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枕草子现代语译

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发表于 2006-1-21 13:52:37 | 显示全部楼层 |阅读模式
  对于古典文学的阅读应当先从整体把握其大概意思,然后再去理解各句段的意思。
下面是枕草子的现代日语译本~~~
第一段 春はあけぼの
  春は(なんといっても)曙(が素敵)。だんだん白んでゆく山際が、少し明るくなって、紫がかった雲が細く(横に)たなびいているの(は最高)。
  夏は夜(がいい)。月のあるころはいうまでもない、闇もやはり蛍がたくさん飛び違っているの(が素敵)。また、(たくさんではなく)ただ、一つ二つなど、かすかに光って飛んでいくのも面白い。雨などの降るも面白い。
  秋は夕暮(が格別だ)。夕日がさして山際に大変近くなるときに、烏が寝床へ行くというので、三つ四つ二つ三つなど、飛んで行くのさえしみじみとした感じがする。(烏でさえしみじみするのに)まして、雁などの列を作っているのが、とても小さく見えるのは本当に面白い。日が(山にすっかり)入ってしまって、風の音や虫の音などがするのは、いうまでもない。
  冬は早朝(がいい)。雪が降っているのは、(そのよさは)いうまでもない、霜が大変白く(おいたのも)、またそうでなくても大変寒い折に、火などを急いでおこして、炭火を持って廊下などを通るのも、とても似つかわしい。昼になって、だんだん寒気がうすらいでゆるくなるばかりになると、炭櫃や火桶の火も、白く灰がちになってしまうのは劣っている(感じがする)。
《解釈》
をかし・・・明るく心楽しい、快い感動を表す

烏(からす)・・・烏などは元来しみじみとした対象ではないのに、秋に見る烏はしみじみとしている
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 楼主| 发表于 2006-1-21 13:54:07 | 显示全部楼层
第二段 ころは
  ころは、正月、三月、四月、五月、七、八、九月、十一、二月、すべてその折々に応じて、一年を通しておもしろい。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 13:55:48 | 显示全部楼层
第三段 正月一日は
  正月一日は、まして空の様子がうららかに(いつもと違って)目新しく、霞が(一面に)たちこめていて、世の中に(生きて)ある人は、(どのようなひともみな)身なりや顔を念入りにつくり飾って、主(=主君)をも自分をも祝いなどしている、(その)様子は(いつもと)違っていておもしろい。
  七日、雪の間からでている若菜摘みは青々としていて、いつもはそれほどそのようなものは見慣れない(高貴な)所に、さわいでもち扱い、白馬を見ようというので、宮仕えをしない里人は牛車をきれいに装い立てて、見に行く。(その牛車を)待賢門のしきいのところで、引き出すときに、(みなの)頭がひとところに転がりぶつかって、さし櫛も落ち、(あらかじめ)用心もしていないので、折れなどして笑うのもまた面白い。左衛門の(役人の)詰所などに殿上人もたくさん立ちなどして、舎人の弓どもを取って馬を驚かせて笑ったりしているのだが、(牛車の中から)わずかに(門内を)目に入れると、立蔀などが見えるのに、主殿司、女官などが行き違うのこそ、面白い。(いったい)どのような人が、宮中でなれなれしくして(振舞って)いるのであろうと自然に思われるが、宮中でも、(今)見るのは大変狭い範囲なので、舎人の顔の地肌もあらわれ、おしろいが行きとどかない所は、本当に黒い(土の)庭に雪がまだらになって消えている感じがして、大変見苦しく、馬が跳ね上がって騒いでいるのも、とても恐ろしく見えるので、(自然に体が車の中に)引き入れられてよく目をやることが出来ない。
  八日、人々が喜んで走りさわぐ車の音も、いつもとは違って聞こえて、おもしろい。
  十五日は餅がゆ(のお食事)を主上に差しあげ、(貴族の家では)かゆの木をひき隠して、(その)家の年輩の女房や、、若い女房が(隙を)うかがっているのを、打たれまいと用心して、いつも後ろに心遣いしている様子もおもしろいのに、どのようにして打ったのであろうか、打ち当てているのは、たいへん面白いと、みなで笑っているのも、とてもはなやかで見栄えがする。(打たれた人が)口惜しいと思っているのも、もっともである。
  新しく(姫君の元へ)通い始めた婿の君などが宮中へ参内するころなのに、(女房は)待ちわびてじれったく思い、(それぞれの)家で(得意顔で)幅をきかせている女房が(いまかいまかと)覗いて、奥のほうにたたずみつづけているのを、(姫君の)御前に座っている女房は気づいて笑うのを、「しっ、静かに」と手まねでとめるけれど、姫君は気づかない様子で、おっとりとして坐っていらっしゃる。「ここにあるものをお取りいたしましょう」などといって言い寄り、走って(姫の腰を)打って逃げると、(そこにいるひとは)こぞって笑う。男君も、かわいらしく愛想のよい様子で微笑んでいるのが、特別に驚かず顔が少し赤らんで坐っているのもおもしろい。また、(女房同士)お互いに打ち、男などさえ打っている。いったいどのようなつもりなのであろうか、泣いて腹を立て、打った人をのろい、いまわしく言うのも面白い。宮中のあたりなどの尊いところでも今日はみな乱れていて遠慮がない。

