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求助!要作关于志贺直哉《暗夜行路》第一章的发表

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发表于 2004-3-7 23:00:00 | 显示全部楼层 |阅读模式
请大家给点建议、或说下你的理解

那方面的都好,不想全引用网上权威人士们的既定观点



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发表于 2004-3-17 23:00:00 | 显示全部楼层
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发表于 2004-3-17 23:00:00 | 显示全部楼层
志賀直哉の生活と芸術



阿川弘之 



 大正の初年、志賀直哉が未だ三十一、二歳の頃、夏目漱石の門下で直哉の資質を大変高く評価している人が二人あった。一人は和辻哲郎、もう一人は芥川龍之介、その話から始めようと思う。

 芥川がある時、

「志賀さんの文章みたいなのは、書きたくても書けない。どうしたらああいう文章が書けるんでしょうね」

 と、師の漱石に訊ねた。

「文章を書こうと思わずに、思うまま書くからああいう風に書けるんだろう。俺もああいうのは書けない」

 漱石はそう答えたという。

 同じ時期、和辻哲郎が、東京市外大井町の志賀直哉の仮寓近くに住んでいた。始終往き来があり、直哉は尾道や城崎で見たもののことを、よく和辻に話して聞かせたらしい。その語り口があまりにヴィヴィッドなのに、和辻は驚いた。漱石を愛読し直哉を愛読し、自身も作家志望だった和辻が、それをあきらめ、専ら学問の道へ進むようになる原因の一つは、あれほどの事物描写の能力を自分は持ち合せていないと悟ったためだと言われている。

 二つのエピソードは、志賀作品の魅力の本質を解き明していると同時に、小説家志賀直哉の、ある意味での弱点も暗示しているかに思われる。「思うまま書く」志賀流は、見方を変えれば「極めて我儘な書き方」ということで、分り易くとか、読者のためにとか、新聞雑誌の約束事にしたがってとか、その種の配慮を、直哉は生涯を通じてほとんど払っていない。外部から何かの制約が加ると、書けなくなるか、書いて失敗するかのどちらかであった。ある事柄に関し、これは説明を添えておかないともはや一般読者に通じにくいかも知れぬ、しかし説明すれば全体の調子が弱くなる、そういう場合、迷わず、説明しない方を取った。それ故、「暗夜行路」の中にも、今では何のことか、研究家ですら分らなくなってしまった表現がいくつかある。

 調査考証を必要とする歴史小説なども、直哉の気質に合わなかった。徳川家康の長子信康とその母築山殿を主人公にした少し長いものを書いてみようと思い立ち、一時資料集めまでしたことがあるが、結局書かずに終っている。その代り、――と言うべきか、自分のほんとうに興味をいだいた対象は、ありありとかたちを眼に浮かべ、出来るだけ言葉を節し、強く簡潔に、非常なあざやかさで描き出す。和辻芥川が感服したのも、宮本百合子が「志賀さんの作品は活字が立っている」と評したのも、そこのところであろう。

 小説家が原稿の書き直しをすると、多少とも枚数が増えるのが常なのに、志賀直哉は書き直す度枚数が減ったという伝説がある。多分事実で、説明を避け、対象にじかに迫った的確な描出をしようとすれば、どうしてもそうなるらしかった。

 人のものを読んで、直哉は時々、

「その場面をはっきり頭に浮かべないで書いてるね」

 と不服を言った。少々極端な例だが、例えば某流行作家の風俗小説で、男と女が、線路をへだてた向うのプラットフォームとこちらのプラットフォームに立ち、別れの言葉を交している。かなりの大声を出さなくてはお互い聞き取れない状況であるにもかかわらず、作者は平気で、二人に普通の会話をさせている。こういう垂れ流しのような叙述は、自分の場合として考えたら到底我慢出来ないし、やれないたちであった。

 読者は、それと正反対の、明晰で美しくリアリスティックな情景描写を、「暗夜行路」の尾道の場面、大山の場面その他に、たくさん見出すはずである。だが、はっきり頭に浮かべて書く、説明せずに描写する、ダラダラになりそうな文章をきちんと立て直すというのは、実のところ想像以上のむつかしい作業であって、志賀直哉の才能を以てしてもやはり苦しかった。「苦しいからつい怠けることになるね」と自分で述懐している通り、直哉の生涯には、数年間にわたって全く筆を執らなかった時期が何度かあり、仕事の総量は少い。長篇は「暗夜行路」一作しか無い。唯一のその長篇も、雑誌「改造」に連載を始めてから同誌上で完結するまで、前後十七年を要している。フランス文学者の辰野隆は、直哉の文学をバルザックなどとおよそ対照的なものだと言い、滴々としたたり落ちる岩清水に喩えたことがあった。

