たちばなのはやなり}の3人を三筆{さんぴつ}という。空海が最澄に送った『風信帖{ふうしんじょう}』、最澄が泰範{たいはん}に送った『久隔帖{きゅうかくじょう}』が有名である。
教育は、大学教育が最盛期を迎えた。中国の歴史・漢詩文を学ぶ紀伝道が独立教科となって、重視された。また、有力氏族は一族の子弟を寄宿させる大学別曹{べっそう}を設け、大学で試験や講義を受けるのに便利なようにした。大学の付属機関として公認されたが、運営は各氏族が行なった。和気{わけ}氏の弘文院{こうぶんいん}、藤原氏の勧学院{かんがくいん}、皇族・在原{ありわら}氏の奨学院{しょうがくいん}、橘{たちばな}氏の学館院{がっかんいん}が知られる。また、空海は、庶民教育を目的に綜芸種智院{しゅげいしゅちいん}を設置し、儒・仏・道教を教えた。
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:33
(2)
仏教は、奈良末期の山林修行の系譜を引く天台・真言両宗が開かれた。最澄が開いた天台宗は、法華宗を中心経典とし、人間の仏性{ぶっしょう}の平等<注1>を説いた。延暦寺{えんりゃくじ}・園城寺{おんじょうじ:三井寺{みいでら}とも}が中心寺院である。最澄の主著には、『顕戒{けんかい}論』と『山家学生式{さんげがくしょうしき}』がある。前者は大乗{だいじょう}戒壇<注2>設立に反対する南都諸宗に論駁{ろんばく}した書、後者は学生を大乗戒で教育して、さらに大乗戒壇設立を目指した書である。
後に、弟子の円仁・円珍{えんちん}によって天台教団の基礎が大成され、天台宗の密教化を進めた。天台宗の密教の意味で、台密{だいみつ}という。しかし、両者の仏教解釈の相違から、その末流が対立し、993年に円珍派が山を下って園城寺に入って独立し、寺門派{じもんは}となった。延暦寺の円仁派を山門派{さんもんは}といい、両派は対立した。
空海が開いた真言宗は、大日経{だいにちきょう}・金剛頂経{こんごうちょうきょう}を中心経典とし、加持祈祷{かじきとう}で現世利益{げんぜりやく}が得られ、秘密の呪法(真言)で悟りを開けると説いた。金剛峰寺{こんごうぶじ}・教王護国寺{きょうおうごこくじ:東寺{とうじ}とも}が中心寺院である。また、本来が密教で、台密に対し、東寺の密教の意味で東密{とうみつ:真言密教とも}という。空海の主著の『三教指帰{さんごうしいき}』は、自己の思想遍歴を語る中で、儒・道・仏の三教のうち、仏教が優れていると説いた。
真言密教の加持祈祷や即身成仏{そくしんじょうぶつ}の教えにみる現世利益的傾向が、皇族・貴族の支持を受けて発展し、密教の流行をもたらし、天台密教とともに仏教の祈祷儀式に影響を与えた。
修験道{しゅげんどう}は、密教・神道・陰陽道{おんみょうどう}<注3>などの影響を受けて、日本で成立した呪術的な山岳信仰で、呪術者の役小角{えんのおづの、えんのおずぬ}を祖師と仰いだ。山岳修行により験力{げんりき}を得た者を、験を修めた者という意味で修験者{しゅげんじゃ}と呼んだ。山に伏して山の霊力{れいりょく}を受けることから、山伏{やまぶし}ともいう。
注1> 仏性の平等は、仏の前における絶対平等の意。
注2> 大乗仏教独自の戒壇
注3> 古代中国の陰陽五行説{いんようごぎょうせつ}に基づいて、天文・暦学・易{えき}を説明する学問
(3)
建築は、室生寺{むろうじ}金堂・五重塔が知られる。当時の寺院は、深山幽谷{しんざんゆうこく:奥深い山や谷}に建てられることが多かった。室生寺に代表されるように、堂塔{どうとう}は地勢に応じて形式にとらわれない自由な配置で建てられた。金堂・五重塔は、この時期唯一の遺構である。なお、室生寺は高野山{こうやさん}の女人{にょにん}禁制に対し、女性の入山を許されたので、後世「女人高野」といわれた。
彫刻は、一木造{いちぼくづくり}が主流で、衣文は鋭いひだとなだらかなひだを交互に刻む翻波式{ほんぽしき}で表現された。また、密教の影響を受け、量感に満ち、神秘性がただよっている。一木造は木像で頭部と胴体が一木の木材で作られているもので、肉が厚いので深く彫れる。
薬師寺僧形{そうぎょう}八幡神像、神護寺{じんごじ}や元興寺{がんごうじ}の薬師如来像、室生寺金堂釈迦如来像・弥勒堂釈迦如来像、観心寺如意輪{かんしんじにょいりん}観音像、法華寺{ほっけじ}十一面観音像、教王護国寺講堂不動明王像などが知られる。
絵画は、密教画が隆盛となった。特に、仏の世界を壇{だん}の形式で図示した曼荼羅{まんだら}や不動明王像が知られる。神護寺と教王護国寺の両界曼荼羅、園城寺・高野山明王院の不動明王像が有名である。両界は、金剛界と胎蔵{たいぞう}界のことである。園城寺の不動明王像を黄不動、高野山明王院のそれを赤不動といい、京都青蓮院{しょうれんいん}の青不動と合わせて三不動として有名である。密教画以外に、西大寺十二天像もある。
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:33
L008 国風文化
○国風文化…10~11世紀の摂関政治期の文化
・特徴…中国文化を摂取・消化し、日本の風土にあった文化
かな文学の発達と優雅な貴族文化、浄土教の流行
・文学
・かな文字…ひらがな、カタカナ
・漢和辞典…源順の『和名類聚抄』、昌住の『新撰字鏡』
・和歌…『古今和歌集』、六歌仙、歌合の盛行
・漢詩集…藤原公任の『和漢朗詠集』、藤原明衡の『本朝文粋』
・かな物語…『竹取物語』『伊勢物語』、紫式部の『源氏物語』など
・随筆…清少納言の『枕草子』
・日記…紀貫之の『土佐日記』、藤原道綱母の『蜻蛉日記』
菅原孝標女の『更級日記』など
・宗教
・神道…神祇制度の整備、式内社、一の宮
・神仏習合(神前読経、神宮寺、神体の仏像)→本地垂迹説、権現
・御霊会の盛行
・仏教…浄土教の流行→空也・源信らの布教、往生集の作成
・美術
・建築…寝殿造(貴族の住宅)
阿弥陀堂(平等院鳳凰堂、法界寺阿弥陀堂)、醍醐寺五重塔
・彫刻…寄木造、定朝の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像
・絵画…大和絵(巨勢金岡が祖)
来迎図(高野山聖衆来迎図や平等院鳳凰堂扉絵)
・工芸…蒔絵、螺鈿
・書道…和様、三蹟(小野道風、藤原佐理、藤原行成)
・貴族生活
・服装 男-正装…束帯・衣冠 常服…直衣・狩衣
女-正装…女房装束 常服…小袿・袴
・住宅 左京に寝殿造の邸宅。畳・円座を置く。
・食事 1日2回。獣肉・油は用いない。
・生活 成人式(男は元服、女は裳着)、妻問婚から招婿婚へ
寺社参詣は行なうが、京を離れる旅行はまれ
迷信に囲まれる…陰陽道の影響、物忌、方違
娯楽…双六、碁、貝合、管弦など
・年中行事の発達
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:34
(1)
国風文化は、10~11世紀の摂関時代を中心とする文化で、中国文化を摂取・消化し、日本の風土にあった文化となった。かな文学の発達と優雅な貴族文化、浄土教の流行が文化の特徴である。また、藤原氏が栄えたことから、藤原文化ともいう。
文学は、かな文字の発達により、国文学が隆盛となった。かなにはひらがなとカタカナがあり、前者は草{そう}がな<注1>を簡略にしたもの、後者は漢字の偏・旁・冠{へん・つくり・かんむり}の一部を表音記号として使ったものである。そして、五十音図、いろは歌、あめつちの歌などが作られた。
漢和辞典が編纂され、源順{みなもとのしたごう}の『和名類聚抄{わみょうるいじゅうしょう:倭名類聚抄とも}』は百科辞典的な分類をしたもの、昌住{しょうじゅう}の『新撰字鏡{しんせんじきょう}』は偏と旁で分類したものである。