 除目のころなど宮中のあたりは大変面白い。雪が降り氷りなどしているときに、申文などを持ってあちこちしている四位五位の(人の)若々しく、気持ちよさそうなのは、とても頼もしげである、(だが)年老いて頭が白い人などが、人に何かと自分の内情をいい、女房の局に寄って、自分の身が立派である所以を、いい気になって説き聞かせるのを、若い女房たちは真似して笑うけれど、(本人は)どうして知っているであろう。「(主上に)よろしく申し上げてくださいませ。(皇后様にも)よろしく申し上げてくださいませ。」などと言っても、(それで官職を)得ているのは(まだ)いい(が)、得ないでいてしまったのこそ、ひどく気の毒なことである。

 三月三日、うららかにのんびりと(日が)照っている(のが素敵)。桃の花が今咲きはじめた(のがいい)。柳などがとても快い感じなのはいうまでもない。その柳もまだ、まゆにこもっているのはおもしろい。ひろがっているのは嫌な感じに見える。心が晴れ晴れとするほど(見事に)咲いている桜を長く折って、大きな花がめにさしてあるのこそおもしろい。桜の直衣に出袿して、(それが)客人であるにせよ、御兄弟の君達であるにせよ、その(花の)近くに坐って物など少し言っているのは、とてもいいものだ。

 四月、(賀茂)祭のころは、たいへん快い。上達部、殿上人も、袍の色の濃い薄いぐらいの区別があるだけで、白襲も同じ様子に、涼しげに見えて快い。木々の木の葉がまだたいへん茂っているというのではなくて、わかわかしく青みがかっている折に、霞も霧も隔てのない(澄み切った)空の様子が、何と言うことはなく思いがけず素晴らしいのに、少し曇っている夕方や夜など、はっきりしない声で鳴いている郭公が遠く空耳かと思うほどおぼつかない声で鳴いているのを聞きつけたようなときは、(いったい)どんなに(素晴らしい)心地がすることだろう。

 祭が近くなって、青朽葉や二藍などの布地を押し巻いて、紙などにほんの少しばかり包んで行き違いに持っていくのこそおもしろい。裾濃、むら濃など、いつもよりはおもしろく見える。(女の)童が、頭だけを洗って手入れをして、身なりはすっかりほころんで糸目が切れ、乱れかかっているのもあるというのが、屐子、沓などに、「(鼻)緒をすげさせて。裏をさして。」などはしゃいで、はやくその日(=祭の日)になってほしいと急いで走り回るのもおもしろい。妙な格好をして踊って歩き回っている者(=女童)たちが、(祭の日になって)装束を立派に飾り着けてしまうと、ご大層に(法会のときの)定者という法師などように、(もったいぶって)練り歩く、(それは)どんなに不安なことであろう。身分に応じて、親、叔母にあたる女性、姉などが、供人として世話をしながら歩くのもおもしろい。

