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3 羊博士おおいに食べ、おおいに語る(3)
一九三六年二月、羊博士は本国に召還され、何度か同じような質問を受けたあと、その春には本省資料室に配属になった。資料の目録を作ったり、書棚の整理をしたりするような仕事である。要するに彼は東亜の農政の中枢から追放されたのだ。
「羊は私の中から去ってしまった」と当時の羊博士は親しい友人に言った。「しかし、それはかつては私の中にいたのだ」と
一九三七年、羊博士は農林省を辞(じ)し、かつて彼がその中心を担っていた、日満蒙綿羊三〇〇万頭増殖計画を利用して農林省の民間貸付金を受け、北海道に渡って羊飼いとなった。羊五六頭。
1939年、羊博士結婚。羊一二八頭。
1942年、長男誕生。(現在のいるかホテル支配人)羊一八一頭。
1946年、羊博士の綿羊牧場、米占領軍の演習場として接収される。羊六二頭。
1947年、北海道綿羊協会勤務。
1949年、肺結核により夫人死去。
1950年、北海道綿羊会館館長就任。
1960年、長男小樽港にて指切断(せつだん)。
1967年、北海道綿羊会館閉館。
1968年、「ドルフィン?ホテル」開業。
1978年、若き不動産業者、羊の写真について質問。
――僕のことだ。
「やれやれ」と僕は言った。
一九三六年二月,羊博士被召回到本国,接受了几次相同的质问,之后被安排到农林部的资料室。其工作就是编写资料目录,整理书架。也就是说他被从农政中枢里赶了出来。
“羊从我的身体里走了。”当时的羊博士给自己亲近的友人说。“但是它曾经在我的身体中。”
一九三七年,羊博士辞去了农林部,利用他曾经承担的那个中心、日满蒙三千万头增殖计划,借用农林部的民间贷付金,去北海道饲养羊。羊就56头。
1939年,羊博士结婚,羊128头。
1942年,长子诞生(就是现在的海豚宾馆的所有人) 。羊181头。
1946年,羊博士的绵羊牧场被美占领军当做演习场。羊62头。
1947年,在北海道绵羊协会工作。
1949年,夫人因肺结核死去。
1950年,任北海道绵羊协会馆馆长。
1960年,长子在小樽港切断手指。
1967年,北海道绵羊会馆闭馆。
1968年,海豚宾馆开业。
1978年,年轻的房产业者对羊的照片提问。当然这是指我的事情。
“哎呀呀!原来如此”我说。
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