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荘子

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发表于 2008-5-24 18:21:46 | 显示全部楼层 |阅读模式
「荘子」

まえがき
「荘子」は、中国古代の道家(どうか)思想を伝える重要な古典である。孔子、孟子、荀子、と続く儒家に対抗して、道家の思想は、老子と荘子をその代表者とする。 「荘子」三十三篇は、「内篇」七篇、「外篇」十五篇、「雑篇」十一篇に分かれている。ここに、「内篇」七篇について私の好むところをまとめてみた。
逍遥遊篇 第一
(逍遥遊とは、とらわれのないのびのびした境地に心を遊ばせることをいう。)

北の果ての海に、鯤(こん)という、とてつもなく大きな魚がおり、。それが、突然、鳳(ほう)という、とてつもなく大きな鳥になった。その鳥は、海の荒れ狂うときに、風に乗り、南の果ての海へと天翔る。この鳥が、非常に高く上昇してから、南を目指して飛ぶのを、蜩(ひぐらし)と学鳩(こばと)はあざ笑う。だが、狭小な知識では広大な知識は想像もつかないのだ。

斉物論篇 第二
(彼此・是非の差別観を越えて万物斉一の理を明らかにする篇である。)

私は、自分の存在を忘れていたのだ。おまえは、人が吹く簫(ふえ)は聞いているが、地の簫はまだしも、天の簫は聞いたことがないであろう。大地のあくびで出された息が風と呼ばれているものである。山の尾根、大木などがひゅうひゅうと鳴っているのを聞いたことがあるだろう。これが地の簫である。音を出させる者は何であろう。これが天の簫である。

喜怒哀楽、不安、嘆き、慕い、恐れ、躁鬱(そううつ)など人情の変化は、代わる代わる目の前に現れてくる。これは、相手がなければ自分とういうものもなく、自分がなければ色々な心も現れようがない。

一旦、人としての形を受けたからには、それを変えることなく、そのままにして生命の尽きるのを待とう。外界の事物に逆らって傷つけあっていけば、その一生は早馬のように過ぎ去ってしまう。

物はあれでないものはないし、また物はこれでないものもない。こちらからすればあれ、あちらからすればこれである。善しとすることはそのまま善くないとすることであり、善くないとすることはそのまま善しとすることである。なぜならば、善し悪しは相対的なものだからである。聖人はそんな方法によらないで、それを自然に照らしてゆだねるのである。そして、ひたすらそこに身を任せるのである。これが、あれとこれとの対立を越えた絶対の境地である。

道路はそれを歩いてできるものであり、事物はそれを名付けてそうなるのである。何をそうだとするのか、そうであるものをそうだとする。何をそうではないとするのか。そうではないものをそうではないとする。しかし、事物にはもともとそうであるべきものが備わり、そうでないものはない。

猿たちに餌を与えるのに、「朝三つにして夕方四つにしよう」と言ったところ、猿たちは怒った。「朝四つにして夕方三つにしよう」と言ったところ、悦んだ。このように、あれこれと精神を疲れさせて同じことを繰り返しながら、それが同じだということを知らないでいる。

最高の境地とは、物などはないと考える無の境地である。次の境地は、物があると考えるが、そこに境界を設けない物我一如の立場である。その次の境地は、境界があると考えるが、そこに善し悪しの判断を設けない等価値観の立場である。善し悪しの判断がはっきりするのは、真実の道が破壊される原因であり、道が破壊される原因は、また、愛憎の出きあがる原因である。

事物の始まりをたどれば果てしないのだが、現実世界では、にわかに有無の対立が生まれることになる。そして、その有無の対立は、相対的なものだから、どちらが有でどちらが無だか分からない。

どんな美人でも、魚、鳥、動物はその美人を見ると逃げ出す。一体何が世界中の本当の美を知っていることになるのか。私の目から見ると、世間での仁義のあり方や善し悪しの道筋は雑然と混乱している。その区別はわきまえられない。

こうした当てにならない判断、内容のうつろいやすい声に期待するのは、はじめから期待をかけないのと同じで無意味なことだ。天倪(てんげい)(自然の平衡)ですべてを調和させ、極まりない変化にすべてを任せていくのが、天寿を全うする方法である。善し悪しの判断の対立を根本的に越えるのこそ、自然の平衡ですべてを調和させるということだ。こうして、無限の境地で自由に活動することになる。すべてをこの対立のない無限の境地におくのだ。

荘周は蝶になった夢を見た。一体、荘周が蝶となった夢を見たのだろうか。それとも、蝶が荘周となった夢を見ているのだろうか。

養生主篇 第三
(生命を養い真の生き方を遂げるための要諦を説く。)

我々の生命は有限であるが、心の働きは無限である。有限の身で無限のことを追い求めるのは危ういことだ。善悪にとらわれない中の立場に従ってそれを一定のよりどころとしていくなら、我が身を安全に守ることができ、我が生涯を無事に過ごすことができ、我が肉体を養うことができ、我が一生を充分長生きできるであろう。

庖丁(ほうてい)という人が牛料理をするときの包丁裁きについて、このように語った。私は精神で牛に対していて、目で見ているのではありません。感覚器官に基づく知覚は働きをやめて、精神の自然な活動だけが働いているのです。天理に従って、刀刃をふるい、牛の本来の仕組みにそのまま従っていきます。

沢辺の野生の雉(きじ)は十歩あゆんでわずかの餌にありつき、百歩あゆんでわずかの水を飲むのだが、それでも籠(かご)の中で養われることを求めはしない。

あの先生がたまたまこの世にやってきたのは、生まれるべきときに巡り合っただけのことだし、この世を去っていくのも、死すべき道理に従ったままである。生まれたからといって喜ぶこともなく、死んだからといって悲しむこともなく、感情の入り込む余地はない。