 蔵人になりたいと思い込んでいる人で、急になれないのが、この日青色の袍を着ているのこそ、そのまま脱がせないでもおきたいと感じられる。(しかし、それが)綾織物でないのはみっともない。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 13:57:04 | 显示全部楼层
第四段 同じことなれども
第五段 思はむ子を
   (大切に)思っている子を法師にしてしまったのこそ、心苦しいことだなぁ。(世の中の人は)ただ木の端などのように思っているのこそ、とてもかわいそうだ。精進物のたいへん粗末なものを食べ、寝てしまうのも。若いものは、好奇心をもつだろう。女などがいるところをも、どうして嫌がっているように、のぞかないでいられようか。(ところが)それをもおだやかでないように言う。まして、修験者などは、ひどく苦しそうだ。疲れてうちふし(眠って)ていれば、「寝てばかりいて」など(と言って)非難される(のも)、大変窮屈で、どんなに(つらく)思うだろう。(でも)これは、昔の事のようだ。今は、(法師の生活も)とても楽そうだ。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 13:57:53 | 显示全部楼层
第六段 大進生昌が家に

 大進生昌の家に、中宮様がお出ましあそばすときに、東の門は四本柱の門に作って、そこから(中宮様の)おみこしはお入りあそばされる。北の門から女房の(車)なども、まだ陣(にいる武士)が詰めていないので入れるだろうと思って、髪の様子の悪い人も特につくろわないで、(直接、建物に)寄せておりるものだと思ってのんきに考えていたところ、檳榔毛の車などは、門が小さいので、そのまま入ることができないので、例の筵道を敷いておりるのは、たいへんにくく、腹立たしいけれども、どのようにしたらいいのだろう。殿上人、地下(の役人)なども、陣に立ち沿って(並んで)見るのもとてもねたましい。

 (中宮様の)御前に参上して、(この)ありさまを申し上げると、(中宮)「ここにいても人が見るということがないはずがない。どうしてそのように気を許してしまったのか。」とお笑いあそばされる。(清女)「ですけれど、そのような人は見慣れていらっしゃいますから。(こちらが)よく身づくろいをして(着飾って)おつかえしておりましたらそれこそ驚く人もいらっしゃいましょう。それにしても、これほどの家に、車が入らない門があってもいいのだろうか。(この家の主が)見えたら笑ってやろう」などと言っている折にも、(生昌)「これを差しあげてくださいませ」といって、御硯などを差し入れる。(清女)「まあ、とてもひどくていらっしゃいますね。どうして、その門を狭く造ってお住みなのですか」と言うと、笑って、(生昌)「家の程度、身分の程度に合わせているのでございます」と答える。(清女)「けれど門だけを高く造る人もありましたよ」と言うと、(生昌)「ああ恐れ入った」と驚いて、(生昌)「それは于定国の故事でございますね。年功を積んだ進士などでございませんと、伺ってもわかりそうにもないことでございましたよ。たまたまこの(文章の)道に入っておりましたので、これぐらいのことだけはわきまえて知っているのでございますが」と言う。(清女)「その(文章の)御道も(それほど)ご立派ではないようですね。筵道を敷きましたけれど、みな落ち込んで大騒ぎをしましたよ」と言えば、(生昌)「雨が降っておりましたから、そのようになってしまいましたのでしょう。まあまあ、また(あなたから困るような事を)仰せられるようなこともございましょう。(困ってしまう前に)下がってしまいましょう」と言って、去った。(中宮)「何事か、生昌がひどくこわがっていたのは」とお尋ねあそばされる。「何でもございません。車の入りませんでした事を言ったのでございます」と申し上げて(局に)下がった。

 同じ局に住む若い人たちと一緒に、多くのことも知らず、ねむたいので、みな寝てしまった。東の対(の屋)の西の廂(の間)で、北につづいているのに北の障子に、かけがねもなかったのを、それも探さない。(ところが、生昌は)家の主なので、家の内情を知ってあけてしまった。妙にしわがれた騒々しい声で、(生昌)「お側にお伺いしてもいいですか。お側にお伺いしてもいいですか」と何度も言う声にこそ、目が覚めてしまって、(声のするほうを)見れば、几帳の後ろに立てている灯台の光はあかあかとしている。障子を五寸ばかりあけて言っているのであった。たいへんおもしろい。いっこうにこうした色好みめいたことを夢にもしない人なのに、我が家に(中宮様が)おいであそばしているというので、むやみにこころまかせに(気ままな事を)しているようだと思うのも、ひどく面白い。

