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故郷(大好きな文章)

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发表于 2007-10-11 12:15:12 | 显示全部楼层 |阅读模式
厳しい寒さの中を、二千里の果てから、別れて二十年にもなる故郷へ、わたしは帰った。 " Q& e7 q; I' k  C+ F, v
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もう真冬の候であった。そのうえ故郷へ近づくにつれて、空模様は怪しくなり、冷たい風がヒューヒュー音をたてて、船の中まで吹き込んできた。苫のすきまから外をうかがうと、鉛色の空の下、わびしい村々が、いささかの活気もなく、あちこちに横たわっていた。覚えず寂寥の感が胸にこみあげた。 5 R- V# e& ]& a% W' |

; }; t; |1 Z" h0 T! C# ^( X" i6 r9 l5 E; B9 e2 m8 ^
ああ、これが二十年来、片時も忘れることのなかった故郷であろうか。 4 M8 }, C3 R" y+ n
わたしの覚えている故郷は、まるでこんなふうではなかった。わたしの故郷は、もっとずっとよかった。その美しさを思い浮かべ、その長所を言葉に表そうとすると、しかし、その影はかき消され、言葉は失われてしまう。やはりこんなふうだったかもしれないという気がしてくる。そこでわたしは、こう自分に言い聞かせた。もともと故郷はこんなふうなのだ──進歩もないかわりに、わたしが感じるような寂寥もありはしない。そう感じるのは、自分の心境が変わっただけだ。なぜなら、今度の帰郷は決して楽しいものではないのだから。 3 V( P& u: Q1 x3 x: P4 [% f% E" ]* n

) Y; L: u! B5 [0 g4 w3 A今度は、故郷に別れを告げに来たのである。わたしたちが長いこと一族で住んでいた古い家は、今はもう他人の持ち物になってしまった。明け渡しの期限は今年いっぱいである。どうしても旧暦の正月の前に、住み慣れた古い家に別れ、なじみ深い故郷をあとにして、わたしが今暮らしを立てている異郷の地へ引っ越さねばならない。 + D  }7 W7 J, ]$ d4 Q# c; S) v- f

+ {9 N  |1 k; I/ E( I明くる日の朝早く、わたしはわが家の表門に立った。屋根には一面に枯れ草のやれ茎が、折からの風になびいて、この古い家が持ち主を変えるほかなかった理由を説き明かし顔である。一緒に住んでいた親戚たちは、もう引っ越してしまったあとらしく、ひっそり閑としている。自宅の庭先まで来てみると、母はもう迎えに出ていた。あとから八歳になる甥の宏児もとび出した。 ' S4 l' K9 P0 i# ?; o5 t
' g4 C7 h* T8 g( R
母は機嫌よかったが、さすがにやるせない表情は隠しきれなかった。わたしを座らせ、休ませ、茶をついでくれなどして、すぐ引っ越しの話はもち出さない。宏児は、わたしとは初対面なので、離れた所に立って、じっとわたしの方を見つめていた。 ! C- R0 L) E. N, @6 M9 s/ ^

9 o& ^! v& @$ l/ ~+ Lだが、とうとう引っ越しの話になった。わたしは、あちらの家はもう借りてあること、家具も少しは買ったこと、あとは家にある道具類をみんな売り払って、その金で買いたせばよいこと、などを話した。母もそれに賛成した。そして、荷造りもほぼ終わったこと、かさばる道具類は半分ほど処分したが、よい値にならなかったことなどを話した。 1 Q5 l- g2 P/ J# W
. U# @/ z, @5 t+ I
「一、二日休んだら、親戚回りをしてね、そのうえでたつとしよう。」と母は言った。 
5 [3 u$ _4 S" P" [; {/ Q「ええ。」
: ^! W3 e: z$ l6 E「それから、閏土ね。あれが、いつも家へ来るたびに、おまえのうわさをしては、しきりに会いたがっていましたよ。おまえが着くおよその日取りは知らせておいたから、いまに来るかもしれない。」 : q$ ^0 Q0 O+ V4 z5 ]

' \" ?9 p7 v& E0 v0 I0 Wこの時突然、わたしの脳裏に不思議な画面が繰り広げられた──紺碧の空に金色の丸い月がかかっている。その下は海辺の砂地で、見渡す限り緑の西瓜が植わっている。そのまん中に十一、二歳の少年が、銀の首輪をつるし、鉄の刺叉を手にして立っている。そして一匹の「チャー」を目がけて、ヤッとばかり突く。すると「チャー」は、ひらりと身をかわして、彼のまたをくぐって逃げてしまう。
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3 }. `! r, o( K+ n/ A& ]# Jこの少年が閏土である。彼と知り合った時、わたしもまだ十歳そこそこだった。もう三十年近い昔のことである。そのころは、父もまだ生きていたし、家の暮らし向きも楽で、わたしは坊ちゃんでいられた。ちょうどその年は、わが家が大祭の当番にあたっていた。この祭りの当番というのが、三十何年めにただ一回順番が回ってくるとかで、ごく大切な行事だった。正月に、祖先の像を祭るのである。さまざまの供物をささげ、祭器もよく吟味するし、参詣の人も多かったので、祭器をとられぬように番をする必要があった。わたしの家には「忙月」が一人いるだけである。(わたしの郷里では、雇い人は三種類ある。年間通して決まった家で働くのが「長年」、日決めで働くのが「短工」、自分でも耕作するかたわら、年末や節季や年貢集めの時などに、決まった家へ来て働くのが「忙月」と呼ばれた。)一人では手が足りぬので、彼は自分の息子の閏土に祭器の番をさせたいが、とわたしの父に申し出た。 $ j+ F. L, f" ^6 q8 O4 @4 m; x