和歌は、905年に醍醐天皇の命で、紀貫之{きのつらゆき}・紀友則{とものり}・凡河内躬恒{おおしこうちのみつね}・壬生忠岑{みぶのただみね}らが『古今{こきん}和歌集』を編纂した。『古今和歌集』は最初の勅撰和歌集で、三代集・八代集・二十一代集<注2>の最初である。勅撰和歌集は、天皇・上皇・法皇の命で歌人が編集した和歌集である。
また、和歌のうまい人も多く現われた。特に、在原業平{ありわらのなりひら}・僧正遍昭{へんじょう}・喜撰{きせん}法師・小野小町{おののこまち}・文室康秀{ふんやのやすひで}・大友黒主{おおとものくろぬし}の6人は、六歌仙と呼ばれた。他に、『古今和歌集』の編者の4人や大江千里{おおえのちさと}・選子{せんし}内親王らがいる。左右に分かれて、題に応じた一首を読み、判者が優劣を定めて、組の勝負を競う歌合{うたあわせ}も盛んに行なわれた。
漢詩は、藤原公任{きんとう}の『和漢朗詠集{わかんろうえいしゅう}』で、朗詠に適する漢詩文・和歌を収録した。朗詠は、漢詩文の秀句を訓読で朗吟{ろうぎん}することである。藤原明衡{あきひら}の撰とされる漢詩文集『本朝文粋{ほんちょうもんずい}』も編纂された。
物語は、『竹取物語』、『伊勢物語』、『宇津保{うつぼ}物語』、『落窪{おちくぼ}物語』、『源氏物語』などがある。『竹取物語』は日本最古の物語文学で、かぐや姫のむこ選び説話の中に、当時の貴族社会の内面が描写されている。『伊勢物語』は歌物語の初めで、在原業平の恋愛談を中心とする短編集である。紫式部{むらさきしきぶ}の『源氏物語』は、最高傑作の物語文学である。
随筆は、清少納言{せいしょうなごん}の『枕草子{まくらのそうし}』があり、宮廷生活を随筆風に書いたものである。日記は、紀貫之の『土佐(左){とさ}日記』、藤原道綱{みちつな}の母の『蜻蛉{かげろう}日記』、菅原孝標{たかすえ}の女{むすめ}の『更級{さらしな}日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』などがある。『土佐日記』は、最初のかな日記である。
注1> 草体がなのこと。万葉仮名の草書体。
注2> 三代集は古今集・後撰{ごせん}集・拾遺{しゅうい}集、八代集はさらに後拾遺集・金葉{きんよう}集・詞花{しか}集・千載{せんざい}集・新古今集、二十一代集は室町時代の新続古今集まで続く21勅撰和歌集である。なお、古今集は『古今和歌集』の略称で、それ以外も同様に略称する。
(2)
宗教のうち、神道は日本の民俗信仰で、教説はない。8世紀頃までは、氏神の祭祀を中心に展開したが、律令国家で神社を中心に再編成され、平安時代に神祇制度が整った。特に、延喜式神明帳{じんみょうちょう}に記載された格式の高い神社を、式内社{しきないしゃ}という。また、朝廷の尊崇が厚く、定期に奉幣{ほうへい:神への供え物を奉る}された伊勢・石清水{いわしみず}・賀茂など22の神社を二十二社という。地方では多くの神社の祭神を一か所に集めて、国府の近くに総社{そうじゃ}を設けた。一国の最上位に公認された神社を一の宮という。また、一定の地域・建物・住民を守護するために鎮守神が祀られた。
神仏習合は、日本固有の神の信仰と仏教信仰との融合である。初めは、神前での読経や神宮寺を建てるなど妥協・調和の動きだった。神宮寺は神社の境内などに付設された寺院で、神前読経を行ない、神体の仏像を祀った。越前の気比{けひ}神宮、伊勢の多度{たど}神社、常陸の鹿島神宮などのそれは有名である。
やがて、神仏は本来同じものとする方向に向かい、本地垂迹{ほんじすいじゃく}説という考えが生まれた。これは仏(本地)が人々を救済するため、仮の姿(権現)となって現われたのが日本の神である、という考え方である。天照大神{あまてらすおおみかみ}を大日如来{だいにちにょらい}の化身と考えるなど、それぞれの神に本地としての仏を特定することが行なわれた。権現も同様で、仏菩薩が衆生{しゅじょう:すべての生物}救済のため、神となって仮に姿を現わしたもので、蔵王{ざおう}権現や熊野権現がその例である。
平安時代は、政治的に非業の死を遂げる者も多かった。そこで、怨霊や疫神を慰めて祟りを逃れようとする御霊会{ごりょうえ}が開かれた。祇園社{ぎおんしゃ}<注3>と菅原道真を祀る北野神社のそれが有名である。
仏教は、浄土教が流行した。浄土教は、阿弥陀浄土への往生<注4>を願う信仰である。これが普及したのは末法思想という考えで、正法{しょうほう}・像法{ぞうほう}・末法という三時説のうち、仏法が衰える乱世に当たる末法の初年が1052年と考えられていたためである。空也{くうや}は10世紀半ばに念仏<注5>の功徳を京の市中で説き、源信{げんしん:恵心僧都{えしんそうず}とも}は985年に『往生要集』を著わして、念仏往生を説いた。空也を世人は市聖{いちのひじり}と呼んだ。聖は、公的な僧位・役職を持たない民間の宗教者である。また、良忍{りょうにん}は融通念仏宗の祖で、天台声明{しょうみょう}中興の祖でもある。
浄土教の流行により、往生集が多く作られた。往生集は、念仏信仰の功徳で浄土往生を遂げたとされる人々の伝記を集めたものである。慶滋保胤{よししげのやすたね}の『日本往生極楽記』、三善為康{みよしのためやす}の『拾遺往生伝』や『後拾遺往生伝』、大江匡房{おおえのまさふさ}の『続本朝往生伝』などがある。
注3> 1868年の神仏分離で八坂{やさか}神社と改称した。
注4> 死後に極楽浄土に生まれること。
注5> 極楽往生を願い、仏の姿を心に念じ、仏の名を口にすること。
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:34
(3)
建築は、寝殿造{しんでんづくり}と阿弥陀堂がある。寝殿造は貴族の住宅様式で、白木造{しらきづくり}・檜皮葺{ひわだぶき}・板床{いたゆか}など日本風である。阿弥陀堂は阿弥陀仏を安置する堂で、浄土教の流行で貴族が壮麗なものを建てた。平等院鳳凰堂、法界寺{ほっかいじ、ほうかいじ}阿弥陀堂が知られる。両者以外に、醍醐寺{だいごじ}五重塔がある。
彫刻は、仏像の製作が一木造から寄木造{よせぎづくり}に移行し、隆盛となった。寄木造は2つ以上の材木を寄せ合わせ、多くの工人で部分を製作し、全体をまとめる技法である。この手法を使ったのが定朝{じょうちょう}で、代表作には平等院鳳凰堂阿弥陀如来像がある。
絵画は、主に大和絵と来迎図{らいごうず}が描かれた。大和絵は日本的風物を主題にした絵画で、多くは季節の推移を主題とした四季絵が占める。特に絵巻物で発揮され、日本画の源流となった。巨勢金岡{こせのかなおか}が唐絵とともに日本の画材を日本の形式で描き、後に大和絵の祖といわれるようになった。来迎図は往生を願う人の臨終に際し、阿弥陀仏が極楽浄土から雲に乗って迎えに来る有様を描いた絵である。高野山聖衆{しょうじゅ}来迎図や平等院鳳凰堂扉絵が有名である。
工芸は蒔絵{まきえ}と螺鈿{らでん}があり、前者は漆で文様を描き、金銀粉を蒔き付けたもの、後者は夜光貝やアワビ貝などを薄くすり減らし、種々の模様にして器物にはめ込む手法である。
書道は、かな及び草体を流麗・優雅に書く和風能書家が現われた。藤原佐理{さり、すけまさ}・藤原行成{こうぜい、ゆきなり}・小野道風{おののとうふう、みちかぜ}<注6>の3人で、三蹟{さんせき}という。佐理の『離洛帖{りらくじょう}』、行成の『白氏詩巻{はくししかん}』、道風の『秋萩帖{あきはぎじょう}』・『屏風土代{びょうぶどだい}』が有名である。なお、行成は世尊寺流{せそんじりゅう}の祖である。