人間世篇 第四
(具体的な処世の問題を述べている。)

心の動きを統一せよ。耳は音を聞くだけだし、心は外から来たものに合わせて認識するだけだが、気というものは空虚でいてどんなものでも受け入れるのだ。そして、真実の道はただこの空虚の状態にだけ定着する。この空虚の状態になることこそ心斎(しんさい)なのだ。

人の役に立つ取り柄があることによって、かえって自分の生涯を苦しめているものだ。だから、その自然の寿命を全うしないで途中で若死にすることにもなるわけで、自分から世俗に打ちのめされているものなのだ。世の中の物事はすべてこうしたものである。それに、わしは長い間役に立たないものになろうと大いに願ってきたのだが、死に近づいた今になってやっとそれが叶えられて、そのことがわしにとって大いに役立つことになっている。もしわしが役に立つ木であったとしたら、一体ここまでの大きさになれたろうか。

徳充符篇 第五
(徳充符とは、徳が内に充実した印ということ。それは、肉体的な外形の問題ではなく、一種特別な人生態度として表れると説く。)

あの人は、その変化と一緒に変わるということがなく、天が覆り、地が落ち込んでも、あの人はきっとそれと一緒に落ち込むことはない。借り物でない真実を見通して、現象の事物に動かされることがなく、事物の変化を自然の運命だとしてそれに任せて、現象の根本に我が身を置いているのだ。

王駘(おうたい)のような人は、耳目の快感に惹かれることなくて、その心を徳の調和した境地に遊ばせ、万物についてその同じ本質をみて、形の上でのうつろいの変化をみない。その足をなくしたことなどは、土くれが落ちたくらいに思っているのだ。

人は、流れている水面を鏡とはしないで、静止した水面を鏡にする。静止しているからこそ、他の多くの静止したものを止められるのだ。

天地を意のままに扱い、万物を我がものとして直接我が形骸を仮の宿とし、耳目の感覚をうたかたのものとし、あらゆる知的認識を統一づけて、精神的に死を超越しているものでは、なおさら何をびくびくすることがあろうか。

鏡が光っていれば、塵はつかない。塵がつくのは鏡が曇っているのだ。

母を愛するのは、その外形を愛するのではなくて、その外形を動かしているものを愛しているのです。

そうした変化は人生の調和を乱すに値しないし、それを心の中に侵入させてはいけないものです。それらの変化を調和した楽しいものと見て、どんな場合にも満足の悦びを持ち続け、昼も夜も少しの間断もなくして、万物とともに春の和やかさで生きていく。それこそ、引き続いて四季を我が心の内に生み出すものです。才のままで欠けるところがないというのは、こういうことです。

内面の徳がすぐれていると、外の形などは忘れられるものである。ところが、世間の人々はその忘れてもよいことを忘れないで、忘れてはならないことを忘れている。

思慮をめぐらさず、自分を飾り立てず、道を失わず、物の売買をしないという四つのことは、自然の養育である。これは天然の食物のことである。聖人は、肉体は人の形でも、心は人の情欲を持たないのだ。人の形を持つから人々と一緒に暮らしていくが、善し悪しの判断で身を煩わすことがない。果てしなく大きい、独りで自然のままに完成しているからだ。

人はもともと情を持たない。その情とは、人が好悪の情によって自分の身の内を傷つけるようなことをせず、いつも自然なあるがままに任せて、ことさらに生命を助長するようなことをしないことをいうのだ。自然の道理によって容貌が与えられ、自然の働きによって体の形が与えられているのだ。

大宗師篇 第六
(大宗師(だいそうし)とは、すべての存在がそこに繋がれ、そこから出てくる根源の道のこと。)

自然の営みを認識し、人間の営みを認識したものは、人知の最高である。自然の営みを認識するものは、自然のままにして生きていくし、人間の営みを認識するものは、自分の知能で認識したことによって、その知能の及ばないところを補い育てていく。このようにして、その天寿を全うして途中で若死にしないのが、人知のすぐれたものである。

昔の真人は、逆境のときでもむりに逆らわず、栄達のときでも格別勇み立たず、万事をあるがままに任せて、思慮をめぐらせることがなかった。生を悦ぶということを知らないし、死を憎むということも知らなかった。その有様は、高々としているが崩れることがなく、何か足りないように見えるが、全く充実している。のびのびとして孤独でいるが頑固でなく、大げさでいてとらえどころがないが、浮ついてはいない。

死があり、生があるのは、運命である。あの夜と朝との決まりがあるのは、自然である。このように、人間の力ではどうすることもできない点のあるのが、すべての万物の真相である。

そもそも自然は、我々を、大地の上にのせるために肉体を与え、我々を労働させるために生を与え、我々を安楽にさせるために老年をもたらし、我々を休息させるために死をもたらすのである。だから、自分の生を善しと認めることは、つまりは、自分の死をも善しとしたことになるのである。

三日経ってから、この世界を忘れることができるようになった。七日経ってから、万物の存在を忘れることができるようになった。九日経ってから、自分の生きているのを忘れることができるようになった。

応帝王篇 第七
(政治の否定を訴えるものである。)

おまえはまた、何をつまらない、天下を治めるなどでわしの心を動かそうとするのだ。おまえは、お前の心を恬淡無欲の境地に遊ばせ、お前の気を空模静寂の境地に合わせ、何事についてもその自然なあり方に従って自分勝手な心を差し挟むことのないようにしたなら、天下はうまく治まるであろう。

