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楼主: bgx5810

[原创作品] 虞美人草(夏目漱石)

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 楼主| 发表于 2005-7-7 17:01:33 | 显示全部楼层
        十六

 叙述の筆は甲野(こうの)の書斎を去って、宗近(むねちか)の家庭に入る。同日である。また同刻である。
 相変らずの唐机(とうづくえ)を控えて、宗近の父(おとっ)さんが鬼更紗(おにざらさ)の座蒲団(ざぶとん)の上に坐っている。襯衣(シャツ)を嫌った、苏桑à恧悉沥袱绀Γ─务囫龋à袱澶肖螅─谓螅àà辏─溃à海─欷啤⑺丶·恕ⅳ猡袱恪ⅳ猡袱悚刃孛姢à搿<刹繜啠àい螭伽浃─尾即à郅皮ぃ─沃梦铯摔长螭胜韦瑜ⅳ搿2即吻挨水悩敜螣煵菖瑁à郡肖长埭螅─蛑盲蚁槿穑à搐筏绀螭氦ぃ─毋懁韦ⅳ肴靖叮à饯幛膜保─摔仙饯ⅳ搿⒘ⅳ搿⑷宋铯い搿H宋铯壬饯韧袱椁い蚀螭丹嗣瑁àà─欷皮い腴gを、一筋の金泥(きんでい)が蜿蜒(えんえん)と縁(ふち)まで這上(はいあが)る。形は甕(かめ)のごとく、悖à悉粒─_いて、開いた頂(いただき)が、がっくりと縮まると、丸い縁(ふち)になる。向い合せの耳を潜(くぐ)る蔓(つる)には、ぎりぎりと渋(しぶ)を帯びた籐(と)を巻きつけて手提(てさげ)の便を計る。
 宗近の父(おとっ)さんは昨日(きのう)どこの古道具屋からか、継(つぎ)のあるこの煙草盆を堀り出して来て、今朝から祥瑞だ、祥瑞だと騒いだ結果、灰を入れ、火を入れ、しきりに煙草を吸っている。
 ところへ入口の唐紙(からかみ)をさらりと開けて、宗近君が例のごとく活溌(かっぱつ)に這入(はい)って来る。父は煙草盆から眼を離した。見ると忰(せがれ)は親譲りの背広をだぶだぶに着て、カシミヤの靴足袋(くつたび)だけに、大なる通(つう)をきめている。
「どこぞへ行くかね」
「行くんじゃない、今帰ったところです。――ああ暑い。今日はよっぽど暑いですね」
「家(うち)にいると、そうでもない。御前はむやみに急ぐから暑いんだ。もう少し落ちついて歩いたらどうだ」
「充分落ちついているつもりなんだが、そう見えないかな。弱るな。――やあ、とうとう煙草盆へ火を入れましたね。なるほど」
「どうだ祥瑞は」
「何だか酒甕(さかがめ)のようですね」
「なに煙草盆さ。御前達が何だかだって笑うが、こうやって灰を入れて見るとやっぱり煙草盆らしいだろう」
 老人は蔓(つる)を持って、ぐっと祥瑞を宙に釣るし上げた。
「どうだ」
「ええ。好いですね」
「好いだろう。祥瑞は贋(にせ)の多いもんで容易には買えない」
「全体いくらなんですか」
「いくらだか当てて御覧」
「見当が着きませんね。滅多(めった)な事を云うとまたこの間の松見たように頭ごなしに叱られるからな」
「壱円八十銭だ。安いもんだろう」
「安いですかね」
「全く堀出(ほりだし)だ」
「へええ――おや椽側にもまた新らしい植木が出来ましたね」
「さっき万両(まんりょう)と植え替えた。それは薩摩(さつま)の悖à悉粒─枪扭い猡韦馈筡
「十六世紀頃の葡萄耳(ポルトガル)人が被った帽子のような恰好(かっこう)ですね。――この薔薇(ばら)はまた大変赤いもんだな、こりゃあ」
「それは仏見笑(ぶっけんしょう)と云ってね。やっぱり薔薇の一種だ」
「仏見笑? 妙な名だな」
「華厳経(けごんきょう)に外面(げめん)如菩薩(にょぼさつ)、内心(ないしん)如夜叉(にょやしゃ)と云う句がある。知ってるだろう」
「文句だけは知ってます」
「それで仏見笑と云うんだそうだ。花は奇麗だが、大変刺(とげ)がある。触(さわ)って御覧」
「なに触らなくっても結構です」
「ハハハハ外面如菩薩、内心如夜叉。女は危ないものだ」と云いながら、老人は雁首(がんくび)の先で祥瑞(しょんずい)の中を穿(ほじく)り廻す。
「むずかしい薔薇があるもんだな」と宗近君は感心して仏見笑を眺(なが)めている。
「うん」と老人は思い出したように膝を打つ。
「一(はじめ)あの花を見た事があるかい。あの床(とこ)に挿(さ)してある」
 老人はいながら、顔の向を後(うしろ)へ変える。捩(ねじ)れた頸(くび)に、行き所を失った肉が、三筋ほど括(くび)られて肩の方へ競(せ)り出して来る。
 茶がかった平床(ひらどこ)には、釣竿を担(かつ)いだ蜆子和尚(けんすおしょう)を一筆(ひとふで)に描(か)いた軸(じく)を閑静に掛けて、前に青銅の古瓶(こへい)を据(す)える。鶴ほどに長い頸の中から、すいと出る二茎(ふたくき)に、十字と四方に囲う葉を境に、数珠(じゅず)に貫(ぬ)く露の珠(たま)が二穂(ふたほ)ずつ偶(ぐう)を作って咲いている。
「大変細い花ですね。――見た事がない。何と云うんですか」
「これが例の二人静(ふたりしずか)だ」
「例の二人静? 例にも何にも今まで聞いた事がないですね」
「覚えて置くがいい。面白い花だ。白い穂がきっと二本ずつ出る。だから二人静。謡曲に静の霊が二人して舞うと云う事がある。知っているかね」
「知りませんね」
「二人静。ハハハハ面白い花だ」
「何だか因果(いんが)のある花ばかりですね」
「調べさえすれば因果はいくらでもある。御前、梅に幾通(いくとおり)あるか知ってるか」と煙草盆を釣るして、また煙管(きせる)の雁首で灰の中を掻(か)き廻す。宗近君はこの機に仱袱圃掝^を転換した。
「阿爺(おとっ)さん。今日ね、久しぶりに髪結床(かみゆいどこ)へ行って、頭を刈って来ました」と右の手でい趣长恧驌幔à剩─菑hす。
「頭を」と云いながら羅宇(らお)の中ほどを祥瑞(しょんずい)の縁(ふち)でとんと叩(たた)いて灰を落す。
「あんまり奇麗(きれい)にもならんじゃないか」と真向(まむき)に帰ってから云う。
「奇麗にもならんじゃないかって、阿爺(おとっ)さん、こりゃ五分刈(ごぶがり)じゃないですぜ」
「じゃ何刈だい」
「分けるんです」
「分かっていないじゃないか」
「今に分かるようになるんです。真中が少し長いでしょう」
「そう云えば心持長いかな。廃(よ)せばいいのに、見っともない」
「見っともないですか」
「それにこれから夏向は熱苦しくって……」
「ところがいくら熱苦しくっても、こうして置かないと不都合なんです」
「なぜ」
「なぜでも不都合なんです」
「妙な奴だな」
「ハハハハ実はね、阿爺さん」
「うん」
「外交官の試験に及第してね」
「及第したか。そりゃそりゃ。そうか。そんなら早くそう云えば好いのに」
「まあ頭でも拵(こしら)えてからにしようと思って」
「頭なんぞはどうでも好いさ」
「ところが五分刈で外国へ行くと懲役人と間違えられるって云いますからね」
「外国へ――外国へ行くのかい。いつ」
「まあこの髪が延びて小野清三式になる時分でしょう」
「じゃ、まだ一ヵ月くらいはあるな」
「ええ、そのくらいはあります」
「一ヵ月あるならまあ安心だ。立つ前にゆっくり相談も出来るから」
「ええ時間はいくらでもあります。時間の方はいくらでもありますが、この洋服は今日限(こんにちかぎり)御返納に及びたいです」
「ハハハハいかんかい。よく似合うぜ」
「あなたが似合う似合うとおっしゃるから今日まで着たようなものの――至るところだぶだぶしていますぜ」
「そうかそれじゃ廃(よ)すがいい。また阿爺さんが着よう」
「ハハハハ驚いたなあ。それこそ御廃(およ)しなさい」
「廃しても好い。铯摔扦猡浃毪省筡
「铯长饯いっ曰螭馈筡
「そんなにおかしいかな」
「おかしかないが、身体(からだ)に合わないでさあ」
「そうか、それじゃやっぱりおかしいだろう」
「ええ、つまるところおかしいです」
「ハハハハ時に糸にも話したかい」
「試験の事ですか」
「ああ」
「まだ話さないです」
「まだ話さない。なぜ。――全体いつ分ったんだ」
「通知のあったのは二三日前ですがね。つい、忙しいもんだから、まだ誰にも話さない」
「御前は呑気(のんき)過ぎていかんよ」
「なに忘れやしません。大丈夫」
「ハハハハ忘れちゃ大変だ。まあもう、ちっと気をつけるがいい」
「ええこれから糸公に話してやろうと思ってね。――心配しているから。――及第の件とそれからこの頭の説明を」
「頭は好いが――全体どこへ行く事になったのかい。英吉利(イギリス)か、仏蘭西(フランス)か」
「その辺はまだ分らないです。何でも西洋は西洋でしょう」
「ハハハハ気楽なもんだ。まあどこへでも行くが好い」
「西洋なんか行きたくもないんだけれども――まあ順序だから仕方がない」
「うん、まあ勝手な所へ行くがいい」
「支那や朝鮮なら、故(もと)の通(とおり)の五分刈で、このだぶだぶの洋服を着て出掛けるですがね」
「西洋はやかましい。御前のような不作法(ぶさほう)ものには好い修業になって結構だ」
「ハハハハ西洋へ行くと堕落するだろうと思ってね」
「なぜ」
「西洋へ行くと人間を二(ふ)た通(とお)り拵(こしら)えて持っていないと不都合ですからね」
「二た通とは」
「不作法(ぶさほう)な裏と、奇麗な表と。厄介(やっかい)でさあ」
「日本でもそうじゃないか。文明の圧迫が烈(はげ)しいから上部(うわべ)を奇麗にしないと社会に住めなくなる」
「その代り生存競争も烈しくなるから、内部はますます不作法になりまさあ」
「ちょうどなんだな。裏と表と反対の方角に発達する訳になるな。これからの人間は生きながら八(や)つ裂(ざき)の刑を受けるようなものだ。苦しいだろう」
「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の睾丸(きんたま)をつけたような奴(やつ)ばかり出来て、それで落つきが取れるかも知れない。いやだな、そんな修業に出掛けるのは」
「いっそ廃(やめ)にするか。うちにいて親父(おやじ)の古洋服でも着て太平楽を並べている方が好いかも知れない。ハハハハ」
「ことに英吉利(イギリス)人は気に喰わない。一から十まで英国が模範であると云わんばかりの顔をして、何でもかでも我流(がりゅう)で押し通そうとするんですからね」
「だが英国紳士と云って近頃だいぶ評判がいいじゃないか」
「日英同盟だって、何もあんなに賞(ほ)めるにも当らない訳だ。弥次馬共が英国へ行った事もない癖に、旗ばかり押し立てて、まるで日本が無くなったようじゃありませんか」
「うん。どこの国でも表が表だけに発達すると、裏も裏相応に発達するだろうからな。――なに国ばかりじゃない個人でもそうだ」
「日本がえらくなって、英国の方で日本の真似でもするようでなくっちゃ駄目だ」
「御前が日本をえらくするさ。ハハハハ」
 宗近君は日本をえらくするとも、しないとも云わなかった。ふと手を伸(のば)すと更紗(さらさ)の結襟(ネクタイ)が白襟(カラ)の真中(まんなか)まで浮き出して結目(むすびめ)は横に捩(ねじ)れている。
「どうも、この襟飾(えりかざり)は滑(すべ)っていけない」と手探(てさぐり)に位地を正しながら、
「じゃ糸にちょっと話しましょう」と立ちかける。
「まあ御待ち、少し相談がある」
「何ですか」と立ち掛けた尻を卸(おろ)す機会(しお)に、準胡坐(じゅんあぐら)の姿勢を取る。
「実は今までは、御前の位地もまだきまっていなかったから、さほどにも云わなかったが……」
「嫁ですかね」
「そうさ。どうせ外国へ行くなら、行く前にきめるとか、結婚するとか、または連れて行くとか……」
「とても連れちゃ行かれませんよ。金が足りないから」
「連れて行かんでも好い。ちゃんと片をつけて、そうして置いて行くなら。留守中は私(わし)が大事に預かってやる」
「私(わたし)もそうしようと思ってるんです」
「どうだなそこで。気に入った婦人でもあるかな」
「甲野の妹を貰うつもりなんですがね。どうでしょう」
「藤尾(ふじお)かい。うん」
「駄目ですかね」
「なに駄目じゃない」
「外交官の女房にゃ、ああ云うんでないといけないです」
「そこでだて。実は甲野の親父(おやじ)が生きているうち、私と親父の間に、少しはその話もあったんだがな。御前は知らんかも知らんが」
「叔父さんは時計をやると云いました」
「あの金時計かい。藤尾が玩弄(おもちゃ)にするんで有名な」
「ええ、あの太古の時計です」
「ハハハハあれで針が回るかな。時計はそれとして、実は肝心(かんじん)の本人の事だが――この間甲野の母(おっか)さんが来た時、ついでだから話して見たんだがね」
「はあ、何とか云いましたか」
「まことに好い御縁だが、まだ御身分がきまって御出(おいで)でないから残念だけれども……」
「身分がきまらないと云うのは外交官の試験に及第しないと云う意味ですかね」
「まあ、そうだろう」
「だろうはちっと驚ろいたな」
「いや、あの女の云う事は、非常に能弁な代りによく意味が通じないで困る。滔々(とうとう)と述べる事は述べるが、ついに要点が分らない。要するに不経済な女だ」
 多少苦々(にがにが)しい気色(けしき)に、煙管(きせる)でとんと膝頭(ひざがしら)を敲(たた)いた父(おとっ)さんは、視線さえ椽側(えんがわ)の方へ移した。最前植え易(か)えた仏見笑(ぶっけんしょう)が鮮(あざやか)な紅(くれない)を春と夏の境(さかい)に今ぞと誇っている。
「だけれども断ったんだか、断らないんだか分らないのは厄介(やっかい)ですね」
「厄介だよ。あの女にかかると今までも随分厄介な事がだいぶあった。猫撫声(ねこなでごえ)で長ったらしくって――私(わし)ゃ嫌(きらい)だ」
「ハハハハそりゃ好いが――ついに談判は発展しずにしまったんですか」
「つまり先方の云うところでは、御前が外交官の試験に及第したらやってもいいと云うんだ」
「じゃ訳ない。この通り及第したんだから」
「ところがまだあるんだ。面倒な事が。まことにどうも」と云いながら父(おとっ)さんは、手の平を二つ内側へ揃(そろ)えて眼の球をぐりぐり擦(こす)る。眼の球は赤くなる。
「及第しても駄目なんですか」
「駄目じゃあるまいが――欽吾(きんご)がうちを出ると云うそうだ」
「馬鹿な」
「もし出られてしまうと、年寄の世話の仕手がなくなる。だから藤尾に養子をしなければならない。すると宗近へでも、どこへでも嫁にやる訳には行かなくなると、まあこう云うんだな」
「下らない事を云うもんですね。第一甲野が家(うち)を出るなんて、そんな訳がないがな」
「家を出るって、まさか坊主になる料簡(りょうけん)でもなかろうが、つまり嫁を貰って、あの御袋の世話をするのが厭(いや)だと云うんだろうじゃないか」
「甲野が神経衰弱だから、そんな馬鹿気(ばかげ)た事を云うんですよ。間違ってる。よし出るたって――叔母さんが甲野を出して、養子をする気なんですか」
「そうなっては大変だと云って心配しているのさ」
「そんなら藤尾さんを嫁にやっても好さそうなものじゃありませんか」
「好い。好いが、万一の事を考えると私も心細くってたまらないと云うのさ」
「何が何だか分りゃしない。まるで八幡(やわた)の藪不知(やぶしらず)へ這入(はい)ったようなものだ」
「本当に――要領を得ないにも困り切る」
 父(おとっ)さんは額に皺(しわ)を寄せて上眼(うわめ)を使いながら、頭を撫(な)で廻す。
「元来そりゃいつの事です」
「この間だ。今日で一週間にもなるかな」
「ハハハハ私(わたし)の及第報告は二三日後(おく)れただけだが、父さんのは一週間だ。親だけあって、私より倍以上気楽ですぜ」
「ハハハだが要領を得ないからね」
「要領はたしかに得ませんね。早速要領を得るようにして来ます」
「どうして」
「まず甲野に妻帯の件を説諭して、坊主にならないようにしてしまって、それから藤尾さんをくれるかくれないか判然(はっきり)談判して来るつもりです」
「御前一人でやる気かね」
「ええ、一人でたくさんです。卒業してから何にもしないから、せめてこんな事でもしなくっちゃ退屈でいけない」
「うん、自分の事を自分で片づけるのは結構な事だ。一つやって見るが好い」
「それでね。もし甲野が妻(さい)を貰うと云ったら糸をやるつもりですが好いでしょうね」
「それは好い。構わない」
「一先(ひとまず)本人の意志を聞いて見て……」
「聞かんでも好かろう」
「だって、そりゃ聞かなくっちゃいけませんよ。ほかの事とは違うから」
「そんなら聞いて見るが好い。ここへ呼ぼうか」
「ハハハハ親と兄の前で詰問しちゃなおいけない。これから私が聞いて見ます。で当人が好いと云ったら、そのつもりで甲野に話しますからね」
「うん、よかろう」
 宗近君はずんど切(ぎり)の洋袴(ズボン)を二本ぬっと立てた。仏見笑(ぶっけんしょう)と二人静(ふたりしずか)と蜆子和尚(けんすおしょう)と活(い)きた布袋(ほてい)の置物を残して廊下つづきを中二階(ちゅうにかい)へ上る。
 とんとんと二段踏むと妹の御太鼓(おたいこ)が奇麗(きれい)に見える。三段目に水色の絹(リボン)が、横に傾いて、ふっくらした片頬(かたほ)が入口の方に向いた。
「今日は勉強だね。珍らしい。何だい」といきなり机の横へ坐り込む。糸子(いとこ)ははたりと本を伏せた。伏せた上へ肉のついた丸い手を置く。
「何でもありませんよ」
「何でもない本を読むなんて、天下の逸民だね」
「どうせ、そうよ」
「手を放したって好いじゃないか。まるで散らしでも取ったようだ」
「散らしでも何でも好くってよ。御生(ごしょう)だからあっちへ行ってちょうだい」
「大変邪魔にするね。糸公、父(おと)っさんが、そう云ってたぜ」
「何て」
「糸はちっと女大学でも読めば好いのに、近頃は恋愛小説ばかり読んでて、まことに困るって」
「あら嘘(うそ)ばっかり。私がいつそんなものを読んで」
「兄さんは知らないよ。阿父(おとっ)さんがそう云うんだから」
「嘘よ、阿父様(おとうさま)がそんな事をおっしゃるもんですか」
