「縮み」志向の日本人
李御寧 著
第一章 裸の日本論
1 「日本論」祭り
幻の衣を着た「日本論」
私はいまここで鬢(びん)に白いものが混じり出した大学教授として、もしくは〇・二の近視メガネをかけた文芸評論家として日本を語ろうというのではありません。それよりは、まず小学校時代の子供にかえって日本の姿を見、考えてみたいと思うのです。書斎の本棚にさし込まれた本――何よりも日本について述べているあのたくさんの本はしばらくうっちゃっといて、小さな肩に背負ったランドセルの白いノートとちびた鉛筆だけを持ちたいのです。ことに欠かせないのは柔らかでよく消える消しゴムかもしれません。
ただのアレゴリーではありません。ほんとうに私の日本語やその主な知識は、太平洋戦争が終わって、韓国が植民地統治を脱するときまでの小学校の教室で得られたものです。それなのになぜ私は、貧弱な日本語やその知識を省みずに、むしろその少年時代にかえって日本を語ろうとするのか。この大胆にして不思議とも思える冒険をあえてするのは、よく知られているアンデルセンの童話『裸の王様』が、私にその勇気を与えてくれたからです。大人は、群衆が作りだした幻想の衣を通じてしか王様を眺めることができません。たとえ王様が裸であるのに気づいても、間違っているのは自分のほうだと思って、よくそのことを口に出せません。なにも着ていない王様の素肌を見つけたのは子供の眼でした。と同時に、それを大きな声でいえたのも子供の口でした。
これまで日本について書かれたものはフランスのファッション雑誌のように華やかであり、それだけに流行したものも数多くあります。そこには、日本人、外国人を問わず、立派な学者、芸術家、評論家をはじめ、観光の旅費のタシにするために書かれた無名の旅行者のものにいたるまで、きりがありません。日本に一日だけ滞在する外国人は秋葉原に行き、一週間では富士山を見に行き、一ヵ月を過ごす人は日本論を書くという次第ですから。
戦前はともかく、戦後に日本で著わされた日本論の著作は少なくとも千冊以上に達しています。『菊と刀』『「甘え」の構造』『タテ社会の人間関係』など、その題名がとられて、のちに流行語となったものもあり、逆に「日本株式会社」「エコノミック・アニマル」など、流行語を本の題名にしたものも少なくないのです。日本で日本論がベストセラーになるということは、御神輿(おみこし)になるということを意味します。すぐ人々がそれを担(かつ)ぐお祭りがはじめられるのです。
それらの流行語は、新聞では見出しに、雑誌では巻頭座談会のトピックスに、また放送では時事解説者の合言葉として使われています。書き手にしてみれば、かなりアカデミックな講堂でつくられた用語が、いつの間にか演歌の花道を通っているのです。
そのために、このようなお祭り騒ぎを通じてでなく、直接自分の眼で日本文化の素肌を見るということは、ほとんど不可能な状態にあります。自分も知らないうちに、「群衆と流行がつくりだした幻想の衣」というヴェールがかぶせられているからです。そんなわけで、私は小学校の子供となって、日本文化の裸身を見て論ずるという、小さな決心をしてみたのです。
「甘え」は日本独特の言葉ではない
日本人が書いたものであれ、外国人が書いたものであれ、その日本論に「幻想の衣」がかぶせられがちなのはどうしてでしょうか。そしてその虚構を剥(は)いだ子供の眼とは、そもそもなんなのか。それを見るために、日本論祭りの御神輿のひとつとなった『「甘え」の構造』を例にあげたいと思います。土居健郎氏のこの本は「日本人論」それ自体を明らかにするうえにおいてもまた欠かすことのできない名著だからです。私がこの本に興味を寄せた理由は、内容そのものより、日本人独特の心理を掘り下げようとする発想法とそれをのべてゆくその論理の展開にありました。
土居氏は「日本人の心理に特異的なものがあるとすれば、それは日本語の特異性と密接な関係があるにちがいない」と、その方法論を明確にしています。そうして手に入れた玉手箱がすなわち、「日本語独特の語彙であると確信」した――「甘え」という言葉でした。
しかし、はたして「甘え」は日本人独特の語彙か、これをまず問いたださなければ、その玉手箱から出るものは、空しい煙だけということにもなりかねません。
ところが、はなはだ恐縮な話ですが、氏自身もあとで是認しているように「甘え」という「言葉」は、日本からジェット機で葉巻一本吸っているうちに着いてしまう、すぐ隣の国にも路傍の砂利のようにころがっているのです。韓国語には甘えよりもその使い方がもっと細分化された「(オリグアン)」と「(ウンソク)」という言葉があり、それがまたさかんに日常生活で使われています。「甘えん坊」は「(ウンソクパジ)」、「甘える」は「(ウンソクプリダ)」といいます。「甘やかす」は「(ウンソクバツタ)」、「甘える様子」は「(オリグアン)」です。ことばの意味ばかりでなく、韓国の子育ての大きな特徴をなしていますから、「甘え」は日本より韓国の精神構造とより深い関連があるといってもいいくらいです。大げさに痛がったり、苦痛を誇張して訴えることによって他人にもたれかかる「(オムサル)」ということばなどは、たんなる「甘え」よりずっと複雑です。
