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川端康成 人と作品

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发表于 2004-3-17 23:00:00 | 显示全部楼层 |阅读模式
川端康成 人と作品

 



竹西寛子 



 川端康成の生前に発表された最後の創作は『隅田川』であった。敗戦の後に断続的に発表された『反橋』『しぐれ』『住吉』の連作と思われるもので、いずれも「あなたはどこにおいでなのでしょうか」という共通の書き出しをもっている。題名の拠りどころとなっている謡曲『隅田川』は、知られるように、攫われたわが子を尋ねて狂い、はからずも人の口にその死を知る母をうたう曲である。「あなた」は、不在によっていかようにも彩られる母なる人か。『梁塵秘抄』の讃える仏か。それとも永遠なるものの同義語であるか。そのいずれでもなく、そのすべてでもあり得るような作品を遺して凡そ半年の後に、作者は自ら帰らぬ人となっている。



 病床にある盲目の祖父との生活を断片的に記録したかたちの『十六歳の日記』は、その瑞々しさにおいて『伊豆の踊子』と並ぶ作品といえよう。門を閉した家で、死期の迫っているただ一人の肉親を看ては中学に通う少年の目には、涙も怒りも眠りもあるのに妥協はなく、当事者でありながら同時に傍観者でありつづけるという目と物との関係は、この日記においてすでに定まっている。

 東大在学中の『新思潮』創刊、『文芸春秋』同人への参加、プロレタリア文学雑誌『文芸戦線』に拮抗するように、第一次大戦後のヨーロッパ前衛文学の影響を積極的に受けながら新しい感覚の文学を志した『文芸時代』の創刊、芥川賞詮衡委員、海軍報道班員、日本ペンクラブ会長、ノーベル文学賞受賞と辿ってくると、まぎれもなく時の世の人として生きた川端康成の軌跡は明らかである。

 しかし、その軌跡に、さきの日記をはじめとして、『伊豆の踊子』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『名人』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『片腕』などの作品を改めて辿る時、いかなる時の世にも義理立ても心中もしなかった作家川端康成の軌跡もまた明らかとなる。『十六歳の日記』へのなつかしさが、単なるなつかしさを超えるのはそういう時である。ここには、およそ無駄と名づけられるものの見出しようがなく、勁くて撓やかな言葉は、湧き水のような行間の発言と相携え、澄んだ詩となってこの作品を陰惨から救っている。



 二、三歳で父と母を、七歳で祖母を、そして十五歳までに、たった一人の姉と、祖父とをことごとく死界に送った人の哀しみは、遺された作品に探るほかはない。「孤児意識の憂鬱」から脱出する試みを、行きずりの旅芸人への親和のうちに果している『伊豆の踊子』は、川端康成には珍しく涙の爽やかな作品で、ここでは、自力を超えるものとの格闘に真摯な若者だけが経験する人生初期のこの世との和解が、一編のかなめとなっている。二十歳の「私」の高等学校の制帽も、紺飛白の着物や袴、朴歯の高下駄も、すべて青春の意匠にはちがいないが、『伊豆の踊子』の「青春の文学」たる所以は、ほかならぬこの和解の切実さにある。

 旅芸人の一行と別れて後の「私」の涙を、感傷と呼ぶのは恐らく当っていない。それは偶然の恩寵によって、過剰な自意識という高慢の霧の吹き払われたしるしなのであり、そうであればこそ、「どんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような」、そして、自分をとりまく「何もかもが一つに融け合って感じられ」るような「私」の経験を、読者もまた自分のものとなし得るのである。

 与し難いこの世との最初の和解の契機は、それこそ人さまざまであろう。十四歳の可憐な踊り子との束の間の縁を、そのような契機となし得るか否かも心々である。そしてこの和解が、文字通り不可解なこの世との最初の和解でしかなかったにしても、青年と少女とのこうした出会いと別れに、『禽獣』や『山の音』、『眠れる美女』にいたってそれぞれ別様に充実する、憧憬や思慕はあるのに陶酔を許さないという川端文字の特色をいち早く嗅ぎつけることもできるだろう。あの、「どんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような」気分が、一方で、「美しい空虚な気持」として「私」に実感されているのを見落してはならない。

 戦前の作を代表する『雪国』に、故意か偶然か、同類の言葉が繰り返されているのは興味深いことである。「駒子の愛情は彼に向けられたものであるにもかかわらず、それを美しい徒労であるかのように思う彼自身の虚しさがあって、けれども反ってそれにつれて、駒子の生きようとしている命が裸の肌のように触れて来もするのだった。彼は駒子を哀れみながら、自らを哀れんだ。そのようなありさまを無心に刺し透す光に似た目が、葉子にありそうな気がして、島村はこの女にも惹かれるのだった。」

 生存の悲しみを「夢のからくり」とながめる男に配された女の「徒労」は、この作者の、意志とよぶにはあまりに野放図な、そしてまた、忍耐というにはあまりにも楽天的な相貌の陶酔の拒否、あるいは虚しい共存容認に根を下ろしている。俗悪なものにも、高貴なものにも、透明な目で無差別の熱烈な交わりをつづけながら、あらゆる物から離れて立ち、しかもあらゆる物を精力的に容認するというこの世の愛し方は、川端康成をたとえば横光利一のように、「西方と戦った新しい東方の受難者」にも、また、「東方の伝統の新しい悲劇の先駆者」にもしなかった所以のものであるが、『雪国』と『伊豆の踊子』を分つ一点を、「美しい空虚な気持」に加えられた「美しい徒労」の自覚の介入に絞る時、汽車の窓硝子に映る娘の顔に北国の野山のともし火をともした、あの言挙げされることの多い描写もさることながら、一見何の変哲もないような以下の部分に、かえって鮮烈な作者を見ることも少なくない。

「秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も日毎にあったのだ。翼の堅い虫はひっくりかえると、もう起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡びてゆく、静かな死であったけれども、近づいて見ると脚や触角を顫わせて悶えているのだった。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののように眺められた。

 島村は死骸を捨てようとして指で拾いながら、家に残して来た子供達をふと思い出すこともあった。」

 この一匹の瀕死の蜂は、事、蜂に関する私のあらゆる記憶を妨げはしないのに、読み返す度の私は、蜂というものをはじめて見たようなときめきを記憶に加えるのがつねであった。

『雪国』の分析から、東西のさまざまの観念の抽出を試みるのは読者の自由である。しかし、『雪国』の作者は、直観の自在に遊ぶ人ではあっても、ゆめ論考思索にこもる人ではない。決して満たされない、というよりも満たされてはならない存在への恋を、即物的にも、抽象的にも、また夢幻的にも表現し得る感覚の力は、この『雪国』において、多様性をもってまず確立されたといい得よう。

 時に野蛮な頽廃に惹かれ(禽獣)、恋人ともども紅梅か夾竹桃の花となって、花粉をはこぶ胡蝶に結婚させてもらいたいと願い(抒情歌)、時にまた「あなた」への呼びかけとなり(反橋連作)、谷の奥に山の音を聞いて恐怖におそわれる(山の音)この作家特有の存在への恋が、長い間孤立意識に悩まされた生い立ちによるものとは到底いいきれないにしても、陶酔の拒否によっていっそう強まる渇望のなまなましさから、作家にとって血とは何かの思いにしばしば泥んでしまうのも否定できない事実である。

 互いの分身に気づかず生きてきた一卵性双生児の姉妹が、分身を探り当てた後も離れて生かされる『古都』には、こうした血にまつわる渇望の、ひとつの非情な処置を見るのであるが、この処置が、虚しい共存の容認に収斂されてゆくところに、京の四季もこまやかな「古都」と、いわゆる観光小説との明らかな違いもある。



 川端康成の文学における日本をいうことは、よくいわれている割には易しくない。古都や鎌倉が作品の舞台になるからといって、祭や茶の湯、邦楽、日本画についてよく書かれるからといって、それらの作品を観光小説風に扱う冒涜はまことに耐え難い。

「敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰ってゆくばかりである。」という一節の有名な「哀愁」は、敗戦を経験した文学者としての、寂しく勁い決意の文章ではあったろう。少なくともそこにあるのは、作者に意識された日本であり、日本人のはずであった。こういう作者の直截の声を求める者には、君と死に別れてのちは、日本の山河を魂として生きてゆこうという「横光利一弔辞」や、ノーベル賞受賞後、スウェーデン・アカデミーで行われた記念講演「美しい日本の私――その序説」、さらに又ハワイ大学での、招聘された客員教授としての講演「美の存在と発見」が、当然味読の対象となろう。

 しかし、エッセイほど直截ではないがエッセイに劣らず、あるいはそれ以上に雄弁で多面的なのが同じ作者の小説と読む者には、さらに又、川端康成の日本及び日本人に対する意識が、敗戦などで変るはずもないと思う者には、直截な言葉だけをあげて、川端文学における日本がそこに抽出され要約されていると見做すこともまた躊躇われるであろう。

 私見によれば、川端康成の文学における日本については、本来モノローグによる自己充足や解放を好まず、ダイアローグによってドラマを進展させたり飛躍させたりする谷崎潤一郎の文学と較べてみると、少なくとも一つのことははっきりするように思う。それは、谷崎文学が、日本の物語の直系であるようには、川端文学はドラマの欠如あるいは不必要によって直系とはいい難く、本質的にはモノローグに拠るものという点で、和歌により強く繋っているということである。しばしば小説の約束事は無視されて一見随筆風でもあるのに、あえて日記随筆の系譜に与させないのはほかでもない。さきにもふれたように、この文学は、ゆめ論述述志の文学ではなく、感覚と直観によってこの世との関係を宙に示しているからである。

 いうまでもなく、二十世紀の人である川端康成は、すでに在る自国の文学のほか、異国の文学といえば漢文学しか享受できなかった古代の歌詠みや日記物語の作者とちがって、古今東西の文学の広い享受者でもある。『骨拾い』『雨傘』などをふくむ「掌の小説」の闊達な多様性が、もっとも率直かつ雄弁に語っているのもこのことである。谷崎潤一郎の、自国の文学享受が、王朝と江戸と西欧との混淆というかたちで生かされているのに対し、この作家の場合は、王朝と中世と西欧とが重なっていてこれ又独自であり、その中世では、軍記物語のたぐいよりも歌と歌論、つまり詩と詩論のたぐいに、より積極的な関心の厚さが見えるのも注目されてよいことと思われる。

 際限のない、渇望としてのみありつづける存在への恋が、物や事の、虚しい共存容認という歯止めをもつ時、ダイアローグを不可欠とするドラマよりもモノローグと結ぶのはむしろ自然かとも思われるのであるが、ダイアローグを排除するところでしか成立しない「眠りの美女」の詩または音楽、一見きわめて西欧的なこの密室の性愛さえ、じつはこの作家における和歌的なるものの一つの極北を示しているとみられることにも、川端康成における日本の複雑さを思わずにはいられないのである。

(昭和四十八年六月、作家)  

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