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发表于 2008-4-11 12:38:36
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【二】
「……向こうに見えるのが、柳生の庄だ」
と、若者は指をあげた。
「そこを過ぎると、やがて月ケ瀬。もう一ト月も早うかえってきたら、山をうずめる梅の絶景が見られたろうが。……」
「伊賀は?」
と、若い女がきいた。
「伊賀国は、月ケ瀬からほんの一ト足。もっとも|鍔《つば》|隠《がく》れの谷へは、まだだいぶあるが」
奈良から五里ちかく来たであろう。伊賀へゆく街道――いわゆる伊賀路を、もつれ合う二匹の蝶みたいにあるいてゆく一組の男女があった。
二匹の蝶のように――といったが、たしかにふたりの歩き方はおかしい。街道に人影がみえないと、ふたりは蟹みたいに横に歩くのだが、それが、歩くというより、ながれるように早い。かと思うと、ふいに|草鞋《わらじ》に|膠《にかわ》でもくっついているように重い足どりとなる。そんなときは、どちらかが深い思案顔だ。
この歩行の変化は、絶えず見張っている人間でもないかぎりだれしも気がつかないがときにふたりが路傍の草に腰を下ろして休んでいるとき、その前を通りかかった旅人は、たいてい瞳を吸いつけられてしまう。
|風《ふう》|体《てい》も異様だ。男はよもぎみたいな頭をして、きもの、たっつけ袴もぼろぼろだが、刀をさしているところをみると、これでも武士――郷士か|素《す》|牢《ろう》|人《にん》とでもいうべき姿だが、通りかかったものが女なら、思わず吐息をもらしてしまう。
バサと垂れさがった髪の下の瞳は、女にとって酔うような精悍な光芒を|燦《さん》とはなって、それにもかかわらず頬の線は少年みたいに純潔で、ういういしい。もっとも、年も|二十《はたち》をわずかに出たくらいのところであろう。一言でいえば、青春美の結晶だ。
女は、これまた塗りの|剥《は》げた|市《いち》|女《め》|笠《がさ》をかぶり、きているものも風雨に洗い|晒《さ》らされたようだが、その顔を一目みた男なら、これは口の中でうめいてしまう。
夢のように優雅な眉に比して、唇は野性と肉感にぬれている。そんな身なりなのに、身のこなしにふしぎな|妖《よう》|艶《えん》さがただよっているのだ。ただし、これは男より一つか二つ年上かもしれない。
「伊賀へゆくのは、やはりわたしは恐ろしゅうございます」
と女がいった。このとき、その足は鉛のように重くなっていた。
「そなたが恐ろしがることはない。こわいのは、おれの方だ。……さぞ、服部の|伯《お》|父《じ》|御《ご》に叱られるのだろう。叱られるだけではすむまいが。――」
男も、ふとしょげかかったが、すぐに例の精悍な眼をあげて、
「それでも、おれは伊賀へ帰りたい。いや、帰らねばならぬ」
そして、まっしろな歯を見せて、ひたと女の手をにぎりしめた。
「|篝火《かがりび》、いまさらなにをためらう。もとは遊女とて――遊女でありながら、一年吉野に籠って、むごたらしいまでの忍法の修行にたえたそなたではないか。もはやそなたも、鍔隠れの女として、だれに恥じることもない。その修行の話をきいただけで、鍔隠れの人々はみなおれたちをゆるし、そして|双《もろ》|手《て》をあげて迎えてくれるだろう」
――男は、|笛吹城太郎《ふえふきじょうたろう》という。
伊賀に鍔隠れという谷がある。平家の|末《まつ》|裔《えい》にして代々伊賀の一豪族たる服部家の支配下にある忍者の部落だ。彼はそこに生まれた忍者であった。
一年前、笛吹城太郎は、一族の首領服部半蔵に一つの用を命じられて堺へいった。そのとき彼はふと堺で名高い|傾《けい》|城《せい》町|乳《ち》|守《もり》の里に迷いこんで、そこで乳守第一とうたわれた遊女と相知ったのだ。
