咖啡日语论坛

 找回密码
 注~册
搜索
查看: 11914|回复: 105

[好书推荐] [山田風太郎] 忍法帖系列 おんな牢秘抄

[复制链接]
发表于 2008-4-30 09:08:48 | 显示全部楼层 |阅读模式
  目 次
 お奉行さまとその姫君
 新入り
 玉乗りお玉
 紅蜘蛛
 女囚巷に出る
 自身番異変
 蜘蛛を売る浪人
 色指南奉公
 江戸の袈裟御前
 死顔の蝋兵衛
 生ける埋葬
 生首変化
 怪異山伏寺
 五つの予言
 五たび血をながせ
 娘占い師
 八卦見八卦知らず
 世は|情浮名《なさけうきな》の横町
 |百足《ひゃくあし》あるき
 冥土の呼び声
 紅無垢鉄火
 おんな牢酒盛
 振袖女郎
 丁字屋心中
 夢竜初見世
 闇中問答
 江戸の何処かで
 蓮ッ葉往生
 山屋敷界隈
 無作法御免
 エホバの|剣《つるぎ》
 三日のうちに
 |小《こ》|筐《ばこ》の中の修道尼
 竜の目ひらく
 女人斬魔剣

[ 本帖最后由 bgx5810 于 2008-8-17 18:38 编辑 ]

本帖子中包含更多资源

您需要 登录 才可以下载或查看,没有帐号?注~册

x
回复

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2008-4-30 09:09:29 | 显示全部楼层
    お奉行さまとその姫君

     一

 |甍《いらか》を吹く春風に花びらがまじっているから、まるで花見の仮装人物が浮かれこんできたようにもみえるが、それにしては場所がちとおかしい。
 表門の鉄金具もいかめしい|数《す》|寄《き》|屋《や》橋内の南町|奉行所《ぶぎょうしょ》である。
 そのなかを、文金高島田の武家娘と、|乞《こ》|食《じき》男があるいている。武家娘――とはいったが、その髪にきらきらひかる|蒔《まき》|絵《え》の|櫛《くし》、花かんざし、稲妻あられの|振《ふり》|袖《そで》に|金《きん》|襴《らん》の帯――まるで芝居に出てくるお姫さまのようだ。が、おかしいのは、その姿よりもその言葉で、
「|大《おお》|番《ばん》|屋《や》から、すぐ|小《こ》|伝《でん》|馬《ま》町へぶちこみゃいいのに、ああ、めんどくさい。これからお奉行さまのおしらべとなるのかい」
「うるさい。うぬごとき、お奉行さまのお手をわずらわすことがあろうか。これから|入《じゅ》|牢《ろう》証文をとって、望みどおり、すぐ小伝馬町へたたきこんでくれる」
 と、乞食は、|醤油《しょうゆ》いろの|頬《ほお》かぶりの中から|叱《しか》りつけた。
「これ、とっととあるけ」
「いたい、そう十手でこづかなくたっていいじゃあないか」
 と、つきとばされたように足をはやめる娘に、さっと|花《はな》|吹雪《ふぶき》が吹きつける。庭の桜の大樹は、いままっ盛りであった。――その木蔭から、そのとき宙へひとすじの|縄《なわ》が舞いあがったかと思うと、するするとのびてきて、生物のように巻きついたのは、娘ではない。――乞食の方である。
「やっ、だれだ?」
 乞食は|驚愕《きょうがく》して身をもがきながら、ふりむいてさけんだ。木の蔭から、だれか笑う声がした。泉のような、美しい、若々しい、ふくみ笑いである。
「やい、出て参れ、いたずらにもほどがある。出てこぬと、そのままにはすておかぬぞ」
「小伝馬町の牢にお入れかえ?」
 桜の下から出てきた人の姿をみて、乞食はまえよりいっそう|狼《ろう》|狽《ばい》した。
「あっ、これは――お嬢さま」
 あわてて頬かぶりをとろうとしたが、縄が手にからみついているので思うにまかせず、そのままの棒みたいな姿勢でおじぎをした。……五、六歩はなれたところにいた例のあやしいお姫さまも、眼をまるくして見つめたきりだ。
「なんて|恰《かっ》|好《こう》なの、|主《もん》|水《どの》|介《すけ》、その姿じゃあ、ちょっと|捕《とり》|縄《なわ》をなげたくなるわ」
 笑ったのは、やはり武家娘だが、いまの桜が精となってあらわれたかともみえる、まるで|曙《あけぼの》に|匂《にお》うような清らかさだ。
 乞食にまきついた縄をときながら、
「でも、たいへんねえ、せっかくいい男前がそんな恰好までして……同情するわ」
「お嬢さま、お奉行所へおいでなされましたは、何用でござります」
 乞食は、頬かぶりをとった。頬に泥だか|煤《すす》だかをぬっているが、なるほど顔だちりりしい若侍だ。眼がきびしくひかって、
「ここはあなたのおいであそばしてよいところではございませぬ」
「父上さまにお話があるの」
「お奉行さまに?――しかし――」
「父上さま、ここのところ、ずうっと、十日ちかくもおかえり下さらないんですもの」
「何か、いそぎのお話でござるか」
「いそぎもいそぎ、大いそぎ」
「それは一大事、――いったい、いかなる――?」
「主水介との祝言よ」
 主水介は、あっと口をあけたまま、二の句がつげられなくなってしまった。
 奉行秘蔵の同心、|巨《こ》|摩《ま》|主《もん》|水《どの》|介《すけ》とこの姫君は、いつのころからか、たがいに恋しあう仲となってはいたが、身分がちがい、彼はつらい心であきらめている。――ところが、このお姫さまの方は、いっこうにあきらめないのだ。お奉行さまが「じゃじゃ馬娘」と苦笑するその活溌な性質を発揮して、だだッ子のごとく父にねだってやまないのである。それどころか、御用繁多で父が帰宅しないと、じぶんから奉行所までおしかけてきたとみえる。――主水介は赤面した。
「おやめなされ、女だてらに!」
 思わずさけんだ。姫君はあどけない顔で、
「じゃあ、主水介、おまえが言ってくれる?」
「ぷっ、とんでもない!」
 主水介は、姫がまだお奉行さまに|逢《あ》ってはいないことを知って背に|安《あん》|堵《ど》の冷汗をながしながら、しかし真剣な、深刻な顔をしていった。
「いいかげんになさらぬか。お奉行さまは、ただいま容易ならぬ大事件に、日夜骨身をおけずりあそばしてござる。色恋どころの|沙《さ》|汰《た》ではありませぬぞ!」
 姫君は口を愛くるしくとがらせて、何かいおうとしたが、そのとき、
「まったくだ、みちゃあいられねえや」
 と、つぶやいた声にふりむいた。さっきの伝法な、へんな姫君が、にくにくしそうにこちらをにらんでいた。
「主水介。……容易ならぬ事件って、このひともそう?」
 主水介は吐き出すようにこたえた。
「いや、これはとるにも足らぬこそ|泥女《どろおんな》めにござります。わざわざ拙者の手にかけるほどの女ではありませぬが、|隠《おん》|密《みつ》|廻《まわ》りの拙者の|草《ぞう》|履《り》の緒にひょいとひっかかってきた次第にて――」
「やいやい、なにをいってやがる。泣く子もだまる八丁堀の鬼同心、巨摩主水介が逆にいままでなんどあたしのために地だんだふんで泣かされたか、勘定してやろうか」
 と、女は満面を|牡《ぼ》|丹《たん》のように染めていきりたった。
「そのとんまかげんがふしぎでならなかったが、いまやっとわかったよ。お奉行所で、こんなすッとんきょうな娘といちゃついていちゃあ、いかれてくるのァあたりまえだ」
「だまれ、この無礼者、お奉行さまの御息女に、な、な、なんたる――」
 巨摩主水介は|周章狼狽《しゅうしょうろうばい》して、
「うぬ、ゆけっ」
 と、十手で女の腰をうった。
「待って」
 と、ほんものの姫君の方が声をかけた。十手でうたれて、苦痛に顔をしかめつつ、なおまけぬ気をみせてひかる女の眼を、おそれげもなくじっと見入って、
「可哀そうに」
 と、姫君はつぶやいた。
「あたしと、みたところ年もちがわないのに――」
「おまえさん、お奉行さまのお嬢さまだって?」
 女賊は憎悪のために、しゃがれ声を出した。
「へん、しゃくにさわるほど|倖《しあわ》せそうな|面《つら》をしてるじゃないか。しかし、どっか、ぬけてるねえ。人間、あんまり倖せだと、妙に顔がぬけてくるものさ」
「こやつ、ぶッた|斬《ぎ》るぞ」
 主水介は発狂したような声をあげてとびかかろうとした。
「お待ち」
 と姫君はいった。
「このひとのいうことはほんとうよ。あたし、どっかまがぬけてるわ」
「何を仰せられる」
「だから、あたし、父上さまや主水介がふだん苦労してつきあってる利口なひとたちがどんなひとか、まえからいちど見たい、知りたいと思っていたのです。……あたし、ちょっとこのひとと、お話がしてみたいわ」
 姫は童女のように無邪気な好奇心にかがやく|瞳《ひとみ》をむけて、
「あなた、なんて名前?」
「姫君お|竜《りゅう》」
「そう。あたしは|霞《かすみ》。よろしく」
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2008-4-30 09:10:02 | 显示全部楼层
     二

「ね、あなたは、どんなわるいことをしたの? お話によっては父上さまにあやまってあげるから」
 こういわれて、姫君お竜はまじまじと霞の顔を見つめていたが、やがて肩をゆすって、
「おふざけでないよ、お嬢さん、子供のいたずらじゃああるまいし」
 と、舌うちをした。
「見そこなっちゃあいけない。これでも姫君お竜といえば、夜のお江戸でちったア人に知られた女だよ。あたしのやったこと、やってることをぜんぶお|白《しら》|州《す》で申しあげたら、お奉行さまの|胆《きも》ったまが二、三度宙がえりをして――」
 といいかけて、
「あわわ! いけない! うっかりうまくひッかかるところだった。さすがはお奉行さまのお嬢さまだ。甘ったるい声で、ひとにかまをかけるのは堂に入ってるじゃあないか」
 と、口をおさえて、毒づいた。主水介は|爛《らん》と眼をひからせて、
「うぬにかまをかけるほど、奉行所はひまではないわ。ふむ、きいた風なことをぬかしたな、よし、うぬこそ二、三度宙がえりさせて、泥を吐かしてやろう。……お嬢さま、おひきとり下されい。かような女、言葉をかわされては、お口のけがれとなりまする」
「そう、それじゃあ、父上さまのところへいって、あのお話をしてみるわ」
 主水介は顔色をあかくしたり、あおくしたりして、
「ま、待って下され、その儀ばかりは――」
 と、あわてふためいた。
「じゃあ、ここでこのひとと、もっとお話ししていいわね」
 主水介は絶句したままだ。霞はにこにこしてむきなおって、
「ね、あたしは奉行の娘ですけれど、奉行ではありません。娘です。そして、あなた、おなじような娘が、どうしてそんなわるいひとになるのかわからないのよ。へんだと思うわ」
「へんなのは、おまえさんのあたまだよ。そりゃあね、お武家も江戸の町奉行になるほどの御大家に生まれて、|乳《おん》|母《ば》|日《ひ》|傘《がさ》で育てられりゃあ、おまえさんのようなノンビリしたお嬢さまにもなるだろう。あたしみたいに、おぎゃあとこの世に出てくるまえに、おやじが|盆《ぼん》|茣《ご》|蓙《ざ》の|喧《けん》|嘩《か》で死んで、七つのときにおふくろが、家主に身をけがされて首をつって――」
「…………」
「育ててくれた|叔《お》|父《じ》が、あたしがまだ十五というのに|狒《ひ》|々《ひ》みたいな金持ちの|爺《じじ》いに|妾《めかけ》に売りとばして――」
「…………」
「その|倅《せがれ》がまたさかりのついた馬みたいな奴で、あたしにへんなまねをしやがるから、横ッ面をはりとばしてとび出したが、ゆくさきがないから、夜、雨のなかをほっつきあるいてたら、酔っぱらいの折助どもにつかまって念仏講をやられてよ。あとはもうめちゃくちゃさ」
「柳原の土手で|夜《よ》|鷹《たか》に立ってたのをひろってくれた親切な男に、生まれてはじめてあたしから|惚《ほ》れていたら、こいつが泥棒ときてやがる」
 いつのまにか、お竜の頬になみだがつたわっていたが、ふとじぶんをじっと見つめている霞のつぶらな眼に気がつくと、
「あ、むだなおしゃべりをしてしまったね! おまえさんの眼は、へんな眼だ。ふらっとひとに、何もかもおしゃべりさせちまうよ。でも、いっても、ほんとにみんなむださ。さあ、ひょうろく同心、棒みたいに立ってないで、さっさとどこへでもひっぱっておゆき」
「ちっともむだじゃあないわ」
 と、霞はひくい声でいった。顔にいたましげな感動が、いっぱいにあふれ出ていた。
「やっぱりあなたはわるくはないじゃあないの」
「…………」
「わるいのは、男ばかりじゃあないの」
 たまりかねて巨摩主水介が声をかけた。
「お嬢さま、|女狐《めぎつね》めの巧言にたぶらかされては笑いものでござりますぞ。ひかれ者の小唄に泣きごとがまじるのは、事珍らしゅうございませぬ。さ、参れっ」
「主水介、それでおまえは、なんの罪できょうこのひとをここへつれてきたの?」
「万引でござる。武家娘に化けて、日本橋の小間物屋で、|玳《たい》|瑁《まい》の|櫛《くし》を――」
「つかまったなら、とらなかったわけね」
「それで罪がきえるものではござらぬ。ましてや――先日も、おなじ姿でまんまと|珊《さん》|瑚《ご》|珠《じゅ》のかんざしを盗み去り、あとでさてはと気がついて、店の方で手ぐすねひいて待っていたところ、味をしめたこやつが、またぬけぬけとやってきて、ふたたび万引をしようとするところをおさえて、番屋につき出したものでございます」
「その珊瑚珠のかんざしはいくら?」
「二十五両という高価なものでござるとのこと」
「それはあたしが払ってあげるから。ゆるしておやり」
 主水介はあきれたように霞をみたが、すぐ憤然として、
「それは相成らぬ!」
「どうして?」
「どうして、と申して――ゆるすか、入牢いたさせるか、裁きをつけられるはお奉行さまでござる。ただいまお嬢さまも、わたしは奉行の娘であって奉行ではないと申されたではございませぬか」
「ああ、ほんとうに!」
 と、霞はびっくりしたように眼を大きくした。
 それで、やっとこの世間しらずのじゃじゃ馬娘をとりしずめたと思っていたら、
「それじゃ、これから父上さまにおねがいしてきてあげるから、心配しないでまっててね」
 と、お竜に笑顔でうなずいてみせたから、主水介はまた大狼狽した。ひとりでゆかれて、奉行にまたあの話をもち出されてはたまらない。
「あいや、お待ち下さい。拙者もお奉行さまに|御《ご》|下《げ》|知《ち》をねがうことがござれば、御一緒に参らせて下さりませぬか。ともかく、いま、しばらく御猶予を――」
「まあ、主水介といっしょ、それならいっそう勝手がいいわ」
 と、霞は眼をかがやかせる。主水介はゲンナリしながら、
「では、お嬢さま、ここにおいでなされませ。さきにゆかれてはなりませぬぞ」
 と、念をいれておいて、あらあらしく姫君お竜をひったてていった。
 春光のなかに無数の|蝶《ちょう》のようにちる花の下に、霞はじっとあとを見おくって立っている。
「可哀そうだわ。……ほんとに可哀そうだわ……」
 と、なんどもつぶやいた。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2008-4-30 09:10:31 | 显示全部楼层
     三

