咖啡日语论坛

 找回密码
 注~册
搜索
查看: 2892|回复: 4

FW:国境以南太阳以西的世界

[复制链接]
发表于 2010-6-15 12:53:06 | 显示全部楼层 |阅读模式
仿佛冥冥之中自有安排一般,当我第一眼看到《国境以南,太阳以西》这本书时,我就已经决定买下它,而且是非它不可。
  
   读完后——不,准确地说是从头至尾——我感慨颇多。这种感慨不同于读《舞!舞!舞!》时的那种读完后有某种收获的感慨,而是自始至终这本书点点滴滴透出我影子的震撼与进而产生的共鸣。我为什么喜欢村上春树的作品?只是因为我能从他的很多作品中找到相似的自己,毋庸置疑,《国境以南,太阳以西》是我至今为止读到的与我相似处最多的小说。
  
   将故事串一遍,可以得到这样的一个梗概。名为初君的“我”静静的诉说自己成长经历:从羞涩少年,到鲁莽青年,再到知命中年。他说着他的一段段感情经历,说着他生命中的一个个女子。
  
   12岁的懵懂年龄,第一个女子进入了“我”的生活,那个姓岛本的同龄女孩,那个左腿有一点点跛的女孩,那个与“我”同是独生子女的女孩,那个脸上总是挂着微笑的坚强女孩,那个和“我”一起听纳特·“金”·科尔的《国境以南》的女孩,那个和“我”牵手十秒种的女孩,那个由于种种原因而同“我”分开的女孩,那个,让“我”牵挂一生的女孩。
  
   16岁的青春岁月,“我”的生命中出现了第二个女子,那个叫泉的“有一种自然打动人心的毫不矫情的温情”的女孩。“我”与泉两情相悦,一切都很幸福快乐,但是“我”始终未能从泉的身上发现为我而存在的东西。结果这种身体中似乎被掏去一块什么的感觉致使我和泉的表姐犯下了让“我”悔恨一生的错误。
  
   经历了工作的不顺心和精神的空虚,30岁时“我”找到了似乎能填补“我”这个空洞的女人,有纪子。结婚后随着事态的发展,“我”的生活步入了中产阶级,而 “我”也一度认为自己确实真正快乐了。但是时间的流逝将更沉重的迷茫压在“我”的身上,使我喘不过气。
  
  
  
   毕竟我们是经历过六十年代后半期至七十年代前半期风起云涌的校园斗争的一代,情愿也罢不情愿也罢,我们都是从那一时代活过来的。极为笼统地说来,我们是生吞活剥了战后一度风行的理想主义而对更为发达、更为复杂、更为练达的资本主义逻辑唱反调的一代人。然而我现在置身的世界已经成了由更为发达的资本主义逻辑所统领的世界。说一千道一万,其实我已经在不知不觉之中被这一世界连头带尾吞了进去。在手握宝马方向盘、耳听舒伯特《冬日之旅》、停在青山大街等信号灯的时间里,我蓦然浮起疑念:这不大像是我的人生,我好像是在某人准备好的场所按某人设计好的模式生活。我这个人究竟到何处为止是真正的自己,从哪里算起不是自己呢?握方向盘的我的手究竟多大程度上是真正的我的手呢?四周景物究竟多大程度上是真实的景物呢?越是如此想,我越是丈二和尚摸不着头脑。
  
  
  
   就在这时,岛本出现了。从此他生活不在平静。再次见面,过去二十五年的时间都是那么的短暂,一切仿佛又回到了从前,他还是当年那个被她碰一下手都会紧张好几天的少年初君。面对岛本,只需要她一句话,他可以抛弃现在所有一切的幸福,只为回到她的身边。但是当他作出决定等待美好的明天的到来的时候,岛本却不告而别了……
  
  
  
   每个人都有过去,所以每个人都有回忆。
  
   回忆以前和自己一起回家,一起打球,一起讨论,却因一些问题分开的女孩。她对于自己是那么的重要。在充满困惑的痛苦过程中,那温馨的记忆不知给了我多少次鼓励和慰藉。很长时间里,我在自己心中为她保存了一块特殊园地。就像在餐馆最里边一张安静的桌面上悄然竖起“预定席”标牌一样,我将那块园地只留给了她一个人。
  