# H% _' T+ y2 ?" d/ D父はそれを許した。わたしもうれしかった。というのは、かねて閏土という名は耳にしていたし、同じ年ごろなこと、また閏月の生まれで、五行の土が欠けているので父親が閏土と名づけたことも承知していたから。彼はわなをかけて小鳥を捕るのがうまかった。
# j" E0 t7 l+ t( t) W2 c; b4 S4 e8 i7 M! _4 \
それからというもの、来る日も来る日も新年が待ち遠しかった。新年になれば閏土がやって来る。待ちに待った年末になり、ある日のこと、母がわたしに、閏土が来たと知らせてくれた。とんでいってみると、彼は台所にいた。つやのいい丸顔で、小さな毛織りの帽子をかぶり、キラキラ光る銀の首輪をはめていた。それは父親の溺愛ぶりを示すもので、どうか息子が死なないようにと神仏に願をかけて、その首輪でつなぎ止めてあるのだ。彼は人見知りだったが、わたしにだけは平気で、そばにだれもいないとよく口をきいた。半日もせずにわたしたちは仲よくなった。 ! J  x/ m3 o8 e" H4 {6 I) e5 x1 x
" ?5 t4 c9 b4 K8 v7 B! H& @# T
その時何をしゃべったかは、覚えていない。ただ閏土が、城内へ来ていろいろ珍しいものを見たといって、はしゃいでいたことだけは記憶に残っている。 / X7 F$ w# @- u. m- e8 b7 N

, U7 u( u) C% V0 _$ {  U明くる日、鳥を捕ってくれと頼むと、彼は、
7 F* a4 S' `, Y4 o「だめだよ。大雪が降ってからでなきゃ。おいらとこ、砂地に雪が降るだろ。そうしたら雪をかいて、少し空き地をこしらえるんだ。それから、大きなかごを持ってきて、短いつっかえ棒をかって、くずもみをまくんだ。そうすると、小鳥が来て食うから、その時遠くの方から、棒に結わえてある縄を引っぱるんだ。そうすると、みんなかごから逃げられないんだ。なんだっているぜ。稲鶏だの、角鶏だの、鳩だの、藍背だの…。」
7 s) D% `: W% t/ P* E9 {
& u, ?1 u7 z2 x" J1 D# e) J( Cそれからは雪の降るのが待ち遠しくなった。
! S- v* I( A3 N2 g閏土はまた言うのだ。 6 o- S- O9 w5 I: U9 X5 o
「今は寒いけどな、夏になったら、おいらとこへ来るといいや。おいら、昼間は海へ貝殻拾いに行くんだ。赤いのも、青いのも、なんでもあるよ。『鬼おどし』もあるし、『観音様の手』もあるよ。晩には父ちゃんと西瓜の番に行くのさ。おまえも来いよ。」
) k6 m! n! R( |+ C% S「どろぼうの番?」
7 j. S5 J5 f/ d+ P8 \  z" K「そうじゃない。通りがかりの人が、のどが渇いて西瓜を取って食ったって、そんなの、おいらとこじゃどろぼうなんて思やしない。番するのは、あなぐまや、はりねずみや、チャーさ。月のある晩に、いいかい、ガリガリって音がしたら、チャーが西瓜をかじってるんだ。そうしたら手に刺*を持って、忍び寄って…。」 9 R# b# s, v1 x6 w6 g  @+ I

+ c* q, `6 g) u) p( Y: yその時わたしはその「チャー」というのがどんなものか、見当もつかなかった──今でも見当はつかない──が、ただなんとなく、小犬のような、そして獰猛な動物だという感じがした。 1 v, a2 Z, E+ t4 p' w& e, Z
「かみつかない?」 # a! x7 i4 C2 |* Y/ q" x
「刺叉があるじゃないか。忍び寄って、チャーを見つけたら突くのさ。あんちくしょう、りこうだから、こっちへ走ってくるよ。そうしてまたをくぐって逃げてしまうよ。なにしろ毛が油みたいにすべっこくて…。」 9 V0 y+ N6 c/ t( ~2 d9 m8 z8 e
% ^9 ?3 E  {; m8 Z. T
こんなにたくさん珍しいことがあろうなど、それまでわたしは思ってもみなかった。海には、そのような五色の貝殻があるものなのか。西瓜には、こんな危険な経歴があるものなのか。わたしは西瓜といえば、果物屋に売っているものとばかり思っていた。 . R7 C4 A: \; {5 z% f
「おいらとこの砂地では、高潮の時分になると『跳ね魚』がいっぱい跳ねるよ。みんなかえるみたいな足が二本あって…。」 ) h1 ~* S8 ]% v) |# \, W