「そうかい。だって、人が来ると読み掛けた本を伏せて、枡落(ますおと)し見たように一生懸命におさえているところをもって見ると、阿父さんの云うところもまんざら嘘とは思えないじゃないか」
「嘘ですよ。嘘だって云うのに、あなたもよっぽど卑劣な方ね」
「卑劣は一大痛棒だね。注意人物の売国奴(ばいこくど)じゃないかハハハハ」
「だって人の云う事を信用なさらないんですもの。そんなら証拠を見せて上げましょうか。ね。待っていらっしゃいよ」
 糸子は抑えた本を袖(そで)で隠さんばかりに、机から手本(てもと)へ引き取って、兄の見えぬように帯の影に忍ばした。
「掏(す)り替(か)えちゃいけないぜ」
「まあ黙って、待っていらっしゃい」
 糸子は兄の眼を掠(かす)めて、長い袖の下に隠した本を、しきりに細工していたが、やがて
「ほら」と上へ出す。
 両手で叮嚀(ていねい)に抑えた頁(ページ)の、残る一寸角(いっすんかく)の真中に朱印が見える。
「見留(みとめ)じゃないか。なんだ――甲野」
「分ったでしょう」
「借りたのかい」
「ええ。恋愛小説じゃないでしょう」
「種を見せない以上は何とも云えないが、まあ勘弁してやろう。時に糸公御前今年幾歳(いくつ)になるね」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ないだって区役所へ行きゃ、すぐ分る事だが、ちょいと参考のために聞いて見るんだよ。隠さずに云う方が御前の利益だ」
「隠さずに云う方がだって――何だか悪い事でもしたようね。私(わたし)厭(いや)だわ、そんなに強迫されて云うのは」
「ハハハハさすが哲学者の御弟子だけあって、容易に権威に服従しないところが感心だ。じゃ改めて伺うが、取って御幾歳(おいくつ)ですか」
「そんな茶化(ちゃか)したって、誰が云うもんですか」
「困ったな。叮嚀(ていねい)に云えば云うで怒るし。――一だったかね。二かい」
「おおかたそんなところでしょう」
「判然しないのか。自分の年が判然しないようじゃ、兄さんも少々心細いな。とにかく十代じゃないね」
「余計な御世話じゃありませんか。人の年齢(とし)なんぞ聞いて。――それを聞いて何になさるの」
「なに別の用でもないが、実は糸公を御嫁にやろうと思ってさ」
 冗談半分に相手になって、調戯(からかわ)れていた妹の様子は突然と変った。熱い石を氷の上に置くと見る見る冷(さ)めて来る。糸子は一度に元気を放散した。同時に陽気な眼を陰に俯(ふ)せて、畳みの目を勘定(かんじょう)し出した。
「どうだい、御嫁は。厭(いや)でもないだろう」
「知らないわ」と低い声で云う。やっぱり下を向いたままである。
「知らなくっちゃ困るね。兄さんが行くんじゃない、御前が行くんだ」
「行くって云いもしないのに」
「じゃ行かないのか」
 糸子は頭(かぶり)を竪(たて)に振った。
「行かない? 本当に」
 答はなかった。今度は首さえ動かさない。
「行かないとなると、兄さんが切腹しなけりゃならない。大変だ」
 俯向(うつむ)いた眼の色は見えぬ。ただ豊(ゆたか)なる頬を掠(かす)めて笑の影が飛び去った。
「笑い事じゃない。本当に腹を切るよ。好いかね」
「勝手に御切んなさい」と突然顔を上げた。にこにこと笑う。
「切るのは好いが、あんまり深刻だからね。なろう事ならこのまんまで生きている方が、御互に便利じゃないか。御前だってたった一人の兄さんに腹を切らしたって、つまらないだろう」
「誰もつまると云やしないわ」
「だから兄さんを助けると思ってうんと御云い」
「だって訳も話さないで、藪(やぶ)から棒(ぼう)にそんな無理を云ったって」
「訳は聞(きき)さえすれば、いくらでも話すさ」
「好くってよ、訳なんか聞かなくっても、私御嫁なんかに行かないんだから」
「糸公御前の返事は鼠花火(ねずみはなび)のようにくるくる廻っているよ。錯乱体(さくらんたい)だ」
「何ですって」
「なに、何でもいい、法律上の術語だから――それでね、糸公、いつまで行っても埓(らち)が明かないから、一(ひ)と思(おもい)に打ち明けて話してしまうが、実はこうなんだ」
「訳は聞いても御嫁にゃ行かなくってよ」
「条件つきに聞くつもりか。なかなか狡猾(こうかつ)だね。――実は兄さんが藤尾さんを御嫁に貰おうと思うんだがね」
「まだ」
「まだって今度(こんだ)が始(はじめ)てだね」
「だけれど、藤尾さんは御廃(およ)しなさいよ。藤尾さんの方で来たがっていないんだから」
「御前この間もそんな事を云ったね」
「ええ、だって、厭(いや)がってるものを貰わなくっても好いじゃありませんか。ほかに女がいくらでも有るのに」
「そりゃ大いにごもっともだ。厭なものを強請(ねだ)るなんて卑怯な兄さんじゃない。糸公の威信にも関係する。厭なら厭と事がきまればほかに捜すよ」
「いっそそうなすった方がいいでしょう」
「だがその辺が判然しないからね」
「だから判然させるの。まあ」と内気な妹は少し驚いたように眼を机の上に転じた。
「この間甲野の御叔母(おば)さんが来て、下で内談をしていたろう。あの時その話があったんだとさ。叔母さんが云うには、今はまだいけないが、一(はじめ)さんが外交官の試験に及第して、身分がきまったら、どうでも御相談を致しましょうって阿爺(おとっさん)に話したそうだ」
「それで」
「だから好いじゃないか、兄さんがちゃんと外交官の試験に及第したんだから」
「おや、いつ」
「いつって、ちゃんと及第しちまったんだよ」
「あら、本当なの、驚ろいた」
「兄が及第して驚ろく奴があるもんか。失礼千万な」
「だって、そんなら早くそうおっしゃれば好いのに。これでもだいぶ心配して上げたんだわ」
「全く御前の御蔭(おかげ)だよ。大いに感泣(かんきゅう)しているさ。感泣はしているようなものの忘れちまったんだから仕方がない」
 兄妹は隔(へだて)なき眼と眼を見合せた。そうして同時に笑った。
 笑い切った時、兄が云う。
「そこで兄さんもこの通り頭を刈って、近々(きんきん)洋行するはずになったんだが、阿父(おとっ)さんの云うには、立つ前に嫁を貰(もら)って人格を作ってけって責めるから、兄さんが、どうせ貰うなら藤尾さんを貰いましょう。外交官の妻君にはああ云うハイカラでないと将来困るからと云ったのさ」
「それほど御気に入ったら藤尾さんになさい。――女を見るのはやっぱり女の方が上手ね」
「そりゃ才媛糸公の意見に間違はなかろうから、充分兄さんも参考にはするつもりだが、とにかく判然談判をきめて来なくっちゃいけない。向うだって厭(いや)なら厭と云うだろう。外交官の試験に及第したからって、急に気が変って参りましょうなんて軽薄な事は云うまい」
 糸子は微(かす)かな笑を、二三段に切って鼻から洩(もら)した。
「云うかね」
「どうですか。聞いて御覧なさらなくっちゃ――しかし聞くなら欽吾さんに御聞きなさいよ。恥を掻(か)くといけないから」
「ハハハハ厭なら断(ことわ)るのが天下の定法(じょうほう)だ。断わられたって恥じゃない……」
「だって」
「……ないが甲野に聞くよ。聞く事は甲野に聞くが――そこに問題がある」
「どんな」
「先決問題がある。――先決問題だよ、糸公」
「だから、どんなって、聞いてるじゃありませんか」
「ほかでもないが、甲野が坊主になるって騒ぎなんだよ」
「馬鹿をおっしゃい。縁喜(えんぎ)でもない」
「なに、今の世に坊主になるくらいな決心があるなら、縁喜はともかく、大(おおい)に慶すべき現象だ」
「苛(ひど)い事を……だって坊さんになるのは、酔興(すいきょう)になるんじゃないでしょう」
「何とも云えない。近頃のように煩悶(はんもん)が流行した日にゃ」
「じゃ、兄さんからなって御覧なさいよ」
「酔興にかい」
「酔興でも何でもいいから」
「だって五分刈(ごぶがり)でさえ懲役人と間違えられるところを青坊主になって、外国の公使館に詰めていりゃ気違としきゃ思われないもの。ほかの事なら一人の妹の事だから何でも聞くつもりだが、坊主だけは勘弁して貰いたい。坊主と油揚(あぶらげ)は小供の時から嫌(きらい)なんだから」
「じゃ欽吾さんもならないだって好いじゃありませんか」
「そうさ、何だか論理(ロジック)が少し変だが、しかしまあ、ならずに済むだろうよ」
「兄さんのおっしゃる事はどこまでが真面目(まじめ)でどこまでが冗談(じょうだん)だか分らないのね。それで外交官が勤まるでしょうか」
「こう云うんでないと外交官には向かないとさ」
「人を……それで欽吾さんがどうなすったんですよ。本当のところ」
「本当のところ、甲野がね。家(うち)と財産を藤尾にやって、自分は出てしまうと云うんだとさ」
「なぜでしょう」
「つまり、病身で御叔母(おば)さんの世話が出来ないからだそうだ」
「そう、御気の毒ね。ああ云う方は御金も家もいらないでしょう。そうなさる方が好いかも知れないわ」
「そう御前まで賛成しちゃ、先決問題が解決しにくくなる」
「だって御金が山のようにあったって、欽吾さんには何にもならないでしょう。それよりか藤尾さんに上げる方が好(よ)ござんすよ」
「御前は女に似合わず気前が好いね。もっとも人のものだけれども」
「私だって御金なんかいりませんわ。邪魔になるばかりですもの」
「邪魔にするほどないからたしかだ。ハハハハ。しかしその心掛は感心だ。尼になれるよ」
「おお厭(いや)だ。尼だの坊さんだのって大嫌い」
「そこだけは兄さんも賛成だ。しかし自分の財産を棄てて吾家(わがいえ)を出るなんて馬鹿気(ばかげ)ている。財産はまあいいとして、――欽吾に出られればあとが困るから藤尾に養子をする。すると一(はじめ)さんへは上げられませんと、こう御叔母(おば)さんが云うんだよ。もっともだ。つまり甲野のわがままで兄さんの方が破談になると云う始末さ」
「じゃ兄さんが藤尾さんを貰うために、欽吾さんを留めようと云うんですね」
「まあ一面から云えばそうなるさ」
「それじゃ欽吾さんより兄さんの方がわがままじゃありませんか」
「今度は非常に論理的(ロジカル)に来たね。だってつまらんじゃないか、当然相続している財産を捨てて」
「だって厭(いや)なら仕方がないわ」
「厭だなんて云うのは神経衰弱のせいだあね」
「神経衰弱じゃありませんよ」
「病的に違ないじゃないか」
「病気じゃありません」
「糸公、今日は例に似ず大いに断々乎(だんだんこ)としているね」
「だって欽吾さんは、ああ云う方なんですもの。それを皆(みんな)が病気にするのは、皆の方が間違っているんです」
「しかし健全じゃないよ。そんな動議を呈出するのは」
「自分のものを自分が棄(す)てるんでしょう」
「そりゃごもっともだがね……」
「要(い)らないから棄てるんでしょう」
「要らないって……」
「本当に要らないんですよ、甲野さんのは。負惜(まけおし)みや面当(つらあて)じゃありません」
「糸公、御前は甲野の知己(ちき)だよ。兄さん以上の知己だ。それほど信仰しているとは思わなかった」
「知己でも知己でなくっても、本当のところを云うんです。正しい事を云うんです。叔母さんや藤尾さんがそうでないと云うんなら、叔母さんや藤尾さんの方が間違ってるんです。私は嘘を吐(つ)くのは大嫌(だいきらい)です」
「感心だ。学問がなくっても栅槌訾孔孕扭ⅳ毪楦行膜馈P证丹蟠筚m成だ。それでね、糸公、改めて相談するが甲野が家(うち)を出ても出なくっても、財産をやってもやらなくっても、御前甲野のところへ嫁に行く気はあるかい」
「それは話がまるで違いますわ。今云ったのはただ正直なところを云っただけですもの。欽吾さんに御気の毒だから云ったんです」
「よろしい。なかなか訳が分っている。妹ながら見上げたもんだ。だから別問題として聞くんだよ。どうだね厭(いや)かい」
「厭だって……」とと言い懸(か)けて糸子は急に俯向(うつむ)いた。しばらくは半襟(はんえり)の模様を見詰めているように見えた。やがて瞬(しばたた)く睫(まつげ)を絡(から)んで一雫(ひとしずく)の涙がぽたりと膝(ひざ)の上に落ちた。
「糸公、どうしたんだ。今日は天候劇変(げきへん)で兄さんに面喰(めんくら)わしてばかりいるね」
 答のない口元が結んだまましゃくんで、見るうちにまた二雫(ふたしずく)落ちた。宗近君は親譲の背広(せびろ)の隠袋(かくし)から、くちゃくちゃの手巾(ハンケチ)をするりと出した。
「さあ、御拭き」と云いながら糸子の胸の先へ押し付ける。妹は作りつけの人形のようにじっとして動かない。宗近君は右の手に手巾を差し出したまま、少し及び腰になって、下から妹の顔を覗(のぞ)き込む。
「糸公厭(いや)なのかい」
 糸子は無言のまま首を掉(ふ)った。
「じゃ、行く気だね」
 今度は首が動かない。
 宗近君は手巾を妹の膝の上に落したまま、身体(からだ)だけを故(もと)へ戻す。
「泣いちゃいけないよ」と云って糸子の顔を見守っている。しばらくは双方共言葉が途切れた。
 糸子はようやく手巾を取上げる。粗(あら)い銘仙(めいせん)の膝が少し染(しみ)になった。その上へ、手巾の皺(しわ)を叮嚀(ていねい)に延(の)して四つ折に敷いた。角(かど)をしっかり抑えている。それから眼を上げた。眼は海のようである。
「私は御嫁には行きません」と云う。
「御嫁には行かない」とほとんど無意味に繰り返した宗近君は、たちまち勢をつけて
「冗談云っちゃいけない。今厭じゃないと云ったばかりじゃないか」
「でも、欽吾さんは御嫁を御貰いなさりゃしませんもの」
「そりゃ聞いて見なけりゃ――だから兄さんが聞きに行くんだよ」
「聞くのは廃(よ)してちょうだい」
「なぜ」
「なぜでも廃してちょうだい」
「じゃしようがない」
「しようがなくっても好いから廃してちょうだい。私は今のままでちっとも不足はありません。これで好いんです。御嫁に行くとかえっていけません」
「困ったな、いつの間(ま)に、そう硬くなったんだろう。――糸公、兄さんはね、藤尾さんを貰うために、御前を甲野にやろうなんて利己主義で云ってるんじゃないよ。今のところじゃ、ただ御前の事ばかり考えて相談しているんだよ」
「そりゃ分っていますわ」
「そこが分りさえすれば、後(あと)が話がし好い。それでと、御前は甲野を嫌ってるんじゃなかろう。――よし、それは兄さんがそう認めるから構わない。好いかね。次に、甲野に貰うか貰わないか聞くのは厭だと云うんだね。兄さんにはその理窟(りくつ)がさらに解(げ)せないんだが、それも、それでよしとするさ。――聞くのは厭だとして、もし甲野が貰うと云いさえすれば行っても好いんだろう。――なに金や家はどうでも構わないさ。一文無(いちもんなし)の甲野のところへ行こうと云やあ、かえって御前の名誉だ。それでこそ糸公だ。兄さんも阿父(おとっ)さんも故障を云やしない。……」
「御嫁に行ったら人間が悪くなるもんでしょうか」
「ハハハハ突然大問題を呈出するね。なぜ」
「なぜでも――もし悪くなると愛想(あいそ)をつかされるばかりですもの。だからいつまでもこうやって阿父様(おとうさま)と兄さんの傍(そば)にいた方が好いと思いますわ」
「阿父様と兄さんと――そりゃ阿父様も兄さんもいつまでも御前といっしょにいたい事はいたいがね。なあ糸公、そこが問題だ。御嫁に行ってますます人間が上等になって、そうして御亭主に可愛がられれば好いじゃないか。――それよりか実際問題が肝要だ。そこでね、さっきの話だが兄さんが受合ったら好いだろう」
「何を」
「甲野に聞くのは厭だと、と云って甲野の方から御前を貰いに来るのはいつの事だか分らずと……」
「いつまで待ったって、そんな事があるものですか。私には欽吾さんの胸の中がちゃんと分っています」
「だからさ、兄さんが受合うんだよ。是非甲野にうんと云わせるんだよ」
「だって……」
「何云わせて見せる。兄さんが責任をもって受合うよ。なあに大丈夫だよ。兄さんもこの頭が延びしだい外国へ行かなくっちゃならない。すると当分糸公にも逢(あ)えないから、平生(へいぜい)親切にしてくれた御礼に、やってやるよ。――狐の袖無(ちゃんちゃん)の御礼に。ねえ好いだろう」
 糸子は何とも答えなかった。下で阿父(おとっ)さんが謡(うたい)をうたい出す。
「そら始まった――じゃ行って来るよ」と宗近君は中二階(ちゅうにかい)を下りる。
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 楼主| 发表于 2005-7-7 17:02:04 | 显示全部楼层
        十七

 小野と浅井は橋まで来た。来た路は青麦の中から出る。行く路は青麦のなかに入る。一筋を前後に余して、深い谷の底を鉄軌(レエル)が通る。高い土手は春に唬à长猓─刖vを今やと吹き返しつつ、見事なる切り岸を立て廻して、丸い屏風(びょうぶ)のごとく弧形に折れて遥(はる)かに去る。断橋(だんきょう)は鉄軌(レエル)を高きに隔つる事丈(じょう)を重ねて十に至って南より北に横ぎる。欄に倚(よ)って俯(ふ)すとき広き両岸の青(せい)を極(きわ)めつくして、始めて石垣に至る。石垣を底に見下(みおろ)して始めて茶色の路(みち)が細く横(よこた)わる。鉄軌は細い路のなかに細く光る。――二人は断橋の上まで来て留(とま)った。
「いい景色だね」
「うん、ええ景色じゃ」
 二人は欄に倚(よ)って立った。立って見る間(ま)に、限りなき麦は一分(いちぶ)ずつ延びて行く。暖たかいと云わんよりむしろ暑い日である。
 青蓆(あおむしろ)をのべつに敷いた一枚の果(はて)は、がたりと調子の変った地味な森になる。氦螭莱E湍荆à趣铯─沃肖恕ⅳ堡肖堡肖筏饣皮蚝嗑vの、粉(こ)となって空に吹き散るかと思われるのは、樟(くす)の若葉らしい。
「久しぶりで郊外へ来て好い心持だ」
「たまには、こう云う所も好(え)えな。僕はしかし田舎(いなか)から帰ったばかりだからいっこう珍しゅうない」
「君はそうだろう。君をこんな所へ連れて来たのは少し気の毒だったね」
