挨拶が済んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、という音がする。おれも真似をして汁(しる)を飲んでみたがまずいもんだ。口取(くちとり)に蒲鉾(かまぼこ)はついてるが、どす黒くて竹輪の出来損(できそこ)ないである。刺身(さしみ)も並んでるが、厚くって鮪(まぐろ)の切り身を生で食うと同じ事だ。それでも隣(とな)り近所の連中はむしゃむしゃ旨(うま)そうに食っている。大方江戸前の料理を食った事がないんだろう。
そのうち燗徳利(かんどくり)が頻繁(ひんぱん)に往来し始めたら、四方が急に賑(にぎ)やかになった。野だ公は恭しく校長の前へ出て盃(さかずき)を頂いてる。いやな奴だ。うらなり君は順々に献酬(けんしゅう)をして、一巡周(いちじゅんめぐ)るつもりとみえる。はなはだご苦労である。うらなり君がおれの前へ来て、一つ頂戴致しましょうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも窮屈にズボンのままかしこまって、一盃(ぱい)差し上げた。せっかく参って、すぐお別れになるのは残念ですね。ご出立(しゅったつ)はいつです、是非浜までお見送りをしましょうと云ったら、うらなり君はいえご用多(おお)のところ決してそれには及(およ)びませんと答えた。うらなり君が何と云ったって、おれは学校を休んで送る気でいる。
それから一時間ほどするうちに席上は大分乱れて来る。まあ一杯(ぱい)、おや僕が飲めと云うのに……などと呂律(ろれつ)の巡(まわ)りかねるのも一人二人(ひとりふたり)出来て来た。少々退屈(たいくつ)したから便所へ行って、昔風な庭を星明りにすかして眺(なが)めていると山嵐が来た。どうださっきの演説はうまかったろう。と大分得意である。大賛成だが一ヶ所気に入らないと抗議(こうぎ)を申し込んだら、どこが不賛成だと聞いた。
「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡に居(お)らないから……と君は云ったろう」
「うん」
「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
「じゃ何と云うんだ」
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被(ねこっかぶ)りの、香具師(やし)の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」
「おれには、そう舌は廻らない。君は能弁だ。第一単語を大変たくさん知ってる。それで演舌(えんぜつ)が出来ないのは不思議だ」
「なにこれは喧嘩(けんか)のときに使おうと思って、用心のために取っておく言葉さ。演舌となっちゃ、こうは出ない」
「そうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やって見たまえ」
「何遍でもやるさいいか。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」と云いかけていると、椽側(えんがわ)をどたばた云わして、二人ばかり、よろよろしながら馳(か)け出して来た。
「両君そりゃひどい、――逃げるなんて、――僕が居るうちは決して逃(にが)さない、さあのみたまえ。――いかさま師?――面白い、いかさま面白い。――さあ飲みたまえ」
とおれと山嵐をぐいぐい引っ張って行く。実はこの両人共便所に来たのだが、酔(よ)ってるもんだから、便所へはいるのを忘れて、おれ等を引っ張るのだろう。酔っ払いは目の中(あた)る所へ用事を拵えて、前の事はすぐ忘れてしまうんだろう。
「さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。さあ飲ましてくれたまえ。いかさま師をうんと云うほど、酔わしてくれたまえ。君逃げちゃいかん」
と逃げもせぬ、おれを壁際(かべぎわ)へ圧(お)し付けた。諸方を見廻してみると、膳の上に満足な肴の乗っているのは一つもない。自分の分を奇麗(きれい)に食い尽(つく)して、五六間先へ遠征(えんせい)に出た奴もいる。校長はいつ帰ったか姿が見えない。
ところへお座敷はこちら? と芸者が三四人はいって来た。おれも少し驚(おど)ろいたが、壁際へ圧し付けられているんだから、じっとしてただ見ていた。すると今まで床柱(とこばしら)へもたれて例の琥珀(こはく)のパイプを自慢(じまん)そうに啣(くわ)えていた、赤シャツが急に起(た)って、座敷を出にかかった。向(むこ)うからはいって来た芸者の一人が、行き違いながら、笑って挨拶をした。その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。遠くで聞(きこ)えなかったが、おや今晩はぐらい云ったらしい。赤シャツは知らん顔をして出て行ったぎり、顔を出さなかった。大方校長のあとを追懸(おいか)けて帰ったんだろう。
芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同が鬨(とき)の声を揚(あ)げて歓迎(かんげい)したのかと思うくらい、騒々(そうぞう)しい。そうしてある奴はなんこを攫(つか)む。その声の大きな事、まるで居合抜(いあいぬき)の稽古(けいこ)のようだ。こっちでは拳(けん)を打ってる。よっ、はっ、と夢中(むちゅう)で両手を振るところは、ダーク一座の操人形(あやつりにんぎょう)よりよっぽど上手(じょうず)だ。向うの隅(すみ)ではおいお酌(しゃく)だ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。どうもやかましくて騒々しくってたまらない。そのうちで手持無沙汰(てもちぶさた)に下を向いて考え込んでるのはうらなり君ばかりである。自分のために送別会を開いてくれたのは、自分の転任を惜(おし)んでくれるんじゃない。みんなが酒を呑(の)んで遊ぶためだ。自分独りが手持無沙汰で苦しむためだ。こんな送別会なら、開いてもらわない方がよっぽどましだ。