7 i1 j; f; F1 Kああ、閏土の心は神秘の宝庫で、わたしの遊び仲間とは大違いだ。こんなことはわたしの友達は何も知ってはいない。閏土が海辺にいる時、彼らはわたしと同様、高い塀に囲まれた中庭から四角な空を眺めているだけなのだ。 # D9 s% m' n1 R: f0 K  u7 X: g
! d% U" e, z! x' v- H$ e: [
惜しくも正月は過ぎて、閏土は家へ帰らねばならなかった。別れがつらくて、わたしは声をあげて泣いた。閏土も台所の隅に隠れて、嫌がって泣いていたが、とうとう父親に連れてゆかれた。そのあと、彼は父親にことづけて、貝殻を一包みと、美しい鳥の羽を何本か届けてくれた。わたしも一、二度何か贈り物をしたが、それきり顔を合わす機会はなかった。
) v) Y' m0 t: {3 T8 Z6 c0 ?1 v( R% E* I% ]* K
今、母の口から彼の名が出たので、この子供のころの思い出が、電光のように一挙によみがえり、わたしはやっと美しい故郷を見た思いがした。わたしはすぐこう答えた。 9 d- i2 [3 c9 X2 w% C
「そりゃいいな。で──今、どんな? …。」 ! M, ]' e/ R' u: r( j/ ~
「どんなって…やっぱり、楽ではないようだが…。」そう答えて母は、戸外へ目をやった。
& v: R1 o, O) S# S0 n「あの連中、また来ている。道具を買うという口実で、その辺にあるものを勝手に持っていくのさ。ちょっと見てくるからね。」
5 S1 c. a- Y. A" R) {* p母は立ち上がって出ていった。外では、数人の女の声がしていた。わたしは宏児をこちらへ呼んで、話し相手になってやった。字は書ける? ( I9 g- U0 s9 v+ z
よそへ行くの、うれしい? などなど。
) y5 C! {! P! R+ E/ B& }/ t' M「汽車に乗ってゆくの?」
$ n% U; p: e1 ^- }「汽車に乗ってゆくんだよ。」
, |  K9 ]' s% O' w- u# I# v「お船は?」 0 c8 X9 o" ^) g2 s, W& m% ~0 Q
「初めに、お船に乗って…。」 ) ~# B1 t8 V0 j9 ?$ |
「まあまあ、こんなになって、ひげをこんなに生やして。」不意にかん高い声が響いた。
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 楼主| 发表于 2007-10-11 12:15:39 | 显示全部楼层

故郷(大好きな文章)2

びっくりして頭を上げてみると、わたしの前には、ほお骨の出た、唇の薄い、五十がらみの女が立っていた。両手を腰にあてがい、スカートをはかないズボン姿で足を開いて立ったところは、まるで製図用の脚の細いコンパスそっくりだった。 - v1 u- ~* ^% B* k

! x" K5 Q( U  Y9 d2 D* i6 @! mわたしはドキンとした。 ! o5 C% b% M; V4 w8 w
「忘れたかね? よくだっこしてあげたものだが。」 / r5 s& l( n$ v+ h9 u8 o, e
ますますドキンとした。幸い、母が現れて口添えしてくれた。
4 T: G7 ]! X" X: f2 ?4 D「長いこと家にいなかったから、見忘れてしまってね。おまえ、覚えているだろ。」とわたしに向かって、「ほら、筋向かいの楊おばさん…豆腐屋の。」
6 B$ Q% \# x( t8 J$ G, O1 F6 v7 y4 U) Y
そうそう、思い出した。そういえば子供のころ、筋向かいの豆腐屋に、楊おばさんという人が一日じゅう座っていて、「豆腐屋小町」と呼ばれていたっけ。しかし、その人なら白粉を塗っていたし、ほお骨もこんなに出ていないし、唇もこんなに薄くはなかったはずだ。それに一日じゅう座っていたのだから、こんなコンパスのような姿勢は、見ようにも見られなかった。そのころうわさでは、彼女のおかげで豆腐屋は商売繁盛だとされた。たぶん年齢のせいだろうか、わたしはそういうことにさっぱり関心がなかった。そのため見忘れてしまったのである。ところがコンパスのほうでは、それがいかにも不服らしく、さげすむような表情を見せた。まるでフランス人のくせにナポレオンを知らず、アメリカ人のくせにワシントンを知らぬのをあざけるといった調子で、冷笑を浮かべながら、 9 S. Q6 w- t9 G' E

