|
楼主 |
发表于 2008-5-16 20:29:39
|
显示全部楼层
中国落后日本的原因一中国人妄自尊大而日本人谦虚好学
中国は列強に敗戦を余儀なくされた後も、依然として「中華文明こそ天下第一」という認識に何の疑問も持たなかった。欧米による侵略を「息子の父親に対する反抗」と見なし、自分を慰めていた。中国の改良派にしても、中国が西欧に敗れた原因を西欧の「堅船利砲」(強大な軍艦と強力な艦載砲)に求め、中華文明自身が西欧より立ち遅れていたということを認めようとしなかった。逆に、日本人は外圧に屈した後、なぜ欧米の人々が「堅船利砲」を作り出せるのか、と真剣に考えた。
) V% W1 R3 n/ {
" q A# Q1 }6 c2 R 昔の日本人も華夷秩序を信じ、中国だけが世界文明の中心であり、中国に学ばない民族はみんな未開化な野蛮人であると考えていた。欧米列強の侵略を受けると、かつて野蛮人に思われた欧米人こそが、真に文明を持つ人々であり、自分自身が、まだ開化を果していない野蛮人であると、日本人は悟ったのである。その後、日本では、「脱亜入欧」邉婴归_された。それによると、中国、朝鮮などの東アジア諸国はまだ開化していない野蛮な国家であり、こうした野蛮国と一緒にいると、いずれだめになってしまう。文明国となるには、日本がこうした東アジアの「悪友」とは決別し、欧米の「良い友」と招恼意に接しなければならず、日本人を黄色の皮と、白い中身を持つバナナのような、白人の魂を持つアジア人に改造しなければならないと考えたのである。
& A8 h: F( c. [3 r
: ]8 G% ^ B5 E( I0 _8 u; R; ^5 I 1871年、日本は大蔵卿大久保利通や工部大輔伊藤博文をはじめとする百人余りの視察団(岩倉使節団)を欧米に派遣し、22ヶ月に渡って、欧米各国の政府制度、司法機構、教育体制などの詳細な調査研究を行った。日本使節団は当時の列強の元首と相次いで面会を持った。とりわけ、プロイセン(ドイツ)のビスマルク大統領は、日本の代表団を宴会に招待し、その席で弱小国家であるプロイセンが新興強国になる経験を披露した。その話を聞いた日本人達は、「富国強兵の秘密はこれか」と驚きを抑えずに感嘆した。その後、日本がドイツをモデルにし、軍国主義の道を歩む建国方針を確定した。これは後に日本が対外侵略に走る遠因ともなった。 2 E' B/ i8 O- W3 t# o' G% ^
( X% q) g0 a+ E" g7 k
1875年、清朝政府は日本に対して、連合して欧米列強に対抗しようと呼びかけたが、日本に拒否された。なぜなら、当時の日本はすでに「脱亜入欧」を決意し、中国のような後進国との連盟を望まなくなっていたのである。日本が1894-95年の甲午(日清)戦争で中国を、さらに1904-1905年の日露戦争でロシアを相次いで破り、「脱亜入欧」という抜本的な構造改革の正しさを証明した。1945年日本は敗戦した後、今度は、自分を破ったアメリカに真剣に学び、抜本的な民主主義改革を展開し、軍国主義から民主主義の経済大国へと見事に変身したのである。
w; b! E. P% \5 n
) L9 v' C/ m0 C0 w+ z' h 中国はいまだに立ち後れ、貧困から抜け出すことができていない。その最も重要な原因は、自尊自大な国民性にある。中国人はいつも自分の長所ばかりを強調し、逆に他人の欠点を過大視する傾向がある。欧米に学ぼうという話になると、多くの中国人は、中国には中国なりの長所があり、欧米には欧米の短所があると、自己弁護を行う。中国人は欧米の科学技術の面における優位性は何とか認めるが、欧米文明の中華文明に対する優位性は決して認めようとしないのである。日本人が二回もノーベル文学賞を獲得したのに対して、中国人はいまだに獲得したことがない。中国人はこうした現象を中国現代文学が日本のそれより劣っているためではなく、むしろノーベル賞の評価のあり方に問題があると理解している。 5 P+ R! k. p! h
