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楼主: bgx5810

中国故事物语(已载完)

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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:32:24 | 显示全部楼层
遠交近攻
/ B  g4 |; n1 F, _, c4 h$ e! p3 n
4 t+ B7 C6 g- a8 j5 }
魏の策士范雎は他国に内通しているとの讒言から危うく命を殞しかけ
- L- g, L2 J' c+ a( I8 o7 x5 L$ mたが、同情者鄭安平に匿まわれ、秦の使者王稽に従って秦都咸陽に入っ
: l2 D* x& R3 w/ {た。しかし、「秦王の国は累卵により危し」という率直な言葉は喜ばれ
/ }& ]* I; }. n' z4 Cず、しばらくは得意の弁舌を振う機会もなかった。( \0 p3 p0 o* w" q9 }6 X: |
 
* n- N- h) C8 h3 v5 C 昭襄王の三十六年、待ちに待った機会が訪れた。当時、秦では昭襄王
2 T- d, C  c% M# X8 E& W( }; Dの母宣太后の弟の穣侯が宰相の地位を占め、絶大な勢力を持っていた。
$ @9 [; ]6 l5 r% l% a% dその勢力をいいことに斉を侵攻して、自分の領土の陶を拡張しようと企* C5 @; ^( Y5 u: Z* y. G
てたのである。これを知った范雎は、王稽を通じて王に文書を差出し拝
+ T5 E: q# J6 }5 E謁を願いでた。$ D7 w3 {3 E" g6 C. p" r
 
0 q; H- \3 @) G! o( A9 y 「人主は愛する所を賞して悪む所を罰します。+ Q: P# z9 d$ |- V! M
  明主はこれとおもむきを異にし、賞はかならず有功に加え、& p! I4 _$ l( F. x; b& @; g- |
  刑は必ず有罪に下すのです。」
, u: |& f( \. H * j. |7 g6 ~; a4 [" o- R2 q+ U# d2 I( S8 P
 にはじまる一文は、幸いに王の意にかなった。推薦者の王稽にもお褒
- o1 M: d6 B6 iめの言葉をたまわったほどである。
. o4 d8 N" }8 o+ L/ H8 ?" {# P 
$ u# a! d  d2 `+ B% f7 J# E いよいよ人払いをして引見してからは、へりくだって謹んで教えを請% T- f( D6 E' V! m; t
うのだった。8 s+ }! v. P9 X2 w' b
 - a. A- B5 M2 \; j" L  }0 I
 范雎は言上する。
2 E+ N* w4 r' a, s7 ] 
% H# f2 Z* N4 e& v3 a0 o「韓・魏の両国を通り越してあの強い斉を攻められるのは策を得ており& S- S( E3 r7 \+ z
ません。少しぐらいの兵を動かしたところで斉はびくともしませんし、0 q) }3 A4 f% g! H/ X
そうかといって大兵を出せば秦のためによろしくありません。なるたけ" W0 H7 ^7 p/ x+ }; T
自分の国の兵を節約して韓・魏の兵を全面的に動員しようというのが王
. I# B9 R# P& e" xのお考えですが、同盟国を信用できないことを知りながら、人の国を越4 e7 L; S6 {# J# `' x0 h
えて攻めるのはいかがでしょうか。斉の■王(びんおう)が楽毅に敗れた9 D; h) ?, ]/ y( T0 x5 h
原因は、遠くはなれた楚を討ったために、同盟国の負担が重くなりすぎ
, {7 D3 N2 T! V+ E2 H! kて、離反してしまったからです。そして天下のいい笑いものにされまし
5 U7 \. b$ ^3 |: q; Qた。得をしたのは隣りの韓と魏で、いわば佘姢吮蛸Jしあたえ、泥棒
6 P+ i* g/ K( T& cに食糧をあたえたようなもの。いま王が採るべき方法としては、遠い国
0 \, I9 H& ^# Kと交わりを結んで、近い国を攻める、すなわち遠交近攻の策が一番よろ
4 ~+ J" I( u0 t! Jしいかと存じます。一寸の土地を得れば王の寸土ですし、一尺の土地を
! q+ V" t3 C; u' M8 h得れば王の一尺の地ではありませんか。利害損失がこれほど明らかなの
6 ~6 N: E6 |, ~に、遠くを攻めるのは間違ってはおりますまいか。」と。8 ~4 \7 a! z# ^1 g1 {
 
" m3 z% Y+ Y8 d- i! w 以上は、ほぼ『戦国策』の「秦・下、昭襄王」に拠ったが、『史記』/ u: Z! N/ v- Z
の「范雎・蔡沢列伝」の文章もほぼ同文である。9 \) _4 K: m0 J# O% p4 r
 ' M! |& V; r9 P
 これから范雎は秦の客卿となり、さらに宰相に任じられたうえ、応侯9 B# X4 @+ x5 N
に封ぜられ、軍事関係の仕事を一手にひきうけることになるのである。
5 h: v& `' p( j# j1 Q: U4 vそして、以降遠交近攻の策は秦の国是として、ついに天下統一をもたら) l- j7 C$ Z5 t+ n% [
す指導原理の役割をはたすにいたったのだった。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:32:49 | 显示全部楼层
燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや

% b- y& }' Y6 i) [' I' ^% K
) k# ?& V, u9 A7 E 陳勝、字は渉。河南省陽武県(今の登封県)の日雇百姓であった。あ
2 V" B* u' D# i! B! pる日、仲間たちとともに田を耕しているとき、陳勝はふと、鍬を投げす$ Y) o' s" q' p
てて丘にかけ上がり、しばらく悵然として天を仰いでいた。彼の胸は、  R% i6 e: p% ~* M0 }
秦の圧政に対する憤りと、自分たちのみじめな境遇に対する恨みとにふ1 M5 v! A4 C7 ?3 g- T3 x
さがれていた。しかしその裏では、彼の胸はまた、将来への野望に燃え
  g% Z5 T& s% q' X8 H. ~% S7 }立っていたのである。やがて彼は、仲間の者たちをふりかえって口走っ  K# J2 M- p2 u" G1 C5 i  W
た。
8 q$ c6 O& s% y- a 
& K9 W4 L0 X% ?! M& l 「将来おれが出世をしても、お互いに忘れないようにしようぜ。」6 V- K' a0 Y9 X' p) |/ @" g4 k
 「なにをねぼけているんだ」と仲間の百姓たちは笑った、- T/ U7 Q* I2 h+ Z- ?
 「お互いに日雇百姓じゃないか、出世なんてねごとはよせ。」
- k3 c! S1 w% p9 P0 n & P$ q/ @6 q& P) j; L
 陳勝には仲間のその言葉がかなしかった。おれの気持ちは彼らには通( O5 Q1 f' o  ^5 S
じないのだ、と思うと、彼はため息をついて言った。& K8 j2 g5 d, r5 @; c; |6 M3 h7 R
 