7 J3 G9 J$ _  w5 I* B「忘れたのかい? なにしろ身分のあるおかたは目が上を向いているからね…。」
2 M/ o' A3 W: |8 j「そんなわけじゃないよ…ぼくは…。」わたしはどぎまぎして、立ち上がった。
8 L0 q% k. @8 W4 h7 _/ i; N. M「それならね、お聞きなさいよ、迅ちゃん。あんた、金持ちになったんでしょ。持ち運びだって、重くて不便ですよ。こんなガラクタ道具、じゃまだから、あたしにくれてしまいなさいよ。あたしたち貧乏人には、けっこう役に立ちますからね。」 % s3 s$ |! K: u/ G2 Y
「ぼくは金持ちじゃないよ。これを売って、その金で…。」 4 G  `& d$ U0 I: H  C+ @# R
「おやおや、まあまあ、知事様になっても金持ちじゃない? 現にお妾が三人もいて、お出ましは八人かきのかごで、それでも金持ちじゃない? フン、だまそうたって、そうはいきませんよ。」
9 N7 D5 q4 v3 `
; Q6 x6 N  ~+ h8 T返事のしようがないので、わたしは口を閉じたまま立っていた。
, j& `% b, S& M2 ~3 q% ?+ G( ^1 l「ああ、ああ、金がたまれば財布のひもを締める。財布のひもを締めるからまたたまる…。」コンパスは、ふくれっつらで背を向けると、ぶつぶつ言いながら、ゆっくりした足どりで出ていった。行きがけの駄賃に母の手袋をズボンの下へねじ込んで。 5 _7 _1 E( f- D$ y# P) i' v- U7 d
7 ^  E9 [8 P( a7 C
そのあと、近所にいる親戚が何人も訪ねてきた。その応対に追われながら、暇をみて荷ごしらえをした。そんなことで四、五日つぶれた。 * Y: l. E# h) `! X' s
9 F. t. |7 a0 p7 Y$ D$ T9 D% c
ある寒い日の午後、わたしは食後の茶でくつろいでいた。表に人の気配がしたので、振り向いてみた。思わずアッと声が出かかった。急いで立ち上がって迎えた。   K) @2 P$ ^  [6 O( }
. n$ G0 Z* ~4 z, y! Q' r% j
来た客は閏土である。ひと目で閏土とわかったものの、その閏土は、わたしの記憶にある閏土とは似もつかなかった。背丈は倍ほどになり、昔のつやのいい丸顔は、今では黄ばんだ色に変わり、しかも深いしわがたたまれていた。目も、彼の父親がそうであったように、周りが赤くはれている。わたしは知っている。海辺で耕作する者は、一日じゅう潮風に吹かれるせいで、よくこうなる。頭には古ぼけた毛織りの帽子、身には薄手の綿入れ一枚、全身ぶるぶる震えている。紙包みと長いきせるを手に提げている。その手も、わたしの記憶にある血色のいい、まるまるした手ではなく、太い、節くれだった、しかもひび割れた、松の幹のような手である。 - a0 ]3 l4 {5 u3 ?
5 w- y) R% c( |
わたしは感激で胸がいっぱいになり、しかしどう口をきいたものやら思案がつかぬままに、ひと言、 # D* ?! ?4 I8 s3 X7 P) S  ^
「ああ、閏ちゃん──よく来たね…。」続いて言いたいことが、あとからあとから、数珠つなぎになって出かかった。角鶏、跳ね魚、貝殻、チャー…だがそれらは、何かでせき止められたように、頭の中を駆けめぐるだけで、口からは出なかった。
; [3 [' k7 J; |& y6 ?% ~4 j6 D. o2 a# B* A0 C$ l
彼は突っ立ったままだった。喜びと寂しさの色が顔に現れた。唇が動いたが、声にはならなかった。最後に、うやうやしい態度に変わって、はっきりこう言った。
& I# h$ y% R- Q4 A「だんな様! …。」 + A. v3 _- g$ V7 P) Y
わたしは身震いしたらしかった。悲しむべき厚い壁が、二人の間を隔ててしまったのを感じた。わたしは口がきけなかった。
4 a  C9 P1 M1 j4 O* j+ f5 u, V, u. E9 ?
彼は後ろを向いて、「水生、だんな様におじぎしな。」と言って、彼の背に隠れていた子供を前へ出した。これぞまさしく三十年前の閏土であった。いくらかやせて、顔色が悪く、銀の首輪もしていない違いはあるけれども。「これが五番めの子でございます。世間へ出さぬものですから、おどおどしておりまして…。」
2 Z2 [, w7 V  j; a" v, L7 }( e: s) Y/ A( n( ~. N6 t9 V
母と宏児が二階から降りてきた。話し声を聞きつけたのだろう。 $ E7 |" \: }& L5 H
「ご隠居様、お手紙は早くにいただきました。全く、うれしくてたまりませんでした、だんな様がお帰りになると聞きまして…。」と閏土は言った。
6 P: C2 ?! @" k6 k* h7 j* |「まあ、なんだってそんな、他人行儀にするんだね。おまえたち、昔は兄弟の仲じゃないか。昔のように、迅ちゃん、でいいんだよ。」と母は、うれしそうに言った。   j: f+ ^7 S( B6 X* p
「めっそうな、ご隠居様、なんとも…とんでもないことでございます。あのころは子供で、なんのわきまえもなく…。」そしてまたも水生を前に出しておじぎさせようとしたが、子供ははにかんで、父親の背にしがみついたままだった。
4 J1 N/ X1 [2 i4 P「これが水生? 五番めだね。知らない人ばかりだから、はにかむのも無理ない。宏児や、あちらで一緒に遊んでおやり。」と母は言った。 ' C2 T! i/ N# j/ k9 f) Q
言われて宏児は、水生を誘い、水生もうれしそうに、そろって出ていった。母は閏土に席を勧めた。彼はしばらくためらったあと、ようやく腰を下ろした。長ぎせるをテーブルに立てかけて、紙包みを差し出した。
6 Y' k: O9 i' @7 E& J「冬場は、ろくなものがございません。少しばかり、青豆の干したのですが、自分とこのですから、どうかだんな様に…。」 ' U1 W3 P  |9 O+ ^! s: p
わたしは、暮らし向きについて尋ねた。彼は首を振るばかりだった。 ) n) r" r; ?1 \  H
「とてもとても。今では六番めの子も役に立ちますが、それでも追っつけません…世間は物騒だし…どっちを向いても金は取られほうだい、きまりもなにも…作柄もよくございません。作った物を売りに行けば、何度も税金を取られて、元は切れるし、そうかといって売らなければ、腐らせるばかりで…。」 ! Y, U7 \+ A* Q. ]' j! L  h
# \+ i9 y* {# W4 W% I
首を振りどおしである。顔にはたくさんのしわがたたまれているが、まるで石像のように、そのしわは少しも動かなかった。苦しみを感じはしても、それを言い表すすべがないように、しばらく沈黙し、それからきせるを取り上げて、黙々とたばこをふかした。
& j! a' D4 ~* n9 T5 ^8 d
+ U; ]; a! r1 h! f, x1 T& i4 W母が都合をきくと、家に用が多いから、明日は帰らねばならぬという。それに昼飯もまだと言うので、自分で台所へ行って、飯をいためて食べるように勧めた。 . _& x, a  ]; H( ?' o' D

