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小倉百人一首入門

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发表于 2006-1-21 14:34:38 | 显示全部楼层 |阅读模式
決して詳しく読んでいくわけではないので、もっと知りたい方はご自分でお調べくださいね(^^♪
■『小倉百人一首』の成立
『小倉百人一首』撰者とされる藤原定家の日記『明月記』(原本は漢文)には、文暦二(一二三五)年五月二十七日条に、為家(定家の子息)の舅にあたる宇都宮頼綱(もとは関東の豪族)の希望から、京都郊外の嵯峨の地にある頼綱の山荘の「障子」(襖のこと)に貼るための色紙として、「古来の人の歌各一首、天智天皇より以来、家隆・雅経に及ぶ」歌々を撰んでしたためたことが記されている。

しかし、今日の研究では、定家がもともと撰んだ百首(『百人秀歌』)と現在伝わっている『小倉百人一首』との間に相違があることが指摘されている。『百人秀歌』には、後鳥羽院の「人も惜し」(九九)と順徳院の「ももしきや」(一〇〇)の歌が入っていない。承久の乱で配流になった両院の歌を撰ぶことを避けたためであろう。さらに、子息・為家の代あたりで多少補訂され、現在の形になったと考えられている。

  また、定家が『百人一首』を編纂して以降、他に多くの『百人一首』が編まれた。よって、それらと区別して嵯峨(=小倉)山荘の障子歌ということで『小倉百人一首』と呼ばれるが、一般に『百人一首』というと、この『小倉百人一首』を指している。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 14:37:53 | 显示全部楼层
一、天智天皇(てんじてんのう)

秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ わが衣では 露にぬれつつ
■歌意
秋の田のほとりにある仮小屋の、その屋根を葺いた苫の編み目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れていくばかりである。
■作者
六二六~六七一。舒明天皇の子(中大兄皇子)。藤原鎌足らと蘇我氏を倒し、大化改新を実現。近江(滋賀県)に都を開く。
■鑑賞
暮れていく晩秋の静寂な田園風景
屋根にした苫のすきまから落ちてくる冷たい露に、しだいに衣の袖がぬれていく。収穫期の農作業にいそしむ田園の風景を詠んだ歌。定家は、言外に静寂な余情をもっているとして、この歌を「幽玄体」の例にあげている。
百人一首のトップバッター。定家はこの歌を高く評価していたみたいで、他の歌集にも出てくるらしい。彼にとって天智天皇はやっぱり特別な存在だったんでしょう。平安京初代天皇の桓武天皇は天智天皇の血を引く子孫。つまり、平安時代以降皆その子孫が代々天皇になっているので、定家にとっては畏怖すべき存在だったんでしょうね。・・・にしても現実味がないよなぁ・・・と思ったり。天皇が露が漏れ落ちてくるような小屋で何してるんだって突っ込みたくなりますよね(^_^;)それともそんな場所意外にたくさんあって、こっそり抜け出したりしてたんでしょうか。まだ中大兄皇子だった頃に。いろいろと想像が尽きません。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 14:38:31 | 显示全部楼层
二、持統天皇(じとうてんのう)

春すぎて 夏来にけらし 白妙(しろたへ)の 衣ほすてふ 天(あま)の香具山

■歌意
春が過ぎて夏が来てしまっているらしい。夏になると真っ白な衣を干すという天の香具山なのだから。
■作者
六四五~七〇二。天智天皇(一)の皇女。天武天皇の皇后。
■鑑賞
白と緑も目に鮮やかな初夏の到来
当時、香具山には夏になると衣が干されていたらしく、その光景を見て夏が来たことを知ったという歌。山の緑と布の白という鮮やかな配色を際立てる作風である。香具山が天上から降りてきたという神秘的な想像力も働いている。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 14:39:25 | 显示全部楼层
  もう一つ:百人一首の中でもかなり有名な持統天皇の歌。なぜ有名かっていうと、八世紀後半に編纂されたと考えられている『万葉集』の読み方と、鎌倉期に編纂された百人一首の読み方がかなり違っているからっていうのも一つの理由だと思う。そこにはやっぱり定家なりのこだわりがあったんじゃないかなぁと思わせるものがある。・・・つまり、世にいう定家本とされる物語や日記etcは、定家のこだわりが随所に散りばめられているような気がするんですよね。たまに気分で本文かえちゃったりとか。苦笑 この歌は本当に鮮やかな色が目に浮かぶよう。爽やかさ清涼さ。そんなものを感じてしまいます。少し前まで、定家は”白妙の衣”を”卯の花”だと考えていた・・・なんて幻想的で素敵な解釈もあったらしいけど、最近はその説は消えかけているらしい。そんな馬鹿な話はない・・・と。でも、和歌なんて捉える人の感じ方によって好きに解釈すればいいんじゃないかな。学術研究になるとそうもいかないけど、要は詠んだ人と受け取った人の気持ちの問題だと思います。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 14:40:58 | 显示全部楼层
三、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
■歌意
山鳥の尾の、その垂れ下がった尾が長々しいように、秋の長々しい夜をひとりで寝ることになるのだろうか。