参考文献
 金谷治 訳注、「荘子 第一冊 内篇」、岩波文庫 青206-1
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 楼主| 发表于 2008-5-24 18:24:49 | 显示全部楼层
1. 北冥有魚、其名為鯤、鯤之大、不知其幾千里也、化而為鳥、其名為鵬

      北冥(ほくめい)に魚(うお)あり、その名を鯤(こん)となす、
      鯤の大いさ、その幾千里なるを知らざるなり、
      化して鳥となる、その名を鵬(ほう)となす

      北の海に鯤という名の魚がいた。鯤の大きいことといったら、何千里あるかわからない。
      化けて鳥となる。その名前を鵬と呼ぶ。


   2. 至人無己、神人無功、聖人無名

      至人(しじん)は己(おのれ)なし、神人(しんじん)は功なし、聖人は名なし

      至人は自分にこだわらない。神人は功績にとらわれない。聖人は名誉に関心を示さない。


   3. 鷦鷯巣於深林、不過一枝、偃鼠飲河、不過満腹

      鷦鷯(しょうりょう)深林に巣(す)くうも、一枝(いっし)に過ぎず、
      偃鼠(えんそ)河に飲むも、満腹に過ぎず

      ミソサザイは深い林の中に巣をつくるが、必要なのはたった一枝、
      カワウソは黄河の水を飲むけれども、腹いっぱいになるだけあればそれで十分である。


   4. 朝三而暮四

      朝は三にして暮(くれ)は四

      朝に三杯、夕方には四杯
      (実質的には何の違いもないのに、目先の違いにとらわれて、
      怒ったり喜んだりする姿を笑った故事による。
      ………むかし、猿回しの親方が、あるとき、猿にどんぐりを与えながら、こう言った。
       「これからは、朝に三杯、夕方には四杯やることにしよう」
       猿はいっせいにいきりたった。そこで猿回しが、
       「済まん、済まん。それでは、朝に四杯、夕方は三杯にしてやるぞ」
       猿はたちまち機嫌をなおし、キャッキャッと喜びの声をあげた。)


   5. 荘周夢為胡蝶

      荘周、夢に胡蝶となる

      荘周は夢の中で一匹の胡蝶になっていた。
      (「荘子」の中でも広く知られている説話の一つ、全文を訳すと………
       いつのことだったか、荘周、つまりこの私は、夢の中で一匹の胡蝶になっていた。
      ひらひらと空を舞う胡蝶である。心ゆくばかり空に遊んで、自分が荘周であることも、もはや忘れはてていた。
      ところが、ふと目覚めてみれば、まぎれもなく私自身。荘周以外のなにものでもない。
      いったい、荘周が夢で胡蝶になったのであろうか。それとも、胡蝶が夢で荘周となったのであろうか。
      世間の常識に従えば、荘周と胡蝶とはたしかに別物である。
      だが、「物化」-すなわち生々流転してやまない実在の世界においては、夢もまた現実であり、現実もまた夢である。
      荘周もまた胡蝶であり、胡蝶もまた荘周であって、そこになんらの区別もない。)


   6. 吾生也有涯、而知也無涯、以有涯随無涯、殆已、已而為知者殆而已矣

      わが生(せい)や涯(かぎ)りあり、而(しか)して知や涯りなし、
      涯りあるを以って涯りなきに随(したが)う、殆(あやう)き已(のみ)、
      已(すで)にして知をなす者は殆きのみ

      人間の生命には限りがあるが、知の働きには限りがない。
      生命のこの有限性を度外視して、知の赴(おもむ)くままに無限を追求すれば、安らぎの訪れるときはない。
      私どもは、この道理を承知していながら、しかも、知から離れることができない。


   7. 縁督以為経、可以保身、可以全生、可以養親、可以尽年

      督(とく)に縁(よ)りて以って経(けい)となさば、以って身を保つべく、
      以って生を全うすべく、以って親(しん)を養うべく、以って年を尽くすべし

      世間の善悪に偏らないで、自然のリズムに従って生きれば、
      おのずから伸びやかな人生が送れるし、親にも十分な孝養が尽くせるし、
      与えられた寿命を全うすることもできる。


   8. 善哉、吾聞庖丁之言、得養生焉

      善きかな、吾庖丁(ほうてい)の言を聞きて、養生(ようせい)を得たり

      すばらしい。私は、庖丁の言うことを聞いて、人生を生きる極意を得た。
      (むかし、庖丁という名コックが魏(ぎ)の恵(けい)王の前で、一頭の牛を料理してみせた。
       庖丁が牛に手をかけて肩に力をこめ、足の位置をきめ、膝で牛をおさえたかと思うと、
      みるみる肉が骨から切り離されていく。あざやかな庖丁さばきはリズムにのって、
      まるで優雅なダンスでも舞っているようなあんばいである。
      恵王が思わず、「おお、みごと。まさに神業じゃ」と感嘆すると、庖丁は、つと庖丁をおいて、こう語ったという。
      「むかし、この仕事についた当座は、目にうつるのは牛の外形でした。
       三年ほどたつうちに、牛の外形は消え失せ、骨や筋が見えるようになりました。
      今では、牛に向かうと、心が働きます。すでに感覚は働きを止めて、心だけが活発に働き出すのです。
      そのあとは自然の摂理に従うだけです。牛の体に自然に備わっているすきますきまを切り割いていく。
      ですから大きな骨はもちろん、筋や肉が骨と絡み合っている部分でも刃こぼれすることはありません」
       恵王は、これを聞いて、冒頭の声をあげた。)


