釧路湿原 カムイの鳥 舞え
讲湿地居民保护湿地野生动物的。
鶴の舞。雛鳥を守り育てる親の姿を表わす。アイヌの人々が神様と呼ぶ鳥がいる。タンチョウ。羽を広げれば2mを超える、日本最大の美しい鳥である。タンチョウがただ1カ所、生きながらえた土地がある。釧路湿原、広さ20000ヘクタール、2000種が息づく野生生物の王国である。そこに列島改造の嵐が吹きつけた。石油コンビナートに工業団地、30を超す開発計画が動き出した。
「このままでは皆死に絶える。」
立ち上がったのは、地元の人々。
「生き物をすべて調べ上げ、湿原の価値を示そう。」
調査に乗り出した。しかし、氷点下20度、底なし沼が待ち構えていた。そして、突如起きた大火災。炎が湿原を焼きつくした。 - 美しいものが舞い降りてきます。特別天然記念物のタンチョウですね。
- 翼の先までピーンとしていて、本当にきれいですね。
- 優美って言葉がぴったりでしょ。英語ではですね"Japanese Crane"というんですね。
- まさに日本を代表する鳥なんですね。
- 等身大の写真です。だいたい1m40cm、翼を伸ばすとですね2m40cmにもなるんですね。えー、今日の舞台は、日本で唯一このタンチョウが生き残っている釧路湿原です。
- 北海道の東部です。釧路市の背後に広がるこの大湿原です。南北に36km、そして東西17km、実に20000ヘクタールという日本最大の湿原です。今夜は世界に誇る生き物の宝庫、釧路湿原を守った人々の壮絶なドラマです。
昭和26年、北海道釧路地方。川で連日網を引く男がいた。土佐良範、先祖代々漁を営んできた。春はウグイ、夏は鯉、冬はワカサギがとれた。 脂のっているでしょう。丸々してるでしょ。どこへ出しても負けない。 川の周りには20000ヘクタールの湿原が広がっていた。豊かな水を求め、多くの動物たちが集まっていた。土佐は思った。この湿原の恵みで俺たちは生きている。 しかし、湿原はもうひとつの顔をもっていた。敗戦直後、焼け野原の都会から人々が押し寄せた。水が豊かな湿原は良い農地になると、開墾を始めた。しかし、夏でも気温は18度。米は育たなかった。ならば畑と耕したが、湿原の水は抜けなかった。まもなく、開拓者の7割がこの地を去り、不毛の大地のレッテルが貼られた。 10年が経った。湿原脇のぬかるんだ道を走る車があった。たびたび脱輪した。積荷は小麦粉。乗っていたのは林田恒夫、当時26歳。釧路で小さなパン屋を営んでいた。林田は2年前まで東京でサラリーマンをしていた。しかし、家業を継げと呼びもどされた。待っていたのは、5人の幼い弟たち。ひたすら働く毎日。俺はついてないと思った。真冬のある日、配達途中の林田、突然車をとめた。道端に純白の鳥が舞い降りた。タンチョウ、地元の人々が湿原の神と呼ぶ鶴。幻の鳥といわれた。美しかった。 生まれてはじめて見た、白い鶴で。それで、しかも降りたとたんに、踊りがこうやりだしたんですよ。もう、あ、これが鶴の舞というものかと思ってね。 もっと知りたいと、町の博物館に足を運んだ。そこに生き物好きの地元の人々が集まっていた。その中心に、あの湿原を釧路湿原と名づけた男がいた。地元大学の田中瑞穂。湿原に棲むすごいものを見せてくれた。氷河期から生き残るキタサンショウウオ。世界で唯一ここに生きるエゾカオジロトンボ。幻の魚イトウもいた。そして、極寒の湿原の不思議な風景。ふるさとはすごい。林田はタンチョウの写真を撮り、月に一度の勉強会に参加した。張りができた。 しかし、5年後、日本を揺るがす計画が持ち上がった。列島改造。全国各地に産業基地を作る。候補地のひとつに釧路湿原があがった。まもなく国や道庁は30を超える開発計画を出した。湿原の海沿いを石油コンビナートや工業団地にする。釧路の町は沸いた。さらに山沿いの湿地は土砂で埋め、牧草地にする動きも出た。 ひときわ喜ぶ人々がいた。多くがこの地を捨てる中、留まった農民たちだった。その一人、中尾幹夫。田畑をあきらめ、酪農に賭けていた。幼い頃から三度の飯は、麦に蕗を混ぜた蕗ご飯。スカスカの飯に腹が減った。 牛も増やして、そして、機械もどんどん入れてね。かなりやれるなっちゅう、これはやっぱりチャンスだと思ってましたけどね。はい。 林田は農家の気持ちがわかった。タンチョウは気がかりだったが、配達ですら苦労する湿原。耕すことがどれほど大変なことか。 これは、むげに反対するっていうのが心情的にはできないなという思いでしたね。 そのとき、田中瑞穂がメンバーに言った。
「湿原の価値を証明するには科学的なデータをとるしかない。湿原に棲む生き物の生態を一種残らずに調査しよう。」
「俺がタンチョウを調べる。」
林田は真っ先に手をあげた。昆虫は、林業を営む飯島一雄、植物は、博物館の臨時職員新庄久志が買って出た。
「魚は俺が手伝う。」
駆けつけたのは、地元漁師のあの土佐良範だった。湿原がなくなれば自分たちは生きていけない。 自分の生活がダメなるのわかって、黙っている人いないでしょ。 昭和46年夏、釧路湿原全域調査が始まった。挑むのは14人。緊張に顔が強ばっていた。奥地は人跡未踏の地。分け入った林田、泥をこぎ、道なき道を進んだ。そこでタンチョウの巣を見つけた。全体を撮影しようと、後ずさりした。次の瞬間、体が沈んだ。もがくとさらに沈んだ。それは、谷地眼、湿原に点在する底なし沼だった。 - プロジェクトの調査を阻んだ湿原、スタジオに再現しました。
- あの国土交通省などの協力を得ましてね、えー、国立公園以外のところからとってきたこの植物で再現してみたんですけどね。
- こうやって、間近でみると、起伏に富んでて、いろんな植物あるんですね。
- はい。
- ちょっと、じゃ、靴脱いで入りますよね。あ、ずいぶんゆるいですよ、水で。わ、あ、足がズブズブ引き込ま、あ、引き込まれますね。水田なんかよりずうっと柔らかい。
- その正体はね、実はこれなんですね。これ泥炭というものなんですが、草は枯れるんですけれども、寒さでこれ腐らないんですよね。繊維がこんなに残っています。これ植物ですね。繊維です。ですからね、これスポンジみたい。水をものすごく含んでます。泥炭というのは深い水の上にこう浮かぶようにできてるんですよ。谷地眼というのはこれが薄く滞積したところの下に5mも6mもの水深のある川とか池みたいなものがあるんですね。その中に踏み抜いて入ってしまうという。
昭和47年、底なし沼谷地眼にはまった林田、仲間に助けられた。その直後、恐ろしい光景を見た。放牧の馬が谷地眼に落ち、もがきながら死んだ。 |