 お奉行さまの|鬢《びん》には、そろそろ白いものがまじりかけていたが、顔はゆったりとふとって血色もよく、山積する書類を読み、書き入れ、割印を押してゆく手さばきには、機械のような正確さと、|絶《ぜつ》|倫《りん》の精力があった。――しかし、机上の書類とはべつに、よほど案ずることでもあるらしく、ときどき筆をやすめて、ものうい春の昼下りの庭になげる眼には、疲れでもなければ放心でもない、暗い、むずかしい思考の沈潜がみられた。
 ――無意識的にまた筆をとって、|反《ほ》|古《ご》のうらに、
「|山内伊賀亮《やまのうちいがのすけ》」
 と、かく。その名を三度かいたとき、
「お奉行さま」
 と、|襖《ふすま》の外で呼ぶ声がした。あわてていまかいた名を墨でぬりつぶしながら、
「だれじゃ」
「|巨《こ》|摩《ま》主水介でござります」
「入れ」
 とこたえたまま、ふりかえりもしなかったが、入ってきた人間が、うしろに坐って、妙なふくみ笑いをたてたので、はじめて首をまわして、眼を大きく見ひらいた。
「霞」
 両手をつかえたまま、娘がいたずらそうに笑っていた。その向うに、巨摩主水介がかしこまっている。泥や|煤《すす》をあらいおとし、|凜《りん》とした黒紋付の同心すがたにもどっているが、困惑しきった表情だ。
 お奉行さまはなおじぶんの眼をうたがうようにまじまじと娘の姿をみていたが、おどろきのあまり、かえってしずかな声で、
「霞、なんの用があって奉行所へ参ったか」
「おねがいがあるのです、父上さま」
「公用か」
「私用です」
「たわけっ」
 と、父は叱った。家では|曾《かつ》てみせたことのない|峻厳《しゅんげん》な声だ。さらに何かはげしい言葉を吐こうとして唇をふるわせたが、やがてまたおだやかな顔色にもどって、
「私用ならば、私宅できく。霞、かえれ。――主水介、おまえもいかがいたしたか、かようなものを案内して参るとは」
「いいえ、あたしが勝手におしかけてきたのよ、お父さま、主水介を叱らないで」
「霞、一刻も早う、ここを立ち去れ。ここは天下の公事をあつかうところ、去らねば法に照らして|仕《し》|置《おき》をいたすぞ」
「それじゃあ公用です」
「公用?――霞の公用?」
 父は、ちょっと笑いかけた。おさえようとしておさえきれぬこの|天《てん》|衣《い》|無《む》|縫《ほう》の娘への愛が、ちらと一瞬のぞいたが、すぐ仮面のような謹厳な表情にかえって、
「申してみい」
「きいて下さいますか」
 霞は生き生きと身をのり出して、
「いまね、そこで、この主水介がつかまえてきた泥棒の女のひとに|逢《あ》ったのです。話をきいてみたら、ほんとにきのどくなのよ。生まれといい、育ちといい、泥棒にでもならなけりゃ生きてゆけない事情だったらしいの。わるいのは、あのひとをそんな風にさせた男たちだと思うのよ。あたしね、女のひとで|牢《ろう》に入るようになるのは、よくよくのことだと思うわ。よく調べたら、罪をうける女たちは、ほんとうは同情された方がいいひとが大半じゃないかしら。お父さま、ね、よく調べてあげて、そう思ったら、かんにんしてやって下さらない?」
「霞」
 と、父はおさえた調子でいった。
「おまえの他愛なさ、|頑《がん》|是《ぜ》ないまでの無邪気さは、ひとは何とでも申せ、父は愛らしいと思う。尊くも思うことすらある。じゃが、それは家庭の中に|於《おい》ての話だ。ここでは、その無邪気さはとおらぬ。気まぐれの慈悲はとおらぬ。人の性は善であるか、悪であるか、それは見るひとの眼によってちがおうが、わしは、かなしいかな、性悪説にかたむく。人間には、たしかに悪人がおる。女にも悪人がおる。悪人ならば、女とて、かんにんはならぬ」
「それは、|或《ある》いは父上さまのおっしゃるとおりかもしれませぬ」
 と、霞はいって、ちょっと小首をかたむけた。
「でもね、それを裁くとき、公平だとお思いになっても、知らないで不公平になることがありはしないかしら――こんな世の中ですもの」
「こんな世の中、とはなんじゃ」
「男がつくった世の中です」
「な、なんと申す」
「天下のお仕置は、みんな、荒々しい、かた苦しい、もののあわれを知らぬ男たちがきめたことです。あたし、ずいぶん男の身勝手だと思うことがあるわ。それから、人の心をふみつけた、ばかばかしいきまり[#「きまり」に傍点]をつくったものだと思うこともありますわ。たとえば、男と女が、どんなにおたがいが好きになろうと――ちょっと家の身分がちがうと、縁組ができないなどと――」
 ちらっとうしろの巨摩主水介の方をながし眼でみたが、父は気がつかず、
「ばかめ、そういうきまりあってこそ、天下の|静《せい》|謐《ひつ》が保たれるのだ。じゃが、それがおまえの、女をゆるせというたわごと[#「たわごと」に傍点]のよりどころに相成るのか」
「そうです。いまの世の中では、女はいいこともできないかわり、わるいこともできません。女はじぶんからは、何もできないのです。――そんな女を裁くのにもし女が裁くなら、もっとちがったお裁きができるのじゃないかと思いますわ」
「女奉行か!」
 お奉行さまは笑おうとしたが、表情が凍りついていて、むしろ|憤《ふん》|怒《ぬ》の相に変った。主水介はじぶんのことのように恐れて、平伏したままおもてもあげられない。
「いわせておけば、何を申すやら――霞」
 と、さけんで、あらあらしく机の上の書類をかきまわしていたが、やがてその一部をぬき出して、霞のまえになげ出した。
「ものの例えとして見せる。霞、女のおまえがこれを裁いて、ゆるせるか」
 それは一連の調書であった。
「ここに罪を犯した六人の女がある。その|口《くち》|書《がき》じゃ」
 霞はとりあげて、ふしぎそうにそれをめくり出した。
 |昂《こう》|奮《ふん》のあまり、そんなことをしてからお奉行さまはちょっと後悔をおぼえ、といって、いまさらとりあげることもできず、いらいらと庭にしずこころなくちる花に眼をうつしたが、やがて辛抱しかねて視線をもどし、調書を熱心によんでいる娘のすがたに、ふだんの他愛ない娘ではない別人のようなへんな|靄《もや》がかかっているようなのに、ふっとその眼を大きく見ひらいたとき、
「この六人の女は?」
 と、霞が顔をあげた。
「ただいま、小伝馬町のおんな牢に入牢中じゃ」
 と、お奉行さまは厳然と、
「やがて、ことごとく打首にいたす。その裁きに、おまえは不服があるか?」
「もし、このお裁きがまちがっていたら?」
 という返事に、さすが温厚な父も――いや、一世の名奉行|大岡越前守《おおおかえちぜんのかみ》は、さっと顔いろをかえてにらみつけた。霞は、しかしいつも家庭で|花《はな》|生《いけ》でもひっくりかえして父ににらみつけられたときと同様に、あどけなく、にっこりして、
「父上さま、あたしの私用をきいて下さいますか? げんまん」
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2008-4-30 09:10:50 | 显示全部楼层
    新入り

     一

 小伝馬町の牢屋敷は、ぜんぶで二千六百十八坪あり、外廻りは土手と、忍びがえしをうちつけた二丈くらいの|総《そう》|練《ねり》|塀《べい》があって、その外側は掘割となっているという厳重なかまえだ。
 このなかに、お目見え以上の武士を収容する|揚座敷《あがりざしき》、お目見え以下の|揚屋《あがりや》、一般庶民を入れる|大《たい》|牢《ろう》、無宿者の二間牢、百姓牢、おんな牢――の六種の牢と、|拷問場《ごうもんじょう》、死刑場などはもとより、牢奉行|石《いし》|出《で》|帯《たて》|刀《わき》の居宅、同心詰所、そのほか役人たちの番所など附属の建物が、複雑な土塀によってくぎられ、はめこまれ、牢をめぐってあらゆるところに障壁が立ちふさがり、監視の眼がひかっている。
 牢屋敷の南側にズラリとならんだこれら、揚屋、大牢、二間牢にまじって、おんな牢があった。二間に三間というから、内部のひろさは十二畳くらいだろう。常時二十人前後の女囚があったという。――
 夜であった。もとより牢内に|灯《ほ》|影《かげ》はない。
 |闇《あん》|黒《こく》のなかで、あかん坊の泣き声がきこえた。乳のみ児をもった母親の場合、それをあずかってくれるものがなければ、いっしょに入牢させるのがならいなのだ。
「おお、よしよし、泣かないで、おねがいだから、坊や」
 と、母親がいっしんになだめあやすが、あかん坊はいっそう火のついたように泣く。乳が出ないのであろう。
「やかましいねえ、毎夜毎夜」
 老婆の声がした。
「どうせその子の星にゃケチがついてるよ。いまのうちくびり殺してやった方が、親の慈悲だよ。――」
 そのとき、だれかが「あ、見廻りだ。――」とつぶやいた。夜中二時間おきに牢屋同心が、|提灯《ちょうちん》持ちの張番と、拍子木をうつ雇いをつれて、夜廻りにあるく規則である。
 |牢《ろう》|格《ごう》|子《し》の外は、また格子になっていて、そのあいだのほそい通路を|外《そと》|鞘《ざや》というが、その外鞘をあるいてくる話し声がきこえたから、いま見廻りといったのだが、しかし拍子木の音はきこえなかった。
 格子の外に、提灯がとまった。
 ふつうなら、立ちどまっても、異常がなければすぐにゆきすぎてしまうところだが、それがいつまでもうごかないので、女囚たちはみんな格子に眼をやって、はっとした。まだ眠っているのを、手あらくゆりおこした女もある。
 三寸間隔にならぶ四寸角の牢格子のむこうに、灯におぼろおぼろと浮かんでいるのは、お|高《こ》|祖《そ》|頭《ず》|巾《きん》をかむった女の顔だった。いや、眼だけしかみえないが、大きな、まっくろな、よくひかる眼だ。
「主水介、あかん坊が泣いていますね」
「は」
 と、そばで、同心がうなずく。
「あかん坊まで、牢に入れるなんて、ざんこくね」
「身寄りのものがおらぬとみえます。……ときどき、こういう例はござる」
「可哀そうに、あたしがやしなってやろうかしら」
 これには、返事がなかった。女囚たちは、お高祖頭巾のあいだの好奇にかがやく|瞳《ひとみ》が、ふいにぼやっとうるんだかと思うと、キラキラとひかるものがあふれ出すのを見た。
「乳が足りないのだわ。張番とやら、重湯か何かつくってもってきておやり」
「罪人に、左様なことはかたく禁ぜられております」
「あかん坊は罪人ではありません」
 りんぜんとしていった。
「おとがめがあるなら、あたしが受けます。もってきておやり」
「はっ」
 そして、このふしぎな参観人は、しずかに去った。
 その|跫《あし》|音《おと》がきえると同時に、女たちのあいだに、波のような私語がわきあがったのはいうまでもない。だれだろう? いまの女性はいったいどういう身分のひとだろう?
 やがて、さっき命ぜられた張番が、|曲《まげ》|物《もの》に重湯を入れてもってきた。それをあかん坊にやるより、その母親は声をあげて泣きながら張番の手をつかんできいた。
「ね、いまの女の方はどなた?」
「あれは、お奉行さまのお嬢さまじゃ」
「えっ、大岡越前守さまの?」
 女たちのあいだにひろがった沈黙は、張番がいってしまってからもつづいたが、やがてまた老婆のむりにせせら笑うような陰気な声がながれた。
「ふん、いい御身分さね」
 牢|名《な》|主《ぬし》のお|紺《こん》である。胸に|天《かみ》|牛《きり》に似た赤い|痣《あざ》があるので、異名を|天《かみ》|牛《きり》という。――
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2008-4-30 09:11:08 | 显示全部楼层
     二