   9. 安時而処順、哀楽不能入也

      時(とき)に安んじて順に処(お)れば、哀楽入(い)る能(あた)わず

      時のめぐり合わせに身をまかせ、自然の流れに従って生きるなら、
      悲しみにも喜びにも心をかき乱されることはない。


  10. 徳蕩乎名、知出乎争、名也者相軋也、知也者争之器也、二者凶器、非所以尽行也

      徳は名に蕩(うしな)われ、知は争いに出(い)づ、
      名なるものはあい軋(きそ)うなり、知なるものは争いの器(うつわ)なり、
      二者は凶器にして、尽くし行なう所以(ゆえん)にあらざるなり

      人間の徳は名誉にとらわれることによって失われ、知は争いがあることによって発達してきた。
      名誉心にとらわれ、知に頼っているかぎり、人間同士の対立抗争は激しくなるばかりだ。
      名誉心も知も、相手を傷つけ自らを滅ぼす凶器である。そんなものに依存してはならない。


  11. 無聴之以耳、而聴之以心、無聴之以心、而聴之以気

      これを聴くに耳を以ってするなくして、これを聴くに心を以ってす、
      これを聴くに心を以ってするなくして、これを聴くに気を以ってす

      耳で聴くよりも心で聴く。いや、心で聴くよりも気で聴くことが必要である。


  12. 蟷螂怒其臂以当車轍、不知其不勝任也

      蟷螂(とうろう)その臂(ひじ)を怒らして以って車轍(しゃてつ)に当たる、
      その任に勝(た)えざるを知らざるなり

      蟷螂(かまきり)は、物が近づくと、たとえ車の輪のような巨大なものでも、斧をふりあげて立ち向かっていく。
      その意気込みは壮とすべきだが、しょせん、踏み潰されるのがオチである。


  13. 人皆知有用之用、而莫知無用之用也

      人みな有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり

      人々は皆有用なものが有用であることは知っているが、
      無用と思われているものこそが実は有用であることを知らない。


  14. 立不教、坐不議、虚而往、実而帰

      立ちて教えず、坐して議せず、虚にして往(ゆ)き、実(じつ)にして帰る

      講義するでもなし、議論するでもない。押し付けがましいことは何ひとつ口にしないのに、
      それでいて、彼のもとに行けば、何かしら心が満たされるような思いで帰ってくる。
      (魯(ろ)の国にいた王駘(おうたい)という大変人望のあった人物を評したもの)


  15. 自其異者視之、肝胆楚越也、自其同者視之、万物皆一也

      その異なるものよりこれを視(み)れば、肝胆(かんたん)も楚越(そえつ)なり、
      その同じきものよりこれを視れば、万物もみな一なり

      あらゆるものは違うという点から見れば、どれ一つとして同じ物はない。
      たとえば、すぐ近くにある肝臓と胆嚢(たんのう)でさえ、楚の国と越の国ほどのへだたりがある。
      これに対し、あらゆるものは同じだという点から見れば、万物はすべて一つである。
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 楼主| 发表于 2008-5-24 19:24:10 | 显示全部楼层
『荘子』外篇、秋水、「荘子与恵子遊於濠梁之上。荘子曰、鯈魚出游従容。是魚楽也。恵子曰、子非魚、安知魚之楽。荘子曰、子非我、安知我不知魚之楽。恵子曰、我非子、固不知子矣。子固非魚也。子之不知魚之楽全矣。荘子曰、請循其本。子曰、女安知魚楽云者、既已知吾知之而問我。我知之濠上也」。
荘子、恵子と濠梁の上(ほとり)に遊ぶ。荘子曰く「鯈魚(ゆうぎょ)出游して従容たり、是れ魚の楽しみなり」。恵子曰く「子(きみ)は魚に非ず、安(な)んぞ魚の楽しみを知らんや」。荘子曰く「子(きみ)は我に非ず、安(な)んぞ我れが魚の楽しみを知らざることを知らんや」。恵子曰く「我れは子(きみ)に非ざれば固(もと)より子(きみ)を知らざらん。子(きみ)は固(もと)より魚に非ざれば、子(きみ)が魚の楽しみを知らざること全し」。荘子曰く「請う其の本に循(したが)わん。子(きみ)が曰いて〈女(なんじ)安(な)んぞ魚の楽しみを知らん〉と云えるは、既已(すで)に吾れが之を知ることを知って我に問うなり。我れ之を濠上に知れり」。
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 楼主| 发表于 2008-5-24 20:07:49 | 显示全部楼层
荘子「秋水」の最後に、このような話がある。

    ある日、荘子(そうし)と恵子(けいし)が川のほとりを散歩していた。
    ふたりで橋を渡っているとき、荘子が言った。

    荘子「魚がゆうゆうと泳いでいる。あれが魚の楽しみというものだ」

    すると恵子はたちまち反論した。
    恵子「きみは魚じゃないのに、どうして魚の気持ちがわかるんだね?」

    荘子「きみは私じゃないのに、どうして私が魚の気持ちがわからないとわかるんだね?」


──恵子は理論的な人だったみたいだな。
ささいなヒトコトに突っ込む恵子もすごいが、さらりと返す荘子もおもしろい。
ふたりの議論はつづく。

    恵子「たしかに私はきみじゃないから、きみが魚の気持ちがわかるかどうか、わからない。だけどきみは魚じゃないから、魚の気持ちがわかるはずがない
    (私の理論はカンペキだ)」

    荘子「まぁ、待ちたまえ。最初、きみが私に『どうして魚の気持ちがわかるんだね?』と訊ねたときも、きみは(荘子は魚じゃないから魚の気持ちがわかるはずがないと)わかっていたんだろう。それと同じように、私も橋の上で魚の気持ちがわかったんだよ」