 傍らに寝ている人を押し起こして、(清女)「あれをご覧なさい。あのような見かけないものがあるようです」と言えば、頭を持ち上げて、(そちらへ)目をやってひどく笑う。(清女)「あれは誰だろう。まるみえなのに」と言えば、(生昌)「違います。家の主としてご相談申し上げる事があるのです」と言えば、(清女)「門のことをこそ申し上げましたが、障子をあおけくださいとは申し上げませんよ」と言えば、(生昌)「やはりその事も申し上げましょう。そこにお伺いするのはどうでしょう、そこにお伺いするのはどうでしょう」と言えば、(女房)「大変見苦しい事。それにお入りになれるはずがない」と言って笑うようなので、(生昌)「若い人がいらっしゃたのですね。」と言って、(障子を)引いてしめて立ち去った後で(わたくしたちの)笑うことはたいへんなものだった。あけようとするのならば、ただ入ってしまえばいいのだ。都合をたずねられたときに、「さしつかえないようです」とは、誰が言うはずがあろうかと、ほんとうにおかしい。(翌朝、中宮様の)御前に参上して申し上げれば、(中宮)「そのようなこと(をするといううわさ)も聞いていなかったものを。昨夜のことに感心して行ってしまったのであろう。かわいそうに、(生真面目なあの)男を間が悪いというのこそたいへんおもしろいことだけれど」といって、お笑いあそばされる。

 (中宮様が)姫宮(にお付)の女童たちの装束を作らせるようにということをお言いつけあそばすのに、(生昌)「この袙の上襲は何色にしてさしあげるべきでしょう」と申し上げるのを、(女房たちが)また笑うのももっとでなことである。(生昌)「姫宮の御前の物(=御食膳)は、普通の(大人の)ようにしてはかわいげがございませんでしょう。ちゅうせい折敷に、ちゅうせい高杯などこそよろしゅうございましょう」と申し上げるのを、(清女)「そうなれば、上襲を着ている女童もお伺いしやすいことでしょう」と言うのを、(中宮)「やはり世間の人のように、この人の事を言って笑わないほうがいい。とても生真面目な人なのだから」と気の毒にお思いあそばすのもおもしろい。中途半端な折に、(生昌)「大進が(あなたに)、まず何かお話申し上げよう」と、言うのを(中宮様が)お聞きあそばして、(中宮)「またどのようなことを言って笑われようというのだろう」と仰せにあそばすのも、またおもしろい。(中宮)「行って(話を)聞きなさい」と仰せあそばすので、わざわざ出たところ、(生昌)「先夜の門のことを中納言に話しましたら、たいへん感心し申し上げなさって、(中納言)『どうにかして適当な折に心のどかに対面してお話申し上げたり承りたりしたいものだ』と申されておりました」と言って、また他に特別な事もない。先夜の(来訪の)ことを言うのだろうかと胸がどきっとしたけれど、(生昌)「そのうち、落ち着いて御局にお伺いしましょう」と言って立ち去るので、帰って(中宮様の)御前に参上したところ、(中宮)「それで何事だったのか」と仰せあそばすので、(生昌が)申した事をこれこれでありましたと申し上げると、(女房たち)「わざわざ申し入れをして、呼び出さなければならない事ではないのに。偶然端の方に(いるときや)、局などに下がっているときにでも言えばいいものを」と言って笑えば、(中宮)「自分の心の中でかしこいと思っている人が褒めたのを、(そなたも)うれしいと思うだろうと、話して聞かせたのでしょう」と仰せ遊ばすご様子も、たいへんすばらしい。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 13:58:17 | 显示全部楼层
第七段 上に候ふ御猫は



