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[翻译问题] 急求几篇历史专业文章的翻译,非常感谢.务请今日内帮忙.

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发表于 2007-7-12 15:43:15 | 显示全部楼层 |阅读模式
20咖啡豆
文成帝皇后 馮氏(442~490)
 秦州、雍州刺史馮朗の娘で、母は王氏。長楽信都(現在の河北省)の出身。
父はもと漢人であったが、祖父と伯父は五胡十国の国の一つ、北燕の国王であった。
その後北魏に国を滅ぼされ父を殺された後、姑母が太武帝拓跋燾の昭儀であったため、姑母を頼り後宮に入った。
十四歳で文成帝の貴人となり、後に皇后に立てられた。文成帝が亡くなった時はあまりの悲しみに火中に身投げしたが、
救出され奇跡的に一命を取り留めた。皇太后となった後、即位した献文帝(実の子ではない)をよく補佐し、また事前に
謀反の芽を摘み取るなど、政治的手腕は抜群であった。
 467年に拓跋宏(孝文帝)が産まれ、その養育の為一旦は政治の世界から離れるが、献文帝が当時彼女の寵愛していた
李奕を殺害した為、献文帝を毒殺し自分の養育していた拓跋宏を即位させ、太皇太后として政務に復活した。
彼女は北魏時代の代表的な政策である俸制禄、三長制、均田制を発布するなど政治的手腕を発揮したものの、
手腕を発揮したものの、早くに夫と死に別れたことから、お気に入りの家臣をはべらし、また南斉からの使者が
あまりにも美男子だった為、自分の宮殿に留めさせたこともあった。
 490年に病死。文明太皇太后(史称だと文明皇后)と称される。

孝文帝皇后 馮氏(476~500?)
 太師馮煕の娘で、長楽信都(現在の河北省)の出身。名は清。北魏文成帝皇后馮氏の姪であり、
また彼女の母親は景穆太子拓跋晃の娘博陵公主である為、北魏皇室とは深いつながりがあった。
文明皇太后は臨終の際、既に孝文帝に嫁いでいた馮清を皇后にするように遺言した。490年に皇帝が洛陽遷都を強行した際、
皇太后が亡くなると、3年間の喪の後に18歳で皇后に立てられた。
 皇帝となった元宏とは大変仲が良く、皇帝が南征伐を行った時には留守を任される程信用され、馮皇后は率先して
六宮の人間を洛陽に率いて皇帝を安心させるなど、皇帝の考えには理解を示した。
 しかし彼女の姉である馮潤も元宏に嫁いでおり、かねてより皇后位を狙っていた馮潤の企みにより皇帝の寵愛を失い、
497年に皇后位を廃され庶人に落とされた。廃后後も馮清は貞操を守り、出家し瑶光寺の尼となりそのまま寺中で死亡した。
史上では廃皇后と称される。

孝文帝皇后 馮氏(469~499)
 太師馮煕の娘で、長楽信都(現在の河北省)の出身。名は潤。馮清の姉にあたる。483年に14歳で入宮し貴人に立てられた。
皇帝に寵愛されたが3年後喀血をするなどの病を得た。文明皇太后は病気が皇帝に伝染するのを恐れた為、
孝文帝が馮貴人のもとに行くのを禁止し、その後病気静養の為、彼女は一時的に出家した。ところが、療養している間に
知り合った高菩薩と通じるようになった。
 その後病気が完治し、後宮に戻った後も皇帝の寵愛は変わらなかったが、同じ孝文帝に嫁いでいた馮清が1年半前に
皇后に立てられたことを知り、妹に対して非常に強い憎しみを覚えるようになっていった。馮潤は妹を陥れる為、
高菩薩から媚薬を入手し、それを肌身離さず身に付け皇帝の心を捉えることに成功、そうしておいて妹を陥れるような讒言を
繰り返したことにより、とうとう妹を皇后位から追い落とすことに成功、念願の皇后に立てられた。
 皇后に立てられた後も高菩薩と何度が通じ、孝文帝が南討伐で留守にした際も高菩薩を後宮に引き入れ淫行に耽っていた。
孝文帝が軍中で病に倒れていたときでさえも、高菩薩を側から離さなかったという。また皇帝がいない時を狙い、
自分の異母弟である馮夙と孝文帝の異母妹である彭城公主との婚儀を強引に決行しようとしたが、彭城公主に逃げられ、
更に公主の口により孝文帝に自分達の淫行を知られてしまう羽目になる。
 孝文帝は最初信じることが出来なかったが、途中で軍を引き返し馮潤に事実を問い詰められるが、馮潤は事実を隠蔽し
決して淫行を認めようとはしなかった。孝文帝は病気の身をおして戻ってきた為、病気が更に悪化しこれ以上の詮索が出来なく
なっていたが、弟王に命じ淫行にかかわった高菩薩を殺害させた。また、馮潤に対して皇后位のまま幽閉させ、
自分の臨終の際には彼女に服毒自殺させるよう命じた。
 孝文帝の死後遺命を執行する為、孝文帝の弟王達が馮潤に服毒自殺するように命令したが、彼女が拒否した為、
屈強の者に彼女を押さえつけさせ強引に毒を飲ませ、中毒死させた。幽閉されたことにより、史上では幽皇后と称される。