「なに構わん。どうせ遊(あす)んどるんだから。しかし人間も遊んどる暇があるようでは駄目じゃな、君。ちっとなんぞ金儲(かねもうけ)の口はないかい」
「金儲は僕の方にゃないが、君の方にゃたくさんあるだろう」
「いや近頃は法科もつまらん。文科と同じこっちゃ、銀時計でなくちゃ通用せん」
 小野さんは橋の手擦(てすり)に背を靠(も)たせたまま、内隠袋(うちがくし)から例の通り銀製の煙草入を出してぱちりと開(あ)けた。箔(はく)を置いた埃及煙草(エジプトたばこ)の吸口が奇麗に並んでいる。
「一本どうだね」
「や、ありがとう。大変立派なものを持っとるの」
「貰い物だ」と小野さんは、自分も一本抜き取った後で、また見えない所へ投げ込んだ。
 二人の煙はつつがなく立ち騰(のぼ)って、事なき空に入る。
「君は始終(しじゅう)こんな上等な煙草を呑(の)んどるのか。よほど余裕があると見えるの。少し貸さんか」
「ハハハハこっちが借りたいくらいだ」
「なにそんな事があるものか。少し貸せ。僕は今度国へ行ったんで大変銭(ぜに)がいって困っとるところじゃ」
 本気に云っているらしい。小野さんの煙草の煙がふうと横に走った。
「どのくらい要(い)るのかね」
「三十円でも二十円でも好(え)え」
「そんなにあるものか」
「じゃ十円でも好え。五円でも好え」
 浅井君はいくらでも下げる。小野さんは両肘(りょうひじ)を鉄の手擦(てすり)に後(うしろ)から持たして、山羊仔(キッド)の靴を心持前へ出した。煙草を啣(くわ)えたまま、眼鏡越に爪先の飾を眺(なが)めている。遅日(ちじつ)影長くして光を惜まず。拭き込んだ皮の濃(こまや)かに照る上に、眼に入らぬほどの埃(ほこり)が一面に積んでいる。小野さんは携えた細手の洋杖(ステッキ)で靴の横腹をぽんぽんと鞭(むち)うった。埃は靴を離れて一寸(いっすん)ほど舞い上がる。鞭うたれた局部だけは斑(まだら)に胜盲俊Kんで見える浅井の靴は、兵隊靴のごとく重くかつ無細工(ぶさいく)である。
「十円くらいなら都合が出来ない事もないが――いつ頃(ごろ)まで」
「今月末(すえ)にはきっと返す。それで好かろう」と浅井君は顔を寄せて来る。小野さんは口から煙草を離した。指の股(また)に挟んだまま、一振はたくと三分(さんぶ)の灰は靴の甲に落ちた。
 体(たい)をそのままに白い襟(えり)の上から首だけを横に捩(ねじ)ると、欄干(らんかん)に頬杖(ほおづえ)をついた人の顔が五寸下に見える。
「今月末でも、いつでも好い。――その代り少し御願がある。聞いてくれるかい」
「うん、話して見い」
 浅井君は容易に受合った。同時に頬杖をやめて背を立てる。二人の顔はすれすれに来た。
「実は井上先生の事だがね」
「おお、先生はどうしとるか。帰ってから、まだ尋ねる閑(ひま)がないから、行かんが。君先生に逢(お)うたら宜(よろ)しく云うてくれ。ついでに御嬢さんにも」
 浅井君はハハハハと高く笑った。ついでに欄干から胸をつき出して、涎(よだれ)のごとき唾(つば)を遥(はる)かの下に吐いた。
「その御嬢さんの事なんだが……」
「いよいよ結婚するか」
「君は気が早くっていけない。そう先へ云っちまっちゃあ……」と言葉を切って、しばらく麦畑を眺めていたが、たちまち手に持った吸殻を向(むこう)へ投げた。白いカフスが七宝(しっぽう)の夫婦釦(めおとボタン)と共にかしゃと鳴る。一寸に余る金が空(くう)を掠(かす)めて橋の袂(たもと)に落ちた。落ちた煙は逆様(さかさま)に地から這(は)い揚(あ)がる。
「もったいない事をするのう」と浅井君が云った。
「君本当に僕の云う事を聞いてくれるのかい」
「本当に聞いとる。それから」
「それからって、まだ何にも話しゃしないじゃないか。――金の工面はどうでもするが、君に折入って御願があるんだよ」
「だから話せ。京都からの知己じゃ。何でもしてやるぞ」
 調子はだいぶ熱心である。小野さんは片肘(かたひじ)を放して、ぐるりと浅井君の方へ向き直る。
「君ならやってくれるだろうと思って、実は君の帰るのを待っていたところだ」
「そりゃ、好(え)え時に帰って来た。何か談判でもするのか。結婚の条件か。近頃は無財産の細君を貰うのは不便だからのう」
「そんな事じゃない」
「しかし、そう云う条件を付けて置く方が君の将来のために好(え)えぞ。そうせい。僕が懸合(かけお)うてやる」
「そりゃ貰(もら)うとなれば、そう云う談判にしても好いが……」
「貰う事は貰うつもりじゃろう。みんな、そう思うとるぞ」
「誰が」
「誰がてて、我々が」
「そりゃ困る。僕が井上の御嬢さんを貰うなんて、――そんな堅い約束はないんだからね」
「そうか。――いや怪しいぞ」と浅井君が云った。小野さんは腹の中で下等な男だと思う。こんな男だから破談を平気に持ち込む事が出来るんだと思う。
「そう頭から冷やかしちゃ話が出来ない」と故(もと)のようなおとなしい調子で云う。
「ハハハハ。そう真面目(まじめ)にならんでも好い。そうおとなしくちゃ損だぞ。もう少し面(つら)の皮を厚くせんと」
「まあ少し待ってくれたまえ。修業中なんだから」
「ちと稽古(けいこ)のためにどっかへ連れて行ってやろうか」
「何分宜(よろ)しく……」
「などと云って、裏では盛(さかん)に修業しとるかも知れんの」
「まさか」
「いやそうでないぞ。近頃だいぶ修飾(しゃれ)るところをもって見ると。ことにさっきの巻煙草入の出所(でどころ)などははなはだ疑わしい。そう云えばこの煙草も何となく妙な臭(におい)がするわい」
 浅井君はここに至って指の股に焦(こ)げついて来そうな煙草を、鼻の先へ持って来てふんふんと二三度嗅(か)いだ。小野さんはいよいよノンセンスなわる洒落(じゃれ)だと思った。
「まあ歩きながら話そう」
 悪洒落の続きを切るために、小野さんは一歩橋の真中(まんなか)へ踏み出した。浅井君の肘(ひじ)は欄干を離れる。右左地を抜く麦に、日は空から寄って来る。暖かき緑は穂を掠(かす)めて畦(あぜ)を騰(のぼ)る。野を蔽(おお)う一面の陽炎(かげろう)は逆上(のぼせ)るほどに二人を込めた。
「暑いのう」と浅井君は後(あと)から跟(つ)いて来る。
「暑い」と待ち合わした小野さんは、肩の並んだ時、歩き出す。歩き出しながら真面目(まじめ)な問題に入る。
「さっきの話だが――実は二三日前井上先生の所へ行ったところが、先生から突然例の縁談一条を持ち出されて、ね。……」
「待ってましたじゃ」と受けた浅井君はまた何か云いそうだから、小野さんは談話の速力を増して、急に進行してしまう。――
「先生が随分はげしく来たので、僕もそう世話になった先生の感情を害する訳にも行かないから、熟考するために二三日の余裕を与えて貰って帰ったんだがね」
「そりゃ慎重の……」
「まあしまいまで聞いてくれたまえ。批評はあとで緩(ゆっ)くり聞くから。――それで僕も、君の知っている通(とおり)、先生の世話には大変なったんだから、先生の云う事は何でも聞かなければ義理がわるい……」
「そりゃ悪い」
「悪いが、ほかの事と違って結婚問題は生涯(しょうがい)の幸福に関係する大事件だから、いくら恩のある先生の命令だって、そう、おいそれと服従する訳にはいかない」
「そりゃいかない」
 小野さんは、相手の顔をじろりと見た。相手は存外真面目である。話は進行する。――
「それも僕に判然たる約束をしたとか、あるいは御嬢さんに対して済まん関係でも拵(こし)らえたと云う大責任があれば、先生から催促されるまでもない。こっちから進んで、どうでも方(かた)をつけるつもりだが、実際僕はその点に関しては潔白なんだからね」
「うん潔白だ。君ほど高尚で潔白な人間はない。僕が保証する」
 小野さんはまたじろりと浅井君の顔を見た。浅井君はいっこう気が着かない。話はまた進行する。――
「ところが先生の方では、頭から僕にそれだけの責任があるかのごとく見傚(みな)してしまって、そうして万事をそれから演繹(えんえき)してくるんだろう」
「うん」
「まさか根本に立ち返って、あなたの御考は出立点が間違っていますと誤謬(ごびゅう)を指摘する訳にも行かず……」
「そりゃ、あまり君が人が好過ぎるからじゃ。もう少し世の中に擦(す)れんと損だぞ」
「損は僕も知ってるんだが、どうも僕の性質として、そう露骨(むき)に人に反対する事が出来ないんだね。ことに相手は世話になった先生だろう」
「そう、相手が世話になった先生じゃからな」
「それに僕の方から云うと、今ちょうど博士論文を書きかけている最中だから、そんな話を持ち込まれると余計困るんだ」
「博士論文をまだ書いとるか、えらいもんじゃな」
「えらい事もない」
「なにえらい。銀時計の頭でなくちゃ、とても出来ん」
「そりゃどうでも好(い)いが、――それでね、今云う通りの事情だから、せっかくの厚意はありがたいけれども、まあここのところはいったん断わりたいと思うんだね。しかし僕の性質じゃ、とても先生に逢(あ)うと気の毒で、そんな強い事が云えそうもないから、それで君に頼みたいと云う訳だが。どうだね、引き受けてくれるかい」
「そうか、訳ない。僕が先生に逢(お)うてよく話してやろう」
 浅井君は茶漬を掻(か)き込(こ)むように容易(たやす)く引き受けた。注文通りに行った小野さんは中休みに一二歩前へ移す。そうして云う。――
「その代り先生の世話は生涯(しょうがい)する考だ。僕もいつまでもこんなにぐずぐずしているつもりでもないから――実のところを云うと先生も故(もと)のように経済が楽じゃないようだ。だからなお気の毒なのさ。今度の相談もただ結婚と云う単純な問題じゃなくって、それを方便にして、僕の補助を受けたいような素振(そぶり)も見えたくらいだ。だから、そりゃやるよ。飽(あ)くまでも先生のために尽すつもりだ。だが結婚したから尽す、結婚せんから尽さないなんて、そんな軽薄な料簡(りょうけん)は少しもこっちにゃないんだから――世話になった以上はどうしたって世話になったのさ。それを返してしまうまではどうしたって恩は消えやしないからな」
「君は感心な男だ。先生が聞いたらさぞ喜ぶだろう」
「よく僕の意志が徹するように云ってくれたまえ。誤解が出来るとまた後(あと)が困るから」
「よし。感情を害せんようにの。よう云うてやる。その代り十円貸すんぜ」
「貸すよ」と小野さんは笑ながら答えた。
 錐(きり)は穴を穿(うが)つ道具である。縄は物を括(くく)る手段である。浅井君は破談を申し込む器械である。錐でなくては松板を潜(くぐ)り抜けようと企(くわだ)てるものはない。縄でなくては栄螺(さざえ)を取り巻く覚悟はつかぬ。浅井君にして始めてこの談判を、風呂に行く気で、引き受ける事が出来る。小野さんは才人である。よく道具を用いるの法を心得ている。
 ただ破談を申し込むのと、破談を申し込みながら、申し込んだ後を奇麗に片づけるのとは別才である。落葉を振うものは必ずしも庭を掃(は)く人とは限らない。浅井君はたとい内裏拝観(だいりはいかん)の際でも落葉を振いおとす事をあえてする無遠慮な男である。と共に、たとい内裏拝観の際でも一塵を掃(はら)う事を解せざるほどに無責任の男である。浅井君は浮ぶ術を心得ずして、水に潜(もぐ)る度胸者である。否潜るときに、浮ぶ術が必要であると考えつけぬ豪傑である。ただ引受ける。やって見ようと云う気で、何でも引き受ける。それだけである。善悪、理非、軽重(けいちょう)、結果を度外に置いて事物を考え得るならば、浅井君は他意なき善人である。
 それほどの事を知らぬ小野さんではない。知って依頼するのはただ破談を申し込めばそれで構わんと見限(みきり)をつけたからである。先方で苦状(くじょう)を云えば逃げる気である。逃げられなくても、そのうち向うから泣寝入(なきねいり)にせねばならぬような準備をととのえてある。小野さんは明日(あした)藤尾と大森へ遊びに行く約束がある。――大森から帰ったあとならば大抵な事が露見しても、藤尾と関係を絶つ訳には行かぬだろう。そこで井上へは約束通り物質的の補助をする。
 こう思い定めている小野さんは、浅井君が快よく依頼に応じた時、まず片荷(かたに)だけ卸(おろ)したなと思った。
「こう日が照ると、麦の香(におい)が鼻の先へ浮いてくるようだね」と小野さんの話頭はようやく自然に触れた。
「香(におい)がするかの。僕にはいっこうにおわんが」と浅井君は丸い鼻をふんふんと云わしたが、
「時に君はやはりあのハムレットの家(うち)へ行くのか」と聞く。
「甲野(こうの)の家かい。まだ行っている。今日もこれから行くんだ」と何気なく云う。
「この間京都へ行ったそうじゃな。もう帰ったか。ちと麦の香(におい)でも嗅(か)いで来たか知らんて。――つまらんのう、あんな人間は。何だか陰気くさい顔ばかりしているじゃないか」
「そうさね」
「ああ云う人間は早く死んでくれる方が好(え)え。だいぶ財産があるか」
「あるようだね」
「あの親類の人はどうした。学校で時々顔を見たが」
「宗近(むねちか)かい」
「そうそう。あの男の所へ二三日中(うち)に行こうと思っとる」
 小野さんは突然留った。
「何しに」
「口を頼みにさ。できるだけ邉婴筏浦盲螭锐j目だからな」
「だって、宗近だって外交官の試験に及第しないで困ってるところだよ。頼んだってしようがない」
「なに構わん。話に行って見る」
 小野さんは眼を地面の上へ卸(おろ)して、二三間は無言で来た。
「君、先生のところへはいつ行ってくれる」
「今夜か明日(あした)の朝行ってやる」
「そうか」
 麦畑を折れると、杉の木陰(こかげ)のだらだら坂になる。二人は前後して坂を下りた。言葉を交すほどの遑(いとま)もない。下り切って疎(まばら)な杉垣を、肩を並べて通り越すとき、小野さんは云った。――
「君もし宗近へ行ったらね。井上先生の事は話さずに置いてくれたまえ」
「話しゃせん」
「いえ、本当に」
「ハハハハ大変恥(はじ)かんどるの。構わんじゃないか」
「少し困る事があるんだから、是非……」
「好し、話しゃせん」
 小野さんははなはだ心元(こころもと)なく思った。半分ほどは今頼んだ事を取り返したく思った。
 四つ角で浅井君に別れた小野さんは、安からぬ胸を撙螭羌滓挨污。à浃筏─蓼抢搐搿L傥玻à栅袱─尾课荬剡@入(はい)って十五分ほど過ぎた頃、宗近君の姿は甲野さんの書斎の戸口に立った。
「おい」
 甲野さんは故(もと)の椅子に、故の通りに腰を掛けて、故のごとくに幾何(きか)模様を図案している。丸に三(み)つ鱗(うろこ)はとくに出来上った。
 おいと呼ばれた時、首を上げる。驚いたと云わんよりは、激したと云わんよりは、臆(おく)したと云わんよりは、様子ぶったと云わんよりはむしろ遥(はる)かに簡単な上げ方である。したがって哲学的である。
「君か」と云う。
 宗近君はつかつかと洋卓(テエブル)の角(かど)まで進んで来たが、いきなり太い眉に八の字を寄せて、
「こりゃ空気が悪い。毒だ。少し開(あ)けよう」と上下(うえした)の栓釘(ボールト)を抜き放って、真中の円鈕(ノッブ)を握るや否や、正面の仏蘭西窓(フランスまど)を、床(ゆか)を掃うごとく、一文字に開いた。室(へや)の中には、庭前に芽ぐむ芝生(しばふ)の緑と共に、広い春が吹き込んで来る。
「こうすると大変陽気になる。ああ好い心持だ。庭の芝がだいぶ色づいて来た」
 宗近君は再び洋卓まで戻って、始めて腰を卸(おろ)した。今さきがた謎(なぞ)の女が坐っていた椅子の上である。
「何をしているね」
「うん?」と云って鉛筆の進行を留めた甲野さんは
「どうだ。なかなか旨(うま)いだろう」と模様いっぱいになった紙片を、宗近君の方へ、洋卓の上を滑(すべ)らせる。
「何だこりゃ。恐ろしいたくさん書いたね」
「もう一時間以上書いている」
「僕が来なければ晩まで書いているんだろう。くだらない」
 甲野さんは何とも云わなかった。
「これが哲学と何か関係でもあるのかい」
「有っても好い」
「万有世界の哲学的象徴とでも云うんだろう。よく一人の頭でこんなに並べられたもんだね。紺屋(こんや)の上絵師(うわえし)と哲学者と云う論文でも書く気じゃないか」
 甲野さんは今度も何とも云わなかった。
「何だか、どうも相変らずぐずぐずしているね。いつ見ても煮え切らない」
「今日は特別煮え切らない」
「天気のせいじゃないか、ハハハハ」
「天気のせいより、生きてるせいだよ」
「そうさね、煮え切ってぴんぴんしているものは沢山(たんと)ないようだ。御互も、こうやって三十年近くも、しくしくして……」
「いつまでも浮世の鍋(なべ)の中で、煮え切れずにいるのさ」
 甲野さんはここに至って始めて笑った。
「時に甲野さん、今日は報告かたがた少々談判に来たんだがね」
「むつかしい来(き)ようだ」
「近いうち洋行をするよ」
「洋行を」
「うん欧羅巴(ヨウロッパ)へ行くのさ」
「行くのはいいが、親父(おやじ)見たように、煮え切っちゃいけない」
「なんとも云えないが、印度洋(インドよう)さえ越せば大抵大丈夫だろう」
 甲野さんはハハハハと笑った。
「実は最近の好機において外交官の試験に及第したんだから、この通り早速頭を刈ってね、やっぱり、最近の好機において出掛けなくっちゃならない。塵事多忙だ。なかなか丸や三角を並べちゃいられない」
「そりゃおめでたい」と云った甲野さんは洋卓越(テエブルごし)に相手の頭をつらつら観察した。しかし別段批評も加えなかった。質問も起さなかった。宗近君の方でも進んで説明の労を取らなかった。したがって頭はそれぎりになる。
「まずここまでが報告だ、甲野さん」と云う。
「うちの母に逢(あ)ったかい」と甲野さんが聞く。
「まだ逢わない。今日はこっちの玄関から、上ったから、日本間の方はまるで通らない」
 なるほど宗近君は靴のままである。甲野さんは椅子(いす)の背に倚(よ)りかかって、この楽天家の頭と、更紗模様(さらさもよう)の襟飾(えりかざり)と――襟飾は例に因(よ)って襟の途中まで浮き出している。――それから親譲の背広(せびろ)とをじっと眺(なが)めている。