注6> 道風は空海が書いた「朱雀門」の額を見て、朱の字が米といって「米雀門」と非難したため、後に空海の祟りで中風{ちゅうぶう:脳卒中}になったという(『古今著聞集{ここんちょもんじゅう}』)。なお、『秋萩帖』は道風のものと伝えられている。
(4)
貴族の生活は、とても華やかだった。男性の正装は束帯{そくたい}で、衣冠{いかん}はその略式である。普段は直衣{のうし}や狩衣{かりぎぬ}を着ていた。女性の正装は女房装束(十二単{じゅうにひとえ})で、小袿{こうちぎ}などが略装である。なお、庶民男子の実用服は水干{すいかん}、下級武士の服装は直垂{ひたたれ}である。
貴族は、寝殿造の住宅に住んだ。屋内は広い空間のため、間仕切りに几帳・屏風・衝立・襖{きちょう・びょうぶ・ついたて・ふすま}などを用いた。床は板敷きなので、畳{たたみ}や円座{えんざ、わろうざ}を敷いて座った。移動は、牛車{ぎっしゃ}に乗った。食事は1日2回を基準とし、獣肉や油を用いることが避けられた。荘園からの徴収品などで多種多様となったが、乾燥保存食品が多く、消化吸収も悪く病気も多かった。なお、庶民は折敷{おしき:細い板を縁に折り回した盆の一種}の上に飯・汁・菜が3皿置かれている絵が、『病草紙{やまいのそうし}』に書かれている。
貴族の成年式は15~17歳で、男子は元服{げんぷく}、女子は裳着{もぎ}を行なった。元服は有力者が烏帽子をかぶせて、新たに名をつけた。裳着は初めて裳を着ける儀式である。結婚は、妻問婚{つまどいこん}から招婿婚{しょうせいこん}に代わった。妻問婚は夫婦別居で男が女の家に通う結婚形態、招婿婚は男が女の両親の家かその近くに住むものである。
貴族は、陰陽寮{おんみょうりょう}で作った具注暦{ぐちゅうれき}に縛られ、迷信深い生活を送った。物忌{ものいみ}や方違{かたたがえ}はその例である。物忌は、物怪{もののけ}に取りつかれた時など、陰陽師{じ}の判断で一定期間特定の建物の中で謹慎することである。方違は、旅行・外出の際、行くべき方角が悪神がいる方角に当たる場合、前夜吉方{えほう}の家に一泊して方角を変えて行くことである。
貴族の娯楽は、貝合{かいあわせ}・歌合の物合{ものあわせ}の他、雅楽などが行なわれた。貝合は同種の貝を出し合って優劣を競う遊び、歌合は題に応じて一種ずつ詠んだ歌を判者が優劣を決める遊びである。
また、宮中では毎年特定の時期に繰り返して行なう年中行事が発達した。民間に伝わる日本古来のものや中国伝来のものもあり、神事・仏事・政務に関わる行事が200種類以上あった。宮廷では、節日{せつじつ:祝の日}などに天皇のもとに群臣を集めて節会{せちえ}が開かれた。平安時代は、元日{がんじつ:正月1日}・白馬{あおうま:正月7日}・踏歌{とうか:正月16日}・端午{たんご:5月5日}・豊明{とよあかり:11月の新嘗祭翌日の辰の日}が特に重んじられた。
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:35
L009 院政期の文化(平安末期の文化)
○院政期の文化…平安末期の11世紀後半頃から12世紀頃の文化
・特徴…貴族社会の回顧、武士・庶民文化の萌芽、浄土教の全国普及
・建築…阿弥陀堂建築-中尊寺金色堂、富貴寺大堂、白水阿弥陀堂など
毛越寺、三仏寺投入堂、厳島神社など
・彫刻…蓮華王院千手観音立像、臼杵磨崖仏など
・絵画…絵巻物-『伴大納言絵巻』『源氏物語絵巻』『鳥獣戯画』など
装飾経-『平家納経』『扇面古写経』など
・文学…歴史物語-『大鏡』『栄華物語』
軍記物語-『将門記』『陸奥話記』、説話集-『今昔物語集』
・芸能…猿楽・田楽、今様-『梁塵秘抄』(後白河法皇)
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:35
(1)
院政期の文化は、平安時代末期の11世紀末~12世紀にかけての文化である。特徴は、貴族社会を回顧する風潮が見られ、地方を背景に武士や庶民の文化が芽生えた。また、聖{ひじり}の布教活動で、浄土教が全国的に広まった。
建築は、阿弥陀堂建築が前文化から続いて作られ、中尊寺金色堂{ちゅうそんじこんじきどう}、富貴寺大堂{ふきじおおどう}、白水{しらみず}(願成寺{がんじょうじ})阿弥陀堂が知られる。中尊寺金色堂は藤原清衡{きよひら}が陸奥平泉に創建し、須弥座{しゅみざ}の下に清衡・基衡・秀衡{もとひら・ひでひら}3代のミイラを納めている。富貴寺・願成寺<注1>のそれは、浄土教の地方普及の一例である。
阿弥陀堂建築以外に、毛越寺{もう(お)つじ}、三仏寺投入堂{さんぶつじなげいれどう}<注2>、厳島{いつくしま}神社がある。毛越寺は藤原基衡が建立した寺である。三仏寺投入堂は奥の院のことで、断崖の窪みの中に足場を組んだ懸造{かけづくり}の建物である。厳島神社は、安芸国の一宮で航海守護神とされた。後に平清盛の崇敬を受け、平氏の氏神のようになった。
彫刻は、蓮華王院千手観音立像{りゅうぞう}、臼杵磨崖仏{うすきまがいぶつ}、浄瑠璃寺{じょうるりじ}本堂九体{くたい}阿弥陀如来像、中尊寺一字金輪{いちじきんりん}像が有名である。臼杵磨崖仏は、凝灰岩{ぎょうかいがん}に刻まれた62体の石仏群が谷をめぐって4か所に存在する。中尊寺一字金輪像は大日如来の説いた真言の一字を人格化した仏で、「人肌の大日{だいにち}」と呼ばれる。
絵画は、絵巻物と装飾経{そうしょくきょう}がある。絵巻物は、詞書{ことばがき}と絵を交互に描いて、人物の動きや場面の展開を示す巻物である。『伴大納言{ばんだいなごん}絵巻』は、応天門の変を描いた。『源氏物語絵巻』は『源氏物語』を絵巻物にしたもので、藤原隆信の作とされている。『信貴山縁起{しぎさんえんぎ}絵巻』は、庶民の生活・風俗を描写したものである。『鳥獣戯画{ちょうじゅうぎが}』は、当時の貴族社会や仏教界を鳥獣に擬して風刺したもので、鳥羽僧正覚猷{とばそうじょうかくゆう}の作とされる。
装飾経は、装飾を目指して作った経巻で、写経の1つである。『扇面古写経{せんめんこしゃきょう}』は扇形の料紙{りょうし:用紙}に法華経を写経したもの、『平家納経』は平清盛ら一門が繁栄祈願のため、厳島神社に奉納したものである。
注1> 富貴寺は大分県豊後高田市、願成寺は福島県いわき市白水町にある。
注2> 毛越寺は岩手県平泉町、三仏寺は鳥取県東伯郡三朝町{とうはくぐんみささちょう}にある。
(2)
文学は、歴史物語・説話集・軍記物がある。歴史物語は、貴族の華やかな過去を追憶して国文体で書かれたものである。『栄華物語』は藤原道長を中心に宮廷貴族の栄華を描いたもの、『大鏡』は道長を中心とする摂関政治を批判的に叙述したもので、かなで書かれた史書の初めである。説話集は『今昔物語集』が有名で、日本・インド・中国の仏教・民間説話をまとめたもので、源隆国{たかくに}の編とされる。軍記物は、平将門の乱を記す『将門記{しょうもんき}』、前九年合戦を記す『陸奥話記{むつわき}』がある。
芸能は、猿楽・田楽{さるがく・でんがく}、今様・催馬楽{いまよう・さいばら}が流行した。猿楽は滑稽を主とした雑芸・歌曲、田楽は祭礼神事芸能である。今様は現代風の歌謡の意味で、後白河法皇は今様など雑芸の歌を『梁塵秘抄{りょうじんひしょう}』にまとめた。催馬楽は、日本古来の民謡や和歌を唐学風に編曲したものである。
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:36
L010 鎌倉文化
○鎌倉文化…12世紀末~14世紀前半の鎌倉時代の文化
・特徴…伝統的な公家文化の継承と武士の気風も反映
