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楼主 |
发表于 2012-7-17 10:37:13
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三沢屋敷を出た時に門の前ですれちがった小柄な——自分よりは大きいが——革ジャンの青年が一瞬まじまじとこちらを見つめたようだ。見慣れない青年だった。しかし、昼間は特に気に留めなかった。赤坂の街には見慣れない青年がうようよ漂っているし、性別をしりたそうに好奇の眼差しを向けられるのは珍しいことでもなかった。
夜風はひやりとしていた。長い革コートを通し、薄いウールのセーターを通し、下着替わりのTシャツを通し、素肌を通して、しんしんと血の中にしみこんでくるような十月末の夜気だ。一ツ木通りの街灯の光もネオンサインも車のブレーキ・ランプもショーウィンドウのガラスも宝石のように華やかに透きとおってきらきらしている。
古いデュエット・ソングのフレーズにもなったこの通りは、テレビ局とナイト・クラブで有名だが、間口の狭い肉屋や魚屋や乾物屋や和菓子屋が点在する商店街でもある。日常と非日常のちゃんぽん。並行して走るみすじ通りが一番飲み屋街の色彩が濃く、さらに並行する田町通りはここ数年でファッション・プラザや洒落た造りの飲食店ビルが立ち並び急にきらびやかでスマートになった。長引く不況で高級クラブや料亭に陰りが見え、社用族や政治家や芸能人という金回りのいい大人の街から、普通の若者向けのプレイ・スポットに変わりつつあるのだろうか。街の毛細血管のような路地に店を開いて占いなどをやっていると、そんな変化が敏感に感じ取れる。若い客が増える。浅い悩みや期待が語られる。そう。ニ度とは来ない客が増える。
ふと、今日の午後にやってきた三人連れの高校生のことが頭をかすめた。二人はちょうどそんなタイプだった。もう一人は——自分のことをまるで語らなかった永井という少女は?あの子もおそらくニ度とは来ないだろうが、悩みも期待も決して浅いものではなさそうだ。あの子の印象はいつまでも頭の中から消えなかった。何か、胸騒ぎにも似た不吉な感覚を覚える。なぜなのだろう。ただの内気な少女ではないか。あの子が今夜にでも人生に絶望して手首をかき切るとでもいうのだろうか。
昼間薫は身震いした。
もっと、ちゃんと話を聞き出しておけば良かっただろうか。たとえ、彼女を馬鹿にして邪魔にしている友人の前でも。いや、そういう問題ではない。自分は一介の職業占い師である。彼女の恋人でも家族でもない。
まったく、昔話などするのではなかった。あの辻という男はやっかいだ。あの男と一緒にいると、時々、自分の言動や感情の流れの予測がつかなくなる。行きずりの他人として日常を共にしている気軽さ。そして、あの男のいかにも小悪党らしい、勘の良さ、したたかさ、気取りのなさ、のんきさ。ついつい引き込まれてしまう。
彼の言葉には不思議なくらい虚飾がなかった。
——気にすることないんじゃないの。
中本にも姉にも何度も言われて、その度に反発と嫌悪を覚えた言葉が、辻牧夫の口から彼の声にもせて差し出されると、まるで違った軽さと重さをそれぞれ持って心の奥にすとんと落ちていくような気がした。
当時はともかく、五年の月日が流れた今は毛ほども気にしていないつもりだったが、そうでもないのかもしれない。罪の意識というほどのものではない、ささやかな自責の念が、表層意識からは巧みに追い出されて、深層心理に溶け込んでいるのだ。
あれ以来、真剣な恋はしていない。父に勘当されて外国をふらふらしていた時に幾つかの軽いアバンチュールはあったが、帰国してからは、私生活の上でも彼は常に占い師マルチェラであった。性を超越し、ストイックである。どんなに優しく接しても、決して心の素顔をさらすことはない。
自分が不幸だとは思わない。今のまま、川に浮かんだアブクのようにふわふわふわふわと流れつづけていくのがいい。時にはパチンとはじけるだろう。でも、また、すぐにプクリと生まれてくるだろう。
ゆっくりと深呼吸とした。
少女永井の大きすぎるばんやりとした瞳がダーク・グレーの空から、じっと彼を凝視しているような気がした。
