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楼主: bgx5810

中国故事物语(已载完)

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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:24:23 | 显示全部楼层
解語の花

! A! g5 d1 j9 U6 V7 o, f* g; d2 ]
 唐の都長安は、いま駘蕩たる春をおくって、風薫る夏をむかえようと0 N3 a5 E8 |: m4 [% B- w3 @
していた。その一日のこと。太液池の蓮花がひらきましてございます、1 ~3 D8 J9 r* z7 K+ r" Q
というしらせに、大唐の君主、玄宗皇帝は、妃や官女をしたがえて、そ
' l6 n9 ]' I, J* P# H" bの池のほとりにでた。
1 e. [' _, s) C& `% q* ?* i7 u 
& c5 i2 d% o0 |: p9 c. s 池をおおう、蓮の丸葉のさわやかな緑。そして、朝露をうけた淡紅や
- @4 L7 d) p+ e' x( `3 |( ?白の蓮花は、まるで夢幻のもののように美しかった。このとき皇帝は、  I  I: k4 ?0 E4 `3 j
かたわらの妃を指さしながら、左右のものにこう語った。
+ ?5 f4 P' [3 }3 m* j 7 [) g) g" Q9 u7 B/ ~1 G+ `
 「どうじゃ、池の蓮の美しさも、2 o; L( M4 t/ J, L3 c5 M
  この言葉を解する花(解語の花)にはおよぶまいが。」
+ e1 m/ q/ O9 ?& z, u: A5 _ 
! D$ _0 Y; Y; |/ F' Y  K いかにも、いかにもと、左右の官女はおそれいって、ほめそやし、ゆ: ~4 x2 k7 S& u3 u! i/ v5 `/ {
ったりと美しい妃は、花のほころぶように微笑んだ…(「開元天宝遺事」)
! B' Y9 y3 ?  t& G. T 
* P7 x) M& I7 ]  N6 U この美しい妃が、名だかい楊貴妃である。さきの年、玄宗は驪山の湯& q$ A1 g! O7 S0 O  g7 [8 n  y% }
泉宮にいったとき、自分の子寿王の妃だった彼女を見そめた。彼はがま% x( G+ _+ |8 h
んがならなかった。とうとう彼女を寿王からひきはなし、自分の後宮に
7 [% j) g6 l8 [入れることにしたのである。思いのかなった玄宗は、もう政治にみむき
1 X! c4 }$ A( e* r9 J0 L, Z9 [  gもせず、楊貴妃だけにうちこんでいく。「春宵はなはだ短く、日高うし
3 w+ N& c' J9 L3 N$ aて起く」というぐあいであった。まったく、うれしくてならなかったの
; S, f# i5 P/ \2 ?6 Vだ。さてこそ、どうだ、うちの妃は美人であろうといったのである。こ
' b4 G5 {* T% A6 M+ E2 x! Z8 U6 O) Uののち玄宗は、楊貴妃をよろこばせるためだけに、珍果茘枝を遠い遠い; @6 @1 Z" ~# L* |9 P- f: }0 e
嶺南からとりよせるようなことをする。味の変り易い茘枝を瑞々しいま
' q0 N9 K: x" z* eまとどけるため、早馬にのった使いが、仱辘膜畞りつぎ、夜を日につ
$ z1 g& {- m' q" l) f$ k; d5 pいで駆けた。馬がたおれ、また坑におちて死ぬものも数多かった。諸事
- Y# d+ q& g0 s: ?このとおりとなった。貴妃の親戚というだけで、楊家の一族は高い位に# B( b/ [. i4 K# d
つく。それはやがて安祿山の反乱となり、楊貴妃が、怒った兵士たちの4 \, h* e. P) c( Z$ c
要求によってくびり殺される、あの馬嵬の悲劇につづくのである。そし
# A: q( e" r- O( n, hて、位を退いて上皇になった玄宗は、死ぬまで貴妃を恋慕ったという。/ X8 ]" d: E9 i5 ~9 Q2 N
 * S) |1 `; l$ H4 r! h4 t# D
 その治世の前半二十数年を「開元の治」とよばれるほどによく治めて
4 _2 r1 S( R+ |% x6 U. P: V" q名君とたたえられた玄宗は、このように終りを完うしなかった。楊貴妃
% q0 t& j4 b$ q5 C2 R+ z8 `を得るあたりから、一転して乱れだす。暴君ではないけれど、まったく
) R2 e6 G9 b# F4 pだらしなくなるのである。名相や諫臣にいかめしくとりまかれ、名君と+ W  K6 ^5 B2 [& c3 N
してうごき続けること二十余年、彼の中の凡人がもうとてもたえられな# t- K/ ^+ M# x' H4 t
くなったのだろうか。ともかく、さまざまな要素をもった生涯である。
# H& P& ^5 S0 k: v9 b3 b7 Bそれは悲劇であるか、喜劇であるのか。玄宗と貴妃との仲を美しい悲恋
, x# }) q' P, J/ e3 K& K7 c+ Eと見る人もあろう。また、「どうかね、この美しさは!」とやにさがる姿( V' r% z. D. j1 H. O
を笑うのも、後人の自由というものである。しかし、茘枝を撙印槁襖  r! W- n& B  C7 a# X
をうけた人々には、それはたしかに悲劇であったろう。
" z' x" j# J' T ( l+ s' w) V5 L' J) K/ o  j, i( F
 ともあれ、玄宗と楊貴妃が生みだした、かずかずの話やことばの中か
/ q' Y# V& S+ u: m( G- Fら、この「解語の花」も生き残ってきた。ものを言う花、つまり美人の- ^! n" O) E$ c1 _
ことをさす。この花は季節をとわず、四六時中存在する。いつ目の前に
+ C* d' Z; F! Y9 V, M% Lあらわれ、どんな結果をうむかもしれない。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:24:50 | 显示全部楼层
偕老同穴
/ K4 v- D$ R, a
  a& U: T& y$ O- v- q! u
 偕老同穴とは夫婦仲睦じく、生きてはともに老い、死しては穴を同じ" j" N' \% a: }) y4 ?1 s% K
ゅうして葬られようと誓いあうさまをさしていう言葉である。また海綿
' ]! @' x  v" f$ R/ u動物の一種にこの名称の動物がいる。形はヘチマににており、広い胃腔
! e! A7 X) p9 }+ ]2 l$ t+ Bを有し、下端は長い根毛をなし、深海の底に立っている。胃腔の中にド- L$ ~1 ~1 l( n0 x
ウケツエビが寄生する。雌雄一対がともにいることから、はじめはこの  j6 A# B/ X. {3 t6 g( v9 N2 i
エビを「偕老同穴」といったが、後に海綿の方をさしていうようになっ% l# y$ {8 a# \9 V! h
た。誰が最初にこの動物たちをこう名づけたかは知らないが、元来は夫
) ~1 d: c3 T* [婦のむつまじさを形容した言葉であり、出典は『詩経』の「はい風・撃" U& i7 J! t8 d  t0 c3 `5 B- t
鼓」、「よう風・君子偕老」、「衛風・氓」、「王風・大車」などの章  m- ?$ r+ ^' k4 b7 F$ h" y+ m
である。いずれも河南省黄河流域にあった国々の民謡である。
4 [7 [9 h5 O- o 
" u' g/ ~4 C' }( C+ I 
& j: ~& B1 \" p& S6 c2 E「撃鼓」は出征した兵士が、故郷に帰れる日もわからず、愛馬とも死に' d8 R! `3 W. e8 Y" ^, Q3 f
わかれ、戦場にさまよいながら、故郷の女を思い出して歌ったもので、
3 Y2 c7 q; f2 E7 x+ W# ~その第四章に、
1 e2 {; h" U& J+ R# g9 l 
/ I, J7 H# l2 [$ r   死生契闊
6 R1 ]" Z% n# d' x" `1 ]+ A3 t   子とともに説をなす3 Q5 [  [0 d  K0 o2 J
   子が手を執って
$ u# D( i2 |& j+ J   子とともに老いん: S: ^6 P$ b) O/ G4 U0 G) z
 
3 r4 O! A% z6 ]$ {3 D- r( c9 F           死んでも生きても一緒だと
. ?3 O+ }7 {3 `8 V           お前とともにちかいあった# f# f4 Y% p6 O8 ~* g$ o% T
           お前の手をとって& T4 B7 @' k2 D5 r
           白髪頭までもとちかいあった5 t; i1 O3 \# b
 + H1 a* A3 }2 w: K, L
 とあり、「ああ、それもあだとなった」と結んでいる。悲しい兵士の/ q6 f2 y# W- O8 R+ T3 S8 ?
歌である。3 p6 V! E& w% O5 I" L
 * ~% f7 A8 l- t" u. p# a
 4 Q6 e* @1 {; {0 f
「君子偕老」の詩は、少し風変わりな歌で、貴婦人をそしったもの。
1 s  [& s% o6 U" T& `その第一章に、5 x- x3 [8 }, a9 v, D! f9 I
 
( `  V7 z! M' s- m1 B   君子と偕に老いんと+ v% \& [6 v0 Q: R: f0 T. f
   副笄六珈
1 O$ b: Z, x7 q5 o" z   委々侘々として7 T+ B6 a/ b! W/ Q  D
   山の如く河のごとし1 e7 g* c2 E* W4 j+ e$ M
   象服これ宜し
' A5 x/ L  [. q0 J# M   子のよかざる
* h+ r% G' B- g0 v9 p+ R" `7 |   ここにこれをいかんせん
6 I0 F. D! T# o- y" G5 s 
. a. ?: C/ D0 L: \% u/ ]           主さまとなら百までもと
. J: c: Q& Y: b+ Q, w' V           髪には簪、玉飾
3 d/ P3 f; ^# ?2 B0 U. ?           しゃなりしゃなりとしとやかで/ c/ F6 U; v1 w; h4 V
           山のように河のように御立派で5 i4 P' b  z! U0 O2 d
           はでな衣装はおにあいだが8 y' d% ~# u. m+ ?4 k6 M% d
           あなたのしていることが余りよろしくなくては
: D& [  l( ~& ?  I           一体どうしたものでしょう
7 D& Q5 R8 a: D0 m$ I! M/ I 
$ b) u8 M; l3 n  M「子のよかざる」とは、口先では偕老同穴であろうと夫に貞順と愛情を/ a) T0 C) G2 W* m4 ?7 }4 _
示しながら、実際の行動において「よろめき」が見られるというのであ3 j( d, F5 s  S: v, m! j5 l& ~( E
ろう。
6 e8 Y2 o, K: U: v 
) `3 A- R% _3 q% b0 \7 G+ a! b 
6 U. U$ S3 B2 m4 ]! g, B「氓」は長い物語詩である。毎年やって来る糸買いの行商人の口車に乗\
' X2 @  u) m! iって、自分の村をとび出し、行商人ところへ嫁いだ女の哀しい顛末を歌
% B4 y  L1 K1 Lったもの。男は嫁ぐまでは、優しげに言いよる、しかし嫁いでからはひ
+ Z; v; v3 l6 Rとすじな女心をふみにじり、乱暴をし、新しい女さえこしらえる。妻と
! Y  H/ j8 m0 @& K( T8 T7 Uして家の者に早朝から夜おそくまでこきつかわれることは恐れはしない
' S* u! @9 I% P  Z+ x4 a$ K; p8 Hが、男のそんな気持ちだけは悲しい。そして女というものは一度嫁げば
6 e, ^/ U6 S/ R* m/ h/ ~; I. K; P$ l里へはもどれぬものである。そして、
; U- _/ O" d8 d- S# ` ! N1 D2 ]3 ~) P
   なんじと偕に老いんとせしに
5 N1 U; Q  D: {4 v7 \! l/ r) v   老いては我をして怨ましむ# B+ K7 D8 Y- G$ R# K
 