 一日おいて、このおんな牢に新入りがあった。
「南町奉行大岡越前守さまおかかりにて、武州無宿お|竜《りゅう》、十九歳」
 牢屋同心の声に、
「はい、おありがとう。――」
 と、天牛のお紺はこたえて、うしろをふりかえり、
「ほい、新入りだよ」
 と、声をかけると、ニヤリとして乞食の女房が立ちあがった。
 乞食の女房は、江戸市中の乞食の女房で、おんな牢|付《つき》|人《びと》といい、ふだんから予約してあって、一ト月交替で、女牢のなかに暮している。これが牢の外で、新入りの女囚をはだかにして、|法《はっ》|度《と》の品を身につけていないかどうかをしらべる。法度の品とは、|繻《しゅ》|子《す》、|縮《ちり》|緬《めん》、|羽《は》|二《ぶた》|重《え》、金銭、刃物などだが、これは一応の名目であって、黒繻子でも黒ぎぬといい、島縮緬でも島ぎぬといえば合格するし、刃物はともかく、金銀のたぐいは禁制品どころか、これを持ってこなければ牢内で半ごろしの目にあわされる。
 そうして乞食の女房の身体検査がおわると、新入りははだかのまま、着物に、帯、腰巻、草履などをくるんで「はいれ」という声で小さな戸前口を入ろうとするところを、うしろからドンと|蹴《け》とばされ、つんのめったあたまへ、牢内で待っていた女囚が、ぱっと獄衣をかぶせ、むき出しのお|尻《しり》をキメ板で、ピシャリピシャリとなぐりつける。――これがおんな牢新入生の受くべき|荘《そう》|厳《ごん》なる入学式だ。
 ところが、そのとき、声がかかった。
「あいや、乞食の女房、おまえの役はさしゆるす」
 ふしぎなことに、牢屋同心とならんでいるのは、|捲《まき》|羽《ば》|織《おり》の八丁堀同心であった。それが、異様にふるえる声でいったのだ。
「当|科《とが》|人《にん》は、とくに重大な一件の連類であるによって、さきほど|牢《ろう》|庭《にわ》火ノ番所に於て、われらがじきじきあらためた。もはやからだを調べることは無用である。なお、ちかく、いくどかお奉行さまおんみずから当牢屋敷に御出張あそばし、したしく御吟味に相成るはずであれば、牢内にて私刑その他禁を犯して科人のからだに傷などつけては、きっと|成《せい》|敗《ばい》いたすぞ」
 すると、新入りの女が笑った。
「おや、ひょうろく同心、いやに気をつかうじゃないか。ふふん、三尺たけえ木の上でお|陀《だ》|仏《ぶつ》にするとき、きれいなからだの方が見世物になるかえ?」
 そして、相手が口をもがもがさせているあいだに、
「はい、ごめんよ」
 と、声をかけて、さっさと戸前口をくぐって、ひとりで牢の中へ入ってきた。
 あっと、女囚すべてが息をのんだのは、その新入りの女の姿を眼前にみたときだ。それはあまりにさわやかな新鮮な美しさからであった。おそらく火ノ番所で、からだをあらためられたといったが、そのとき着かえさせられたのだろうか、彼女は純白のきものをきていたが、それはとうてい入牢者とは思われず、祭りか何かの儀式にえらび出された|神《こう》|々《ごう》しい処女のようにみえた。
 それが、三歩あゆんで、ふりかえって、愛くるしいあごをしゃくっていったものだ。
「おい、同心、役目がすんだら、さっさとゆきなよ。さっき、あたしをはだかにして、よだれをたらしていやがったが、あんまりいつまでも|食《くい》|意《い》|地《じ》をはるんじゃないよ」
 同心たちは、つきとばされたようにあるき出した。……女囚たちは、声もない。新入りの、顔に似合わぬあまりな不敵さに、きもをつぶしたのだ。
 同心がいってしまうと、天牛のお紺は、やっと女たちの驚嘆のひとみに気がついた。牢名主だけあって、彼女がまずわれにかえった。
「おい、新入り、名はなんというえ?」
「お竜ってのさ、お婆さん」
「お婆さん? やい、お名主さんといえ。こいつ、牢内の御作法を知らねえな。おい、本役、シャベリをきかせてやれ」
 |下《しも》|座《ざ》にすわっていた中年の女が、突然きんきん声で「シャベリ」はじめた。
「やい、|娑《しゃ》|婆《ば》からきやがった|磔《はりつけ》め、そッ首をさげやがれ。御牢内のお|頭《かしら》は、お名主さま、お隅役さまだぞえ。うぬのような大まごつきは、夜盗もし得めえ、火もつけ得めえ、|割《かっ》|裂《さき》のたいまつもろくにゃふれめえ。|櫛《くし》や|笄《こうがい》のちょッくらもちをしやがったか、まだまだそんなことじゃあるめえ。または堂宮、|金《かな》|仏《ぶつ》、橋々のかなものでもおッぱずしやがって、通り|古《ふる》|鉄《がね》買いへ、小安くおッ払いやがって二|文《もん》四文の読みがるた[#「がるた」に傍点]か、さつまいものくいにげか、かげま[#「かげま」に傍点]のあげ逃げでもしやがって、両国橋をあっちへこっちへまごついて、|大《おお》|家《や》につき出されてうせやがったろう。すぐな杉の木まがった松の木、いやな風にもなびかんせと、お役所で申すとおり、ありていに申しあげろ」
 これが新入りに対する訓辞である。
 お竜という女は、口をぽかんとあけて、シャベる本役の顔をみていた。すこしはこれでヤキが入ったか、と思って、ジロリと上眼づかいに見やると、お竜はいきなりぷっとふき出した。
「おもしろいわねえ。もういちどしゃべってちょうだい」
「な、な、なにを?」
 お紺の顔色がさっと変って、|物《もの》|凄《すご》い悪相になった。歯がカタカタと鳴るが、とみには口もきけない。――が、息をこらして見まもっている女囚たちを見まわすと、ニヤリとして、
「このすッとんきょうなあま、なんにも知らねえの。お姫さまみてえな|面《つら》アしやがって、へんな奴が入ってきたもんだ」
「ふふ、あたし、姫君お竜ってんだよ」
「へえ、姫君、なあるほど!」
 と、詰の隠居のぎっちょ[#「ぎっちょ」に傍点]のお|伝《でん》が思わずそういう嘆声をもらしたのは、よほど感にたえて胸におちたのだろう。お紺はにがりきった眼でお伝をにらみつけてから、
「お竜、いってえ何をしてここに入ってきやがった?」
「なあにたいしたことじゃない。|公《く》|方《ぼう》さまのお命を|狙《ねら》った一味でね」
 ケロリとしていったが、みんなあっと息をひいたまま、硬直してしまった。なるほどそれなら、本人が三尺たかい木の上で往生することを覚悟しているのも道理。――それにしても、まあこんな可愛らしい顔をした娘が? しかし、さっきたしか八丁堀の同心もふるえ声で、「当|科《とが》|人《にん》は、とくに重大な一件の連類であるによって」といったし、「お奉行さまおんみずから当牢屋敷に御出張あそばし、したしく御吟味に相成る」ともいった。
「く、公方さまのお命を狙ったって? そ、それはまあどういう――」
 と、さすがのお紺の声もわなないた。お竜は平然と、
「ききたいかえ? きかせてやってもいいけれど、かかりあいになるよ」
「いや、ききたかあねえ、そんな話は」
 と、お紺はあわてて、
「それより、おめえ、それほどの大罪人なら、さだめしつる[#「つる」に傍点]もたんまりもって入ってきたろう。みせな」
「つる[#「つる」に傍点]」
「金づる、お|銭《あし》さ」
「そんなものが御牢内で、なんになるのさ」
 しかし、地獄の|沙《さ》|汰《た》も金次第、というのがまさにそのとおりで、外界と隔絶された地獄なればこそ、その外界の甘美な匂いをたぐりよせるには、金の魔力以外にはなかった。牢番に金をわたせば、その四分の三をはねた残りで、酒でも菓子でもはこびこんでくれるのである。その仲介者をうごかすのに、他のものはいっさい役にたたないという点で、金が万能ということは、ふつうの世間以上徹底しているが、その金のもとはといえば、新入りから入手するよりほかに方法はない。
 のちに――幕末、彰義隊の精神的な首領ともいうべき上野東叡山の学頭に、有名な|覚《かく》|王《おう》|院《いん》|義《ぎ》|観《かん》という傑僧がある。彰義隊がやぶれたのち捕われて、この小伝馬町の牢屋敷に入れられたが、西郷にも百万の官軍にも断じて屈せず堂々とじぶんの信念を吐いてしりぞかなかったこの豪僧が、牢に|金《つる》をもってゆかなかったばかりに、十日もたたないうちに悲鳴をあげ、あわてて牢番をとおして、外から|金《かね》を入れてもらって命びろいをしたという話がある。|以《もっ》て、牢内がいかに別世界であるか、また金の力がいかに強大であるかがしれよう。
「ふざけやがるな」
 と、お紺は恐ろしい声を出した。
「おい、お竜、金はもってないのかよ?」
「同心にからだをしらべられたあたしが、そんなものをもってると思って? 一文もないわ」
 すました顔である。お紺は、歯をかみ鳴らした。牢屋同心なら、新入りが金を身につけているのを大目にみてくれるどころか、まわりまわって結局じぶんのふところへも入ってくる金だから、暗にその必要性をほのめかすくらいだが、八丁堀ならどうかわからない。とくにこれほどの大罪人なら、いままでの新入りとはわけがちがうかもしれない。
 と、|納《なっ》|得《とく》することは、承知したことではなかった。納得できれば、いっそうどうにもならない怒りにからだがひきつけそうになった。
「お名主さん、そんなに貧乏ぶるいして、たたみからおちるわよ」
 と、お竜は笑ったが、ふとその眼がお紺のすわっている畳にとまり、またぐるりとまわりを見まわして、
「おや、へんだわねえ。ひとりでたたみをかかえこんで、ちゃっかりしてるわねえ」
 といった。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2008-4-30 09:11:34 | 显示全部楼层
     三

