本栏在去年九月份曾写到,中曾根前首相曾对时任新党先驱的代表干事鸠山首相提出过尖刻的要求。“政治并不是靠‘美丽’、‘光彩夺目’等形容词而是靠动词来实施的。”
对此,鸠山先生曾反驳道:“在实施之前,难道不该重现具有哲学意味的形容词吗?”。确实,缺乏形容词的政治会显得较为寒酸,而没有了动词的政治就等于是难以充饥的画饼了。如今看来,中曾根先生的批评似乎是预计到这一天的到来的。
人们将创作多愁善感类诗歌的诗人们称为“星堇派”诗人。鸠山先生在民主党的两院议员大会上的辞职演说中,也发挥了他一贯的风格。“鹎鸟前来召唤我:该回家了……。”以这样的言辞辞去总理大臣的人还真是绝无仅有。
他也重复了自己对普天间的诚挚“心愿”,并为广大国民的不理解而深感叹息。其实很多人对此倒是十分理解的,只是对他没与美方认真交涉而深感失望而已。因为没想到他会这样唯唯诺诺、毫无志气地背叛了冲绳人民。
吉田茂前首相有这么一则逸闻:有一次,他将一杯水泼到了记者的身上。之后,一位有身份的人告诫他:“你当时的心情是可以理解的,……”。吉田回答道:“如果只是想泼水,谁都会想到的。重要的是泼了没有。”
小泽干事长也辞职了。希望“小鸠”(译注:“小鸠”是指小泽和鸠山,而“鸠”字在日文中是鸽子的意思,所以,“小鸠”也双关“小鸽子”的含义。)之后崭新的阵营能采用简洁、坚定的动词而不是华而不实的形容词。他们两人的双簧既然已演完了,那么,主语也应该合二为一了吧。
鹎鸟
原文:
去年9月の小欄で、中曽根元首相がかつて、新党さきがけの代表幹事だったころの鳩山首相に辛口の注文をつけた話を書いた。「政治は、美しいとか、キラリと光るとか、形容詞でやるのでなく、動詞でやるものだ」と
鳩山さんは、「行動の前に哲学的な形容詞を大事にするべきではないか」と反論していた。たしかに、形容詞を欠く政治はやせ細った代物だろう。とはいえ動詞なき政治は絵に描いた餅にすぎない。中曽根さんの指摘は、この日を見通していたようでもある
甘い感傷を詩歌にうたう人を「星菫(せいきん)派」などと呼ぶ。辞意を表明した民主党の両院議員総会での演説も、鳩山さんは持ち味を発揮していた。「ヒヨドリがそろそろ自宅に戻って来いよと……」などと言って総理大臣を辞める人も珍しい。
普天間への真摯(しんし)な「思い」も繰り返した。それが国民に分かってもらえなかったと嘆くが、多くの人は分かっている。「思い」を果たすために、米国とまともに交渉した痕跡さえないことに失望しているのだ。へなへなと萎(しお)れて沖縄を裏切った
元首相の吉田茂に逸話がある。新聞記者にコップの水をかけた吉田が、さる貴い人から「気持ちはわかります」と言われたそうだ。「水をかけたいと思うだけなら、誰でも思います」と吉田は答えたという。「大事なのは、水をかけることでございます」
小沢幹事長もポストを去る。「小鳩」に代わる新体制には、甘い言葉よりも簡潔でゆるぎない「動詞」がほしい。二人羽織を終演させれば、主語も一つになるはずである。 |