宣武帝皇后 胡氏(493~528)
 北魏司徒胡国珍の娘で、母は皇甫氏。安定臨涇(現在の甘粛省)の出身。最初は承華世婦(後宮官位で二十七世婦の一つ)と
して後宮に入り、そこで見初められ元詬(後の孝明帝)を産み、充華(後宮官位の一つで九嬪の末位。世婦より位は上)へと
昇進した。
 その頃北魏では「殺母立子」(皇子が立太子すると産みの母は死を賜うこと)の風習があり、後宮の多くの妃達が産む時は
公主を希望し、また自分の産んだ子が皇太子に立てられないように願っていた。しかし、胡氏のみ「皇帝に一人も皇子がいないのに、何故殺されることを恐れるのか?このままでは王朝が滅びます」と力説し、身ごもった時も周りが堕胎を勧めるのを
全て拒絶した。果たして胡氏は男子を産みその子が皇太子に立てられたが、皇帝自身この風習を快く思わなかったことから
廃止された為、胡氏は一命を取り留めた。
 515年に宣武帝が亡くなり元詬が即位すると、皇太妃に立てられた(皇太后は別に立てられた)が、太后に対し無実の罪を
なすりつけ殺害、新たに皇太后に立てられると、幼い皇帝に代わり政務を執った。彼女の政治的才能はあるにはあったが、
仏教に心酔しており壮麗な寺を次々建築させたりした。また夫亡き後、清河王元懌(げんえき)に迫り淫欲に耽るなどの
乱交をはたらき、その為臣下から非難を受け、全ての権力を剥奪され一時軟禁された。その後邪魔な臣下を殺害して復権、
異を唱える者は殺害、自分の寵愛する者を重用するなど専横を振るうようになっていった。
 これを嫌悪した元詬と対立するようになり、遂に528年胡氏は皇帝を毒殺、別の公子(実は公主であったのをわざと
「公子」として公布)を立てた。しかし皇帝が毒殺される直前に出した密詔を受けた将爾朱英に首都洛陽に突入され、
胡氏は幼主とともに捕らわれた。その後出家して命を請うたが河に沈められ殺された。

孝庄帝皇后 爾朱氏(511?~556)
 北魏驃騎将軍爾朱英の娘で、名は英娥。
 爾朱氏は最初孝明帝元?の妃嬪であり、528年に孝明帝が死ぬと出家していたが、父親の爾朱英が元子攸を皇帝に
冊立させると自身の権力固めをする為、彼女を還俗させて皇后に立てた。皇帝の冊立に父親の力があったことを知っていた
彼女は、日頃からそのことを持ち出したため、夫婦仲は最悪であった。
 530年爾朱英の弟の爾朱兆が孝荘帝に殺害されると、爾朱英配下の武将であった高歓が洛陽に攻め入り孝庄帝らを
殺害した時、爾朱氏は他の妃達と共に高歓に捕らえられ、そのまま高歓の妻となり、高?を産んだ。妻として迎えられるとき
高歓は彼女の歓心を得るために、部下の礼をもって迎えたという。
 547年高歓が亡くなると息子の高?が彭城王に封ぜられ、それにより爾朱氏も彭城太妃(太妃は親王の母親に与えられる
称号)と称された。
 556年義理の息子の高洋(550年に北斉を建国し、初代皇帝となっていた)に関係を迫られたが、これを拒絶した為
殺されてしまった。

孝武帝皇后 高氏(515?~?)
 北魏大丞相高歓の長女で、母親は婁昭君。
 532年高歓により冊立された孝武帝元修の皇后として後宮に入ったが、孝武帝が高歓を嫌っていたことと、彼の寵愛が
異母妹の明月公主にあった為、夫婦仲は甚だ悪かった。孝武帝自身荒淫で、自分の異母姉妹、従姉妹など身内の女性を
全て自分の後宮に入れてしまい、他のところに嫁に出さなかった。
 534年かねてから高歓に不満をもっていた孝武帝は、明月公主たちと共に長安の宇文泰のもとに出弄した為、
高歓は元善見を帝にし(孝静帝)、都を?(ギョウ)に移した。これにより北魏は?(ギョウ)と長安の東西に分裂し、それぞれ
東魏・西魏と称されるようになった。ちなみに長安に逃げた孝武帝と明月公主だったが、宇文泰が彼らの爛れた生活を嫌い、
まず明月公主を殺した。これにより孝武帝は宇文泰を憎むようになったので、ついに孝武帝は宇文泰に毒殺された。
 この知らせを受けた東魏では、孝静帝は高氏に喪に服すように言ったが、彼女にその気は全く無かったらしく、
既に洒落者で有名だった彭城王元韶を見初めており、それを知った高歓により、元韶の元に改嫁し、彭城王妃となった。

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发表于 2007-7-12 16:09:57 | 显示全部楼层
kao、こりゃ超難しい!
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发表于 2007-7-12 16:26:04 | 显示全部楼层
原帖由 benspring 于 2007-7-12 16:09 发表
kao、こりゃ超難しい!