──後半はちょっと難しい。
「魚でないものは、魚の気持ちを理解できない」とする恵子の理論は正しいように見えるが、じつは証明できない。「たぶん○×だろう。そう考えた方が納得できる」と恵子が考えたように、荘子も魚の気持ちを想像し、理解したわけだ。


ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士は、荘子の話を好み、随筆や色紙にしばしば「知魚楽」と書いたそうだ。
・・・という話は知っていたけど、私には湯川博士の意図するところがよくわからなかった。それが最近、ちょっとわかってきたような気がするので、まとめておく。

完全に証明(肯定)できるものしか信じないのが科学(=恵子)だが、完全に否定できないことを排除しない視点(=荘子)がなければ、科学の発展はなかった。
たとえば宇宙人は存在するだろうか?
恵子のように頭で考えればノー、荘子のように心で感じればイエス。しかし現状ではイエスもノーも証明できない。真実に近づくためには、頭と心の両方が必要なのだろう。
現代人はとかく理屈を偏重しがちだ。それでいて、根拠のないオカルトに惑わされたりする。「知魚楽(魚ノ楽シミヲ知ル)」は、思考のバランスを保てと言う博士からのアドバイスかもしれない。

もちろん博士の心はわからない。
しかし、「博士の心がわかった」と感じる自分を否定する気もない。
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 楼主| 发表于 2010-6-15 13:02:18 | 显示全部楼层
胠篋(きょきょう)篇

 【解説】この篇も儒家的な聖人を否定し、人知の小ざかしさは害になる、知恵を捨てて素朴な自然の状態に帰れと説く。篇名は冒頭の二字から。

 こっそりとつずら(篋)を開いたり、袋の中を探り、箱を開けたりするこそ泥に用心して誰れでも袋や箱に縄をかけ、錠前を掛けるだろう。これが世間の常識だ。しかし大泥棒がくれば、その袋や箱をそのまま背負って逃げていく。縄や錠前が役に立つどころか、泥棒の方が途中中身がこぼれないように縄や錠前がしっかり掛かっているかどうか心配している。言ってみれば泥棒を防ぐ知恵が逆に泥棒を助けていることになるのだ。

 そこでしばらくこのことを論じよう。世間に知恵というもので、大泥棒の助けにならないものがあるだろうか。聖人といわれる者に大泥棒の守護者にならないものがあるだろうか。
 昔、斉の国では隣り合った村々が互いに見え、鳥や犬の鳴き声も互いに聞こえるほどだったが、魚、鳥を獲る網を張る場、鋤で耕す農場は二千里四方に広がり、四方の国境の中は祖先を敬う廟や土地の神、穀物の神を祭る社を立て、邑、屋、州、閭、郷、曲(いずれも行政区域の単位)を定めて治める制度で、聖人(君主)にしたがわないものはなかった。
 
 しかし田成子(でんせいし・斉の家老)が君主を殺してその国を盗み取った。盗み取ったのは国だけでなく、その制度まで一緒に盗み取ったのだ。
 だから田成子は国盗人の汚名は受けたが、その身は聖人の堯や舜と同じように安泰で、小国も非難せず、大国も誅罰を加えようとせず、子孫は十二代にわたって斉の国を保った。つまりこれは聖人が斉国とその制度を盗んだ国盗人の身を守ったといえる。

 さらに世間で最高の知恵といわれるものに大泥棒の助けとならないものがあるだろうか。最高の聖人といわれる者に大泥棒の守護者に成らない者がいるだろうか。どうしてこの様に言うかといえば、竜逢(りゅうほう・夏の暴君・桀王に仕えた)は桀王に切り殺され、比干(ひかん・殷の暴君・紂王に仕えた)は桀王に心臓を開かれて殺された。萇弘(ちょうこう・周の賢い臣)は晋の謀略で体を引き裂かれ、呉子胥(ごししょ・呉王・夫差をいさめた臣)は自殺させられ、死体は揚子江に捨てられた。この四人は賢者であったが、その知があだとなり死をまぬがれなかったのだ。

 大泥棒の盗跖(とうせき・伝説の悪人)に子分が「泥棒にも守るべき道徳がありますか」とたずねた時、盗跖はこう答えた「なにをやるにも道徳は必要だ。まず部屋の中のものを見当をつけるのが聖の徳、押し入るとき先頭に立つのが勇の徳だ。引き上げる時しんがりを努めるのは義の徳。頃合いの善し悪しをわきまえるのが智の徳だ。分け前を公平にするのは仁の徳。この五つの徳を身に着けないで大泥棒に成った者が天下にあったためしがない」。

 この言葉から考えると善人が聖人の道徳を身に着けなければやっていけないように、盗跖もまた聖人の道徳を身につけなければ、やっていけないのだ。この世界には善人が少なくて、よからぬ人が多いわけだから、つまり聖人というのは善人を助けて世の中を益することが少なく、悪人を助けて世の中を害することが多いわけだ。それで「唇をそらすと歯が寒くなる。魯の酒が薄かったため、趙の都が軍隊に包囲された」ということわざがある(どちらも関係の無いことで、意外な結果が起きたという意味)。

 聖人が現れたのは大泥棒を助けるためではなかろうが、その結果として大泥棒が起こることになった。聖人を叩きのめし泥棒を自由にしてやれば、天下はよく治まるのだ。川の水が尽きると谷は干上がり、丘が平らかにされると淵のくぼみもうずまるのだ。そのように聖人がいなくなれば大泥棒もいなくなり、天下中が平安無事になる。聖人がいなくならないと大泥棒もなくならない。聖人を尊重して天下を治めたところで、それは盗跖にさらに利益を与えることになるだけだ。