   正因为在过去留下了美好的回忆,而在成长的过程中逐渐丢失了它,所以人会在一定程度上产生缺少感。如小说中所说,“在别人看来,这或许是十全十美的人生,甚至在我自己眼里有时都显得十全十美。我满腔热情地致力于工作,获取了相当多的收入。在青山拥有三室一厅住房,在箱根山中拥有不大的别墅,拥有宝马和切诺基吉普,而且拥有堪称完美的幸福的家庭,我爱妻子和两个女儿。我还要向人生寻求什么呢?纵使妻子和女儿来我面前低头表示她们想成为更好的妻子和女儿、想更被我疼爱,希望我为此不客气地指出下一步她们该怎么做,恐怕我也没什么可说的。我对她们确实没有一点不满,对家庭也没有任何不满,想不出比这更为舒适的生活。然而在岛本不再露面之后,我时不时觉得这里活活成了没有空气的月球表面。”岛本代表了美好的回忆,那些曾经使自己感到快乐和幸福的往事已经被流逝的时间和现实碾成了粉末,即使用再多的金钱和成功来填补,又怎么能掩饰自己内心的孤独与空虚呢?我需要的不是其他人眼中浮华的快乐,而是要重拾自己鲁莽丢下的真心。
  
   最后,再稍微谈一下我对“国境以南,太阳以西”的理解。“国境以南,太阳以西”固然代表了一个幻境,一个充满了个人愿望的世界。人在失去某些重要东西后仅会单纯后悔短短一两分钟,接下来所谓的后悔也就只是希望回到当初去避免重蹈覆辙。正如文中所说:
  
   你是农夫,一个人住在西伯利亚荒原,每天每天都在地里耕作,举目四望一无所见。北边是北边的地平线,东边是东边的地平线,南边是南边的地平线,西边是西边的地平线,别无他物。每天早上太阳从东边的地平线升起,你就到田里干活;太阳正对头顶时,你收工吃午饭;太阳落入西边的地平线时,你回家睡觉。年复一年日复一日。有一天,你身上有什么死了。太阳从东边的地平线升起,划过高空落往西边的地平线——每天周而复始目睹如此光景的时间里,你身上有什么突然咯嘣一声死了。于是你扔下锄头,什么也不想地一直往西走去,往太阳以西。走火入魔似的好几天好几天不吃不喝走个不停,直到倒地死去。
  
   为了一个失去的东西而在后悔与幻想织成的蛛网中越缠越紧不得脱身,又有何必要呢?仅仅纠缠于过去,希望人生可以重来是没有意义的。
  
  
  
   ……一定时间过去后,好多好多事情都硬邦邦凝固了,就像水泥在铁桶里变硬。这么一来,我们就再也不能回到老地方了……你这堆水泥已经完全变硬了,除了现在的你再没有别的你了……
  
  
  
   正是如此。
回复

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2010-6-20 12:11:54 | 显示全部楼层
『国境の南、太陽の西』(こっきょうのみなみ、たいようのにし)は村上春樹の長編小説。

概要
1992 年10月、書き下ろし長編小説として講談社より発行。1995年10月講談社文庫刊。アメリカのプリンストンで書かれた。

『ねじまき鳥クロニクル』を執筆し、第1稿を推敲する際に削った部分が元になり、そこに更に加筆する形で書かれている。

あらすじ

本作は幼年時代から中年時代まで、一人の主人公の人生を丁寧に追っており、バブル絶頂期(1988年 - 1989年頃)の東京が主な舞台となっている。

僕(ハジメ)は一人っ子という育ちに不完全な人間という自覚を持ちながら育つが、成長と共にそれを克服しようとする。結婚、「ジャズを流す上品なバー」経営の成功などで裕福で安定した生活を手にするが、「僕」の存在の意味を改めて考える。そんな時にかつて好きだった女性が現われて―。

