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发表于 2005-6-22 14:31:27
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有無相い生ず 9 k4 A# u7 u# M
; n, k2 s5 E9 {% B これと似た言葉に「有無相い通ず」というのがあるが、この二つの言$ D0 B: v5 ~" d/ c8 _
葉はお互いに関係が無く、また意味するところも違っている。「有無相
" r( l' n& z) u! D, x( I# d0 z, mい通ず」とは、史記の「有無を交易するの道通ず」という語から出たも
* A" Y/ F, O: V! dのであろうが、その意味は、お互いに有るものと無いものとを交換しあ, _$ k- R/ J/ H" x- q$ ~7 s
い、融通しあうということだ。
4 ]- [8 p1 ]7 K
- n! j0 |+ ~1 p# Y6 r/ }! n8 \* K6 y" [, r 「有無相い生ず」は老子の第二章にある言葉。また、「有は無より生
! d/ n1 B, l, X% n0 ~ず」という同じ意味の語が、第四十章に見えている。* I0 X9 f4 q5 I- c$ f! n' L, \
6 j1 E8 ^0 E) B9 P( g; t/ k/ i+ e 第二章には、. e) l3 Y$ w/ w! _! z# c9 _- L
8 T- D2 `! F% {$ K 「天下、みな美の美たるを知ればこれ悪なるのみ、みな善の善たる8 n/ p0 r1 ]0 L# e* h; { p
を知ればこれ不善のみ。ゆえに、有無相い生じ、難易は相い成し、+ U( A1 O; B/ |2 A
長短は相い較し・・・・」
; q- I+ W2 @9 A$ R7 M$ w% L6 C 1 x- `; v$ w+ ?$ T/ M. [5 p
とある。これをひらたい口語体にすれば、" `" w$ V; r8 V7 O L# @+ y
1 V/ h" ~' }3 }$ A) Z; {8 V 「これが美だと認知するのは、同時に、他面に悪のあることを認知6 L7 c- _3 t, r) p9 Z
することだ。善と不善の関係もまたしかり。このように、一つの
6 K7 K+ E0 V8 o* K. I 存在はそれと対立する存在を認めることによって存在する。有は" u' Y# ^2 F* }8 r4 {
無があることによって存在し、難は易により、長は短によって存
( y% m" k \8 f 在する」: G2 w# D0 _/ A" p" \) N& B' Z9 i
5 x, S% N* j, C8 E* u# ?ということになる。この世は全て関係において存在する、存在は全て相
! A9 |$ V0 {" w7 d A( g対的であり、あらゆる価値もまた相対的なものであることを言ったもの
1 x M( M, d; H r. E( T: jである。この考え方は老子の認識論の基本をなすものであり、また宇宙5 ] I% v: m5 L4 u# O; T
構成の原理でもある。6 m* u9 A* W: ~! j0 s
( h- C* k6 e& T f. I1 b
常識の世界において無という存在はない、存在するものは有である。
. {( S9 Q# P* G! sだがしかし老子流に言うならば、無なしに有は存在しえない。無と有の
: C* Z { N7 }$ L9 ^この関係を、部屋や窓は、空間つまり無のあることで、部屋や窓として
& w* G& [1 j- q) ]" Z s存在するという比喩であらわす。また「天地の間はそれなおフイゴのご
/ W0 f- S+ I9 W! Pときか、虚にしてつきず、動いていよいよ出ず。」(第五章)という比 Z* }9 M. \# W/ n
喩であらわす。フイゴは無があることによって初めてフイゴとして存在
% ^- m( S% _: d* hする。8 O% H" U% Q7 ~! P
4 |1 N: }, [5 f
この比喩にはもう一つ別の意味が感じとれる。フイゴは存在するが、
2 m" O% v* B& B, d. P# d活動することによって時々刻々の形を変える。形として存在するものは7 R' [( b! ?% J! I9 Z; z
従って変化するものである。生成消滅の状態において続くのである。存) V& S( ]& t2 u q
在が活動するとはそのようなものであり、その活動を可能にするのが無& T! g2 _" R3 f8 u* D4 Z$ u" _
なのである。無は無限の力をもって有を生ずる。フイゴはあくまでも比 u* h. ?$ ?, R
喩であるから、無と有の関係を完全に説明する事はできないにしても、
' v R9 E2 \% j) M2 Z2 Oなかなか適切な比喩である。
( ]! ]4 F# |) L8 D; ?" O
+ J) z( o" p- L. t, V 第四十章では、「反(カエル)は道の動にして、弱は道の用なり。天
! M9 @3 }0 B# I! s' E. X下の物は有より生じ、有は無より生ず」と言っている。道(真理)から
, y& ^+ y9 i% T1 h" P( D" K見るならば、動くという邉婴蠋ⅳ毪趣い動である。どこかへ進んで
% x( f9 D8 r# `9 R) k c7 K$ Bいるということは、帰りつつあると言うことである。物がなにかの形を. @8 V" K+ g' E' R: e
とりつつあるということなのである。また強い状態――何ごとかをなさ0 [4 l# j7 @. K g& U( H$ x
んとする状態――は邉婴韦趣蓼盲咳酩ぷ磻B、意志のなくなった静の状! f$ {5 r, }5 C+ Y2 H9 t8 `9 u
態へかえりつつあることで、それが道の作用なのである。有は無から生
: l b, k" o7 Q# kまれて無にかえる。存在することは無くなることである。以上がこの章
0 z4 F! g, Y5 C4 Z4 h- ~の意味だ。「その根に復帰する」とか「無極に復帰する」とか老子が言8 h* o3 [& ^ {# \" `4 t
うのもこの意味だ。
" Y! ^% V0 Z/ J% B5 U# @
. Q; m, |& K& u# A. w 『老子』冒頭の有名な言葉、「無名は天地の始めにして、有名は万物
/ g% n- T% T$ _% r5 j8 s* k; a: |の母」というのも、有無の関係を説いたものと見てよい。無が有なる天
K; ]6 I) V G) K: l8 O) t# `地を生み、さらに発展して万物を生む。無があって次に有があるという
: D: @" X7 a2 Nのは時間的に無が先に存在するというのではない。有とともに無が、無
% h3 J8 @ M. K k, p# Tとともに有が存在していると見るべきである。従って有名の母も無名な8 Q7 Y+ m' ]5 B* {; D( ^7 i0 v
るものも実は一つのことだといってよい。絶対の世界に立てば有も無も/ d3 q" ~9 p# y) g: i9 _, G# x$ c
一つなのである。この「一」を体得することを老子は、「一を抱く」と* p' }( G# F9 r, @% ^( K/ R
か「朴を抱く」とかいう言葉であらわす。一を抱いた人間は調和のとれ
c1 H+ e+ u$ {( s. |; Q$ ^た統一を勝ち取ることができる。「一」とはまた老子がいう玄なる道で; g, Q( n" g$ {8 _
あり、自然であり、実在である。しかし老子は、どちらといえば、無を# }: v+ V1 E5 j ~1 o
強調しようとして、無がはじき出した有とその活動とを価値のないもの3 T$ u ~; T8 V. m8 s7 {# m4 s
のごとく取り扱った。それは人間が有の世界にばかりとらわれて、無の
, t# {$ e- f. j, \6 u価値を全然知らなかったからである。無をより本源的なものと考え、
" K8 D! X0 a: d/ M/ V- | W「有は無より生ず」といったのである。 |
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