それなのにどうして、土居教授のような立派な学者がそんな大きな過ちを犯したのでしょうか。客観的な論拠なしに自己の信じていることをすぐ確信してしまうのが、つまり日本人独特の心理の「甘え」だということをみずから証明してみせるためだったとは信じられません。それは土居教授個人に限らず、明治維新以来、日本人の脱アジア的思考の産物ではないだろうかと思われるのです。すなわち、土居教授が、「甘え」が日本独特の語彙であると「確信」したのは、日本語の達者なイギリス婦人との対話からです。彼女はみな英語で話していたのに、子供の幼年時代のことに及んだとき、急に日本語で「この子はあまり甘えませんでした」とのべたというのです。なぜ、そのことだけ日本語でいったのかと聞いてみると、それは「英語ではいえませんと答えたのである」ということなのです。
そうだから甘えが日本独特の語彙であるというじつに珍しい論理は、明治の開化以来、日本人にとって知らず知らずのうちに、英語がすなわち西洋全体あるいは世界の言語として刻み込まれているという証拠でもあります。そうとでも思わないと、英語にないからそれは日本語の特異性だという論理が、すぐに生まれてくるはずがありません。そこに「日本と日本人論」の「幻想の衣」を解くカギがあるかもしれません。
日本人がこれまで書いてきた日本・日本人論には、『「甘え」の構造』のように英語にないから日本語の特異性だという、主として英米人との単純比較を通じて得られたものが、かなり見受けられます。もう少し広い視野で書かれたものであっても、白人(欧米人)文化との比較論の域を出ていません。
その証拠に、土居教授がイギリス婦人の代わりにフランスやドイツの婦人を考えてみる可能性はじゅうぶんにあっても、韓国婦人はどうかとなると、それはほとんど期待できないことでしょう。「甘え」が日本だけのことばであるかどうかを知るには、欧米諸国より先に日本語ともっとも類似性の多い韓国語から調査してみる方が、正常な思考というものです。
海草と人糞の日本論のウソ
それができないから、意外にも日本人が日本特有の精神構造であると指摘しているもののなかに、じつは韓国や東洋一般の普遍的な特性に該当する事がらが多くあらわれているということがあるのです。複雑な例をあげるまでもありません。たとえば、樋口清之さんは「世界の文明国の中で、海草を食べる国は日本だけです」といっていますが、ひところ韓国産の輸入規制をめぐって論議のかまびすしかったノリは海草ではないというのでしょうか(もっとも韓国は文明国ではないといわれれば、それまでですけれども)。
また梅棹忠夫さんを始め日本人学者五人の共著である『日本人の心』という本では、「人間の排せつ物を野菜にやる有機物のサイクル、人糞を肥料に使うとはおどろくべき発見」と声を大にして主張しています。しかもその「高度の農業技術」は他の民族には見られない、ひとり日本人だけの創案だとも断定されています。しかしほんとうに驚くべき発見は、盲人であっても韓国のどこかの農村に、ほんの十分ほど立っているだけで、その驚嘆してやまない有機物のサイクルが日本民族特有の「高度の農業技術」でないことを鼻だけで知ることができるのに、なぜそれを日本特有のものだと確信するのかということなのです。
「甘え」の場合と同じように、欧米社会になければ日本独特のものと短絡させてしまう例の習慣的思考のためです。人糞肥料の日本論者らは、「『日本人は野菜に人糞をかけて食う』と書いてあるという」フランスの教科書を、その根拠にしていたのです。
それはともかく、私は大して名誉でもない「甘え」やとくに芳しくもない人糞肥料の専有権をめぐって論争する気はすこしもありませんし、ある特定の学者の著書に論駁を加えるのも、私の目的とするところではありません。私のいいたいのは、これまで欧米人が書いたもの、日本人が書いたものを問わず、日本論のその流行的テーマを扱っている一般的な本が、ときに日本とはあまり関係のない「幻の衣」をまとったものであり、その原因が欧米対日本だけの比較という図式から来たものである事実を明らかにすることにあります。白人文化の対立概念は日本文化ではありえません。日本を含めた黄色人種ではありえても、特定の民族の狭い概念をそこにあてはめるわけにはいきません。ところが、直接日本とそれを比較したときには、本来東北アジア圏の普遍的な特性が日本だけのそれであるかのように誤解される論理の飛躍が生じてきます。 |