5 n9 _. a9 \4 }' m& W 中国人の自尊自大の態度は、日本のように他国の経験を謙虚に学ぶことを妨げている。これまで、中国人がそう遠くない将来、日本を追い越す夢を何度も見たが、それを現実にすることはできていない。6 B! ^7 `9 k+ X, Q0 V, V0 Q) g" ^
3 @ [' E! d) X8 j
中国人妄自尊大而日本人谦虚好学。
, D1 j4 W# T# b- I. d1 F6 G$ |
4 T) N, ~; W" f* V n4 F' c% ^8 e 中国被西方列强痛打后,仍然对"中华文明天下第一"这一点深信不疑,把西方人侵略中国看作是"儿子打老子"来聊以安慰。即使是改良派,也只是认为中国败于西方仅仅是由于西方的船坚炮利,中华文明本身并不落后于西方。而日本人在挨打以后开始认真思考:为什么西方人能够造出坚船利炮?以前日本人也信奉华夷秩序,以为中国是世界文明的中心,中国以外的、不向中国学习的民族都是未开化的野蛮人。西方列强打入日本后,日本人忽然醒悟道:自己认为是野蛮人的西方人,原来是真正的文明人,而日本人自己才是地道的未开化野蛮人,因而在日本掀起了"脱亚入欧"的运动。脱亚论者声称中国朝鲜等东亚国家是未开化的野蛮国家,日本人要和这些野蛮人在一起就会"近墨者黑",就难免染上东亚人的坏毛病。日本要成为一个文明国家就要和东亚这些"坏朋友"绝交,专心和欧洲的"好朋友"交往,把日本人改造成像黄皮白心的香蕉那样、具有白种人灵魂的黄种人,1871年,日本派出了以财政大臣大保利通、工商大臣伊藤博文为首的100余人的欧美考察访问团,对欧美进行了历时22个月的超长期考察访问,对西方各国的政府制度、司法机构、教育体系等进行了详尽的调查研究。当时的美国总统格兰特、英国女王维多利亚、法国总统齐鲁、普鲁士(德国)皇帝威廉二世、俄国皇帝亚力山大二世等都会见了日本考察访问团。特别是普鲁士的铁血宰相俾斯麦特别宴请了日本考察访问团,宴会上俾斯麦详细讲述了普鲁士是怎样从一个弱小国家跃进成为新兴强国的经验,日本人听后惊叹:"原来富国强兵的秘诀就是这样"。此后日本确定了向德国学习,走德国式的军国主义道路的建国方针,这也成为日本后来对外侵略扩张的原因.1875年清政府邀请日本和中国联合起来抗击西方列强,却被日本拒绝,因为日本已决心走"脱亚入欧"的道路,不愿再和中国这样的落后国家结盟。日本在1895年的甲午战争中打败了中国,在1905年的日俄战争中打败了俄国,更证明"脱亚入欧"、脱胎换骨式的改革道路的正确性。1945年日本败战后,再次认真向打败自己的美国学习,进行了脱胎换骨的民主主义改造,将军国主义的日本改造成为民主主义的经济大国。中国至今为止也未能摆脱贫穷落后的现状,最重要的原因莫过于中国人妄自尊大的品性。中国人总把自己的优点放在嘴上,又总把眼光盯在别人的缺点上。一提到向西方学习,就会有很多人出来争辩说:中国也有中国的优点,西方也有西方的缺点。中国人最多可以承认西方的科学技术比中国先进,绝不会承认西方文明比中华文明先进。日本人获得过二次诺贝尔文学奖而中国人尚未获得,中国人并不将此理解为中国现代文学落后于日本,而是理解为诺贝尔的评奖不公平。现在不少人用"岛国根性"这个词来批评日本人,其实这个词最早源出日本人,是日本人用于自我批判和自我讽刺的1893年开始,日本的思想界开始对日本人传统上的排外、无知、自我陶醉、偏执等"岛国根性"进行了尖刻的自我批判和自我反省。而中国人却缺乏自我批判的勇气,宁可沉溺在"中华文化世界第一"的自我陶醉之中,也不愿正视西方文明把中华文明打得一败涂地这个现实。中国人妄自尊大的态度,使中国无法象日本那样以谦虚的态度认真学习他国的先进经验。虽然中国人幻造出无数个多少年后将会赶上日本的美好梦想,却无法使这个梦想变为现 |
|