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十根针,(芥川龙之介)

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发表于 2006-4-23 00:46:19 | 显示全部楼层 |阅读模式
  十根针
芥川龙之介
一,有些人
我深知这世上有些人的有些事情.那些人无论对什么事情都是要解释一番的.就算是一朵玫瑰,那些人在体味美好的同时总能想到我只不过是见到了植物学志中蔷薇科中列举的植物.就算是他们在折下花朵的时候,他们也能这要想.
仅仅靠感觉来体验生活的人,要比这些人幸福得我.所谓认真的美德对这些人们(感觉的同时,也要加以解释的人们)是无缘的.这些人把自己的人生都花费在恐怖的解释游戏之中,不是吗,所有的幸福,在解释的同时也就所剩无已,所有的痛苦,在揭露的同时,也就发生了.有些人,生下来就已经死了.对这句话,这些人,刚好受用.

二,我们之所以为我们

我们绝对不是我们.我们的祖先完完全全就在我们之中生存着.如果我们不遵从我们的祖先,我们只能陷于不幸."这是过去的业障",这句话可不仅仅是对不幸的比喻."发现自己",其实也不过要发现我们的祖先,发现那生活轮子周而复始的重复是多么类同.同时,也只不过是发现那些在天上支配我们的神明,他们那刻薄的心理和动机.

三,乌鸦和孔雀
我们最担心的事情不过是我们仅仅是种紧密地排列着而不能超越这排列的东西.所有乐观主义的掩耳盗铃都试过了吧,可乌鸦还是乌鸦,永远也不是孔雀.就好象,一个诗人写出来的一句诗实质上就是他全部的诗.

四,空中的花束

科学已经说明了一切,未来要说明一切的一切.可令我们觉得沉重的东西恰恰就是科学,那种也可以称之为艺术的科学.那种东西,就是我们的精神在飞跃时从空中捉到的花束.L'homeest rien,就算我不这样引用权威来吓人,我也能证明我们作为人的差别其实也不大."以人性而存在"的波德莱尔们在所有的疯人院里汗牛充栋.可偏偏恶之花或是小小散文诗却不曾从他们的手中被创作出来.

五,2+2=4
2+2=4是真实的.但事实上在这个加号的地方你却必须要知道那里面包含的,可以是一个宇宙.所有的问题,都仅仅出自于这个加号的地方.

六,天国
如果天国真的被造成,那也只是另一个人间.
那个天国就好象在刺木丛中开放的玫瑰,那里有一种称为放弃的绝望正安抚着无数的人们,除此之外就是野狗在四散奔跑,全无方向.真的如果在天国,就算做野狗也不坏吧.

七,忏悔
我们用各种忏悔来折磨我们的心.但所有的忏悔不外乎是这样样子,我再不做我做过的事了,我一定做我说过的事情.

八 另一些人

我还知道有这样一些人.那些对什么都难以满足.一个女人,一段想念,一棵石竹花,一片面包,令他们觉得足够是不可能的.没有人能象他们那样浪费的活着.同时也没人能象他们那样寒碜地活着.那种人已在不知不觉间成为各种各样的奴隶,各种各样东西的奴隶.就算有人送给他天堂,----实际点,就算是通往天堂的道路吧,他们也只能成为天堂的奴隶.多欲失身,这句话就是为他们量身订作的.孔雀毛制成的扇子,用人奶养大的小猪做成菜肴,这些都不能令他们满足.他们追求到令自已痛苦与悲伤是不能罢手的,这与求不得时的痛苦与悲伤是两码事,在追求之中,有一道洪沟把他们与众人分开.沟这边的他们不是傻瓜,但他们又是傻瓜中的傻瓜.拯救他们只有一个方法,把他们变成洪沟对面的人们.就算这样,他们根本也是无可救药的.

九,声

在闹哄哄的人群中你觉得一个人的声音一定不会被听到,可是,事实上一定会被听到,只要我们的心中还有一缕火苗没有熄灭.事实总是这样的,那无数个的一个人的声音往往只是在等未来给他一个扩音器.

十,语言

我们想把我们的情绪转给别人,那是不容易的.这也只能取决于那个别人的领受能力了.拈花微笑的古代当然是这样,千百行句子交错的新闻铺天盖地而来时也是这样.我说的话,也只有另一个我能明白.但我就象树木花草一样会成长,到那时,那个时代中的我也只能由那个时代的另一个我才懂.不,不是这样,在那个时代里,我自己的话语,在另一个时代的我自己看来,也完全只是一个别人.但是,我却相信,总有另一个我能明白我这疯狂的呓语.
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发表于 2006-4-25 13:39:41 | 显示全部楼层
呵呵~~~有些很有感触捏。。。有些事。。。也素这末认为D捏。。。
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 楼主| 发表于 2006-5-5 13:52:32 | 显示全部楼层
十本の針
芥川龍之介



     一 ある人々

 わたしはこの世の中にある人々のあることを知っている。それらの人々は何ごとも直覚するとともに解剖してしまう。つまり一本の薔薇《ばら》の花はそれらの人々には美しいとともにひっきょう植物学の教科書中の薔薇科《しょうびか》の植物に見えるのである。現にその薔薇の花を折っている時でも。……
 ただ直覚する人々はそれらの人々よりも幸福である。真面目《まじめ》と呼ばれる美徳の一つはそれらの人々(直覚するとともに解剖する)には与えられない。それらの人々はそれらの人々の一生を恐ろしい遊戯のうちに用い尽くすのである。あらゆる幸福はそれらの人々には解剖するために滅少し、同時にまたあらゆる苦痛も解剖するために増加するであろう。「生まれざりしならば」という言葉は正《まさ》にそれらの人々に当たっている。