――女は、篝火という。
天下の貴人、豪商、風流人をあつめる堺の港町で、それらをふくめあらゆる男性を悩殺した傾城と、野生の精のような山岳の子と、そのあいだにどんな妖しい火花がとびちったのか。――とにかく、篝火太夫と笛吹城太郎は、手に手をとって駆け落ちした。
乳守の里から追手が出たが、ふたりはついに見つからなかった。見つからないのは当然、ふたりは吉野の里――人跡もまれな山中にひそんでいたのだ。
たんに追手の眼をくらますためばかりではない。城太郎が篝火の手をひいて吉野の奥へかくれたのにはべつにわけがあった。彼は篝火をつれて、すましてノコノコと伊賀へかえるわけにはゆかないのだ。第一に彼は首領に命じられた用件を捨てている。第二は、彼は一族の意向もはからず、勝手に――こともあろうに、遊女をつれて逃げている。
伊賀の忍者――とくに鍔隠れの谷の掟は鉄のように|勁《けい》|烈《れつ》なものであった。この掟には、一族のものすべてが血判をおして誓っている。これを「鍔隠れ連判」という。
その掟の条々の中に――
「鍔隠れの者、他国他郡の者をひきいれ、自他の跡望む|輩《やから》これあらば、親子兄弟によらず一族同心成敗|仕《つかまつ》り候こと」
という明文がある。他国者との自由結婚など、とんでもないことだ。
けれど、恋の炎は、ふたりの前からあらゆるものを燃やしつくした。吉野の花、青嵐、紅葉、雪に彩られたふたりの愛のすがたはというと一幅の絵になるが、少なくとも世のつねの絵にはならぬほど、それはむしろ凄壮をきわめたものであった。
女は、堺で、どんな男でも地獄におとすとうたわれたほどの嬌艶無双の篝火であった。男は、それまで童貞で、しかも、みずから知らずして、あらゆる女を狂わせるに足る魔力をもった若い忍者であった。むしろ、地獄におちたのは篝火の方であったろう。
しかし、吉野の山中で、ふたりはただ恋におぼれ、愛欲に身をこがしていたばかりではない。笛吹城太郎は、篝火に忍法を指南した。――
それは、いつの日か伊賀へ帰るための準備であった。彼は鍔隠れの谷を忘れてはいなかったのだ。彼女を一個の忍者にしたてあげたら、あるいは谷の一族も、篝火をけなげな花嫁として受け入れてくれるかもしれない。まだ子どもっぽいところのある城太郎のえがいた夢だ。
それに、篝火が服従した。無惨ともいうべき修行に、象牙の箸と銀の椀しか持ったことのないこのたおやかな傾城が耐えぬいた。忍者の妻たらんとする一念以外の何物でもない。
一年たって、吉野に花が咲いた。城太郎は伊賀へ帰ろうといい出した。篝火の忍法修行に満足したためではない。一族が受け入れてくれる確信があったわけではない。ただ、|童子《わらべ》のような、伊賀恋しさの望郷の炎に吹かれて思いたったのだ。
――そしていま、彼らは、吉野を下り、春たけなわの大和路を旅して、伊賀路をいそぎつつある。――
いや、いそいでは来たのだが、現実に伊賀へちかづいてみると、ともすればふたりの足はためらう。
無断|逐《ちく》|電《てん》の罪。自由結婚の罪。――鉄のような忍者一族の掟「鍔隠れ連判」。
それを思って、笛吹城太郎のひたいに|惑《まど》いの翳がさせば、篝火の瞳にも恐れのさざなみがゆれる。
「城太郎どの」
また、篝火がいった。
「わたしは心配でなりませぬ」
「なにを、いまさら」
「鍔隠れでは、ほんとうにわたしをあなたの妻としてゆるしてくれるでしょうか」
「どんなことをされても、ゆるしを請う。ゆるしてもらわずにはおかぬ」
「いいえ、わたしの忍者としての修行を」
そして彼女は、ちらと街道の一方を見あげた。
大和平野も、このあたりになると山が迫ってくる。もっとも、山というより、なだらかな丘陵の連続で、それに茶畑があり、ところどころ山桜が咲いている。|鄙《ひな》びてはいるが、雅味があり、気品がある風景であった。
「城太郎どの、おねがいです。もういちどここで指南して下さい」