 かと言って、その作品群を、一刀三拝鏤骨彫心の末に成ったきびしく近寄りがたい孤高の芸術のように思うとすれば、それも亦誤解であろう。人にのびのびとした爽かな読後感を与える一筆描きのような小品が少くないし、ユーモラスなものもずいぶんある。うしろに一本強い倫理的なすじが通っているのは事実だが、その倫理性潔癖性が、堅苦しく硬直したかたちで作品の上にあらわれることは、まず無かった。草花や動物や虫や、総じて自然が好きだったが、同じように、人間の生き方としても、自然なのを一番よしとしていた。



 志賀直哉は明治十六年(一八八三)の二月、宮城県の石巻で生れた。そのため、国語教科書の作者紹介欄などに「宮城県の人」と書かれることがあるが、これは必ずしも妥当でない。父直温が若い銀行員として石巻在勤中たまたまその地で生れただけで、物心つかぬ満二歳の時父母と共に東京へ移り、その後幼稚園も小中学校高等学校(学習院)の教育も東京で受け、大学(東京帝国大学文科大学)中退までずっと東京で育つのだから、むしろ東京山の手出身の作家と見ておいた方がいいだろう。ただし志賀家自体は、こんにちの福島県相馬地方の出で、祖父直道の時まで代々相馬藩六万石の家老職をつとめていた。

 志賀文学の大きなテーマの一つは、父と子の不和である。ある時期には父親が息子の死を願い、息子は父を殺すことを考えるほどの激しい葛藤が繰返された。原因は多岐にわたっているけれど、複雑な部分を全部飛ばして言えば、幼少年期の直哉がじいさんばあさん子だった点に帰着するだろう。石巻から東京へ帰って来た幼い一人っ子の直哉は、志賀家の大事な跡とりとして、祖父母の部屋へ引き取られ、祖母留女の盲目的愛情を受けて育った。直哉の方も、こよなく祖母を愛し、祖母に我儘放題を言って大きくなる。古武士の風格を持つ祖父に対しても、尊敬の念と共に深い愛情をいだいていた。一方、実の母親は直哉が十二の年に亡くなり、父親との関係は疎遠になりがちで、したしみは薄く、長ずるにつれ、ものの考え方の上にも大きな差異が生じて来る。父直温は、銀行を辞めたあと実業家を志して、明治大正の財界に地歩を築き巨富を成した人である。文学になぞ関心は無く、家の資産をつくり上げ、子々孫々にそれを伝え残し、一家一族の繁栄をはかるのを生き甲斐としていた。それに反し息子は、財産の恩恵には充分浴しながら、金に執着する父の生き方を嫌っていた。結局は、正面切って対立せざるを得ない呙扦ⅳ盲俊

「大津順吉」「和解」「或る男、其姉の死」の三部作は、いずれも此の、父子の争いを主題としたものであり、「暗夜行路」もある意味で(成立の過程から見て)その系列に属する作品である。

「白樺」が創刊されたのは明治四十三年、直哉が父親と不仲のまま麻布の父の家に部屋住みだった時期にあたる。発足当時の「白樺」には、後年言われるような「白樺の人道主義」とか「白樺派の邉印工趣⒁护膜沃髁x主張を表に掲げる空気は無かった。直哉も武者小路実篤も、木下利玄、柳宗悦、里見・らも、めいめい自分勝手に書きたいものを書いて、誰からも一切拘束されず、自由に発表し発言する、そのための同人雑誌発刊であった。これを足がかりに文壇へ打って出ようという気も、全くと言っていいほど無かった。同人全員に共通していたものありとすれば、芸術に対する、とりわけ西欧の新しい芸術に対する信仰に近い情熱だけであったろう。

 しかし、創刊後何年か経つと、主として武者小路実篤の強い個性の影響を受けて、「白樺」がいわゆる人道主義的傾向を帯びて来るのは事実である。直哉は、一つの旗じるしを掲げたものには、何事によらずついて行けない性格であった。「白樺」の傾向に対する不満、父親との不和、両方が原因で東京を離れることになる。

 最初尾道での自炊生活、次いで松江や大山での独り暮し、京都に住んでいた大正三年の末結婚するが、そのあとも、赤城、我孫子、京都、奈良と、景色のいい静かな土地を選ぶようにして田舎暮しをつづけ、五十代の半ばになるまで東京へ帰住しなかった。これら各地での生活経験が無ければ、「暗夜行路」の尾道の名描写も、「焚火」も「濠端の住まい」も「日曜日」も生れて来なかったわけだが、新進作家として認められて間もなく中央から離れてしまった文士というのは、当時珍しかった。