5 q  [# B% R% K1 @7 [8 j) F, f. y と女心の哀れさを歌う。この歌は村の老婆が、たとえば泉のほとりな
" x, O1 r! G! H8 T; j& t/ Oどで若い村の娘たちに歌ってきかせ、用心するようにすすめたのだとい' t4 S: k" }4 i5 w6 U0 f
われている。
- q% F) \, J: Y- l" z# ^4 o 
  s( h! p7 S/ Y$ H0 s: r 
" Y* D/ J2 v$ h0 K1 d  ^「大車」には、次のような伝説がある。春秋時代の初めの頃、紀元前六
0 C5 t  w/ K6 `- g' o百八十年に楚が息国(河南省にあった)を亡ぼした時のこと、息の君主は
; _; B4 S, q& d1 h( v+ e% X; xとりこにされ、夫人は楚王から妻になるように所望され、宮廷にいれら! ]" r8 j) N4 T, o
れた。たまたま楚王が遊びに出た時を利用して、夫人はとりことなって
. M' b( z& d: P' V8 Tいる夫にあい、
) f4 F4 a4 w4 Y( V0 v/ q # r. h7 S8 ?# d
 「人は一度は死ぬもの、いやな思いをして生きても結局は死ぬもの。
) B5 P% p' y' w) V6 _; D- [  私は片時もあなたを忘れることはできない、+ N0 F8 Y7 A' [$ n( d  a6 c; ~" v4 A
  とてもこの身をほかの人にささげることはできない、# _  R" ^5 @9 h3 M/ r) U" w6 L
  生きてあなたのことを思い、魂が地上を離れてくらすよりは、* S1 s. e1 s2 R; }  H0 P
  死んで地下にもどった方がどれだけましだかしれません。」
; P8 Q0 t4 @" @3 A) L' h, ^ 0 m' K' J6 Z/ z5 k! N
 と言い、「大車」の詩を作って、夫のとめるのもきかず、自殺してし1 ]9 z' C; ]' W9 F
まい、夫もまたそのあとをおって自殺したという。その詩にいう。5 }! |3 {( z! I1 H  T' M
 
  ~+ ^% A1 j" p' y  v# e; X6 A   生きてはすなわち室を異にすれど, D% ]% o3 M, M' B
   死してはすなわち穴を同じゅうせん
3 {1 A) D( q3 b+ }, L9 q   予を信ならずといわば* {$ U1 u. V4 W3 N% K& f' o, i
   皦日のごときことあらん
% c2 p) ?" `' H5 {7 m$ m 
% @& ^8 m6 M! r; A/ `「皦日のごときあらん」とは、自分の心は天上に輝く太陽のごとく明ら
. f( Z: I& R% i. k, C( _" q0 |かでうそがないと誓っている言葉である。
. h) B7 H% b$ Z/ m; J7 g' M# z ; N7 L/ f8 t9 e6 ?5 B- L- V
 
2 D8 D2 h# R6 v5 d  B- x 先の三つの詩から「偕老」を取り、最後の詩から「同穴」を取ってで( E3 M' u& H' B3 v, i* u1 p
きたのが、この言葉だが、それらがいずれも「偕老同穴」のいかにむず
% Z9 Y( y! [* p% M+ w' n, tかしく、なしがたいかを嘆いた歌であることを思うと、この言葉も哀れ: w( P! H' ?/ J9 h8 S! h
である。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:25:13 | 显示全部楼层
蝸牛角上の争い
7 w; x6 f' e: T

( z) z$ D: P( `& K  r5 Q 戦国時代は中原の諸侯が覇権を争い、弱肉強食の武力抗争に明け暮れ
. S( e/ D: C' X6 N! ~3 U; xした時代である。この血みどろの現実をひややかにうち眺めて、蝸牛の
: }- F. r& y+ r2 I% Z3 ?角の上での争いにも似たおろかしい行為だと断じ去るのは、同じ時代に2 s3 A6 I# `2 s3 R. ]( O0 Z  w
生きた諷刺哲学者荘周(荘子)である。だからその著書「荘子」の「則陽
3 y$ ]; o% u( I篇」にあるこの話、発端はまともな歴史的事実を借りているし、登場人  ^, I3 a. ?1 F& t6 c: m- p
物もおおむね実在の人物ではあるが、結局はやはり荘子一流の寓言――
8 a+ V, I) b, x! o! A作り話として味読すべきである。
( Z; _/ b9 D  G7 a! o$ X. U* f3 y 
! q7 v6 Q1 A6 K 梁の恵王は斉の威王と盟約を結んだが、のちに威王がこれに背いたの( h" ]4 a6 f" R& u
で、怒ってひそかに刺客を放ち、威王を暗殺しようと計った。恵王の家# y, ^* a$ P; o0 V% Y0 g1 Z
来の公孫衍はその計画を耳にすると、暗殺などは恥ずべき卑怯な行為だ, `% F- w% P6 j; ^, S4 I- R" h
と考えて、王の前に罷り出で、堂々と実力をもって斉の国に攻め入りこ
  _7 o1 k, @. ^1 n: C. T, `れを伐ち懲らすべきだと主張した。もうひとりの家来の季子はその議論
& g' B( }$ Y/ n8 [8 g% m  Y1 F+ }, L3 D. Xを耳にすると、兵端をひらいて人民を苦しめるのは恥ずべき無道の行為
$ M+ ?. I  U4 x! e  x, Y" R5 h$ uだと考えて、王の前に罷り出で、9 G# R: ~) X# s9 ?" P1 ]
 7 d3 O, u2 K* ^/ f* T( x0 n
 「戦を好む者は国を乱す者、お聴きいれになってはなりません。」
  }" d) q, O# b  L4 P# c4 q- Y . {/ O9 D% y0 F$ R0 A; X
 と反対した。もうひとりの家来の華子はそれを聞くと、また眉をひそ
6 e1 P/ q! D1 m$ N) H. Q2 Vめて王の前に罷り出で、こう申しあげた。- h( d' r1 z) P2 `% s! {1 E% w$ @  y
 
3 m+ z$ }! d8 z; y' ? 「これらの論者はともに国を乱す者でありますし、  ~1 f! N+ y( l  F& n
  これらの論者を評して国を乱す者という者も、* F. F, B; O7 D3 L: Z
  なお是非の分別にとらわれている点において同じく国を乱す者と
0 ~4 B: }- W8 n1 J" e$ a4 C2 p  言わねばなりません。」
4 n/ E% }, Q: h* o% L* V 
6 Q, N# O7 [, F+ w! f0 W 「ふうむ。するとどうすればよいのじゃな。」" q* p! }  ~/ F6 s  V
 
& @) o8 `' i. B+ k4 y0 D5 S 「是非の分別を去った『道』の立場から
& i- X8 ?3 n2 H; H( ~+ Z0 R  ものをお考えになることです。」
4 X! d# g3 h$ z 
+ @8 J% C' K5 ] その話をきいた宰相の恵子は時期よしと見て、賢者の聞え高い戴晉人を恵王に引きあわせた。賢者はさっそく王に向かって語りはじめる。7 q: X7 k. I# a* e
 $ x1 L! q4 z( Z& T! C
 「蝸牛というものがございますが、
" g9 X: m) J6 m& v2 E. m  ご存じでいらっしゃいましょうな。」
/ F9 _5 m& ]6 o- Z$ i8 h   w& |1 `/ b/ \' Z+ _& R
 「知っておるとも。」; ]1 |1 v2 n; y8 C/ d% R( d+ V4 w
 2 l# p$ U0 r# A) z- e
 「その蝸牛の左の角には触氏という者が、% ^: Z! `8 J/ A& m% z) _$ P! j
  右の角には蛮氏という者が国を構えておりましてな。' N3 I. t! C! u* X
  お互いに領土を争って戦争をはじめ、死者数万、0 y5 e# P" V* v, n
  逃げる敵を逐うこと十五日にして: z9 f+ `  D& ]' g7 w4 o
  はじめて鉾を収めたということでございます。」
' y- b) R% z- v8 N. M, c 
) ~: |9 `; z% X7 V& D 「なんだ馬鹿馬鹿しい、嘘っぱちの話ではないか。」& }1 M0 q7 V' Q9 u6 Q0 G+ X5 `+ r  q
 
. ?- i3 _; m6 d6 K; I+ c/ x 「左様。ではこれを真実の話に引きあてて御覧にいれましょう。
* W) F4 D3 j, f' n' y  一体あなた様は、
/ I* X' L& M: s/ ?- k! F  {  この宇宙の四方上下に際限があるとお考えになりますかな。」. _& a; }. k0 ]. s! j
 
- P' ~! j- P# _8 p7 Y' c 「いや際限とてあるまいな。」
' a1 h- n  x5 S7 W! u$ R7 ?# W $ W$ k* `$ s1 \& d
 「なれば、心をその無窮の世界に遊ばしめる者にとっては、
' F( y) H( l3 e+ S, J1 J/ a  人の往来交通する地上の国々など有るがごとく, V; D$ O6 r' I0 Q1 e
  無きがごとくのとるに足らぬものとも言えましょう。」
- Q% X; Z9 \  U$ U% w 
& R3 I8 U. \/ o; @ 「うむ、なるほど。」, }6 x( B7 \  j6 ?* Q
 
' G& ?5 q( u3 W 「その国々の中に魏という国があり、魏の中に梁という都があり、' H, u" \3 k% t
  梁の中に王がおられる。宇宙の無窮に比すれば、
+ x, D2 d  ~0 d1 ?  斉を伐とうの伐つまいのと思い迷われる王と、6 H2 V% ?8 `# S5 m" L, \' n
  蝸牛角上の触氏・蛮氏とに& j  w; t' U* s0 b! m7 X
  どれほどの相違がございましょうかな。」
& F1 K: D9 @. @7 `7 x 
; o& Q& B' n& v7 |2 M4 x- O& ] 王は苦笑して言った。  A- e% F. r* H
 
5 m- s/ U* k: ?& r* V0 u 「なるほど、同じことかもしれぬわい。」
9 B( p9 z2 D7 B* v9 |' \ 2 R: o4 D  n3 h4 S3 x7 q5 A& ]
 戴晉人が退出すると、さすがに恵王もがっかりして気の抜けたような7 }+ {0 w7 K7 Q/ M) M
有様。後から御目通りに出た恵子に向かって、
( d  w3 s: ]9 k1 D  Y; K* q2 l ' U; Z1 j. W3 |% F
 「あの男は大した人物じゃ。聖人といえども及ぶまいな。」
. ^  a, L+ X# q6 ]1 y 
, H; c* s3 s+ [4 C' [* S+ } と嘆息まじりに呟いた。そこで恵子はすかさずこう言った。4 q" A) f; C1 ?9 m: @  h
 
- r% }$ C; O# f4 e 「左様でございます。笛は吹けば[ひゅう]と音を発しまするが、
" r7 i7 Y7 g$ F% T- |  剣の柄の小孔は吹いても[すう]と息が抜けるだけでございます。
: C8 @$ T: Z& h: a3 a  世間の人は堯・舜を聖人としてほめそやしますが、: ?( }6 x& B, w* U8 L: E
  これをあの戴晉人の前に出しますれば、1 _+ Y# b- u1 T2 e2 c  a8 H
  それこそ[すう]の一息に似て、とてもくらべものになりませぬ。」
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:25:44 | 显示全部楼层
格物致知