谁说不是呢!呵呵,今天真是看到了前辈的另一面了。挺有意思。
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 楼主| 发表于 2007-7-12 17:06:34 | 显示全部楼层
第一篇我自己翻译了一下:
文成皇后 冯氏(442~490)
秦州、雍州刺史冯朗的女儿,母亲王氏。长乐信都人(现在的河北省)。
父亲是汉人,祖父和伯父是五胡十国之一的北燕国王。
后国家被北魏所灭,然后父亲被杀,姑母成为太武帝拓跋焘的昭仪,因为姑母的原因而入宫。
十四岁时成为文成帝的贵人,后来被立为皇后。文成帝逝世时,因为悲伤而投火自焚,奇迹般地被救出,留下性命。成为皇太后后,辅佐即位的献文帝(并非亲生儿子),在事前将策划中的谋反扑灭,具备出群的政治手腕。
467年,拓跋宏(孝文帝)出生,为了养育拓跋宏,而离开政治世界。因为献文帝杀害她当时所宠爱的李奕,而毒杀献文帝,让自己养育的拓跋宏即位,以太皇太后的身份重新参预政务。

以上。
不知道有没有错误。
但是后面这一段翻译不好,虽然明白具体的意思,可却还有点闹不明白。

彼女は北魏時代の代表的な政策である俸制禄、三長制、均田制を発布するなど政治的手腕を発揮したものの、手腕を発揮したものの、早くに夫と死に別れたことから、お気に入りの家臣をはべらし、また南斉からの使者があまりにも美男子だった為、自分の宮殿に留めさせたこともあった。
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 楼主| 发表于 2007-7-12 17:06:57 | 显示全部楼层
还请多多指教啊。

彼女は北魏時代の代表的な政策である俸制禄、三長制、均田制を発布するなど政治的手腕を発揮したものの、手腕を発揮したものの、早くに夫と死に別れたことから、お気に入りの家臣をはべらし、また南斉からの使者があまりにも美男子だった為、自分の宮殿に留めさせたこともあった。

这一段,大概是说她在北魏时代代表性的政策有俸禄制,三长制,均田制。但是“手腕を発揮したものの、”不知道应当怎么译?
后面大概是说受欢迎的家臣,甚至南齐来的使者中的美男子,都留在自己的宫中。

留めさせたこともあった

应当怎么样理解?

请不吝赐教

[ 本帖最后由 ayue 于 2007-7-12 17:09 编辑 ]
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发表于 2007-7-12 21:28:00 | 显示全部楼层
北魏文成帝皇后
    冯太后(公元441-490年),北魏文成帝的皇后。

    冯氏的祖父冯弘、伯父冯跋是北燕国王,其父冯朗在北燕灭亡后降魏,官至秦、雍二州刺史,姑母是北魏太武帝拓跋焘的左昭仪。后来其父因罪被杀,她随姑母人宫。

    公元452年,文成帝即位后,封十四岁的冯氏为贵人,十八岁立为皇后。同年,立两岁的儿子拓跋弘为皇太子。按照"立子杀母"的规矩,拓跋弘生母李贵人被赐死。冯皇后抚养拓跋弘,待太子如同亲生。

    文成帝死后,献文帝拓跋弘即位时,年仅十二岁,尊冯皇后为皇太后,由丞相乙浑总揽朝政。乙浑图谋篡位,冯太后用计把他逮捕杀死。从此,朝政由冯太后一人裁决。

    随着献文帝慢慢长大,母子间的矛盾越来越深。公元471年,十八岁的献文帝被迫禅位于五岁儿子拓跋宏(即孝文帝),自己做了太上皇。但他仍统兵南征北伐,这本身就使冯太后感到威胁,而且他还杀了太后的男宠李奕,于是冯太后于公元476年,将年仅二十三岁的献文帝毒死。

    献文帝死,冯太后以太皇太后身份再次临朝听政。杀了一批政敌,重用一批有改革思想的人,进行一系列改革:颁行班禄制,整顿吏治,统一度量衡,推行"三长制",实行均田制。改变了鲜卑族的落后局面,为孝文帝迁都洛阳以后的繁荣打下基础。

    冯太后的生活也比较俭朴,不好华饰,但她却好男宠,并把这当成是笼络权臣的手段。就连南朝齐国派来的使者刘缵也被冯太后留宿宫中,在床帏间解决边境问题。

    不论如何,冯太后都不愧是北魏一位杰出的女政治家。

    公元490年九月,冯太后病逝,终年四十九岁。谥为文明太皇太后,葬于永固陵。

编辑词条

建议翻译前在网上查查相关资料,心中有数,翻译起来自然差不了多少.
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