" n9 P; w6 [4 c8 g/ U: w2 u" Z4 @彼が出ていったあと、母とわたしとは彼の境遇を思ってため息をついた。子だくさん、凶作、重い税金、兵隊、匪賊、役人、地主、みんな寄ってたかって彼をいじめて、デクノボーみたいな人間にしてしまったのだ。母は、持っていかぬ品物はみんなくれてやろう、好きなように選ばせよう、とわたしに言った。
7 ?* I0 K# a# U$ e' r& h# w7 S+ T2 U1 Y6 {/ k, e
午後、彼は品物を選び出した。長テーブル二個、いす四脚、香炉と燭台一組み、大秤一本。そのほかわら灰もみんな欲しいと言った。(わたしたちのところでは、炊事の時わらを燃す。その灰は砂地の肥料になる。)わたしたちが旅立つ時来て船で運ぶ、と言った。 + X( v4 S2 c6 p- S- S! o. ?

( z9 S& {. |* D: N- t7 u/ D夜はまた世間話をした。とりとめのない話ばかりだった。明くる日の朝、彼は水生を連れて帰っていった。
7 l7 o* ?( x0 P% q
* B7 U1 H5 s% b0 s( w7 v4 J2 j: |それからまた九日して、わたしたちの旅立ちの日になった。閏土は朝から来ていた。水生は連れずに、五歳になる女の子に船の番をさせていた。それぞれに一日じゅう忙しくて、もう話をする暇はなかった。客も多かった。見送りに来る者、品物を取りに来る者、見送りがてら品物を取りに来る者。夕方になって、わたしたちが船に乗り込むころには、この古い家にあった大小さまざまのガラクタ類は、すっかり片づいていた。 * t/ f  N, x$ P: Q
+ X! m) O% P3 Q6 V+ L1 I
船はひたすら前進した。両岸の緑の山々は、たそがれの中で薄墨色に変わり、次次と船尾に消えた。 ( J3 y0 x. j+ s- T) T4 y+ `. L. |
わたしと一緒に窓辺にもたれて、暮れてゆく外の景色を眺めていた宏児が、ふと問いかけた。 - \2 L. l' `( C) Y/ C
「おじさん、ぼくたち、いつ帰ってくるの?」 , X) ~+ l" w( T4 N. h. j6 N
「帰ってくる? どうしてまた、行きもしないうちに、帰るなんて考えたんだい?」
% C- k% u' {8 x: i2 H' m+ Q" E「だって、水生がぼくに、家へ遊びに来いって。」
" p0 t4 A7 u9 D; q大きな黒い目をみはって、彼はじっと考えこんでいた。
& Y$ w0 P3 p( ^9 y5 U# \( Aわたしも、わたしの母も、はっと胸をつかれた。そして話がまた閏土のことに戻った。母はこう語った。例の豆腐屋小町の楊おばさんは、わたしの家で片づけが始まってから、毎日必ずやってきたが、おととい、灰の山からわんや皿を十個あまり掘り出した。あれこれ議論の末、それは閏土が埋めておいたにちがいない、灰を運ぶ時、一緒に持ち帰れるから、という結論になった。楊おばさんは、この発見を手柄顔に、「犬じらし」(これはわたしたちのところで鶏を飼うのに使う。木の板にさくを取り付けた道具で、中に食べ物を入れておくと、鶏は首を伸ばしてついばむことができるが、犬にはできないので、見てじれるだけである。)をつかんで飛ぶように走り去った。てん足用の底の高い靴で、よくもと思うほど速かったそうだ。
& @* y9 b  u9 |1 K7 s1 S1 M
* Z7 G. h3 u8 D% y+ @! w3 Z8 l古い家はますます遠くなり、故郷の山や水もますます遠くなる。だが名残惜しい気はしない。自分の周りに目に見えぬ高い壁があって、その中に自分だけ取り残されたように、気がめいるだけである。西瓜畑の銀の首輪の小英雄の面影は、もとは鮮明このうえなかったのが、今では急にぼんやりしてしまった。これもたまらなく悲しい。 1 [. `( N) d) c" A# e% V
9 D: ]+ Q5 [* A7 i/ i' B' D/ j" }
母と宏児とは寝入った。
: `1 x: w2 S7 a- L+ l5 }8 J! m  _, U
% J- X( z( ?  Nわたしも横になって、船の底に水のぶつかる音を聞きながら、今、自分は、自分の道を歩いているとわかった。思えばわたしと閏土との距離は全く遠くなったが、若い世代は今でも心が通い合い、現に宏児は水生のことを慕っている。せめて彼らだけは、わたしと違って、互いに隔絶することのないように…とはいっても、彼らが一つ心でいたいがために、わたしのように、無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活をともにすることは願わない。また閏土のように、打ちひしがれて心がまひする生活をともにすることも願わない。また他の人のように、やけを起こしてのほうずに走る生活をともにすることも願わない。希望をいえば、彼らは新しい生活をもたなくてはならない。わたしたちの経験しなかった新しい生活を。
4 ]' O. _! T2 e0 A, K. u% g* l
* n# j  q" R9 m# k4 m( D希望という考えが浮かんだので、わたしはどきっとした。たしか閏土が香炉と燭台を所望した時、わたしはあい変わらずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもりかと、心ひそかに彼のことを笑ったものだが、今わたしのいう希望も、やはり手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはすぐ手に入り、わたしの望むものは手に入りにくいだけだ。 ! K" t+ k: O$ X$ X* u! k$ M- N' z