6 Q7 [" }  B" a2 i( T 「ああ、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」: q0 e' B6 g; N+ }, X
     (燕や雀のような小鳥には、大鳥の大志はわからない!)
2 H: V% B  x8 V% c/ u 
6 s% Z' Q" \' D! [$ C その陳勝は、秦の二世皇帝の元年(B.C.209)七月、河南の各県から4 y# S0 d2 ^4 L% d' o
徴用されてきた九百名の貧農たちとともに、長城警備のために漁陽(河) L7 _. I' H+ p6 }" G
北省密雲県)へ送られてゆく途中、安徽省の「き県」(今の宿県)の大
% F% F* \! W3 J+ J8 d8 |' d沢郷というところで、おりからの長雨にとじこめられていた。このあた( \" G* e/ M, [; L, O) j7 X( o$ ]# s
りは淮河の支流が網の目のように走っている湿地帯で、雨が降るとたち8 \) h' s7 y$ K) Z
まち道が通じなくなった。徴用兵たちの漁陽に到着すべき期日は迫って
3 d: [7 z- x6 F6 e! A. k6 Cいた。秦の軍法はきびしく、もし遅れたならば彼らは斬罪に処せられる
4 Q% h1 |! l; Y' M# H3 j* @のだった。だが、大沢郷から漁陽までは三千里、今すぐ強行軍をしても
" Q7 |) A2 f  w期日までに着くことはすでに不可能であった。しかも徴兵官たちは終日
( i3 t1 e  M% ?1 pゆうゆうと酒を飲んでいる。彼らには罪を逃れる便法もあるのだった。
+ X4 C: S6 L8 E( Z 0 O. v" |5 y% [, }
 このとき陳勝は、同じく徴用兵の呉広とともに秦に反旗をひるがえす
9 `* E/ e/ M7 _! C; Aことを证盲俊規凇⒆证鲜濉㈥栂谋h(河南省太康県)の貧農で、兵士
4 q) W. B" W/ I2 S  Z6 U$ O$ ?たちのあいだに人望があった。
! W. @7 J8 ]( ]+ u" k2 s 1 z: E9 q8 E7 V
 陳勝と呉広とは、ひそかに兵士たちの不満をつのらせ、反抗心をあお
. c3 p- z1 H% M' |* z+ }: `: S& vり、また、彼らの迷信を利用して、魚の腹の中に「陳勝、王たらん」と
  O8 \5 k# R- v% |8 G0 I朱書きした布切れを入れたり、陣営の傍の祠にかくれて狐の声をまねて3 ~# E; A4 k+ \" w3 w
「大楚(楚は秦にほろぼされた彼らの祖国)興らん、陳勝、王たらん」3 g9 `3 T4 B" Q1 a( z9 a
と鳴いたりして農民たちの心を陳勝に引きつけながら、九百人の一隊が
# b& v* s# P# |& Y0 ?ともに立ち上がるべき機会を待った。
" |1 F- {9 v4 D 5 Y1 L% J  l2 \, T  h" D
 やがてその時は来た。呉広は事をかまえて徴兵官を怒らせ、彼が剣を
7 m) ^' W) I; T" Y! G抜いたと見るや奪い取って逆に徴兵官を斬り殺した。その時陳勝は兵士  k2 h- H( b  `0 u- B
たちを静めて号令した。. O5 l& V* D$ w
 
" v4 T+ g- `" l. J5 F3 P 「おれたちの生きる道は一つしかない。
& O6 e; b/ u* e& [4 m+ ^' f8 }  それは、おれたちを苦しめ通してきた秦と戦うことだ。9 Y4 x/ L9 f$ F2 `
  おれたちの国をおれたちの力で興そう。0 G3 O2 Y2 }, y
  おれたち百姓だけが+ I$ T# G+ x; o. F) O
  虫けらのように辱められていることはないのだ!」% M7 |/ p( x: g! I7 O0 h
 & V  P: R0 X$ @, i. Y$ _
 そして陳勝は声高く叫んだ。, X4 J- Y6 e. n) `( a# |
 
( h' r6 Z+ y2 D 「王侯将相寧ぞ種有らんや」
$ e- z/ M' O: B% }1 C  (誰も皆同じ人間ではないか!王侯にも将相にも皆なれるのだ!)
4 g$ s( H" O, w. } # y  d% M. ^' G" \% Y
 九百人の農民兵たちは、どっと喚声を上げて陳勝に応えた。こうして
) A& \# {) z/ ~5 r1 @大沢郷に蜂起した農民軍は、たちまち「き県」をおとしいれ、一軍は東
$ }. N5 M8 l6 X9 e! b2 H進して東城(安徽省定遠県の東南)に向かい、陳勝・呉広の主力軍は西
% |$ p- r4 d8 P2 f9 ^% J  K( v進して陳(河南省淮陽)に向かった。長らく秦の圧政に苦しめられてき
; x/ \  o5 m& m  x1 Nた各地の農民たちは、みずから武装して陳勝の軍に加わり、陳に入城す
- R1 \% B- d' J. [6 gるころにはその兵力は数万に達した。陳勝は陳で王と称し、国号を張楚  `. _  ^# u3 u: D  o2 e  y9 @8 x
(楚を大にするという意)と名づけて秦に対抗した。つまり、陳勝を首& I+ e- ]5 L' K- a, Y# v8 u+ x3 Z2 J
班とする革命政権が樹立されたのである。これは中国ではもちろん、世4 B: U! v4 }3 L. v$ Z' m. L
界史上最初の、そして大規模な農民蜂起であった。
5 K' W! ]3 \# \! x                      (『史記』陳渉世家)" |  @  \2 q8 x4 ?' y: J: k
 " _, @/ w* m# ]$ u6 j
 事のはじまりを為すことを「陳勝呉広を為す」というのは、陳勝と呉  e" O  B7 U& J
広が大沢郷に立ち上がった、このことに由来する。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:33:09 | 显示全部楼层
遠水は近火を救わず

& ?1 E5 B" g0 c: F
3 C% g& Q" K8 _0 L5 l8 j% [" b「遠水は近火を救わず」とは、遠いものは火急の用には立たない、と
9 P6 \2 \7 @! l- n言う例えであって、韓非子の「説林・上」に見える。
7 e5 O5 c8 E) M5 d" ]
9 ]: J. n, V- `& X# X* ~: j 魯の穆公はその公子達を晉と荊とに仕えさせた。その頃の魯は、隣
1 z: F& B* W0 y. G" w7 _' T0 r国の斉に脅かされて居たので、晉や荊の強国と親しくしておいて、危0 t$ l9 U: V* |* M
急の際、それらの国々から助けを得ようと言う魂胆であった。穆公の9 Y" e3 _$ N2 c6 P( M
そういう考えを犁〓(りしょ)が諫めた。
: e) b3 _* `* A4 A0 V
0 ~. D$ \" d1 h/ Y 「人を越より借りて溺死を救わんとせば、越人良く泳ぐと言えども
5 q) w# C) G1 t" {) S- G子は必ず生きじ。失火して水を海より取らんとせば、海水多しと言え
# l$ `+ Q6 Y0 ~( s' q* Cども火は必ず滅せじ。遠水は近火を救わず。今、晉と荊とは彊と言え( P0 N  u, j2 f8 O* l% J
ども、而も斉は近し、魯、患らくはそれ救われざらん。」2 z* Q0 V* J/ I$ U" l8 ]( F

