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041119《天声人語》有德议员
今の国会議事堂は、二・二六事件の起きた1936年、昭和11年にできた。国会議員を60年余務め、憲政の神様と呼ばれた尾崎行雄が詠んでいる。〈美事なる此議事堂にふさはしき議員を得るハ何時の代ならむ〉
现在的国会议事厅是发生二•二六事件的1936年,即昭和11年建成的。连任60多年国会议员,被称为宪政之神的尾崎行雄对此有诗吟诵。“美哉斯堂,富丽辉煌,有德议员,何时可得”。
そう書かれた色紙が、国会前にある憲政記念館の「尾崎メモリアルホール」に掲げられている。国会の組織、邌婴鋺椪螝s史などを展示する記念館の一室だ。
写有此诗的彩纸,悬挂在国会前宪政纪念馆的“尾崎纪念厅”。这是纪念馆中展示国会组织、运作以及和宪政历史等内容一个展厅。
記念館で民主党が開いた集会に、村岡兼造・元自民党性鹤h員が出席し、「ぬれぎぬだ」と述べた。村岡氏は、日本歯科医師連盟から自民党旧橋本派への1億円献金隠し事件で、政治資金規正法違反(不記載)の罪で在宅起訴されている。その容疑を全面否定した。
前自民党众院议员村冈兼造出席了民主党在此纪念馆召开的集会,席间他大喊“冤枉”。村冈因日本牙科医生联盟秘密捐赠给自民党旧桥本派1亿日元政治捐款,以触犯政治资金规正法(不记载)的罪名被居家起诉。而他对此嫌疑作了全盘否定。
「身の潔白を証明したい。『政治とカネ』は大事な問題で、解決しないと国民が政治を信用しない」とも述べた。潔白が証明されたわけではなく謎は深まった。しかし「政治とカネ」のくだりは、その通りだと思う。派閥の長だった元首相から国民への説明が無いのも変だが、党全体の責任をもつ総裁・首相の沈黙も異様だ。信用は更に揺らぎかねない。
他还说“我要证明自己是清白的。因为‘政治和金钱’是个重要问题,若不解决,国民就对政治不信任。”自身的清白未能得以澄清,迷,却越发的深了。然而,“政治和金钱”的问题,却正如他所说的一样。曾是党派领袖的前首相对国民没作任何解释已然很奇怪了,对全党负责任的总裁•首相的沉默也颇显反常。信用必将进一步发生动摇。
自民党の憲法調査会の改憲素案が明らかになったが、中に「政党法の制定」との項がある。「政党は、議会制民主政治における自らの役割を深く自覚し、その健全な発展に努めなければならない…」憲法の作り替えよりも、この自明な責務がなぜ果たせないのかを省みる方が先ではないか。
自民党的宪法调查会的改宪草案已经公布,其中有“政党法的制定”一项。“政党必须深刻认识到其本身在议会制民主政治方面的责任,必须为其健康发展而努力……”。那么,在修改宪法之前,不是更应该首先来反省一下,为什么没完成这不言自明的职责呢?
尾崎翁が没して50年たった。この時代は、「ふさはしき議員」を得たのだろうか。はなはだ、心もとない。
尾崎翁去世50了。这个时代得到“有德议员”了吗?叫人很不放心。
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一、日本"二•二六"政变
1936年2月26日皇道派青年法西斯军官制造的流血军事政变事件。也是陆军内部皇道派与统制派两派的一次决战。政变的起因是皇道派青年将校受日本法西斯主义鼻祖北一辉思想的影响,企图利用流血的军事政变夺取政权,达到改造国家、建立军部独裁政权的目的。政变的直接起因是由于1935年陆军大臣林铣十郎罢免教育总监真崎甚三郎大将,发生相泽事件,致使皇道派与统制派矛盾尖锐化。1935年12月,陆军部决定调遣皇道派的东京第一师团驻防"满洲"是导致爆发二•二六政变的导火索。1936年2月26日晨,安藤辉三、村中孝次和栗原安秀等皇道派军官,伙同步兵第一、三连队、近卫步兵第三连队的22名少壮军官,抽调1400余名士兵在东京起事。叛乱部队高喊"昭和维新"、"尊皇讨好"等口号,袭击政府首脑官邸或私宅,杀死内阁大臣斋藤实、大藏大臣高桥是清和教育总监渡边锭太郎,重伤侍从长铃木贯太郎,误杀冈田启介首相的秘书,占领陆军省、参谋本部、国会和总理大臣官邸、警视厅及附近地区,要求陆军首脑果断实行国家改造,任命荒木贞夫为关东军司令官,以压制苏联,逮捕或罢免"统制派"军官。陆军当局本已预计到发生兵变的可能,希望利用这一机会建立新体制,因此颁布《戒严令》。但政界、财界和海军部不支持政变,民众也逐渐了解事件的真相,事态的发展遂转向武装平叛。2月29日,陆军首脑正式下达镇压命令,调遣地方部队抵达东京。大部分叛军头目均被平叛部队逮捕,主谋者除2名自杀外,全部被处死,兵乱的思想支柱、法西斯主义分子北一辉、西田税也被处以死刑。参加叛乱的士兵回到各自的营房。平定叛乱后,陆军当局彻底清洗了皇道派,确立统制派对陆军的支配地位,大批与皇道派有牵连的人受到处分,并表示以后反对和拒绝从事扰乱军队秩序的法西斯主义运动。二•二六事件是日本法西斯少壮军官发动的最后一次军事政变。以该事件为契机,冈田启介内阁辞职,军部以血腥的镇压手段加强了他们在政治上的发言权。广田弘毅组阁后,在陆军大臣侯选人寺内寿一大将的强硬要求下,同意恢复军部大臣现役武官制,军人遂掌握了随时可以使内阁倒台的大权。此后,日本迅速走向军部法西斯专政的道路。
二、尾崎行雄(おざき ゆきお、安政5年(戸籍上は翌6年の旧暦11月20日)11月20日(1858年12月24日) - 1954年(昭和29年)10月6日)は、政治家。号は咢堂(がくどう)。神奈川県津久井郡生まれ。
共立学校(現在の開成高校)を経て慶応義塾に入学するが、塾長の福沢諭吉に反抗して退学、東京大学工学部に再入学する。
1882年立憲改進党の創立に参加、1890年第1回総選挙で当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる。1898年大隈重信内閣において40歳の若さで文相に就任。
1903年から1912年まで東京市長(現在の東京都知事)、1914年司法大臣。
永年在職議員表彰第1号、凶h院名誉議員(50年以上の議員在職者。性氦握嫘vに胸像を建立)第1号、東京都名誉市民第1号。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。 |
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