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正冈子规3

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发表于 2011-4-23 10:09:46 | 显示全部楼层 |阅读模式
雅号 [編集]
雅号の子規とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。また別号として、獺祭書屋主人・竹の里人・香雲・地風升・越智処之助(おち ところのすけ)なども用いた。「獺祭書屋主人」の「獺」とは川獺(かわうそ)のことである。これは『禮記』月令篇に見える「獺祭魚」なる一文を語源とする。かつて中国において、カワウソは捕らえた魚を並べてから食べる習性があり、その様はまるで人が祭祀を行い、天に供物を捧げる時のようであると信じられていた。「カワウソですら祭祀を行う、いわんや人間をや」というわけである。そして後世、唐代の大詩人である李商隠は尊敬する詩人の作品を短冊に書き、左右に並べ散らしながら詩想に耽ったため、短冊の並ぶ様を先の『禮記』の故事に準え、自らを「獺祭魚庵」と號した。ここから「獺祭魚」には「書物の散らかる様」という意味が転じる。「獺祭書屋主人」という號は単に「書物が散らかった部屋の主人」という意味ではなく、李商隠の如く高名な詩人たらんとする子規の気概の現れである。病臥の枕元に資料を多く置いて獺のようだといったわけである。その他、随筆『筆まかせ』の「雅号」にて自身が54種類の号を用いていることを示し[3]、さらに多くのペンネームが用いられているとされる。上述の「野球」(のぼーる)もこの中に含まれる。
子規と病 [編集]
喀血した自身をホトトギスになぞらえて子規と号したことに象徴されるように、子規の文学はその病と切っても切り離せないものであった。母八重の回想では、乳児のころの子規は顔が異常に丸く、見苦しく、鼻も低かった。体質虚弱で背も低く、内向的だったことからよくいじめられていたという[4]。子規が最初に喀血したのは、明治21年(1888年)8月の鎌倉旅行の最中であった。翌22年(1889年)5月には大喀血をし、医師に肺結核と診断される。当時結核は不治の病とみなされており、この診断を受けたものは必然的に死を意識せざるを得なかった。この時子規はホトトギスの句を作り、はじめて子規の号を用いるようになった。子規の病を大きく進行させたのは日清戦争への記者としての従軍であった。明治28年(1895年)5月、帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院。須磨で保養した後松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友夏目漱石の下宿で静養した。この年10月に再上京する途上の頃より腰痛で歩行に困難を来すようになり、当初はリューマチと考えていたが翌・明治29年(1896年)、結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症していると診断される。以後床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになった。
歩行不能になった後も折々は人力車で外出もしていたが、明治32年(1899年)夏頃以後は座ることさえ困難になった。この頃から子規は約3年間ほぼ寝たきりで、寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け(一部は口述)、また病床を訪れた高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節ら後進の指導をし続けた。河東碧梧桐は、暑さに参る寝たきりの師匠に手動の扇風機を作ったと言われている。子規は、それを「風板」と名付け喜び、季語にならぬかと考えたとも言われている。
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