 牢内にたたみは入れてあるが、その配給は公平ではなかった。
 牢には、男女をとわず|峻烈《しゅんれつ》な階級がある。名主を筆頭に、|曾《かつ》て入牢して名主をしたことがあるものを前官礼遇として隅の隠居、以下、詰の隠居、穴の隠居、一番役、二番役、三番役、四番役、五番役――と、このあたりまでを牢内役人といい、あとは|平《ひら》囚人だ。
 これらは食事だろうが、差入れだろうが、まず優先的にとりこんで、のこったおあまりを平囚人が分配する。のみならず、夜、昼、肩はたたかせる、足はもませる、それどころか、平囚人のなかに若くて美しい女があれば、露骨に、言語に絶する|淫《いん》|猥《わい》なサービスを強要する。これに不服をとなえ、反抗するものは、|凄《せい》|惨《さん》きわまる|私刑《リンチ》にかけられて、なぶり殺しにあうのがならいであった。
 いま、この牢内には二十二、三人の女囚がいるが、みたところたたみをしいているものは五、六人しかいない。しかも、牢名主のお紺は六、七畳つみあげたうえにすわっているのだ。あとの十六、七人は、あまった六|帖《じょう》くらいのひろさの板ノ間に、|雀《すずめ》おしにつめられているのだった。
「まあ、あかん坊をだいたひとまで板ノ間に坐らせて、夜もあかん坊を板ノ間にねかせるの?」
 と、お竜はきっとお紺をにらんだが、急にまたぷっとふき出した。
「お婆さん、おまえさんもそんなたかいところにとまってちゃあ、じぶんが苦しいだろう。ムリしないで、おりておいでよ。よく夜おちないで、腰の|蝶《ちょう》つがいをはずさなかったもんだ」
「く、くっ」
 と、お紺はうめいた。
「そのたたみを牢いッぱいひろげてさ、みんながそのうえに坐ってれば、おまえさんだってかえってらくじゃないか」
 そして、ひとりごとのようにつぶやいた。
「せっかくたたみを入れてやりながら、お――お奉行さまは、何をかんがえてるのかしら? 奉行所でもったいぶって、そッくりかえってばかりいてさ、いちどもこのなかをのぞいたことなどないんだろうねえ」
 天牛のお紺の|蒼《あお》|白《じろ》い顔は、ほとんど死灰のような色に変っていた。新入りが、こともあろうにお名主さまに文句をつける。ひともあろうにお奉行さまに不服をいう。なんたる|大《だい》それた奴だ!
「ううぬ。……」
 お紺は、非生物的なうなりをきしり出させた。絶対専制の君主が、革命の兵士に|刃《やいば》をつきつけられたような狂的な激怒に身をふるわせて、
「このあま[#「あま」に傍点]、さっきからだまってりゃあつけあがりやがって、と、と、途方もねえことをいい出しやがる。格子の外でなに様のお首を狙った奴かしらねえが、格子の内じゃそうはさせねえ。ここはお紺さまの御支配地だぞ。こんな乳ッくせえあまッ子にそこまでなめられちゃあ、おんな牢のしめし[#「しめし」に傍点]がつかねえ。やい、お|伝《でん》、お|熊《くま》、お|甲《こう》、お|勘《かん》、そいつをつかまえて、仕置をしろ!」
「合点だ! といいたいのはヤマヤマだが、お名主さん、さっき同心が――」
「ええ、さっき同心は、この女のからだに傷をつけるなといったろう。傷さえつけなきゃいいんだろ。なまじ傷などつけるより、もっとききめのある仕置があるんだ。おれのいいつけをきかねえか!」
 と、口から泡をふきながら、ガサガサとたたみのうえからはいおりてきた。
 牢内役人たるお伝、お熊、お甲、お勘の四人は、立ちあがって、|或《ある》いはしゃも[#「しゃも」に傍点]のごとく、或いは山猫のごとく、或いはかまきり[#「かまきり」に傍点]のごとく、ジリジリとつめ寄った。そのまんなかに立って、あきれたように口をあけているお竜の顔を恐怖の表情とみて、ほかの女囚たちは思わず眼をつむった。
 傷をつけない仕置――とお紺がいったが、みんなその例をみたことがあるのだ。いやじぶん自身に味わわされたこともあるのだ。四肢をおさえられたまま、へどをはくまでくすぐり責めをやられたり、口の中に汚物をつっこまれたり、さらにもっと悪どい、いやらしい拷問を、泣いてもわびてもきかばこそ、数刻にわたって執念ぶかくつづけられたり。――
 四人の女は、いっせいにとびかかった。
「あっ」と、さけんだのは天牛のお紺であった。
 姫君お竜のからだが沈んだかと思うと、白い手が旋風のようにまわった。同時に、四人の女は、|脾《ひ》|腹《ばら》をおさえて四方におよぎ、|悶《もん》|絶《ぜつ》していた。
「……なにしろ、将軍さまのお首を|狙《ねら》った女なんだからねえ」
 と、ケロリとした顔でお竜はつぶやいた。
 それから、女囚たちをふりむいて、
「さ、みんな立った立った、たたみを牢にしいて――」
 あやつり人形みたいに女たちがうごき出しても、お紺は恐怖の相をこわばらせたまま、うごかなかった。お竜はニコリと|笑《え》みかけた。
「お名主さん、その四人は気絶しているだけよ。たたみがしけたら、水でも顔にかけておやり」
 ――形勢はまったく逆転した。女囚たちは、実に恐ろしい新入りが入牢してきたことを認めたのである。
 しかし、これがそんなに恐ろしい女だろうか? 将軍の首をねらったと高言し、また四人の襲撃者をこともなげに悶絶させた手練をまざまざと見たにもかかわらず、お竜のあどけない顔をみると、それらは夢の中の出来事のようにしか思われないのだ。彼女はあかん坊をねかせるのに、やさしい声で子守唄をうたった。それはすべての女囚たちに、じぶんのための子守唄にきこえた。それから彼女はなお陰鬱にだまりこんですわっているお紺のそばへいって、他意のない笑顔で、
「お名主さん、肩をもんであげようか」
 と、いったものだ。そして、うしろへまわって、勝手にお紺の肩をもみながら、まるで祖母にたわむれる孫娘みたいな甘ったれた声で、
「あのね、あたし、ほんとをいうと、少うしお金をもってるの」
「…………」
「お金があると、牢の中でも買い物ができるの? おもしろいわね」
「…………」
「何を買おうかしら。お酒? お菓子?」
「…………」
「そうだ、花を買いましょう。ね、桜の小枝を――世の中は、いま桜の花のまっ盛りよ」
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2008-4-30 09:11:54 | 显示全部楼层
   玉乗りお玉

     一

 世間は花盛りだといわれても、信じられないくらい、牢の中はさむかった。
 おんな牢は牢屋敷の南側にあるが、それはつまり光の入る庭の方角は北側だということで、しかも二重格子にはさまれた|外《そと》|鞘《ざや》をへだてているために、光は冬のごとく|蒼《あお》く、乏しい。
「ううっ、さむいの――」
 と、牢名主の|天《かみ》|牛《きり》のお紺は歯をカチカチと鳴らした。新入りの女の入ってきたあくる日の朝のことである。
 牢の朝は、午前四時に明ける。五時に見廻りがまわってくるのを、みんな起きて待っているのだ。そして、五番役が、「|朝《あさ》|声《ごえ》」と称する独特の言葉で囚人たちを点検する。
「つめろつめろ|羽《は》|目《め》通り、つめろつめろ役人衆、詰の御番衆。つめろつめろ夜があける、お牢内の|法《はっ》|度《と》|書《がき》、ありありとみえてはならんぞや。つめろつめろ総役人衆、お戸前の|鍵《かぎ》も鞘戸の鍵も、ちんや、からりと鳴ってはならぬぞや。つめろつめろ羽目通り、つまりました、つまりました、つまりました、夜があけたあ」
 そして、牢役人どうしが朝のあいさつをかわす。
「これはおとなりの何番役さま、さてけさも結構なお天気につきまして、おらくに朝声はやばやと相かかりまして、よろこびお訴えとつかまつりまして、私の方、名主頭、お隠居、隅役隠居、わたし下役人つぶさに申しきかせました」
 言っている本人たちにも、完全には意味がわからないだろう。とにかく天正以来二百年になんなんとする江戸の牢獄史に、いつのころからか生じたきまりのせりふだ。文字にかけばのどかでユーモラスですらあるが、それがこの陰湿なおんな牢のなかで毎朝くりかえされるとき、ぞっとするような|呪《じゅ》|文《もん》めいた印象をあたえるのであった。
 食事は、朝の八時と午後四時の二回だけ、一日二合二勺のモッソウ飯と、|手《て》|桶《おけ》に入れてきた実のない|味《み》|噌《そ》|汁《しる》一|椀《わん》と、|糠《ぬか》|漬《づけ》の大根ときまっている。しかも、人数にあうだけの量は官給されても、張番があらかじめその三割のあたまをはね、のこりを名主以下の牢内役人たちが存分にくうから、あとの平囚人はまさに餓鬼道なのがふつうであった。
 さて――その朝の食事をとったあとで、お紺がやせ|脛《ずね》をかかえていうのである。
「さむい。……牢内、妙な景色になりゃがってよ、年寄りは凍え死んでしまいそうじゃわ」
 姫君お竜に、たたみを公平に分配されたことに、|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》な愚痴をこぼしているのだ。お紺は、まだお竜に心をゆるしてはいない。がお竜という女のえたいがしれないので、手が出せないのだ。いや、事実四人の牢内役人にとびかからせたのだが、あっというまに気絶させられたのだから、作戦をかえなくては、どうにもならない。しかし、きみがわるいのはお竜の「武術」より、入牢するなりじぶんたちから牢内役人の特権をはぎとってしまったその破天荒な革命ぶりだった。
 しかも、それが|凄《すご》|味《み》のある毒婦型の女ならまだ話のつけようもあるが、本人は公方さまの首をねらった女だと大それたことはいったが、顔をみると|鞠《まり》でもつきそうなほど愛くるしくて、こっちから話しかける気力もくじけるうえに、向うのいうことなすことが、こちらとぜんぜんケタがはずれている。……
 ともあれ、お紺はまだ屈服してはいなかった。きのう起ったことがまだ信じられないような気がするのだ。それに、こんなはたちにもならない小娘になめられてたまるかという牢名主の意地もあり、またこんな老婆で入牢するまでには、|錆《さ》びつくほどながい、そして光栄ある罪の暦ももっていた。
 昨夜、へいきでスヤスヤ寝息をたてていたお竜は、けさ例の朝声でたたき起されてから、キョトンとして坐っている。モッソウ飯には手をつけなかった。
(ふふん、娑婆からきたてにゃ|嗅《か》いだだけで胸がわるくなるだろうが、いまに餓鬼みたいになりゃがるにきまってら)
 と、お紺は心中にせせら笑った。そして、お竜の眼前で、ジワジワと牢の恐ろしさとお名主さまの権威を見せつけてやろうと思い立った。
「ええと、けさは、どいつだったっけ、おれをあっためてくれる奴は。たしか、お|玉《たま》と――」
 と、ジロリと凍りつくような眼で牢内を見まわすと、ひとりの女がビクンと立ちあがり、またひとりの女がふらふらとすすみ出た。
「…………?」
 お竜は眼をまるくした。
 よび出されたふたりの女は、どちらもまだ若く美しかったが、それがあおむけになって、ならんで横たわると、そのうえにお紺がねそべって、|頬《ほお》|杖《づえ》をついたのだ。世にもあたたかな|肉《にく》|蒲《ぶ》|団《とん》にはちがいないが、乳房の谷間に枯木みたいな|肘《ひじ》のくいこむ苦痛に、ふたりの唇があわれにゆがむ。……しかし、こういう奉仕を拒否した場合の、身の毛もよだつ私刑を思いしらされている女たちは、声もたてず、眼をとじたままだ。
 お竜が立ちあがろうとした。
 そのとき、外鞘で声がした。
「お玉、浅草山の宿町|蓑《みの》|屋《や》|長兵衛《ちょうべえ》より届け物があるぞ。受け取れ」
「おありがとうございます」
 と、お紺がこたえて、いままでのぶしょうな老婆とは別人みたいな|敏捷《びんしょう》さで、女のからだの上からすべりおりた。
 届け物とは、差入れのことだ。牢屋下男が戸前から入れてくれたのは重箱だったが、それより女囚たちは、牢番がもう一つ入れてくれたものに、はっと眼をうばわれてしまった。満開の桜のひと枝だ。
「きのうお竜がたのんだ買物じゃ。それ」
 姫君お竜がかけよって、うけとった。
 重箱の方は、お紺がとった。そして牢番がいってしまうと、お玉には一言のことわりもなく、なかのむすびや卵やきにむさぼりついた。お熊やお伝やお甲なども、えんりょなく手をさし出す。むすびも卵やきも、ことごとく十文字に割ってあるのは、なかに牢ぬけの兇器などが入っていないか、牢役人が一応検査をするからである。
「まあ!」
「花よ――坊や、花よ!」
 あかん坊を抱いた女をはじめ、女囚たちは夢中で花のまわりにあつまり、顔をよせた。
 ひと枝の花がこれほどすばらしい感動をあたえるとは、飢えた彼女たちにも思いがけぬことだったろう。女たちは|恍《こう》|惚《こつ》と眼をとじ、|溜《ため》|息《いき》をついた。すすり泣きをはじめた女さえあった。それは|闇《やみ》にひらいた灯の花であった。
 微笑してその光景をながめていた姫君お竜は、泣いているひとりの女をみて、ちょっとまばたきをした。さっきお紺の肉蒲団になっていた女のひとりだ。
 彼女はそっとそのそばへ寄って、ささやいた。
「あんた、お玉さん?」
「…………」
「軽業一座の」
「――どうして、あたしを?」
「いつか、両国でみたことがあるの。ほんとに可哀そうに、あんな目にあって」
 と、重箱にくらいついているお紺の方をちらとふりかえって、
「あれ、あんたへの御見舞でしょ? 蓑屋さんとかから――」
「蓑屋さんは、あたしの一座の|金《きん》|主《しゅ》だったひとなの。ほんとにひいきにして下すったばかりか、ここに入ってからも、まだあんなに親切にしてくれて……でも、あたしはもうだめ、そのうちお呼び出しになって、きっと|磔《はりつけ》か|斬《ざん》|罪《ざい》か……」
「そんなこと、まだわからないわ。お奉行さまのお取調べによっては――」
 お玉は|蒼《そう》|白《はく》な顔をあげて、くいいるようにお竜を見つめたが、すぐにひきつけたようにのどをそらしてうめいた。
「いいえ、どう調べたって、あたしがふたりの人間を殺したのにちがいないもの! しかもそのうちのひとりは、あたしの亭主なんだもの!」
 お竜はおののくお玉の肩を抱いて、ながいあいだ髪をなでてやっていたが、やがてやさしい声でつぶやいた。
「お玉さん、あたしにおまえさんのお話をきかせておくれでないか……」
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2008-4-30 09:14:46 | 显示全部楼层
     二

