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发表于 2009-6-18 22:49:07
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古墳文化のノート
古墳文化…3期区分
・古墳…形状-前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳など
葺石、埴輪、濠をめぐらす
・前期古墳…大規模、竪穴式石室、円筒埴輪、呪術的副葬品
箸墓古墳が代表
・中期古墳…巨大化、竪穴式石室→横穴式石室、形象埴輪、軍事的副葬品
誉田御廟山古墳と大仙陵古墳が代表
・後期古墳…群集墳・横穴墓・装飾古墳、横穴式石室、円筒・形象埴輪
武具・土器など、石舞台古墳・高松塚古墳
・渡来人の伝来
新文化・技術の伝来…鉄器や須恵器の生産、
機織り・金属工芸・土木工事など→品部に組織
王仁・阿知使主・弓月君らの渡来
漢字・儒教・仏教の伝来
仏教…百済の聖明王が欽明天皇に仏像などを伝えた。
538年(元興寺縁起など)と552年(日本書紀)説
・生活…竪穴住居・平地住居に住む、土師器・須恵器の使用
衣服-筒袖の衣、男は袴・女は裳
頭髪-男は美豆良、女は髷を結う
・祭祀…祈年祭・新嘗祭、禊・祓 占法-太占・盟神探湯
自然神を祀る…大神神社、宗像神社の沖津宮など
氏神を祀る…天照大神を祀る伊勢神宮内宮
大国主命を祀る出雲大社など
┃文章
弥生時代後期、有力者の墓は大きな墳丘墓だった。3世紀後半~4世紀初頭
に瀬戸内海沿岸から近畿にかけて古墳{こふん}が現われ、4世紀後半に各地
へ広がった。古墳は、特定の個人を埋葬した墳丘を持つ墓である。古墳が作ら
れた時代を古墳時代といい、特徴によって前・中・後期と区分される。古墳の
形は、前方後円墳{ぜんぽうこうえんぷん}・前方後方墳{ぜんぽうこうほう
ふん}・円墳・方墳など様々である。そして、墳丘の斜面は葺石{ふきいし}
で覆われ、墳丘の周りに濠をめぐらすことも多い。また、埴輪{はにわ}<注
2>を表土に列をなして並べられた。
<注1>数は円墳・方墳が多く、大規模なものは前方後円墳である。
<注2>素焼きの焼き物。土留め・器台形土器の発展など諸説がある。
前期古墳は、畿内の台地や丘陵に大規模な前方後円墳が造営された。竪穴式
石室や粘土槨{ねんどかく}に木棺・石棺を収納し、銅鏡や玉{ぎょく}など
呪術的なものが副葬された。被葬者は、司祭者的性格を持つ者と推定される。
埴輪は、円筒埴輪が多い。中期古墳は全国に拡大し、平野部では巨大化した。
竪穴式石室に木棺・石棺を収納していたが、4世紀末に九州北部に横穴式石室
が現われ、5世紀末に近畿地方に広まった。副葬品は武器・武具など軍事的な
者が多く、武人的性格を持つ者が埋葬されたと推定される。埴輪は、各種形態
の形象埴輪を製作した。
竪穴式石室は、遺体を埋葬後に長方形の石室を作り、上部から土をかぶせた
ものである。横穴式石室は、入口をふさぐ石を取れば玄室{げんしつ:遺体安
置場所}までいけるため、いつでも追葬できる家族墓的性格を持っている。
後期古墳は全国に拡大し、近畿中央部では大規模なものが作られたが、各地
には小型古墳(群集墳{ぐんしゅうふん})が増加した。横穴式石室が全国的
に普及した。副葬品は武具などの他、飲食用の土器なども多くなった。円筒・
形象埴輪を盛んに使ったが、畿内では次第に減少する。また、山腹や台地の縁
辺に穴を掘った横穴墓{よこあなぼ}や石室の壁画に絵画を描いた装飾古墳も
見られる。
有名な古墳も多い。前期は奈良県の箸墓{はしはか}古墳、中期はともに大
阪府の誉田御廟山{こんだごびょうやま}古墳と大仙陵{だいせんりょう}古
墳、後期はともに奈良県の石舞台{いしぶたい}古墳と藤ノ木{ふじのき}古
墳、高松塚{たかまつづか}古墳などが知られる。大仙陵古墳は日本第1位、
誉田御廟山古墳は日本第2位の大きさの前方後円墳である。石舞台古墳は蘇我
馬子の墓といわれ、盛り土が失われて巨石を積んで築かれた横穴式石室が露出
している。高松塚古墳は、装飾古墳の代表である。
5世紀頃、新しい文化や技術が朝鮮半島からやってきた渡来人によって伝え
られた。彼らは、鉄器や須恵器{すえき}の生産、機織{はたお}り・金属工
芸・土木工事などの諸技術や文字が伝えられた。ヤマト政権は、彼らを韓鍛冶
部{からかぬちべ}・陶作部{すえつくりべ}・錦織部{にしごりべ}・史部
{ふひとべ}などの品部{しなべ}に組織し、技術や知識を活用した。
応神天皇朝に、王仁{わに}・阿知使主{あちのおみ}・弓月君{ゆづきの