 父親との和解が成立し、中篇「和解」が出来上るのは、大正六年、我孫子に住んでいる時で、直哉は満三十四歳であった。その少し前から、直哉の気持が動より静へ、対立より調和へと、微妙な変化を見せていた。美術に対する好みでも、西欧のもの一点張りだったのが、東洋の墨絵とか、仏像仏画の名品に心惹かれるようになって来た。そのことが、父親との関係にもよき影響を及ぼし、十七、八年にわたった父子の不和が解けるのだが、一方、作品の上に、東洋風の静かな風格となってあらわれて来る。「濁った頭」とか「范の犯罪」とか、若い頃の刺戟の強いどぎつい作風は次第に影をひそめ、「雪の遠足」「転生」「豊年虫」「菰野」「池の縁」のような、随筆との境界の定かでないものが多くなる。大正十二年から昭和十三年まで十五年間の関西暮しは、東洋美術仏教美術のよきものに接する一層の機会と便宜とを直哉に与えた。ゾルゲ事件に連座した尾崎秀実が、獄中で直哉の短篇集「早春」(昭和十七年刊)を読み、「志賀さんの小説は和菓子の味がする」と言ったそうだが、日本敗戦後、直哉晩年の「和菓子」風味の代表を挙げるとすれば、「山鳩」と「朝顔」であろう。文芸評論家の中には、直哉がフィクショナルなものを書かなくなったのを以て、作家的才能の枯渇と見、戦後の文筆活動など一切認めようとしない人があるが、河盛好蔵はそれを短見としてしりぞけ、「山鳩」や「朝顔」のような作品は、ゲーテ晩年の短章と同じく、長く人々に親しまれるものになるだろうと言っている。作者自身の書いたものでは、随筆の一節に次の数行がある。

「私が一生懸命に団子を作っている所へ来て、

『シチューを呉れ、シチューを』

 他人はこんな事をいう。

『お生憎様』」



 直哉は青年時代、七年間内村鑑三のもとへ通って聖書とキリストの教とに接した。しかし、そのもとを去って以後、生涯特定の宗教を持たなかった。「正しきものを憧れ、不正虚偽を憎む気持を先生によってひき出された事は実にありがたい事に感じている」と、鑑三の思い出を語っているけれど、それ以上の、キリスト教の影響らしきものは、生活の上にも作品の上にも残らなかった。ただ、柳宗悦が晩年、「白樺の仲間で最も宗教的なのは誰か」と人に聞かれて、即座に「それは志賀だ」と答えている。柳は直哉の中に、既成宗教の教義と別の、ある敬虔なものが生きていると見たのであろう。直哉本人も、「簡単なことで言えば小さな虫なんか殺すのが大変いやになって来たのだが、そういう一種宗教的と言ってもいいような気分は、年と共に段々強くなる」と、これをほぼ認めていた。それでいて、無神論者であった。昭和四十六年の十月、八十八歳で亡くなった時、葬儀は直哉の遺志により無宗教で行われた。ついでながら、「作家は作品がすべて」という直哉平素の考え方にしたがって、「志賀直哉を偲ぶ会」とか「直哉忌」とか、そのようなものは孫子の代まで一切行わない申し合せになっている。文学碑も、生前建てられてしまった分は止むを得ないが、新たに作りたいとの申し出があっても、遺族の方でお断りすることに決めてある。

 志賀直哉夫人康子は、勘解由小路資承という公家の娘で、武者小路実篤の従妹にあたる。癇癪持ちの夫によく仕え、よく尽し、のべつがみがみ言われながら陰鬱なところは少しも無く、明るく気品があって、六人の子供(ほかに二人夭折)をのびやかに育て、直哉の家庭を知る文学者たちの間で、「無形文化財」とか「日本三名夫人の一人」とか言われていた。夫人の面影を伝える作品は、結婚の事情のうかがえるものとして「くもり日」、新婚後間もなくの山での生活を描いた「焚火」、ユーモラスなもので「転生」、その他「山科の記憶」「痴情」「朝昼晩」「予定日」「夫婦」等々数が多い。

 直哉に九年おくれて昭和五十五年一月、満九十歳で亡くなった。夫婦の墓は、東京青山の志賀家累代の墓所の中にある。

 直哉は文芸評論の類にあまり興味が無かった。大正の末、作家としての力倆の最も充実していた頃、

「批評家からは讃められるにしろ、けなされるにしろ時々実に思いがけない事を云われる。自分は今居る批評家が批評家というものなら、どうも要らざるものがあるような気がして仕方がない」

 と書き残しているし、此の見方考え方は終生変らなかった。その意味で、世に汗牛充棟ただならぬ志賀直哉論の類は、読んでも、それで以て直哉が分ったことにはならないかも知れない。此の作家の生活と芸術と人間像とをもっと深く知りたいと思う読者があるなら、やはり、岩波書店刊行の、断簡零墨まで集めた全十五巻別巻(志賀直哉宛書簡)一巻の全集に、直接あたってみることをおすすめしたい。

(平成元年七月、作家)



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