& R1 x( j% J1 y" _1 ~まどろみかけたわたしの目に、海辺の広い緑の砂地が浮かんでくる。その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている。思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
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 楼主| 发表于 2007-10-11 12:20:03 | 显示全部楼层

作者紹介(竹内 好は魯迅の研究、翻訳にあたる)

竹内 好(たけうち よしみ) : M# f4 H; }6 p( b7 ]' i
(1910-1977、明治43年-昭和52年) # K' G/ T! y: Z. |$ h
昭和52年3月3日歿 66歳 多磨霊園
" H5 M2 b8 k* E) y昭和期の中国文学者 ' _8 }' _4 D2 T0 W# \
1933武田泰淳らと中国文学研究会をつくり機関誌「中国文学月報」を発刊。応召、復員後は、近代文学とくに魯迅の研究、翻訳にあたる。また54「国民文学論」を発表し論争を展開するなど、日本と中国、日本文化などの問題をめぐり論壇で活躍した。
( C& ]4 y, @9 i0 e; F  t61安保反対闘争後、都立大教授を辞し、その後、雑誌「中国」を主宰、独自の発言を行った。著書に「魯迅」「不服従の遺産」61、評論集などがある。
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 楼主| 发表于 2007-10-11 22:28:41 | 显示全部楼层
怎么没人欣赏呢.........晕,我觉得翻的很好啊............
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发表于 2007-10-11 22:59:49 | 显示全部楼层
这篇文章原文和译文都很不错。
9 j( T9 y8 S$ O& r4 Y! b谢谢分享哦。
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发表于 2007-10-12 06:22:21 | 显示全部楼层
魯迅的文章启蒙了诺贝尔文学奖获得者大江健三郎,其中竹内好等翻译家的辛苦功不可没。3 b) m; B5 P4 a2 i* c: T' K

6 q+ J" r7 s6 J/ P# d. q* Q- N- j" K3 c8 M8 K

' `2 |- j3 v  L; C5 P8 X( H  n" F大江健三郎:鲁迅伴随我的一生
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! w  j3 u! @4 j# V' C7 G* _) H    9月15日,隨著CA925航班飛離北京,日本著名作家、1994年度諾貝爾文學獎得主大江健三郎圓滿結束了對中國的第五次友好訪問。 9月15日,随着CA925航班飞离北京,日本著名作家、1994年度诺贝尔文学奖得主大江健三郎圆满结束了对中国的第五次友好访问。 大江健三郎于1960年作為日本文學代表團中最年輕的作家第一次訪華時,受到了毛澤東主席、周恩來總理和陳毅副總理等老一輩黨和國家領導人的接見,也見到了中國社科院首任院長郭沫若以及巴金、老舍、茅盾和趙樹理等著名作家。大江健三郎于1960年作为日本文学代表团中最年轻的作家第一次访华时,受到了毛泽东主席、周恩来总理和陈毅副总理等老一辈党和国家领导人的接见,也见到了中国社科院首任院长郭沫若以及巴金、老舍、茅盾和赵树理等著名作家。 1984年第二次訪華時,他受到胡耀邦同志的接見。 1984年第二次访华时,他受到胡耀邦同志的接见。
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    9月12~13日,大江健三郎在中國社科院國際合作局副局長李薇等陪同下參觀了南京大屠殺遇難同胞紀念館並與歷史學者座談。 9月12~13日,大江健三郎在中国社科院国际合作局副局长李薇等陪同下参观了南京大屠杀遇难同胞纪念馆并与历史学者座谈。 該館館長朱成山親自擔任講解。该馆馆长朱成山亲自担任讲解。 大江健三郎在參觀過程中面色凝重。大江健三郎在参观过程中面色凝重。 隨後會見南京大屠殺倖存者姜根福和夏淑琴時,大江健三郎鞠了三個躬,這是他第一次參觀南京大屠殺遇難同胞紀念館。随后会见南京大屠杀幸存者姜根福和夏淑琴时,大江健三郎鞠了三个躬,这是他第一次参观南京大屠杀遇难同胞纪念馆。 / z6 l& g+ }/ \

+ q8 K5 b! `1 N4 |    “南京大屠殺時,我只有兩歲,現在我71歲了。這一次,我對自己說,一定要到南京來”,“中國人在南京大屠殺之後的69年中,勇敢地去作證,這是非常了不起的事情”。 “南京大屠杀时,我只有两岁,现在我71岁了。这一次,我对自己说,一定要到南京来”,“中国人在南京大屠杀之后的69年中,勇敢地去作证,这是非常了不起的事情”。 大江健三郎表示,回國後他將把為期一週的訪問觀感發表在10月份的《朝日新聞》上,“要告訴日本的年輕人”。大江健三郎表示,回国后他将把为期一周的访问观感发表在10月份的《朝日新闻》上,“要告诉日本的年轻人”。 前不久,大江健三郎就曾和知識界朋友群起聲討小泉參拜靖國神社。前不久,大江健三郎就曾和知识界朋友群起声讨小泉参拜靖国神社。
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  O' H' d+ ?* P1 i7 M( \( v    作為邀請方,中國社會科學院外文所在9月10日組織了高規格的“大江文學專題研討會”,葉渭渠、文潔若和黃寶生、陳眾議、陸建德、吳岳添、許金龍、王中忱等著名學者和知名作家莫言、閻連科等出席。作为邀请方,中国社会科学院外文所在9月10日组织了高规格的“大江文学专题研讨会”,叶渭渠、文洁若和黄宝生、陈众议、陆建德、吴岳添、许金龙、王中忱等著名学者和知名作家莫言、阎连科等出席。 4 ]1 I4 M; J0 M0 T, [4 k6 K

