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100321访墓客

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发表于 2010-3-24 17:55:55 | 显示全部楼层 |阅读模式
100321访墓客

    きょう春分の日は彼岸の中日になる。寒から暖へ転じる候だが、きまって思い出すのは正岡子規の〈毎年よ彼岸の入に寒いのは〉である。母の言葉をそのまま一句に仕立てたそうだ。さすがの自在さである。

    今天是春分,是彼岸(译注:日本将春分和秋分的前后七天称为“彼岸”。中国没有对应的说法。)的中间一天。在这个寒暑转换之际,总要想起正冈子规的一首俳句:“已到彼岸中,乍暖还寒仍寒冷,年年皆如此”据说这首俳句就是直接将他母亲的话记录下来而已。这种信手拈来的自由自在实在令人叹服。


敬意を表して、彼岸の入りに東京・田端にある墓所を訪ねてみた。母八重の墓と並んでうららかな日を浴びていた。隣には、生前に自ら書いた墓碑銘を刻した碑がある。「……明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十圓(えん)」。なるほど、□の部分は生きているうちは分からない。給金を記した墓というのも随分と珍しい。

怀着深深的敬意,进入彼岸后我造访了他位于东京•田端的墓地。他的墓和他母亲八重的墓靠在一起,沐浴在灿烂阳光下。墓旁立着一块刻有自撰墓志铭的石碑。“……明治三十□年□月□日没,享年三十□,月俸四十圆”。在生前,□的部分自然是不知道的。而刻有月俸多少的墓碑还真是稀罕。


こうした、歴史上の人物の墓めぐりが、いま静かな人気なのだという。愛好者を指す「墓マイラー」なる言葉も生まれている。そのための地図を作った所もある。子規の親友だった漱石が眠る雑司ケ谷(ぞうしがや)霊園もその一つだ。

据说像这样探访历史名人之墓地的活动,眼下正在悄然兴起。还产生了一个专指此种爱好者的名词——“访墓客”。有些地方还特地为此制作了地图。子规的好友漱石(译注:指夏目漱石。)长眠的杂司谷陵园也是其中一。


地図を頼りに訪ねると、文豪の墓は堂々としていた。多くの有名人にまじって大塚楠緒子(くすおこ)の墓も見つけた。詩文にたけた才女で、早世を悼んだ漱石は〈有る程の菊抛(な)げ入れよ棺の中〉の名高い句を詠んでいる。

循着地图找去一看,见大文豪的坟墓果然堂而皇之历历在目。在众多的名人墓之中,我发现了大冢楠绪子的坟墓。为了悼念这位诗文冠世而又英年早逝的才女,漱石吟过一首著名的俳句:“所有的菊花,尽悉抛入棺木中,难慰哀悼情”。
一説、漱石が思いを寄せたともされる楠緒子は今年で没後100年になるそうだ。漱石の「夢十夜」がふと胸に浮かんだ。「百年待っていて下さい」と言い残して死んだ、作中の有名な「女」が重なり合う。墓マイラーもなかなか面白い。

有人认为漱石曾经十分心仪楠绪子,而今年正是她去世100周年。漱石的《梦十夜》在我心头油然升起。书中那位留下一句“请等我一百年”后便撒手人寰的有名的“女子”和长眠于墓中的才女,自然而然地在我心中合二为一。做个“访墓客”不也趣味横生吗?

きょうは代々の墓にお参りの方もおられよう。有名人でもご先祖様でも、墓はいつもどこか懐かしい。聞こうと心する耳には届く。そんな言葉で昔を語ってくれているからかもしれない。

今天,肯定也有人去祭扫祖坟了吧。名人也好,祖宗也好,墓地总让人倍感怀念。只要你有倾听之心,就会有话语传入耳中。因为他们或许会用那样的语言向我们讲述往昔的岁月的。





相关链接:
「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」の句鑑賞
漱石の恋(2)

漱石の恋(1)の続きである。
小屋保治と楠緒子が結婚した明治28年12月の末、漱石は中根鏡子と見合う。
翌6月、漱石は鏡子と結婚した。
その時のことを妻となった鏡子は
「俺は学者で勉強しなければならないのだから、お前なんかにかまつて居られない。それを承知してゐて貰ひたい」
と宣言したという。
そしてその年10月の漱石作の俳句に「人に言へぬ願の糸の乱れかな」という句を作っている。まだ、楠緒子に未練があったのだろうか。
ちなみに詩人の正津勉氏はこの句に対して
「ついに告げ得ず願いの糸は乱れ絡んだまま。楠緒子への尽きせぬ想いは漱石の胸の内に秘められる。このことが漱石文学の重大なテーマである三角関係の問題に影を落としているのは容易にみてとれる。親友と昔の恋人をめぐる葛藤と罪の意識。それは「一夜」以降、「それから」「門」「心」「明暗」等、ほとんどの主要作品の中心的題材として執拗に反復される」と述べる。
一方、楠緒子といえば、「淡かりしとばかり春の夢醒めて恋われし人を今恋いぞみる」と詠んでいる。
楠緒子も、心中複雑であった。
その後漱石は33年にイギリス留学、36年に帰国すると、親友であり楠緒子の旦那となった大塚保治の尽力で東京帝国大学の講師の職を得る。
当時、大塚保治は東京帝国大学教授で、東大で日本人として初めて美学と美術史を講じている。
一方、楠緒子も作家として28年「暮れゆく秋」30年「しのび音」を発表。閨秀作家として活動しだした。
しかし、43年11月9日、流行性感冒から肋膜炎に罹り楠緒子急逝。36歳であった。
楠緒子の死の直前の11月3日、楠緒子の和歌の師匠、佐々木信綱が病床に見舞った。
そのとき楠緒子は筆をとって、「こもり居は松の風さへうれしきを心づくしの友のおとづれ」と書いて贈った。これが楠緒子の最後の歌となった。
そのとき漱石は胃潰瘍で修善寺で療養後(修善寺の大患)、麹町区内内幸町の胃腸病院で休養していた。
そして、楠緒子急逝の報が届く。
その時の漱石の日記。
「11月13日晴。新聞で楠緒子さんの死を知る。9日大磯で死んで、19日東京で葬式の由。驚く。大塚(夫)から楠緒子さんの死んだ報知と広告に友人総代として余の名を用ひて可いかといふ照会が電話で来る」
「11月15日(火)晴。床の中で楠緒子さんの為に手向の句を作る
棺には菊抛げ入れよ有らん程
有る程の菊抛げ入れよ棺の中
ひたすらに石を除(の)くれば春の水」
漱石は入院中であったので、19日雑司が谷で行われた楠緒子の葬儀には参列できなかった。
正津勉氏は漱石の追悼句について、
「『有る程の』と掲げて、『抛げ入れよ』と命じる、まったくこの悲嘆ばかりは痛切きわまりない。いやこの句の強い訴えをみよ。これは追悼吟として後世に残る一代の秀作だろう。ほんとうにいかほど漱石が楠緒子を愛しつづけていたか。いまこの一句をみるだけでも理解できよう」と述べる。
同感である。

参考  正津勉著「刹那の恋、永遠の愛」河出書房新社
伊藤整著「日本文壇史17・転換点に立つ」講談社文芸文庫
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发表于 2010-9-2 12:16:35 | 显示全部楼层
“墓マイラー”,也就日本人能造出这种词!:)

“墓マイラー”据说源于“墓参(まい)り”,似乎是在其上加了一个英语的表人的后缀“-er”。
窃以为此词中亦有“admirer”的影子。
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 楼主| 发表于 2010-9-7 16:51:59 | 显示全部楼层
どうも ありがとう。
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