《現代語訳》

 主上に伺候している御猫は、五位に除せられて、「命婦のおとど」といって、たいへんかわいらしいので、大切にお世話しておいであそばすが、縁先にでて横になっているところに、(猫の)乳母の馬の命婦が、「まあお行儀が悪いこと。お入りなさいまし。」と呼ぶが、日が差し込んでいるところで、眠ってじっとしていらっしゃるのを、おどろかすというので、「翁まろ、さあどうかしら。命婦のおとどに噛みつけ」というと、本当かと思って、愚か者(=翁まろ)は走りかかったので、(猫は)こわがりうろたえて、御簾の中に入ってしまった。朝餉の御前に、主上がいらっしゃったときで、(その様子を)御覧あそばして、たいへんおどろきあそばされる。猫を御懐にお入れあそばして、殿上の男どもをお呼びになって、蔵人の忠隆、なりなかが参上したので、(主上)「この翁まろを打ちこらしめて、犬島に追いやれ、今すぐ」とおおせあそばされるので、集まって追いたて大騒ぎをする。(主上は)馬の命婦をもお責めになって、「(猫の)乳母をかえよう。ひどく気がかりだ」とおおせあそばされるので、(馬の命婦は)御前にもでない。犬は狩り立てて、滝口の武士などに命じて、追放してしまう。

 「かわいそうに、(これまでは)たいへん(得意顔に体を)ゆすって歩きまわっていたものを。三月三日、頭の弁が、柳かづらを(頭に)のせさせ、桃の花をかんざしとして挿させ、桜(の枝)を腰に差しなどして、お歩かせになっていたとき、このような目にあうとは思わなかっただろう」などと、気の毒がる。「(皇后様の)お食事のときは、必ず(正面に)向かって伺候していたのに、(いないのは)ものたりなくてさびしいというもの」などと言って、三四日になってしまった昼ごろ、犬のたいへん鳴く声がするので、いったいどういう犬がこのように長く鳴いているのだろうと聞いていると、多くの犬が走って見に行く。御厠人である者が走ってきて、「まあたいへんなこと。犬を蔵人二人でお打ちになっていらっしゃる。きっと死ぬでしょう。犬をお流しあそばされたのが、帰って参ったというので、おこらしめになっていらっしゃるのです」と言う。かわいそうなことよ。翁まろである。「忠隆、実房などが打っている」と言うので、とめに人をやるうちに、ようやく鳴きやみ、「死んだので、陣の外に引っ張っていき捨てた」と言うので、不憫がりなどする夕方、ひどそうに腫れ、あっけにとられるほどの姿をした犬で、つかれきっているのが、ぶるぶる震えて歩くので、「翁まろか。このごろこのような犬が(翁まろ以外に)歩いているはずがない」と言って、「翁まろ」と言うが、聞き入れもしない。(女房たちが)「そうだ(翁まろだ)」ともいい、「違う」とも、口々に申すので、(皇后様が)「右近が見知っている。呼べ。」ということで、(右近を)お召しになるので、参上した。「これは翁まろか」と(言って)お見せあそばされる。(右近は)「似てはいらっしゃいますが、これは恐ろしげなご様子でいらっしゃいます。また、『翁まろか』とさえ言うと、よろこんでやって参りましたものを、呼んでも寄ってきません。違うようです。翁まろは『打ち殺して捨ててしまいました』と申し上げました。二人して打ったとすれば生きておりましょうか」などと申しあげるので、(皇后様は)不憫にお思いあそばされる。

 暗くなって、物を食べさせたけれど、食べないので、別の犬だといい決めて終わってしまった翌朝、(皇后様は)御調髪、御手水などをおつかいあそばして、(わたくしに)御鏡をお持たせあそばして(御髪のご様子を)御覧あそばされていると、ほんとうに、犬が柱の近くにいるのを見やって、「かわいそうに昨日翁まろをひどくも打ったことよ。死んでしまったのこそかわいそうだなことだ。いったい何の身に、今度はなってしまうのか。どんなにつらい心地がしただろう」とふと言うと、このうずくまっている犬がぶるぶると震えて、涙をただ落とし落とすのに、なんと意外なことには、(これは)翁まろであったのだ。「昨夜は隠れてじっと我慢していたのだった」と、しみじみあわれであるが、おもしろいことは限りもない。(手に持っていた)御鏡をうち置いて、「それでは、翁まろか」と言うと、ひれ伏して、ひどく鳴く。皇后様にもたいへんこわがりながらお笑いあそばされる。(皇后様は)右近内侍を召して、「こうこうである」とおおせあそばされるので、(女房たちがみんなで)笑って大騒ぎするのを、主上(におかせられて)もお聞きあそばされて、(こちらへ)お渡りおいであそばされた。(主上は)「あきれたことに、犬などでも、このような心があるものなのだったのだ」とお笑いあそばされる。主上付きの女房なども、(これを)聞いて、(御前に)伺い集まって、(翁まろを)呼ぶにつけても、今こそは立って動く。「やはりこの顔などが腫れていること。手当てをさせたい」と(わたくしが)言うと、(女房たちは)「ついにそれ(翁まろびいきであること)を白状してしまったこと」などと笑うと、忠隆が聞きつけて、台盤所の方から、「そういうこと(=これは翁まろ)なのでございますか。それを拝見いたしましょう」と言ったので、「まあおそろしい。絶対にそのようなものはいない」と言わせると、「それでも、見つけるときもございましょう。そのように(いつまでも)お隠しあそばすことはできまい」と言う。