しばらくしたら、めいめい胴間声(どうまごえ)を出して何か唄(うた)い始めた。おれの前へ来た一人の芸者が、あんた、なんぞ、唄いなはれ、と三味線を抱(かか)えたから、おれは唄わない、貴様唄ってみろと云ったら、金(かね)や太鼓(たいこ)でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。叩いて廻って逢(あ)われるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて廻って逢いたい人がある、と二た息にうたって、おおしんどと云った。おおしんどなら、もっと楽なものをやればいいのに。
すると、いつの間にか傍(そば)へ来て坐った、野だが、鈴ちゃん逢いたい人に逢ったと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたようでげすと相変らず噺(はな)し家みたような言葉使いをする。知りまへんと芸者はつんと済ました。野だは頓着(とんじゃく)なく、たまたま逢いは逢いながら……と、いやな声を出して義太夫(ぎだゆう)の真似(まね)をやる。おきなはれやと芸者は平手で野だの膝(ひざ)を叩いたら野だは恐悦(きょうえつ)して笑ってる。この芸者は赤シャツに挨拶をした奴だ。芸者に叩かれて笑うなんて、野だもおめでたい者だ。鈴ちゃん僕が紀伊(き)の国を踴(おど)るから、一つ弾(ひ)いて頂戴と云い出した。野だはこの上まだ踴る気でいる。
向うの方で漢学のお爺(じい)さんが歯のない口を歪(ゆが)めて、そりゃ聞えません伝兵衛(でんべい)さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に済(すま)したが、それから? と芸者に聞いている。爺さんなんて物覚えのわるいものだ。一人が博物を捕(つら)まえて近頃(ちかごろ)こないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。よう聞いて、いなはれや――花月巻(かげつまき)、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可(はんか)の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。
山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞(けんぶ)をやるから、三味線を弾けと号令を下した。芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取られて返事もしない。山嵐は委細構わず、ステッキを持って来て、踏破千山万岳烟(ふみやぶるせんざんばんがくのけむり)と真中(まんなか)へ出て独りで隠(かく)し芸を演じている。ところへ野だがすでに紀伊(き)の国を済まして、かっぽれを済まして、棚(たな)の達磨(だるま)さんを済して丸裸(まるはだか)の越中褌(えっちゅうふんどし)一つになって、棕梠箒(しゅろぼうき)を小脇に抱(か)い込んで、日清談判破裂(はれつ)して……と座敷中練りあるき出した。まるで気違(きちが)いだ。
おれはさっきから苦しそうに袴も脱(ぬ)がず控えているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の裸踴(はだかおどり)まで羽織袴で我慢(がまん)してみている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。するとうらなり君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰っては失礼です、どうぞご遠慮(えんりょ)なくと動く景色もない。なに構うもんですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、あの様をご覧なさい。気狂会(きちがいかい)です。さあ行きましょうと、進まないのを無理に勧めて、座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して来て、やご主人が先へ帰るとはひどい。日清談判だ。帰せないと箒を横にして行く手を塞(ふさ)いだ。おれはさっきから肝癪(かんしゃく)が起っているところだから、日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨(げんこつ)で、野だの頭をぽかりと喰(く)わしてやった。野だは二三秒の間毒気を抜かれた体(てい)で、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。お撲(ぶ)ちになったのは情ない。この吉川をご打擲(ちょうちゃく)とは恐れ入った。いよいよもって日清談判だ。とわからぬ事をならべているところへ、うしろから山嵐が何か騒動(そうどう)が始まったと見てとって、剣舞をやめて、飛んできたが、このていたらくを見て、いきなり頸筋(くびすじ)をうんと攫(つか)んで引き戻(もど)した。日清……いたい。いたい。どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横に捩(ねじ)ったら、すとんと倒(たお)れた。あとはどうなったか知らない。途中(とちゅう)でうらなり君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。 |