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发表于 2005-6-20 14:43:08
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無用の用
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9 g5 U0 h$ `. }およそ有用――役に立つということは大事なことに違いない。
% B" n1 s0 \+ S6 t$ C4 J" z( yだが、浅はかな人間の知恵で推し量られる有用が、本当の有用であるか! c; Y- \# Z$ z9 |, q0 g
どうか。もう一つ上の、“道”(タオ)の立場から見れば、凡俗の輩の& O+ x6 \5 M4 H5 Q b; R
有用などは取るに足らぬこざかしさ、いや愚かさに過ぎず、無用とされ4 W( G" c- b4 u2 @) W+ A
るものの方に却って大用――真の用があるとも言えるようではないか、" \* E' |4 w$ L
と例の皮肉哲学者荘子は、無用の用を強調するのである。$ s' p4 }6 I X+ f( L
: |' @! K/ |/ ^& d: b そうした意味で、「荘子」の書中には、しきりと無用の用が説かれて& O: \6 X' B# Z7 y9 M2 { H3 }
いるが、その最も代表的な例の一つは、「人間世篇」に見える楚の国の
" @' g5 E3 K3 k) ^0 _0 P- u隠士狂接與が、孔子に対して発した批評の中で語られる次のような言葉 s% U* J4 V# R# l4 e
である。7 U6 U+ y- n* M0 K: L) a
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「およそ山の木は人の役に立てばこそ、伐り倒されて我が身に
$ a# U3 m% t2 `6 _ 寇もしよう。膏火は明るければこそ、火をつけられて我が身+ W7 c+ w Q# B# n: [
を焦がしもしよう。肉桂は食料となり、漆は塗料となればこ8 w5 _% p# g- {3 e6 F
そ、伐られもしよう、割かれもしよう。人は皆、有用の用の
. H3 @' \" A& C- h" w み知って、無用の用を知ろうとしない。憐れむべきことよ。」
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こう言って狂接與は、仁義道徳をもって乱世に為すあらんとする孔子! h! ~, f; j$ w) ]
の態度を諷した。さかしらの有用は、却って我が身に寇する有害無益の2 d; z. t; @& K* x3 w' B/ z1 m
ことに過ぎぬというのである。; u/ Z! h3 g$ _ Y/ a
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- ~9 h1 J# w- `. k) [ とすれば無用の用とはどういうことか。荘子は巧妙な比喩を使ってそ. J3 q8 w V1 }5 B/ {% x! _
のことを語り明かす。" P. {3 Y6 m6 t
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ある人から、 |) H$ x E- v% I3 S
「君の議論ときたら、無用きわまるな。」: Z/ p4 i9 K2 y9 y
3 }+ t- k5 A, E+ l+ b7 f6 l と批評されて、荘子の答えはこうである。
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0 j; r& c, q. h 「いや、無用なりゃこそ、用の足しにもなるんだよ。地面にし, f0 ~' X2 Z, x8 y) z
たってそうだ。人間が立つためには、足をおく余地さえあれ6 l% R# h6 Z' {4 J
ばいいわけだが、さて足をそばだてて、その廻りをみんな奈
( U' {* Y* @) y- h& } 落の底まで掘り下げたとして見たまえ。それでも足下の地面$ C9 d) y5 r% g' K$ X: s- u6 D( ?
が何かの役に立つだろうか。」
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5 R' j8 u7 j% l4 Y( I& i( A8 M 「それは立たないさ。」/ p+ u; A' {8 ` B! A8 l
. e! \4 V+ S5 ^# F. { 「してみれば、無用が実は用の足しになることも判ろうという
/ ]; Z1 e4 ~1 @" O, |: V! _ もんじゃないか。」* D% O" _( z2 _' d1 P2 q) L M9 U
/ Z+ P1 d- V! {- g5 `; ]: v8 ]7 k, t I だが更に言ってみれば、本当の無用の用とは、人間的なさかしらを去
$ m4 E1 S2 q% I9 x; D. [5 sって、“道”の世界に優遊する事によってのみ果たされるのであって、4 {+ C! s. m7 r& k
常識的な意味での無用――役立たずとは少し違う。その間の消息を明ら
4 t. {" t( j) T7 d) L. qかにするために、『荘子』の山木篇の中には、またこんな話がしるされ1 G7 p. K" i7 D, s a X
ている。
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ある時荘子が弟子の一人と旅に出て、山道で枝葉のこんもりと繁った
% e% o) h7 Z6 Z4 ]# p. u大木を見掛けたが、付近にいる木樵も、この大木には手をつけようとし
3 v2 H# J5 S" R* m) J: T. O, xない。わけを聞くと、「この木は役立たずだからほったらかしてある」/ h; l9 a# T. L+ j4 H7 x- n
という答え。そこで荘子は弟子向かって、
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「ほれご覧、この木は役に立たぬお陰で、自分の天寿を全うす$ J- C4 o$ M# P' N, V/ A5 q" r
ることが出来るんだよ。」( n4 `, c9 s4 s6 F4 ^
?0 L0 W, j' B j, J C; P と教えた。ところがその晩、知り合いの家に泊まると、そこの主人は
% e; A7 M* g' ` {" V+ W大喜びで、飼ってある雁を潰して御馳走をしてくれたが、その時には二* M y- f) ~ e1 v
羽の雁のうち、良く鳴くのと鳴かぬのと、鳴かぬのは役立たずというわ
- K }2 @' W4 Z( x' o4 l9 G: h( sけで、その方が潰されてしまった。弟子は戸惑って、
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- _# O4 ^# t. c+ p 「さあ判りません。こうなると役に立つのと、立たぬのと先生
% e1 |) Y; R& t0 A4 j# @( W) v は一体どっちをおとりになるわけですか。」
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/ |; u# J" s P6 G! ?3 [ と訊ねる。荘子はにっこり笑いながら答える。$ W% X0 L3 V$ e0 \& c, ~# s, j
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「そうさな。わしなら役に立つと立たぬの中程にでもいるとし
, a: ~4 g; t ^' J5 d& [, H ようか。もっともそれもまだ本当に“道”に遊ぶと言うには
. ?% |# t4 R0 ~3 N4 b 足りんから、ちと累が残る。本当に“道”に遊ぶと言うのは
& |! _) Z1 V6 @% P& [0 w& Q: r1 i だな、誉められもせず、謗られもせず、その時々に順応して! E6 x8 `# K' p8 {3 ~
些かのさかしらも弄さぬこと。浮くも沈むもままにして人と6 W0 X2 j- B7 j* {2 D
争わず、“道”のまにまに身をまかせ、物を制しても物に制
* j8 A4 d8 T! V- W0 q; o' n せられぬことだ。そうすれば何の累も残ろう筈がないじゃな; g) Y# d' I6 F
いか。」 |
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