「何を見ているんだ」
「いや」と云ったままやっぱり眺めている。
「御叔母(おば)さんに話して来(こ)ようか」
 今度はいや[#「いや」に傍点]とも何とも云わずに眺めている。宗近君は椅子から腰を浮かしかかる。
「廃(よ)すが好い」
 洋卓の向側(むこうがわ)から一句を明暸(めいりょう)に云い切った。
 徐(おもむろ)に椅子を離れた長髪の人は右の手で額を掻(か)き上げながら、左の手に椅子の肩を抑(おさ)えたまま、亡(な)き父の肖像画の方に顔を向けた。
「母に話すくらいなら、あの肖像に話してくれ」
 親譲りの背広を着た男は、丸い眼を据(す)えて、室(へや)の中に聳(そび)える、漆(うるし)のような髪の主(あるじ)を見守った。次に丸い眼を据えて、壁の上にある故人の肖像を見守った。最後に漆の髪の主と、故人の肖像とを見較(みくら)べた。見較べてしまった時、聳えたる人は瘠(や)せた肩を動かして、宗近君の頭の上から云う。――
「父は死んでいる。しかし活(い)きた母よりもたしかだよ。たしかだよ」
 椅子に倚る人の顔は、この言葉と共に、自(おのず)からまた画像の方に向った。向ったなりしばらくは動かない。活きた眼は上から見下(みおろ)している。
 しばらくして、椅子に倚る人が云う。――
「御叔父(おじ)さんも気の毒な事をしたなあ」
 立つ人は答えた。――
「あの眼は活きている。まだ活きている」
 言い終って、部屋の中を歩き出した。
「庭へ出よう、部屋の中は陰気でいけない」
 席を立った宗近君は、横から来て甲野さんの手を取るや否や、明け放った仏蘭西窓(フランスまど)を抜けて二段の石階を芝生(しばふ)へ下(くだ)る。足が柔かい地に着いた時、
「いったいどうしたんだ」と宗近君が聞いた。
 芝生は南に走る事十間余にして、高樫(たかがし)の生垣に尽くる。幅は半ばに足らぬ。繁(しげ)き植込に遮(さえ)ぎられた奥は、五坪(いつつぼ)ほどの池を隔てて、張出(はりだし)の新座敷には藤尾の机が据えてある。
 二人は緩(ゆる)き歩調に、芝生を突き当った。帰りには二三間迂回(うねっ)て、植込の陰を書斎の方(かた)へ戻って来た。双方共無言である。足並は偶然にも揃(そろ)っている。植込が真中で開いて、二三の敷石に、池の方(かた)へ人を誘う曲り角まで来た時、突然新座敷で、雉子(きじ)の鳴くように、けたたましく笑う声がした。二人の足は申し合せたごとくぴたりと留まる。眼は一時に同じ方角へ走る。
 四尺の空地(くうち)を池の縁(ふち)まで細長く余して、真直(まっすぐ)に水に落つる池の向側(むこうがわ)に、横から伸(の)す浅葱桜(あさぎざくら)の長い枝を軒のあたりに翳(かざ)して小野さんと藤尾がこちらを向いて笑いながら椽鼻(えんばな)に立っている。
 不規則なる春の雑樹(ぞうき)を左右に、桜の枝を上に、温(ぬる)む水に根を抽(ぬきん)でて這(は)い上がる蓮(はす)の浮葉を下に、――二人の活人画は包まれて立つ。仕切る枠(わく)が自然の景物の粋(すい)をあつめて成るがために、――枠の形が趣きを損(そこ)なわぬほどに正しくて、また眼を乱さぬほどに不規則なるがために――飛石に、水に、椽(えん)に、間隔の適度なるがために――高きに失わず、低きに過ぎざる恰好(かっこう)の地位にあるために――最後に、一息の短かきに、吐く幻影(まぼろし)と、忽然(こつぜん)に現われたるために――二人の視線は水の向(むかい)の二人にあつまった。と共に、水の向の二人の視線も、水のこなたの二人に落ちた。見合す四人は、互に互を釘付(くぎづけ)にして立つ。際(きわ)どい瞬間である。はっと思う刹那(せつな)を一番早く飛び超(こ)えたものが勝になる。
 女はちらりと白足袋の片方を後(うしろ)へ引いた。代赭(たいしゃ)に染めた古代模様の鮮(あざや)かに春を寂(さ)びたる帯の間から、するすると蜿蜒(うね)るものを、引き千切(ちぎ)れとばかり鋭どく抜き出した。繊(ほそ)き蛇(だ)の膨(ふく)れたる頭(かしら)を掌(たなごころ)に握って、黄金(こがね)の色を細長く空に振れば、深紅(しんく)の光は発矢(はっし)と尾より迸(ほとば)しる。――次の瞬間には、小野さんの胸を左右に、燦爛(さんらん)たる金鎖が動かぬ稲妻(いなずま)のごとく懸(かか)っていた。
「ホホホホ一番あなたによく似合う事」
 藤尾の癇声(かんごえ)は鈍い水を敲(たた)いて、鋭どく二人の耳に跳(は)ね返って来た。
「藤……」と動き出そうとする宗近君の横腹を突かぬばかりに、甲野さんは前へ押した。宗近君の眼から活人画が消える。追いかぶさるように、後(うしろ)から仯à危─窇遥à─盲评搐考滓挨丹螭晤啢⒂Hしき友の耳のあたりまで着いたとき、
「黙って……」と小声に云いながら、煙(けむ)に巻かれた人を植込の影へ引いて行く。
 肩に手を掛けて押すように石段を上(あが)って、書斎に引き返した甲野さんは、無言のまま、扉に似たる仏蘭西窓(フランスまど)を左右からどたりと立て切った。上下(うえした)の栓釘(ボールト)を式(かた)のごとく鎖(さ)す。次に入口の戸に向う。かねて差し込んである鍵(かぎ)をかちゃりと回すと、錠(じょう)は苦もなく卸(お)りた。
「何をするんだ」
「部屋を立て切った。人が這入(はい)って来ないように」
「なぜ」
「なぜでも好い」
「全体どうしたんだ。大変顔色が悪い」
「なに大丈夫。まあ掛けたまえ」と最前の椅子を机に近く引きずって来る。宗近君は小供のごとく命令に服した。甲野さんは相手を落ちつけた後(のち)、静かに、用い慣(な)れた安楽椅子に腰を卸(おろ)す。体は机に向ったままである。
「宗近さん」と壁を向いて呼んだが、やがて首だけぐるりと回して、正面から、
「藤尾は駄目だよ」と云う。落ちついた調子のうちに、何となく温(ぬる)い暖味(あたたかみ)があった。すべての枝を緑に返す用意のために、寂(さ)びたる中を人知れず通う春の脈は、甲野さんの同情である。
「そうか」
 腕を組んだ宗近君はこれだけ答えた。あとから、
「糸公もそう云った」と沈んでつけた。
「君より、君の妹の方が眼がある。藤尾は駄目だ。飛び上りものだ」
 かちゃりと入口の円鈕(ノッブ)を捩(ねじ)ったものがある。戸は開(あ)かない。今度はとんとんと外から敲(たた)く。宗近君は振り向いた。甲野さんは眼さえ動かさない。
「うちやって置け」と冷やかに云う。
 入口の扉に口を着けたようにホホホホと高く笑ったものがある。足音は日本間の方へ馳(か)けながら遠退(とおの)いて行く。二人は顔を見合わした。
「藤尾だ」と甲野さんが云う。
「そうか」と宗近君がまた答えた。
 あとは静かになる。机の上の置時計がきちきちと鳴る。
「金時計も廃(よ)せ」
「うん。廃そう」
 甲野さんは首を壁に向けたまま、宗近君は腕を拱(こまぬ)いたまま、――時計はきちきちと鳴る。日本間の方で大勢が一度に笑った。
「宗近さん」と欽吾(きんご)はまた首を向け直した。「藤尾に嫌われたよ。黙ってる方がいい」
「うん黙っている」
「藤尾には君のような人格は解らない。浅墓(あさはか)な跳(は)ね返(かえ)りものだ。小野にやってしまえ」
「この通り頭ができた」
 宗近君は節太(ふしぶと)の手を胸から抜いて、刈(か)り立(たて)の頭の天辺(てっぺん)をとんと敲いた。
 甲野さんは眼尻に笑の波を、あるか、なきかに寄せて重々(おもおも)しく首肯(うなず)いた。あとから云う。
「頭ができれば、藤尾なんぞは要(い)らないだろう」
 宗近君は軽くうふん[#「うふん」に傍点]と云ったのみである。
「それでようやく安心した」と甲野さんは、くつろいだ片足を上げて、残る膝頭(ひざがしら)の上へ載(の)せる。宗近君は巻煙草を燻(くゆ)らし始めた。吹く煙のなかから、
「これからだ」と独語(ひとりごと)のように云う。
「これからだ。僕もこれからだ」と甲野さんも独語のように答えた。
「君もこれからか。どうこれからなんだ」と宗近君は煙草の煙(けむ)を押し開いて、元気づいた顔を近寄(ちかよせ)た。
「本来の無一物から出直すんだからこれからさ」
 指の股に敷島(しきしま)を挟んだまま、持って行く口のある事さえ忘れて、呆気(あっけ)に取られた宗近君は、
「本来の無一物から出直すとは」と自(みずか)ら自らの頭脳を疑うごとく問い返した。甲野さんは尋常の調子で、落ちつき払った答をする。――
「僕はこの家(うち)も、財産も、みんな藤尾にやってしまった」
「やってしまった? いつ」
「もう少しさっき。その紋尽しを書いている時だ」
「そりゃ……」
「ちょうどその丸に三(み)つ鱗(うろこ)を描(か)いてる時だ。――その模様が一番よく出来ている」
「やってしまうってそう容易(たやす)く……」
「何要(い)るものか。あればあるほど累(わずらい)だ」
「御叔母(おば)さんは承知したのかい」
「承知しない」
「承知しないものを……それじゃ御叔母さんが困るだろう」
「やらない方が困るんだ」
「だって御叔母さんは始終(しじゅう)君がむやみな事をしやしまいかと思って心配しているんじゃないか」
「僕の母は偽物(にせもの)だよ。君らがみんな欺(あざむ)かれているんだ。母じゃない謎(なぞ)だ。澆季(ぎょうき)の文明の特産物だ」
「そりゃ、あんまり……」
「君は本当の母でないから僕が僻(ひが)んでいると思っているんだろう。それならそれで好いさ」
「しかし……」
「君は僕を信用しないか」
「無論信用するさ」
「僕の方が母より高いよ。賢いよ。理由(わけ)が分っているよ。そうして僕の方が母より善人だよ」
 宗近君は黙っている。甲野さんは続けた。――
「母の家を出てくれるなと云うのは、出てくれと云う意味なんだ。財産を取れと云うのは寄こせと云う意味なんだ。世話をして貰いたいと云うのは、世話になるのが厭(いや)だと云う意味なんだ。――だから僕は表向母の意志に忤(さから)って、内実は母の希望通にしてやるのさ。――見たまえ、僕が家(うち)を出たあとは、母が僕がわるくって出たように云うから、世間もそう信じるから――僕はそれだけの犠牲をあえてして、母や妹のために計ってやるんだ」
 宗近君は突然椅子(いす)を立って、机の角(かど)まで来ると片肘(かたひじ)を上に突いて、甲野さんの顔を掩(お)いかぶすように覗(のぞ)き込(こ)みながら、
「貴様、気が狂ったか」と云った。
「気違は頭から承知の上だ。――今まででも蔭じゃ、馬鹿の気違のと呼びつづけに呼ばれていたんだ」
 この時宗近君の大きな丸い眼から涙がぽたぽたと机の上のレオパルジに落ちた。
「なぜ黙っていたんだ。向(むこう)を出してしまえば好いのに……」
「向を出したって、向の性格は堕落するばかりだ」
「向を出さないまでも、こっちが出るには当るまい」
「こっちが出なければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」
「なぜ財産をみんなやったのか」
「要(い)らないもの」
「ちょっと僕に相談してくれれば好かったのに」
「要らないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ」
 宗近君はふうん[#「ふうん」に傍点]と云った。
「僕に要らない金のために、義理のある母や妹を堕落させたところが手柄にもならない」
「じゃいよいよ家を出る気だね」
「出る。おれば両方が堕落する」
「出てどこへ行く」
「どこだか分らない」
 宗近君は机の上にあるレオパルジを無意味に取って、背皮(せがわ)を竪(たて)に、勾配(こうばい)のついた欅(けやき)の角でとんとんと軽く敲(たた)きながら、少し沈吟(ちんぎん)の体(てい)であったが、やがて、
「僕のうちへ来ないか」と云う。
「君のうちへ行ったって仕方がない」
「厭(いや)かい」
「厭じゃないが、仕方がない」
 宗近君はじっと甲野さんを見た。
「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や阿父(おやじ)のためはとにかく、糸公のために来てやってくれ」
「糸公のために?」
「糸公は君の知己だよ。御叔母(おば)さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損(みそこ)なっても、日本中がことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値(ねうち)を解している。君の胸の中を知り抜いている。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊(たっと)い女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣(きづかい)のない女だ。――甲野さん、糸公を貰ってやってくれ。家(うち)を出ても好い。山の中へ這入(はい)っても好い。どこへ行ってどう流浪(るろう)しても構わない。何でも好いから糸公を連れて行ってやってくれ。――僕は責任をもって糸公に受合って来たんだ。君が云う事を聞いてくれないと妹に合す顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。糸公は尊(たっと)い女だ、栅韦ⅳ肱馈U堡坤琛⒕韦郡幛胜楹韦扦猡工毪琛ⅳ工韦悉猡盲郡い胜ぁ筡
 宗近君は骨張った甲野さんの肩を椅子の上で振り動かした。
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 楼主| 发表于 2005-7-7 17:02:51 | 显示全部楼层
       十八

 小夜子(さよこ)は婆さんから菓子の袋を受取った。底を立てて出雲焼(いずもやき)の皿に移すと、真中にある青い鳳凰(ほうおう)の模様が和製のビスケットで隠れた。黄色な縁(ふち)はだいぶ残っている。揃(そろ)えて渡す二本の竹箸(たけばし)を、落さぬように茶の間から座敷へ持って出た。座敷には浅井君が先生を相手に、京都以来の旧歓を暖めている。時は朝である。日影はじりじりと椽(えん)に逼(せま)ってくる。
「御嬢さんは、東京を御存じでしたな」と問いかけた。
 菓子皿を主客の間に置いて、やさしい肩を後(うしろ)へ引くついでに、
「ええ」と小声に答えて、立ち兼ねた。
「これは東京で育ったのだよ」と先生が足らぬところを補ってくれる。
「そうでしたな。――大変大きくなりましたな」と突然別問題に飛び移った。
 小夜子は淋しい笑顔を俯向(うつむ)けて、今度は答さえも控えた。浅井君は遠慮のない顔をして小夜子を眺(なが)めている。これからこの女の結婚問題を壊すんだなと思いながら平気に眺めている。浅井君の結婚問題に関する意見は大道易者のごとく容易である。女の未来や生涯(しょうがい)の幸福についてはあまり同情を表(ひょう)しておらん。ただ頼まれたから頼まれたなりに事を撙伽泻盲い猡韦刃牡盲皮い搿¥饯Δ筏皮饯欷猡盲趣夥ㄑ康膜恰⒎ㄑ康膜悉猡盲趣鈱g際的で、実際的は最上の方法だと心得ている。浅井君はもっとも想像力の少ない男で、しかも想像力の少ないのをかつて不足だと思った事のない男である。想像力は理知の活動とは全然別作用で、理知の活動はかえって想像力のために常に阻害(そがい)せらるるものと信じている。想像力を待って、始めて、全(まっ)たき人性に戻(もと)らざる好処置が、知慧(ちえ)分別の純作用以外に活(い)きてくる場合があろうなどとは法科の教室で、どの先生からも聞いた事がない。したがって浅井君はいっこう知らない。ただ断われば済むと思っている。淋しい小夜子の呙⒎蜃樱à栅Δ罚─我谎裕àい沥搐螅─扦嗓浠工毪坤恧Δ趣锨尘螇簸摔坤饪激ǖ盲钉雴栴}である。
 浅井君が無意味に小夜子を眺めているうちに、孤堂(こどう)先生は変な咳を二つ三つ塞(せ)いた。小夜子は心元なく父の方(かた)を向く。
「御薬はもう上がったんですか」
「朝の分はもう飲んだよ」
「御寒い事はござんせんか」
「寒くはないが、少し……」
 先生は右の手頸(てくび)へ左の指を三本懸(か)けた。小夜子は浅井のいる事も忘れて、脈をはかる先生の顔ばかり見詰めている。先生の顔は髯(ひげ)と共に日ごとに細長く瘠(や)せこけて来る。
「どうですか」と気遣(きづか)わし気(げ)に聞く。
「少し、早いようだ。やっぱり熱が除(と)れない」と額に少し皺(しわ)が寄った。先生が熱度を計って、じれったそうに不愉快な顔をするたびに小夜子は悲しくなる。夕立を野中に避けて、頼(たより)と思う一本杉をありがたしと梢(こずえ)を見れば稲妻(いなずま)がさす。怖(こわ)いと云うよりも、年を取った人に気の毒である。行き届かぬ世話から出る疳癪(かんしゃく)なら、機嫌(きげん)の取りようもある。気で勝てぬ病気のためなら孝行の尽しようがない。かりそめの風邪(かぜ)と、当人も思い、自分も苦(く)にしなかった昨日今日(きのうきょう)の咳(せき)を、蔭へ廻って聞いて見ると、医者は性質(たち)が善くないと云う。二三日で熱が退(ひ)かないと云って焦慮(じれ)るような軽い病症ではあるまい。知らせれば心配する。云わねば気で通す。その上疳(かん)を起す。この調子で進んで行くと、一年の後(のち)には神経が赤裸(あかはだか)になって、空気に触れても飛び上がるかも知れない。――昨夜(ゆうべ)小夜子は眼を合せなかった。
「羽織でも召していらしったら好いでしょう」
 孤堂先生は返事をせずに、
「験温器があるかい。一つ計ってみよう」と云う。小夜子は茶の間へ立つ。
「どうかなすったんですか」と浅井君が無雑作(むぞうさ)に尋ねた。
「いえ、ちっと風邪(かぜ)を引いてね」
「はあ、そうですか。――もう若葉がだいぶ出ましたな」と云った。先生の病気に対してはまるで同情も頓着(とんじゃく)もなかった。病気の源因と、経過と、容体を精(くわ)しく聞いて貰おうと思っていた先生は当(あて)が外(はず)れた。