4 }% Q! Y6 }. U' l2 ^6 R( {! |: U6 W: P- G! S5 Y
 四書・五経は儒教の聖典である。この四書、つまり『大学』『孟子』: [- u$ E8 I* r
『中庸』の四経典のうち『大学』は、儒教の教義を簡潔に体系的に述べ# W7 A4 n+ b! b
た名著として知られてるが、その内容は、三綱領、八条目ということに
$ G& s* L( g6 q+ P! t: t要約される。三綱領とは、「明徳を明らかにし、民を新たにし(民を親
: u) M6 N- O2 |/ U; Y+ a- Y; nしましむと読む説もある)、至善に止る」の三項、八条目とは、「格物( H. n5 R" ~, d6 U. d
・致知」の二項と、「意を栅摔贰⑿膜蛘贰⑸恧蛐蓼帷⒓窑驍扭ā⒐鶿4 {! L: q& e2 U2 M
を治め、天下を平らぐ」の六項を合せた八項目のこと、これらは全体と6 m. W6 q6 P% b) C# k) ^
して、儒教思想の体系を巧みに論理だてて説きあかしている。ところが
& N1 O# P5 n  e八項目のうち六項目については、『大学』の文中で詳しい解説があたえ
6 @8 g3 @: f# i9 vられているのに、「格物致知」の二項については、一言も説明が加えら$ W* e& G# C- j( _- ?1 l
れていない。「格物致知」がわからなかければ、段階を追って組みたて
* W7 h# ~. _3 I  Hられている八条目の思想が出発点から曖昧になることになる。そこで、
3 m* @+ d  x. q! u7 l( rとくに宋代以降、儒学者のあいだで、この解釈をめぐって異説百出し、* P. P4 H, j& b+ Q8 r% L
儒教哲学の根本問題として論争の的となってきた。なかで、代表的な学
. Z3 t  s7 P( F' V. b説をとなえたのが、朱子と王陽明である。) Y( s! c- e& D, |# v
 7 O( l, {' r7 L/ S4 m
 王陽明は、周知のとおり陽明学の祖とされる明代の大学者だが、この
6 Z+ z& H6 f' }; N4 n' p2 v& f/ r陽明は、まだ二十代の若い頃、朱子の学問に心から傾倒していた。とこ* }! `) F: i- C4 q7 A3 Z
ろが、朱子は、「格物致知」について、& b- J- v, d' z4 s4 [7 k
 
$ u  S( P- I9 a) C1 w0 i 「万物はすべて一木一草にいたるまで、それぞれ理をそなえている。
! L! y; n. k3 b5 V3 U3 N! `  この理を一つ一つ窮めてゆけば、0 J9 O5 Q9 M( y
  ある時、豁然として万物の表裏精粗を明らかにする事ができる。」# S6 m9 w  V0 Z6 ?; a
   R; \. e4 [- v. |  j2 r; t* g  j- @
 といっている。つまり、「格物」の格とは至るということ、「格物」$ |# a. y' e+ Q7 a
は「物に至る」ということで、万物にそなわる理を窮める「窮理」と同2 N9 ]' X! v4 E: Q6 j+ U
じ意味の語だとし、物に格り理を窮めることから知識を推し進めて「知
6 u; [1 W/ E! G' f0 V1 C' tを致す」こと、これが「格物致知」ということだと説いたのである。4 b4 p2 o3 q# ?) w7 {& ?( K
 0 O8 ^- M; w4 Y9 B7 C: T) M; _
 朱子に心服していた陽明は、この教えに従い「格物致知」の真義を体+ q1 W$ l" E% d" A2 P
得しようとして、理は一木一草にまであるというからには、家の囲りに: ]! O0 }' ?  s, X, B& d& a* o
生い茂っている竹にも、もちろん理はあるはずだと考え、竹を一本一本& J6 J3 c; n0 P) x) t( ^% A, Q3 a
切りとって、まず竹の理を窮めようとした。ところが、竹をみつめ幾日
# W! h" s+ |  _5 e5 qも沈思黙考を続けたのだが、どうしても竹の理なるものがわからない。) g: C6 C* l0 k
煩悩のあまり、陽明は病気になってしまった。そこでかれは朱子の学説8 w' X$ D, _! z8 a
に疑いを起し、やがて、朱子から離れ、朱子とはちがったつぎのような% W/ q* T; f" y1 _
「格物致知」の解釈を考えだすことになる。
3 n. d; {: ^4 f% L/ O# y& J - x' X; |2 b! m3 V" H8 `, @
 「格物の物とは事である。' O2 H/ h  ^4 M  K0 w2 z+ }+ J
  事とは親につかえるとか君につかえるとか、
- V2 r. a0 V3 A) m6 M2 z  すべて心の動き意のあるところのものだ。
5 d' h6 i/ n' S5 s* B. {* ^+ l6 x0 }  x  事というからにはそこに心があり、心の外には物もなく理もない。
- C, ~8 Z! R: K5 ]  だから、格物の格とは、正すと読むべきで、" E5 J: c& _! l, b0 i) u
  事を正し、心を正すことが格物である。8 w1 k2 @; o+ C& N$ ?
  悪を去り、心を正すことによって、
1 G! ?+ n3 U/ H! B8 d  人は心のなかに先天的に備える良知を明らかにすることができる。" y0 c3 X/ _% i3 ~4 o7 ~' H2 l
  これが知を致すことであり、致知である。」
4 V, m* ~& Y+ g) g5 R4 b3 k5 n - \; Y3 Y  z9 _  s" E6 r7 @  H6 b( ]' N
 知的分析を重んじた朱子の解釈に反対し、陽明は「心則理」とか「知
; Q3 C, U6 P# ^, f( P行合一」とかいう実践を重んじて行的立場を重視するところから、この- f; c0 t! O5 O1 u
ような「格物致知」の解釈を考え出したのである。両者のいずれが「格
- e- M: D! C+ Q物致知」の真の意味をつかんでいるか、両者の解釈はともに朱子学なり
! |; ^5 W4 O) U* ?$ G/ n陽明学なりの独自の学説を合理づけようとするところから生まれた恣意
9 J; F9 E. T: I1 o/ `的な理解ではないか、『大学』本来の意味はまた別のところにあるので7 J9 a9 d3 Y& x0 v
はないか、といった議論が、その後、学者のあいだで繰り返されて、今
- q1 o0 {$ X6 c日も、この言葉については定説をみないといわれている。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:26:31 | 显示全部楼层
臥薪嘗胆
" r9 q3 l, C' h, x
" M* q  \( ]3 B: `7 @) |0 P: Y, `
周の敬王の二十四年、呉王闔廬は越王勾践と〓李(すいり)で戦い、! E- ?5 V) T' \8 X% f* ?
越の軍略にかかって敗れた。その時、闔廬は敵の矢に指を傷つけられ
  ^4 ]1 _, Z& lたが、敗走の軍の中で十分な手当も出来ないまま、漸く※(けい)とい; u8 l/ ?+ B' h8 g5 M
う所にまで逃れたとき、俄にその傷が悪化して死んだ。臨終のとき彼
* c! _2 I, |9 h% Qは太子の夫差に、必ず越に復讐して自分の無念を晴らすようにと遺命$ r9 v" |* D4 y
した。
0 n1 e9 U/ L# J2 b 3 f0 b. }0 v+ y, P! x
 父の跡を継いで呉王となった夫差の耳には、常にその父の遺命が聞
( G* \( p& d, `こえた。眼には常に臨終の父の無念の形相が見えた。彼は、どうして
+ W/ e* \* ?6 y8 X) u& a. Eも父の怨みを晴らさずにおかないという固い決意で、夜な夜な薪の上& _' T$ L; Z% w) K! k3 q$ t( D# G
に臥して、父の遺恨を新たにしては復讐の心を研ぎ澄ました。更にま: m) }; N- f' B8 ~3 v7 R5 D
た彼は、自分の部屋に出入りする者には必ず父の遺命を叫ばした。
# u0 q& ~+ e' c: T# r ) D8 d) w8 L- G. v
「夫差よ、お前の父を殺したのは、越王勾践であることを忘れてはな
  z0 O6 h$ P2 q8 C1 C& T* i5 Kらぬぞ!」+ S# u7 Y7 v0 v/ N, C: i$ o" c
 
& y6 H$ E5 W" ?. X「はい、決して忘れません。三年以内には必ず仇をとります!」
4 P0 }4 K1 v  W 
! Q) \0 C/ A% h 夫差はその都度、こう答えた。それは彼が臨終の父に答えたのと同
0 @6 M, E/ C- Z+ Gじ言葉であった。こうして彼は日夜、復讐を誓い、ひたすら兵を訓練; E1 r6 E& G: e
して時の来るのを待った。
" _- V2 j5 t( N1 d" B% X 
3 e  m- s7 L* y+ C+ J+ f0 D 越王勾践はそれを知ると、機先を制して呉を討とうとし、その良臣
7 o  P2 O! \, [' y8 {2 ~% k6 N范蠡の諫めも聞かず兵を起こした。夫差は直ちにこれを迎え撃ち、両- ?, y# f2 k( a" i6 n  W4 S
軍は呉の夫椒山で激突したが、夫差の激しい復讐の念に鍛え上げられ% G7 s& n' Q8 Y0 l
た呉軍によって越軍は大敗し、勾践は敗残の兵を率いてようやく会稽9 P* [. e7 X  x5 u5 y/ L, d% I) ~! v
山に逃れた。, x# [6 r% H7 y
 : R1 r# N2 O/ S* d2 u: X
 呉軍は追撃してその山を囲んだ。進退窮まった勾践は、国を捨てて
& Q+ i: N  T  y9 g呉王の臣となるという条件で降伏を願い出た。奮戦して死ぬことはむ8 {. {0 n, d% H4 r' I( L
しろ易い、しかし死ねばそれまでである。越の国を再び興すためには
5 B; _8 H* D. l0 l生きて恥を忍ぶよりほかない、という范蠡の忠言に従ったのである。
) L3 L( w" x. f) d* v/ `4 l 6 v7 e7 r; m$ x0 c+ q! W
 越王勾践を降した呉王夫差は、勝者の襟度をもって勾践を許した。. g% A1 I* ~/ K2 _1 z3 t
勾践は故国へ帰ることはできたが、その国は今は呉の属領であり、自
: ]5 @: Y$ e4 |+ uらは呉王の臣下たる身である。かつては夫差が薪の上に臥して亡父の
% b/ x) Z" |, I遺恨を思い返したように、今、勾践は、常に傍らに肝を備え、坐臥す! h7 \: S6 G: n6 i4 P. C5 V5 t- b8 @
るにも飲食にもいつもその苦い味を嘗めて、「会稽の恥」を思い返し5 |- q. r3 u, H- Y. l+ Y
復讐の念を刺激した。彼はまた自ら耕作し、夫人は自ら機を織り、粗
. ?# O) U' o2 g! u  t# u衣粗食に甘んじ、よく人を用い、その忠言を聞き、常に心をみなぎら
3 Y9 T5 l: i# ?& e' r, l( zせて苦難に耐え、ひたすら国力の再興をはかった。/ `# Q2 X/ f% H
 5 y0 {% C3 W, D! }4 O/ m6 o
 だが、その復讐は容易には遂げられなかった。勾践が会稽山で呉に9 {1 b9 x6 N1 \& Q
降ってから十二年たった年の春、呉王夫差は杞の黄池に諸侯を会して! V  K$ E* M; [$ {$ o
天下に覇を唱えた。夫差は得意の絶頂にあった。そのとき、それまで# C) \5 h% _& j
久しく隠忍自重していた勾践は、范蠡とともに、夫差の不在を狙って
2 _" ^; a8 ]' U3 H) L, C9 e/ c1 R一挙に呉に攻め入った。勾践は大いに呉の残留軍を破ったが、なお決4 ^" W, o$ ~; E$ J% q
定的な打撃を与えることはできなかった。4 k3 Z5 r* t- \- Q6 P
 
4 C: @) u; R3 ` その後四年、勾践はまた呉を攻めた。笠沢で越軍は呉軍に大勝し、1 i% Z4 B. g: r. B! y' V4 H
そのまま兵を呉にとどめて各地で呉軍を敗走させた。そして二年後、1 [: O  k8 E/ X
再び笠沢に集結した越軍は、呉の首都姑蘇に迫り、翌年、ついに呉王
$ E. Z. m: \3 Q6 s, W夫差を姑蘇城に囲んで呉を降した。# O% b  x/ K9 ^$ T; p( H5 y
 