 それから、おとがめも許されて、もとのようになったのだった。やはり(人から)かわいそうに思われて、震えて鳴きながら出てきたのこそ、世に類がなく、おもしろくしみじみと心動かされることであった。人間などは人に(何かを)言われて、泣きなどはするものであるが。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 13:58:42 | 显示全部楼层
第八段 正月一日、三月三日は



《現代語訳》

 正月一日、三月三日は たいへんうららかである。五月五日は、(一日中)曇ったまま暮らしている。七月七日は、(一日中)曇ったまま暮らして、夕方晴れた空に、月が大変明るく、星の数も(数えられそうに)見える。九月九日は、暁のころから雨が少し降って、菊の露もたくさん置き、(菊を)覆っている綿などもひどく濡れ、移り香も(一層)その香りを高めて、早朝にはやんでしまっているけれど、なお曇って、ともすれば、(雨が)降りはじめてきそうに見えるのもおもしろい。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 13:59:07 | 显示全部楼层
第九段 よろこび奏すること
 (叙位、任官などの)御礼を(主上に)申し上げる姿こそいいものだ。(裾を)後ろに(長く)あるがままに引いて、(主上の)御前のほうに向かって立っているの。拝礼をし舞踏をし、騒いでいることよ。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 13:59:33 | 显示全部楼层
第十段 今内裏の東をば
 今内裏の東を、北の陣という。梨の木のはるかに高いのを、(わたくしが)「いく尋あるかしら。」という。権中将が「根元からうち切って、定澄僧都の枝扇にしたいものだ」と仰ったのを、(僧都が)山階寺の別当になって、御礼を奏上する日、近衛の役人として、この君(権中将)が出ていらっしゃったときに、(僧都は)高い屐子をさえはいているので、おそろしく背が高い。(僧都が)出て行ってしまった後に、(わたくしが)「どうしてあの枝扇はお持たせにならなかったのですか」と言うと、「物忘れしないことだ」とお笑いになる。
 「定澄僧都には(短すぎるので)袿はない。すくせ君には(長すぎるので)袙はない」という人こそうまいものだ。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 13:59:57 | 显示全部楼层
第十一段 山は
 山は 小倉山。鹿背山。三笠山。このくれ山。いりたちの山。わすれずの山。末の松山。かたさり山こそ、どう(脇へ寄るの=身を引くの)だろうかと面白い。いつはた山。かへる山。のち瀬の山。あさくら山、よそに見るのこそ面白い。おほひれ山も面白い。(石清水八幡の)臨時の祭の舞人などが(自然と)思い出されるからであろう。

 三輪の山、面白い。手向山。まちかね山。たまさか山。耳なし山。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 14:00:24 | 显示全部楼层
第十二段 市は
 市は たつの市。さとの市。つば市は、大和にたくさんある(市の)中で、長谷に参詣する人が、必ずそこに泊まるのは、観音の縁があるのかと(思うと)、特別に思う。をさふの市。しかまの市。飛鳥の市。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 14:04:52 | 显示全部楼层
感想など
第十三段 峰は
一度だけ山の上から雲を見たことがあります。
すごく幻想的な世界で、自分は神か仙人にでもなったような気分でした。
山を登るのは確かに大変だし、へこたれそうになりますけど、
登ったら登ったぶんだけのことはあるんですよね。
それはきっと人生の山もそうなのでしょう。
・・・と、少し感慨に耽ってみたのでした。
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