# g; V1 q& Y& T( h$ U/ J 越の人は泳ぎが巧いからといって、溺れている者を助けるために越0 L5 C7 q/ g$ |# w
の人を呼びに行っても、間に合う筈はない。越は遠国だからである。
) G! j: P% [. q& x3 W* U( b2 K 海に水がいっぱいあるからといって、火事を消すために海の水を引/ t3 G' l. I7 R* U
こうとしたところで、その間に家は燃え尽きてしまう。晉と荊は強国
6 D1 k( D: h$ l: Yであるが、魯と遠く隔たっている。魯が隣国の斉に攻められたときに
6 q+ z& l) e- P8 `; Y0 C, J/ Sは、恐らく魯の助けには為るまい。遠水は近火を救う事は出来ない。; i9 M" y0 A4 L, s5 n( K% k  s

, B! w; m6 S7 E3 L0 v% L 今でも年輩者が時折口にする、「遠くの親戚より、近くの他人」と
% Q2 k8 t/ [6 v) i" R- _+ a" ~いう言葉は、この「遠水は近火を救わず」から派生した言葉だ。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:34:09 | 显示全部楼层
一網打尽

; E+ X; p' _. d) M, M9 K' O
  i% ?; K+ s# J( H2 ?宋の太祖から四代目は仁宗皇帝、北には契丹が頑張っており、南では
( D6 n0 _" f3 O1 _9 V永く中国の一部だった安南が独立、宋建国以来の外征はいつも失敗し、9 j5 g. k# {3 D0 p) }
仁宗の対外政策も、専らこれらの国を懐柔する軟弱外交に終始したが、
+ u1 a7 u# U$ c内治においては見るべきものが少なくなかった。' Z( a! n& H+ G
 
) j/ q2 H. _) O  b7 e6 ] 帝は性恭倹、よく民を愛し、賢才を登用し、学術を奨励したので、軍
- @6 A1 ~/ y, R5 y, {備こそ整わなかったが、賢能の士が朝野に満ち、国はよく治まり、漢の
$ k/ x1 ?/ W  g+ |文帝とともに仁君として代表的な人である。当時の名臣としては韓琦・! R4 c0 }- f& Z0 S
范仲淹・欧陽脩・司馬光・周敦頤・張載・程顥・程頤など、いまに名の: L  e, Q8 D5 t. ^- b; \
残る立派な人がいて、帝を補佐した。世にこれを「慶暦の治」という。) `2 `5 j3 |4 P" T
 
2 d: Z7 o, I$ m3 D2 L6 y) K しかしそれだけに、朝議に名論卓絶が出過ぎて、まとまりがつかず、
0 q) O* f8 h8 `; z8 P* Bその果ては廷臣が党派を組んで対抗し、両党が交替して政権を握るとい
, A# t; K! T1 @/ ~& D' B5 Sう、いまの政党政治の見本を作った。このため、二十年間に内閣が十七2 r: e# D/ F# P6 Y
回も変わったというから、どこかの国に似ていないこともない。世にこ
) O: k) r: k( j$ Wれを「慶暦の党議」と称して驚いている。6 C) h5 p, u( y- G/ A; ~8 C2 x
 
; R+ k/ \' C7 f4 c) d1 h さて、帝は精励恪勤、毎朝、御座所に出るたびに必ず、「世はうまく
' ~/ y! R% |1 G0 j) e. h治まっているか」と問いただしたのち、帝の蔵書庫を開いて大臣を召し- S3 I7 N2 }/ G6 W. _
た。これには学者を持って鳴らした仲淹らも恐れ入るばかりであった。
4 \3 Z! [  Y( w7 P0 M + Y, ]" b: G5 j% k
 間もなく杜衍が首相になった。当時の習慣として、帝が大臣たちに相
* j' ^* z0 L/ ?4 J' t談せず、勝手に恩詔を下すことが行われていた。これを内降という。と" D0 O* ]5 r5 n! q, P3 v. p
ころが首相になった衍は、こういう習慣は政道を乱すものとして嫌い、" l+ ^7 G/ G) H$ Y8 h4 a
内降があっても自分の所で握りつぶし、恩詔の詔旨が十幾つたまると、# z3 \. H+ C, _  Y/ x1 n
そのまま帝のところへ還していた。1 H9 b( i' X2 @2 W7 S1 W1 w4 E- L
 
2 P2 }8 c% t  ]: P# ?3 K4 d 帝はあるとき欧陽脩に言った。3 v2 H; U. L4 J, I4 H2 {8 |
  「朕が大臣たちに相談せずに、恩詔を下しても、首相の衍が
* B4 G8 c. e* F) W  R! I4 Q: S! I' }   握りつぶしてしまうことを、みんな知っているだろうか。3 p+ r% S/ n4 X8 A* h
   朕の所へ恩詔を下してもらいたいといって来る者は多いが、
5 `1 |" d, v' h0 y' l' X3 L) ?6 ]+ w   どうせ首相の衍が握りつぶしてしまうんだから、出しても" Z9 {; ?% k; `' V3 ~
   しょうがないといって、あきらめさせることにしているが、
) a/ E3 {" |2 W% {* M   その数は、衍が握りつぶす数より多い。」
' B. g4 ~2 A+ m! a 
8 l9 ~' f8 D3 w2 D; A  @, [ 衍のこの行いは、聖旨を勝手に曲げるものとして、宮廷の内外から非% X0 @% A6 G+ t) A5 _% ~4 I% R
難された。7 a+ K4 p! C+ r$ H
 
" p* f! j. \* u0 j6 B  }9 s( E6 n たまたま衍のむこの蘇舜欽が官吏となり、公金を流用して神を祀り、
5 y( c5 H+ t: f% B客をもてなした。「しめた」と思ったのは御史の長官王拱辰、平素から% @$ z: E( o: K& k
衍のやり方を、にがにがしく思っていた矢先なので、これで衍をおとし
. |9 a4 T& l0 ]4 aいれてやろうと、舜らを獄に投じて、厳しく調べ上げ、数人を罪に落と
+ U7 L. |. t0 l1 k7 n3 a: k8 Rした。拱辰は横手を打って喜んで言った。
$ F% a2 }. D$ X: p" o. G 
0 G5 h& o5 q7 P% A# l「吾、一網打尽せり」6 e$ N7 n- S5 F% y
 
6 V% _* q6 I$ i& S こんな事件のため、さすがの衍もついにわずか七十日で、首相をやめ& d2 t+ n% d  m" Q( k7 @3 [
なければならなくなった。(『宋史』仁宋紀、「十八史略」)
# y( s2 |) K" J% c3 Z) Y 
) h" q1 D. p, z0 h9 n2 e どこの国、いつの世でも、やり過ぎると、思わぬアナを掘られるもの" ]1 k7 r+ G) m* T& M) a
だ。適当にやるというのが官吏の保身の秘訣らしい。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:34:37 | 显示全部楼层
一字千金
' i  Y/ {/ J. \
  s: J6 m4 J1 k5 O
 時は戦国の末。天下を狙う列国の諸侯達は、競って一芸一能に秀でた( w; X9 M3 H3 L; |2 c. o3 g
者たちを客分として招き集めた。これがすなわち食客である。わけても
0 Q0 i, n3 c& i9 w% Q' m斉の孟嘗君は数千、楚の春申君は三千余、趙の平原君は数千、魏の信陵
1 {! d' U% z! Q2 d& A* Z' g! M君は三千と、食客の数を誇ったものであった。. O0 I1 |) `2 J0 n( b9 t
 