) F+ l4 x; M* G* ?( h4 h- |/ W1 \ ようやく会稽の恥をすすぎ得た勾践は、夫差を甬東の地に流し、そ
, s+ n# L/ D; u! M2 L7 ~こで余生を送らせようとしたが、夫差は勾践の好意を断わって潔く自5 F. j/ ^" T5 P/ ^* B( L3 G
ら首をはねて死んだ。
2 N; }5 _6 e: x0 h2 n8 U: ^ 
. x: j9 l, a& z- v- b  ~' K0 T: A0 m 勾践は更に軍を北に進めて淮河を渡り、斉・晉の諸侯と徐州に会し、/ _6 [0 W2 l0 S3 Y
呉に代わって天下の覇者となった。(「十八史略」「史記」越世家)
/ }3 `* {3 g8 G' f 
: u5 n! z+ g' \* L) g5 | + N& E$ y+ }1 z/ H! a' I
 復讐の心をいだき、常にそのことを思って辛苦することを「臥薪嘗
9 i" t+ y( z4 {! O9 D胆」というのは、この呉王夫差と越王勾践とのそれぞれの故事に基づ4 f+ E# |" P+ K8 P: P+ _; F
いたものである。また、呉と越とが互いに仇敵視しあったことから、
/ @8 w2 x- ^5 i+ I" {3 ]2 O% |* K極めて仲の悪いことを「呉越の思い」、或いは単に「呉越」という。
7 O( N. y# M- `' K ' M2 }0 r) t3 b  N4 t0 _
 
; c3 ]5 H1 J2 a3 G$ J注)〓李は《すいり》で、〓は木に雋。) t7 A# {- x4 {4 F! M- d: ^4 T% D
注)※は《けい》で、こざとへんに坙。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:28:17 | 显示全部楼层
一葉落ちて天下の秋を知る
) J1 o$ T! R) D
& ~5 f% P# w, u2 @. B/ S
 鍋の肉の味をみようする場合に、鍋の中の肉を全部食べなければわか  `* X" [3 _- B1 p$ @" X# {0 ~' r
らなぬということはない。その一切れをなめてみれば、鍋の中の肉全部" a% w6 H) L& d( U% z- _
の味を知ることができるのだ。また、湿気に感じない羽と、湿気をよく
% ^# b5 t- j- B吸う炭とを秤にかけて、空気が乾燥しているか湿気をもっているかを知% O# K+ {8 {2 H# j! u+ ]8 Q
ることができる。このようなのは、小さなものをもって大きなものを明2 P9 w, b# N: v! L1 k7 _
らかにする例である。また梧桐の葉が一枚落ちるのを見れば、年の暮れ, Z9 C3 a( Z  d% R
に近づいたことがわかるし、瓶の中の水が凍っているのを見れば、世の" G4 k1 ]1 x- \
中全体が寒くなったことがわかる道理、これは手近なものから遠いもの
# g- j8 l5 j3 o4 K  iを推察する例である。
9 r% i* L2 D( \6 }$ V. H 
2 i/ Y  z6 d; @- H! i これは前漢の時、淮南王であった劉安が著した『淮南子』という書物
* v% H, w' N2 @8 \; r. r4 hの「説山訓」の章に見える言葉である。この中の「一葉落つるを見て、# {" Q' v8 Q4 F  f" M
歳の将に暮れんとするを知り、瓶中の氷を見て、天下の寒きを知る。」4 n7 l. I. ~& U( d4 P. m4 d" n" R1 f
が、李子卿の「秋虫賦」に「一葉落つ天地の秋」となって見え、「文録
( }; }% u: A* ^/ T」に唐人の詩として載せられたものに「一葉落ちて天下の秋を知る」と$ m  d6 o6 h. h; n5 _6 O' }+ S
なって出ている。
" g! J$ a" v2 Y3 m" e0 K9 } 
; Q; n5 ~4 f5 n: o3 c2 P9 X2 \& V+ Z  O 『淮南子』での意味は、小さな現象から大きな根本を悟らねばならぬ( _2 c; j5 ?# D5 }* @
というのであるが、今ではむしろ、小さな兆候から衰え亡びようとする7 f- {8 V6 z, x
形勢を察する喩えに用いられている。坪内逍遙の「桐一葉」は片桐の桐3 i- ^4 {. F( V) l0 j" r1 w% t( |$ N
をとると同時に、豊臣家の衰亡の意をこめているのだろう。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:28:45 | 显示全部楼层
一将功成りて万骨枯る
2 ]/ Z* C7 @* I- O% h( p

4 G( r4 y3 u( }- c5 A3 m3 X大唐とまでいわれ、その文化を咲き誇る牡丹にたとえられた唐代も、
) Q8 t( r& V+ f, ^: l# r/ I. O6 V6 Mついに急傾斜の道をたどりはじめた。朝廷のおごりはつのり、租税はき
3 x# z- r+ Y/ x( c- hびしい。各地に反乱がおこった。その鎮圧費をまかなうため、税はまた" Z3 K! W& \+ N- Q9 ]& ]6 L
また重くなる。地方の政治はみだれ、くらしのめどを失った人々は各地
' ~* \) w# w6 N5 ~6 hに流浪し、山林にかくれては盗伽趣胜盲俊¥长蝺Aきはしだいにはげし5 Q. {$ |" `/ o0 S7 L% A! X
く、僖宗皇帝の代には、ついに唐の土台をくつがえす大波となって、あ
+ P1 ^9 ]2 [+ \! kれくるった。5 Q- t6 s2 {4 O2 r7 @1 X
 # j3 {& D( D6 _5 D! d) b
 河北におこった王仙芝は、山東に侵入して政府軍をつぎつぎに撃破し- o$ V# b- q+ o& U0 s
た。黄巣がこれに応じて、山東を荒らした。飢えに苦しむ民肖长畏碶5 I0 w- {8 B! r" C, Z( \
乱に加わって、その軍は雪だるまのように大きくなり、またたくまに数
0 O; ?1 v* M$ C2 q万にのぼった。やがて王仙芝はたおれたが、別軍の黄巣は根づよい力を
# H2 H. p( z% s7 u; E0 s7 T4 U) W; Gもっていた。山東、河南から湖北にむかったその軍は、王仙芝の残軍を
3 A3 X" B% j" K0 u6 f' T! m+ Q加えて、さらに西のかた広東をつき、ついに鉾を転じて北上を始めた。
  O8 Y7 }8 I& {& Eときには敗れてもその軍は地からわくように再生し、ついに揚子江をわ
. _' T) l5 a: o3 j1 M4 nたって唐の都、長安を落とそうという勢いを示すに至った。天下は、あ8 t7 h4 j' t6 I) \. ]
げて戦火に巻き込まれた。
( i, j2 Q$ ~5 ]4 _0 P2 }. d. F# k 
! q. e$ t( J* z5 [+ V3 P0 Y 各地の将軍や節度使(いわば鎮守府長官)たちは、それぞれの思惑で動
* A" x2 {* U; j: Pきはじめた。彼らは、この時こそ「英雄の功名を立て、富貴を取るべき
* {3 i3 K# [+ `$ w" L8 Z2 [' kの好機会」と考えたのだ。黄巣軍から寝がえり、のちに唐室を亡ぼした
- L# j4 j" v( V$ e/ a7 H9 y朱全忠や、のちの晉王李克用もその中にいた。戦い、寝がえり・・・・; m- X, P. R% I8 T' c* E6 U- Q, q" A
混乱した情勢がつづいた。そして名もない民肖稀⑼恋丐颏ⅳ椁丹臁ⅳ% Y4 `5 F$ i& Y' u; V7 z
るいは軍にかりだされて骨となり、また故郷をはなれて、あてもなく流+ v0 J8 F2 T6 G$ f
浪していた。" d6 W8 U" Q6 ^" O9 P& v6 N
 4 g- C/ M6 ?) i. l! L' `
 このころ、僖宗の乾符六年、すなわち己亥の歳に、老詩人曹松はこう
/ r! r- ~/ E4 Nうたっている。7 `; s4 @0 i# x
 
9 h6 t0 d6 k' Q# c7 L2 j  ~     沢国の江山 戦図に入る。& T  L6 U! G4 B. i7 @" F7 X% B
     生民なんの計あってか 樵魚を楽しまん。& S9 [4 k% s9 I" K
     君にたのむ 語るなかれ封侯のこと。0 N$ R3 n- f: U& B8 }$ L
     一将功成りて 万骨枯る。   (「己亥歳詩」)5 D9 G! m" I7 G
 
% o& @' z$ J- Z( m4 r  江淮の山も、川も、いまは戦火にまきこまれた。
& _1 E4 M3 D3 v% u! n  木をきり、魚をとる、庶民ののびやかなくらしも、
( C& Y0 [1 L$ A8 `  どうしてつづけられようか。
, B3 |* M2 T3 m* g8 B  君よ、諸侯に任ぜられるとかなんとか、
( J$ P- o* s# T  そんな話は聞かせないでくれ。( e$ c: M( t& k( v- z7 D) r
  将軍が功をたてて、諸侯になるなどという、
4 j$ V1 W* S/ g# W! o/ J7 ?# M  そのかげには、骨となって朽ち果てる、
+ }$ _# a0 Z8 e5 T* x3 A% L  名もない何万の人がいるのだよ。& u- y( ~6 d* K6 K: y, i& L
 
6 ^0 q* A+ H, y0 d9 H: j これから、「一将功成りて」のことばが使われるようになった。しか+ `5 @; I5 d/ ^( S% d7 ~
し、このことは、混乱をきわめた己亥の歳だけではないもののようだ。. ^' \( c' ?0 Q! W" h% t
遠く陝西のかなたで、匈奴と戦う辺疆の人々のことを、陳陶はこううた
; q6 O$ ?* c. ~4 [- ]っているのだ。
8 H8 `: ?$ ]% D1 Z ( k/ h9 O& o: \9 }7 C  v9 S
     誓って匈奴を掃うと 身をかえりみず、
5 G8 k( T4 Z3 {% W9 Y2 [     五千の貂濉『鷫mにうしなう。
- z9 }9 E# d1 X     憐むべし 無定河辺の骨、
. d2 O( S8 q/ V3 q$ r     なおこれ春閨夢裏の人。   (「隴西行」)/ z0 n. I2 n  V( K( e; |9 T
 3 P% r- A, A5 `
  誓って匈奴を討つと、身をかえりみずに出ていった。
' Y! ?9 ?. M0 U& D2 P$ U5 U  だが、五千の軍士達は、辺疆の砂塵のうちにたおれてしまった。! Q" R( n- f, W7 ?$ \
  今は無定河のほとりに、あわれな骨がのこるばかり。& M' U! A! `& \/ b) I/ D- }
  ああ、今も故郷にのこる妻子達は、春の夜の夢のうつつに、
, [& c, D/ v- I, x5 m  なお懐かしいその姿をもとめているであろうに。% @. b$ f- I7 d* M% |9 N9 X. O
 1 J" M& J4 M: `$ w
 + `9 q# h/ a0 G( m2 Y9 O
 武勲にかがやく将軍の陰に、また咲きほこる文化や政治の陰に、この/ w. X+ j8 y  B+ ?5 ~; ^
ようにして枯れ果てる万骨があったのであろう。軍事にはかぎるまい。
/ G- q, A9 F$ ^6 D% L, N8 v5 O/ ^$ {ときめく大官や、富豪のうしろにも、苦しみうごめく陰はあったであろ$ `( U7 ^! E$ z8 _( f* `# M
う。そしてまた、これは・・・唐ばかりではない。今の私達にも、けっ
5 X/ r# l# K0 c# jして無縁ではないようだ。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:29:04 | 显示全部楼层
一箪の食、一瓢の飲
( g( C6 O$ y7 ]0 C% ^: m: b

. a" g( q: c  D6 D6 a1 G( J 孔子の弟子は三千、そのうち高弟は七十七人、俗にこれを“七十子”4 Y. r1 I0 j% q" a2 n% {4 L
というが、この七十子の中でも、孔子が“賢”と称し、“仁”と称し、
1 |# F/ V7 R& R4 s5 Hほとんど完璧な人格をそなえるに到った人物として、もっとも信頼して: |5 A* A, [1 I. N
いたのが顔回(字は子淵)である。
7 @; M( _, o% f4 v) D ! S3 j' m! I" a6 E$ n+ e# s
  ―― 子曰く、吾、回と言うこと終日、違わざること愚かなるが
, A0 ^  l  \1 N1 C5 G  如し。退いてその私を省みれば、亦以て発するに足る。回や愚- O/ N( P9 l1 X$ \9 J; a) \+ m9 \
  かならず。
( H! R  _7 N& {3 Z  (子曰。吾与回言終日、不違如愚。退而省其私、亦足以発。) O, t9 s3 c$ f! p0 Y5 V
   回也不愚。) (『論語』為政篇)9 R9 ^+ A5 d+ u/ a$ I' x& T
 