一ツ木通りとみすじ通りを結ぶその路地は、ネオンとネオンの光の間にたたずむ細く短い暗路である。飲み屋街の抜け道として夜はそこそこの人通りがある。料理と小便とエアコンの排気の匂いがいつもかすかに漂っている。
マルチェラの背後は「なかもと」の板塀、目の前は共同ビルの青い横壁が続く。軒下というわけではないので、雨天即休業である。
見台は廃材のベニヤ板で制作した。見台を覆うクロスは中元家の物置にあったピアノカバーを元にして縫い上げた黒と赤葡萄酒色のリバーシブルだ。灯りは代官山の雑貨屋で見つけた山荘風のガラスのカンテラ。自分とお客の座る二脚の椅子は「なかもと」のお古なので少しばかりがただたしている。薄いプラスチックの板と油性ペンキで仕上げた立て看板には、タロット、手相、人相、千円と書いてある。
基本的に天候以外の理由ではマルチェラは休まなかった。行列のできる日もあり、できない日もあったが、客の来ない日というのは決してなかった。
勤め帰りのOLの川原さんのもつれた三角関係の相談にのり、毎日家の中で貴重品をなくしてしまう老紳士の三宅さんのパテック・フィリップの腕時計のありかを考え、一人娘の中学受験先に悩む主婦の木村さんの教育戦術にとっくりと耳を傾け、狭い新築ともっと条件のいい中古のマンションのどちらを購入すべきか今日こそは結論を出してくれと迫る四十代の夫婦の正田さんに自分は物件を見ていないのだから参考意見に留めてほしいと説得する。説得が功を奏さず、占いのはずが夫婦喧嘩の仲裁になって、いささかうんざりしかけた時、路地の暗がりの中をやけに身体の大きな男が落とし物でも捜すように下を向いてのそりのそりと歩いてゆくのを目にした。男は見台の脇を通り過ぎる時、一度だけ、まるで盗み見るようにぱっと視線をこちらに投げてよこした。おや?と思う。しかし、次の瞬間、正田氏が妻ばかりいつも椅子に座り自分が立ちんぼうでいるのはまことに不公平であると大声でわめきはじめたので、マルチェラはあわてて立ち上がって自分の椅子をすすめ、巨大な男のことは忘れてしまった。
それから、十人ばかり客を観た。常連が五人、初顔が五人。そして、しばらく客足が途絶えた。
お客たちの悩み事、声、気配、そんな置き土産が煙のおうに夜空に消えてゆき、代わりに昼間個人の日常的な雑念がふつりと湧き上がってくる。
ちょうど、そんな時だった。
みすじ通りの向かい側の歩道をゆkっくりとした足取りで歩いていく髪の毛の長い女の子の姿が視界をかすめた。黒っぽいトレーナーにジーンズに小さなリュックの中肉中背のごく普通の女の子だ。マルチェラは椅子からガバッと立ち上がった。いや、立ち上がりかけて、また腰を落とした。ああいう女の子はいくらでもいる。顔が見えたわけでもない。
まったく、と少しいらいらして思った。どうして、あの子のことが気になるのだろう。悩みの一つだって打ち明けられたわけじゃない。もっと深刻な差し迫った悩みを抱えた客ならほかに何人もいるではないか。話を聞けなかったからかもしれない、とふと思いついて嫌になった。悩みを抱えていながら、その悩みを口にしていない、そんな状況に自分は過剰に反応するのかもしれない。
また黒っぽいトレーナーとジーンズだ!長い髪だ。同じ子?同じような人影が同じようなのろい歩調で今度は反対方向にやってくる。今度こそマルチェラは立ち上がった。見料を入れた箱もそのままで、定位置の暗い路地から白いドレスの裾をひるがえして、華やかなすじ通りへ走り出た。
「永井さん?」
トレーナーの色は濃紺だった。
少女は振り向いて、まさに幽霊を見たようにひどく怯えた。走り出した。赤坂見附の方向に向かって、みすじ通りをまっしぐらに逃げていく。占い師は二メートルばかり追いかけてあきらめた。低いビールだが、こんなサンダルでは走れない。第一、「赤坂の姫」が走って女の子を追いかけるなど前代未聞だ。
そう。マルチェラはこんなふうに明るい通りに出てきてはいけない。マルチェラはこんなふうにあわてた風を見せてはいけない。マルチェラはお客の名前を叫んで呼びかけたりしてはいけない。そもそも、彼女の名前を呼んだ声はマルチェラのものではない。少し気取って神秘的に優しくささやくような占い師の声ではない。澄んでよく通る中性的な高い声——昼間薫の地声ではなかったか! |
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