宋・元文化の影響、宗教的色彩の強い文化
・仏教…鎌倉仏教-法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗
日蓮の日蓮宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗
旧仏教の革新-戒律の復興、社会事業
・神道…神本仏迹説、度会家行の伊勢神道、山王神道・両部神道
・建築…大仏様-東大寺南大門 禅宗様-円覚寺舎利殿
和 様-蓮華王院本堂、秋篠寺本堂、石山寺多宝塔など
折衷様-観心寺金堂
・彫刻…奈良仏師作-東大寺南大門金剛力士像(運慶・快慶ら)
興福寺無著・世親像(運慶)
六波羅蜜寺空也上人像(康勝)など
そ の 他-明月院上杉重房像、東大寺重源上人像など
・絵画…肖像画-似絵(藤原隆信・信実が名手)、頂相
絵巻物-『一遍上人絵伝』『蒙古襲来絵巻』など
・工芸…甲冑-明珍 刀剣-吉光、正宗、長光ら
陶器-瀬戸焼、常滑焼など
・書道…青蓮院流(尊円入道親王の『鷹巣帖』)
・文学
・和 歌…『新古今和歌集』(藤原定家ら)、『山家集』(西行)
『金槐和歌集』(源実朝)
・説話集…『古今著聞集』(橘成季)、『沙石集』(無住)
『宇治拾遺物語』『十訓抄』
・随 筆…『方丈記』(鴨長明)、『徒然草』(卜部兼好)
・軍記物…『平家物語』-琵琶法師の平曲
『保元物語』『平治物語』『源平盛衰記』など
・歴史書…『愚管抄』(慈円)-道理と末法思想から歴史を見た
『水鏡』『吾妻鏡』、『元亨釈書』(虎関師錬)
・学 問…古典注釈-『万葉集註釈』(仙覚)、『釈日本紀』(卜部兼方)
有職故実-『禁秘抄』(順徳天皇)
金沢文庫(北条実時)
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:36
(1)
鎌倉文化は、12世紀末~14世紀前半の鎌倉時代の文化である。特徴は、伝統的な公家文化を継承し、武士の気風も反映したものである。また、宋・元の文化の影響を受けるとともに、宗教的色彩も強い文化である。
仏教は、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗が生まれた。鎌倉仏教と呼ばれ、それに押される形で旧仏教の改革も起こった。旧仏教では戒律の復興に努めたり、社会事業などに当たる僧も現われた。仏教史で説明したため、省略する。
神道は、鎌倉末期に神本仏迹説{しんぽんぶつじゃくせつ}(反本地垂迹説{はんほんじすいじゃくせつ})が興った。この説は、蒙古襲来以後の神道思想の発展の中から神を本地、仏を垂迹とする主張である。度会家行{わたらいいえゆき}は、伊勢神宮の外宮{げくう}を内宮{ないくう}と同等以上の立場に上げることを目的に、伊勢神道を唱えた。彼の著『類聚神祇本源{るいじゅうじんぎほんげん}』が、後世の神道に与えた影響は大きい。また、天台宗系の山王{さんのう}神道、真言宗系の両部{りょうぶ}神道も唱えられた。
(2)
建築は、大仏様・禅宗様{ぜんしゅうよう}・和様・折衷様の建築様式で多くの建築物が建てられた。大仏様は、東大寺再建に重源{ちょうげん}<注1>が採用した宋の建築様式で、簡単で雄大豪壮な構成美を持つ。東大寺南大門がその代表建築である。禅宗様は、宋から伝来した技法で、細かい材木を用いて整然とした美しさを出している。円覚寺舎利殿{えんがくじしゃりでん}や正福寺{しょうふくじ}地蔵堂<注2>がその代表建築である。
和様は、大仏様・禅宗様に対し、平安時代以来の伝統的・日本的な建築様式である。蓮華王院{れんげおういん}本堂<注3>、秋篠寺{あきしのでら}本堂、石山寺多宝塔{いしやまでらたほうとう}がその代表建築である。折衷様は、和様の手法を中心に禅宗様・大仏様の手法を巧みに取り入れた技法である。観心寺{かんしんじ}金堂<注4>がその代表建築である。また、武家の住居は武家造で造られたが、武家らしい住宅様式のことで、特有の様式があるわけではない。
注1> 東大寺再建の際に大勧進職{だいかんじんしき}に任命され、募金から建築まで一切指揮し、宋人の陳和卿{ちんわけい・ちんなけい}も請われて参加した。
注2> 正福寺は東京都東村山市にある。
注3> 内陣{ないじん}の柱間が33間{ま}あるため、俗に三十三間堂{さんじゅうさんげんどう}といわれる。
注4> 観心寺は大阪府河内長野市にある。
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:37
(3)
彫刻では、奈良仏師の活躍が大きい。彼らは興福寺を拠点に、奈良を中心に活躍した仏像彫刻師たちである。運慶{うんけい}がその代表で、運慶の父の弟子が快慶{かいけい}とされ、運慶には湛慶・定慶・康弁・康勝{たんけい・じょうけい・こうべん・こうしょう}と4人の子がおり、それぞれ仏師として活躍した。
奈良仏師の作品は、運慶・快慶らの合作『東大寺南大門金剛力士像』、快慶の『東大寺僧形八幡神{そうぎょうはちまんしん}像』、運慶の『興福寺無著・世親{むちゃく・せしん}像』、康弁の『興福寺天灯鬼・竜灯鬼{てんとうき・りゅうとうき}像』、康勝の『六波羅蜜寺空也上人{ろくはらみつじくうやしょうにん}像』、湛慶の『三十三間堂千手観音坐像』などがある。それ以外に、『明月院{めいげついん}上杉重房{しげふさ}像』、『東大寺重源上人像』、『高徳院{こうとくいん}阿弥陀如来像』<注5>などもある。
絵画では、似絵{にせえ}・頂相{ちんぞう、ちんそう}・絵巻物がある。似絵は、実際の人物を写実的に描き、その個性まで表現した大和絵の肖像画である。藤原隆信・信実{たかのぶ・のぶざね}父子が名手といわれた。『源頼朝像(伝)』<注6>『平重盛像』は隆信、『後鳥羽上皇像』は信実の作である。また、成忍{じょうにん}の『明恵{みょうえ}上人樹上坐禅図』、専阿弥{せんあみ}の『親鸞聖人像』(鏡御影{かがみのごえい})も知られる。頂相は、禅宗で修行僧が一人前になった時に与えられる師や、徳の高い先輩僧の肖像画である。
絵巻物もその種類が多くなった。縁起{えんぎ}物は、高階隆兼{たかしなたかかね}の『春日権現験記{げんき}』や『石山寺縁起絵巻(前半)』、作者不詳の『粉河寺{こかわでら}縁起絵巻』がある。伝記物は、土佐吉光{とさよしみつ}らの『法然上人絵伝』、円伊{えんい}の『一遍上人絵伝』、作者不詳の『男衾三郎{おぶすまさぶろう}絵巻』などがある。合戦物は、『平治物語絵巻』、『後三年合戦絵巻』、竹崎季長{たけざきすえなが}が描かせた『蒙古襲来絵巻』などがある。説話物は、『地獄草紙{ぞうし}』、『病草紙{やまいのそうし}』、『餓鬼草紙{がきぞうし}』などがある。
工芸では、甲冑{かっちゅう}・刀剣・製陶が知られる。甲冑は、明珍{みんちん}が名高い。刀剣は、京都の粟田口吉光{あわたぐちよしみつ}、鎌倉の岡崎正宗{おかざきまさむね}、備前の長船長光{おさふねながみつ}が有名である。また、加藤景正{かげまさ}は尾張瀬戸に窯を開き、瀬戸焼の祖とされる。製陶は、常滑焼{とこなめやき}・備前焼も知られる。書道は、青蓮院流{しょうれんいんりゅう}が隆盛となり、この流派の祖である尊円{そんえん}入道親王は『鷹巣帖{たかのすじょう}』を書いた。
注5> 通称は鎌倉大仏。1495年の津波で仏殿が流出し、それ以後は再建されず、「露坐{ろざ}の大仏」となっている。
注6> 近年、頼朝と異なる人物との説が出されている。
(4)