7 [/ A# a" U* ?; h8 [   孔子が言うには、回と一日中話しあっていても、私の考えに' z$ z/ m0 }) A
  違うようなことは言わぬから、愚か者のように見える。が、私7 Y5 I' v$ j( B7 l/ O
  の前から退いた後で、独りでしていることを見ると、啓発され! G6 M" L( F/ E* A
  るものがある。顔回は決して愚か者ではない。. L, W1 l2 M- }4 Z
 6 v* m: k0 p# V6 i5 d6 s. t/ n7 s$ A
 と孔子に讃嘆させているが、それは、弟子中聡明をもって聞こえた端# v( }2 e2 m( c3 L. q0 ~6 |
木賜(子貢)さえ、
) T' M0 u' i! e3 U( x! x' p0 N ( N: o" z- r$ x
  ―― 賜や何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。
2 N/ N% h8 `/ M  (賜也何敢望回。回也聞一以知十。)(『論語』公治長篇)* K! `7 W) M, N% t% k; [, H! R
 4 A1 H6 t6 v. w4 X" H8 N
   私なぞがどうして、顔回に肩を並べられる人間になりたいと
; V3 b7 C5 g2 M  思いましょう。顔回は、一を聞いて十を知るほどの人ですから。
* D/ n, H9 y; @' B1 {2 Q 
4 q8 c, J% y( D2 e と兜を脱いだ、その叡智の故であったろう。孔子は、両親の“野合”
7 C* i9 }# l1 I4 ]という暗い関係から生れたため、生涯“天に認められた人間”になろう8 @4 T( P: u/ b6 X
として、生れたままの自分自身の否定に苦闘し続けたのだが、正常な夫
. O& M  P% j% O婦関係の下に生れた顔回は、生れたままの自分に安んじ、その自我を、6 D# b+ e( {  k( _- F. F3 G' d
天によって賦与された公正なものと信じて、在るがままに育成すれば足
2 C7 z% \0 S! P7 }* W9 E4 R9 Bりた。おそらく、孔子は、そういう安定した自然さを最も愛し、憧憬を" ^* l% ^. W8 N0 }5 r) w# k
さえ感じていたに違いない。0 t' L! `8 W! S
 8 i! X/ P% k, Z/ k' Y
  ―― 子曰く、賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在
) X1 w! F* a  j: u  り。人はその憂いに堪えず。回やその楽しみを改めず。賢なる* f* h# A3 G9 s/ a, \; ]  u2 s( S2 h
  かな回や。
- W4 r: Z5 g- {( r/ C4 M8 i  (子曰。賢哉回也。一箪食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂。回. X( M* K: N2 S: D' r$ G) a# y
   也不改其楽。賢哉回也。) (『論語』雍也篇). J" T4 @$ p( P, o; v% {
 
) \$ s8 @( m+ Z5 Q6 p  a% m   孔子が言うには、賢人だな、回は。竹护物垽窑趣猡辍⑵绑靄
0 I+ J+ i' G4 y7 m" z3 M* Q# x  の水いっぱい、それっきりしかなくて、しかも路地裏住いだ。
' B# M! \7 |6 I/ v3 G+ t" S  q0 X  ほかの人間なら不安や焦燥に耐えられぬだろうに、回は平然と* T2 g! t. H/ E0 z+ U4 M9 X7 Z  Z
  して“道”にいそしむという自身の楽しみを改めようとしない。0 L' \, F8 S( [1 h* t; y" m+ S& w
  賢人だな、回は。/ t( s4 P& z: O. P
 
$ Q1 F# `- y9 L6 \( _, J" g: _6 s( H4 e 名利世欲にとらわれず、自分自身を、“天”に任せ切って、“天の教
: r$ u& }7 L% }え”自体に帰一することを無上の悦楽としており、自身の在りように対- N) d3 o; ?/ Y8 E2 m- X  P, q
して、何の懐疑も抵抗もない。そののびのびとした姿こそ、孔子にとっ
/ I% r4 ?5 f0 l( {% [4 Y$ ~5 |てかけがえのない、尊いものであったのだ。
# r8 Z7 Y8 s6 S$ Q$ c' F( e 
, j# `) L% e& A “一箪の食、一瓢の飲”という言葉は、ここから出て、清貧な生活を
; r, n) L8 m+ T  ]形容する場合に用いられるようになった。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:29:28 | 显示全部楼层
一斑を見て全豹を見る
, H) z' e& c* v0 B2 g4 D" K/ B
7 o9 W/ M6 x) A$ N0 F% M; h  b
 晉の会稽郡の名門である王羲之には多くの息子がいたが、その息子た2 ]9 T% a$ e7 @
ちのうちで、徽之・操之・献之の三人が有名であった。そのうちでも下7 p3 j! d4 _- j+ }  _# B
の弟の献之が、父の羲之とともに古今に冠絶した書家として、合わせて' N1 C1 C( o6 I( }) U5 ?( i
二王と呼ばれていることは、今さら事新しく言うまでもあるまい。そし8 l5 ^; i/ t3 V$ ?7 h2 n
て、「献之は骨力は父に及ばざるも、すこぶる媚趣あり」、つまりなよ/ D! N+ }$ U7 |5 A+ n
なよした美しさがあるといわれている。( V& K0 O: p& @- b' S" L, D( z
 
( U) A& e! q5 X0 ?( \ その王献之の子供の時の話である。ある日のこと、書生・居候といっ
, n0 x" ^+ C, c4 lた連中がおおかた庭先の木の下にござでも敷いてであろう、樗蒲をやっ
) ]/ E0 D: y0 y  z* d5 wていた。献之はそれを見ていて、
! i- D6 B- n: p2 M% t $ l: ]; O% V( o: e. \6 K6 z
 「南風競わず。」
. Q# l0 {$ l% X% a. {* j. Q 3 m: d7 i+ o0 M/ f9 G7 H& M
 小父さん、景気悪いね、しっかりやんなよ、と言ったものだ。すると0 }. D( X" }9 R1 t* v; r2 D2 O
負けている居候もやりかえした。
7 r+ `& T1 T" N8 S# r! @- L 
9 N/ n6 K  T) z+ v% e: q( h4 R" `+ e; U 「この坊ちゃんもやっぱり管中窺豹で、
- ~& e. d+ J, G0 j( F$ d9 |+ }  豹のまだらの一個しか見えないんですかねえ。」# e/ k" N! e; ^7 J! ]' M
 
) l# {% S. |* N1 l, {2 z0 g) C9 n つまり、管の穴から豹を覗いたって、まだらの一つが見えるだけで、6 o  m* A: U% G: q8 u) q
豹の全体はわからない、ちょっと今の形勢を見たくらいで、坊ちゃんな
; J3 V4 C" ?9 h- k1 O/ pんかに俺の勝ち負けがわかってたまるもんですかい、とやられてものだ
" i: K' c, `7 l1 |* ?! N5 Vから、坊ちゃんたるもの怒ってしまった。3 f/ l5 p- A! V) w9 f1 o
 ) N7 C4 A* t# `- i! }5 M
 「遠くは荀奉倩にはじ、近くは劉真長にはじよ。」4 e  E0 A' y; U0 T! C
 
6 g1 ^; p1 ]4 b4 P. ?# X, i2 X 何をいうか、お父さんの友達の劉真長さんなんか、ばくちでもって桓3 H$ U1 i/ T+ v$ S" x: x( u' t
温の悪逆を見抜いたんだぜ、というと、立ち上がって着物のすそを払っ: u* @. g$ I" H4 w0 z5 [
て、さっさと行ってしまったのである。
5 R8 `& k1 Z7 v! H+ b( q- g1 Z; i 
2 D( D2 W! o7 s5 E- B 「管中窺豹」から「一斑を見て全豹を知る(または卜す)」という言( m/ d1 n2 P& }
葉ができ、視野が狭いことをいう。晉書巻八十の王羲之伝に見えるが、
+ g5 ?$ B/ |. {! p+ o. D  M同じような言葉として、- d  d3 M( O! `0 z3 l3 J  K
 
0 d( B5 N- n& H6 x) y 「管を以て天を窺い、隙を以て文を見る」(『史記』扁鵲倉公列伝)
) Y8 y: S  |0 F3 S: V  `5 B 「莞を以て天を窺い、蠡を以て海を測る」(『漢書』東方朔伝)) a5 q' X) X  ~0 ?
 # i, e" j. k+ k7 b
 などがあるが、いずれも見識の小をいい、「管見」とか「管穴」と同: K2 T5 B/ |. e2 v" w
じで、「よしのずいから天井のぞく」ことである。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:29:54 | 显示全部楼层
寿ければ辱多し イノチナガケレバハジオオシ
0 t" _# Q  k+ W* o2 `

) e0 L  \! H7 U4 ^荘子は先秦(戦国時代)における最も特異な思想家のひとりである。
% a- Y: D" |7 c& N* |1 p' w$ y彼は孔子を祖とする「儒家」の人々が強調する仁義道徳をこざかしい人
: a, C1 {6 ^% \. q# J/ _間の作為として排斥し、あるがままにあること――「自然」を愛し、何
2 G8 A/ `) }( w( D+ e- Cものにもとらわれることのない精神的自由の境地――「道」の世界にあ% A0 f3 q3 r  @8 g
こがれをよせた。しかも彼はその思想を、彼一流の風刺や皮肉や寓言に
- D7 H+ m8 R8 D託して表現したのである。その著『荘子』の中の「天地篇」にあるこの
; U5 |) [0 J& D# z4 {話も、そうした彼の「寓言」の一つとして読むべきであって、むろん史
" k/ n; D+ s/ j  {5 o" c実ではない。
7 S# b' `' ~9 d6 C! q* K . w6 o* [. D. f
 その昔、聖天子として聞こえの高かった堯が、華の地方に巡幸された* d; d0 T1 c2 }: f
ときのことである。その地の関守役人がうやうやしく堯の前にまかりい
* h; t) k4 B& U4 mで、ご挨拶を申し上げた。
4 O# F* u5 ^! i0 O " o" j. j! |5 d4 L' G) a
 「おお聖人さまよ。謹んで聖人さまの将来をお祝し致します。まずは9 v( \; e/ |0 L- a! h
  あなた様の御寿命の幾久しくあられますように。」- q# o( s2 r: p: ^
 , s- {( k, R# |0 m
 「いやいや。」0 g4 T" u5 S: ~* h" [9 `7 ]  N
 9 {( N9 y+ h% C( j: m/ l& H
 堯は思慮深げに微笑みをたたえながら答えた。; X& F6 X" u: e1 J6 N. a
 $ ?8 o, N/ O! e0 Q* t! k6 n
 「わしは寿命を望もうなどとは思わぬものじゃ。」  b* Y0 L# X% J6 s
 
0 i! i1 y, q" N5 {' L 「ならばあなた様の御富のますます豊かにあられますように。」
, S- ^2 E3 V4 h 
8 E( z) C; E- P$ u3 z: K3 `/ ? 「いやいや、わしは富を増やそうなどと夢考えてはおらぬのじゃ。」: j: f8 Y0 r$ F2 e+ F# m+ z
 6 a8 @6 H. R: _- c& n, }+ D% y/ |
 「なればあなた様の男の御子たちが、いよいよ数多くあられますよう
' k! l8 o5 ~! H% `. T1 A- J  に。」/ r- u9 L* _4 [# Z4 r
 
) w+ d8 y' j5 I. l 「いやいや、それもわしの望まぬことじゃ。」
  ]! x# x/ T" o6 {; R ; Y# ?! x% ?; x8 K/ \& c' D
 「はてさて。」3 `9 |9 k( d8 n$ ?: ~5 E8 r
 
