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[其他翻译] 学《书谱》学日语(25)

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发表于 2019-10-27 09:26:20 | 显示全部楼层 |阅读模式
孙过庭《书谱》原文、汉译文、日译文(25)

【原文】
写《乐毅》则情多怫郁;书《画赞》则意涉瑰奇;《黄庭经》则怡怿虚无;《太师箴》又纵横争折;暨乎《兰亭》兴集,思逸神超,私门诫誓,情拘志惨。所谓涉乐方笑,言哀已叹。岂惟驻想流波,将贻啴喛之奏;驰神睢涣,方思藻绘之文。虽其目击道存,尚或心迷议舛。莫不强名为体,共习分区。岂知情动形言,取会风骚之意;阳舒阴惨,本乎天地之心。既失其情,理乖其实,原夫所致,安有体哉!

【汉译文】
写《乐毅论》时心情不舒畅,多有忧郁;写《东方朔画赞》时意境瑰丽,想象离奇;写《黄庭经》时精神愉悦,若入虚境;写《太师箴》时感念激荡,世情曲折;说到《兰亭》兴会作序时,则是胸怀奔放,情趣飘然;立誓不再出山做官,可又内心深沉,意志戚惨。正是所谓庆幸欢乐时笑声溢于言表,倾诉哀伤时叹息发自胸臆。难道只有志在流波之时,才能留下和缓的乐章;神情驰骋于睢涣二水之际,才会思索华翰的词藻。虽然眼见即可悟出道理,仍然可能会内心迷乱议论有误。因此无不勉强分体定名,区分优劣供人临习。岂知情趣有感于激动,必然通过语言表露,抒发出与《诗经》《楚辞》同样的旨趣;阳光明媚阴云惨暗,这些都是缘于大自然的时序变化。(那种违心作法)既背离书家的意愿,也与实情不相符合。原本就是那样,哪有什么体裁呢!
  
【日译文】
王羲之が「樂毅論」を書けば、その筆致には憂鬱とした心のもだえが見られ、「東方朔画賛」を書けば、心は奇異で広大な世界に遊び、「黄庭経」では道家の根本原理である虚無の境地に喜びを見出し、「太師箴」では縦横に論争する姿が見える。「蘭亭集序」では、精神は高く拳がり別世界に馳せ、先祖の霊に自分の志を誓った「告誓文」は、感情が鬱屈し悲傷している。古人の言う「楽しければ笑い、哀しみを語れば嘆息する」のが彼の書であり、かの琴の名人伯牙のように流れる水を心に思い描けば、琴の調べもゆったりと流れる水の響きを残し、睢水や渙水の地を連想すれば、その地の産物である刺繡の織物が頭に浮ぶといったレベルどころではないのである。王羲之の書は『荘子』の言う「目撃して道存す」で、一日で道の体得を知るものであるが、にもかかわらず、中には疑惑を懐き、的はずれの議論をするものがあり、無理やり「何々体」と呼び、同じ書を習いながら「何々流れ」と区分しないと気がすまない輩がいる。そんな連中には、心の感動が形になる王羲之の感情が、『詩経』や『楚辞』を体得したものであり、春には気が晴れ晴れとし、冬にはむすぼれる、天地の心と本質を同じくするものであることなど理解できようか。王羲之の書の真の感情を見失えば、その理論は真実から離れた的はずれの議論になってしまうのである。彼の到達した究極を明らかにすれば、「何々流」などと言っておれようか。
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