「おい、無いかね。どうした」と次の間を向いて、常よりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。
「はい、ただ今」と小(ち)さい声が答えた。が験温器を持って出る様子がない。先生は浅井君の方を向いて
「はあ、そうかい」と気のない返事をした。
 浅井君はつまらなくなる。早く用を片づけて帰ろうと思う。
「先生小野はいっこう駄目ですな、ハイカラにばかりなって。御嬢さんと結婚する気はないですよ」とぱたぱたと順序なく並べた。
 孤堂先生の窪(くぼ)んだ眼(まなこ)は一度に鋭どくなった。やがて鋭どいものが一面に広がって顔中苦々(にがにが)しくなる。
「廃(よ)した方が好(え)えですな」
 置き失(な)くした験温器を捜(さ)がしていた、次の間の小夜子は、長火悚味郡纬槌觯à窑坤罚─蚨绀郅蓲iいたまま、はたりと引く手を留めた。
 先生の苦々(にがにが)しい顔は一層こまやかになる。想像力のない浅井君はとんと結果を予想し得ない。
「小野は近頃非常なハイカラになりました。あんな所へ行くのは御嬢さんの損です」
 苦々しい顔はとうとう持ち切れなくなった。
「君は小野の悪口を云いに来たのかね」
「ハハハハ先生本当ですよ」
 浅井君は妙なところで高笑をいた。
「余計な御世話だ。軽薄な」と鋭どく跳(は)ねつけた。先生の声はようやく尋常を離れる。浅井君は始めて驚ろいた。しばらく黙っている。
「おい験温器はまだか。何をぐずぐずしている」
 次の間の返事は聞えなかった。ことりとも云わぬうちに、片寄せた障子(しょうじ)に影がさす。腰板の外(はずれ)から細い白木の筒(つつ)がそっと出る。畳の上で受取った先生はぽんと云わして筒を抜いた。取り出した験温器を日に翳(かざ)して二三度やけに振りながら、
「何だって、そんな余計な事を云うんだ」と度盛(どもり)を透(すか)して見る。先生の精神は半ば験温器にある。浅井君はこの間に元気を回復した。
「実は頼まれたんです」
「頼まれた? 誰に」
「小野に頼まれたんです」
「小野に頼まれた?」
 先生は腋(わき)の下へ験温器を持って行く事を忘れた。茫然(ぼうぜん)としている。
「ああ云う男だものだから、自分で先生の所へ来て断わり切れないんです。それで僕に頼んだです」
「ふうん。もっと精(くわ)しく話すがいい」
「二三日中(じゅう)に是非こちらへ御返事をしなければならないからと云いますから、僕が代理にやって来たんです」
「だから、どう云う理由で断わるんだか、それを精しく話したら好いじゃないか」
 遥à栅工蓿─问aで小夜子が洟(はな)をかんだ。つつましき音ではあるが、一重(ひとえ)隔ててすぐ向(むこう)にいる人のそれと受け取れる。鴨居(かもい)に近く聞えたのは、以剑à栅工蓼搐罚─肆ⅳ盲皮い毪椁筏ぁG尘味摔悉嗓螭矢肖袱蛴毪à郡椁獭
「理由はですな。博士にならなければならないから、どうも結婚なんぞしておられないと云うんです」
「じゃ博士の称号の方が、小夜より大事だと云うんだね」
「そう云う訳でもないでしょうが、博士になって置かんと将来非常な不利益ですからな」
「よし分った。理由はそれぎりかい」
「それに確然たる契約のない事だからと云うんです」
「契約とは法律上有効の契約という意味だな。証文のやりとりの事だね」
「証文でもないですが――その代り長い間御世話になったから、その御礼としては物質的の補助をしたいと云うんです」
「月々金でもくれると云うのかい」
「そうです」
「おい小夜や、ちょっと御出(おいで)。小夜や――小夜や」と声はしだいに高くなる。返事はついにない。
 小夜子は遥à栅工蓿─问aに蹲踞(うずくま)ったまま、動かずにいる。先生は仕方なしに浅井君の方へ向き直った。
「君は妻君があるかい」
「ないです。貰いたいが、自分の口が大事ですからな」
「妻君がなければ参考のために聞いて置くがいい。――人の娘は玩具(おもちゃ)じゃないぜ。博士の称号と小夜と引き替にされてたまるものか。考えて見るがいい。いかな貧乏人の娘でも活物(いきもの)だよ。私(わし)から云えば大事な娘だ。人一人殺しても博士になる気かと小野に聞いてくれ。それから、そう云ってくれ。井上孤堂は法律上の契約よりも徳義上の契約を重んずる人間だって。――月々金を貢(みつ)いでやる? 貢いでくれと誰が頼んだ。小野の世話をしたのは、泣きついて来て可愛想(かわいそう)だから、好意ずくでした事だ。何だ物質的の補助をするなんて、失礼千万な。――小夜や、用があるからちょっと出て御出、おいいないのか」
 小夜子は窑问aで啜(すす)り泣(なき)をしている。先生はしきりに咳(せ)く。浅井君は面喰(めんくら)った。
 こう怒られようとは思わなかった。またこう怒られる訳がない。自分の云う事は事理明白である。世間に立って成功するには誰の目にも博士号は大切である。瞹眛(あいまい)な約束をやめてくれと云うのもさほど不義理とは受取れない。世話をして貰いっ放しでは不都合かも知れないが、して貰っただけの事を物質的に返すと云い出せば、喜んでこっちの義務心を満足させべきはずである。それを突然怒り出す。――そこで浅井君は面喰った。
「先生そう怒っちゃ困ります。悪ければまた小野に逢(あ)って話して見ますから」と云った。これは本気の沙汰(さた)である。
 しばらく黙っていた先生は、やや落ちついた調子で、
「君は結婚を極(きわ)めて容易(たやすい)事のように考えているが、そんなものじゃない」と口惜(くちおし)そうに云う。
 先生の云う主意は分らんが、先生の様子にはさすがの浅井君も少し心を動かした。しかし結婚は便宜(べんぎ)によって約束を取り結び、便宜によって約束を破棄するだけで差支(さしつかえ)ないと信じている浅井君は、別に返事もしなかった。
「君は女の心を知らないから、そんな使に来たんだろう」
 浅井君はやっぱり黙っている。
「人情を知らないから平気でそんな事を云うんだろう。小野の方が破談になれば小夜は明日(あした)からどこへでも行けるだろうと思って、云うんだろう。五年以来夫(おっと)だと思い込んでいた人から、特別の理由もないのに、急に断わられて、平気ですぐ他家(わき)へ嫁に行くような女があるものか。あるかも知れないが小夜はそんな軽薄な女じゃない。そんな軽薄に育て上げたつもりじゃない。――君はそう軽卒に破談の取次をして、小夜の生涯(しょうがい)を誤まらして、それで好い心持なのか」
 先生の窪(くぼ)んだ眼が煮染(にじ)んで来た。しきりに咳が出る。浅井君はなるほどそれが事実ならと感心した。ようやく気の毒になってくる。
「じゃ、まあ御待ちなさい、先生。もう一遍小野に話して見ますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんな精(くわ)しい事情は知らんのですから」
「いや、話してくれないでも好い。厭(いや)だと云うものに無理に貰ってもらいたくはない。しかし本人が来て自家(じか)に訳を話すが好い」
「しかし御嬢さんが、そう云う御考だと……」
「小夜の考(かんがえ)ぐらい小野には分っているはずださ」と先生は平手(ひらて)で頬を打つように、ぴしゃりと云った。
「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」
「小野にそう云ってくれ。井上孤堂はいくら娘が可愛くっても、厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」
 遥à栅工蓿─蜗騻龋à啶长Δ铮─恰⑿洌à饯牵─椁筏い猡韦萍垼à椁撸─务眨à工剑─摔ⅳ郡胍簸筏俊
「そう返事をして差支(さしつかえ)ないだろうね」
 答はさらになかった。ややあって、わっと云う顔を袖の中に埋(うず)めた声がした。
「先生もう一遍小野に話しましょう」
「話さないでも好い。自家に来て断われと云ってくれ」
「とにかく……そう小野に云いましょう」
 浅井君はついに立った。玄関まで送って来た先生に頭を下げた時、先生は
「娘なんぞ持つもんじゃないな」と云った。表へ出た浅井君はほっと息をつく。今までこんな感じを経験した事はない。横町を出て蕎麦屋(そばや)の行灯(あんどう)を右に通へ出て、電車のある所まで来ると突然飛び仱盲俊
 突然電車に仱盲壳尘霞s一時間余(よ)の後(のち)、ぶらりと宗近(むねちか)家の門からあらわれた。つづいて車が二挺出る。一挺は小野の下宿へ向う。一挺は孤堂先生の家に去る。五十分ほど後(おく)れて、玄関の松の根際に梶棒(かじぼう)を上げた一挺は、せ希à郅恚─蛐叮à恚─筏郡蓼蕖⒓滓埃à长Δ危─挝莘螭蛑袱筏岂Y(か)ける。小説はこの三挺の使命を順次に述べなければならぬ。
 宗近君の車が、小野さんの下宿の前で、車輪(は)の音(おと)を留めた時、小野さんはちょうど午飯(ひるめし)を済ましたばかりである。膳(ぜん)が出ている。飯櫃(めしびつ)も引かれずにある。主人公は机の前へ座を移して、口から吹く濃き煙を眺めながら考えている。今日は藤尾(ふじお)と大森へ行く約束がある。約束だから行かなければならぬ。しかし是非行かねばならぬとなると、何となく気が咎(とが)める。不安である。約束さえしなければ、もう少しは太平であったろう。飯ももう一杯ぐらいは食えたかも知れぬ。賽(さい)は固(もと)より自分で投げた。一六(いちろく)の目は明かに出た。ルビコンは渡らねばならぬ。しかし事もなげに河を横切った該撒(シーザー)は英雄である。通例の人はいざと云う間際(まぎわ)になってからまた思い返す。小野さんは思い返すたびに、必ず廃(よ)せばよかったと後悔する。仱陹欷堡看似悚蛉毪欷繒r、船頭が出ますよと棹(さお)を取り直すと、待ってくれと云いたくなる。誰か陸(おか)から来て引っ張ってくれれば好いと思う。仱陹欷堡郡肖辘胜椁蓼狸懁貞霗C会があるからである。約束も履行(りこう)せんうちは岸を離れぬ舟と同じく、まだ絶体絶命と云う場合ではない。メレジスの小説にこんな話がある。――ある男とある女が諜(しめ)し合せて、停車場(ステーション)で落ち合う手筈(てはず)をする。手筈が順に行って、汽笛(きてき)がひゅうと鳴れば二人の名誉はそれぎりになる。二人の呙い钉仍皮﹂g際まで逼(せま)った時女はついに停車場へ来なかった。男は待ち耄(ぼけ)の顔を箱馬車の中に入れて、空しく家(うち)へ帰って来た。あとで聞くと朋友(ほうゆう)の誰彼が、女を抑留して、わざと約束の期を誤まらしたのだと云う。――藤尾と約束をした小野さんは、こんな風に約束を破る事が出来たら、かえって仕合(しあわせ)かも知れぬと思いつつ煙草の煙を眺めている。それに浅井の返事がまだ来ない。諾(だく)と云えばどっちへ転んでも幸(さいわい)である。否(ひ)と聞くならば、退(の)っ引(ぴ)きならぬ瀬戸際(せとぎわ)まであらかじめ押して置いて、振り返ってから、臨機応変に難関を切り抜けて行くつもりの計画だから、一刻も早く大森へ行ってしまえば済む。否(ひ)と云う返事を待つ必要は無論ない。ないが、決行する間際になると気掛りになる。頭で拵(こしら)え上げた計画を人情が崩(くず)しにかかる。想像力が実行させぬように引き戻す。小野さんは詩人だけにもっとも想像力に富んでいる。
 想像力に富んでおればこそ、自分で断わりに行く気になれなかった。先生の顔と小夜子の顔と、部屋の模様と、暮しの有様とを眼(ま)のあたりに見て、眼のあたりに見たものを未来に延長(ひきのば)して想像の鏡に思い浮べて眺(なが)めると二(ふ)た通(とおり)になる。自分がこの鏡のなかに織り込まれているときは、春である、豊である、ことごとく幸福である。鏡の面(おもて)から自分の影を拭き消すと闇(やみ)になる、暮になる。すべてが悲惨(みじめ)になる。この一団の精神から、自分の魂だけを切り離す談判をするのは、小(ち)さき竈(かまど)に立つべき煙を予想しながら薪(たきぎ)を奪うと一般である。忍びない。人は眼を閉(つぶ)って苦(にが)い物を呑(の)む。こんな絡(から)んだ縁をふつりと切るのに想像の眼を開(あ)いていては出来ぬ。そこで小野さんは眼の閉(つぶ)れた浅井君を頼んだ。頼んだ後(あと)は、想像を殺してしまえば済む。と覚束(おぼつか)ないが決心だけはした。しかし犬一匹でも殺すのは容易な事ではない。持って生れた心の作用を、不都合なところだけ瘔Tって、消し切りに消すのは、古来から幾千万人の試みた窮策で、幾千万人が等しく失敗した陋策(ろうさく)である。人間の心は原稿紙とは違う。小野さんがこの決心をしたその晩から想像力は復活した。――
 瘠(や)せた頬を描(えが)く。落ち込んだ眼を描く。縺(もつ)れた髪を描く。虫のような気息(いき)を描く。――そうして想像は一転する。
 血を描く。物凄(ものすご)き夜と風と雨とを描く。寒き灯火(ともしび)を描く。白張(しらはり)の提灯(ちょうちん)を描く。――ぞっとして想像はとまる。
 想像のとまった時、急に約束を思い出す。約束の履行から出る快(こころよ)からぬ結果を思い出す。結果はまたも想像の力で曲々(きょくきょく)の波瀾を起す。――良心を質に取られる。生涯受け出す事が出来ぬ。利に利がつもる。背中が重くなる、痛くなる、そうして腰が曲る。寝覚(ねざめ)がわるい。社会が後指(うしろゆび)を指(さ)す。
 惘然(もうぜん)として煙草の煙を眺めている。恩賜の時計は一秒ごとに約束の履行を促(うな)がす。橇(そり)の上に力なき身を託したようなものである。手を拱(こま)ぬいていれば自然と約束の淵(ふち)へ滑(すべ)り込む。「時」の橇(そり)ほど正確に滑るものはない。
「やっぱり行く事にするか。後暗(うしろぐら)い行(おこない)さえなければ行っても差支(さしつかえ)ないはずだ。それさえ慎めば取り返しはつく。小夜子の方は浅井の返事しだいで、どうにかしよう」
 煙草の煙が、未来の影を朦朧(もうろう)と罩(こ)め尽すまで濃く揺曳(たなびい)た時、宗近君の頑丈(がんじょう)な姿が、すべての想像を払って、現実界にあらわれた。
 いつの間(ま)にどう下女が案内をしたか知らなかった。宗近君はぬっと這入(はい)った。
「だいぶ狼籍(ろうぜき)だね」と云いながら紅溜(べにだめ)の膳を廊下へ出す。鼔Tの飯櫃(めしびつ)を出す。土瓶(どびん)まで撙映訾筏浦盲い啤
「どうだい」と部屋の真中に腰を卸(おろ)した。
「どうも失敬です」と主人は恐縮の体(てい)で向き直る。折よく下女が来て湯沸(ゆわかし)と共に膳椀を引いて行く。
 心を二六時に委(ゆだ)ねて、隻手(せきしゅ)を動かす事をあえてせざるものは、自(おのず)から約束を践(ふ)まねばならぬ呙蛴校à猓─摹0菠椁绦丐蛎毪搐趣酥丐亭啤ⅳ袱辘袱辘炔溃à长铮─に匦肖M蝗护群岷悉轱wび出した宗近君は、滑るべく余儀なくせられたる人を、半途(はんと)に遮(さえぎ)った。遮ぎられた人は邪魔に逢(あ)うと同時に、一刻の安きを故(もと)の位地に貪(むさぼ)る事が出来る。
 約束は履行すべきものときまっている。しかし履行すべき条件を奪ったものは自分ではない。自分から進んで違約したのと、邪魔が降って来て、守る事が出来なかったのとは心持が違う。約束が剣呑(けんのん)になって来た時、自分に責任がないように、人が履行を妨(さまた)げてくれるのは嬉しい。なぜ行かないと良心に責められたなら、行くつもりの義務心はあったが、宗近君に邪魔をされたから仕方がないと答える。
 小野さんはむしろ好意をもって宗近君を迎えた。しかしこの一点の好意は、不幸にして面白からぬ感情のために四方から深く鎖(とざ)されている。
 宗近君と藤尾とは遠い縁続である。自分が藤尾を陥(おとし)いれるにしても、藤尾が自分を陥いれるにしても、二人の間に取り返しのつかぬ関係が出来そうな際どい約束を、素知らぬ顔で結んだのみか、今実行にとりかかろうと云う矢先に、突然飛び込まれたのは、迷惑はさて置いて、大いに気が咎(とが)める。無関係のものならそれでも好い。突然飛び込んだものは、人もあろうに、相手の親類である。
 ただの親類ならまだしもである。兼(かね)てから藤尾に心のある宗近君である。外国で死んだ人が、これこそ娘の婿ととうから許していた宗近君である。昨日(きのう)まで二人の関係を知らずに、昔の望をそのままに繋(つな)いでいた宗近君である。偸(ぬす)まれた金の行先も知らずに、空金庫(からきんこ)を護(まも)っていた宗近君である。
 秘密の雲は、春を射る金鎖の稲妻で、半(なかば)劈(つんざか)れた。眠っていた眼を醒(さま)しかけた金鎖のあとへ、浅井君が行って井上の事でも喋舌(しゃべ)ったら――困る。気の毒とはただ先方へ対して云う言葉である。気が咎(とが)めるとは、その上にこちらから済まぬ事をした場合に用いる。困るとなると、もう一層上手(うわて)に出て、利害が直接に吾身(わがみ)の上に跳(は)ね返って来る時に使う。小野さんは宗近君の顔を見て大いに困った。
 宗近君の来訪に対して歓迎の意を表する一点好意の核は、気の毒の輪[#「気の毒の輪」に傍点]で尻こそばゆく取り巻かれている。その上には気が咎める輪[#「気が咎める輪」に傍点]が気味わるそうに重なっている。一番外には困る輪[#「困る輪」に傍点]が蛄鳏筏郡瑜Δ穗H限なく未来に連(つら)なっている。そうして宗近君はこの未来を司(つかさ)どる主人公のように見えた。
「昨日(きのう)は失敬した」と宗近君が云う。小野さんは赤くなって下を向いた。あとから金時計が出るだろうと、心元なく煙草へ火を移す。宗近君はそんな気色(けしき)も見えぬ。
「小野さん、さっき浅井が来てね。その事でわざわざやって来た」とすぱりと云う。
 小野さんの神経は一度にびりりと動いた。すこし、してから煙草の煙が陰気にむうっと鼻から出る。
「小野さん、敵(かたき)が来たと思っちゃいけない」
「いえけっして……」と云った時に小野さんはまたぎくりとした。