. J/ g* u8 m  Q0 g4 ] 関守役人はいぶかしげに堯の顔をうちみやりながら訊きかえした。
# \4 X2 C+ Y# f 
. w  X- @  l5 Y+ B) |' `6 [ 「寿命と富と男子の多いことは、誰でもの望むことでござりましょう# t, o, P2 B7 G. x/ L" V
  に、あなた様だけがそれをお望みなさらぬとは、なんとしたことで
9 B! N9 z/ O& W# m  ござりましょう。」
( H  e- ~9 S% D' F2 V 
5 X+ G$ N$ n( i; Z 「さればさ、男子が多くあれば、中には不出来の者も出てきおって、
- z2 ?5 ?8 A+ l  かえって心配の種になる。富めば富むで余計の仕事が増えようし、
/ ?& F7 `& q8 n  寿ければ、辱を残さねばならぬような羽目に遭うことも多くなろう+ i9 K+ ~  v0 V% _  o+ R7 m* d
  というものじゃ(寿ければ則ち辱多し)。この三事、いずれも我が/ N- r& j7 M! V" \: v* y
  身の徳を養うには無用のものといわねばならぬわい。」# ^- d2 \* \- i
 
6 o8 r. J, T+ W! n4 Y% c+ j) a それを聞く関守役人の目にはありありと失望・軽侮のいろが現れた。
) i/ s! z; B; l彼は堯に聞こえよがしにこう呟いた。
/ D) C; U5 C9 s 
2 v' y7 ~( l. S$ e2 p; G 「ちぇっ、やくたいもない。堯は聖人と聞き及んでいたのに、今の言
8 v) X' T3 ~8 j, H$ y  い草じゃ、たかだか君子くらいの値打ちしかない男と知れた。子供
+ O) \6 U1 r" n- C$ r  が多くともそれぞれに分相応の仕事を授けてやれば、何の心配もあ
4 I; n: I5 |1 R. w  るまいし、富が殖えたら殖えたで人に分け与えてやるならば、何の
  c* C$ p, M: J3 k  j* S# ?# K/ h  面倒もあるまいに。本当の聖人というものは、鶉のように棲み処を. O5 _: v7 }7 B9 P1 Q
  選ばず、ひなどりのように無心で食らい、鳥の飛んで跡なきがごと
, u4 l* m$ ~* {9 E) s8 Q8 |: n  く自由自在であるべきもの、世間がまともであれば、皆人とともに
2 F2 h- ?! R  ]/ J+ g  その昌えを楽しむがよし、まともでなければ、我が身の徳を修めて4 }: |- h. o: E6 v) B# z! O
  隠遁するもよし、千年もの長生きをして世間がいやになったその時7 f; K% h) w" q' p8 g8 k
  は、仙人となってかの白雲にうちのり上帝の郷に遊ぶもよい。病・
$ ^3 `' Y5 p. u' M  老・死の三患に煩わされることなく、身は常に殃なしとすれば、寿
- n3 G! n" R- F1 V' N- B  くともなんで辱の多いことがあろうものか。」
) {9 H/ K8 f$ p5 u; [' N! x$ W" s 
0 }" u1 c% H% @. w8 s2 t: N  { こう言い捨てて関守は踵をかえした。見事に虚をつかれた形の堯は、
  \2 ]- h+ f- M+ R* lハッと気を取りなおして後を追いかけ、1 v4 a+ p! v3 H+ U  |& F
 
1 w4 B6 U2 _9 r( Y$ Q, a5 ~* m 「待たれい。今しばしお手前の話を承わろうではないか。」
7 d, b, W8 A. w. g( H+ O# H ) u2 f" }) u" t* k+ w
 と声をかけたが、かの人は、$ J" t8 p* C1 k& f& n
 
: N) A+ c4 @$ E 「えい、うるさいわえ。」
5 Z  w" s4 I0 r' ?* p* p 
7 ?+ g: W; ~6 p* A+ t6 I3 \) k, E と一喝したまま後を振り返りもせずに、どこともなく姿を消した。
8 F, j4 ]) a2 k! X: W+ Z7 r 7 s7 r! N5 w+ w# L& h9 ^, n
 荘子はこの寓言によって、「儒家」的聖人である堯と対比しつつ  v% t( o& F2 M% Z/ w4 X; `1 w+ `
「道」の世界に生きる自由自在人――「道家」的聖人の姿を示唆しよう
; I( p1 t1 V# Q- |としたのである。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:30:16 | 显示全部楼层
井の中の蛙

1 }: J. J3 ?' ~1 y0 Z2 Y* X) w* ?  l5 a% L8 Y+ [0 {
前漢が亡び、王莽が新という国を立て、次いで後漢が興るころ、馬援# D) ?# O5 o8 I$ L, {: ^
という人材が中国にいた。馬援、字は文淵というが、祖先は前漢の武帝$ ?4 T) S% ^0 Q4 o) a# g
の時の官吏となり、援の三人の兄は、いずれも才能があったため官吏と+ k( Z) x  E5 J) V6 q0 Y) @/ N
なったが、援だけは大志を抱いて暫く官途につかず、祖先の墓の守りを0 R' E" o9 W% r" @% Q5 D5 Z5 P
していた。; ~2 l6 m. U1 J2 N
 
: C  o- A' v$ e7 O のちに郡長になり、罪人を送って都の裁判所へ行きかけたが、援はこ, m& z: }$ i, G
の囚人を憐れんで途中で逃がし、自分も罪を恐れて北の方へ亡命した。
& k; s+ r7 f; P! [! {  t! z) Oのちに赦されて農業と牧畜に従事したが、瞬く間に大金持ちになり、食" r8 |0 Y/ K! s; W# f) o5 n
客も多く、援の家の仕事をして生計を立てている家が数百軒にものぼっ8 ^/ y+ @/ F% z$ r% i+ Q  o
た。援は、
! j) i% G3 `* F) p/ P' d& i) [8 C ! p1 `- v. _' l
 「およそ金持ちで立派なのは、それを人に施す人だ、でなければ、: u& A) s& l8 E
  ただの守銭奴に過ぎない。
% j  v9 v% V- Q- l. N# U 4 [% f( y) `& {' [
 といって、財産全部を人にわけてやり、自分はボロをまとって、また" ]- e/ x5 _. C
仕事に励んだ。: E: a7 n/ v0 i3 r
 
) ]3 F# P; D8 F* M1 Z 王莽の新が亡び、後漢が興ると、援は兄の員とともに都にのぼり、官" T" r0 ?( O3 N- t( I
吏になった。ところが隴西(甘粛)大名隗囂は、援の人物に惚れ込み、4 u: V2 d2 r3 `) s) R1 t1 H
連れ帰って将軍にし、何事も相談した。
9 [6 _& a( ?7 G- G. I) ] & `6 }3 w7 A/ d: p, F' H. H
 このころ、公孫述は蜀(四川省)の地で帝と称していた。囂は一体ど
+ g9 l3 w: B" z; ^んな人物か、援に見に行かせた。援と述とは同郷で、もともと仲良しだ9 ~1 |: p" D2 @' [
ったので、「おれが行ったら、とんで来て手を握り、むかしのようにオ
9 G1 C* u- H  eレ・オマエで話ができるだろう」と楽しみにして出かけた。' T/ B& \, S6 k1 J0 v; s' W
 
$ _, F' `1 }$ N ところが、公孫述は階段の下へ武装した兵士を並べ、威張り反って援8 g, @; }6 i2 o0 t3 x, S4 U( Y7 w
を引見した上、
2 k: g& G& R' I% o3 Q 
8 c, W% p6 }' r6 x/ L% k 「昔のよしみで、お前を将軍にしてやるから、ここへ留まれ。」
' C4 E4 S1 F2 K7 z, Z+ Z : s( }* o1 y" _' F7 e
 と、もったいぶった口をきいた。援は思った、「天下の雌雄はまだ決" d  A7 P- f- R1 k
していないのに、公孫述は礼を厚くして天下の国士賢者を迎えようとも
1 Z! A' _- G2 e: v1 g% F# ~せず、こけおどしの威張り方で、威厳を作ることに精一杯だ。こんな奴
; [. Z; q# u' k* y% r1 J# W" _に天下のことがわかってたまるか」と早々に辞して帰り、囂に告げた。: h$ x0 h- V5 K1 e' q/ ]
 ! ]3 p* v! u% O6 q. c- S4 Y+ @
 「あの男はまったく井蛙(井の中の蛙)です。小さな蜀の地で、8 r5 ?0 Y* n9 L( H( [
  いばる能しかない奴です。相手にしない方がよろしい。」5 T, G* o0 j; {5 l4 R
 , b* j' |2 U) v
 そこで囂も、公孫述と親しくするのをやめた。2 J8 t7 h. F1 y! }, V; ^
 . M$ T" G' z+ H- p
 のち、援は囂の命を受けて都にのぼり、世祖光武帝に会った。世祖は
  r. C/ f6 `' ^言った。$ l9 ~) o! Y* N' x; S2 X
 6 U) f3 t5 l; m+ N
「卿は二帝の間を行ったり来たりしたようだが、どういう訳じゃな。」
5 {- v. J/ |9 _+ q* ^ 
+ P) |9 j, W7 C1 E 援は謹んで答えた。4 M8 H  F, T  p  V" M! j
 9 {2 O5 S8 W- n* [) x. J6 x1 H4 |
 「今は君が臣を選ぶばかりでなく、臣も君を選んで仕えます。) b* Y0 E4 x" B  Q" |3 y
  公孫述は武装兵を置いて、私と会いました。
- n6 V  j3 P# [8 s& ?) e8 L  しかし陛下は今、私が刺客かも知れませんのに、5 c, C; D# l" b" u8 j4 D# R
  護衛もなく私と会われたのには感激しました。」
% O+ S. x) D5 G 
. W0 M$ E) s/ |' p' ] 帝は笑って言った。8 a6 |* O& x* J0 o% s
 
9 L' Q. v+ C# ] 「見ればわかるよ。# C3 m) i7 K4 H* e: l7 [# s
  卿は刺客じゃなくて、説客だし、天下の国士だよ。
+ K( a+ S" r1 ^; S5 c$ w  そんなことをしては失礼に当たるからね。」
5 z/ d( l9 ~) J2 Y                      (『後漢書』馬援伝)
, J$ y% I( p& H$ | 
! R  c8 ~0 @0 ?% c, Q0 L 『荘子』の「秋水篇」にもう一つ、こういう話が載っている。# a! e" `4 d; y/ B' f7 ^
――北海の海神が言った、「井蛙(井の中の蛙)が海を語ることができ+ D4 G/ u+ X5 ]8 Q: r" R6 n
ないのは、自分の住んでいるところにこだわるからだ。夏の虫が、とも4 |  t! ?, R  q1 S  I! p8 U" Y
に氷のことを語るに足りないのは、夏のことしか考えないからだ。一方
/ C2 W1 K, A7 c% l. jのことしか知らない人と、道について語れないのは、自分の習った教え
* V. T/ y, @. _9 Eに束縛されるからだ・・・」と。& }7 Y( s* k: L5 }% O# P
 
8 p6 t( m& g  }- B 無為自然、天地とともにあることをもって、尊しとする荘子にとって- D; k3 l4 R5 g3 K0 W8 I( T6 z9 O
は、仁とか義とか礼にこだわる儒教の徒は「ともに語れぬ」者どもだっ
1 n; L4 \, w! F4 N. ~* @' S6 Tたろう。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:30:41 | 显示全部楼层
殷鑒遠からず
7 n4 ?2 I( f8 G# o0 p0 S+ b

# i* n9 `: `- _. I" |: I' H1 z% N3 Y 「歴史は繰りかえす」というが、「三代」として知られた中国古代の# l" F4 J, q* z0 H- o& n: e8 P
三王朝――夏・殷・周の興亡の歴史もまたその「繰りかえし」の一例で) Q7 b8 d/ m* Y) S# D
ある。
! Q$ o1 Y5 J" N5 n8 @8 w" U: c % G. u  K  v$ u1 Q" R1 U' g( ^$ j
 夏王朝は賢徳を謳われた建国の始祖の禹王からおよそ四百年、十七代
8 m' C; M7 z3 R3 ?; c( u目の後継者である桀王に至って亡びる。桀王も元来は知力武勇ともに人
# ]# s6 Q+ F# W, gより優れて、王者たる器であったのだが、やがて彼の身をあやまらせた- Z( r$ Y' K) }8 b
のは、彼が有施氏の国を征伐したときに貢物として送られてきた妹喜と
7 e' w% `  C" t; S# [" C( Mいう稀代の艶女であった。桀王は彼女の歓心を買うために、ありとあら
) h" g7 A8 U! d# ]7 @' w& Nゆる手段を尽くして惜しまなかった。奢侈の限りを尽くした淫楽の日々9 G% F# C0 `0 f' {& k% L3 z: B
がつづくうちに、国力は疲弊し、人民の怨嗟の声が高まる。人々は桀王( W! B/ |; {. j" q; j
を太陽になぞらえて、- k0 V; g& o; v% r
 