登場人物

始(ハジメ)=僕
    この物語の主人公。バーを2軒経営。一人っ子。1951年1月4日生まれ。大都市郊外(近畿地方と思われる)の中産階級の住宅地から大学入学を期に東京に移る。大学卒業後、教科書出版社勤務ののち港区青山にジャズバーを開業。音楽を聞くことや読書が好き。プールによく行く。一人っ子ということで何かが欠けていると思っている。
島本さん
    「僕」の小学校5年生の時に転校してきた同級生。一人っ子。「僕」の家の近所に住んでいたために「僕」がケアをした為に仲良くなる。大柄で目鼻だちがしっかりしている。生まれてすぐに患った小児麻痺の為に左脚を軽く引きずっている。成績優秀、努力家。音楽を聞くことや読書が好き。親の仕事が移動が多く、彼女の転校も多く孤独を感じて育つ。青い服が好きで着るととてもよく似合う。
有紀子
    「僕」の妻。5歳年下。教科書出版社勤務時代の夏休みの旅行の時に出会う。「僕」との間に二人の娘をもうける。穏やかで思慮深い女性。
有紀子の父
    中堅建設会社社長。3人子供がいる(兄、有紀子、妹)。叩き上げでやり手である。良くも悪くも現実的である。
大原イズミ
    「僕」の高校生時代の恋人。3人兄弟の長女、妹、弟がいる。自然に人の心を引きうけるような素直な暖かさが有るが、平凡で考え方に深みを欠く。「僕」が従姉と関係をもったため深く傷つき、「僕」と別れる。
大原イズミの従姉
    京都在住。「僕」の2歳年上。「僕」が高校3年の時に出会い、関係をもつ(恋愛感情はない)。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2010-6-20 12:12:18 | 显示全部楼层
僕は学生の頃から村上春樹のファンであり続けています。大学生の時、友人の下宿の本棚にあった「1973年のピンボール」を何気なく手にとってからなんですが、村上さんの小説に対する温度差ってのは確かにあって、ありたいていに言うと、鼠3部作+「世界の終り…」までは間違いなく好き、「ノルウェイの森」は自分自身が小説の世界にあまりに深く入りこみ過ぎているのと、本が超ベストセラーであることの居心地の悪さが同居して複雑な思い、「ダンス…」は文句なしに面白いんだけれど、ここらへんであれっ?って感じが入ってきて、「国境の南、太陽の西」はその体感温度をがくって落としてしまったという、村上作品との付き合いの中では僕自身の勝手なターニングポイントっぽい作品です。

 正直、この作品を読んだ当時はかなりがっかりしたし、今でもこの作品はあまり評価していない。それが今回この本を読み返そうと思ったきっかけは、図書館で村上春樹全集についていた村上さん自身の解題を読んだからなんです。今まで僕はこの作品を村上さんのキャリアの中での過渡期に書かれた小説と位置付けてきた。鼠3部作の底流に流れていた個人的なストーリーを「ノルウェイの森」で全開させてしまった村上さんが、「ノルウェイ…」の反動として、それでも鼠三部作の残り物と文章の上手さで乗り切った「ダンス…」そして「国境の南…」。そこで選んだテーマは前作から続いての高度経済資本主義で、でも結局それは自らがベストセラー作家となって、おかねをたんまりもうけてしまった、金持ちの自己弁護にしか聞こえなくなってしまって。こりゃいかんなと村上さん自身が思っていたところに、都合よくって言い方が適切じゃないのはわかるけど、阪神大震災とオウムの事件が起こって、そこから得たリアリズムによって起死回生的に出してきたのが「ねじまき鳥…」かなって思ってたんです。「ねじまき鳥…」は完璧と思えた「世界の終り…」と比べると所々に筋の破綻や、テーマの不明確さがあって、欠点を上げれば切りがないような小説なんだけど、それでもその反論全てをねじ伏せるような迫力があるし、ともかく量的には申し分ないわけで、うん、だから「国境の南…」で息詰まった村上さんがオウムを利用して逆転満塁ホームランを放ったのが「ねじまき鳥…」って捉え方をしてたんですよ。今までは。

 でも村上春樹全集についた村上さん自身の解題によれば、「国境の南…」はもともとは「ねじまき鳥…」の一部だったと言う。「蛍」が「ノルウェイの森」の一部であったように。ここで今までの僕の時間軸的な捉え方が一気に崩れてしまったわけです。しかもさらに注意してみると、オウムの地下鉄サリン事件が起こったのが95年。「ねじまき鳥…」はその前年の94年に発表されていたんですね。だから「ねじまき鳥…」はオウムを受けて書かれた作品ではなく、オウムを予見したかのような作品だったということになる。村上さんがアメリカに渡ったのは、1991年2月。それから1995年8月に至るまでの四年半、プリンストン大学の客員教授などもしながら「国境の南…」「ねじまき鳥…」を書き上げることになるわけだけれど、僕がこの時間に対する大きな勘違いをしてしまっていたのも、やはり「国境の南…」を読んだ時の失望が大きくて、そこから僕の中での“僕自身にとっての村上春樹像”に、都合のいいような修正が無意識に働いてしまったのかななんて思っています。
 