 お玉は玉乗り娘だった。
 彼女は親も生まれたところも知らない。きっと、西も東もわからないころに軽業に売られたのにちがいない。とにかく、ものごころついてから、ずっとおなじ一座にいた座元の親方はひどく残忍な男だったが、その恐ろしささえも知らないほど、お玉の運命はその一座の|鋳《い》|型《がた》にはめこまれていたし、彼女は従順で楽天的な性質だった。まる顔の、器量はよかったが、玉乗りの運動神経は天性あまりそなわってはいなかったとみえて、よく親方から|鞭《むち》でなぐられたが、あまりかなしいと思わないで、旅から旅へまわっていた。
 そのお玉の運命に第一の変化がきたのは、二年ほどまえ、名古屋の広小路神明で小屋がけをしていたときのことだ。一座の花形、|手《しゅ》|裏《り》|剣《けん》打ちの夫婦が、親方に|叛《はん》|旗《き》をひるがえしたのである。もっとも、それをそそのかしたのは、木戸番の|蓮《れん》|蔵《ぞう》という男だった。蓮蔵はそれより一年ばかりまえ、紀州でやとい入れた風来坊で、年もまだ二十二、三だったが、木戸番には|勿《もっ》|体《たい》ないくらい頭のよくきれる若者だった。もっとも軽業一座では、芸がなくては、いくら利口でも木戸番ぐらいしか使いみちがない――と思っていたら、案の定、この騒ぎの陰の張本人となった。
 手裏剣うちの|車佐助《くるまさすけ》と|小《こ》|金《きん》夫婦について出たのは三分の一ほどの芸人だったが、そのなかにお玉がいた。というのは、彼女はいつしか蓮蔵のものになっていたからだ。
 お玉は蓮蔵にむちゅうだった。利口なのにも感心していたが、片輪者めいた人間の多い一座で、これはまとも以上のきりっと苦味ばしった男まえだし、肌の白さなどどこでも吸いつきたいようで、その左腕に「蓮」と一字彫ってあるのを、もし本人の名と知らなかったら、かきむしってやりたいほどだった。
 さて、あたらしく一座をつくったにはつくったが、あとはひどい御難つづきだった。とにかく、芸人の三分の一はついて出たものの、車夫婦をのぞいては、あまりたっしゃな奴がなく、あっても|曲手鞠《きょくでまり》とか|竿《さお》のぼりとか猿まわしとか刀の刃わたりとか地味な芸が多くて、いかに才人蓮蔵があせっても、客がよべなかった。
「とにかく、江戸へゆこう。江戸なら、目明き千人、|盲《めくら》千人、なんとか食えらあ」
 と、蓮蔵がいい出して、江戸へきたのが一年前だ。
 江戸で、芝神明社内の境内とか、|浅《せん》|草《そう》|寺《じ》境内とか、|葺屋町《ふきやちょう》|河《か》|岸《し》とか、深川八幡とか、あちこち小屋がけをしてまわったが、どこでもぱっとせず、食うや食わずのくらしが三月ほどつづいたが、去年の夏、お玉の運命に第二の変化がきた。
 意外な金主があらわれたのだ。浅草山の宿町の薬種問屋の蓑屋長兵衛という金持がパトロンになってくれたのである。
 このひとは、まえからちょいちょい中村座とか市村座とか森田座などの芝居興行の金主となるという道楽気があったが、芝居以外にも興行物は好きだとみえて、気まぐれに芝神明町にあわれな小屋をかけているお玉の一座を見に入ったという。そしてお玉を見た――
「あの玉乗りの女はおらんか。ちょっと|逢《あ》いたい」
 と、楽屋へかけこんできた声に、お玉がびっくりしてむかえると、その福々しい老人は、くいいるようにお玉の顔をみて、
「ううむ、似ておる、死んだわしの娘に――」
 と、うめいた。
 そういう思いがけない原因から、蓑屋長兵衛はお玉の一座の金主になってくれたばかりか、あっちこっちつて[#「つて」に傍点]をもとめては新しいたっしゃな軽業師をひきぬいてきてくれた。一座は息をふきかえした。しかし、その親切が、お玉にとって幸福をもたらすよりも、大きな不幸を呼んだのだ。
 長兵衛がつれてきた芸人のひとりに、|蝋《ろう》|燭《そく》|渡《わた》りの|美《み》|紀《き》|之《の》|介《すけ》という女がいた。十数本、蝋燭をつけたままの|大燭台《おおしょくだい》のうえを、矢大臣に|扮《ふん》した美紀之介が|右《め》|手《て》に弓、|左《ゆん》|手《で》に|傘《かさ》をもってわたってゆく芸はみごとなもので、しかも男装をしているくせにおそろしく肉感的な女だから、どっと人気がわいた。いままでの立役者手裏剣打ちの車佐助の影がうすくなるほどであったが、その|妖《よう》|艶《えん》さが、見物のみならず、いまは座元で左うちわの蓮蔵をもとらえてしまったらしい。
 西両国の広小路に進出して、木戸銭三十二|文《もん》に中銭二十四文という高価にもかかわらず、毎日朝はやくから見物人がおしよせるほどの人気を呼んでいるさなか――お玉はついに、亭主の蓮蔵と美紀之介の密通の現場をみる破目になった。
 実はその数日まえ、ときどきブラリと見物にやってくる長兵衛老人から、ふと、
「美紀之介を世話してやったのはいけなかったかな」
 と、つぶやかれ、お玉がキョトンとしていると、
「あれは生まれつきの男好きじゃ。おまえも亭主によく気をつけたがいいぞ」
 と笑われたので、さては、とこのごろの蓮蔵と美紀之介のあいだの妙な空気を思い出していたからだ。
 ほれぬいている亭主だったから、お玉はのぼせあがった。|大《おお》|喧《げん》|嘩《か》のすえに、彼女は、「もうこんな一座、蓑屋さんの金主をことわってやるから」と口ばしった。すると美紀之介は、乳房をまるだしにした矢大臣というメチャメチャな、そのくせ|凄《すさ》まじいばかりなまめかしい姿のまま、つんとそらうそぶいて、
「へん、あたしひとりがいりゃあ、一座は大船にのったようなものさ」
 といったから、蓮蔵をのぞいて、みんないやな顔をした。|人《ひと》|気《け》もなかったはずの夕ぐれの楽屋だったが、この喧嘩さわぎに、どこからか芸人たちがあつまって、おもしろそうにのぞきこんでいたのである。
 お玉がその翌日、玉乗りの玉からころがりおちて見物人の大笑いを買ったのは、決して芸が未熟だったせいばかりではない。楽屋にかえると、美紀之介が矢大臣の扮装をつけながら、むこうむきのままで、
「どいつもこいつもぶざまな芸をみせて、どうやら美紀之介一座とした方が無難だねえ」
 といった。どうしたわけか、その日は、お玉のまえに車佐助もしくじって、戸板に|緋《ひ》の|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》ひとつで立つ女房の小金に、くびスレスレに手裏剣をうつべきところを、肩をかすって血をながさせた珍事もあったから、そうあざけったのだろう。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2008-4-30 09:15:11 | 显示全部楼层
     三

 その夕方だ。お玉と小金は、つれだって小屋を出た。
 一帯のおででこ[#「おででこ」に傍点]芝居や講釈場やその他の見世物などはみなはねて、|西《すい》|瓜《か》売りや|鍋《なべ》|焼《や》きうどんの夜店がならんで出はじめているのも、夏から秋への移りかわりを思わせる。
 ふたりが出たのは、たまたまその日も小屋にきていた蓑屋が、|薬《や》|研《げん》|堀《ぼり》にいい外科があるから、お玉、小金をつれていってみてやるがいいと紹介状をくれたせいもあるが、|打《うち》|身《み》、切傷ばかりでなく、こころの同病相あわれむで、ふたりとも美紀之介への愚痴を大いにこぼしあいたいからだった。小金といえども、きょうこのごろの美紀之介の増上慢は決して愉快でなく、「うちのひともそうなんだよ。きょうしくじったのも、きのうからのあいつの高慢なせりふがふっとあたまをかすめたら、ついシャクにさわって手もとがくるったんだって」といったくらいだったからである。
 小金の|怪《け》|我《が》はかるく、お玉も異常はなく、医者から出て薬研堀に沿ってかえる途中だった。ピチャピチャと小暗く鳴る堀をうしろに妙なものを路傍で売っている男に逢った。
「|紅《べに》|蜘《ぐ》|蛛《も》はいらぬかな。……」
 |深《ふか》|編《あみ》|笠《がさ》を伏せた浪人者なのである。疲れたように石に腰を下ろしている。
 蜘蛛を売る?――蜘蛛など買ってどうするのだ?
 きみわるそうに足早にゆきすぎかけたふたりの女は、しかし思わず立ちどまった。ちらとみた、浪人の足のあいだに置かれたふたつの|虫《むし》|籠《かご》――それは、見ていっそうきみわるいものであったが、ふたりの足を|釘《くぎ》づけにする力があった。
 もう|宵《よい》|闇《やみ》はおりているのに、水あかりか、それとも、あとで思えば、何かこの世のものならぬ|妖《よう》|異《い》なひかりがさしていたのか、ぼうっと浮きあがった地上に、その虫籠の中は真っ赤だった。真っ赤なものが、ウジャウジャとうごめいているのだ。
 深編笠は依然としてうつむいたまま、病んでいるようにかすかな|嗄《しゃが》れ声でいった。
「紅蜘蛛はいらぬかな。……」
 ふたりの女は、ぞっとしてあるき出した。
 十歩いって、お玉がいった。
「ね、見た? いまの真っ赤なもの――あれが蜘蛛?」
「あんな赤い蜘蛛って世の中にあるのかねえ。……何にするのかしら?」
「見てたのしむったって、松虫やこおろぎじゃあるまいし、蜘蛛なんか――」
 小金が立ちどまった。
「お玉さん、あいつ……蜘蛛がきらいだったわねえ。……」
 お玉も立ちどまった。それはほんとうだった。だれだって蜘蛛の好きな人間はあるまいが、だれにもまして、あのはなれ業をやってのけ、人を人くさいともおもわぬ美紀之介が、蜘蛛だけは病的にこわがるのである。いつか酔って横ずわりになったふくらはぎの下に、うっかり一匹の蜘蛛をしきつぶしたときなど、いっぺんに酒がさめてしまったのはむろんのこと、いくらあとで洗っても、まっ白なふくらはぎの皮膚に、蜘蛛のかたちをした|痣《あざ》が、三日間くらいとれないことさえあった。
 お玉の眼が、うす闇にひかった。
「小金さん、あれを買ってゆこうか」
「え、何にするのさ」
「美紀之介のちくしょうに、いっぺんきもをつぶさせてやるのさ」
 ふたりはもどっていった。紅蜘蛛を売る浪人はまだそこにいた。
「それ、一匹ちょうだいな」
 と、おそるおそる一方の虫籠を指さすと、浪人は深編笠を伏せたまま、しゃがれ声で、
「そなた、人を殺したいのか?」
 といった。お玉はぎょっとして、しばらく口もきけなかった。
「と、とんでもないよ。なぜそんなことをいうのさ?」
「それはな、そなたのさしたこちらの籠は、毒蜘蛛じゃ。一刺しで馬でも殺す。……そなた、人殺しがお望みなら売って進ぜるが、ちと高い。一匹十両」
「いらない、いらない、そんなおっかないもの――こ、こっちの籠は?」
「これは無毒じゃ。これでよろしいのか」
「いいよ、そ、その赤い蜘蛛で、ちょいとひとをびっくりさせてやるだけなんだから」
「これは安い。一匹十文じゃ。何匹所望」
「い、一匹でけっこうよ」
 ほんとうに、美紀之介をびっくりさせて、赤恥をかかせて腹いせをしてやろうというつもりだけだから、一匹でたくさんだった。
 浪人は|箸《はし》で紅蜘蛛をはさんで、紙につつんだ。
「だいじょうぶね? これは毒蜘蛛じゃないわね?」
「このとおりわしが紙につつんでも|仔《し》|細《さい》ない。心配なら、肌に|這《は》わせてみせようか」
「いえ、だいじょうぶなら、だいじょうぶ」
 お玉は妙なことをいって、紙づつみをたもとに入れると、にげるように立ち去った。小金は終始一言もいわなかった。角をまわるとき、ちらっともういちどふりかえると、蜘蛛売りの浪人は、うす|蒼《あお》い水あかりを背に、やっぱり深編笠を伏せたまま、石のように坐っていた。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2008-4-30 09:15:42 | 显示全部楼层
    紅蜘蛛