+ `6 e8 _+ `+ _& b& O6 x5 | しかもこの食客達は、今日の居候とは違い、いずれも一癖も二癖もあ) e0 a. q# }% O( J. M$ Q) f
る人々であり、諸侯達にしても彼らを自分の許につなぎ止めておくため
; n3 b  f( E  f8 r7 r* `に様々の苦心をした。たとえば、家産をなげうって諸侯の食客を膝下に* o. n+ @% J" I; s" d( @9 U
集め、「天下の士を傾けた」とまで言われる孟嘗君は、貴賤の別なく、+ G/ G3 w2 }/ s  [
全て自分と同等の待遇をし、また彼らと話すときには常に祐筆を屏風の- W* f# G# u7 Y: Y3 z) R
かげに控えさせて、彼らの話中からその親戚の住所を書きとめさせ、後
3 U; |5 L3 D7 A- |3 }4 C- [. dで人をやって進物を届けさせたという。' ^% V( P& x2 \; F" i0 r. k
 / y% f* |" u: W$ h) T3 N' j8 Z
 8 F+ D5 n" \5 T4 C/ R
 またこんな話もある。趙の平原君が食客を外交使節として、楚の春申$ r: U& C# |& U' M( ?5 i/ v
君の許へ派遣した時のことである。平原君の食客は自分がいかに趙で優5 i/ c! Q& I" @3 E  r
遇されているかを誇ろうとして、わざわざ玳瑁の簪を作らせ、佩刀の鞘
# k' \  C5 q( N, b3 D/ B- v: Cには珠玉をちりばめたものを用い、美しいいでたちで春申君の食客に対1 W+ N# y! j4 j  d
面を申し入れた。ところが、出て来た相手を一目見た途端、彼はあっと
! H( a! A0 v" K6 v3 `' y2 H赤面した。というのは、春申君の主だった食客達が、揃いもそろって珠
1 O  V  C9 N& G3 C玉をちりばめた靴を履いていたのである。) P: g; {" f; L1 D" \
 ( i3 p+ j. u+ G8 Z, q% p
 
& S5 b7 P/ f& ]9 B# a さてこの頃、諸侯に負けてはと躍起になって食客を集めた男がある。
* Z0 G" o% @- }一介の商人から身を起こし、今は強国秦の相国(総理大臣)となり、弱年( I" ]) v- `. N, h9 u$ _
の王政、すなわち後の始皇帝を操って威勢を振るっていた呂不韋である: `- L2 R+ T$ F' V
(呂は実は始皇帝の父親である)。始皇帝の父、荘襄王が妾腹の子であ8 i  e, q) {4 p  I1 D$ d
ったため、趙の国へ人質にやられて小遣いにも事欠くような生活をして
) _8 I# w/ H/ l; B" N, Uいたときに、「奇貨居べし」と目をつけて莫大な投資をし、ついに今日
) g% v6 l% y( j% N, c) M( d1 I) y5 [; qの栄華を勝ち得た呂不韋のことだ、信陵君、春申君、平原君、孟嘗君が
+ g8 B* I" f3 s  |7 b# X盛んに食客を集めてその数を誇っているのを耳にしては黙っていられな. X0 Z  _8 t0 ^& n7 M+ g: D; V
い。" ~* Y+ J2 X9 F$ R
 3 \' v  n+ v7 |
 「強大をもって鳴る我が秦国が、こんな事であいつらに見下げられて
- |% c8 L& M" y7 }& Oなるものか」と、そこは商人、金に糸目をつけずに食客を招いたので、
/ N# n/ f! ^% T5 v各地から集まって来た者は三千に達した。% J) G) w/ I" y4 ^% ]; f! N
 0 r7 Y# A' p, I% Q) ?2 ?$ A
 こうなると、ますます彼の欲はふくらんだ。この頃、各国で賢者たち4 V0 A9 t' _  S! X$ G; L. N9 a
が著書をあらわし、特に斉・楚に使えた儒者の荀卿なぞは、蜀世を嘆い
/ e3 F0 c1 h* y& s" b( _* |- ]て数万言の書物をあらわしたと聞くと、「よし、ひとつ俺もやってやる
. \1 ^2 a2 [8 _+ i9 \か」という気になった。そこで食客たちに命じて作らせたのが、二十余
0 q* x6 J" q( h2 F% S万言よりなる大冊である。
* }9 o5 i9 [: u: f! u' R' N 6 U! J" J8 `+ ^9 U. D8 z; t& L
 「どうじゃ、天地万物古今のことは、全てこの中に入っておる。こう. m$ r! I7 L9 }; ~! |1 ~
いう大仕事が、わしでなくて誰に出来る」と鼻を高くした彼は、この大
* w+ {, [, Y) q$ n2 J作を自分の編集したものとして『呂氏春秋』と題した。その上に、やっ5 _3 ~$ L7 M8 Z
たことが面白い。この『呂氏春秋』を都咸陽の城門の前に陳列させ、そ7 {9 @8 J- R- ]- M0 P/ ^
の上に千両をぶら下げておいて、大きな張り札を出した。- U  @" h2 s0 C, M! V3 d8 ]2 G) V
 
7 Z0 K4 D  l- c; O% ~ 「能く一字を増損する者あらば、千金を予えん。」) |) P) b0 W4 L3 B
 : s& W; F. R/ {3 p' v$ c! y
 つまり、この本の文章を添削できた者には、一字について千金の賞金( S* v2 }$ ^5 Y; G8 `. I5 x- E
を出すというのである。いかにも人を馬鹿にしたやり方だが、これも実
. O' b. |) _. tは商魂たくましい彼の食客誘致策だったのである。(「史記」呂不韋伝)
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:35:07 | 显示全部楼层
石に立つ矢