文学も幅広く発達した。和歌集は、藤原定家{さだいえ、ていか}らの『新古今和歌集』、西行{さいぎょう}の『山家集{さんかしゅう}』、源実朝の『金槐{きんかい}和歌集』がある。『新古今和歌集』は、後鳥羽上皇の命で編纂された勅撰和歌集である。説話集は、無住{むじゅう}の『沙石集{しゃせきしゅう}』、橘成季{たちばなのなりすえ}の『古今著聞集{ここんちょもんじゅう}』、作者未詳の『十訓抄{じっきんしょう}』や『宇治拾遺{うじしゅうい}物語』がある。『古今著聞集』は、説話の末尾に教訓を加えている。『十訓抄』は、年少者への教訓としてもので儒教的色彩が濃い。
随筆集は、鴨長明{かものちょうめい}の『方丈記{ほうじょうき}』、卜部兼好{うらべかねよし:兼好法師}の『徒然草{つれづれぐさ}』がある。『方丈記』はすべては流転し、人生の無常・天変の世相を説いた。『徒然草』は、人間や社会を鋭い観察力で批評したものである。紀行文は、源親行{ちかゆき}の作とされる『東関{とうかん}紀行』、作者未詳の『海道紀{かいどうき}』がある。日記は、阿仏尼{あぶつに}の『十六夜{いざよい}日記』がある。この日記は、所領の争論解決のために鎌倉に赴いた時の紀行文で、12月16日に京を出発したのが書名の由来である。
軍記物は、『平家物語』、『源平盛衰{せいすい、じょうすい}記』、『保元物語』、『平治物語』などがある。『平家物語』は、信濃前司行長{しなののぜんじゆきなが}が東国生まれの生仏{しょうぶつ}と協力して作ったという説が有力である。平家の興亡を記した流麗重厚な文を盲目の琵琶{びわ}法師が平曲{へいきょく:『平家物語』を琵琶の伴奏で語る芸能}として語り継ぎ、民間に普及した。
歴史書は、編者不詳の鎌倉幕府の記録書『吾妻鏡{あづまかがみ}』、慈円{じえん}の『愚管抄{ぐかんしょう}』、虎関師錬{こかんしれん}の『元亨釈書{げんこうしゃくしょ}』、藤原為経{ためつね}作とされる『今鏡{いまかがみ}』、中山忠親{ただちか}作とされる『水鏡{みずかがみ}』などがある。『愚管抄』は歴史の展開としての道理と末法思想によって歴史を見たもので、後鳥羽上皇に献上して討幕計画をいさめたといわれる。『元亨釈書』は、日本の高僧の事績を知らないことを指摘されて書いたと言われる。日本初の仏教史である。
古典注釈は、仙覚{せんがく}の『万葉集註釈{ちゅうしゃく}』、卜部兼方{かねかた}の『釈日本紀{しゃくにほんぎ}』などがある。有職故実は、朝廷や公家社会の儀式・礼儀・年中行事・官職などを研究する学問で、順徳{じゅんとく}天皇の『禁秘抄{きんぴしょう}』がある。
北条実時{さねとき}は、武蔵国に金沢{かねさわ}文庫を作った。仏書が多く、幕府が滅びた後に散逸したが、再興された。
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:37
L011 室町文化
○室町文化…南北朝期の文化、北山文化、東山文化の総称
・特徴…公家文化+禅宗文化融合の武家文化+民衆的要素
文化の民衆化と地方普及(戦国時代)
○南北朝期の文化…14世紀中頃の南北朝の動乱期の文化
・特徴…世相の反映、武士・民衆の台頭
・学問…歴史書-『神皇正統記』(北畠親房)
有職故実-『建武年中行事』(後醍醐天皇)
『職原抄』(北畠親房)
・文学…軍記物-『太平記』『難太平記』『曽我物語』
歴史書-『梅松論』『増鏡』
和 歌-『新葉和歌集』(宗良親王)
・連歌…『菟玖波集』(二条良基と救済)、『応安新式』(二条良基)
○北山文化…3代将軍足利義満の頃の14世紀末~15世紀初めの文化
・特徴…武家文化が公家文化を摂取、禅宗文化・明文化の普及
・仏教…五山十刹-臨済宗統制。京都五山・鎌倉五山。五山僧の活躍
・文学…五山文学の全盛-義堂周信・絶海中津が双璧、五山版
歴史書-『難太平記』(今川了俊) 軍記物-『義経記』
・建築…鹿苑寺金閣など
・庭園…西芳寺庭園(夢窓疎石)、天竜寺庭園、鹿苑寺庭園
・絵画…水墨画-『瓢鮎図』(明兆)、『寒山拾得図』(周文か?)など
・芸能…能-観阿弥・世阿弥が大成、『風姿花伝』(世阿弥)
狂言
○東山文化…8代将軍足利義政の頃の15世紀後半の文化
・特徴…簡素さ・有限を基調、公家文化の芸術性が生活文化に浸透
・仏教…禅 宗-五山派の衰退、林下が民間布教
浄土真宗の蓮如、日蓮宗の日親の活躍
・神道…吉田兼倶の唯一神道
・建築…慈照寺銀閣、慈照寺東求堂同仁斎→書院造
・庭園…枯山水の様式→竜安寺石庭、大徳寺大仙院庭園など
・絵画 水墨画…『四季山水図巻』『天橋立図』(2つとも雪舟)
大和絵…狩野派-狩野正信・元信、『大仙院花鳥図』(元信)
土佐派-土佐光信・光起が祖
・彫金…金工(後藤祐乗)
・学問…『公事根源』『樵談治要』『花鳥余情』(すべて一条兼良)
『医書大全』(阿佐井野宗瑞)
民間教育の教材-『庭訓往来』など。『節用集』(饅頭屋宗二)
足利学校の再興(上杉憲実)
儒学…桂庵玄樹が薩南学派、南村梅軒が海南学派の祖
古今伝授(東常縁が開始)、大内版の出版
・連歌…宗祇-正風連歌、『新撰菟玖波集』『水無瀬三吟百韻』
宗鑑-俳諧連歌、『犬筑波集』
・芸能・庶民文化
能…金春禅竹の金春座
茶道…闘茶、茶寄合→侘茶(村田珠光→武野紹鴎)→茶道(千利休)
花道…供花→立花(立阿弥)→生花(池坊専慶)
香道…香寄合→香道
御伽草子…『酒呑童子』『一寸法師』など
小歌(『閑吟集』)、古浄瑠璃、幸若舞、盆踊り、祇園会の復活
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:38
(1)
室町時代の文化は、南北朝文化・北山文化・東山文化に分けられる。全体的な性格は、公家文化と禅宗文化を融合した新しい武家文化に、都市・農村の民衆的要素が加わったものである。戦国時代には、さらに文化の民衆化と地方普及が進んだ。
(2)
南北朝文化は、14世紀中頃の南北朝の動乱期の文化で、その世相を反映して歴史書や軍記物が書かれた。武士や民衆の台頭から、連歌や茶寄合なども流行し始めた。
学問では、史書は北畠親房{きたばたけちかふさ}の『神皇正統記{じんのうしょうとうき}』、有職故実は後醍醐天皇の『建武{けんむ}年中行事』や北畠親房の『職原抄{しょくげんしょう}』がある。他に、道祐{どうゆう}の『正平版{しょうへいばん}論語』がある。『神皇正統記』は、親房が常陸小田城で北朝方と対戦しながら執筆したもので、大義名分論に基づいて、南朝の正統性を主張した。
文学では、歴史・軍記物は『太平記{たいへいき}』、『梅松論{ばいしょうろん}』、『増鏡{ますかがみ}』、『曾我{そが}物語』がある。『太平記』は南北朝動乱を、『梅松論』は足利幕府の正当性を、『増鏡』は鎌倉時代を編年体で記したものである。『曾我物語』は、曾我兄弟が父の仇{かたき}を富士の裾野{すその}で討ち取る物語である。和歌は、宗良{むねよし}親王が撰定した『新葉{しんよう}和歌集』がある。
連歌は、和歌の上の句(5・7・5の長句)と下の句(7・7の短句)とを別の人が交互に詠み、唱和する文芸である。二条良基{にじょうよしもと}はこの方式と地位を確立し、彼と救済{ぐさい、きゅうぜい}が選んだ『菟玖波{つくば}集』は連歌集の最初で準勅撰とされ、『応安新式{おうあんしんしき}』で連歌の規則を集大成した。
(3)
北山文化は、3代将軍足利義満の頃の14世紀末~15世紀初めの文化である。義満による南北朝合体・幕政確立という政治の動きを背景に、武家文化が公家文化を摂取して発展する基礎ができた。禅宗文化や明の文化も普及した。