8 ]# o! I3 m, }  L( y5 i8 w- a! A' r    莫言和大江是忘年之交。莫言和大江是忘年之交。 大江早在1994年的一個講話中就提及莫言。大江早在1994年的一个讲话中就提及莫言。 大江9月9日上午在社科院做了題為《始自於絕望的希望》的演講,9月9日下午在北京圖書大廈簽售《愁容童子》等3本新書,9月11日的“大江文學專題研討會”,幾次活動莫言無一缺席。大江9月9日上午在社科院做了题为《始自于绝望的希望》的演讲,9月9日下午在北京图书大厦签售《愁容童子》等3本新书,9月11日的“大江文学专题研讨会”,几次活动莫言无一缺席。
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" L" S/ }4 }* [3 _; z1 ~' D    2002年,大江第四次訪華時就曾專程探訪莫言的山東高密東北鄉老家,並與之深入對話,這位同樣來自日本農村——四國島的作家認為自己和莫言有很多共同點:“如何將故鄉小小村莊裏的想法,離開家鄉以後的想法,以及當時的傷痕,還有現在的自己擔負的行為造成的傷痕等這些作為現代文學寫出來”,“我們現在想把自己的文學推向世界,這一點也非常相似”。 2002年,大江第四次访华时就曾专程探访莫言的山东高密东北乡老家,并与之深入对话,这位同样来自日本农村——四国岛的作家认为自己和莫言有很多共同点:“如何将故乡小小村庄里的想法,离开家乡以后的想法,以及当时的伤痕,还有现在的自己担负的行为造成的伤痕等这些作为现代文学写出来”,“我们现在想把自己的文学推向世界,这一点也非常相似”。
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  k, l. P' |$ f8 O0 A    此次訪問期間,大江健三郎的三場公開演講《始自於絕望的希望》、《走的人多了,也便成了路》和《魯迅——中國——我》,主題全都和魯迅有關,因為他12歲就開始在母親的影響下閱讀魯迅作品並終身受益:“我作為一名步入老境的作家,從少年時代開始,六十多年來一直崇敬著一位中國的文學家,那就是思維最敏銳、民族危機感最強烈的魯迅”,“閱讀魯迅已經伴隨我的一生”。此次访问期间,大江健三郎的三场公开演讲《始自于绝望的希望》、《走的人多了,也便成了路》和《鲁迅——中国——我》,主题全都和鲁迅有关,因为他12岁就开始在母亲的影响下阅读鲁迅作品并终身受益:“我作为一名步入老境的作家,从少年时代开始,六十多年来一直崇敬着一位中国的文学家,那就是思维最敏锐、民族危机感最强烈的鲁迅”,“阅读鲁迅已经伴随我的一生”。
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+ M  I) o0 G( l, ]. \" g    除南京之行和“大江文學專題研討會”外,大江還參加了“世界文學論壇·新名著主義叢書”發佈會。除南京之行和“大江文学专题研讨会”外,大江还参加了“世界文学论坛·新名著主义丛书”发布会。 該叢書由中國社科院外文所與上海萬語文化藝術有限公司共同發起,由大江和莫言聯袂策劃,口號是“我們需要一場告別上個世紀傳統經典的新名著閱讀運動”。该丛书由中国社科院外文所与上海万语文化艺术有限公司共同发起,由大江和莫言联袂策划,口号是“我们需要一场告别上个世纪传统经典的新名著阅读运动”。
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9 `( W1 D+ f3 I& x: g6 ?6 X    據社科院外文所副所長陳眾議介紹,“新名著主義叢書”是未竟的“世界文學論壇”的副產品。据社科院外文所副所长陈众议介绍,“新名著主义丛书”是未竟的“世界文学论坛”的副产品。 2000年9月,大江健三郎應社科院外文所之邀訪華,“這是1949年以來應邀訪華的第一位,也是迄今為止惟一的一位諾貝爾文學獎獲得者”。 2000年9月,大江健三郎应社科院外文所之邀访华,“这是1949年以来应邀访华的第一位,也是迄今为止惟一的一位诺贝尔文学奖获得者”。 對照著泰戈爾20世紀初的中國之行,作家徐坤盛讚大江2000年的中國之行說:“他的意義將在不遠的將來得到彰顯”。对照着泰戈尔20世纪初的中国之行,作家徐坤盛赞大江2000年的中国之行说:“他的意义将在不远的将来得到彰显”。 當時,大江見到了心儀已久的莫言,並與王蒙、鐵凝、余華、閻連科和徐坤等中國作家會面,並提出在中國舉辦“世界文學論壇”的倡議,後因非典和缺少資金等難題未果。当时,大江见到了心仪已久的莫言,并与王蒙、铁凝、余华、阎连科和徐坤等中国作家会面,并提出在中国举办“世界文学论坛”的倡议,后因非典和缺少资金等难题未果。 2 W# ~. @9 ?$ j5 i* j" j