     一

「さて東西、いよいよ御覧にいれまするは、|太夫《たゆう》じゃ、太夫じゃ、おまちかね、矢大臣美紀之介の|不知火《しらぬい》わたり、もえる大|蝋《ろう》|燭《そく》は十本と七本、この大蝋燭を、一本も折らず消さずに、ゆらりゆらりとふみわたる千番に一番のかねあい、古今のはなれわざ、東西っ――」
 |肩《かた》|衣《ぎぬ》だけをつけた座元兼口上言いの蓮蔵がそこまでいったばかりで、場内は、わあっというどよめきにつつまれた。両国広小路の軽業小屋である。
 舞台の|袖《そで》に、いま手裏剣うちをすませてひっこんだ、車佐助と小金が立っていたが、佐助はあきらかにおもしろくない顔をしていた。美紀之介がくるまでは、彼らだけにあんな|喝《かっ》|采《さい》がなげられたものだが、いまでは義理のまばらな拍手はまだいい方で、はやくひっこめという|弥《や》|次《じ》の方が多いこのごろだ。色がくろく、やせてからすみたいな顔をした浪人が、紅だすきをかけているのだが、人気がおちてみると、はなやかなたすきがいっそう本人の貧弱さをきわだたせる。
 しかし、小金は眼をひからせてふりかえり、そこに立っているお玉に、亭主にはきこえないようにささやいた。
「お玉さん、あれは?」
「絵日傘のなかに入れてやったわ」
 と、お玉は|生《なま》|唾《つば》をのみこんで、じっと舞台の方を見つめる。
 彼女は、きのう|薬《や》|研《げん》|堀《ぼり》で買ってきたあの赤い|蜘《く》|蛛《も》を、美紀之介の小道具の絵日傘に、さっき、そっと入れておいた。毒蜘蛛ではないときいていたからいいようなものの、それでもたたんだ細い傘のおくふかく、蜘蛛をつぶさないようにさしこんでおく仕事は、その蜘蛛のふとった感触、またそのぶきみな色彩と、それにちょいとした気のとがめから、あまりきもちのいいものではなかった。
 そのお玉の不愉快さを帳消しにするのは、ただ美紀之介のあの|驕慢《きょうまん》な顔つき、いいぐさだ。――舞台で、三味線、太鼓、鼓、チャルメラの音がたかまった。
 舞台には、人の背よりたかい|大燭台《おおしょくだい》に大蝋燭が、あかあかと灯をともしてならべられている。数はまさに十七本。
 考証的にはだいぶあやしいところもあるが、ともかく|闕《けっ》|腋《てき》の|袍《ほう》らしきものを着、|巻《けん》|纓《えい》の冠らしきものをつけ、右手に弓、左手に剣のかわりにたたんだ絵日傘をもって、矢大臣に扮した美紀之介は、客席にえんぜんたる|媚笑《びしょう》をなげた。男姿だけに、まっかな唇からもる白い歯のきらめきの|妖《あや》しさが観客を|魅《み》して、またどっと歓声がわく。――当時のものの本に「日々えいとうえいとうの大入りは、まったく美紀之介の美しきかんばせに、色気をふくみしゆえなり」とあるとおりだ。
 しかし、顔ばかりではなく、たしかに芸もみごとなもので、|囃《はや》しにあわせて一礼すると、美紀之介のからだが、ユラリと一本の燭台のうえに|飛翔《ひしょう》した。――とみるまに、ひらひらと舞いながら、蝋燭のうえをわたりはじめる。見物人をよろこばせたのは、そのたかい燭台、ほそい蝋燭が、ゆらめきつつも、一本もたおれず、一本も折れない妙技もさることながら、ふみわたる蝋燭の火が、いちど足の下できえて、矢大臣がとなりへうつると同時に、またぽうっと|不知火《しらぬい》のごとく白い炎をあげるふしぎさだ。これは|智《ち》|慧《え》の蓮蔵が考案したからくりである。
 蓮蔵のとくいげな「|御《ご》|褒《ほう》|美《び》にどっとほめたりほめたり!」という声もまたず、客席から|怒《ど》|濤《とう》のような感嘆のどよめきがあがった。
 九本目――ちょうどまんなかまできたときだ。
 矢大臣はぱっと絵日傘をひらいて、みえをきった。――と、その絵日傘から、つーっと銀いろの糸をひいておちてきたものがある。いや、その糸までハッキリみたものはほとんどなかったが、美紀之介の顔のまえに、ぶらんと真っ赤な点みたいなものがゆれたので、「おや?」とみな眼をまたたいたとき、美紀之介もふとそれを見たようだ。
「あっ、蜘蛛じゃ!」
 土間のかぶりつきから、だれかさけんだ。
 美紀之介の眼が、かっとむき出された。蜘蛛がゆれたはずみに、そのしろいひたいに、ぽつんととまった。同時に、三本ばかりの燭台が前後左右にみだれて彼女はどっと舞台にころがりおちた。
 お玉と小金は、ぎゅっと手と手をにぎりあわせた。あぶら汗とともに、ひきつった笑いをにじませたお玉の表情が、そのままうごかなくなった。
 期待していた客席の|哄笑《こうしょう》はわかない。いや、たおれたまま、美紀之介がうごかない。――とみえたのも一瞬、たちまち彼女のからだは、人々の|叫喚《きょうかん》のつむじにふきくるまれた。まっさきにはしりよったのは、座元の蓮蔵だ。つぎに舞台の袖にいた佐助がかけ出していった。それから、かぶりつきにいた客のひとりがとびあがった。
「美紀之介!」
 そうさけんだ声で、その客が、蓑屋長兵衛とわかった。金主の長兵衛は、客の評判をきくためもあろうが、ちょいちょい、こうして客席で一般にまじって見物している道楽があったのだ。
「あっ、いけない!」
 と、佐助がさけんで、とびついた。美紀之介の美しい顔が、みるみる|藍《あい》いろの死相に変じてくるのをみたからであった。それからの混乱は、いうまでもない。不知火わたりの曲芸の最高潮で、一座の花形美紀之介は、突如として怪死をとげてしまったのだ。
「こ、こりゃ、どうしたってんだ?」
 と、長兵衛がうめくと、蓮蔵も客のさわぎを制止するのもわすれて、
「お役人をよんでこい、だれか、お役人を――」
 とさけんだ。
 そのとき、異様な声で、車佐助がいった。
「妙なものがいたな、赤い虫――蜘蛛みたいなものが――」
 波うっていた人々が、急にしーんとうごかなくなった。みんな、さっき目撃したものを思い出して、名状しがたいぶきみさにおそわれたのである。
 蓮蔵のふるえる声がはしった。
「いまの蜘蛛はどこへいった?」
 人々は、また騒然とした。
 じぶんの|襟《えり》もとや袖口をみ、相手の背や肩をみ、また足もとを見まわした。しかし、あの赤い蜘蛛は、どこにもみえなかった。
 舞台の袖では、お玉と小金が、棒みたいに立ちすくんでいた。
 お玉が、色のない唇でささやいた。
「あの浪人は、あれは毒蜘蛛じゃないといったわね。……」
 すると、小金は、どきっとするようなことをいった。
「ああ……あの男、|籠《かご》をまちがえたのかしら?」
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2008-4-30 09:15:58 | 显示全部楼层
     二

 それは、恐ろしいことだった。――お玉は、ただ美紀之介をびっくりさせて、亭主をぬすまれた|腹《はら》|癒《い》せをしたかっただけなのだ。それなのに、美紀之介が死んでしまった!
 してみると、あれは毒蜘蛛だったのか?
 あの蜘蛛を売る浪人は、坐りこんだ足のあいだに、二つの虫籠をおいていた。一方は無毒、一方は馬でも殺すとかいう毒蜘蛛だといったくせに、じぶんでまちがえたのだろうか? そういえば、みたところ、どっちもおなじように真っ赤な蜘蛛だったけれど。――
 お玉は|狼《ろう》|狽《ばい》し、また逆上した。
 彼女は小屋のさわぎにまぎれて、広小路からぬけ出して、薬研堀にかけつけた。あの浪人はいなかった。
 彼女は待ちつづけた。どうしてもあの浪人にといたださなければならなかった。きのうとおなじような夕方がきて、薬研堀の水がくらくひかりはじめた。しかし浪人の姿はあらわれなかった。
「どうしたのかしら? まだはやいのかしら?」
 そういう焦燥が、やがて、
「ひょっとしたら、きのうだけ、ここで売っていたのでは?」
 といううたがいにかわり、さらに、めったに人通りもない寂しい路上をみているうちに、こんなところで物を売っていたのはへんだとはじめて気がついた。
 ――そなた、人を殺したいのか?
 という、|陰《いん》|々《いん》たるしゃがれ声が耳のおくできこえる。きのう彼の坐っていた石をみると、そこにボンヤリとあの深編笠を伏せた影がうかんで、ふっときえてしまった。まぼろしであったが、お玉は水をあびたような思いがした。あれはほんとだったか。あたしの悪い夢じゃなかったか。それともあれは、この世のものならぬ|妖《よう》|怪《かい》ではなかったか?
 お玉は、ころがるように広小路へにげかえった。恐怖のために、吐き気をかんじていた。
 小屋でのさわぎはまだつづいていた。
 客の大半は追い出されていたが、舞台にあかりをつけて、同心や目明しが|屍《し》|骸《がい》を検証し、関係者をとり調べているらしい。
 小金が何かしゃべったのではないかと、お玉が|蒼《あお》くなってさがしまわると、小金はむしろ張りの楽屋で、ひとり酒をのんでいた。
「小金さん」
 呼ばれて、あげた顔に、恐怖がはしった。しばらくお玉を見ていたが、またぐいと徳利をあおって、
「こわいから、のんでいるのだよ。お玉さん」
 と、いった。お玉はうなずいて、声をひそめて、
「小金さん、あの蜘蛛のこと、お役人にしゃべった?」
「いいや」
 と、くびをふって、
「おまえさん、どこへいってたの?」
「薬研堀に」
「えっ、では」
 お玉は、小金のひざに子供みたいにわっと泣き伏した。小金はお玉の肩をゆさぶって、ふるえ声で、
「それで、あ、あいつは?」
「いないんだよ。いたらとっちめてやろうと待ってたんだけど、いつまで待っても、こないんだよ……」
 小金はしばらくだまっていたが、やがてお玉の耳もとに口をよせて、
「お玉さん、あの浪人はいなかったことにしよう!」
 と、ささやいた。お玉は顔をあげて、
「だって、いたよ。きのうは――あたし、万一のことがあったら、あの浪人をつかまえてもらうより、たすかるみちはないのだよ――」
「いいや、たとえいたって、|逢《あ》わなかったことにしよう。あんなもの、買わなかったことにしよう。だまってるんだ、お玉さん、ね、へんなことをいい出したら、それこそただじゃすまないよ」
「小金さん、それじゃだまっていてくれる?」
「あたりまえだよ。口がさけたって――」
 お玉は唇をわななかせて、泣きじゃくりながら、
「かんがえてみりゃ、あの美紀之介だって可哀そうなことをしたわ、あたしがわるかったんだよ。ヤキモチをやいたのがいけなかったんだよ……」
「いけないことがあるもんか。あいつはあんな死にざまをするのが|恰《かっ》|好《こう》なみせしめさ」
「だから、あたしはつかまってお仕置をうけたってしかたがないと思うんだけど、ただ……あたし、ヤキモチをやいて美紀之介を殺したと、蓮蔵に思われるのがたまらないんだよ……」
 それは、ほんとうだった。このさわぎのそもそもの原因が、亭主の蓮蔵の浮気にあるのに、世の女房のつねとして、お玉はそう思いつめた。ヤキモチで亭主の色おんなを殺したと知られるときは、夫婦の縁にとどめをさされるときだ。彼女は、まだ蓮蔵に|惚《ほ》れきっていたのだ。
 さて、その蓮蔵だが――それ以来、彼はうさんくさそうに、一座の連中をにらみまわしはじめた。
 役人たちは、|蜘《く》|蛛《も》のことは一笑に付した。人を殺すような蜘蛛が世のなかにあるはずはない。もしあればものの本にもかいてあるだろうし、ほかに被害者も出るはずだというのである。それももっともだが、それでは美紀之介の死因はというと、彼らにもよくわからなかったらしい。思案のあげく、とにかくかれらに危ない軽業をさせるのがまちがいのもとだ、おちるはずみにきっと打ちどころでもわるかったのであろう、以後気をつけろと|叱《しか》りつけられたから、蓮蔵はふくれかえった。
 このころからちょっと後年になるが、明和年間に京都の手品師|生田中務《いくたなかつかさ》なるものが、あまりに幻妙な手品をつかったために、死刑になったことがある。
 そういう時代だから、蓮蔵も抗弁はできなかった。とにかく役人にとっては、人心をさわがすことが一番恐ろしかったのである。
 毒蜘蛛を黙殺したのも、そのせいかもしれないが、おかげで事件はウヤムヤになってしまった。――しかし、役人たちも、もし美紀之介の怪死をとげたときの様相を目撃していたら、とうていあの紅蜘蛛を笑いすてることはなかったであろう。
 蓮蔵はウヤムヤにはしなかった。もともと頭のよくまわる男でもあり、ものごとをウヤムヤにはできない粘ッこさをもった性分なのである。一座の立役者をうしなったという打撃からの怒りも当然だが、それ以上に、いちずな、血まよった|復讐《ふくしゅう》欲が感じられた。
 翌日はさすがに小屋は休んだが、その日いちにち、
「あの日傘はどこにあった?」
 と、きいてまわったり、
「楽屋に入ってきたよそものはねえか?」
 と、目明しそこのけに調べたりしていた。
 はじめ彼は、じぶんの一座の大当りに|嫉《しっ》|妬《と》したほかの興行師の犯行ではないかとうたがったらしいが、きのうべつにあやしい人間が楽屋に入ってきた形跡はないことをつきとめるにおよんで、しだいにただならぬ眼を周囲にむけ出した。
 お玉は胸をおしつぶされそうなおびえから、蓮蔵の異常な執念とも彼女にはみえる探索ぶりが、美紀之介へのみれんによるものであることを感じとると、「なにをのぼせてやがるんだ、ざまあみやがれ」という気になり、さらにいっそううちのめされて、ふぬけみたいになった。それから、蓮蔵にひどくわるいことをしたような弱気にとらえられた。
「お玉」
 ふいに楽屋にぶらりと入ってきた影をふりかえって、お玉はびくんとした。
「妙にかんがえこんでるじゃねえか」
 蓮蔵が、充血した眼をひからせて立っていた。
「おめえが、美紀之介にへんな細工をしたんじゃあねえかい」
 お玉は口がきけなかった。
 しかし蓮蔵はそうはいったものの、もっと、ほかに気がかりなことがあるらしく、いちどいまきた方をふりかえって、
「おい、ちょっときてみな」
「何さ」
「しいっ、声をたてるな」
 お玉は蓮蔵のようすに異様なものを感じて、不安な表情でついて出た。
 そして彼にいわれたとおり、むしろのすきまから、そっと裏をのぞいてみた。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2008-4-30 09:16:16 | 显示全部楼层
     三