「僕は当(あて)っ擦(こす)りなどを云って、人の弱点に仱氦毪瑜Δ嗜碎gじゃない。この通り頭ができた。そんな暇は薬にしたくってもない。あっても僕のうちの家風に背(そむ)く……」
 宗近君の意味は通じた。ただ頭のできた由来が分らなかった。しかし問い返すほどの勇気がないから黙っている。
「そんな卑(いや)しい人間と思われちゃ、急がしいところをわざわざ来た甲斐(かい)がない。君だって教育のある事理(わけ)の分った男だ。僕をそう云う男と見て取ったが最後、僕の云う事は君に対して全然無効になる訳だ」
 小野さんはまだ黙っている。
「僕はいくら閑人(ひまじん)だって、君に軽蔑(けいべつ)されようと思って車を飛ばして来やしない。――とにかく浅井の云う通なんだろうね」
「浅井がどう云いましたか」
「小野さん、真面目(まじめ)だよ。いいかね。人間は年(ねん)に一度ぐらい真面目にならなくっちゃならない場合がある。上皮(うわかわ)ばかりで生きていちゃ、相手にする張合(はりあい)がない。また相手にされてもつまるまい。僕は君を相手にするつもりで来たんだよ。好いかね、分ったかい」
「ええ、分りました」と小野さんはおとなしく答えた。
「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていないようだが」
「そうかも――知れないです」と小野さんは術(じゅつ)なげながら、正直に白状した。
「そう君が平たく云うと、はなはだ御気の毒だが、全く事実だろう」
「ええ」
「他人(ひと)が不安であろうと、泰然としていなかろうと、上皮(うわかわ)ばかりで生きている軽薄な社会では構った事じゃない。他人(ひと)どころか自分自身が不安でいながら得意がっている連中もたくさんある。僕もその一人(いちにん)かも知れない。知れないどころじゃない、たしかにその一人だろう」
 小野さんはこの時始めて積極的に相手を遮(さえ)ぎった。
「あなたは羨(うらやま)しいです。実はあなたのようになれたら結構だと思って、始終考えてるくらいです。そんなところへ行くと僕はつまらない人間に違ないです」
 愛嬌(あいきょう)に調子を合せるとは思えない。上皮の文明は破れた。中から本音(ほんね)が出る。悄然(しょうぜん)として栅驇·婴可扦ⅳ搿
「小野さん、そこに気がついているのかね」
 宗近君の言葉には何だか暖味(あたたかみ)があった。
「いるです」と答えた。しばらくしてまた、
「いるです」と答えた。下を向く。宗近君は顔を前へ出した。相手は下を向いたまま、
「僕の性質は弱いです」と云った。
「どうして」
「生れつきだから仕方がないです」
 これも下を向いたまま云う。
 宗近君はなおと顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上に肱(ひじ)を仱护搿k扭乔挨爻訾筏款啢蛑Гà搿¥饯Δ筏圃皮Α
「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」
「救いに……」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先にいた。顔を押しつけるようにして云う。――
「こう云う危(あや)うい時に、生れつきを敲(たた)き直して置かないと、生涯(しょうがい)不安でしまうよ。いくら勉強しても、いくら学者になっても取り返しはつかない。ここだよ、小野さん、真面目(まじめ)になるのは。世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んでしまう人間がいくらもある。皮(かわ)だけで生きている人間は、土(つち)だけで出来ている人形とそう違わない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのはもったいない。真面目になった後(あと)は心持がいいものだよ。君にそう云う経験があるかい」
 小野さんは首を垂れた。
「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目(まじめ)の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺(ほら)じゃない。自分で経験して見ないうちは分らない。僕はこの通り学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている。それでも君より平気だ。うちの妹なんぞは神経が鈍いからだと思っている。なるほど神経も鈍いだろう。――しかしそう無神経なら今日でも、こうやって車で馳(か)けつけやしない。そうじゃないか、小野さん」
 宗近君はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。
「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据(すわ)る事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存(げんそん)していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者(こうしゃ)に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾(いかん)なく世の中へ敲(たた)きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。実を云うと僕の妹も昨日(きのう)真面目になった。甲野も昨日真面目になった。僕は昨日も、今日も真面目だ。君もこの際一度真面目になれ。人一人(ひとり)真面目になると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる。――どうだね、小野さん、僕の云う事は分らないかね」
「いえ、分ったです」
「真面目だよ」
「真面目に分ったです」
「そんなら好い」
「ありがたいです」
「そこでと、――あの浅井と云う男は、まるで人間として通用しない男だから、あれの云う事を一々真(ま)に受けちゃ大変だが――本来を云うと浅井が来てこれこれだと、あれが僕に話した通(とおり)を君の前で箇条がきにしてでも述べるところだね。そうして、君の云うところと照し合せた上で事実を判断するのが順当かも知れない。いくら頭の悪い僕でもそのくらいな事は知ってる。しかし真面目になると、ならないとは大問題だ。契約があったの、滑(すべ)ったの転(ころ)んだの。嫁があっちゃあ博士になれないの、博士にならなくっちゃ外聞が悪いのって、まるで小供見たような事は、どっちがどっちだって構わないだろう、なあ君」
「ええ構わないです」
「要するに真面目な処置は、どうつければ好いのかね。そこが君のやるところだ。邪魔でなければ相談になろう。奔走しても好い」
 悄然(しょうぜん)として項垂(うなだ)れていた小野さんは、この時居ずまいを正(ただ)した。顔を上げて宗近君を真向(まむき)に見る。眸(ひとみ)は例になく確乎(しっか)と坐っていた。
「真面目な処置は、出来るだけ早く、小夜子と結婚するのです。小夜子を捨てては済まんです。孤堂先生にも済まんです。僕が悪かったです。断わったのは全く僕が悪かったです。君に対しても済まんです」
「僕に済まん? まあそりゃ好い、後(あと)で分る事だから」
「全く済まんです。――断わらなければ好かったです。断わらなければ――浅井はもう断わってしまったんでしょうね」
「そりゃ君が頼んだ通り断わったそうだ。しかし井上さんは君自身に来て断われと云うそうだ」
「じゃ、行きます。これから、すぐ行って謝罪(あやま)って来ます」
「だがね、今僕の阿父(おやじ)を井上さんの所へやっておいたから」
「阿父(おとっ)さんを?」
「うん、浅井の話によると、何でも大変怒ってるそうだ。それから御嬢さんはひどく泣いてると云うからね。僕が君のうちへ来て相談をしているうちに、何か事でも起ると困るから慰問(なぐさめ)かたがたつなぎにやっておいた」
「どうもいろいろ御親切に」と小野さんは畳に近く頭を下げた。
「なに老人はどうせ遊んでいるんだから、御役にさえ立てば喜んで何でもしてくれる。それで、こうしておいたんだがね、――もし談判が調(ととの)えば、車で御嬢さんを呼びにやるからこっちへ寄こしてくれって。――来たら、僕のいる前で、御嬢さんに未来の細君だと君の口から明言してやれ」
「やります。こっちから行っても好いです」
「いや、ここへ呼ぶのはまだほかにも用があるからだ。それが済んだら三人で甲野へ行くんだよ。そうして藤尾さんの前で、もう一遍君が明言するんだ」
 小野さんは少しく※(ひる)んで見えた。宗近君はすぐつける。
「何、僕が君の妻君を藤尾さんに紹介してもいい」
「そう云う必要があるでしょうか」
「君は真面目になるんだろう。――僕の前で奇麗(きれい)に藤尾さんとの関係を絶って見せるがいい。その証拠に小夜子さんを連れて行くのさ」
「連れて行っても好いですが、あんまり面当(つらあて)になるから――なるべくなら穏便(おんびん)にした方が……」
「面当は僕も嫌(きらい)だが、藤尾さんを助けるためだから仕方がない。あんな性格は尋常の手段じゃ直せっこない」
「しかし……」
「君が面目ないと云うのかね。こう云う羽目(はめ)になって、面目ないの、きまりが悪いのと云ってぐずぐずしているようじゃやっぱり上皮(うわかわ)の活動だ。君は今真面目になると云ったばかりじゃないか。真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君と云う一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。……」
「じゃやりましょう。どんな大勢の中でも構わない、やりましょう」
「宜(よ)ろしい」
「ところで、みんな打ち明けてしまいますが。――実は今日大森へ行く約束があるんです」
「大森へ。誰と」
「その――今の人とです」
「藤尾さんとかね。何時(なんじ)に」
「三時に停車場(ステーション)で出合うはずになっているんですが」
「三時と――今何時か知らん」
 ぱちりと宗近君の胴衣(チョッキ)の中ほどで音がした。
「もう二時だ。君はどうせ行くまい」
「廃(よ)すです」
「藤尾さん一人で大森へ行く事は大丈夫ないね。うちやっておいたら帰ってくるだろう。三時過になれば」
「一分でも後(おく)れたら、待ち合す気遣(きづかい)ありません。すぐ帰るでしょう」
「ちょうど好い。――何だか、降って来たな。雨が降っても行く約束かい」
「ええ」
「この雨は――なかなか歇(や)みそうもない。――とにかく手紙で小夜子さんを呼ぼう。阿父(おやじ)が待ち兼(かね)て心配しているに違ない」
 春に似合わぬ強い雨が斜めに降る。空の底は計られぬほど深い。深いなかから、とめどもなく千筋(ちすじ)を引いて落ちてくる。火悚筏い椁い魏à丹啶担─扦ⅳ搿
 手紙は点滴(てんてき)の響の裡(うち)に認(したた)められた。使が幌(ほろ)の色を、打つ雨に揺(うご)かして、一散に去った時、叙述は移る。最前宗近家の門を出た第二の車はすでに孤堂先生の僑居(きょうきょ)に在(あ)って、応分の使命をつくしつつある。
 孤堂先生は熱が出て寝た。秘蔵の義董(ぎとう)の幅(ふく)に背(そむ)いて横(よこた)えた額際(ひたいぎわ)を、小夜子が氷嚢(ひょうのう)で冷している。蹲踞(うずくま)る枕元に、泣き腫(はら)した眼を赤くして、氷嚢の括目(くくりめ)に寄る皺(しわ)を勘定しているかと思われる。容易に顔を上げない。宗近の阿父(おとっ)さんは、鉄線模様(てっせんもよう)の臥被(かいまき)を二尺ばかり離れて、どっしりと尻を据(す)えている。厚い膝頭(ひざがしら)が坐布団(ざぶとん)から喰(は)み出して軽く畳を抑えたところは、血が退(ひ)いて肉が落ちた孤堂先生の顔に比べると威風堂々たるものである。
 宗近老人の声は相変らず大きい。孤堂先生の声は常よりは高い。対話はこの両人の間に進行しつつある。
「実はそう云うしだいで突然参上致したので、御不快のところをはなはだ恐縮であるが、取り急ぐ事と、どうか悪しからず」
「いや、はなはだ失礼の体(てい)たらくで、私こそ恐縮で。起きて御挨拶(ごあいさつ)を申し上げなければならんのだが……」
「どう致して、そのままの方が御話がしやすくて結句(けっく)私の都合になります。ハハハハ」
「まことに御親切にわざわざ御尋ね下すってありがたい」
「なに、昔なら武士は相見互(あいみたがい)と云うところで。ハハハハ私などもいつ何時(なんどき)御世話にならんとも限らん。しかし久しぶりで東京へ御移(おうつり)ではさぞ御不自由で御困りだろう」
「二十年目になります」
「二十年目、そりゃあそりゃあ。二(ふ)た昔(むかし)ですな。御親類は」
「無いと同然で。久しい間、音信不通(いんしんふつう)にしておったものですからな」
「なるほど。それじゃ、全く小野氏(うじ)だけが御力ですな。そりゃ、どうも、怪(け)しからん事になったもので」
「馬鹿を見ました」
「いやしかし、どうにか、なりましょう。そう御心配なさらずとも」
「心配は致しません。ただ馬鹿を見ただけで、先刻(さっき)よく娘にも因果(いんが)を含めて申し聞かしておきました」
「しかしせっかくこれまで御丹精になったものを、そう思い切りよく御断念(おあきらめ)になるのも惜(おし)いから、どうかここはひとまず私共に御任せ下さい。忰(せがれ)も出来るだけ骨を折って見たいと申しておりましたから」
「御好意は実に辱(かたじけ)ない。しかし先方で断わる以上は、娘も参りたくもなかろうし、参ると申しても私がやれんような始末で……」
 小夜子は氷嚢(ひょうのう)をそっと上げて、額の露を丁寧に手拭(てぬぐい)でふいた。
「冷やすのは少し休(や)めて見よう。――なあ小夜子行かんでも好いな」
 小夜子は氷嚢を盆へ載(の)せた。両手を畳の上へ突いて、盆の上へ蔽(お)いかぶせるように首を出す。氷嚢へぽたりぽたりと涙が垂れる。孤堂先生は枕に着けた胡麻塩頭(ごましおあたま)を
「好いな」と云いながら半分ほど後(うしろ)へ捩(ね)じ向けた。ぽたりと氷嚢へ垂れるところが見えた。
「ごもっともで。ごもっともで……」と宗近老人はとりあえず二遍つづけざまに述べる。孤堂先生の首は故(もと)の位地に復した。潤(うる)んだ眼をひからしてじっと老人を見守っている。やがて
「しかしそれがために小野が藤尾さんとか云う婦人と結婚でもしたら、御子息には御気の毒ですな」と云った。
「いや――そりゃ――御心配には及ばんです。忰は貰わん事にしました。多分――いや貰わんです。貰うと云っても私が不承知です。忰を嫌(きら)うような婦人は、忰が貰いたいと申しても私が許しません」
「小夜や、宗近さんの阿父(おとっ)さんも、ああおっしゃる。同(おんな)じ事だろう」
「私は――参らんでも――宜(よろ)しゅうございます」と小夜子が枕の後(うしろ)で切れ切れに云った。雨の音の強いなかでようやく聞き取れる。
「いや、そうなっちゃ困る。私がわざわざ飛んで来た甲斐(かい)がない。小野氏(うじ)にもだんだん事情のある事だろうから、まあ忰(せがれ)の通知しだいで、どうか、先刻御話を申したように御聞済(おききずみ)を願いたい。――自分で忰の事をかれこれ申すのは異(い)なものだが、忰は事理(わけ)の分った奴で、けっして後で御迷惑になるような取計(とりはからい)は致しますまい。御破談になった方が御為だと思えばその方を御勧めして来るでしょう。――始めて御目に懸(かか)ったのだがどうか私を御信用下さい。――もう何とか云って来る時分だが、あいにくの雨で……」
 雨を衝(つ)く一輛(りょう)の車は輪を鳴らして、格子(こうし)の前で留った。がらりと明(あ)く途端に、ぐちゃりと濡(ぬ)れた草鞋(わらじ)を沓脱(くつぬぎ)へ踏み込んだものがある。――叙述は第三の車の使命に移る。
 第三の車が糸子を載(の)せたまま、甲野の門に※々(りんりん)の響を送りつつ馳(か)けて来る間に、甲野さんは書斎を片づけ始めた。机の抽出(ひきだし)を一つずつ抜いて、いつとなく溜った往復の書類を裂いては捨て、裂いては捨る。床(ゆか)の上は千切れた半切(はんきれ)で膝の所だけが堆(うずたか)くなった。甲野さんは乱るる反故屑(ほごくず)を踏みつけて立った。今度は抽出(ひきだし)から一枚、二枚と細字(さいじ)に認(したた)めた控を取り出す。中には五六頁(ページ)纏(まと)めて綴じ込んだのもある。大抵は西洋紙である。また西洋字である。甲野さんは一と目見て、すぐ机の上へ重ねる。中には半行も読まずに置き易(か)えるのもある。しばらくすると、重(かさ)なるものは小一尺の高(たかさ)まで来た。抽出は大抵(たいてい)空(から)になる。甲野さんは上下(うえした)へ手を掛けて、総体を煖炉の傍(そば)まで持って来たが、やがて、無言のまま抛(な)げ込(こ)んだ。重なるものは主人公の手を離るると共に一面に崩(くず)れた。
 葡萄(ぶどう)の葉を青銅に鋳(い)た灰皿が洋卓(テエブル)の上にある。灰皿の上に燐寸(マッチ)がある。甲野さんは手を延ばして燐寸の箱を取った。取りながら横に振ると、あたじけない五六本の音がする。今度は机へ帰る。レオパルジの隣にあった黄表紙(きびょうし)の日記を持って煖炉の前まで戻って来た。親指を抑えにして小口を雨のように飛ばして見ると、び荩ēぅ螗─仁螅à亭氦撸─毋U筆が、ちら、ちら、ちらと黄色い表紙まで来て留った。何を書いたものやらいっこう要領を得ない。昨夕(ゆうべ)寝る前に書き込んだ、
  入レ[#「レ」は返り点]道(みちにいる)無言客(むごんのかく)。出レ[#「レ」は返り点]家(いえをいず)有髪僧(うはつのそう)。