 今回、「国境の南…」を再読して正直な感想は「そんなにひどくないじゃん」でした(笑)。小説の主人公であるハジメが、下世話な言い方をすれば逆玉の輿でそんなにうまくいくはずないだろという成功を手に入れ、株でもうけることに対して有紀子にやりきれない思いを言う場面や、BMWのハンドルを握りながら「まるで僕の人生じゃないみたいだ」と独白するところなど、いい気なものだ思って反発を感じてしまった、小説のあちこちに顔を出す鼻持ちならない部分はあくまでも小説の末節の部分でしかなく、小説の主軸はあくまでも主人公のハジメと島本さんと有紀子、そしてイズミとのパーソナルな関係をえがくところにあったのだなあと。そしてその視点から改めて小説を眺めてみれば、非常によく出来た小説であると思ったわけです。特に島本さんとの関係は「初恋の女性」に対する、男なら誰でも思い描くであろう夢―実は私もあなたのことが好きだったのよ。を具象化していて、素敵だった。それにイズミとの関係も小説ではかなりの誇張は入っていたけれど、やはり男ならありがちな経験だし、有紀子との関係も。そういうパーソナルな感情を意識的に狙って取り上げたのだとしたら、これは文句なしに上手いなと。この小説を村上作品の中で一番好きだという人も(なぜか決まって女性だけれど)、ネットの中で散見するのだけれど、確かにその気持ちはわかるなと今回初めて思いました。

 思うに、この小説から村上春樹は本当に職業的なプロの小説家として、ステージを一つ上げたのだなと、今では思います。一読者でしかない僕の好みなど、この際は関係ないのだと、ちょっと寂しくなる結論?ではありますが。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2010-6-20 12:13:07 | 显示全部楼层
<紹介>



 「ねじまき鳥クロニクル」から派生した話。それに含まれてもよかった、といわれる話。

そして、これを読めば「ねじまき鳥・・・」の電話の謎の女の正体がわかる、とどこかで目にした気がした。

で、そんな先入観からこれは読んでおかねば、と期待して読みはじめた。



 そしたら、「ねじまき鳥・・・」とは全然違うおはなしでした。



主人公は、めずらしく子供がいる。これは、本当に珍しい。

それにより、恋愛が中心のテーマなんだけれど、世間一般的には不倫になりますわな。

 運命の女性と再会しても、妻も子供も仕事もあってそう簡単に、愛する女性に走れない中年男性の葛藤。

そんなものが、描かれています。



 というか、37歳という、村上氏の主人公にしては高齢な男性の自伝的な要素が強い。

これは、家庭を持ったお父さんが1番よくわかる話ではないかな。

 今回、私は、まったく感情移入できなかった。



 しかし、なぜか印象に残る話。

おそらく、最後のどんでん返しが心に残ったからだろう。



 構成的には非常によくまとまっている。

誰しもが経験した、あるいは経験するであろう人生の段階が示されている。

きわめて現実的に。













 以下、ネタばれ含みます。未読の方はご注意を。





























<率直な感想>



 読み終わってからのまずの感想。



わたし、女でよかった・・・・・・。

恋愛する相手が男でよかったよ。

決して、女とは恋愛したくない。



 怖すぎます。イズミ。



 イズミのあの部分だけでも十分ホラーとしてジャンルを分類できそう。









 島本さんは、ヒロインらしく、とても魅力的だった。

村上氏の好みのタイプってのはなんとなく想像できます。

地味だけれど芯が強い。(島本さんの場合とても綺麗だそうですが)