8 ^( j- }. V, v( w- U7 u: F0 G7 o4 t1 e! T* D5 U
 名将にも将に将たる器と、武勇に秀でた部将として知られた者とがあ
& @0 t0 z0 o& b1 `3 aる、漢の李広やその孫の李陵のごときは、明らかに後者に属する。天下
% f" o& O* O$ V8 d  U, C/ bに勇名をとどろかした将軍が続いて輩出するのも道理、隴西(甘粛)の: i; o) d* p9 H  W
李将軍の家は先祖代々の武人の血統を誇っていた。
6 q% O7 g' ?: e$ t& s 
+ w# q& h: {5 H8 q5 n7 m. j$ g- T ここ隴西は胡地に近い。すぐ北に接するオルドス砂漠は、匈奴の前進
* L. f3 l( M+ G7 G基地となっているし、街の周辺には六盤山脈の支脈が伸びている。国境
1 a: W; w5 t+ Q都市らしい荒々しい雰囲気に包まれて幼少時代を送った李広は、やがて+ s' Y9 J) w+ I
正式に武術の訓練を受けるようになると、めきめき頭角をあらわしはじ
( i. g7 p3 F4 x8 mめた。武将の子として恥ずかしくないだけの風格は自然と身にそなわっ5 t( K5 m. V( m5 Z  S$ t
ていたが、こと弓を執ってはめったに人におくれをとらない自信があっ
' }4 E% A) J/ t9 u+ mた。文帝の十四年に匈奴が大挙粛関を侵したときは、わずかな、しかし7 t; C) h2 _5 [- v0 _; v# B
十二分に鍛え上げた手兵を率いて、匈奴にも決して劣らないだけの見事
6 X8 h) A4 {. ^. M- i" mな騎馬戦術と弓の腕前を示したのだった。数十年来匈奴から苦杯をなめ, G# d8 e4 a* K: u- l* o$ K
させられ続けてきた文帝は、我がことのように喜んだ。そして急に手元; p% j) F4 u5 @5 m: V
に置きたいと思いたたれたのであろう、侍従武官に任命したのである。' N! V  t2 n" B0 T, }& n
虎と組み打ちして見事に仕止めたのは、文帝の狩りのお供を仰せつかっ
* i  [6 o0 o  _& qた時のことだった。危うく難をまぬかれた文帝は、今さらのように驚い* V3 [7 D. Q2 w
て、
7 U$ q4 f: g- F& j 
& r8 W8 g) G6 X% s. N* t 「さてさて、そなたは惜しいことをしたものだな。
, W( {* O3 [# {8 s, f! }6 b  高祖の時代に生まれあわせていれば、
8 z! R2 H. P/ d4 K! ^: ~  どんな大大名に出世したかも知れなかったのに・・・。」
5 S8 {) @# n1 X6 {7 K 
1 t) {5 V2 b$ F7 H 「いいえ、大大名にはなりたくありません。
" o: I, D; y( F+ w# ~  国境の守備隊長がわたしの望みです。」, l$ |" a* B3 A2 r, b, q. C- Q
 ) V0 {5 d7 `* M# l7 y; r
 こうして李広は、かねてから望んでいた辺境の守備隊長を、またも転& c. O- x# N8 ]. e. Z- E+ P
々とすることになったのである。この間にたてた手柄は数限りない。し+ D; M7 {$ B% O/ d" e% t' d
かし世渡りが下手だったせいであろうか、官位は一向に進まないばかり
/ h! F* O) c: {3 [4 Dか、時には免職にさえなりかけたほどだった。
, U% f/ c- O- N$ x2 V/ K : T! F, y, P1 n: m6 X3 N: W
 将軍の真価を知っていたのは、かえって敵の匈奴の方だったかも知れ/ q; t- Y7 p0 m# y/ r$ @
ない。漢の飛将軍の名を奉って、あえて将軍の城塞を窺おうとしなかっ2 ^" Y' @4 D$ H2 ]0 d
た。右北平の匈奴が安全でなかったばかりではない。わがもの顔に山野
+ q$ V( q5 @- t: {4 }- @) K. f2 K% `3 z4 Nを横行していた虎も安全ではなかった。草原のなかの石を、虎と見誤っ( n2 C) i' P0 z! @  [4 W. c1 Q
て射た時などは、矢鏃が隠れるぐらい深く石に突き刺さった。石に矢が
6 L" ?3 \' N' M9 B) n! |8 g. T# C立ったのである。近づいてみて石であることが判ってから改めて射た矢
8 }9 o7 \- L* @- v0 `は、今度は突き刺さらなかったという話である。これが「一念巖をも通: L" X7 o& v# s
す」の故事である。(『史記』・李将軍伝)% z5 X, ?( B  b- m
 
" J$ G% r& {0 C- t + X% n: w; C+ B: J+ ?9 j- N5 d
 この話は李広将軍の弓勢をたたえて人々が作りだした話かも知れぬ。
3 L& @2 g  d: y% p4 S9 yそれはともかくとして、彼が弓に秀でていたことは確かである。しかも' Z* n7 P! b7 t9 k: J
それは修練によって得た技の域を越えていたらしい。ではその弓勢の抜
+ k; E# {7 v/ i群であったのはなぜかというと、彼が猿臂であったからだという。司馬. P! `5 w/ Y3 _8 G* o
遷は『史記』の「李将軍伝」にこう書いている。「李広は背が高く、猿% s3 _; _4 u# g% ^8 [" f7 W
臂であった。彼が弓をよくしたのも、また天性である」と。" B; d8 N7 ?3 F- y) ]8 V7 J3 T! b
 
8 b4 \0 E5 i% d/ u- y0 \+ s! o8 _6 b, { 猿臂とは猿のように腕が長いことをいう。猿のように腕が長ければ、
$ M( u6 V5 P2 Y* a0 }弓を引くにも都合がよいはずである。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:35:29 | 显示全部楼层
青は藍より出でて藍より青し
5 e' `) E! Z* [* ^
; `' r5 H; k$ B- T! D8 l5 P
 染め物の一種に、藍染めというのがある。染料の藍玉は青味は帯びて$ ]  a! b# o# f) c2 Q* l
いるものの、どちらかと言うとど馈¥长嗡{玉を溶かした藍瓶に、6 D2 L5 m: ?* h; N3 _( `; U
反物を入れて引き上げると、最初は緑がかった色が見る見る青くなる。* B! t. n: u; s( z  V+ c
この素朴な驚きは今も昔も変わらない。8 N2 f' K$ d. x! `' p  w( R! ?
 4 d3 P# d  P" v$ m- W
 中国の儒家 筍況(B.C.300~240頃) の言葉
9 i! r/ E! {% ]5 @& [4 S 8 T4 u3 C: E/ q+ o3 }3 |
    学は、もって已むべからず。, L, Z% Q6 g: ~6 n
    青は藍より出でて藍より青く、2 x6 R$ T- W7 T; K, u
    氷は 水これを為して、水よりも寒し。(「荀子」勧学篇)
( f5 g2 H, v4 e3 V) P 
4 ]# w( ^$ \  f2 l0 L  学問はいつまでも止まると云う事はないし、
1 p6 I5 D% h% ?  v% Q  弛んではならない。
% d7 `% U% O. j" V  青がもとの藍よりも青いように、
- m: y5 t3 c( |9 S  氷がもとの水よりも冷徹なように、% V/ F6 e* Q( T% a
  師を凌ぐ学の深さを持った弟子も現れるものだ・ ・ ・3 h. P4 m3 T0 s4 K1 w; T2 T
 7 Y$ ~- e$ m3 c2 }7 C1 D' \
 ここから弟子が師よりも優ることを、この言葉で表すようになった。
) }0 v! H5 r: @2 v# T3 H「出藍」とか、「出藍の誉れ」というのもここから来ている。
9 R" S2 N0 q3 h8 {3 L) u 
5 m* u8 b% M  o) ^2 q. G- f ! P$ X( G/ [# z+ Z! b& R5 Q/ n
 南北朝時代の北朝に李謐という人物が居た、李謐は初め孔潘に就いて
1 F, |5 q3 ?' t+ J* ~. @4 z学んでいたが、その進歩はめざましかった。数年の後、孔潘は李謐の方
9 z4 L+ Y" b: Eが自分より学問が進んだと考え、自ら進んで李謐の弟子になった。この4 Z& V# U* Y& ~, @$ I
時、同門のものは筍況のこの言葉を引用して、李謐の優秀さと孔潘の実+ Z5 x( Y, [% u: v3 I7 N5 Q1 d
直さを褒め称えている。
0 u& x. |4 C' a. ]# P' L # j; }5 W$ {( R% w( J: u1 |' L
 