仏教では、義満の時に室町幕府が南宋の制度にならい、臨済宗五山派寺院を官寺とし、五山・十刹{ござん・じっさつ}の序列を付して幕府が住持{じゅうじ:住職}を任命した。京都五山は天竜・相国・建仁・東福・万寿{てんりゅう・そうこく・けんにん・とうふく・まんじゅ}の5寺で、南禅寺{なんぜんじ}は五山の別格上位とした。鎌倉五山は、建長・円覚・寿福・浄智・浄妙{じゅふく・じょうち・じょうみょう}の5寺である。五山の寺院の管理を行なうために僧録司{そうろくし}を置き、春屋妙葩{しゅんおくみょうは}を初代僧録に任命した。また、夢窓疎石{むそうそせき}などの五山僧は、政治・外交・文学などに活躍した。
文学は、五山文学が全盛を迎え、義堂周信{ぎどうしゅうしん}と絶海中津{ぜっかいちゅうしん}がその双璧と称された。五山文学は、五山・十刹に拠った禅僧らの漢詩文学である。義堂周信の『空華日用{くうげにちよう}工夫略集』、絶海中津の『蕉堅藁(稿){しょうけんこう}』などがある。また、禅の経典や漢詩文集を五山版として出版した。
歴史書は今川了俊{りょうしゅん}の『難{なん}太平記』<注1>、軍記物は『義経{ぎけい}記』がある。『義経記』は、源義経の幼少期と末期の不遇時代を同情的に描き、民衆的義経伝説のもととなった。
注1> 『太平記』非難の記述が一部にあるため、後世の人が命名した。
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:38
(4)
建築では、足利義満が建立した鹿苑寺{ろくおんじ}金閣は、禅宗様・寝殿造を融合したものである。他に、興福寺五重塔と東金堂{とうこんどう}は和様建築、永保寺開山堂{えいほうじかいさんどう}(南北朝期)は禅宗様建築である。庭園も作られ、西芳寺{さいほうじ:苔寺{こけでら}とも}・天竜寺・鹿苑寺のものが有名である。西芳寺庭園は、夢窓疎石の作である。
絵画は、水墨画が発達した。水墨画は、墨の濃淡と描線の強弱による墨一色の東洋独特の絵である。可翁{かおう}の『寒山{かんざん}図』(南北朝期)、明兆{みんちょう}の『五百羅漢{ごひゃくらかん}図』、如拙{じょせつ}の『瓢鮎{ひょうねん、ひょうでん}図』、周文{しゅうぶん}作とされる『寒山拾得{かんざんじっとく}図』などがある。また、絵巻物の『慕帰絵詞{ぼきえことば}』は、本願寺3世覚如{かくにょ}の一代を描いたもので、生活資料として重要である。
(5)
芸能は、能(能楽)が大成した。能は、社寺の祭礼に奉仕する猿楽能{さるがくのう}に、民間で発展した田楽{でんがく}を取り入れ、宗教的芸能から庶民的な舞台芸術に発展したものである。当初、大和猿楽四座{しざ}と近江猿楽があり、前者は興福寺・春日社に奉仕する観世・金春・金剛・宝生{かんぜ・こんぱる・こんごう・ほうしょう}の4座、後者は日吉{ひえ}神社に奉仕する北近江の上{かみ}三座(山階・下坂・比叡{やましな・しもさか・ひえい})と、多賀神社に奉仕する南近江の下{しも}三座(大森・敏満寺・酒人{みまじ・さかうど})の総称である。
観世座から出た観阿弥{かんあみ}と世阿弥{ぜあみ}が、能楽を大成させた。世阿弥の『風姿花伝{ふうしかでん:花伝書{かでんしょ}とも}』は能楽の芸術論、子の観世元能{もとよし}が筆録した『申楽談儀{さるがくだんぎ}』は芸道論である。能の脚本を謡曲{ようきょく}という。能の合間に、狂言{きょうげん}も上演された。狂言は、滑稽なしぐさやふりを交えた庶民劇で、庶民側から大名・山伏・僧侶などを風刺したものが多い。
(6)
東山文化は、8代将軍足利義政の頃の15世紀後半の文化である。禅の精神に基づく簡素さ、伝統文化の幽玄などを基調とする。伝統的文化としての公家文化の発達や芸術性が、生活文化に浸透したのも特徴である。
仏教は、幕府の保護を受けた五山派が衰退し、より自由な活動を求めた林下{りんか}が民間布教に努めた。曹洞系の永平寺・総持寺{えいへいじ・そうじじ}、臨済系の大徳寺・妙心寺{だいとくじ・みょうしんじ}などが有力である。大徳寺派の一休宗純{いっきゅうそうじゅん}も知られる。また、浄土真宗(本願寺派)の蓮如{れんにょ}や日蓮宗の日親{にっしん}も、この頃に活躍した。
神道は、吉田兼倶{かねとも}が唯一神道(吉田神道)を大成させた。この教説は、本地垂迹に基づく両部{りょうぶ}神道に対し、反本地垂迹説の立場から本地で唯一なるものを神として、一切の現象を体系づけたものである。儒教・仏教も取り入れた総合的な神道説である。
(7)
建築は、足利義政が建立した慈照寺{じしょうじ}銀閣・東求堂同仁斎{とうぐどうどうじんさい}が有名である。銀閣は、禅宗様と書院造{しょいんづくり}を取り入れたものである。書院造は、禅院の書斎の影響などから、床・棚・付{つけ}書院などを持ち、明{あかり}障子・襖を多く用いた造りで、一丈四方の広さの方丈や、その入口としての玄関<注2>を設けるなど、現代の日本住宅の基本となる様式である。東求堂同仁斎も書院造で有名である。
庭園は、枯山水{かれさんすい、かれせんずい}の様式で作られたものが多い。枯山水は、水を用いずに砂と石で山水自然の生命を表現する禅院の作庭様式である。特に、竜安寺石庭{りょうあんじせきてい}や大徳寺大仙院{だいせんいん}庭園が有名である。他に、善阿弥{ぜんあみ}が作った慈照寺庭園がある。
絵画では、雪舟{せっしゅう}が水墨画を大成させた。彼の作品は、『四季山水{さんすい}図巻(山水長巻{ちょうかん})』、『天橋立{あまのはしだて}図』、『秋冬{しゅうとう}山水図』などがある。大和絵は、狩野{かのう}派と土佐{とさ}派が生まれた。狩野派は狩野正信・元信{まさのぶ・もとのぶ}父子が成立させた漢画系の流派で、正信の『周茂叔愛蓮{しゅうもしゅくあいれん}図』、元信の『大仙院花鳥{かちょう}図』がある。土佐派は土佐光信・光起{みつのぶ・みつおき}らを輩出した流派で、その画風が知られるものに『風俗図屏風』がある。
工芸・彫金は、後藤祐乗{ゆうじょう}が足利義政に仕えた。
注2>玄妙{げんみょう}な門の意。
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:38
(8)
学問は、当代随一の学者である一条兼良{いちじょうかねよし、かねら}の作品が多く、有職故実の『公事根源{くじこんげん}』、古典研究の『花鳥余情{かちょうよじょう}』、足利義尚{よしひさ}の問いに答えた政治意見書の『樵談治要{しょうだんちよう}』がある。また、阿佐井野宗瑞{あさいのそうずい}の『医書大全』は、日本の医書刊行の最初である。
民間教育の教材として、『庭訓往来{ていきんおうらい}』などの往来物、『実語教{じつごきょう}』、『童子教{どうじきょう}』、いろは歌などが使われた。また、饅頭屋宗二{まんじゅうやそうじ}が刊行した『節用集{せつようしゅう}』は、日常語句を最初の音で「イロハ順」に分けた上、さらに言葉の意味別に分類した国語辞典である。
上杉憲実{のりざね}は足利学校を再興し、戦国時代に来日した宣教師フランシスコ=ザビエルは「坂東の大学」と称した。朱子学が各地に広がり、桂庵玄樹{けいあんげんじゅ}は応仁の乱を避けて西国で儒書を講じ、薩摩の島津忠昌{ただまさ}に招かれて薩南{さつなん}学派の基を作った。また、南村梅軒は土佐の吉良氏に仕え、海南{かいなん}学派(南学{なんがく})の祖となった。
古今伝授は、東常縁{とう(の)つねのり}が始めた。古今伝授は『古今和歌集』の故実・解釈などを弟子に授けることで、秘事口伝{ひじくでん}<注3>とされた。1471年に東常縁が宗祇{そうぎ}に伝授して、近世に及んだ。印刷・出版は、大内氏が貿易による富を背景に、仏典・漢籍を中心に大内版を出版した。
連歌は、この頃に大成した。宗祇は、和歌の伝統を生かした深みのある芸術的な正風{しょうふう}連歌を確立した。準勅撰となった『新撰菟玖波集』や、宗長・肖柏{そうちょう・しょうはく}と詠んだ『水無瀬三吟百韻{みなせさんぎんひゃくいん}』がある。また、(山崎)宗鑑は、滑稽な、あるいは機知的な俳諧連歌を確立し、『犬筑波{いぬつくば}集』を編集した。