 裏の空地に秋の日が照っていた。やはりむこうの小屋のむしろ張りの背がみえ、なかから太鼓やチャルメラの音がわびしくながれてくる。
 うごいているものとては、遠く蒼い空にはためく|幟《のぼり》のほかは、日光のなかを舞っている四、五羽の秋の|蝶《ちょう》だけだった。
 ――と、思いがけないことが起った。その蝶のむれへ、キラ――とひとすじのひかりの矢がはしると、蝶の一羽がヒラヒラとおちてきたのである。ひかりの矢は、文字どおり糸をひいていた。
 地上にまずおちたのは、|紐《ひも》をつけた一本の|匕《あい》|首《くち》であった。
 そして、それよりおそくおちてきた蝶の羽根は、みごとにきりとばされていた。
 それまでみえなかったところから、ふいにひとつの影があるき出していった。その蝶をひろいあげた。車佐助だった。
 蓮蔵がささやいた。
「おれがみたのでも、これで三羽めだ」
 そして、佐助が、その羽根のない蝶を紙につつんで、たもとに入れるのをみるにおよんで、たまりかねたように蓮蔵はむしろをはねのけて、顔をつき出した。
「車さん、何をしていなさるんだ?」
 車佐助はぎょっとしてふりむいたが、苦笑して、
「小屋が休みじゃと、腕がにぶってな」
 といったが、蓮蔵が、ひものついた匕首をみているのに気がつくと、
「蝶をとるのに、わしにとっては網などふりまわすより、この方が手軽じゃて」
 と、つけ加えた。
「蝶を何にしなさるのですかい?」
「なに、お子供衆にやるのじゃよ」
「へえ、羽根のない蝶をねえ」
「と、思って実はいたずらをはじめたのじゃが、そのうち――美紀之介がああなってみると、わしがひとふんばりせねば、小屋のゆくすえはどうなるか。そう考えると、心中|暗《あん》|澹《たん》とせざるを得ん。いろいろ思案のすえ、こんどは飛蝶の手裏剣うちを芸に加えたい、こう思いついて、さっきからいろいろ工夫していたのじゃ。なに、この蝶もその羽根のきれぐあいをあとで調べるためじゃが、親方、どうじゃ、これア見世物にはなるまいか?」
「ならんこともねえでしょうが。……」
 車佐助はこそこそとどこかへきえてしまった。蓮蔵はひかる眼でそのあとを見おくって、
「おかしなまねをする先生だな」
「あれは、どういう――?」
「わからねえ」
 蓮蔵ははき出すようにくびをふったが、やがてうめいた。
「蝶と蜘蛛……何だかかかわりあいがありそうだとは思わねえか? そのうち、きっとおれがつきとめてやるぞ。……」
 お玉はどきりとした。蓮蔵はじぶんよりも佐助の方にうたがいをいだいているらしい。
 あの怪浪人の赤い蜘蛛と、いまの車佐助の羽根のない蝶、そのあいだにどんな関係があるのか、全然見当もつかないことは御同様だが、佐助に妙な追求がむけられると、結局蓮蔵の眼はじぶんにまわってくるにちがいない。
 佐助の女房の小金があの紅蜘蛛の秘密を知っているからだ。
 お玉は|苦《く》|悶《もん》した。発覚の恐怖ばかりではなく、良心のいたみにもたえかねた。
 そして彼女は、その日がくれてから、別の用件にかこつけて浅草山の宿町蓑屋長兵衛をたずねて、すべてを白状したのである。
 じぶんを実の娘みたいに可愛がってくれるこの老人しか相談するものはいなかった。
「なに、あの紅蜘蛛は、おまえがしかけたものじゃと?」
 老人はおどろいて、嘆息をついた。しかしやがてお玉をみた眼は、いつものように慈愛にみちた笑みをふくんでいた。
「ふんふん。薬研堀といえば、ここからもそう遠うはない。わしがそこの医者にゆかせたという負い目もある。うむ、わしが手をまわして、その蜘蛛を売る浪人をさがしてやろう。何分の知らせを使いでやるまで、軽はずみなまねはしないで待っておれよ」
 しかし、蓑屋から使いがきたのは、その翌日だった。
 あの浪人がみつかったのか!
 とお玉はわくわくしたが、ふしぎなことに、使いはただ蓮蔵だけに|逢《あ》って何やら話しこんで去ったのである。
 すぐに蓮蔵は、人々をよびあつめた。
 人々――といっても、お玉と車夫婦と、輪ぬけの|琴之丞《ことのじょう》、綱わたりの|駒《こま》|太夫《だゆう》、曲手鞠の|三《み》|輪《わ》|丸《まる》、猿まわしの|亀《かめ》|吉《きち》と三味線の|平《へい》|八《はち》、つまり一座の幹部ばかり八人だ。
「美紀之介が死んだあと、小屋を|繁昌《はんじょう》させてゆくについて、金主の蓑屋さまからとっくり談合したいことがあるってよ。すぐにうかがおうじゃあねえか」
 ということで、一同は出かけた。
 それが、おそらくそれだけの話ではあるまいということを、お玉は知っている。
 いったい蓑屋さまは、どうなさろうというおつもりだろう? トボトボとあるきながら、お玉は胸もふさがれるような思いがした。
 蓑屋は大きな薬種問屋だった。いわゆる河原|乞《こ》|食《じき》にひとしい身分だから、裏のくぐり戸から案内されたのだが、とおされたのは、庭に面したひろいきれいな座敷だった。蓑屋の老人はしばらくあらわれなかった。店の方からながれてくるのか、それとも庭のどこかに薬草などをしまってある蔵でもあるのか、かぐわしいような、|黴《かび》くさいような、異様な|匂《にお》いがこの座敷にもただよっている。
 腕をくんで坐っていた蓮蔵が、ふいにジロリと一同を見まわした。
「ちょっと、蓑屋さまがお出ましになるまえに、みなに話がある。――実は、あの美紀之介の|死《しに》|様《ざま》についてのことだ」
 みんないっせいに、蓮蔵をみた。蓮蔵は顔をひきつらせつつ、
「みな知ってるように、おれはいろいろと調べてみた。そして下手人は、いいにくいが、一座のなかにいるとしか思われなくなった」
「なんだって!」
 と、小金が金切声をあげるのを蓮蔵はおさえて、
「やましくない奴は、腹をたてちゃあいけねえ。それでな。おれはこれからおまえさんたちにききてえことがある。おれが呼ぶから、呼ばれた奴は、ひとりひとりあの離れにきてくれ」
 立ちあがろうとする|袖《そで》を、そばの車佐助がとらえた。
「親方、なぜここじゃあきけないのだ?」
「あそこでお茶をのんでもらう。そのお茶に……人間なんでも素直にしゃべる薬が入れてあるんだ。実は、こりァ蓑屋さまも御存じのことだ」
 というと、蓮蔵はニヤリとして立ちあがり、庭におりた。
 |茫《ぼう》|然《ぜん》として一同が見おくる蓮蔵のゆくてに、なるほど茶室らしい一つの|数《す》|寄《き》|屋《や》がみえた。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2008-4-30 09:16:51 | 显示全部楼层
    女囚巷に出る