そして薄幸。





 小学生で、運命の女性と出会って恋に落ちた、だなんてまずない話に思えるけれど、

その女性となかなかめぐり合えず、やっと再会できたと思ったら、

自分には、守るべきものがありすぎる、という非常に現実的な立場に立たされている今回の主人公ハジメくん。



 そのせいで、とても優柔不断な性格になっている。



 妻に妙に優しくしたり、典型的な浮気男の行動を実践しています。





 この作品をみると、運命の相手とあまり早く出会いすぎるのもあれなのかな、と思ってしまう。

しかし、遅すぎても・・・・・。



 まさに、スタークロスト・ラヴァースですな。

なかなかめぐり合えない。

 お互いに求めているのに。



 最後までミステリアスな島本さんだったけれど、僕が彼女を選ぶ、と決心し、

そして、2人がついに結ばれた後に完全に、姿を消してしまう。

「明日すべてを話すわ・・・・」

といっておきながら、次の朝にはいなかった。



そして、僕が出した推論としては、彼女はすでにこの世にいない。

しかも、そもそも・・・・・・。

という、彼女の存在自体を疑問視するエピソードもこめられて・・・・。



 と、くれば俄然、寓話的な要素を帯びてくる。

彼女はどこの世界から、ハジメくんに会いにきていたのだろう、とか想像は膨らみます。



 「国境の南、太陽の西」

素敵な題名だな、と思っていたら、語られる太陽の西の話も素敵だった。

ヒステリア・シベリアナ。

 太陽の西をもとめて延々と歩きつづける男。

なんて、ロマンチックなんだろう。

普通、ロマンチックというのじゃないのかな。



 しかし、「何かが切れる瞬間」というのは、どうやら誰の人生にも訪れるもののようですな。



 最後の「海に降る雨」という描写。

とてもよかった。

彼の心中がリアルに伝わってくる。

なにかが損なわれてしまったものの哀しさというべきものが。





 だらだら事もなくおわったりせず、いつもラストを楽しませてくれる作者さんです。

















<ハジメくんの人生について>



 本作品の主人公である「僕」の人生について考えてみたいと思います。

彼の生き方は正しかったのか、間違っていたのか。間違ったとしたらどこから間違えてしまったのか。



 もちろん、人生に間違いもなにもない。だけど、ハジメくんの生き方を通して、

人生について考えてみたいなって思っただけ。



 そんな気分です。





 まず、ハジメくんの初恋ともいうべき、そして運命の恋である、島本さんとの出会い。

一人っ子であり、孤独だった彼は、同じく一人っ子の島本さんと深く共鳴する。

 2人はいろいろなことを語り合い、経験する。

2人だけの時間を共有する、それだけでよかった。

まだ12歳で、恋心というものを軽く自覚できても持て余してしまうほど幼かったけれど。

とても、大切な時間だった。



 というか、こんな小学生はまずいないと思うけれど。ふたりとも冷静すぎる。

12歳からこんなに達観してしまっていては、これからの人生はさぞ退屈なものだろう。



 それはさておき、そんな2人に別れがやってくる。

卒業という、自然な別れ。

明確な関係を持っていなかった「僕」と島本さんは、気持ちと裏腹に遠ざかっていく。

普通の人は、これでほろ苦い思い出として初恋が終わる。



 しかし、この2人の場合、そうじゃなかった。



 お互い、どこかでそれぞれのことを思いつづけていたようです。

別の恋愛をしようが。



 これは、なんなんでしょう。

ハジメくんの場合、まるで、常に島本さんの影を追い求めて生きていたように思える。

イズミとつきあっていても、有紀子と結婚しても。

 理想の相手として、島本さんが永遠のマドンナとして形作られている。



 理想のタイプ、というのは誰にでもある。しかし、それは架空の存在であり、そんな人が現実にいるわけがない、とわかっている。

だが、ハジメくんの場合、実際に存在していた。

というか、あまり知らないから理想的な存在として想像だけが膨らみ、記憶だけが一人歩きしてしまった。

そして、二度とあえないと思いながらも、一度存在したのだから、どこかにいると期待してしまっている。

 だとしたら、彼女以外では、満足できないし、幸せにもなれない。



 有紀子さんとももちろん幸せな結婚生活を送っていた。

しかし、それがどこか借り物の人生のように感じていたのなら、それは実体のない想いでしかない。



 つまり、未成熟な子供のときに、形作られてしまった理想像が頂点にあり、そのあとの思考などそれを前提にしたものなのだから、

敵うわけがないのだ。