注3> たやすく人に教えられない学問・芸術の奥義を、限られた後継者だけに秘かに口伝えで教え授けること。
(9)
芸能・庶民文化では、能は金春禅竹{ぜんちく}が金春座を確立した。
茶道の基礎となる喫茶の風習は、禅宗寺院で始まった。南北朝期頃、武家・庶民の間に闘茶{とうちゃ}・茶寄合が広まった。闘茶は、幾種類かの茶を飲み、その産地を当てるものだが、侘茶{わびちゃ}の発達ですたれた。茶寄合は、多人数で茶の会合を持ち、自由な酒食{しゅしょく}を伴う娯楽的な茶会である。抹茶による喫茶には、禅の思想や作法を織り込んだ流儀が出来上がって、茶の湯と呼ばれた。村田珠光{じゅこう}が一休宗純に参じて禅の精神を身につけ、茶会を茶の湯にまで高めた。そして、武野紹鴎{たけのじょうおう}が侘茶を更に簡素化し、千利休{せんのりきゅう}が茶の湯として大成させた。
花道(華道)は、仏前に花を供える供花{くげ}から、花を立ててその美を競う豪華な立花{りっか、たてはな}に発展した。立花の名手に立阿弥{りつあみ}がいる。侘茶の流行とともに、立花は投げ入れの方法を用いる生花に移り、やがて池坊専慶{いけのぼうせんけい}が花道を大成させた。その後、池坊専応・専好{せんおう・せんこう}によって、池坊流が発展した。また、一定の作法で香を焚き、その匂いを鑑賞する香道{こうどう}も足利義政の時代に成立し、香をかぎ分ける聞香{もんこう}のための香寄合も盛行した。
御伽草子{おとぎぞうし}は庶民的な短編物語で、内容は多種多彩で、全般に仏教思想の影響が強い。『物{もの}くさ太郎』、『一寸法師{いっすんぼうし}』、『浦島太郎』、『酒呑童子{しゅてんどうじ}』などが有名である。
小歌{こうた}、古浄瑠璃{こじょうるり}、幸若舞{こうわかまい}、念仏踊り、風流{ふりゅう}踊り、盆踊りも流行した。小歌は、その時代の民間で歌われた流行歌などをいい、『閑吟集{かんぎんしゅう}』は小歌などをまとめたものである。幸若舞は、越前国の幸若大夫{だゆう}一派の舞である。風流踊りは、民衆が仮装したり、異様な風体{ふうてい}で踊る踊りである。盆踊りは、盂蘭盆{うらぼん}の頃に精霊{しょうりょう}を慰めるために音頭や歌謡に合わせて行なう踊りで、風流と念仏踊りが結びついて生まれた。
応仁の乱で中断した祇園会{ぎおんえ}は、1500年に復活した。祇園会は、京都祇園社(八坂神社)の疫病除け祭礼で、復活後は町衆{ちょうしゅう}の手で行なわれた。
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:40
12桃山文化
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:41
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:41
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:42
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:42
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:43
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:44
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:45
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:46
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:46
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:46
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:47
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:47
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:48
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:48
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:48
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:48
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:49
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:49
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:49
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:50
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:50
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:52
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:52
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:53
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:54
2006年1月 日本社会文化试题
一、次の言葉を説明しなさい。(4*5点=20点)
1.铜剣
2.公地公民製
3.院政
4.俳諧
二、次の質問をよく考えて、自分の言葉でまとめて簡潔に答えなさい。
5.冠位十二階が実施された目的
6.荘園経済は当時の政治にどんな影響を与えたか
7.室町文化の特徴は何か
8.江戸幕府幕府は17世紀初頭にどのような貿易政策を実施するか
9.近世日本の蘭学はどのような学問か
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:54
2006年10月日本文化
一、是名词解释共20分
1.铜镜
2.遣唐使
3.古文辞学派
4.軍記物語
一、是简答题每题15分
1.いわゆる三種の神器どのようにできたのか
2.鎌倉の仏教はどんな特徴がありますか
3.鎖国令の目的は何ですか
4.南蛮文化は日本にどんな影響がありますか
5.町人文化の形成された背景は何ですか
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:54
2007年1月日本文化
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:55
2007年10月日本文化
一、名詞解釈
1.銅鐸
2.大化の革新
3.摂関政治
4.古義学派
二、次の質問をよく考えて自分の言葉でまとめて簡潔に答えなさい。(80点)
5、日本人の起源について現在までにどのような学説が唱えられてきたか。(15点)
6、いわゆる「国風文化」をどう見るべきか?