きみ}らが渡来した。王仁は百済の博士で、『論語』や『千字文{せんじもん
:識字・習字のテキスト}』をもたらし、文筆・出納{すいとう}に従ったと
いう。西文氏{かわちのふみうじ}の祖とされる。阿知使主は文筆に優れ、史
部を管理したという。東漢氏{やまとのあやうじ}の祖とされる。養蚕・機織
りを伝え、秦氏{はたうじ}の祖とされる。
大陸から漢字・儒教・仏教が伝わった。漢字・儒教は、王仁が儒教の経典を
伝えたとされる。漢字が伝わったことで、漢字の音を借りて人名や地名を表わ
すことが出来るようになり、政権の記録、出納、外交文書の作成もできるよう
になった。欽明天皇朝頃には、大王家の系譜『帝紀{ていき}』と神話・王権
物語『旧辞{ぎゅうじ}』が編纂された。漢字の銘文を持つ刀剣・鏡も相次い
で見つかった。埼玉県の稲荷山{いなりやま}古墳から出土した鉄剣、熊本県
の江田船山{えたふなやま}古墳から出土した鉄刀、和歌山県の隅田{すだ}
八幡神社が所蔵する人物画像鏡などがある。
儒教の思想は王仁の時に伝わったが、6世紀初めの継体{けいたい}天皇朝
に五経{ごきょう}博士が百済から来日し、五経<注2>を講じて儒教を伝え
たとされている。6世紀中頃の欽明天皇朝に易{えき:占い}・暦{れき}・
医博士が来日し、学術も伝えた。
<注3>易経{えききょう}・詩経{しきょう}・書経{しょきょう}・
春秋{しゅんじゅう}・礼記{らいき}の5つ
仏教は、百済の聖明王{せいめいおう}が欽明天皇に仏像と経論{きょうろ
ん}などを伝えたとされる。公的には『元興寺縁起{がんごうじえんぎ}』や
『上宮聖徳法王帝説{じょうぐうしょういくほうおうていせつ}』は538年、
『日本書紀』は552年とあるが、538年が有力とされる。また、『扶桑略記{ふ
そうりゃっき}』には、司馬達等{しばたっと}が私宅で仏像を礼拝したとあ
り、その時期が「継体天皇即位十六年(522年)」とあることから、私的には
それ以前に伝わっていた可能性が高い。
この頃の民衆は、竪穴住居・平地{へいち}住居に住んでいた。土器は、土
師器{はじき}と須恵器が使われた。土師器は、弥生土器の製法を受け継ぎ、
800度前後で焼かれた赤焼きの土器で、主に日用具とされた。須恵器は、ろく
ろ・登り窯{のぼりがま}など朝鮮半島伝来の新技術を用い、1000度以上の高
温で焼かれた灰色・硬質の土器で、主に祭祀用に用いた。2つとも平安時代に
まで製作・使用された。
衣服は上下に分かれ、男女とも筒袖{つつそで}の衣{ころも}をつけ、男
は下に乗馬ズボン風の袴{はかま}、女はスカート風の裳{も}をつけた。そ
して、男は頭髪を中央から左右に分け、耳の当たりで輪のようにして緒{お}
で結んだ。美豆良{みずら}という。女は髷を結んだ。この姿は人物埴輪から
分かってきた。
水稲耕作の普及・発達により、農耕祭祀が大切なものとなった。春に五穀豊
穣{ごこくほうじょう}を祈る祈年祭{としごいのまつり/きねんさい}と秋
に収穫を感謝する新嘗祭{にいなめのまつり/しんじょうさい}は、特に重要
だった。また、禊{みそぎ}や祓{はらえ}で身を清め、けがれをはらった。
禊は、心身の罪やけがれを海・川・滝などの清浄な水で身を洗い流すことであ
る。祓は、水以外での方法での罪・けがれを除去することである。
一方、神々の意向を知るために占法が行なわれ、呪術的な風習も盛んに行な
われた。太占{ふとまに}は、鹿の肩甲骨{けんこうこつ}を焼いて、そのひ
び割れの形で今後の策を占うことである。盟神探湯{くかたち}は、熱湯に手
を入れて、やけどの有無で真偽を確かめるもので、氏姓の不正を正すために行
なったという。
自然神を祀る神社の中には、この頃を起源とするものもある。三輪山{みわ
やま}を神体とする奈良県の大神{おおみわ}神社、玄界灘の孤島沖ノ島{お
きのしま}を神体とする福岡県の宗像{むなかた}神社の沖津宮{おきつのみ
や}などである。沖ノ島には5~9世紀の祭祀遺跡も多く、出土品の貴重さ・
豊富さから「海の正倉院」ともいわれる。
氏神も祀るようになった。天照大神{あまてらすおおみかみ}を祀る三重県
の伊勢神宮内宮{ないくう}、大国主命{おおくにぬしのみこと}を祀る島根
県の出雲大社{いずもたいしゃ}、海神を祀る大阪府の住吉{すみよし}大社
などがその例である<注4>。また、土地の神を祀る産土神{うぶすながみ}
も祀られた。
<注4>伊勢神宮は神明造{しんめいづくり}、出雲大社は大社造、住吉
大社は住吉造で作られる。 |
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