の一聯が、最後の頁の最後の句である事だけを記憶している。甲野さんは思い切って日記を散らばった紙の上へ仱护俊Gà筏悚─螭馈溌螅ē烯`スラッグ)の前でしゅっと云う音がする。乱れた紙は、静なるうちに、惓怠(けったる)い伸(のび)をしながら、下から暖められて来る。きな臭い煙が、紙と紙の隙間(すきま)を這(は)い上(のぼ)って出た。すると紙は下層(したがわ)の方から動き出した。
「うん、まだ書く事があった」
と甲野さんは膝を立てながら、日記を煙のなかから救い出す。紙は茶に変る。ぼうと音がすると煖炉のうちは一面の火になった。
「おや、どうしたの」
 戸口に立った母は不審そうに煖炉の中を見詰めている。甲野さんは声に応じて体(たい)を斜めに開く。袂(たもと)の先に火を受けて母と向き合った。
「寒いから部屋を煖(あたた)めます」と云ったなり、上から煖炉の中を見下(みおろ)した。火は薄い水飴(みずあめ)の色に燃える。藍(あい)と紫(むらさき)が折々は思い出したように交って煙突の裏(うち)へ上(のぼ)って行く。
「まあ御あたんなさい」
 折から風に誘われた雨が四五筋、窓硝子(まどガラス)に当って砕けた。
「降り出しましたね」
 母は返事をせずに三足(みあし)ほど部屋の中に進んで来た。すかすように欽吾を見て、
「寒ければ、石炭を焼(た)かせようか」と云った。
 めらめらと燃えた火は、揺(ゆら)ぐ紫の舌の立ち騰(のぼ)る後(あと)から、ぱっと一度に消えた。煖炉の中は真扦ⅳ搿
「もうたくさんです。もう消えました」
 云い終った欽吾は、煖炉に背中を向けた。時に亡父(おやじ)の眼玉が壁の上からぴかりと落ちて来た。雨の音がざあっとする。
「おやおや、手紙が大変散らばって――みんな要(い)らないのかい」
 欽吾は床(ゆか)の上を眺(なが)めた。裂き棄(す)てた書面は見事に乱れている。あるいは二三行、あるいは五六行、はなはだしいのは一行の半分で引き千切ったのがある。
「みんな要りません」
「それじゃ、ちっと片づけよう。紙屑唬à撙氦矗─悉嗓长摔ⅳ毪巍筡
 欽吾は答えなかった。母は机の下を覗(のぞ)き込む。西洋流の籃製(かごせい)の屑唬à氦矗─⒆銙欤àⅳ筏保─蜗颍à啶长Γ─素疲à郅韦─艘姢à搿D袱锨à长矗─螭鞘证蛏欤à韦校─筏俊=C緞子(こんどんす)の帯が、窓からさす明(あかり)をまともに受けた。
 欽吾は腕を右へ真直(まっすぐ)に、日蔽(ひおい)のかかった椅子(いす)の背頸(せくび)を握った。瘠(や)せた肩を斜(ななめ)にして、ずるずると机の傍(そば)まで引いて来た。
 母は机の奥から屑护蛞à遥─粒à海─瓿訾筏俊J旨垽味掀à欤─蛞护囊护拇菠槭挨盲苹の中へ入れる。捩(ね)じ曲げたのを丹念に引き延ばして見る。「いずれ拝眉(はいび)の上……」と云うのを投げ込む。「……御免蒙(ごめんこうむ)り度候(たくそろ)。もっとも事情の許す場合には御……」と云うのを投げ込む。「……はとうてい辛抱致しかね……」と云うのを裏返して見る。
 欽吾は尻眼に母をじろりと眺(なが)めた。机の角に引き寄せた椅子の背に、うんと腕の力を入れた。ひらりと紺足袋(こんたび)が白い日蔽(ひおい)の上に揃(そろ)った。揃った紺足袋はすぐ机の上に飛び上る。
「おや、何をするの」と母は手紙の断片を持ったまま、下から仰向(あおむ)いた。眼と眼の間に怖(おそれ)の色が明かに読まれた。
「額を卸(おろ)します」と上から落ちついて云う。
「額を?」
 怖(おそれ)は愕(おどろき)と変じた。欽吾は鍍金(ときん)の枠(わく)に右の手を懸(か)けた。
「ちょいと御待ち」
「何ですか」と右の手はやはり枠に懸っている。
「額を外(はず)して何にする気だい」
「持って行くんです」
「どこへ」
「家(うち)を出るから、額だけ持って行くんです」
「出るなんて、まあ。――出るにしても、もっと緩(ゆっくり)外(はず)したら宜(よ)さそうなもんじゃないか」
「悪いですか」
「悪くはないよ。御前が欲しければ持って行くが、いいけれども。何もそんなに急がなくっても好いんだろう」
「だって今外さなくっちゃ、時間がありません」
 母は変な顔をして呆然(ぼうぜん)として立った。欽吾は両手を額に掛ける。
「出るって、御前本当に出る気なのかい」
「出る気です」
 欽吾は後(うし)ろ向(むき)に答えた。
「いつ」
「これから、出るんです」
 欽吾は両手で一度上へ揺り上げた額を、折釘(おれくぎ)から外して、下へさげた。細い糸一本で額は壁とつながっている。手を放すと、糸が切れて落ちそうだ。両手で恭(うやうや)しく捧げたままである。母は下から云う。
「こんな雨の降るのに」
「雨が降っても構わないです」
「せめて藤尾に暇乞(いとまごい)でもして行ってやっておくれな」
「藤尾はいないでしょう」
「だから待っておくれと云うのだあね。藪(やぶ)から棒(ぼう)に出るなんて、御母(おっか)さんを困らせるようなもんじゃないか」
「困らせるつもりじゃありません」
「御前がその気でなくっても、世間と云うものがあります。出るなら出るようにして出てくれないと、御母さんが恥を掻(か)きます」
「世間が……」と云いかけて額を持ちながら、首だけ後(うしろ)へ向けた時、細長く切れた欽吾の眼は一度(ひとたび)は母に落ちた。やがて母から遠退(とおの)いて戸口に至ってはたと動かなくなった。――母は気味悪そうに振返る。
「おや」
 天から降ったように、静かに立っていた糸子は、ゆるやかに頭(つむり)を下げた。鷹揚(おうよう)に膨(ふくら)ました廂髪(ひさしがみ)が故(もと)に帰ると、糸子は机の傍(そば)まで歩を移して来る。白足袋が両方揃(そろ)った時、
「御迎(おむかえ)に参りました」と真直(まっすぐ)に欽吾を見上げた。
「鋏(はさみ)を取って下さい」と欽吾は上から頼む。顎(あご)で差図をした、レオパルジの傍に、鋏がある。――ぷつりと云う音と共に額は壁を離れた。鋏はかちゃりと床(ゆか)の上に落ちた。両手に額を捧げた欽吾は、机の上でくるりと正面に向き直った。
「兄が欽吾さんを連れて来いと申しましたから参りました」
 欽吾は捧げた額を眼八分(めはちぶん)から、そろりそろりと下の方へ移す。
「受取って下さい」
 糸子は確(しか)と受取った。欽吾は机から飛び下りる。
「行きましょう。――車で来たんですか」
「ええ」
「この額が仱辘蓼工筡
「仱辘蓼埂筡
「じゃあ」と再び額を受取って、戸口の方へ行く。糸子も行く。母は呼びとめた。
「少し御待ちよ。――糸子さんも少し待ってちょうだい。何が気に入らないで、親の家(うち)を出るんだか知らないが、少しは私(わたし)の心持にもなって見てくれないと、私が世間へ対して面目がないじゃないか」
「世間はどうでも構わないです」
「そんな聞訳(ききわけ)のない事を云って、――頑是(がんぜ)ない小供みたように」
「小供なら結構です。小供になれれば結構です」
「またそんな。――せっかく、小供から大人(おとな)になったんじゃないか。これまでに丹精するのは、一と通りや二た通りの事じゃないよ、御前。少しは考えて御覧な」
「考えたから出るんです」
「どうして、まあ、そんな無理を云うんだろうね。――それもこれもみんな私の不行届から起った事だから、今更(いまさら)泣いたって、口説(くど)いたって仕方がないけれども、――私は――亡(な)くなった阿父(おとっ)さんに――」
「阿父さんは大丈夫です。何とも云やしません」
「云やしませんたって――何も、そう、意地にかかって私を苛(いじ)めなくっても宜(よ)さそうなもんじゃないか」
 甲野さんは額を提(さ)げたまま、何とも返事をしなくなった。糸子はおとなしく傍に着いている。雨は部屋を取り巻いて吹き寄せて来る。遠い所から風が音を輳(あつ)めてくる。ざあっと云う高い響である。また広い響である。響の裡(うち)に甲野さんは黙然(もくねん)として立っている。糸子も黙然として立っている。
「少しは分ったかい」と母が聞いた。
 甲野さんは依然として黙している。
「これほど云っても、まだ分らないのかね」
 甲野さんはやはり口を開かない。
「糸子さん、こう云う体(てい)たらくなんですから。どうぞ御宅へ御帰りになったら、阿父さんや兄さんに御覧の通りを御話し下さい。――まことに、こんなところをあなた方に御見せ申すのは、何ともかとも面目しだいもございません」
「御叔母(おば)さん。欽吾さんは出たいのですから、素直に出して御上げなすったら好いでしょう。無理に引っ張っても何にもならないと思います」
「あなたまでそれじゃ仕方がありませんね。――それは失礼ながら、まだ御若いから、そう云う奥底のない御考も出るんでしょうが。――いくら出たいたって、山の中の一軒家に住んでいる人間じゃなし、そう今が今思い立って、今出られちゃ、出る当人より、残ったものが困りまさあね」
「なぜ」
「だって人の口は五月蠅(うるさい)じゃありませんか」
「人が何と云ったって――それがなぜ悪いんでしょう」
「だって御互に世間に顔出しが出来ればこそ、こうやって今日(こんにち)を送っているんじゃありませんか。自分より世間の義理の方が大事でさあね」
「だって、こんなに出たいとおっしゃるんですもの。御可哀想(おかわいそう)じゃありませんか」
「そこが義理ですよ」
「それが義理なの。つまらないのね」
「つまらなかありませんやね」
「だって欽吾さんは、どうなっても構わない……」
「構わなかないんです。それがやっぱり欽吾のためになるんです」
「欽吾さんより御叔母(おば)さんのためになるんじゃないの」
「世の中への義理ですよ」
「分らないわ、私(わたし)には。――出たいものは世間が何と云ったって出たいんですもの。それが御叔母(おば)さんの迷惑になるはずはないわ」
「だって、こんな雨が降って……」
「雨が降っても、御叔母さんは濡(ぬ)れないんだから構わないじゃありませんか」
 汽車のない時の事であった。山の男と海の男が喧嘩(けんか)をした。山の男が魚は塩辛いものだと云う。海の男が魚に塩気があるものかと云う。喧嘩はいつまで立っても鎮(しず)まらなかった。教育と名(なづ)くる汽車がかかって、理性の楷段(かいだん)を自由に上下する方便(ほうべん)が開けないと、御互の考(かんがえ)は御互に分らない。ある時は俗社会の塩漬になり過ぎて、ただ見てさえも冥眩(めんけん)しそうな人間でないと、人間として通用しない事がある。それは嘘(うそ)だ偽(いつわり)だと説いて聞かしてもなかなか承知しない。どこまでも塩漬趣味を主張する。――謎(なぞ)の女と糸子の応対は、どこまで行っても並行するだけで一点には集まらない。山の男と海の男が魚に対して根本的の観念を異(こと)にするごとく、謎の女と糸子とは、人間に対して冒頭(あたま)から考が違う。
 海と山とを心得た甲野さんは黙って二人を見下(みおろ)している。糸子の云うところは弁護の出来ぬほど簡単である。母の主張は愛想(あいそ)のつきるほど愚にしてかつ俗である。この二人の問答を前に控えて、甲野さんは阿爺(おやじ)の額を抱いたまま立っている。別段退屈した気色(けしき)も見えない。焦慮(じれっ)たそうな様子もない。困ったと云う風情(ふぜい)もない。二人の問答が、日暮まで続けば、日暮まで額を持って、同じ姿勢で、立っているだろうと思われる。
 ところへ、雨の中の掛声がした。車が玄関で留った。玄関から足音が近づいて来た。真先に宗近君があらわれた。
「やあ、まだ行かないのか」と甲野さんに聞く。
「うん」と答えたぎりである。
「御叔母(おば)さんもここか、ちょうど好い」と腰を掛ける。後(あと)から小野さんが這入(はい)って来る。小野さんの影を一寸(いっすん)も出ないように小夜子がついてくる。
「御叔母さん、雨の降るのに大入(おおいり)ですよ。――小夜子さん、これが僕の妹です」
 活躍の児(じ)は一句にして挨拶(あいさつ)と紹介を兼(かね)る。宗近君は忙しい。甲野さんは依然として額を支えて立ったままである。小野さんも手持無沙汰(てもちぶさた)に席に着かぬ。小夜子と糸子はいたずらに丁寧な頭(つむり)を下げた。打ち解けた言葉は無論交す機会がない。
「雨の降るのに、まあよく……」
 母はこれだけの愛嬌(あいきょう)を一面に振り蒔(ま)いた。
「よく降りますね」と宗近君はすぐ答えた。
「小野さんは……」と母が云い懸(か)けた時、宗近君がまた遮(さえぎ)った。
「小野さんは今日藤尾さんと大森へ行く約束があるんだそうですね。ところが行かれなくなって……」
「そう――でも、藤尾はさっき出ましたよ」
「まだ帰らないですか」と宗近君は平気に聞いた。母は少しく不快な顔をする。
「どうして大森どころじゃない」と独語(ひとりごと)のように云ったが、ちょっと振り返って、
「みんな掛けないか。立ってると草臥(くたびれ)るぜ。もう直(じき)藤尾さんも帰るだろう」と注意を与えた。
「さあ、どうぞ」と母が云う。
「小野さん、掛けたまえ。小夜子さんも、どうです。――甲野さん何だい、それは……」
「父の肖像を卸(おろ)しまして、あなた。持って出るとか申して」
「甲野さん、少し待ちたまえ。もう藤尾さんが帰って来るから」
 甲野さんは別に返事もしなかった。
「少し私が持ちましょう」と糸子が低い声で云う。
「なに……」と甲野さんは提(さ)げていた額を床(ゆか)の上へ卸して壁へ立て掛けた。小夜子は俯向(うつむ)きながら、そっと額の方を見る。
「なんぞ藤尾に、御用でも御有(おあん)なさるんですか」
 これは母の言葉であった。
「ええ、あるんです」
 これは宗近の答であった。
 あとは――雨が降る。誰も何とも云わない。この時一輛(りょう)の車はクレオパトラの怒(いかり)を仱护祈f駄天(いだてん)のごとく新橋から馳(か)けて来る。
 宗近君は胴衣(ちょっき)の上で、ぱちりと云わした。
「三時二十分」
 何とも応(こた)えるものがない。車は千筋(ちすじ)の雨を、せ希à郅恚─藦帲à悉福─い埔簧ⅳ孙wんで来る。クレオパトラの怒(いかり)は布団(ふとん)の上で躍(おど)り上る。
「御叔母(おば)さん京都の話でも、しましょうかね」
 降る雨の地に落ちぬ間(ま)を追い越せと、仱肱宪嚪颏伪长虮蓿à啶沥Γ─盲岂Y(か)けつける。横に煽(あお)る風を真向(まむき)に切って、歯を逆に捩(ねじ)ると、甲野の門内に敷き詰めた砂利が、玄関先まで長く二行に砕けて来た。
 濃い紫(むらさき)の絹紐(リボン)に、怒をあつめて、幌(ほろ)を潜(くぐ)るときに颯(さっ)とふるわしたクレオパトラは、突然と玄関に飛び上がった。
「二十五分」
と宗近君が云い切らぬうちに、怒の権化(ごんげ)は、辱(はずか)しめられたる女王のごとく、書斎の真中に突っ立った。六人の目はことごとく紫の絹紐にあつまる。
「やあ、御帰り」と宗近君が煙草を啣(くわ)えながら云う。藤尾は一言(いちごん)の挨拶(あいさつ)すら返す事を屑(いさぎよし)とせぬ。高い背を高く反(そ)らして、屹(きっ)と部屋のなかを見廻した。見廻した眼は、最後に小野さんに至って、ぐさりと刺さった。小夜子は背広(せびろ)の肩にかくれた。宗近君はぬっと立った。呑み掛けの煙草を、青葡萄(あおぶどう)の灰皿に放(ほう)り込む。
「藤尾さん。小野さんは新橋へ行かなかったよ」
「あなたに用はありません。――小野さん。なぜいらっしゃらなかったんです」
「行っては済まん事になりました」
 小野さんの句切りは例になく明暸(めいりょう)であった。稲妻(いなずま)ははたはたとクレオパトラの眸(ひとみ)から飛ぶ。何を猪子才(ちょこざい)なと小野さんの額を射た。
「約束を守らなければ、説明が要(い)ります」
「約束を守ると大変な事になるから、小野さんはやめたんだよ」と宗近君が云う。
「黙っていらっしゃい。――小野さん、なぜいらっしゃらなかったんです」
 宗近君は二三歩大股に歩いて来た。
「僕が紹介してやろう」と一足(ひとあし)小野さんを横へ押(お)し退(の)けると、後(うしろ)から小さい小夜子が出た。
「藤尾さん、これが小野さんの妻君だ」
 藤尾の表情は忽然(こつぜん)として憎悪(ぞうお)となった。憎悪はしだいに嫉妬(しっと)となった。嫉妬の最も深く刻み込まれた時、ぴたりと化石した。
「まだ妻君じゃない。ないが早晩妻君になる人だ。五年前からの約束だそうだ」
 小夜子は泣き腫(は)らした眼を俯(ふ)せたまま、細い首を下げる。藤尾は白い拳(こぶし)を握ったまま、動かない。
「嘘(うそ)です。嘘です」と二遍云った。「小野さんは私(わたし)の夫(おっと)です。私の未来の夫です。あなたは何を云うんです。失礼な」と云った。
「僕はただ好意上事実を報知するまでさ。ついでに小夜子さんを紹介しようと思って」
「わたしを侮辱する気ですね」
 化石した表情の裏で急に血管が破裂した。紫色の血は再度の怒(いかり)を満面に注(そそ)ぐ。
「好意だよ。好意だよ。誤解しちゃ困る」と宗近君はむしろ平然としている。――小野さんはようやく口を開いた。――
「宗近君の云うところは一々本当です。これは私の未来の妻に違ありません。――藤尾さん、今日(こんにち)までの私は全く軽薄な人間です。あなたにも済みません。小夜子にも済みません。宗近君にも済みません。今日から改めます。真面目(まじめ)な人間になります。どうか許して下さい。新橋へ行けばあなたのためにも、私のためにも悪いです。だから行かなかったです。許して下さい」
 藤尾の表情は三たび変った。破裂した血管の血は真白に吸収されて、侮蔑(ぶべつ)の色のみが深刻に残った。仮面(めん)の形は急に崩(くず)れる。
「ホホホホ」
 歇私的里性(ヒステリせい)の笑は窓外の雨を衝(つ)いて高く迸(ほとばし)った。同時に握る拳(こぶし)を厚板の奥に差し込む途端にぬらぬらと長い鎖を引き出した。深紅(しんく)の尾は怪しき光を帯びて、右へ左へ揺(うご)く。