5 Q2 ?2 g/ H% w# R  この太陽の亡びるは何時、# s7 X2 Q" ?5 B
  我ら汝とともに亡びん。* d" r! i% G  I
 
  Z) E' O/ R. A- i7 Q. c3 R6 ? とまで詛いの言葉を吐く。その人身の帰趨を見て取ったのは、それま7 p8 }; S6 u, B1 S
で夏王朝に服属しながらも、次第に国力を充実させつつあった殷(商)0 `1 w+ i3 i2 l* d6 |/ c
の湯王である。賢臣伊尹の薦めによって、ついに意を決した湯王は、
# x- x& A- i& I, ~ 2 X" \7 ?' F4 }- p8 `
   来たれ、汝もろもろよ!ことごとく我が言を聞け。
# g, w0 B5 N- M; `3 I  {9 X  我は敢えて乱にあぐるにあらず、
7 j3 t" E0 e& _* c% ^- L/ k  夏の王に罪多ければ、天命じてこれを討たしむるなり。" N2 X& [3 `; A; z- `( b% U' d
 ( b- q. P* t9 F. ?: _' Q1 V
 と宣言を発して、桀王の誅殺を計る。かくて中国史上最初の「革命」" e2 j, K) p# P1 H1 |0 \, E
が行なわれたのである。* o# q6 N, s& f* z7 W1 o2 @8 T
 
/ D( u. K4 U1 P6 ` 湯王を始祖とする殷王朝は、それからおよそ六百余年、二十八代目の
1 s3 [1 g( T, L5 [. K( k' F後継者である紂王に至って亡びる。紂王もまた非凡な知力武勇の持ち主% N5 [7 }( N$ s) K8 z8 D
ではあったが、その彼から理性を奪い取って荒淫の生活に溺れさせたの
( J0 F- y' {4 w6 d6 `は、彼が有蘇氏の国を征伐したときに貢物として送られてきた妲己とい/ y# u5 f! }# J* ^, X' D
う稀代の毒婦であった。紂王も彼女の歓心を買うためにあらん限りの力
" W$ b/ ^1 ^7 Tを尽くした。「酒池肉林」の遊びが企てられ、その淫楽に反対する人々
- S3 h2 ?2 q1 g! eには「炮烙の刑」が課せられる。王の暴虐を批判した補佐役の「三公」
8 X2 D8 `# u0 K! U' y( Nのうち、九侯・鄂侯の二人は惨殺され、西伯は幽囚の身となった。その2 w0 n* I( W2 U5 \) m
西伯が紂王を諫めたときの言葉として、詩経の中の詩篇の一つ「大雅・7 X5 b1 X( A. U5 s
蕩の詩」に書き記されているのが、: Q* K; G' q1 R) s" E) z
 , V5 K7 Q  D7 C# D5 x2 B
  殷鑒遠からず、夏后の世にあり。' c+ l7 E8 J2 ?  u  d
    (殷の王者の鑑とすべき先例は、さほど遠くに求めずとも、( M4 w1 ]" H( z8 T+ p3 Q& F) r
     夏の后桀の時のことなるをお想い起こしなされましょう。)
9 y/ L1 q: V3 w' h : k3 t4 P" s! p- \" e
 という言葉である。しかし酒色に溺れ理性を失った紂王の心には、桀/ m6 _8 i% {! u' f
王の悲劇を顧みる余裕はない。三公についで微子・箕子・比干らの忠臣0 Y) E" [" G- p& U8 \6 r  F
も諫言を進めるが、もちろん聞き入れられはしない。微子は亡命し、箕
3 n7 n6 ]% p+ L% B子は捕らわれ、比干は殺される。今や紂王の乱行・淫楽は益々つのるば
, p- l& C! h( ^- x$ bかり。人民の怨嗟はやがて頂点に達し、臣事する諸侯の心も既に王から
' Y# W; }) ]/ Z( U/ p離れ去った。この天下の形勢を見て取ったのは、西伯の子、すなわち周
9 o+ H% ?8 P2 Pの武王。かくて第二の「革命」が繰りかえされるのである。0 {* r# _5 [* r- z. |
 7 i/ W* K4 ?) k" _; i" s7 a: E
 その周はどうか。武王から数えて十代目の厲王に、またぞろ暴虐の兆& ^2 z$ r- Y7 r% U4 C
しが見えた。側近の人々がこれを諫める。先に挙げた文王の言葉という1 P$ d, G; Z' o( y5 f" R+ a
のも、正確に言えば、このとき側近の人々が、御先祖の文王の言葉とし# R1 J% }0 I  S' [: b* u
て引き合いに出し、暗に厲王を諷した歌の文句なのである。そして厲王% M- i/ l' K" H; j9 z
の末年は、その暴虐に不満を爆発させた国人のクーデターによって、中) f. a6 N# x) @& C7 n5 `
国史最初の「共和」制の時代を現出しただけで、王朝滅亡の危機を切り; J6 d, k  I! x0 b/ P
抜けた。しかし厲王の乱行によって紡がれた因果の糸は、呪うべき魔性
4 b; I6 ~* A, U- u  l& Tの女性襃じを出現させ、厲王の孫の幽王はその襃じに魅せられて愚行を8 a" C7 h, x: V! p8 H2 a/ C
重ね、結局は統一王朝としての周室、すなわち西周の命撙私K止符を打
' b& Q9 s( n0 Z) Lち、もう一度「歴史の繰りかえし」を証明することになるのである。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:31:03 | 显示全部楼层
烏合の

1 \0 \" z% M# I+ _) x( Z& A
- A6 a; Y6 B9 N4 L 前漢の末、外戚の王莽は権をほしいままにし、平帝を弑して儒子嬰を1 p+ M! d" O: @0 [2 ?
立て、さらに自ら新皇帝と称したが、ついに国を奪って国号を新と改め1 H, F. h( R3 g) A; O
たのは西暦九年のことであった。しかし政治に失敗したため、各地に叛
1 W+ J1 Q; B" Z3 j  v% h0 Z伽嵝肖贰ⅳ胜扦饩v林の兵や赤眉の伽悉饯未螭胜毪猡韦恰⑻煜陇蟎
/ C. o6 _/ Y& \& w' `0 d8 ~& M4 D大混乱におちいった。
" M9 ^6 [- M& ^4 O 
4 ?8 L' }: H, h/ A この時にあたって起こったのが、のちに後漢の光武帝となった劉秀ら7 U; B  m0 f9 g' a8 N
の軍で、方々に王莽の軍を破り、二十三年には景帝の子孫である劉玄を
9 D1 Q0 o* y& d1 b- q$ @* e立てて皇帝とし、ここに王莽をほろぼして再び漢の世にもどしたのであ
# h6 M" @/ s& s6 a- iった。
' a6 |# u- j6 d/ F0 n5 A( T) ` 
  c% ~4 z% d+ z1 U% a5 I6 L! C4 v: o しかし、王莽がほろびたとはいえ、天下が静まったわけではない。各6 ?6 j4 M4 ^& Z8 B$ O$ c
地に群雄割拠し、赤眉の伽馕搐朗ⅳ螭扦ⅳ辍⑿悚蟿⑿蜗陇舜笏抉R
2 V- s( I; o/ J# ^として軍事に寧日がなかった。なかでも邯鄲に拠った王朗は、もと易者
4 v9 C; k4 }8 e7 l3 Q  `" lであったが、われこそは成帝の子劉子興なりとでたらめを言い、兵を大
) e+ L5 C7 q! \4 fいに集めて天子と称し、勢い当たるべかざるものがあったので、二十四
% X( Z6 j' S8 T4 z年、劉秀は軍を率いて征伐に向かったのである。
5 ~! F+ ]  B. l0 f$ s: {! O 
: H; O" y2 Y; V: M! J7 V6 | ところで、河北省の上谷の太守耿况は、前々から劉秀の人格を慕って
( g* \" ], u4 L& p% Z+ c6 ]いたので、子の耿エンを劉秀の麾下につかせようと思った。耿エンはこ
6 i8 q/ h, ~9 J- _; }) ~の時二十一歳、俊敏にして思慮深く、しかも兵法が好き、もとより喜ん; P# @) k1 R' s1 Y0 w3 Q
で劉秀の下へ急ぎ向かった。
3 O' i! k" I7 m# C/ k+ \& z 旅だった耿エンが途中まで来ると、王朗が邯鄲で兵を起こして天子と$ A% L9 r% ~- }4 R& V& w
称しているという情報が入った。すると、手下の孫倉と衛包の二人は急
6 x0 q% R6 G0 G, V. L+ V. ?  Dに気が変わって、, c+ i" p  S  F
 
- o* r0 q5 m+ G" ` 「劉子興は成帝の子で、漢の正しい血統の方だ。
: q8 u9 @1 t6 R0 t5 K$ O4 p9 S0 F  この方をさしおいて一体どこへ行こうとするのだ。」4 f0 @7 [+ f$ L: A0 `/ v7 ^8 i, d
 ; g! B6 [8 `  \5 a% Y( Z& N+ h
 と言い出す始末。耿エンはカンカンになって二人を引っ張り出し、剣" |+ ~  n% |& w+ L
を抜いて言った。
3 b+ Y9 g! Z6 S$ q$ c5 W7 ` 
) }1 k4 F% D& t0 x, K8 {$ n 「王朗というのはもともと名もない伽馈¥饯欷瑒⒆优dといって皇子
3 P$ m; c  `- z% u4 V* D( h! U! uの名を詐称して乱を起こしているのだ。わしが長安に行って来てから、
7 G3 B0 j- F0 p* ?上谷・漁陽の軍勢を駆って大原・代郡方面に出て、よりすぐりの突撃隊, Q* C& {' \) t2 W0 O, ^' a1 D
をつっこませ、王朗の軍のような烏合の肖蛱い撙摔袱椁护郡胜椁小⒖輁. T* x/ m, P6 ^4 _
れ木をへし折るようなもので、王朗を捕虜にするに決まっている。おま4 g5 ~2 Z! z6 ?( u1 G0 E) a; C
えらが物の道理を知らずに伽沃匍gになったら、たちまち敗亡して一族/ s  H, ^" l2 f9 ?" u  R' r
皆殺しの目にあうぞ。」
5 X2 \: M" R8 P# H* |* [0 e 
6 F8 e* T+ R3 B5 w しかし、二人はとうとう王朗の方へ逃げ去ってしまったので、耿エン2 M! {4 h2 i* w; q! F+ q
はしいて止めようともせず、劉秀の下へと急いだ。そうして劉秀を助け
7 n( A: B4 ?' E% e) j3 w: ]て数々の武勲を立て、のちに建義大将軍に拝せられたのであった。
. a9 g2 x1 m' ?+ U 
1 d6 ~. E: o8 c8 T 烏合の肖趣稀⒃礊酩蓼盲郡瑜Δ式y制の取れていない群肖蛑竆
( A( H. d% z! ]6 p3 \% Eして言うのであって、『後漢書』には王朗を指した言葉として各所に見* A" D) K) E( R1 p& ?" ]
える。「文選」に見える干宝の「晉紀総論」にも、晉を大混乱に陥れ東5 l# Q2 w. y( I  z" Z
遷させるもとをなした漢王劉淵らを称して「新起の寇、烏合の小工妊診
8 g6 O) u) H9 K5 xっており、その烏合の肖颂煜陇盲丐丹欷郡韦稀⒄韦窑欷芢
! b4 p* I$ r( m7 H8 R6 _* Zいたからだというのである。その注に曾子の言葉をあげて、「烏合の衆\
1 U- y0 b, _' y+ mははじめは相歓ぶが、後には必ず相咋らう」とあり、また、「部分なき4 S1 Q; H# X) p% W1 I2 A9 l) s* P! u
なり」つまり寄合世帯のことだとある。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:31:27 | 显示全部楼层
有無相い生ず