■作者
七世紀後半から八世紀初頭にかけての人。下級官人だったらしいが詳細は不明。万葉時代最大の歌人。

■鑑賞
秋の夜長をひとり寝る恋のわびしさ
恋しい人に逢えぬまま、秋の夜長を孤独に過ごさなければならなかった男の歌である。山鳥の尾の長さは夜の長さを示している。また、山鳥は昼は雌雄が一緒にいるが、夜は別々に寝ると考えられていた。そのため、歌の中では、離れている夫婦や恋人がたがいに慕いあうというような連想の働くことが多い。ちなみに、山鳥の尾が長いのは雄だけである。
感想など:
歌の聖・人麻呂さんです。平安時代以降、歌の神と崇められ、人丸(ひとまる)とも呼ばれたことから、”火止まる”とか”人産まる”など、火災や安産の神にもなったという・・・。『万葉集』の彼は、とても演出家だと思います。自分が想像した世界の人物になりきって作ったと思われる歌もいくつかあります。後、この人は長歌も上手い。文章考えるの好きだったんだろうなぁ~と思ってしまいます。ちなみに、いつの時代にものめり込む性格の人がいるようで(他人事とは思えない(ーー;))源通親という人は「人丸影供」の歌合なんて祭りを催しております。人麻呂の像に向かって線香を手向け、みんなで歌合をするんだそうな。もちろん人麻呂を偲んでの歌合なんだろうけど、今で言うと戦国時代の人を偲んでの会みたいな感覚でしょうか。そこで歌合するのが、いかにも貴族だなぁと思ってしまいます。笑 ちなみに、定家もこの歌合に出席したそうな・・・。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 14:42:16 | 显示全部楼层
四、山部赤人(やまべのあかひと)

田子の浦に うち出でてみれば 白妙(しろたへ)の 富士(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪はふりつつ

■歌意
田子の浦に出てみると、真っ白な富士の高嶺にしきりに雪が降っていることだよ。

■作者
八世紀半ばごろの人。『万葉集』第三期の代表的歌人。

■鑑賞
風景の中心を占める富士の山頂
眼前に田子の浦、遠くに真っ白な富士の高嶺を配置した構図になっている。近景が具体的に描写されないのに対して、遠景の富士が最も鮮明に映像化されている。空間の安定した構図が構えられており、叙景歌と呼ばれる歌の典型といえる。

感想など:
人麻呂と並び称される山部赤人の歌。人麻呂と比べると少し時代が下るので、人麻呂の歌風を受け継いだ側にいた人です。人麻呂と赤人について、紀貫之は「人麻呂は赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麻呂が下に立たむことかたくなむありける」(『古今和歌集』仮名序)と書いています。つまり、貫之から見て二人は甲乙付けがたいってことです。私はあまり万葉時代は詳しくないのですが、赤人さんは人麻呂の伝統を引き受けつつも、新しい独自の世界観も表現していたのではないかと思っております
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 楼主| 发表于 2006-1-21 14:42:57 | 显示全部楼层
五、猿丸大夫(さるまるだゆう)

奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき
■歌意
人里はなれた奥山に紅葉を踏み分けて入っていくと、そこで鳴いている鹿の声を聞く時こそ、いよいよ秋は悲しく思われる。

■作者
八世紀から九世紀ごろの人物か。伝説的歌人。

■鑑賞
鹿の鳴き声に悲しみのきわまる秋
雄鹿が雌鹿を求めて鳴く声を、秋の最も深い悲しみの時だとしている。紅葉は晩秋を彩る華麗な景物であるが、ここでは滅びの前の際立った華麗さが、秋の悲哀きわまった風景としてとらえられている。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 14:44:02 | 显示全部楼层
六、中納言家持(ちゅうなごんやかもち)

かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きをみれば 夜(よ)にぞふけにける
■歌意
かささぎが(翼をつらねて)渡したいという橋(=宮中の御階〔みはし〕)におりている霜が白いのを見ると、夜がふけてしまっていたのだった。

■作者
七一八?~七八五。大伴家持(おおとものやかもち)。旅人(たびと)の子。『万葉集』第四期の代表的歌人で、その編纂にも関係。

■鑑賞
冴えわたる冬の夜空に描く幻想
冬の夜ふけのきびしい寒さを、宮中の御階(階段)におりた霜の白さによってとらえた歌である。ここでは、宮中の御階を天の川にかかるかささぎの橋に見立てている。地上の御階に霜のおりた風景が、中国的な七夕伝説をも取りこんで、冴えわたった星空と結びつき、幻想的な厳冬の夜ふけの世界を描き出している。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 14:45:40 | 显示全部楼层
七、安倍仲麿(あべのなかまろ)

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
■歌意
大空をふり仰いで(はるか遠くを)見てみると、(今見ている月は)かつて奈良の春日にある三笠山の上に出ていた月と同じなのだなぁ。

■作者
六九八~七七〇。正しくは阿倍仲麿。遣唐留学生として渡唐。帰国できないまま唐土で没。李白・王維らとも親交があった。

■鑑賞
帰国を前に胸にこみあげてくる望郷の思い
中国での長年の留学生活を終えて帰国する、その惜別の折に月を見て詠んだ歌。遣唐留学生として十七歳で入唐してからすでに三十年の歳月が流れ、いよいよ帰国という時にこみあげてくる望郷の思いを、故郷で見た月を重ねて表現している。
■出典・参考
『古今集』(羈旅・四〇六)。「もろこしにて月を見てよみける 安倍仲麿」として見え、「この歌は、昔仲麿をもろこしにもの習はしつかはしたりけるに、あまたの年をへてえ帰りまうで来ざりけるを、この国より又つかひまかりいたりけるにたぐひてもうで来なむとて出で立ちけるに、明州といふ所の海べにてかの国の人むまのはなむけしけり、夜になりて月のいと面白くさし出でたりけるを見てよめるとなむ語り伝ふる」と左注にある。


二十歳で遣唐使として入唐し、玄宗皇帝に仕え、宮廷詩人であった王維や李白とも交友があった阿倍仲麿さんです。帰国を試みましたが夢かなわず、五十四年もの長きを唐土で過ごしました。この歌の作者については甚だ怪しいです。どうも帰国できなかった仲麿さんの人生をドラマティックにしたてたかった人の作ではないかということだそうです。『土佐日記』に阿倍仲麿が帰国の折、その別れを惜しんだ人々が宴を開き、そこでこの歌を作ったという話が出ています。本当は唐土の人々と送別の宴を催しているのですから、仲麿本人も漢詩を読むのが普通ですが、日本ではこういうとき和歌を詠むからといって作った歌がこの『百人一首』にも採られている歌だと記されています。その歌を日本語が分からない唐人のために漢詩に翻訳したのだとか・・・でも、はっきり言って日本語がほとんど通じない相手に和歌を詠む必要があったとは思えないんですよね。やはり仲麿作とするには無理がありそう。でも、仲麿が遣唐使として唐に行ったことも、一度帰国しようとして出来なかったことも本当ですから、それを憐れんだ誰かが作ったのだと思います。望郷の思いは時代や国が違ってたとしても、とてもしみじみしますものね。・・・ところで、唐での仲麿さんの名前は朝衡(ちょうこう)とか晁衡(ちょうこう)といいました。その晁衡との別れを惜しんだ宴で詠まれた王維の漢詩が「送祕書晁監還日本國」です。晁監(ちょうかん)というのが仲麿のこと。監というのは仲麿の仕事を表してると思うんだけど、唐時代の役職についてはさっぱりのなのではっきりしたことはわかりません(^_^;)その王維の漢詩をご紹介しましょう。
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 楼主| 发表于 2006-1-21 14:47:28 | 显示全部楼层
随時更新予定
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发表于 2006-1-22 10:15:32 | 显示全部楼层
真好啊。期待更新后续。不过要是有词语文法的解释就更好啦。
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发表于 2010-1-16 20:56:57 | 显示全部楼层
期待期待~~
不过本人功力不够啊~~
很多地方看不懂啊……囧……
同楼上,最好有文法解释~~
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