「じゃ、これはあなたには不用なんですね。ようござんす。――宗近さん、あなたに上げましょう。さあ」
 白い手は腕をあらわに、すらりと延びた。時計は赭àⅳ挨恚─ぷ诮握疲à皮韦窑椋─舜_(しっか)と落ちた。宗近君は一歩を煖炉に近く大股に開いた。やっと云う掛声と共に赭àⅳ挨恚─と眨àΓ─塑S(おど)る。時計は大理石の角(かど)で砕けた。
「藤尾さん、僕は時計が欲しいために、こんな酔興(すいきょう)な邪魔をしたんじゃない。小野さん、僕は人の思をかけた女が欲しいから、こんな悪戯(いたずら)をしたんじゃない。こう壊してしまえば僕の精神は君らに分るだろう。これも第一義の活動の一部分だ。なあ甲野さん」
「そうだ」
 呆然(ぼうぜん)として立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手が硬(かた)くなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、床(ゆか)の上に倒れた。
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 楼主| 发表于 2005-7-7 17:03:10 | 显示全部楼层
        十九

 凝(こ)る雲の底を抜いて、小一日(こいちにち)空を傾けた雨は、大地の髄(ずい)に浸(し)み込むまで降って歇(や)んだ。春はここに尽きる。梅に、桜に、桃に、李(すもも)に、かつ散り、かつ散って、残る紅(くれない)もまた夢のように散ってしまった。春に誇るものはことごとく亡(ほろ)ぶ。我(が)の女は虚栄の毒を仰いで斃(たお)れた。花に相手を失った風は、いたずらに亡(な)き人の部屋に薫(かお)り初(そ)める。
 藤尾は北を枕に寝る。薄く掛けた友禅(ゆうぜん)の小夜着(こよぎ)には片輪車(かたわぐるま)を、浮世らしからぬ恰好(かっこう)に、染め抜いた。上には半分ほど色づいた剩à膜浚─幻妞诉@(は)いかかる。淋(さみ)しき模様である。動く気色(けしき)もない。敷布団は厚い郡内(ぐんない)を二枚重ねたらしい。塵(ちり)さえ立たぬ敷布(シート)を滑(なめら)かに敷き詰めた下から、粗(あら)い格子(こうし)の黄と焦茶(こげちゃ)が一本ずつ見える。
 変らぬものは姢扦ⅳ搿W希à啶椁丹─谓伡~(リボン)は取って捨てた。有るたけは、有るに任せて枕に乱した。今日(きょう)までの浮世と思う母は、櫛(くし)の歯も入れてやらぬと見える。乱るる髪は、純白(まっしろ)な敷布(シート)にこぼれて、小夜着(こよぎ)の襟(えり)の天鵞絨(びろうど)に連(つら)なる。その中に仰向(あおむ)けた顔がある。昨日(きのう)の肉をそのままに、ただ色が違う。眉は依然として濃い。眼はさっき母が眠らした。眠るまで母は丹念に撫(さす)ったのである。――顔よりほかは見えぬ。
 敷布の上に時計がある。濃(こまやか)に刻んだ七子(ななこ)は無惨(むざん)に潰(つぶ)れてしまった。鎖だけはたしかである。ぐるぐると両蓋(りょうぶた)の縁(ふち)を巻いて、黄金(こがね)の光を五分(ごぶ)ごとに曲折する真中に、柘榴珠(ざくろだま)が、へしゃげた蓋の眼(まなこ)のごとく仱盲皮い搿
 逆(さか)に立てたのは二枚折の銀屏(ぎんびょう)である。一面に冴(さ)え返る月の色の方(ほう)六尺のなかに、会釈(えしゃく)もなく緑青(ろくしょう)を使って、柔婉(なよやか)なる茎を乱るるばかりに描(か)いた。不規則にぎざぎざを畳む鋸葉(のこぎりは)を描いた。緑青の尽きる茎の頭には、薄い弁(はなびら)を掌(てのひら)ほどの大(おおき)さに描いた。茎を弾(はじ)けば、ひらひらと落つるばかりに軽く描いた。吉野紙を縮まして幾重の襞(ひだ)を、絞(しぼ)りに畳み込んだように描いた。色は赤に描いた。紫に描いた。すべてが銀(しろかね)の中から生(は)える。銀の中に咲く。落つるも銀の中と思わせるほどに描いた。――花は虞美人草(ぐびじんそう)である。落款(らっかん)は抱一(ほういつ)である。
 屏風(びょうぶ)の陰に用い慣れた寄木(よせき)の小机を置く。高岡塗(たかおかぬり)の蒔絵(まきえ)の硯筥(すずりばこ)は書物と共に違棚(ちがいだな)に移した。机の上には油を注(さ)した瓦器(かわらけ)を供えて、昼ながらの灯火(ともしび)を一本の灯心(とうしん)に点(つ)ける。灯心は新らしい。瓦器の丈(たけ)を余りて、三寸を尾に引く先は、油さえ含まず白くすらりと延びている。
 ほかには白磁(はくじ)の香炉(こうろ)がある。線香の袋が蒼(あお)ざめた赤い色を机の角(かど)に出している。灰の中に立てた五六本は、一点の紅(くれない)から煙となって消えて行く。香(におい)は仏に似ている。色は流るる藍(あい)である。根本(ねもと)から濃く立ち騰(のぼ)るうちに右に揺(うご)き左へ揺く。揺くたびに幅が広くなる。幅が広くなるうちに色が薄くなる。薄くなる帯のなかに濃い筋がゆるやかに流れて、しまいには広い幅も、帯も、濃い筋も行方(ゆきがた)知れずになる。時に燃え尽した灰がぱたりと、棒のまま倒れる。
 違棚の高岡塗は沈んだ小豆色(あずきいろ)に古木(こぼく)の幹を青く盛り上げて、寒紅梅(かんこうばい)の数点を螺鈿擬(らでんまがい)に錬(ね)り出した。裏は丐塌L(うぐいす)が一羽飛んでいる。並ぶ蘆雁(ろがん)の高蒔絵の中には昨日(きのう)まで、深き光を暗き底に放つ柘榴珠が収めてあった。両蓋に隙間(すきま)なく七子を盛る金側時計が収めてあった。高蒔絵の上には一巻の書物が載(の)せてある。四隅(よすみ)を金(きん)に立ち切った箔(はく)の小口だけが鮮(あざや)かに見える。間から紫の栞(しおり)の房が長く垂れている。栞を差し込んだ頁(ページ)の上から七行目に「埃及(エジプト)の御代(みよ)しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそ」の一句がある。色鉛筆で細い筋を入れてある。
 すべてが美くしい。美くしいもののなかに横(よこた)わる人の顔も美くしい。驕(おご)る眼は長(とこしな)えに閉じた。驕る眼を眠(ねむ)った藤尾の眉(まゆ)は、額は、姢稀⑻炫à皮螭摔纾─韦搐趣坤筏ぁ
「御線香が切れやしないかしら」と母は次(つぎ)の間(ま)から立ちかかる。
「今上げて来ました」と欽吾が云う。膝(ひざ)を正しく組み合わして、手を拱(こまぬ)いている。
「一(はじめ)さんも上げてやって下さい」
「私(わたし)も今上げて来た」
 線香の香(におい)は藤尾の部屋から、思い出したように吹いてくる。燃え切った灰は、棒のままで、はたりはたりと香炉の中に倒れつつある。銀屏(ぎんびょう)は知らぬ間(ま)に薫(くゆ)る。
「小野さんは、まだ来ないんですか」と母が云う。
「もう来るでしょう。今呼びにやりました」と欽吾が云う。
 部屋はわざと立て切った。隔(へだて)の遥à栅工蓿─坤堡厦鳏堡皮ⅳ搿F嗆嚖斡鸯à妞Δ激螅─务眨à工剑─坤堡姢à搿¥ⅳ趣习沤恫迹à肖筏绀Δ眨─翁萍垼à椁撸─峭蚴陇螂Lす。幽冥(ゆうめい)を仕切る縁(ふち)は扦ⅳ搿R淮绶锁喚樱à猡ぃ─榉缶樱à筏ぃ─蓼钦嬷保à蓼盲工埃─素灓い皮い搿D袱弦(ふすま)のこちらに坐りながら、折々は、見えぬ所を覗(のぞ)き込むように、首を傾けて背を反(そ)らす。冷かな足よりも冷かな顔の方が気にかかる。覗くたびにたFは、すっきりと友禅の小夜着(こよぎ)を斜(はす)に断ち切っている。写せばそのままの模様画になる。
「御叔母(おば)さん、飛んだ事になって、御気の毒だが、仕方がない。御諦(おあきらめ)なさい」
「こんな事になろうとは……」
「泣いたって、今更(いまさら)しようがない。因果(いんが)だ」
「本当に残念な事をしました」と眼を拭う。
「あんまり泣くとかえって供養(くよう)にならない。それより後(あと)の始末が大事ですよ。こうなっちゃ、是非甲野さんにいてもらうより仕方がないんだから、その気になってやらないと、あなたが困るばかりだ」
 母はわっと泣き出した。過去を顧(かえり)みる涙は抑(おさ)えやすい。卒然として未来におけるわが呙蜃砸櫎筏繒rの涙は発作的(ほっさてき)に来る。
「どうしたら好いか――それを思うと――一さん」
 切れ切れの言葉が、涙と洟(はな)の間から出た。
「御叔母さん、失礼ながら、ちっと平生(へいぜい)の考え方が悪かった」
「私の不行届から、藤尾はこんな事になる。欽吾には見放される……」
「だからね。そう泣いたってしようがないから……」
「……まことに面目しだいもございません」
「だからこれから少し考え直すさ。ねえ、甲野さん、そうしたら好いだろう」
「みんな私(わたし)が悪いんでしょうね」と母は始めて欽吾に向った。腕組をしていた人はようやく口を開(ひら)く。――
「偽(うそ)の子だとか、本当の子だとか区別しなければ好いんです。平たく当り前にして下されば好いんです。遠慮なんぞなさらなければ好いんです。なんでもない事をむずかしく考えなければ好いんです」
 甲野さんは句を切った。母は下を向いて答えない。あるいは理解出来ないからかと思う。甲野さんは再び口を開(あ)いた。――
「あなたは藤尾に家(うち)も財産もやりたかったのでしょう。だからやろうと私が云うのに、いつまでも私を疑(うたぐ)って信用なさらないのが悪いんです。あなたは私が家にいるのを面白く思っておいででなかったでしょう。だから私が家を出ると云うのに、面当(つらあて)のためだとか、何とか悪く考えるのがいけないです。あなたは小野さんを藤尾の養子にしたかったんでしょう。私が不承知を云うだろうと思って、私を京都へ遊びにやって、その留守中に小野と藤尾の関係を一日一日と深くしてしまったのでしょう。そう云う策略がいけないです。私を京都へ遊びにやるんでも私の病気を癒(なお)すためにやったんだと、私にも人にもおっしゃるでしょう。そう云う嘘(うそ)が悪いんです。――そう云うところさえ考え直して下されば別に家を出る必要はないのです。いつまでも御世話をしても好いのです」
 甲野さんはこれだけでやめる。母は俯向(うつむ)いたまま、しばらく考えていたが、ついに低い声で答えた。――
「そう云われて見ると、全く私が悪かったよ。――これから御前さんがたの意見を聞いて、どうとも悪いところは直すつもりだから……」
「それで結構です、ねえ甲野さん。君にも御母(おっか)さんだ。家にいて面倒を見て上げるがいい。糸公にもよく話しておくから」
「うん」と甲野さんは答えたぎりである。
 隣室の線香が絶えんとする時、小野さんは蒼白(あおじろ)い額を抑えて来た。藍色(あいいろ)の煙は再び銀屏(ぎんびょう)を掠(かす)めて立ち騰(のぼ)った。
 二日して葬式は済んだ。葬式の済んだ夜、甲野さんは日記を書き込んだ。――
「悲劇はついに来た。来(きた)るべき悲劇はとうから預想(よそう)していた。預想した悲劇を、なすがままの発展に任せて、隻手(せきしゅ)をだに下さぬは、業(ごう)深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るが故(ゆえ)である。悲劇の偉大なるを知るが故である。悲劇の偉大なる勢力を味わわしめて、三世(さんぜ)に跨(また)がる業(ごう)を根柢から洗わんがためである。不親切なためではない。隻手を挙ぐれば隻手を失い、一目(いちもく)を揺(うご)かせば一目を眇(びょう)す。手と目とを害(そこの)うて、しかも第二者の業(ごう)は依然として変らぬ。のみか時々に刻々に深くなる。手を袖(そで)に、眼を閉ずるは恐るるのではない。手と目より偉大なる自然の制裁を親切に感受して、石火の一拶(いっさつ)に本来の面目に逢着(ほうちゃく)せしむるの微意にほかならぬ。
 悲劇は喜劇より偉大である。これを説明して死は万障を封ずるが故に偉大だと云うものがある。取り返しがつかぬ呙蔚驻岁垼à沥ぃ─盲啤⒊訾评搐踏閭ゴ螭坤仍皮Δ韦稀⒘鳏毪胨牛à妫─い茙ⅳ椁坦胜藗ゴ螭坤仍皮Δ纫话悚扦ⅳ搿_命は単に最終結を告ぐるがためにのみ偉大にはならぬ。忽然(こつぜん)として生を変じて死となすが故に偉大なのである。忘れたる死を不用意の際に点出するから偉大なのである。ふざけたるものが急に襟(えり)を正すから偉大なのである。襟を正して道義の必要を今更のごとく感ずるから偉大なのである。人生の第一義は道義にありとの命題を脳裏(のうり)に樹立するが故(ゆえ)に偉大なのである。道義の咝肖媳瘎·穗H会して始めて渋滞(じゅうたい)せざるが故に偉大なのである。道義の実践はこれを人に望む事切(せつ)なるにもかかわらず、われのもっとも難(かた)しとするところである。悲劇は個人をしてこの実践をあえてせしむるがために偉大である。道義の実践は他人にもっとも便宜(べんぎ)にして、自己にもっとも不利益である。人々(にんにん)力をここに致すとき、一般の幸福を促(うな)がして、社会を真正の文明に導くが故に、悲劇は偉大である。
 問題は無数にある。粟(あわ)か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織(つづれおり)か繻珍(しゅちん)か、これも喜劇である。英語か独乙語(ドイツご)か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。これが悲劇である。
 十年は三千六百日である。普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題は皆喜劇である。三千六百日を通して喜劇を演ずるものはついに悲劇を忘れる。いかにして生を解釈せんかの問題に煩悶(はんもん)して、死の一字を念頭に置かなくなる。この生とあの生との取捨に忙がしきが故に生と死との最大問題を閑却する。
 死を忘るるものは贅沢(ぜいたく)になる。一浮(いっぷ)も生中である。一沈(いっちん)も生中である。一挙手も一投足もことごとく生中にあるが故に、いかに踊るも、いかに狂うも、いかにふざけるも、大丈夫生中を出ずる気遣(きづかい)なしと思う。贅沢は高(こう)じて大胆となる。大胆は道義を蹂埽à袱澶Δ辘螅─筏拼笞栽冢à坤い袱钉ぃ─颂海à沥绀Δ辘绀Γ─工搿
 万人はことごとく生死の大問題より出立する。この問題を解決して死を捨てると云う。生を好むと云う。ここにおいて万人は生に向って進んだ。ただ死を捨てると云うにおいて、万人は一致するが故に、死を捨てるべき必要の条件たる道義を、相互に守るべく黙契した。されども、万人は日に日に生に向って進むが故に、日に日に死に背(そむ)いて遠ざかるが故に、大自在に跳梁して毫(ごう)も生中を脱するの虞(おそれ)なしと自信するが故に、――道義は不必要となる。
 道義に重(おもき)を置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。ふざける。騒ぐ。欺(あざむ)く。嘲弄(ちょうろう)する。馬鹿にする。踏む。蹴る。――ことごとく万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向って進むに従って分化発展するが故に――この快楽は道義を犠牲にして始めて享受(きょうじゅ)し得るが故に――喜劇の進歩は底止(ていし)するところを知らずして、道義の観念は日を追うて下(くだ)る。
 道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。ここにおいて万人の眼はことごとく自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る。妄(みだ)りに踊り狂うとき、人をして生の境を踏み外(はず)して、死の圜内(けんない)に入らしむる事を知る。人もわれももっとも忌(い)み嫌える死は、ついに忘るべからざる永劫(えいごう)の陥穽(かんせい)なる事を知る。陥穽の周囲に朽(く)ちかかる道義の縄は妄(みだ)りに飛び超(こ)ゆべからざるを知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。第二義以下の活動の無意味なる事を知る。しかして始めて悲劇の偉大なるを悟る。……」
 二ヵ月後(ご)甲野さんはこの一節を抄録して倫敦(ロンドン)の宗近君に送った。宗近君の返事にはこうあった。――
「ここでは喜劇ばかり流行(はや)る」
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 楼主| 发表于 2005-7-7 17:03:39 | 显示全部楼层
底本:「夏目漱石全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年1月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月にかけて刊行
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
ファイル作成:野口英司
1999年4月3日公開
2001年7月10日修正
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发表于 2010-2-8 13:29:38 | 显示全部楼层
有翻译没????
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发表于 2011-12-31 13:58:45 | 显示全部楼层
才疏学浅……
把这个也看了吧……
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发表于 2012-12-8 00:40:03 | 显示全部楼层
大好き
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