9 |* r0 J) Q7 E% b: o 近年の師と仰がれる人々で、筍況のこの言葉を真に理解している人は0 ^* S. c; r5 N3 r* ?$ T/ K
少ない。弟子はいつまで経っても弟子であり、一人前或いは自分と同等+ q- w' G: f9 p8 O# M3 C' \
と認めても、その弟子の「弟子」になることが出来ない。
4 A" p" p2 C1 ?. q . N8 x' B. N4 ]9 K
 将に「学は、もって已むべからず」である。この「青は藍より出て藍4 W* P, I0 }5 o
より青し」に触れたら、この事も思い出して欲しい。! w# u- p* t* _9 B0 v) q9 D
 # _$ _% m  E  e" x% C* [1 R/ s
  「過ちては、則ち改めるに憚ること勿れ」
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:35:58 | 显示全部楼层
秋の扇

  p* M4 m/ t' `! f5 Y9 c7 v* x  u1 r& M. W2 v, A* T1 M$ {! @
漢の成帝の鴻嘉三年のある日、後宮の増成舎は常ならぬ慌ただしさを* i7 U0 e2 g* p) M( Q! ?  u; J
見せていた。ここの主の班紹伃が許皇后と共证筏啤⑨釋mの寵を受けて
7 B- [9 t+ _* v2 t1 @$ A" wいる人々を呪詛し、帝の御事を悪し様に罵り聞えたという嫌疑で、引き# P9 s3 \& }0 z+ {. V- g
立てられて行くのであった。7 v# y1 B% ~+ S* {, s7 S
 : i  `2 p, E8 L- l  I# w. Y
 噂によれば、趙飛燕姉妹がこの二人を帝に讒秦したのだという。趙姉
9 o/ C8 N& x9 v, ?妹というのは、つい先頃、宮婢として召抱えられたばかりであったが、
/ e3 R( l4 N5 E7 F5 hその軽身細腰が帝の御眼にとまって後宮に入り、たちまちにして姉は倢
4 s7 D- X2 ]4 i- G! d- Z2 _伃、妹は昭儀の位を賜って、姉妹して後宮の寵を専らにし、前代未聞と2 b+ P& O/ a/ P
称されたのである。. @) d- x0 Q/ r! |0 o
 
) l1 H% L5 l2 u1 n9 O' Q 裁きは行われたが、冤罪である事が明らかとなった。しかし、哀れに0 _: }3 \) l+ [9 P9 B
も許皇后は建始・河平年間に寵に奢った事が禍し、廃せられて美人とい3 B- L& b. D7 \" p
う位に貶された。
. c5 ?: I) s0 `; n 6 s$ L& a, o! Q: \/ e" S
 班倢伃は
0 ~  p1 U; g5 m) ~$ f! V, i5 v) Z3 ? 「『死生命有り、富貴は天に在り』と聞いております。& n4 ~6 n9 F( u
  行いを正しく致しましてもなお、福がございませんのに、  k3 E- Y% m4 A" \+ T9 c5 Z
  邪を致しましたとこでどうなりましょう。
( M. }/ J: N, j. _. p9 H3 Z" \4 ^  神がこの不臣の願いを知ろしめたとしても受け付けますまい。8 l2 d6 s& q+ |% T/ D" |% ]$ C
  ご存じないとすれば願っても益のないことでございませんか。」4 M6 A/ i- F: A* ~% s7 f9 K
 
+ H4 |  V, ]( I& C. y' X と申し上げた。
" J1 r2 v8 e2 }7 } 
1 o0 I$ s& q; [# K1 a 帝は班倢伃の諏gに感動せられ、彼女を許されたばかりか百斤の黄金
) O# {( r, k. ^# ?' q  Tを賜った。かくて再び増成舎に戻ったものの、寵遇を失った身の今更に
! a9 H7 n0 O" ]- L! P# q& ^どうなろう、在るものは空しさばかり。いや、女の嫉妬がある。この度3 m, x2 f3 X7 p# y: k3 R$ E$ B
は幸い許されはしたものの、どうしてあの趙姉妹がただでおこうか。高+ }/ h( K! I- m/ m5 [" i; j
祖皇帝の愛妾戚姫は、高祖皇帝の妃呂皇后のために、両眼をくりぬかれ
: B, t. C, B7 H$ K唖にされた上に、手足を断ち切られたではないか。恐るべきは女の嫉妬4 U7 H1 h7 v4 ~
だ。賢良貞淑な班倢伃もさすがに途方に暮れた。なんとかしてこの嫉妬- F, a  I" n( w* V+ J1 z  m% Y
の渦巻く後宮から逃れる手立てはなかろうかと思い悩んだ。
3 r2 T! O/ y. z% X3 s# b4 v 2 E! c! @( C0 k+ a6 k. v) K1 R
 そうだ、長信宮にいます皇太后の王氏にお願い申し上げよう。皇后さ3 U/ W/ G# P' q* Y  Q0 x- V
まは昔わたしが倢伃になって間もない頃、わたしの謙遜なのをお賞め下, X8 F5 f8 s" V% p9 V
さり、以来何かにつけて優しい御心をお示し下さる。今は皇后様におす
5 v* }' R( `+ F, l& ?! t6 ^+ @がり申し上げるほかない。こう考えると班倢伃は一刻の猶予もせず、直
$ q! p9 b1 x. b. _+ G% Xちに長信宮のお側に使えさせて頂くよう聞え上げたのであった。3 C* t5 b+ k' K7 g+ C. @- X
 " }7 Y! y" p, s3 c
 長信宮には平安な日々が流れた。王氏のお話相手をする以外の時は、5 b" r: K9 B8 N+ O
引き护猡盲圃姇颏窑猡趣伽颏猡皮ⅳ饯婴猡工搿¥筏贰r折飛鳥
# d( M2 S) A: k1 }. W0 a1 f" yの水面に映す影のようにかつての増成舎における、生活の追憶が心をよ
0 l) M" o: s0 G; A- [% r7 dぎらぬでもない。
+ l# C) ?' n" d5 ?  \* W . S4 g4 \5 w* h8 k
   新たに裂く斉の“ガンソ”(白い練絹)、
" }& v5 W4 ~' |& s' e" r5 w     鮮絜なること霜雪の如し。% _/ L* E8 U; h* s7 U/ n* r
   裁ちて成す合歓の扇、
; J7 G0 [) U" a' t' U     団々として明月に似たり。
+ x( u% |' S1 A/ l2 Q# K+ Q   君が懐袖に出入し、
! p3 Y$ n, O4 ?6 l4 @) \     動揺して微風発す。5 C; s( B' {2 L& i1 d# a
   常に恐る秋節至り、# l: B! J- I, e+ E
     涼飆(涼風)の炎熱を奪いて、$ w7 [4 S% n- C% N* O: z5 [- E3 {
   篋笥(長持ちの類)の中に弃捐せられ、6 p2 R% L" `) N0 s1 M/ F. J# Y
     恩情の中道に絶えなんを。(怨歌行)5 H+ z. A. a3 W1 O* F; M. ^; k/ M
 