 枡(ます)を作ってそれで量を計るようにすると、その枡ごと盗む。秤(はかり)を作って重さを計ろうとすると、その秤ごと盗む。割符や印章を作れば、割符、印章ごと盗む。仁義の道徳を備えてそれで矯正しようとすると、仁義まで一緒に盗んでしまうのだ。

 どうしてそれが分かるのか。帯鉤(おびかね・帯を留める金具)を盗んだものは罰せられるが、国を盗んだものは諸侯となり、その諸侯の一門に道徳が集まる。ということはこれは仁義や聖知まで盗んだことになりはしないか。だから大泥棒のやり方にしたがい、諸侯という名声を掲げ仁義の徳を盗んだ上、枡や秤、割符、印章まで盗むものに対しては高位、高官の賞も役に立たないし、死刑の脅しも効き目がない。このように盗跖のような大泥棒に利益を増し与えて抑えようのない状態にしてしまったのは聖人の過ちである。
 だから「魚は淵から離れてはいけない。国の有効な道具は人に見せてはいけない、といわれるが、あの聖人というものは天下の有効な道具である。天下中はっきり見せるものではないのだ。

 故に聖人を根絶やしにして、知を捨てれば大盗は止み、玉をなげうち珠を壊せば小盗は起こらない。割符を焼き、印章を壊してしまえば民衆は素朴になる。枡をうち割って秤のさおを折ってしまえば、民衆は利益を争わない。天下中の聖人の法をすっかり滅ぼしてしまったら、そこで民衆は初めてともに語り合えるようになるのだ。

 六律六呂といった音調をかき乱し、笛や琴を焼き捨て、師曠(しこう・古代の楽師)の耳をふさいでしまったら、天下の人々は初めて自分本来の聞く耳を持つことに成るだろう。華美な飾りを捨て、さまざまな彩を消滅させ、工錘(りしゅ・目がよい伝説の人)の目を膠でふさいでしまったら、人々は自分本来の目を養うようになるだろう。曲尺や墨縄を壊し、定規や指し金を捨て去って工錘(こうすい・定規などを開発した細工師)の指を痛めつけたら、人々は本来の自分の巧みさを持つようになるだろう。だから「偉大な巧みさはつたなく見える」というではないか。

 曾参(そうしん)、史鰌(ししゆう)の行為を退け、楊朱(ようしゅ)墨子(ぼくし)の口をふさぎとめ、仁義の徳を除きされば、そこで始めて世界中の徳が玄妙な一致を示すことになるだろう。人々が自分本来の見る力を持つようになれば、世界が焼き尽くされることがない。人々が本来の聞く力をもてば、世界は乱されることがない。人々が本来の知恵を内に蓄えるようになれば世界は惑わされない。人々が本来の自分の徳を内に蓄えるようになれば、世界は横道にそれることはない。あの曾参、史鰌、楊朱、墨子、師曠、工錘、離朱はいずれもその才能を表に出して世界をかき乱した者たちだ。この者たちには聖人の法は役に立たない。

 君はよく治まっていた昔の時代を知っているだろうか。容成(ようせい)氏、大庭(たいてい)氏、伯皇(はくこう)氏、中央氏、栗陸(りつりく)氏、驪畜(りちく)氏、軒轅(けんえん)氏、赫胥(かくしょ)氏、尊盧(そんろ)氏、祝融(しゅくゆう)氏、伏戯(ふっき)氏、神農(じんのう)氏といった上帝の時代あったが、その当時は人々は文字の代わりに縄の結び目を記号とし、自分の食べ物を旨いとし、自分の服を立派と思い、素朴は風俗を楽しみ、粗末な住居に満足していた。隣の国は互いに見えるほど近く、鶏や犬の聞こえるほどだったが、人々は老いて死ぬまで行き来をしなかった。このような時代こそがもっともよく治まった時代である。ところが今では、人々が首を伸ばし、つま先立ちをして、どこそこに賢人がいるといっては、教えを受けようと弁当を背負ってそこに出かけてゆく。

 そして親を捨て、主君に対する義務も捨てて、国境をも越えて千里を越えた遠方まで車で走り回るのだ。これは上に立つものが知恵を好んだための過ちである。上に立つものが、もし知を好んで道を無視するなら世の中は大いに乱れるだろう。

 どうしてそれが分かるのか。そもそも弓、弩(いしゆみ)鳥網、弋(いぐるみ・矢に糸をつけて鳥を射る道具)、機(き・弩の矢を飛ばす仕掛け)などといった知恵が多くなると、鳥は空で乱れることになるし、釣り針、えさ、網、細網、四手網、梁(やな)といった知恵が多くなると魚は水中で乱れることになる。杭をめぐらした檻(おり)、からめ網、ウサギ網、などの知恵が盛んになると獣は沢の中で乱れることになる。

 人間の世界も同様で、ことさらな知恵と偽り、そしりと恨み言、もって回ったあいまいな表現、でたらめ、詭弁、ののしりなどの議論が盛んになると、俗人は弁論に惑わされることになる。そして天下中がすっかりくらまされて、大混乱に陥るのだ。その罪は上に立つものが知恵を好んだことにあるのだ。

 人々は皆、未知なことは追求するが、すでに知っていることをさらに追求しようとしない。自分がよくないと思うことは批判するが、自分が一度よいと思ったことを反省することはない。こうして天下は大いに乱れることになる。上は日月の輝きを覆い隠し、下は山川の精気を消滅させ、四時の気候は狂い、地を這う虫も空を飛ぶ小鳥も全てのものが自然の持ち前を失ってしまう。知恵好みが世の中をこれほどに乱すとは、ひどいものだ。