8 Z: o3 N, p* i& R, {% Q5 p/ y- x
 これと似た言葉に「有無相い通ず」というのがあるが、この二つの言0 S7 ~4 \; n: C9 E: ?2 Y
葉はお互いに関係が無く、また意味するところも違っている。「有無相7 n- m1 `: H; N9 j4 t: Y: f$ T
い通ず」とは、史記の「有無を交易するの道通ず」という語から出たも
4 ?  T0 q4 X& T5 C4 M- W& @のであろうが、その意味は、お互いに有るものと無いものとを交換しあ
1 C! g2 P# w# g% vい、融通しあうということだ。
2 P7 P* f. l; W9 _; J / i+ t- |1 N" @7 F/ {
 「有無相い生ず」は老子の第二章にある言葉。また、「有は無より生* A% x: K3 F6 A1 k8 K
ず」という同じ意味の語が、第四十章に見えている。
9 I2 i  [4 G3 ?* C6 _$ N : O) ?5 h, z3 M: {; L
 第二章には、8 n8 \; i2 q% X% }! g; Q- Q! h
 2 ~; w2 c# s  w" R
 「天下、みな美の美たるを知ればこれ悪なるのみ、みな善の善たる! ~* O/ e; e3 ?# J& M( W/ s; W6 i2 f
  を知ればこれ不善のみ。ゆえに、有無相い生じ、難易は相い成し、) A7 j0 A3 C4 t9 ~8 g: ?, f8 o
  長短は相い較し・・・・」6 y! w6 {! W  B: h" ?  P' i; h
 2 Z5 X5 o# c! ^7 ?) z
とある。これをひらたい口語体にすれば、. P( r! a9 _3 S% d& ^; L- K
 - S1 K0 Z9 ~  i
 「これが美だと認知するのは、同時に、他面に悪のあることを認知
; W6 ^3 U, t3 t7 ?8 X5 p# J0 c1 m  することだ。善と不善の関係もまたしかり。このように、一つの5 B% f$ s6 [- Q- M2 X8 ]0 u
  存在はそれと対立する存在を認めることによって存在する。有は
, z) f9 n8 b. H  無があることによって存在し、難は易により、長は短によって存7 _; p) b9 s- x, ^
  在する」
* {5 L$ r. Q5 _7 {; O$ k ' t1 Y/ n  U/ Q8 t; ]( k6 E( I& g
ということになる。この世は全て関係において存在する、存在は全て相# w1 e! d* X. x; \! Y+ ?2 w& I. H
対的であり、あらゆる価値もまた相対的なものであることを言ったもの# C4 E6 b( |! a) s
である。この考え方は老子の認識論の基本をなすものであり、また宇宙
7 e% |. s& G( I! {9 O) @構成の原理でもある。4 o8 e' [9 n. k& |
 
# b2 R2 {; k3 ~9 i# H 常識の世界において無という存在はない、存在するものは有である。9 R8 f5 ]) m) }3 {2 y# Y
だがしかし老子流に言うならば、無なしに有は存在しえない。無と有の
7 `1 I- p) `4 l- a* w' _# eこの関係を、部屋や窓は、空間つまり無のあることで、部屋や窓として
5 s9 @4 j) S, Z4 n( F- t9 B/ B存在するという比喩であらわす。また「天地の間はそれなおフイゴのご; L) X% h% ^5 j5 E& S% V
ときか、虚にしてつきず、動いていよいよ出ず。」(第五章)という比
  y3 j( E0 O1 F喩であらわす。フイゴは無があることによって初めてフイゴとして存在8 b7 Q9 p  M+ p% m2 s
する。
: E' B4 k8 k3 `6 z' g( b ; i' y2 b$ H: j/ U7 C7 W
 この比喩にはもう一つ別の意味が感じとれる。フイゴは存在するが、
8 Z) X' D/ W* y) ]% ^5 h2 T& |活動することによって時々刻々の形を変える。形として存在するものは
/ d/ Q8 [: f( l" C# O8 n' W* a3 s従って変化するものである。生成消滅の状態において続くのである。存/ e; P$ N2 K3 n' N8 C: A+ @* b# {
在が活動するとはそのようなものであり、その活動を可能にするのが無
) B4 c* m( t& d% r0 hなのである。無は無限の力をもって有を生ずる。フイゴはあくまでも比9 c) E9 o+ Y; w  Y
喩であるから、無と有の関係を完全に説明する事はできないにしても、- w: n' K7 J3 F' ]5 ^8 E; D
なかなか適切な比喩である。
4 c# B$ Y. ~  Q, r 8 e' @4 m; m9 q2 b$ d$ d
 第四十章では、「反(カエル)は道の動にして、弱は道の用なり。天' z5 V- g, R* a  ]1 _3 C
下の物は有より生じ、有は無より生ず」と言っている。道(真理)から
! M7 y1 ^1 y9 t見るならば、動くという邉婴蠋ⅳ毪趣い動である。どこかへ進んで
' x+ b) ]6 ~5 P! T5 ]+ Oいるということは、帰りつつあると言うことである。物がなにかの形を
# f4 l: N- P; e; M( Nとりつつあるということなのである。また強い状態――何ごとかをなさ! A3 y" q" x! a5 I- v
んとする状態――は邉婴韦趣蓼盲咳酩ぷ磻B、意志のなくなった静の状
6 R* A" s1 a0 _" h* G態へかえりつつあることで、それが道の作用なのである。有は無から生7 Z% O+ o  U" v$ {  J( d
まれて無にかえる。存在することは無くなることである。以上がこの章8 \, Y6 O9 @2 [" N2 j8 z
の意味だ。「その根に復帰する」とか「無極に復帰する」とか老子が言
4 s+ d2 c/ U; a$ C/ ]うのもこの意味だ。. l; ]7 a& u! c) w  r- y
 6 h( g; {: |3 `* l
 『老子』冒頭の有名な言葉、「無名は天地の始めにして、有名は万物
9 q) t$ O$ [' w: \4 |6 M. nの母」というのも、有無の関係を説いたものと見てよい。無が有なる天
# P8 U! Q0 e: c8 b' W& R7 ~地を生み、さらに発展して万物を生む。無があって次に有があるという+ G6 c: E, \' }( @, a$ B
のは時間的に無が先に存在するというのではない。有とともに無が、無
1 w8 G9 ~$ D" |1 }7 cとともに有が存在していると見るべきである。従って有名の母も無名な
( ], G6 ~# ~9 k. e: Fるものも実は一つのことだといってよい。絶対の世界に立てば有も無も$ e" T: g7 q0 M- C' q8 X2 x2 {
一つなのである。この「一」を体得することを老子は、「一を抱く」と
% Q% ?+ g4 q0 Lか「朴を抱く」とかいう言葉であらわす。一を抱いた人間は調和のとれ
5 B; T& L- E* J0 U8 m/ Tた統一を勝ち取ることができる。「一」とはまた老子がいう玄なる道で
0 f4 B* Q3 j: r( \1 R5 mあり、自然であり、実在である。しかし老子は、どちらといえば、無を& A2 u1 k  R6 y: A* P" N6 A! p
強調しようとして、無がはじき出した有とその活動とを価値のないもの3 N, h( m: u, M2 A
のごとく取り扱った。それは人間が有の世界にばかりとらわれて、無の
" [/ K. g, L1 C& v6 X価値を全然知らなかったからである。無をより本源的なものと考え、
2 X* E* x$ B& Q  W' ?3 y) Q* ~「有は無より生ず」といったのである。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:31:58 | 显示全部楼层
哂盲蚊瞍弦恍膜舜妞
  @& H* U3 J+ y/ m+ B% _: ~
5 e+ i. @( O& |' F  }8 x8 ]& X% F9 }
 漢民族は、古くから北方の諸民族とあらそっていた。そして宋のころ
# \4 C' T& L8 Q5 G; iには、この北方からの大波が中国全土を呑みつくす勢いでうちよせてい$ {& {2 x9 A% h9 J
た。契丹の遼についで、松花江あたりにおこった女真族の国、金がしだ# {+ r" h% x# m: J# U
いに強大になっていた。ついに1127年、金の大軍は南下して、宋の都汳
8 h9 ]3 ~4 {4 O6 N4 O京(開封)を攻め落とした。徽宗と欽宗の二皇帝も、皇后や大官たちも
! {- V9 ?7 j1 k! H$ p捕虜となって北方に連れ去られた。のこった宋の勢力は、徽宗の弟を立7 i2 l7 I. R" |" M4 l
てて高宗とし、南にうつることになった。この時、開封(もとの汳京、0 E) o7 n  ~' ?1 A" W# `/ d
現在の河南省開封府)に留守としてのこり、金軍との第一線をささえた
& r& I; G  k- c! q! W" Wのは宋沢である。
; u- V. M* O) g, a' M1 c7 v2 k) J1 T 
, _. E4 m4 Q9 l この宋沢のもとに、岳飛という若い将校がいた。農民の子の出であっ
. z( N3 I* S. y) u) y; h6 vたが、その力はよく三百斤の弓をひき、果敢な行動でしばしば功を立て  r% e, L+ f/ p  a# R# }
ていた。しかし宋沢は、この青年の力を更に伸ばしたいと考えていた。+ K! H/ j- F4 \8 e8 D/ t+ ]
ある日、彼は岳飛を呼んで言った。
3 a7 Y' O  [$ G, p+ ^ % H' h7 B  H% q. C2 _6 q& ]4 Q
 「おまえの勇気と才能は、古えの名将もかなわぬほどだ。だが一つ% L/ Z; F: |( W' D4 b/ _
  注意したい。おまえは好んで野戦をするが、これでは万全のはか
- i, @2 D7 i9 h3 V5 N  りごととは言いがたい、これを見い。」3 i+ ?, _% Z- {/ M
 / N, l2 s; @5 i
 そういって岳飛にしめしたのは、軍陣を布く方式を述べた陣図であっ
, V5 l8 c" W# R' R4 X8 Cた。このときである。若い岳飛は、きっと顔をあげ、悪びれずに言いは4 z3 h! C7 Q6 Z+ J- \8 V
なった。6 L1 M( E* S" D; \0 ^- O! N3 s
 
' y& b. q2 ~7 |4 ]/ l  j3 x3 G% g4 `. a6 v1 v 「陣を布き、そののちに戦うというのは、戦術の常であります。# K# v$ Q+ s! ?+ r5 D  Z/ W
  しかし、哂盲蚊瞍弦恍膜摔ⅳ毪却妞袱蓼埂!筡9 @7 u. W# C! P) [3 j4 O! p5 e
 " K; k/ @! O$ Q- n* I
 戦術は方式である。その型だけでは用をなさない。これを活用するか
* t0 ~# H# _6 P5 v1 L; ?: yどうかは、その人の心一つにかかることだ。活用しなければ、型にはな, p- a, k( q2 [  H5 E$ ]
んの値打ちもないのだ・・・。こう述べる岳飛のなかに、宋沢はなみな
. n& l) t0 k6 Oみならぬ閃きを見てとった。彼はにっこりした。# [/ o* D: c  M2 H- E' u) f( a; c
 ) P& b+ D. F* ~
 「よし!」
5 j! |$ g# q1 g+ w( Z% B # o( o6 F6 m7 R. G, B: H4 ~# Z; ~5 m. u
 宋沢はこの後、皇帝側近の動きを痛憤しつつ死んだ。だが彼の目はあ
. F/ u( ^5 f3 C$ o% t5 c. lやまたなかった。岳飛はしだいに頭角を現して、南宋の名将となり、金2 t7 o7 ?5 E: [
の勢いをささえて戦った。これが金との和義をとなえる秦檜のために誅
8 j3 I4 ~& l; W9 O% T5 [. ^9 r2 r: x1 y殺され、その死をおしむ人々によって神とまつられた、あの名高い岳飛9 b; W9 t3 G! C7 S1 n2 |7 c
その人である。(「宋史」岳飛伝)
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