# P/ X  v& }5 S5 `. }+ o 昔のわざわざわたしのために設けられた、宵游宮の遊びに如何ばかり- W1 R7 I, Y4 G" f& m; p7 H
楽しかったことか。白絹の衣裳に着けた金銀の飾りが燭台の光に煌めく
+ ]# n) y& g) D6 \中で、帝の優しい御眼差しを、いつもわたしの全身で受け止めていたの
7 K; M9 A! _, d" @8 D! Z. t8 j6 Pだった。その頃わたしは帝堯の女の娥皇・女英(共に帝舜の妻となり、
$ v' h. D# W$ ^- d. o$ b婦徳の鏡とされている)とか、周の文王の母太任や武王の母“たいじ”' J/ ?9 F7 U3 P6 Z- s' D# L; E$ d( n
などような、婦徳の高い人でありたいと願っていた。ところが悲しいこ$ u: F  Y' F. n3 A2 N
とに、次々と生まれた二人の息子は、何れも乳飲み児のうちにあの世に
" x& H- R7 ]6 X% s; v: d0 f旅立ってしまった。天命で致し方ないにしても、これが帝が離れ給うた
- z' D' x1 N: \6 L7 u7 Mそもそもの因だったのだろうか。それからというも帝は衛倢伃へ、更に
& W7 W: u5 G) M3 h% L7 F" y# g趙飛燕姉妹へと寵を移し給うた。御越しのないままに玉階には苔むし、/ f% p5 K& p5 F6 G
庭には草が緑をました。床をうつむいては帝の御履物の飾りを思い、御* a) [( z5 Q! l9 N, i' G
殿の方を仰いでは涙にくれたことが幾度あったことか、思えば人生ほど
0 O' S% P6 s2 N儚いものはないし、恩愛ほど移りやすいものはない。
& `! p' U  v! h; t9 S0 O6 M! N2 F ) W% T0 P' Q+ }  T# p  c! {+ b; e
 歳月は長信宮に流れて綏和二年、成帝が崩じて間もなく、班倢伃も四' i# d- Y- x0 v2 \0 P3 z4 b
十歳あまりの生涯を閉じた。「秋の扇」という言葉が、男の愛を喪った+ C1 w" D  t7 y. T$ h0 Y
女にたとえられ、「秋の扇と捨てられて」云々と言うように用いられる* u" U( N5 D1 N  z" U
のも、前掲の「怨歌行」から出ている。) b6 s5 i; U% I) H8 \
 / y) q% L" p( N! L. ?& L
 班倢伃の伝は「漢書」に詳しく、「自傷賦」もこれに載っている。$ j( H/ `4 w6 k; V  k: w4 _
「怨歌行」は「文選」や「玉台新詠集」に見え、その故事は、江淹・劉
+ K3 |* j3 q, V( x' ~孝綽・王昌齢その他多くの人によって古来詠ぜられている。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:36:28 | 显示全部楼层
明日に道を聞かば夕べに死すとも可なり

; w0 [) e: I/ e$ G. O/ l: ~. g6 `8 q, |7 F  N
斉の景公に政治の要諦を問われたとき、孔子は、
% j& M4 Z4 O9 d8 {6 _ 
0 U) C/ a7 z9 @8 T# y! V ――君は君たるべく、臣は臣たるべく、4 o- S% V0 n' T' Y8 W4 X
   父は父たるべく、子は子たるべし。' b5 ^- p) t3 S0 q5 u! e
         (君君、臣臣、父父、子子。)(「論語」顔淵編)
. P) P, z' H* [/ M9 u$ Q 2 Q( }/ i" P% i8 M) I
 と答えている。君は仁愛と威厳とをもって臣に臨み、臣は君に忠節を* K% g* Y' h0 O% i# f# ?5 ?
つくし、父は慈愛と威厳とをもって子に臨み、子は父に孝をつくす、孔
7 |9 Z  V2 W" |4 R3 i子はこれが“道”、すなわち、人間の意志を超えた“天の教え”だと考4 s5 i- q; _: h( i4 ^
えていた。西周の氏族制封建社会を、天与の理想的社会としていたから
; G! q7 P5 x0 @. J* S. Mである。
) L4 A, y* m" x/ s* p 
$ O# o( E6 ~) H/ Q: F- J5 M 
% T, ^/ w3 k( L; z! }! d  N 西周の社会では、個人は家に属し、家の主権は家父長(父又は長兄)" s) k/ {' d# k! n
にある。家父長は家族全員を率いて、血を同じくする他の家の家父長達
5 i+ N8 F5 T( r; eとともに氏族に属し、氏族の主権は族長(その氏族の始祖の直系の家の
, [% _) s! m) \1 i3 l: J" N家父長)にある。族長は氏族全員を率いて、他の氏族の族長とともに諸
+ m0 r) Q* ~& o: B+ S8 j7 t/ j侯(その都市国家の主権を有する氏族の族長)に臣従し、諸侯は自身に+ |& q) `/ @% F: {. a, E; g* t8 i: i
臣従する全族長を率いて、天子(諸侯に土地とその土地の統治権を与え1 X- u9 g1 u/ v# @$ V, _1 ?
た氏族の族長)に臣従する。0 ^( w$ ^( S5 V' V
 - E- |* z# d& G' Q& m
 族長――家父長――個人という従属関係を維持するために要請された" Z5 V/ Y3 ?, v) {8 y7 j; ^
のが“孝”という道徳であり、天子――諸侯――族長という臣従関係を
$ O2 q% m3 H4 `1 l7 T維持するために要請されたのが“忠”という道徳である。
; x1 ~, z7 ^  o, w' X! _$ V( q7 A + V+ V/ V, p' O6 J9 `" S& _
 8 h+ I; D3 f. l1 V
 ところが、西周末期になると、労働の生産力の増大に起因して、天子/ e) S9 |$ g% F. _3 f
――諸侯間の力の均衡が破れ、東周に入ると、もはや天子としての支配
8 \2 Q  H3 ?/ ?/ o# O' ^# v9 Y権は、事実上失われてしまった。諸侯はまた、臣従する族長に土地を与. d; f4 E" [  K  B/ ]
えていたから、やがて同様な現象が生じた。
- A& M2 o+ b! V. _) c. _% } 
% N4 K0 G* l# J( q 春秋時代になると、諸侯――有力族長間の力の均衡も破れ、しばしば
% r" i) B/ X8 M& _有力族長達が、諸侯の弑逆や廃立を行ったり、その統治権を管理するよ" \# P- w" g: \/ ~5 g( h* V1 p: b
うになった。こういう力関係の不均衡は、族長――家父長の間、家父長
3 u6 L# }) }4 A3 o# N8 U3 h――個人の間にも現われた。
3 v" s. r$ m6 u5 W 
0 G' G7 V/ i% ]1 x7 M, h# P 4 w& x% R; T& M! X$ l/ t8 O$ l, O
 孔子の生まれた春秋末期には、天子――諸侯――族長――家父長――
& K) O3 J" ~2 N: ?個人という権力のピラミッド構成は、極端な乱脈に陥っていて、一切が
& c. t# p; h) K7 F2 |“力”によって支配され、同時に人間が“個人”意識を自覚して、極度
+ l0 A) f+ F8 D% f1 [0 Oに利己的になっていた。
0 ^/ z7 g. \7 \& x 
" f% m) A) B0 O* m7 ], P2 C 唯一者として“天”を信じ、周朝の天子の権威は“天”が賦与したも
3 W  ?0 J1 |( R) vの、と考えていた孔子が、社会に平和と秩序を欲したとき、西周の古制8 Y" g( N# s3 }% ^
を慕い、その道徳に憧れを寄せたのは自然だった。) y7 _6 y0 u$ z) W1 x8 O! k
 
