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[其他翻译] 「ダンスダンスダンス」の翻訳(50)

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发表于 2016-5-28 17:32:14 | 显示全部楼层 |阅读模式
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たとえば、土地買収に応じないものがいるとする。昔から商売をしている履物屋が買収に応じない。するとどこからともなくこわもての人々が出てくる。巨大な企業というのはちゃんとそういうルートだって持っているのだ。そういう会社は政治家から、小説家から、ロック?シンガーから、やくざまで、息のかかったものを一応全部抱えている。日本刀を持ったこわもての連中が押し掛ける。K札もそういう事件にはあまり熱心には手を出さない。K札の一番上まで話はちゃんと通っているのだ。それは腐敗ですらない。システムなのだ。それが資本投下というものだ。もちろん昔から多かれ少なかれそういうことはあった。昔と違うのはその資本の網が比べ物にならぬほど細かくなり、タフになったことだった。巨大コンピュータがそれを可能にした。そして世界に存在するあらゆる事物と事象がその網の中にすっぽりと収まっていた。集約と細分化によって資本というものは一種の概念にまで昇華されていた。それは極言するなら、宗教的行為でさえあった。人々は資本の有するダイナミズムを崇めた。その神話性を崇めた。東京の地価を崇め、ぴかぴかと光るポルシェの象徴するものを崇めた。それ以外にはこの世界にはもう神話など残されてはいなかったからだ。
それが高度資本主義社会というものだった。気にいるといらざるとにかかわらず、我々はそういう社会に生きていた。善悪という基準も細分化された。ソフィスティケートされたのだ。善の中にもファッショナブルな善と、非ファプショナブルな善があった。悪の中にもファッショナブルな悪と、非ファッショナブルな悪があった。ファッショナブルな善の中にもフォーマルなものがあり、カジュアルなものがあり、ヒップなものがあり、クールなものがあり、トレンディーなものがあり、スノッブなものがあった。組み合わせも楽しめた。ミッソーのセーターに、トゥルッサルディのパンツをはき、ポリーニの靴を履くみたいに、複雑なスタイルを楽しむことができた。そういう世界では、哲学はどんどん経営理論に似ていった。哲学は時代のダイナミズムに近接するのだ。
当時はそうは思わなかったけれど、一九六九年にはまだ世界は単純だった。機動隊員に石を投げるというだけのことで、ある場合には人は自己表明を果たすことができた。それなりに良い時代だった。ソフィスティケートされた哲学のもとで、いったい誰が警官に石を投げるだろう?いったい誰が進んで催涙ガスを浴びるだろう?それが現在なのだ。隅から隅まで網が張られている。網の外にはまた別の網がある。何処にも行けない。石を投げれば、それはワープして自分のところに戻ってくる。本当にそうなのだ。
記者は全力を傾けてその疑惑を追求していた。しかし彼がどれだけ声をあげたところで、いや上げれば上げるほど、その記事は微妙に説得力を失っていた。訴えかける力を持たなかった。彼にはわかっていないのだ。それは疑惑ですらないのだ。それは高度資本主義の当然のプロセスなのだ。そんなことはみんな知っているのだ。だから誰もそんなものには注意を払わないのだ。巨大資本が不正に情報を入手して土地を買い占め、あるいは政治的決定を強要し、その末端でやくざが小さな履物店主を脅したり、流行らない小さなホテルの経営者を殴ったからといって誰がそんなことを気にするだろう?そういうことなのだ。時代は流砂の如く流れつづけるのだ。我々の立っている場所は、我々の立っていた場所ではないのだ。
それは立派な記事だったと思う。よく調べてあったし、正義感に溢れていた。でもトレンデイーではなかった。
僕はその記事のコピーをポケットに突っ込み、コーヒーをもう一杯飲んだ。
僕はいるかホテルの支配人のことを考えた。生まれながらに失敗の影に覆われたあの不幸な男のことを。彼にこの時代が乗り切れるわけがなかったのだ。
「トレンディーじゃないんだ」と僕は声に出して言ってみた。
ウェイトレスが通りかかって、変な顔で僕を見た。
僕はタクシーを拾ってホテルに帰った。

  比如,和土地收买不相呼应的是有的。一直经营鞋店就不定。可是却不知道从哪里冒出了可怕面孔的人们。所谓的巨大的企业完全具有那样的来路。那样的公司从政治家、小说家、音乐家、甚至到赌徒,凡是能喘气的无所不有。手持日本刀的那些可怕面孔的人不请自来。K札对那样的事件也不热心参与。因为他们已经和K札的最上面通过话了。那不类似腐败,那是体制。那就是资本投放。自古以来这样的事多多少少就有的。和过去不同的是其资本的网络与不可比拟的东西还细。而且还是很健壮的。巨大的计算机能够将其付储实现。把世界上存在的所有事物和事象一网打进。根据集约和细分化,资本被升华到一种概念。那是极端的说法,连宗教行为都有。人们崇拜资本拥有的力量。崇拜其神话性。崇拜东京的地价,崇拜闪闪发光的奔驰汽车象征的东西。除此之外这个世界上已经没有神话之类的东西了。
  那就是所谓的高度的资本主义社会。不管称心与否我们就生长在那样的社会。善恶的标准也被细化了。已经被高雅时髦起来。在善之中有时髦的善和非时髦的善。在恶之中有时髦的恶和非时髦的恶。在时髦的善中有正式的、有随意的、有温柔的、有冷静的、有新潮的也有写实的。组合起来就会快乐。在毛衣外穿上西裤,像穿上一种皮鞋似的,能够享受复杂的样式。在那样的,世界哲学逐渐变成经营理论。哲学接近了时代的能动。
  当时并没有那样的想,在一九六九年世界还是单纯的。可以向机动队员投石头事件,在一定场合下人们能够达到自己的意愿。但毕竟所以那是良好的时代。在高雅时髦的哲学之下,到底是谁向警官投石头了呢?到底是谁在前进中遭遇催泪瓦斯?那就是现代了。从每一角落到另一个角落布满了网络。在网之外还有别的网,什么地方都去不了。如果你投石头的话,那就收拢,让你回到自己的原地。实质上就这样。
  记者倾尽全力追求其疑惑。但是无论他怎样尽力向上高喊,越向上,其新闻就越消失其微妙的说服力。并不具有上诉力。他自己却并不明白。那不是疑惑的东西。那是高度资本主义很必然的程序。对那些事大家都无所不知,所以也就无人去关心。巨大资本不吝手段将情报弄到手垄断土地,或者强制做出政治上的决定。在最下层让流氓威胁小的鞋店主,殴打几乎不营生的小小宾馆的经营者。有谁都注意到这些呢?那样的事项。时代像流沙那样不停地冲涮。我们所存在的地方并不是我们所存在的地方。
  这是非常出色的新闻。有非常深入的调查,充满了正义感。但并不时髦。
  我把那个新闻放到口袋中,又喝了一杯咖啡。
我想起了海豚宾馆的经营者。也许还在生存之中,那是在失败影子笼罩之下的不幸的男的。他不可能越过这个时代。
“不时髦的。”我发出声说。
女服务员走过来,用异样的眼神望着我。
我叫上出租车回到了宾馆。
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 楼主| 发表于 2016-5-28 17:33:59 | 显示全部楼层
记者报道事实,很艰难。
那位记者会有什么下场那?
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