なにをしていてもどんな恋愛をしても。



 それなのに、島本さんと再会したときに、「借り物」と感じていた人生にがんじがらめに絡み取られていて、

身動きが取れなかった。

 迷う、必要もなかった。

彼女の手を取り、すべてを捨ててしまえばよかったのだ。



 しかし、それができなかった。

「現実」という37年間の人生を前に、躊躇してしまったのだ。

 思慮深くて慎重な彼の性格が、ここで裏目にでてしまった。



 悲劇としていいようがなく、そして、それゆえに、彼の葛藤は、現実味を帯びている。



 ・・・・・恋愛について考えるつもりが、島本さんだけでこんなになってしまったが、

要は、すべてタイミングというものなのかな。



 「僕」の好みは、一貫している。

イズミと有紀子が入れ替わってもなんら変わりはない。

彼女たちは、島本さんよりは下位なのだから。

 彼女たちの運命を分けたのは、ハジメくんと出会った時期、それだけ。



 そう思うと、イズミは不憫で仕方がない。

高校生なければ、浮気を許せただろうし、あんなに深く傷つくこともなかったのだ。

そのあとの人生を犠牲にしてしまうほど。





 しかし、運命の恋とはなんなんでしょう。



 そんなものは、信じてはいませんが、もしあるとすれば、

一人に一つだけしか与えられない、最高の半身、そんな相手がいるとしたら・・・・・。

うまく、めぐり合わないだけで、本人たちを不幸にするばかりか、周りの人まで迷惑こうむる。



 もっとも、これは「僕」のお話だから、イズミや有紀子は運命の相手に出会えなかったってことになる。



 そう考えると、運命の恋っていうのは、無数にある星のきわめて貴重な引き合いのようなものなのか。



 しかも、片方が破滅的であると、もう片方も破滅にむかう。

むしろ、島本さんは死者であろうが、ハジメくんを一緒に連れて行くべきだったのだ。

 ハジメくんに残された人生にどれほどの価値があるのだ。

彼はもう空白でしかなく、海に降る雨しか、考えることができないのに。



 それでも、彼は生きていくしかない。

それもまた、現実の人生というものでしょう。



 だからこそ、僕の物語はそこで終わる。

幻想もない人生になんの価値もないから。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2010-6-20 12:14:09 | 显示全部楼层
「ダンス・ダンス・ダンス」によって初期作品の系譜に一応の区切りをつけた村上春樹が新たな小説世界に踏み出した作品。「羊」から「ダンス」までの 4作がいずれも上下2巻の大作であったのに比べれば短く感じられるが、この作品も500枚を超す長編である。

「ノルウェイの森」のことを「恋愛小説」だと思った人たちにとってはこの作品は間違いなく「不倫小説」だろう。ジャズ・バーを経営する「僕」の前にかつて幼い思いを寄せた女性が現れて、という筋立てはそれ自体として読めば紛れもなく、中年の男が結婚生活と愛人との間で苦しむ道ならぬ恋の物語だからだ。だが、「森」が「恋愛小説」でなかったように、これもまた「不倫小説」ではない。あるいは「ただの不倫小説」ではないというべきか。

「僕」にとって運命的な女性である「島本さん」についての描写は物語の最初の20ページほど、「僕」が中学に入ったところで終わってしまう。この物語の最も美しく、最も生き生きとした部分はそこまでだ。全体の分量からいえば一割にも満たないエピソードで、しかし、村上は島本さんが「僕」にとってどれほど重要で切実な存在かを語りきってしまうのだ。そしてその後の物語は結局「僕」が島本さんを失った後いかに果てしない後退戦を戦ったか、いかに島本さんのいない「残りの人生」を生きねばならなかったかという一種の後日譚に過ぎないと言っていいくらいなのだ。

「そのようにして、僕の足はだんだん島本さんのところから遠のくようになり、そのうちに会いに行くことをやめてしまった。でもそれはおそらく(中略)間違ったことだった。僕はそのあともしっかりと島本さんと結びついているべきだったのだ。僕は彼女を必要としていたし、彼女だってたぶん僕を必要としていた。でも僕の自意識はあまりにも強く、あまりにも傷つくことを恐れていた」。そうして「僕」は島本さんを失い、あてどなく茫漠とした人生を灯台を失った船のように漂流することになるのだ。

その後、大人になった「僕」は島本さんと不思議な再会をする。島本さんはたくさんの謎を抱えている。村上作品の大きなモチーフである彼岸と此岸、あちら側の世界とこちら側の世界という対立がここにもあり、島本さんはまるであちら側の世界から束の間「僕」に会うためにやってきた使者のように見える。不自由だった彼女の足すら今は治っているのだ。

