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徒然草译文??

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发表于 2004-12-28 09:56:29 | 显示全部楼层 |阅读模式
  急需<徒然草>的译文(序段,第52段,第92段,第152段第142段),请大家帮帮我!!!!!!!
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发表于 2004-12-28 17:49:28 | 显示全部楼层
第52段 仁和寺にある法師

仁和寺にいた法師は、年老いるまで石清水八幡宮の参拝をしなかったことが気がかりであった。そこである時ふと思い立ち、一人歩いてお参りをすることにしたという。そして石清水の麓にあった極楽寺やその隣の高良社などを拝み「これで見るものは全て見た」と思い込み、仁和寺に戻ろうとした。道すがら傍らの人に向かって「長年の願いをようやく果す事が出来ました。聞くにも勝って八幡様は尊いものでございましたな。ところで、参詣する人は皆、山へと登っていくようなのだが、あれは一体何だったのだろうか。気にはなったのだが、神へお参りする事だけが目的だったので山までは見ませんでした」と語ったという。
第92段 刹那一発

弓を習い始めたばかりの者が、ある時一対の矢を手にして的に臨んだ。それを見た師匠は「弓を始めて間もない者が、二本の矢を持ってはいけない。二本目の矢を頼みに、初めの矢をおざなりにしてしまう。矢を射るたびに、この一矢で決めると思わなくてはならない」と諭し聞かせた。ただ二本のみの矢である。師匠を前に、初めの一本を捨ての一筋にしようとする者もないだろう。しかし自ら知らずとも、師匠にはその怠りという隙が見えていた。この戒めは何事においても通じるものである。

仏道を学ぶ者は、夕には翌朝の勤めを思い、朝には夕の勤めを思う。一日という長さを軸に、その思いを積み重ね、念を込めては一心なる修行が望まれる。そうであればこそなおさら、刹那ともいえる隙を捉え、自らに宿る怠りの心を知る由もなかろう。なぜ、ただ今その瞬間を知り、機敏に動くことはこれほどまでに難しいのだろうか。
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发表于 2004-12-28 17:51:03 | 显示全部楼层
序段  




つ れづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。  

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(現代語訳)
ム ラムラと発情した気持ちを抑えられないままに硯とにらめっこしながら、心の中を通り過ぎてゆくどうしようもないことをうだうだと書き残しているうちに、なんとなく変な気持ちになってしまった。
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发表于 2004-12-28 17:51:32 | 显示全部楼层
心 なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり。ある荒夷の恐しげなるが、かたへにあひて、「御子はおはすや」と問ひしに、「一人も持ち侍らず」と答へしかば、「さては、もののあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらんと、いと恐し。子故にこそ、万のあはれは思ひ知らるれ」と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛の道ならでは、かゝる者の心に、慈悲ありなんや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ、親の志は思ひ知るなれ。

世を捨てたる人の、万にするすみなるが、なべて、ほだし多かる人の、万に諂ひ、望み深きを見て、無下に思ひくたすは、僻事なり。その人の心に成りて思へば、まことに、かなしからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。されば、盗人を縛め、僻事をのみ罪せんよりは、世の人の饑ゑず、寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人、恒の産なき時は、恒の心なし。人、窮まりて盗みす。世治らずして、凍餒の苦しみあらば、科の者絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはん事、不便のわざなり。

さて、いかゞして人を恵むべきとならば、上の奢り、費す所を止め、民を撫で、農を勧めば、下に利あらん事、疑ひあるべからず。衣食尋常なる上に僻事せん人をぞ、真の盗人とは言ふべき。  

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(現代語訳)
心 に血が通っていないように見える人でも、よい一言を言ったりするものだ。ある乱暴者で恐そうな人が仲間に向かって、「子供はいるのか?」と聞くと「一人もいない」と答えてきたので、「ならば、世の中に満ちあふれている愛のことを知らないろう。おまえを冷たい心の持ち主だと思えば、恐ろしさも感じてしまう。子供がいるからこそ、世の中の愛を感じることができるのだ」と語ったのだが、核心を突いたもっともな言葉であると思った。愛や心に引きずられる道を知っているから、このような人間の心に熱い血を走らせているのである。親孝行の心を持っていない人間でも、子供ができると親孝行の気持ちが自然と湧いてくるものなのだ。

 人生を破棄してしまって身よりのないおっさんが、いろいろと親や子供というような束縛にがんじがらめな人があれこれと米つきバッタになり欲にまみれているのを見て、思い切り馬鹿にすることは大間違いである。その人の気持ちになって考えれば、心から愛する妻や子供のために恥も捨て、泥棒にだってなりかねないかも知れない。だから、泥棒を逮捕して縛り付け悪事だけを懲らしめるよりも、世の中の人が餓死しないように、凍死をしないように、行政の構造改革をしなくてはならない。人間は最低限の収入がないと、まともなことを考えない。人間は生活が破綻すると盗みをするのだ。行政が崩壊したままで、飢え死に凍死の惨状が絶えないから前科者が増えるのである。人間を窮地に追いやって、法律を犯させて、その罪を償わせるのは可哀想なことだよ。