  f! u2 n! }+ r, B2 N* c$ o    雖然未能實現廣邀世界級作家聚會中國的宏願,“新名著主義叢書”卻實現了一場全球範圍內重量級作家在中國的紙上聚會。虽然未能实现广邀世界级作家聚会中国的宏愿,“新名著主义丛书”却实现了一场全球范围内重量级作家在中国的纸上聚会。 該叢書首期結集出版了12位海內外著名作家的23部作品,有大江的《愁容童子》和《我在曖昧的日本》,莫言的《天堂蒜薹之歌》,還有被譽為“美國公眾的良心”的蘇珊·桑塔格的《中國旅行計劃》、《沉默的美學》,1993年諾貝爾文學獎得主托妮·莫瑞森的《柏油孩子》、《最藍的眼睛》,義大利當紅作家阿利桑德羅·巴裏科的《海上鋼琴師》、《用吉他射擊的人》,2005年塞萬提斯文學獎得主賽爾西奧·皮托爾的《夫妻生活》、《逃亡的藝術》等……该丛书首期结集出版了12位海内外著名作家的23部作品,有大江的《愁容童子》和《我在暧昧的日本》,莫言的《天堂蒜薹之歌》,还有被誉为“美国公众的良心”的苏珊·桑塔格的《中国旅行计划》、《沉默的美学》,1993年诺贝尔文学奖得主托妮·莫瑞森的《柏油孩子》、《最蓝的眼睛》,义大利当红作家阿利桑德罗·巴里科的《海上钢琴师》、《用吉他射击的人》,2005年塞万提斯文学奖得主赛尔西奥·皮托尔的《夫妻生活》、《逃亡的艺术》等…… : i5 @# N5 m& t+ D, H

6 }$ R( o6 b. ]    翻譯家許金龍介紹,《愁容童子》中的主人公長江古義人就是以大江健三郎為原型。翻译家许金龙介绍,《愁容童子》中的主人公长江古义人就是以大江健三郎为原型。 大江健三郎積極介入捍衛歷史、維護和平的社會活動。大江健三郎积极介入捍卫历史、维护和平的社会活动。 在日文版《愁容童子》問世的第二年,時年69歲的大江偕同加藤週一、井上久等賢達組成九條會,強烈抗議日本保守勢利企圖篡改和平憲法第九條以為日本復活國家主義乃至軍國主義掃除障礙。在日文版《愁容童子》问世的第二年,时年69岁的大江偕同加藤周一、井上久等贤达组成九条会,强烈抗议日本保守势利企图篡改和平宪法第九条以为日本复活国家主义乃至军国主义扫除障碍。 “這種吶喊又與大江在森林裏那座叫做《愁容童子》的殿堂中為人類和平以及和解所作的祈禱重合起來,組成了一個多聲部的交響曲”。 “这种呐喊又与大江在森林里那座叫做《愁容童子》的殿堂中为人类和平以及和解所作的祈祷重合起来,组成了一个多声部的交响曲”。
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7 E5 Y9 H. Y6 T* y# `. Q    《我在曖昧的日本》收錄了大江2002年訪華時與莫言的對話,在清華大學和柏林的演講,以及時事評論、文學創作談和人生感悟等17篇隨筆,對“曖昧”這一日本的國民性進行了深入批判和反省。 《我在暧昧的日本》收录了大江2002年访华时与莫言的对话,在清华大学和柏林的演讲,以及时事评论、文学创作谈和人生感悟等17篇随笔,对“暧昧”这一日本的国民性进行了深入批判和反省。 大江說:“在並不遙遠的過去,那種破壞的盲信,曾踐踏了國內和周邊國家人民的理智;而我,則是擁有這種歷史的國家的一位國民”,“作為生活于現在這種時代的人,作為被這樣的歷史打上痛苦烙印的回憶者,我無法和川端一同喊出‘美麗的日本的我’。我只能用‘曖昧的日本的我’來表達。”大江说:“在并不遥远的过去,那种破坏的盲信,曾践踏了国内和周边国家人民的理智;而我,则是拥有这种历史的国家的一位国民”,“作为生活于现在这种时代的人,作为被这样的历史打上痛苦烙印的回忆者,我无法和川端一同喊出‘美丽的日本的我’。我只能用‘暧昧的日本的我’来表达。”
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3 L0 o, o" h! L) w/ J$ e    儘管大江在多個場合表達他對魯迅、巴金和莫言等中國作家的敬意,清華大學教授王中忱認為,這不是簡單的“中國情結”,“忽略大江對亞洲其他國家以及世界文化——文學的廣泛關心,甚至會助長我們這片土壤上容易生長的盲目自尊”。尽管大江在多个场合表达他对鲁迅、巴金和莫言等中国作家的敬意,清华大学教授王中忱认为,这不是简单的“中国情结”,“忽略大江对亚洲其他国家以及世界文化——文学的广泛关心,甚至会助长我们这片土壤上容易生长的盲目自尊”。
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发表于 2007-10-18 10:09:27 | 显示全部楼层
ありがとう!
' X6 y* L# O2 U) V! W大好き
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发表于 2007-10-19 11:11:52 | 显示全部楼层
打印出来了" J5 i$ D3 o; ~+ i' X8 |* l
谢谢
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发表于 2007-10-21 14:05:11 | 显示全部楼层
嘿嘿,老师送我们的一本阅读里有这篇。。不过还没看呢。。。。。
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发表于 2007-10-26 19:39:11 | 显示全部楼层
谢谢,辛苦,愿快乐
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