     一

 お玉は、全身、|麻《ま》|痺《ひ》したようになっていた。
 これはいったい、どうしたことだ?
 亭主の蓮蔵が、美紀之介殺しの下手人は一座の中にあるという。それをこれから、離れの茶室で調べるという。そこでのませるお茶に、人をベラベラしゃべらせる薬が入れてあるという。――ことごとく、思いのほかのことだが、なかんずく意外なのは、それがみんなこの家のあるじ蓑屋長兵衛承知のうえということだ。
 眼をあげて、小金の方をみた。小金は蒼い顔で、じっと宙をみていた。おびえのためか、そのひたいに細かいあぶら汗がにじんでいた。
 ふいにお玉はかっとした。そんな七面倒な、もったいぶった探索をこころみようとする蓮蔵にも腹がたったし、それとグルになった蓑屋にも腹がたったし、その蓑屋に甘えてすべてを白状したじぶんには、いちばん腹がたった。だいいち、下手人はじぶんだと長兵衛は知っているくせに、なぜこんな茶番をやるのだろう?
「ちょいとお待ち。おまえさん、そんな手間ひまをかけることはないよ! 下手人はあたしだよ!」
 あやうく、そうさけんでふらふらと立ちあがろうとしたのである。――そのとき、|唐《から》|紙《かみ》があいて、蓑屋長兵衛が入ってきた。
 ふだん、血色のいい老人が、蒼ざめて、首をたれて、
「ゆるしてくれい、みなの衆」
 といって、|悄然《しょうぜん》と坐った。
 みんな、老人が承知のうえで、一同をこんな嫌疑の座へさそいこんだことをわびたのだととったが、なかでもお玉は、蓑屋が入ってきたときにちらとこちらを見た眼で、とくにじぶんにいったのだと感じた。
 こんな破目になって、いまさらあやまってもらったところでもう終りだ! とお玉は蓑屋をにらみつけたが、あきらかに老人は、困惑しきった表情であった。お玉はヤケになって、度胸をすえて、数寄屋の方をふりかえった。
 その茶室から、ただならぬさけびがながれてきたのはそのときである。
「だれを呼んだ?」
 猿まわしの亀吉がすッとんきょうな顔をあげたとき、もういちど「わあっ」という悲鳴があがって、
「|蜘《く》|蛛《も》だ。紅蜘蛛だっ」
 と、こんどははっきりとそうさけぶ声がきこえた。
 まっさきに縁側からとびおりたのは、車佐助であった。お玉は庭にころげおちて、そのまま土に|爪《つめ》をたてたが、だれかひき起してくれたものがあるので、ふりあおぐと蓑屋長兵衛だった。座敷で腰をぬかしたように坐ったままの小金をのぞいて、みんなはだしのまま、どっと殺到した。
 数寄屋の庭にむいた窓には|連《れん》|子《じ》がはまっていたので、いちどそこにとびついた佐助は、あわててにじり[#「にじり」に傍点]口にまわったが、ひとめのぞいて、
「あっ」とさけんでしりもちをついた。つづいて三、四人がそこから顔をつっこんで、「親方!」と絶叫した。
 炉のまえに、うつ伏せに蓮蔵がたおれている姿がみえたのだ。
 なにしろ、高さも幅も六十センチくらいのにじり[#「にじり」に傍点]口だから、なかなか入れない。まっさきに入りこんだのが輪ぬけの琴之丞だったとは、さすがである。
 しかし、このとき同時に勝手口の方から、蓑屋長兵衛がとびこんできた。
「どうしたのだ、蓮蔵!」
 と、長兵衛は、老人とは思えない力で蓮蔵を抱きあげ、ひざのうえにあおむけにした。蓮蔵のからだが、大きくはねあがった。
 長兵衛をのぞいて、みんなとびのいた。蓮蔵のかっとむき出した眼があまりにも|物《もの》|凄《すご》かったからである。うらめしげに、みんなをにらみつけるようなその眼が、急に白くなると同時に、顔いろが灰みたいに黒ずんだ。四肢をブルブルとふるわせると、そのまま彼はガックリとうごかなくなってしまった。|蝋《ろう》|燭《そく》わたりの美紀之介の断末魔とおなじ|死《しに》|様《ざま》である。
「蜘蛛だ。紅蜘蛛だ――とさけぶ声がきこえたな」
 と、長兵衛老人が、ふうっと糸にひかれるように立ちあがって、つぶやいた。その眼がぐるっと一同を見まわして、お玉の顔にとまったのはむりもない。彼女が、あの紅蜘蛛の話を蓑屋に白状したのは、きのうのことだからだ。
 恐ろしいものでもみるように、あわててお玉からそらした長兵衛の眼がふと天井にとまると、そのままうごかなくなった。
 その表情が、あまり異様なので、みんなその方を見あげた。「ひいっ」とお玉ののど[#「のど」に傍点]のおくから、名状しがたいさけびがもれた。そこをつーッとはしったのは、一匹の真っ赤な蜘蛛だったからだ。手をのばせばとどきそうなひくい天井だったのに、みんな金しばりになっていたのは、いうまでもなく、それが死の蜘蛛だと知っていたからで、そのまま蜘蛛は、どこかにふっときえてしまった。
 あの蜘蛛がいた! あの蜘蛛が、どこからかあらわれた!
 どこからあらわれたのか、それに考えをめぐらす余裕はお玉になかった。ただただ彼女は恐怖した。蜘蛛よりも、じぶんの罪に。
「おまえさん、ゆるしておくれ!」
 彼女はがばと蓮蔵の|屍《し》|骸《がい》にとりすがって、つッ伏した。
「あたしが、わるかった。あたしがヤキモチをやいたのがわるかったんだよ! あたしが美紀之介憎さに、変な浪人から蜘蛛を買ってきたのがまちがいのもとだったんだよ!」
「なに、蜘蛛を買ってきた?」
 と、車佐助は大声をあげて、
「お玉さん、そ、それはどういうわけだ?」
 お玉は泣きじゃくりながら、
「小金さんにきいてちょうだい。薬研堀でいっしょに変な浪人から買ってきたんです。毒蜘蛛じゃないといったから、おどすつもりで、美紀之介の絵日傘に入れたんだけど、それが毒蜘蛛だったらしいの。――」
「小金、そりゃほんとか!」
 と、佐助はふりむいた。にじり[#「にじり」に傍点]口に|真《ま》っ|蒼《さお》な小金の顔がのぞいた。
 ところが、小金の顔が、あわててはげしくふられたのである。
「知らない。あたし、知らない!」
「知らない? 小金ちゃん、だって、あたしといっしょに薬研堀の医者のところへいったかえり路――」
「あたし、知らないよ、そんなこと――お玉さん」
 お玉は、あっけにとられた。すぐに、あのあとで小金が、「あの浪人はいなかったことにしよう、逢わなかったことにしよう、あんなもの、買わなかったことにしよう」と、ふるえながらいったことを思い出した。小金はかかりあいになることをこわがっているのだ!
「何のことだ、わしにはわけがわからん」
 と、佐助がつぶやいて、もういちどお玉の方をふりむいたが、そのときその眼がぎょっと大きくひろがった。お玉はぽかんと口をあけたままだ。と――
「あぶない!」
 ふいに大声がして、いきなり蓑屋長兵衛がお玉の肩から何かをはらいおとして、たたみの上におちたものを、あわてて炉の火に|蹴《け》こんでしまったが、その一瞬、お玉はそれが一匹の紅蜘蛛であったことをみとめた。
 ほんのいましがた天井のどこかへきえたはずの紅蜘蛛が、あたしのからだにとりついていた! まるで買い主をしたうように。――
 そう知ったとたん、お玉は失神した。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2008-4-30 09:17:21 | 显示全部楼层
     二

 ――女囚お玉の話は終った。
 これが、|嫉《しっ》|妬《と》のあまり、どこからか毒蜘蛛を手に入れてきて、夫を寝とった女軽業師を殺し、つぎにそれを感づいた夫を殺して、お奉行さまから、やがて死刑を宣告される女の物語であった。
 うすぐらいおんな|牢《ろう》のなかに、くびもおれるほどうなだれたお玉のひざに、滴々と涙がおちている。
 みずからの罪をみとめ、悔い、死を覚悟したその哀れな女の姿を姫君お竜はじっとながめていた。
「そう」
 と、お竜はつぶやいて、ちょっと絶望的な|溜《ため》|息《いき》をついたが、すぐに顔をふりあげて、
「もうすこしききたいことがあるわ。お玉さん」
「なにを?」
「ね、蓮蔵さんは、ほんとに美紀之介を殺したのがあなたと感づいていたのかしら?」
「あのひとは、美紀之介殺しの下手人はたしかに一座の中にいるといってたわ。でもね、お竜さん、ほんとのことをいうと、あのひとがあたくしを下手人だとかんがえていたとは、どうしても思えないの。もしそうだったら、あのひとならあたしをつかまえてなぐりつけても白状させると思うわ。あたしに白状させるために、蓑屋さんの茶室まで借りて、あんな手数をかけるとは思えないわ」
「それじゃあ、いったいだれをうたがっていたのかしら?」
「それはわからない。なにしろ何もしないうちに死んじゃったんだし、実際美紀之介を殺したのはあたしのほかにないんだもの――」
「蓮蔵さんは、蓑屋さんと相談のうえでそんなことをしたんだといったわね。のむと何もかも白状させるお茶を蓑屋さんからもらったとか――」
「それがね、うそなんですって」
「うそ?」
「そんなお茶や薬があるものか、と蓑屋さんは苦笑いをしていなすったわ。蓑屋さんが両国の小屋に使いをよこしたのはね、あの蜘蛛を売る浪人は探したけれど見つからないし、ともかくあたしの話をうちのひとにつたえて、いろいろ相談したり、うちのひとをなだめたりしようと思って呼びにきたんですって。ところが、うちのひとの方から、逆に下手人について思いあたりがあるから、ちょっと茶室を貸してくれという話で、蓑屋さんの方は、それでこれは妙なことをいい出したと思い、あたしのことをうちあけるのは一応ひっこめて、しばらく様子をみようと考えて、あのひとのいうとおりにさせておいたんですって。――」
「そう、じゃ、蓮蔵さんは、そんなたねもしかけもないお茶で、みんなをひッかけようとしたのね。なるほど手品や軽業をみせる一座の座元らしい|智《ち》|慧《え》だ」
「あたしなら、そのたねもしかけもないお茶で白状したかもしれないわ」
「とにかく蓮蔵さんは、だれかに白状させようと考えて、その茶室に入って紅蜘蛛に殺された。――お玉さんは、その紅蜘蛛はどこから出てきたと思うの?」
「わからない、それがあたしにはわからない!」
 お玉は髪の毛に手をつっこんで、もだえて、
「きっとね、あの美紀之介を殺した蜘蛛が、どこかにみえなくなったけれど、いつのまにかうちのひとのきもののどこかに入ってたにちがいないわ。ふしぎだけれど、そうかんがえるよりほかにかんがえようがないもの。――」
「蓮蔵さんのきものに?」
 お竜はぐっとお玉の顔を見つめていたが、
「それにしては、うまく蜘蛛がとき[#「とき」に傍点]を見はからったものだ」
 と、つぶやいた。
「お玉さん、蓮蔵さんが死ぬとき――そのまえ、茶室にあやしいものが出入りしたようなことはなかったかしら?」
「なかったわ。あとで調べたら、その茶室の南と東は壁になっていたし、あとの北と西だけに、窓や、あたしたちの入っていた小さな室や、蓑屋さんのとびこんだ出入り口があったけど、その二面は、庭ごしにこっちからまる見えだったもの」
「蜘蛛なら、入っていってもわからないでしょ?」
 と、いって、お竜は苦笑した。
「蜘蛛が蓮蔵さんのからだにとりついてたというのもおかしいけれど、はじめから蓑屋さんの茶室にそんな蜘蛛がいたなんてことはあり得ないし、といって、遠くから蜘蛛をあやつって、その茶室にしのびこませるなんて出来ッこないわね」
「でも、あの蜘蛛は、ほんとに|化《ばけ》|物《もの》だわ。たしかに天井へきえたはずなのに、いつのまにかあたしの肩にとまっていたもの。――あたし、たいへんなもの買っちゃったのだわ。……」
 お玉は身ぶるいして、またすすり泣きをはじめた。そのとき、お竜の眼が、ふいにキラリとひかった。
「お玉さん、蜘蛛は二匹いたんじゃないかしら?」
 お玉はキョトンとしてお竜をみていたが、急にはげしく首をふった。
「そうとしか思われないけれど……あたしの買ったのは、たしかにたった一匹よ!」
 お竜は、うなずいた。しかし、いまのじぶんの言葉の方にうなずいたような様子であった。それから、泣いているお玉の肩に手をかけて、やさしくいった。
「わかりました。お玉さん、あなたは蜘蛛を買ったかもしれないけれど、だれも殺す気はなかったのね。してみれば、わるいのはそんな毒蜘蛛を売りつけた浪人だわ。あなたがもしお仕置をうけるなら、そのまえにその浪人がつかまって、お仕置をうけなきゃてにをは[#「てにをは」に傍点]があわない。……」
「でも、そんな浪人がいたなんてことを、お役人はだれも信じてくれないんです。……」
「小金さんがあかしをたててくれなかったの?」
「小金さんは、かかりあいをこわがって、あくまで知らない、そんな浪人を見たことがないといい張るの。あたし、腹もたったけれど、しまいにはどうでもかってになれと思っちゃった。どっちにしたって、わるいのはあたし、あたしひとりが打首になりゃすむことなんだもの!」
 そしてお玉は肩をゆすってヒステリックに笑った。
「どう? あたしのわるい女だってことが、よくわかったでしょ?」
「わからない」
 と、お竜はくびをふった。
「あたしにはわからないことだらけだわ」
「あたしだってそうだけれど――」
 と、お玉はいいかけて、急にくいつくように、
「何がさ?」
「まず第一に、その蜘蛛を売る浪人の正体が――第二に、人を殺す蜘蛛そのものが――」
 何かいおうとするお玉をお竜は眼でおさえて、指おりかぞえ、
「第三に、車佐助という人が蝶をつかまえていたわけが――第四に、蓮蔵さんがだれをうたがっていたのかということが――第五に、一座のものをうたがって白状させようとするのに、なぜわざわざ蓑屋さんの茶室を借りたのかということが――第六に、その茶室でそんなにうまく蓮蔵さんが殺されたわけが――第七に、あなたが一匹買った蜘蛛が、そこに二匹いたらしいことが――第八に、小金さんがこれほどの騒動になっても、まだ浪人と逢ったことを知らぬ存ぜぬでとおそうとしたことが――」
 それから、彼女はうすら笑いをうかべて、
「第九に――これほどわからないことだらけなのに、簡単にあなたをつかまえて、こんな牢に入れたお|奉行《ぶぎょう》さまのおつむ[#「おつむ」に傍点]のかげんが――」
 いままで、きくともなくお玉の告白をきいていた他の女囚たちがはっとしたとき、お竜はさらに彼女らを|唖《あ》|然《ぜん》とさせるようなことをした。折りまげていって、最後に一本のこった指を口に入れたお竜が、ヒューッと口笛を鳴らしたのである。
 すると――絶対にそんなことのあろうはずはないのだが――まるで、その口笛に呼ばれたもののように、|格《こう》|子《し》の外に一つの人影が立ったのである。
「武州無宿お竜、出ませい!」
 と、その影は|峻烈《しゅんれつ》な声でさけんだ。みると、きのうお竜をひったててきたあの八丁堀の若い同心だ。
「奉行さま、じきじきに当牢屋敷に御出座あそばし、御吟味に相成る。早々|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》へ|罷《まか》り出ませい!」
回复 支持 反对

使用道具 举报

您需要登录后才可以回帖 登录 | 注~册

本版积分规则

小黑屋|手机版|咖啡日语

GMT+8, 2024-6-11 16:44

Powered by Discuz! X3.4

© 2001-2017 Comsenz Inc.

快速回复 返回顶部 返回列表