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 楼主 |
发表于 2005-6-22 14:37:21
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 危きこと累卵の如し  
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3 ?! X$ Y/ F0 \ 時はまさに戦国時代である。一芸一能に秀でた者は、全て実力で世に 
( n( E/ }# [, R1 g: }, b/ f! n3 l立とうと必死の努力を続けていた。中でも従横家と呼ばれる、諸侯の間 
, T7 E# @, N" c6 Z( @を遊説して歩く弁舌の地位は、空前絶後と言っていいほど高かった。! m- M  o7 m0 y# x& u5 e4 v 
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: z& w  h# y' Y5 S4 _: B' R4 G  l 魏の国の貧乏人の子に生まれた范雎もまた、従横家を志す者の一人だ 
0 N! }6 L, G+ Qった。だが幾ら実力主義の世の中が来たからとはいえ、氏も名もない男 
+ J; X# |, G4 e1 N) ~2 ^! Gが出世の糸口を見つけだすのは容易なことではない。まず故郷の中大夫) C& Y- c% ^# d; U- N- \ 
の須賈に仕官したが、斉にその供をして使者に立った時に、家来の范雎 
, f8 |, o4 K4 ~の方が受けがよかったので、すっかり須賈の機嫌を損じてしまった。そ' Z6 _9 y' r8 R# d; z 
れで帰国後、須賈が魏の宰相魏斉に、あることないことを悪し様に告口 
( j( z6 D, d, `0 n$ D% W: O0 Pしたから、さァたまらない。 
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/ N$ Y1 ~; M% E0 O 「お前は斉に通じていたのか?」  {4 R! N* F0 x6 B. a# d 
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 と、たちまち下役人どもに命じて散々に打ちすえさせたかと思うと、 
- G, h9 x6 n3 E# X) l今度は簀巻きにして便所に放り出すという仕打ちだった。范雎はすきを 
- J! U7 v, p9 [+ o5 c見て番人に渡りをつけ、漸く同情者の鄭安平のもとに潜伏して名を張祿; _7 d+ d1 N3 t' L- W# i 
と改めた。いつか折りがあれば秦に入ろうと、それとなく心がけている) ^; b. {' `: e. q+ z* Y: k 
と、秦の昭王の使いで王稽という者が来た。鄭安平はさっそくその宿舎 
* v. U3 [. b  ]' e. tを訪れた。0 X0 \+ d/ E9 i3 Q" ?( \; V 
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 「あなたに推薦いたしたい立派な人物がおります。; B5 v3 u! }$ ^8 o" n$ @% r 
  ただ、その人には仇があって、 
  E1 ?  u. v6 f% e$ A( i  昼間お連れすることが出来ません。」 
- }! p. y8 a$ }) |4 `; p  
2 J6 N0 g$ |' y4 a/ A8 n 夜陰訪れた張祿を見、彼は、苦心惨憺してて鄭と共に本国へ連れ帰っ 
  s5 `, }; k* Q4 h5 P, \6 a$ A5 Gて、こう言上した。) t1 w3 ~8 V% d' M4 \4 }6 A# Q 
  
: [0 w2 L; R  a( X- ] 「魏の張祿先生は天下の外交官です。 
% g+ [4 `6 Y8 r1 \9 E( h7 R/ d6 t' V  秦の政治を批評して 
6 O5 @% l( ]/ T  『秦王の国は累卵(卵を累ねること)より危うし』といい、( g$ r+ i+ w' c/ ^* L1 P 
  『しかしこの私をお用いになれば、御国は安泰でしょう。 
/ |7 Q$ S' R# m. [   不幸にして手紙を差し上げようにも、 
( Z) Y, j* c8 f, n   今まで機会がありませんでした。』と言っております。 
9 m3 E" e1 r. ?3 @# D" o  これが臣が先生をお連れした理由です。」. L& t7 z) [  n+ q5 t  G% ^' I  Z, G* A 
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 秦王はこの不遜な客を厚遇しようとはしなかった。しかしさすがに戦2 K6 }7 V. J' ~  t) ]" G 
国の王者らしく、別に処罰するようなこともせずに、一応下客の列に加/ v" p8 Q6 J3 }, U 
えておいたのである。范雎が真の才能を発揮しだしたのは、それから間; Y% |# y5 p* f, g1 t9 {" O- ~) ] 
もなくのことだった。(『史記』范雎伝) 
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 また次のような話もある。春秋の頃、曹という小国が晉と楚の間に挟 
' ~* y* m' }( s# N. a, v0 o' q! fまれてどうにか独立を保っていた。晉に内紛があり、公子重耳は亡命の 
  X9 x  o! M5 r. u/ K途中、曹を過ぎた。その時の曹公の態度が甚だよくない。かねて重耳の 
: W# t# c- ~7 s8 ~肋骨はつながっていて、あたかも一枚の骨のようだとの噂を聞いていた 
/ w* W- F1 v& B" I* K4 K5 Y曹公は、公子を裸にしてわざわざこれを観た。ただ曹の大臣の釐負羈だ. d  @; Z) {) \+ C: l2 f$ { 
けは密かに夜中人をやって黄金を贈った。5 a: {+ w. @8 G/ i 
  
, b& v, u$ M+ B; v! C/ a. i7 i 「私の見ます所では、 
+ A+ m) f9 _6 A# X# ~. t  晉の公子は万仱尉郡毪摔栅丹铯筏ぁ 
; U4 b9 x2 b7 v1 m) U6 `, Q: k  立派なお顔をしていらっしゃいます。" I% w+ r& j5 [2 U8 U; [; t 
  再び国に迎え容れられるようなことがありますと、7 V; w4 M. |$ N0 s1 r' V" E) o8 L 
  必ず曹の無礼を誅されるに相違ありません。 
6 r3 d5 Q$ x+ U  今のうちに公子に志を通じておかれた方が将来のお為です。」) }& Y$ A. h7 A- G; a; C 
  
0 A- y9 L6 ?# j0 S+ F* U と言う妻の言葉をもっともだと思ったからである。 
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 それから十年、今は秦に身を寄せている公子は、その援助で晉に入り) R4 a+ r2 `. @, C0 ^ 
晉君となった。これが春秋五覇の一人、晉の文公である。更に三年、文 
* j5 H: S  ]6 ]" k; B* Z5 O  f公ははたして兵を挙げて曹に攻め込んできた。釐負羈が攻撃を免れたこ% m  k8 K, m% X) ~* A8 [ 
とは言うまでもない。3 |( @  }2 t  B7 K 
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 だからこそ礼は大切なのだ。曹は小国で晉・楚の間に挟まれている。 
5 p& k5 }4 a- X/ Y; Oその国の危うきことは、累卵のごときではないか。そのくせ無礼な態度 
6 v' i2 R; H) o, q( Uをとったのが、そもそも間違いだったのである。 
% X1 a3 U; {" z" J. x9 ~と、これは韓非子の「十過」に見える挿話である。* s+ Z  O. d4 ~* I* K 
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 なお、これを鄭という小国のことだとする説もある。 |   
 
 
 
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