「『さっきも言ったように、私には中間というものが存在しないのよ。私の中には中間的なものは存在しないし、中間的なものが存在しないところには、中間もまた存在しないの。だからあなたは私を全部取るか、それとも私を取らないか、そのどちらかしかないの。それが基本的な原則なの』」と島本さんは言う。

しかし、島本さんがいったいどんな世界に属していてどんな生活をしているのか、そんなことはこの小説を読む上ではどうでもいいことだ。いや、「僕」が再会を果たした島本さんが本当に島本さんなのか、実体のある現世の存在なのか、そんなことすらどうでもいい、どちらでもいいことなのだ。重要なのは「僕」にとって島本さんとは何なのかということであり、「僕」はなぜ島本さんに運命的に引かれてしまうのかということでしかあり得ない。

「『僕は君のことを愛している。それはたしかだ。僕が君に対して抱いている感情は、他のなにものをもってしても代えられないものなんだ』と僕は言った。『それは特別なものであり、もう二度と失うわけにはいかないものなんだ。僕はこれまでに何度か君の姿を見失ってきた。でもそれはやってはいけないことだったんだ。間違ったことだった。僕は君の姿を見失うべきではなかった。この何ヵ月かのあいだに、僕にはそれがよくわかったんだ。僕は本当に君を愛しているし、君のいない生活に僕はもう耐えることができない。もうどこにも行って欲しくない』」

僕の考えを端的に言ってしまえば、島本さんは「僕」の少年期の憧憬であり悔恨なのだ。不確かで寄る辺のなかった未成熟な時期に本来生きられるべきであった美しくまぶしい生への果てしない憧憬であり、その通り生きられなかったことへの取り返しのつかない悔恨なのだ。そのようなものとして島本さんの存在を考えるとき、「僕」が社会的な成功を収めて初めて島本さんが姿を現した意味、「僕」がまだ自分のありようを見定められなかった時期にはその後ろ姿を見かけながらも結局彼女に追いつくことができなかった意味が分かるような気がする。

自分を「取る」のか「取らない」のか、「そう言ったとき、島本さんは僕の命を求めていた。僕は今、それを理解することができた。僕が最終的な結論を出していたように、彼女もやはり最終的な結論を出していたのだ。どうしてそれがわからなかったのだろう。たぶん彼女は、僕と一晩抱き合ったあと、帰りの高速道路でBMWのハンドルを切って、二人で死んでしまうつもりだったのだ」。少年期の憧憬や悔恨、生きられなかった自分のもう一つの生に回帰するということは、とりもなおさず自分の今現在の生を放棄するということに他ならない。だからこそ島本さんは僕の命そのものを求めずにはいられなかったのだ。

「僕」が島本さんを「取る」と決めていたにもかかわらず、島本さんは一人姿を消してしまった。そして「僕」はいったん死んでしまった自分を抱えながら残された抜け殻のような人生を生きるべき宿命を背負うことになる。だが、そもそもそのような憧憬と悔恨を抱えない生などどこにあるだろうか。僕たちは一瞬ごとに自分の生を選択しながら生きているのであり、それはつまり僕たちが、選ばれなかった無数の生を慈しみ、焼けつくような痛みで振り返りながらしか生きることができないということだ。島本さんを失ってからの「僕」の生が、その社会的な成功にもかかわらずある種の後退戦だとするなら、僕たちの生は最初から宿命的な後退戦でしかあり得ないということなのだ。

物語の最後、海に降る雨のことを考えながらテーブルで顔を覆う「僕」の背中にだれかがそっと手を置く。そこになにがしかの「再生への希望」のようなものを読みとることは可能だ。しかし、「『ユミヨシさん、朝だ』」と結ばれた「ダンス」から比べれば、それは余りに苦々しく、痛みに満ちたラストシーンに見える。そしてそれは僕たちの生が、そのように苦々しく、痛みに満ちたものであることの単純な写像に過ぎないのだと僕は思う。
回复 支持 反对

使用道具 举报

您需要登录后才可以回帖 登录 | 注~册

本版积分规则

小黑屋|手机版|咖啡日语

GMT+8, 2024-3-29 21:31

Powered by Discuz! X3.4

© 2001-2017 Comsenz Inc.

快速回复 返回顶部 返回列表