 三代(夏、殷、周)から後の時代では、全てこのざまだ。純朴な民衆を捨て、軽薄な人間を好み、とらわれの無い無為無欲を捨てて、小賢しい知恵を喜んでいる。まさにこの小賢しい知恵こそが世の中を混乱させているのだ。

将为祛箧探囊发匮之盗而为守备,则必摄缄滕,固扃谲,此世俗之所谓知也。然而巨盗至,则负匮揭箧担囊而趋,唯恐缄滕扃谲之不固也。然则向之所谓知者,不乃为大盗积者也?故尝试论之,世俗之所谓知者,有不为大盗积者乎?所谓圣者,有不为大盗守者乎?何以知其然邪?昔者齐国邻邑相望,鸡狗之音相闻,网罟之所布,耒缛之所刺,方二千余里,阖四境之内,所以立宗庙社稷,治邑屋州闾乡曲则和,曷尝不法圣人哉?然而田成子一旦杀齐君而盗其国,所盗者岂独其国邪,并与其圣知之法而盗之。故田成子有乎盗贼之名,而身处尧舜之安,小国不敢非,大国不敢诛,十二世有齐国。则是不乃窃齐国,并与其圣知之法,以守其盗贼之身乎?尝试论之,世俗之所谓至知者,有不为大盗积者乎?所谓至圣者,有不为大盗守者乎?何以知其然邪?昔者龙逢斩,比干剖,苌弘刖,子胥靡,故四子之贤,而身不免乎戮。故盗跖之徒,问于跖曰:“盗亦有道乎?”跖曰:“何适而无有道邪?夫妄意室中之藏,圣也。入先,勇也。出后,义也。知可否,知也。分均,仁也。五者不备,而能成大盗者,天下未之有也。”由是观之,善人不得圣人之道不立,跖不得圣人之道不行。天下之善人少而不善人多,则善人之利天下也少,而害天下也多。故曰:唇竭则齿寒,鲁酒薄而邯郸围,圣人生而大盗起。掊击圣人,纵舍盗贼,而天下始治矣。夫川竭而谷虚,丘夷而渊实,圣人已死,则大盗不起,天下平而无故矣。圣人不死,大盗不止。虽重圣人而治天下,则是重利盗跖也。为之斗斛以量之,则并与斗斛而窃之,为之权衡以称之,则并与权衡而窃之,为之符玺以信之,则并与符玺而窃之,为之仁义以矫之,则并与仁义而窃之。何以知其然邪?彼窃钩者诛,窃国者为诸侯。诸侯之门,而仁义存焉。则是非窃仁义圣知邪?故逐于大盗,揭诸侯,窃仁义,并斗斛权衡符玺之利者,虽有轩冕之赏弗能劝,斧钺之威弗能禁。此重利盗跖而使不可禁者,是乃圣人之过也。故曰:鱼不可脱于渊,国之利器不可以示人。彼圣人者,天下之利器也,非所以明天下也。故绝圣弃知,大盗乃止,挞玉毁珠,小盗不起,焚符破玺,而民朴鄙,掊斗折衡,而民不争,殚残天下之圣法,而民始可与论议。翟乱六律,铄绝竽瑟,塞瞽旷之耳,而天下始人含其聪矣。灭文章,散五采,胶离朱之目,而天下始人含其明矣。毁绝钩绳,而弃规矩,丽工捶之指,而天下始人有其巧矣。故曰:大巧若拙。削曾史之行,钳杨墨之口,攘弃仁义,而天下之德始玄同矣。彼人含其明,则天下不铄矣。人含其聪,则天下不累矣。人含其知,则天下不惑矣。人含其德,则天下不僻矣。彼曾史杨墨师旷工捶离朱,皆外立其德,而以瀹乱天下者也,法之所无用也。子独不知至德之世乎?昔者容成氏、大庭氏、伯皇氏、中央氏、栗陆氏、骊畜氏、轩辕氏、赫胥氏、尊庐氏、祝融氏、伏羲氏、神农氏,当是时也,民结绳而用之,甘其食,美其服,乐其俗,安其居,邻国相望,鸡狗之音相闻,民至老死而不相往来。若此之时,则至治已。今遂至使民延颈举踵曰:某所有贤者,赢粮而趣之。则内弃其亲,而外去其主之事,足迹接乎诸侯之境,车轨结乎千里之外,则是上好知之过也。上诚好知而无道,则天下大乱矣。何以知其然邪?夫弓弩毕弋机变之知多,则鸟乱于上矣。钩饵网罟罾句之知多,则鱼乱于水矣。削格罗落苴罘之知多,则兽乱于泽矣。知诈渐毒颉滑坚白解垢同异之变多,则俗惑于辩矣。故天下每每大乱,罪在于好知。故天下皆知求其所不知,而莫知求其所已知者,皆知非其所不善,而莫知非其所已善者,是以天下大乱。夫上悖日月知明,下烁山川知精,中堕四时知施,惴软知虫,肖翘之物,莫不失其性。甚矣,夫好知之乱天下也,自三代以下者是已。舍夫种种之民,而悦夫役役知佞,释夫恬淡无为,而悦夫谆谆知意,谆谆已乱天下矣!
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 楼主| 发表于 2010-6-15 13:04:32 | 显示全部楼层
養生主(ようせいしゅ)篇

 【解説】煩雑で屈曲の多いこの世の中、世俗に生きつつ、世俗を超越して生きるにはどうしたらよいか。生を養う原理を説く。

                (1)

 人の生命には限りがあるが、知の働きは無限である。この隔たりがあるのに、隔たりを無視して知を追求していくのは極めて危ない。このことを承知していながら、知を追及してゆくのは破滅に至る。
 善に努めれば名誉に繋がる、悪をなせば刑罰に繋がる。ここは中の立場に立って自然のままに任せれば、生を全うし、身を養い、天寿を全うできる。

