、「西洋法之论を借て、私说を恣にせんか為、議事院を開かんとする覚も随分可有之哉候へは、若々其向々より朝廷へ議事院建白出候而も、軽率御採用被為在候而は、天下之一大変動眼前に生し可申は勿論と、深く心痛仕候」(『丁卯日記』)と述べ、半ば警戒的な態度をとっている。つまり春嶽が危惧する「私説を恣にせんか為」とは、薩摩・宇和島両藩により後藤の「会議論」が討幕に利用されるおそれのあることを示唆している。土佐藩の大政奉還論に疑念をいだいた春嶽は、十一月八日入京し、翌九日土佐藩士福岡孝弟の訪問をうけた際、慶喜に会議を「御主宰」させるという土佐藩側の意向を承知し、その公議政体路線に沿った懸命な入説活動を進めるとの態度を明らかにした。
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剛才發錯了地方,髮到學習區去了,又不知道怎麽才能刪掉..大汗... |