7、室町時代の「勘合貿易」が中日両国の文化にどんな影響を与えたか。
8、近世初頭の禁教政策が実施された背景は何か。(15点)
9、近世日本の庶民文化を支えた条件は何か。(20点)
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:55
2008年1月 日本社会文化试题
一、次の言葉を説明しなさい。(4*5点=20点)
1.大森貝塚
2.卑弥呼
3.悪人正機
4.垂加神道
二、次の質問をよく考えて、自分の言葉でまとめて簡潔に答えなさい。
5.縄文時代の土偶は何のために用いたと考えられているのか。(15点)
6.遣唐使が派遣された目的は何か。(15点)
7.12世紀ごろ、日本と宋との間で行われた日宋貿易の目的は何か。(15点)
8.室町文化の特徴は何か。(15点)
9.近世日本における朱子学はどんな地位にあったか。(20点)
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:56
2008年1月 日本社会文化试题
一、次の言葉を説明しなさい。(4*5点=20点)
1.大森貝塚
2.卑弥呼
3.悪人正機
4.垂加神道
二、次の質問をよく考えて、自分の言葉でまとめて簡潔に答えなさい。
5.縄文時代の土偶は何のために用いたと考えられているのか。(15点)
6.遣唐使が派遣された目的は何か。(15点)
7.12世紀ごろ、日本と宋との間で行われた日宋貿易の目的は何か。(15点)
8.室町文化の特徴は何か。(15点)
9.近世日本における朱子学はどんな地位にあったか。(20点)
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:56
2008年10月广外日本文化
一、名词解释(5点×4=20点)
1、渡来人
2、邪马台国
3、浮世绘
4、三经义疏
二、下記質問を答えなさい。
1、縄紋人の生活様式は何ですか。(15点)
2、元禄文化の特徴は何ですか。(15点)
3、天平文化が世界性があるというのはなぜですか。(15点)
4、摄関政治は何ですか。(15点)
5、勘合貿易とは何ですか。(20点)
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:57
2009年1月日本社会文化
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:57
2009年10月日本社会文化
一名詞解釈5点*4点=20点
1.貝塚
2.法隆寺
3.鑑真
4.勘合貿易
二答え問題(5-8は15点*4=60点 9は20点*1=20点)
5.縄文文化の特徴について述べてください
6.弥生時代の金属文化について述べてください
7.大化の改新は古代日本にどんな影響を与えた?
8.親鸞の悪人正機の説について述べてください
9.室町時代の能楽と狂言について述べてください
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:57
2010年1月份日本文化考题
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:58
2010年10月 日本社会文化
一.次の言葉を説明しなさい。(4*5点=20点)
1. 弥生土器
2. 南都六宗
3. 鎌倉新仏教
4. 町人
二.次の質問をよく考えて、自分の言葉でまとめて簡潔に答えなさい。
1.日本人の「混血人説」に関する学説
2.三角縁神獣鏡に関する学説
3.遣唐使を派遣するの目的
4.室町文化の特色
5.江戸幕府の禁教の目的
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:59
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:59
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-10 23:59
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-11 00:00
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-11 00:00
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-11 00:00
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-11 00:01
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-11 00:01
占位!!!!
作者:
junshan_yin
时间:
2010-11-11 00:02
占位!!!!
作者:
sidra
时间:
2010-12-7 14:48
回复
junshan_yin
的帖子
要下载。。。。。。。。
作者:
gzzhangshan
时间:
2010-12-25 21:55
楼主您真是好人!我1月第一次考,来看看!
作者:
tulo
时间:
2010-12-26 20:53
回复
junshan_yin
的帖子
2010.1.
1 縄文土器
2、憲法十七条
3国風文化
4歌舞伎
5、縄文時代の社会組織
6、邪馬台国
7、冠位十二階
8、摂関政治
9.国学
顺序不知道对不~
作者:
ST0123
时间:
2010-12-26 21:21
帮漫姐看看~
作者:
panjunyu
时间:
2011-1-31 21:25
回复
junshan_yin
的帖子
可以发份到我的邮箱么
panjunyu5460@yahoo.com.cn
万分感谢
作者:
kabotya
时间:
2011-2-16 14:54
好详细!
可以发份到我的邮箱么
kabotya_zhang@hotmail.com
万分感谢
元宵节快乐
作者:
sumisorazero
时间:
2011-2-20 16:14
有没有《日本语言文化》?
作者:
david589
时间:
2011-2-22 22:36
谢谢分享
作者:
wscxx
时间:
2011-3-24 22:14
谢谢,终于合格了
作者:
haixingl
时间:
2011-4-14 15:22
ありがとうございます!
作者:
kinhan
时间:
2011-4-14 20:49
太好人了,绝对好资料。
作者:
luoqi111
时间:
2011-5-8 19:38
非常感謝,辛苦了!
作者:
laylife2050
时间:
2011-5-21 13:39
楼主辛苦了,能发一份到我邮箱吗?
newxiaonv@163.com
作者:
YIYI974233967
时间:
2011-6-7 21:22
楼主辛苦啦~可以发我一份吗?
974233967@qq.com
作者:
おじいちゃん
时间:
2011-6-16 15:16
楼主,能发给我一份么,
xiaohai0537@yahoo.cn
太感谢了.
作者:
hezanfang2003
时间:
2011-7-14 16:07
弱弱的问一下也能不能发给我一份:
hezanfang2003@163.com
作者:
平凡女子
时间:
2011-7-15 16:29
太牛啦!!!
作者:
yunzhier
时间:
2011-7-21 22:51
楼主太伟大了,谢谢分享!
作者:
ningrong
时间:
2011-8-14 21:50
非常感谢
作者:
Psyche1014
时间:
2011-8-27 14:30
我十月分考试,楼主能发一份给我么,谢谢!
yuuka1014.good@163.com
作者:
aluha5
时间:
2011-9-11 22:07
楼主,你人好好,幸苦了,谢谢~
欢迎光临 咖啡日语论坛 (http://www.coffeejp.com/bbs/)
Powered by Discuz! X3.4