「ここで?」
「伊賀へ入るまえに、もういちどわたしの教えられたことを、修練してみたいのです」
「その気はわかるが、もはや、ありのままの篝火を見てもらうしかあるまい」
「でも」
篝火は、丘の一つを覆う大竹藪へ、|風鳥《ふうちょう》のように駆けのぼっていった。やむを得ず、城太郎もあとを追う。
春光を|黄金《き ん》の|斑《ふ》のように浮動させている竹藪であった。その|端《はし》に篝火は立って、城太郎をふりかえって、にっと笑った。
経歴のみならず、事実においてもあねさま女房で、ふだんは城太郎の方が甘えかげんのところがあるが、忍法修行のときだけは、立場が逆になって、世にもいじらしく、可憐なものに思う。――城太郎は思わず返そうとした笑いをおさえて、厳然たる眼になった。
篝火は身がまえた。いや、その姿勢になんの異常もないのに、全身の肌が寒風に吹かれたようにそそけ立った。
「忍法、三日月剣」
祈るがごとくつぶやいて、そのまま彼女は歩み出した。小暗いまでに密生した大竹藪の中へ。
ふつうの人間なら、まっすぐに進むことはむろん、よけてもよけきれぬ竹林の中を篝火はスタスタと草原をゆくように歩む。ただ、風でも出たように、ザ、ザ、ザーッと上の方で竹藪がゆれはじめた。
きっと眼をすえてすすむ篝火の両腕はダラリと垂れているかにみえるが、しかし注意して視線をそそぐと、そのふたつの|掌《て》はピンと外側に反ってしかも断続的にそれが魚鱗のようにひらめくのに気がついたであろう。すると、その前にある竹がわずかにかたむき、彼女の一方の足がヒョイとその竹を煙みたいに通りぬけるのだ。そのあとで、地上三尺あまりのところで、竹が輪切りになってストンと地におちる。そして上方の藪が、波みたいにさわぎはじめる。
新月のように反った篝火の|繊《せん》|手《しゅ》のひらめくところ、竹はスッと切断される。もう一方の篝火の腕がそれをおしのける。三尺の高さに切り口をみせた竹の上を、彼女はまたいで通る。――事実の順序はこの通りだが、彼女の速度は常人と変わらないし、見ていると、まるで篝火の前の竹が、じぶんの方から身をよけて、この美女の|蓮《れん》|歩《ぽ》をよろこび迎えているかのようであった。
忍法「三日月剣」――白魚に似た篝火の掌は、一瞬、鋭利な手刀と変じる。が、十数本の竹を切ったとき、淡い紅色の虹が、霧みたいに吹き散った。血だ。
「――よしっ」
いまようやく、その背後で、切られた竹が左右からたおれかかり、交差しはじめた下を、むささびみたいに駆けぬけていった笛吹城太郎は、篝火に追いつくと、折れよとばかり抱きしめた。
「みごとだ。立派なものだ」
抱きあげて、もどりながら、頬ずりする。篝火は笑いながら、傷ついたじぶんの掌を、城太郎の口へもってゆく。城太郎は、それをしゃぶって、血をぬぐいとってやる。
そしてふたりは、血と火の匂いのする口づけをした。――それは、青い竹林を城太郎の足が出るまでつづいた。
藪を出て、明るい陽光が顔にさしたとき、城太郎の胸の中で、篝火は眼をひらいた。
「城太郎どの」
夢みるような声だ。
「伊賀へ帰って、もし――ほかの|女《おな》|子《ご》と祝言せよといわれたら、どうなさる」
「ば、ばか。そなた、そんなことをいままで考えていたのか」
「ね、答えて」
城太郎の純潔で、しかも女を吸引する眼がかがやいた。
「返答は一つしかない。おれにとって、女は未来永劫、世界じゅうにそなたひとりしかない」
「お誓いなさるかえ?」
篝火の眼もぬれたようなひかりをはなった。
「一生、笛吹城太郎は、篝火のほかに女を断つとお誓いなさるかえ?」
「誓う!」
城太郎は大きくさけんで、ほがらかに笑った。
「おれと、そなたと連判しようか。鍔隠れ連判よりも|厳《おごそ》かな、めおと連判!」 |
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