李煜とその時代
李煜(りいく;li3Yu4)(937年~978年)は、南唐最後の国主である。故に南唐後主と呼ばれる。李璟の第六子として南唐建国の年に生まれる。初めの名は従嘉で、961年に位を嗣ぎ、煜と改める。字は重光で鐘隠と号する。
南唐は、唐朝滅亡後、宋朝が統一するまでの間、揚子江(長江の一部の名称)下流、呉の地に、江を跨いで建国された国家で、高い文化を誇った。世に云う五代十国のうちの一国・南唐である。
南唐は、李煜の父の李璟の代に北の後周に攻められ、長江以北を失い、皇帝の位を降り、国主となることを余儀なくさせられ、国は衰退し始めた。
李煜の代になり、後周の後を継いだ宋によって都の金陵を占領され、李煜自身も宋の都京に連れて行かれ、南唐は滅んだ。やがて、彼も次の頁に掲げる詞・虞美人のために牽機薬で毒殺されたという。(王「默記」)
五代の詞は、唐代のそれよりも、より繊細な感情を歌い込んだ、作品が多い。「花間集」とともに「南唐二主詞」は、五代を代表し、特徴づけるものである。
李煜の作風
作風は大きく二分される。前半の南唐時代と後半の北宋時代である。
前半生の彼の詞は、南唐国主として生まれ、父・李璟の影響もあって、華麗な宮廷生活の中の心の動きを詠っている。
しかしながら、北宋に敗れ、亡国の君主となった後は、詞風に計り知れないほどの深い憂愁を漂わせ、極端な変化を見せている。これは、彼の詞の際だった特徴である。勿論、詞としておもしろいのは、後期のものである。深い哀愁と憂悶の詞は千古の絶唱である。
校勘について
李煜の作品は当時のものは残っていない。一番古いものでは宋の「南唐二主詞」で、父・李璟とともに載せられているが、この宋本は現存しない。ただし、この刊本としては、下って明代に「唐宋名賢百家詞」の抄本と同萬暦庚申年(1620年)の呂遠の「南唐二主詞」である。李煜の生きた時代と六百余年の開きがある。このため、彼の詞は、口から口へと、歌われていった可能性が高く、異伝が極めて多い。
本ページでは、「全唐五代詞」の正文を基本とした。この本は註釈はないが、校勘は精緻で、「全宋詞」以前のものを全て採録、網羅している善本である。ここの詞句を基として、他の詞句も参考にした。
作品の配列は主として後期から始めて、前記へと移っています。
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自是人生長恨 水長東。
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