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1 十二滝町の誕生と発展と転落(5)
六年めになって、ようやく開拓村は活気を見せ始めた。作物は実り、小屋は改良され、人々は寒冷地の生活に馴染んでいった。丸太小屋は逸材できちんとした家屋に整えられ、かまどが作られ、カンテラが吊された。人々は僅かに余った作物と干魚(ほしうお)とえぞしかの角を舟に積んで二日がかりで町に運び、塩と衣服と油を買い求めた。何人かは開墾で切り倒された木から炭を焼くことを覚えた。川下には幾つかの同じような村落もでき、交流が生まれた。
開拓が進むにつれて人手の不足が深刻な問題となり、村民は会議を開いて二日間議論を戦わせた末に故郷の村から何人かの後続者を呼ぶことにした。問題は借金だったが、手紙でこっそり問い合わせてみると借金取りの方はすっかりあきらめたようだという返事がきた。そこで最年上の農民が何人かの村の昔の仲間に、こちらに来て一緒に開墾にあたらないかという手紙を出した。明治二十一年、戸籍調査が行われ、役人によって部落が十二滝部落と名付けられたのと同じ年である。
翌年六家族、十九人の新しい開拓民が部落にやってきた。彼らは補修された共同小屋に迎えられ、人々は涙を流して再会を喜びあった。新住民はそれぞれの土地を与えられ、先住民の協力のもとに畑を作り建てた。
明治二十五年には四家族、十六人がやってきた。明治二十九年には七家族二十四人がやってきた。
このように住民は増えつづけた。共同小屋は拡張されて立派な集会所となり、その隣りには小さな神社も作られた。十二滝部落は十二滝村と改められた。人々の主食はあいかわらずイナキビ飯だったが、時折はそれに白米も混じるようになった。不定期的ではあるにせよ郵便配達夫も姿を見せるようになった。
もちろん不快な出来事もないではない。役人がしばしば姿を見せ、税の徴収と徴兵を行うようになった。それをとくに不快に感じたのはアイヌの青年(彼はその頃もう三十代半ばになっていた)だった。彼には納税(のうぜい)や徴兵の必要性がどうしても理解できなかったのだ。
「どうも昔の方が良かったような気がするな」と彼は言った。
それでも村発展しつづけた。
明治三十五年には村のすぐ近くにある台地が牧草地として適していることがわかり、そこに村営の綿羊牧場が作られた。道庁から役人がやってきて、柵の作り方や水の引き方、牧舎の建築等を指導した。次いで川沿いの道が囚人工夫によって整備され、やがて政府からただ同然の値段で払い下げられた羊の群れがその道を辿ってやってきた。農民たちはどうして政府がそのように自分たちに親切にしてくれるのか、さっぱりわけがわからなかった。多くの人々は、これまでずいぶん苦労したんだから、まあたまには良いこともあるのさと考えた。
もちろん政府は親切心から農民に羊を与えたわけではない。来るべき大陸進出に備えて防寒用羊毛の自給を目指す軍部が政府をつつき、政府が農商務省に綿羊飼育拡大を命じ、農商務省が道庁にそれを押しつけたというだけの話である。日露(にちろ)戦争は迫りつつあったのだ。
村で綿羊にもっとも興味を持ったのは例のアイヌ青年だった。彼は道庁の役人について綿羊の飼育法を習い、牧場の責任者となった。彼がどうしてそのように羊に興味を持つようになったのかはよくわからない。たぶん人口増加に伴って急激には入り組み始めてきたの村の集団生活にうまくなじめなかったのだろう。
到了第六年,终于可以看到开拓村的活气了。作物有了果实,公共木屋也被改良,人们也适应习惯了在寒地的生活。将圆木小屋改良成整齐的房子,弄出独立的门户,马灯被吊着。人们把一点点多余的粮食、干魚、北海道的鹿角堆到船上花两天时间运到城里,换购盐、衣服和油。有几个人掌握了在开垦中把阀倒的树烧成炭。在河的下游也诞生了几个相同的村落,由此开始了交流。
随着开拓的进展人手不够成为一个严重的问题。村民召开会议,经过两天的讨论,决定从故乡的村里召来几位后续者。关于原来的借钱问题,就用信偷偷地寻问,回信说被借钱的人早已放弃追债。因此村里最年长的农民向几位村里的过去的好朋友写信,问能否来这里一起开垦。明治二十一年,开始户籍调查,这和官府命名部落的名字为十二瀑布部落发生在同一年。
第二年有六户十九位新开拓人来到了部落。他们被迎到了补修的公共木屋,人们流着泪欣喜重逢。新住民领到了各种各样的土地,在原来老住民的帮助下耕田建家。
在明治二十五年又有四户十六人来到这里。明治二十九年又有七户二十四人来到这里。
就这样住民在不断地增加。公共木屋扩张成为漂亮的集会所,在其旁边还建了小的神社。十二瀑布部落被改为十二瀑布村。人们的主食照旧是稗米饭,偶尔也和白米混在一起。不定期的也开始看到邮递员的影子。
当然不愉快的事情也并不是没有。官府的人经常让人看到,他们来收税征兵。对此特别不高兴的是那位阿依奴青年(他那时已经三十五岁了)。他实在不理解纳税和征兵的必要性。
“真是的,让人感到还是以前好。”他说。
村子还在继续向前发展。
在明治三十五年在村子的附近发现了一块地方,很适合当作牧场,在那里就建立了村营的绵羊牧场。道厅的政府人员下来,指导作栅栏的方法和引水的方法以及牧舍的建筑。接着利用囚人修建了沿河的道路,然后政府用几乎白给的价格售给村里的羊群沿着那条道路而来。政府为什么会对自己那么亲切呢?农民们实在不明白这个道理。很多人认为,到现在过了这么困苦的日子,有时候也会有恩慧的事情。
当然政府并不是出于慈善的心而给农民送羊。那是为了进攻大陆做准备,为了做到防寒用的羊毛自给自足,军部就迫使政府做准备。政府就命令农商部扩大饲养绵羊。农商部就强迫道厅具体落实。这是因为日俄战争被迫而做。
在村里对羊特别有兴趣的当然还是阿依奴青年。他跟着政府道厅的人员学习饲养绵羊的方法,就成了牧场的负责人。他为什么会那样对羊有兴趣呢?这不太明白。大概是随着人口的急剧增加,他不适合这样村里的互相纠缠的集团生活。
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