 さて、どうやって人々を救おうかと思えば、権力のある人が調子に仱毪韦蛑工帷⒑肋[も止め、民肖颏亭椁盲啤⑥r業を奨励すれば、下々の者に恵みが生まれることは疑う余地もない。着る物も食べる物も間に合っている分際で悪事を働くとしたら、そいつは本物の悪人だと言っても間違いない。
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发表于 2004-12-28 17:52:22 | 显示全部楼层
西 大寺静然上人、腰屈まり、眉白く、まことに徳たけたる有様にて、内裏へ参られたりけるを、西園寺内大臣殿、「あな尊の気色や」とて、信仰の気色ありければ、資朝卿、これを見て、「年の寄りたるに候ふ」と申されけり。

後日に、尨犬のあさましく老いさらぼひて、毛剥げたるを曳かせて、「この気色尊く見えて候ふ」とて、内府へ参らせられたりけるとぞ。  

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(現代語訳)
奈 良の西大寺(※注1)の長老、静然上人(※注2)は腰が曲がっていて、眉毛が真っ白で、なんとも聖なるオーラを発散させながら、宮内庁へやって来たのを、西園寺実衡内大臣(※注3)が、「とってもありがたいお姿です」と言ってめろめろになっていたので、日野資朝(※注4)がこれを見て「ただ単に老人なだけです」と言った。

 それから何日かたって、日野資朝は毛が長くたれている犬がよぼよぼに年を取って、所々毛が抜けているのを家来に曳っぱらさせて、「この犬も大変ありがたい姿に見えます」と言って、内大臣にプレゼントしたそうだ。  

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注 (※注1 奈良市西大寺町にある真言律宗の本山)(※注2 西大寺の四代目長老)(※注3 第八十三段の「竹林院入道左大臣殿」の息子)(※注4 権中納言。後醍醐天皇の鎌倉幕府追討のクーデター計画がばれて鎌倉に左遷される。その後、佐渡に島流し。その後、元弘の乱の勃発により斬られる)
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发表于 2004-12-28 17:53:17 | 显示全部楼层
第五十二段  




仁 和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。

少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。  

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(現代語訳)
仁 和寺(※注1)で生活していたある坊さんは、ご老人になられるまで石清水八幡宮(※注2)を拝んだことがなかったので、気が引けていた。ある日思い立って、一人で歩いて参拝することになった。(※注3)八幡宮についている付属品の、極楽寺と高良神社(※注4)だけ拝んで「これで思いはとげました」と思いこみ(八幡宮はこれだけだと思って本殿を拝まずに)退散した。

 帰ってきてから、友達に「前から思っていたことを、ついにやり遂げました。これまた、噂以上にハラショーなものでした。しかし、お参りしている方々が、みんな登山をなさっていたから、山の上でイベントでもあったのでしょうか? 行ってみたかったのですが、今回は神様にお参りすることが目的だったので、余計なことはやめておこうと思って山の方は見てこなかったのです」と話した。

 些細なことでも、案内がほしいという教訓。  

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注 (※注1 京都市右京区御室・真言宗御室派大本山)(※注2 京都市八幡市男山の山上にある)(※注3 一般に石清水八幡宮は鳥羽や賀茂の川下より船で参拝するが、このお坊さんは反対側から歩いて参拝した)(※注4 石清水八幡宮付属の極楽寺と高良神社。仏神習合の跡)
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发表于 2004-12-28 17:54:10 | 显示全部楼层
或 人、弓射る事を習ふに、諸矢をたばさみて的に向ふ。師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度、たゞ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠の心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべし。

道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらん事を思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。況んや、一刹那の中において、懈怠の心ある事を知らんや。何ぞ、たゞ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き。  

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(現代語訳)
あ る人が、射的のお稽古の際に、二本一セットの弓を手に挟んで持って的に対峙した。すると先生が「初心者は、二本の矢を持ってはいけません。残りの一本があるからと、最初の矢に気合いが入らないからだ。いつだって、無心にこの一本の矢が必ず当たるように気合いを込めろ」と言った。発った二本の矢を先生の前で無駄遣いすると思う人はいないかも知れない。ただ、無意識に不注意になってしまう心は、自分では感じないのだけど、先生はそのことを知っている。この戒めは、どんなことにでも通じるところがある。

 所行の道を歩む人は、夜になると翌朝のことを思い、その翌朝になると、これから訪れる夜のことを思って、後でもう一度きちんと修行をしようと思い直したりする。だけれど、それじゃ、その一瞬の不注意の心を感じることはできない。ただ今いる一瞬の意識を、すぐに実行することは、なんとも難しいことなのであった。
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发表于 2006-1-11 12:58:56 | 显示全部楼层
非常感谢!
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