     二 わたしたち

 わたしたちは必ずしもわたしたちではない。わたしたちの祖先はことごとくわたしたちのうちに息づいている。わたしたちのうちにいるわたしたちの祖先に従わなければ、わたしたちは不幸に陥《おちい》らなければならぬ。「過去の業《ごう》」という言葉はこういう不幸を比喩《ひゆ》的に説明するために用いられたのであろう。「わたしたち自身を発見する」のはすなわちわたしたちのうちにいるわたしたちの祖先を発見することである。同時にまたわたしたちを支配する天上の神々を発見することである。

     三 鴉《からす》と孔雀《くじゃく》と

 わたしたちに最も恐ろしい事実はわたしたちのついにわたしたちを超《こ》えられないということである。あらゆる楽天主義的な目隠しをとってしまえば、鴉《からす》はいつになっても孔雀《くじゃく》になることはできない。ある詩人の書いた一行の詩はいつも彼の詩の全部である。

     四 空中の花束

 科学はあらゆるものを説明している。未来もまたあらゆるものを説明するであろう。しかしわたしたちの重んずるのはただ科学そのものであり、あるいは芸術そのものである。――すなわちわたしたちの精神的飛躍の空中に捉《とら》えた花束ばかりである。L'home est rien と言わないにもせよ、わたしたちは「人として」は格別大差のあるものではない。「人として」のボオドレエルはあらゆる精神病院に充《み》ち満ちている。ただ「悪の華《はな》」や「小さい散文詩」は一度も彼らの手に成ったことはない。

     五 2+2=4

 2+2=4ということは真実である。しかし事実上|+《プラス》の間に無数の因子のあることを認めなければならぬ。すなわちあらゆる問題はこの+のうちに含まれている。

     六 天国

 もし天国を造り得るとすれば、それはただ地上にだけである。この天国はもちろん茨《いばら》の中に薔薇《ばら》の花の咲いた天国であろう。そこにはまた「あきらめ」と称する絶望に安んじた人々のほかには犬ばかりたくさん歩いている。もっとも犬になることも悪いことではない。

     七 懺悔《ざんげ》

 わたしたちはあらゆる懺悔《ざんげ》にわたしたちの心を動かすであろう。が、あらゆる懺悔の形式は、「わたしのした[#「した」に傍点]ことをしないように。わたしの言う[#「言う」に傍点]ことをするように」である。

     八 又ある人びと

 わたしはまたある人々を知っている。それらの人々は何ごとにも容易に飽《あ》くことを知らない。一人の女人《にょにん》や一つの想念《イデエ》や一本の石竹《せきちく》や一きれのパンをいやが上にも得ようとしている。したがってそれらの人びとほどぜいたくに暮らしているものはない。同時にまたそれらの人びとほどみじめに暮らしているものはない。それらの人々はいつの間にかいろいろのものの奴隷になっている。したがって他人には天国を与えても、――あるいは天国に至る途《みち》を与えても、天国はついにそれらの人々自身のものになることはできない。「多欲喪身《たよくそうしん》」という言葉はそれらの人々に与えられるであろう。孔雀《くじゃく》の羽根の扇や人乳を飲んだ豚《ぶた》の仔《こ》の料理さえそれらの人びとにはそれだけでは決して満足を与えないのである。それらの人々は必然に悲しみや苦しみさえ求めずにはいられない。(求めずとも与えられる当然の悲しみや苦しみのほかにも)そこにそれらの人々を他の人々から截《き》り離す一すじの溝《みぞ》は掘られている。それらの人々は阿呆《あほう》ではない。が、阿呆以上の阿呆である。それらの人々を救うものはただそれらの人々以外の人々に変わることであろう。したがってとうてい救われる道はない。

     九 声

 大勢の人々の叫んでいる中に一人の話している声は決して聞こえないと思われるであろう。が、事実上必ず聞こえるのである。わたしたちの心の中に一すじの炎の残っている限りは。――もっとも時々彼の声は後代《こうだい》のマイクロフォンを待つかもしれない。

     十 言葉

 わたしたちはわたしたちの気もちを容易に他人に伝えることはできない。それはただ伝えられる他人しだいによるのである。「拈華微笑《ねんげみしょう》」の昔はもちろん、百数十行に亙《わた》る新聞記事さえ他人の気もちと応じない時にはとうてい合点《がてん》のできるものではない。「彼」の言葉を理解するものはいつも「第二の彼」であろう。しかしその「彼」もまた必ず植物のように生長している。したがってある時代の彼の言葉は第二のある時代の「彼」以外に理解することはできないであろう。いや、ある時代の彼自身さえ他の時代の彼自身には他人のように見えるかもしれない。が、幸いにも「第二の彼」は「彼」の言葉を理解したと信じている。
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发表于 2006-5-7 19:18:06 | 显示全部楼层
恩。。。还素原汁原味D好捏~~~
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发表于 2006-5-15 12:41:20 | 显示全部楼层

原汁原味阿,大谢中阿!!!!!
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