                 (2)

 名料理人の包丁が魏の恵王の前で牛をさばいて見せた。
 包丁が牛を手で触り、肩に力を入れ、足の位置を定めて、ひざで牛を押さえ、牛刀を入れるとさくさくと肉が切り離れていく。その刀さばきは音楽のようで殷の時代の名曲・桑林に調和し、堯の時代の舞曲も思わせる。恵王は「すばらしい。まさに技術を極めたようだ」と感嘆の声を上げた。

 これを聞いた包丁は牛刀を置いて「私が求めているのは技術ではありません。その上の道です。私が初めて牛をさばいたとき、見たのは牛の外観でした。三年目からはもう牛の外観を見ず、必要なところだけを見ました。今では私は心で見て目では見てはおりません。
 感覚器官は働きを止め、精神が動き始めます。天理によって牛の大きな隙間に刃を入れ、空洞に沿って刃を滑らせ、牛の本来の仕組み通りに刃を滑らせていくのです。支脈、経脈が入り組み、複雑に固まったようなところでも試し切りはしません。刃を入れた以上一度にさばきます。

 優秀な料理人は年に一度刃を取り替え、普通の料理人なら月に一度刃を折ってしまうものです。私の牛刀は十九年も使い、数千頭の牛を解体したというのに、まるで今砥石を当てたばかりのように見えます。
 骨節には隙間があり、牛刀の刃はほとんど厚みがありません。厚みの無いものを隙間に入れるのですから、悠々として余裕があります。だからこそ幾ら使っても刃こぼれ一つ無いのです。

 それにしても筋や骨の入り組んだところに来ると、緊張します。視線を一点に集中させ、手の運びを遅くして、牛刀が動いているかどうか分からないほどになります。やがてどさりと音立てて肉が離れて土くれのように地に落ちると、私は牛刀を引っさげて、四方を見回し、しばらくたたずんで成功を満足し、牛刀をぬぐって鞘に納めるのです」。
 恵王は感動して「すばらしい。わしは包丁の話を聞いて養生の道を会得した」と言った。

                 (3)

 公文軒(こうぶんけん)が足切りの刑で片足を失った右師を見て驚いて言った「どうしたのだ、その足は。生まれつきか、それとも刑罰でか」。
 右師は答えた「生まれつきのようなものだ。刑罰ではない。天が俺に片足の運命を与えた。人の姿かたちは天与のもの、俺が片足になったのは天命で、人に切られたものでないと知ったのだ。
 沢に住む雉は十歩歩いて餌をついばみ、百歩歩いて水を飲む。苦しいけれど篭の中で養われようとしない。篭に入れば楽になり精気はついても、楽しくないことを知っているからだ」。

                   (4)

 秦失(しんしつ・不明)は友人の老子(時代が合わず虚構)の訃報に接して弔問に行った。かれは霊前で三たび声を上げて泣くという儀礼を行っただけで、そのまま帰った。そのそっけないそぶりに老子の弟子が「あなたは先生と旧来の友人だったじゃないですか」となじると、秦失はこう答えた「そうだとも」。弟子は「親友のあなたがそのような弔い方でよいのですか」と責める。

 秦失は言う「私はこれまで、あなたの先生を尊敬して付き合ってきたが、今は気持ちが変わった。奥の間に入ると老人は子を亡くしたように泣き、若者は母をなくしたように泣いている。故人は追悼の言を求めていないし、泣くことも求めていないだろう。これは天の理法を逃れ、人間の自然のあり方にそむく行為だ。

 人の生が天から与えられたものであることを忘れて執着することを、昔の人は頓天(とんてん・自然の道理から外れた罪)の刑といった。先生がこの世にやってきたのは、それが生まれるべき時だったからで、死んだのも死ぬべき時だったからだ。時に準じておれば哀楽の入る余地は無い。昔はこれを帝の県解(けんかい・束縛からの解放)といった」。
 指で薪を押し進められなくなっても、火は燃え続け、消えることは無い。

 【解説】最後の老子の弔いで、秦失が老子をけなしたという解釈について、原文の読み下しは「始めは吾以ってその人と為せるも、而も今は非なり」となっています。そこで「これまで老子を人としてきたが、今は普通の人でない」と、老子を持ち上げる解釈もあります。言葉に是非はないという荘子の論で言えば、どちらでもよいことでしょう。
 最後の文章は意味が分かりません。後世の人の加筆かもしれませんが、自然に任せて生きよという道理は永遠に続くと解釈すべきでしょうか。 
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 楼主| 发表于 2010-6-28 20:26:05 | 显示全部楼层
一篇庄周梦蝶的直译,很有韵味~
昔者庄周梦为蝴蝶,
栩栩然胡蝶也,
自喻适志也!
不知周也.俄然觉,
则蘧蘧然周也.
不知周之梦为胡蝶与,
胡蝶之梦为周与?
周与胡蝶,则必有分矣.
此之谓物化.

昔、荘周夢にて胡蝶となる。挧挧然(くくぜん)として胡蝶なり。
自ら愉しみ志に適えるかな。
周なるを知らざるなり。
知らず周の夢に胡蝶となれるか。
俄然として覚むれば即ちきょきょとして周なり。
知らず周の夢に胡蝶となれるか。
胡蝶の夢に周となれるか。
周と胡蝶とは即ち必ず分あらん。これを之物化という。
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发表于 2010-6-29 09:57:37 | 显示全部楼层
不可说
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发表于 2010-10-25 21:46:22 | 显示全部楼层
日语比古文好理解。
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