5 F4 A: `) l' h* U0 v+ D% w 1 b5 ^  V5 Y( x) T3 D  h
 孔子の祖国魯では、三桓氏といわれた有力な三氏族が、主君を国外に/ W6 S! [/ D! I4 X) x+ {6 J; v9 M% z
逐って客死させているし、隣国の斉では、有力貴族の崔氏が、自分の側( @0 P* D, @* _: w0 W
室に通じた主君を弑したかと思うと、その側室の子供に跡目を継がせよ
, c/ a( \( U: u; g+ _% ^2 jうとして正室の子供達に殺されている。また、孔子が永らく滞在した衛
+ L4 ^! q1 w1 m. i2 p$ jという国では、国君が男色に耽溺したいために正室に情人をあてがい、7 M4 L  P" s, _1 q2 P6 i  |4 R+ \
これを恥じて、母である正室を殺そうとした太子が、事露れて他国へ出
. m# {" Z7 X. V奔した。しかも、この太子は、男色好きの父の後を継いだ自分の息子か
4 z% N9 I5 e  s8 f) R  gら、その位を奪おうとして争い、この乱で、孔子の愛弟子の子路が死ん8 b& c/ \6 H% s* S& d% G, {
でいるのだ。3 P$ w5 H- J# a* |" Z5 d4 `" @2 Z
 4 L& A' i3 i. k: u, ^; x! l: X
 
  i; h. j7 l3 U# ] 西周のあの秩序ある社会を回復したい、そういう悲願に燃えて、孔子
6 W$ Z  c. E& a# @2 v' R/ pは、祖国の魯でも努力したし、中原を流浪して行く先々の諸侯にも説い) b/ Y8 j8 m% {' J: c+ ]  `
た。しかし、氏族という桎梏から解放された“個人”や、権力を握った& n1 S2 A% U. w$ j. o8 g$ F
卿や大夫や士という“臣”達が、これを阻まぬはずはなかった。
4 ~1 N( F  N. a* f( l* y  w 4 d2 [) O( v$ U- }
 ――朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。(朝聞道、夕死可矣)
, t! p5 f( z& L$ w2 P 
" y8 M4 X6 j: w) y 朝天下に“道”が行われているということを聞けたら、夕方には死ん
: `' |* g% B" Q- L1 B! S6 ?でもいい。――老いた孔子の唇に洩れた嘆きであった。
$ }/ D) M) J: H( m) |/ _# i 8 a1 {: q! |  J9 p" c- ]
 と、これは魏の何晏らに代表される「論語」の“古注”の解釈だが、* _, x4 X' n+ e& \
南宋の朱熹の注、いわゆる“新注”では、「朝、道(事物当然の理)を
+ W! I8 _+ f$ h' o' }9 b: e: [聞いたら、それで修学の目的を達したわけだから、その夕には死んでも# |  B/ P9 `. H$ {
いい。」という、求道への熱情の吐露と解釈している。いずれが正しい7 z$ q, ~+ t# k) ~2 v+ j# Q
かは知らず。ただ、“古注”の「嘆き」とするのが味わいがある。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:36:57 | 显示全部楼层
羮に懲りて膾を吹く
1 H7 s0 s+ `2 w; {" b2 M! t
, @5 ]- G$ m9 V, [
楚の屈原は古代の中国が生んだ情熱的な詩人で、彼の詩は、今日なお9 q2 P2 y7 e( a' F
『楚辞』にその悲憤の調べを伝えているが、しかし彼は詩人であるより" t. M& X. i7 Q
も、国を愛し正義を愛する人間としてまず生きたのであった。
6 \0 m) u" E" r % Z& o  r5 m0 U+ [  Y# @
 
3 `$ f, G8 f% A& | 戦国の末近いこの時代は、秦が勢威を振るっていて、これに対抗でき9 G/ p& _5 F# b
るのは楚と斉の二国ぐらいなものだったから、秦は、楚と斉の結びつき
! N/ s) l- F! {を絶えず気にしていた。屈原は親斉派の領袖として楚・斉同盟を強化す( d/ i6 t3 J2 R( k# G9 r2 F
るよう献言し、楚の懐王もはじめはこの立場をとっていたのである。と  T) @3 ?# ~1 Q
ころが懐王の寵姫の鄭袖や、佞臣・キン尚などは、かねてから三閭大夫. ]% ~; e+ d# V# O
(その王族の昭氏・屈氏・景氏の族長)の屈原を疎ましく思っていた。
5 J2 g2 t! U; xそこへつけ込んだのが、時の秦の相・張儀である。彼は鄭袖らを買収し1 j1 a! k4 s2 B- G2 C) w
て親秦派とし、その結果キン尚達がおきまりの讒言をして、屈原を国政' j: w: i+ ~( [5 l( K
から遠ざけてしまったのだ。屈原が三十一歳の時であった。悲劇はここ
" W7 u+ g" W3 _に起こった。, D2 N3 t- k7 [$ D- \
 
' Y4 s( W8 U! k- v) G8 X/ T0 S この時懐王は、斉と絶交すれば、その代償として秦の六百里の土地を
$ G1 k. E) f. G$ z' o# H& I与えると張儀に言われ、その通り斉と絶交したのだが、これが張儀の真+ Q2 \) S- g4 O8 b2 w4 w) b/ K* t+ i5 C
っ赤な嘘とわかり、大いに怒った懐王は、ただちに秦を攻撃したのであ
1 \; v1 q' u( S5 g& {' bる。ところが、かえって秦に破られて土地を奪われ、そのため後悔した; y% b; G6 m3 o/ p/ t# Y4 U
懐王は、再び屈原を用いて斉への親善使節とした。
2 ^4 \6 G4 h% Y; r0 G 
6 c2 }' D' t' p! I# m3 v その後十余年の月日がたつ。周の赧王十六年のことであった。秦は両/ h5 b- Q% G( q2 M( r
国相互の為と称して、秦の土地へ懐王を招いたが、屈原は秦のやり方は
. [5 e0 ]! Z0 z5 s9 h信用が出来ないと言って、これをとどめようとした。しかし懐王は、王
0 |, k" S* ?, O3 F$ a6 |子の子蘭の強っての勧めで出かけて行き、果たして秦の虜となって、そ& m  ~* Y  w' u+ \/ n
の翌年秦に客死してしまった。
( x+ P/ [/ ?9 o  L8 Z 
: c$ }$ u* l3 r( J6 z/ v 楚では太子が襄王となり、弟の子蘭が令尹(宰相)となった。屈原は5 y$ _  z. S3 G$ w  x
懐王を死に至らしめた子蘭の責任を問うたが、それは逆に讒言される結+ P- A8 @! o, t# t5 ~% s3 r
果となって、今度こそ本当に追放された。彼にとって悲劇は決定的とな" m9 Z3 m7 u* Z! \9 h+ t! O
った。時に四十六歳であった。: |  \' ?) S3 O+ f) V" S/ s* w
 
0 d- `! r4 r& J5 U$ P5 R4 A かくて十年余の間、祖国愛に燃える屈原は、国外へ亡命することもな
1 S  c5 m  U  bく洞庭湖のあたりをさまよい、ついに憂憤のあまり汨羅(洞庭湖の南、
8 ]+ Q' \, \9 l湘水に入る川)で入水して果てるまで、憂愁に満ちた放浪を続けたので8 C3 Y& _) v/ e9 K0 a3 D1 S. U
ある。『楚辞』にある彼の作品の大部分は、この放浪生活の所産である; ~- u1 k4 o$ f) a8 S8 W
と言ってよい。9 o  G7 n2 ?) t& V7 X& J
 
  u( H# m3 p3 F; ~+ Z 0 ?* v, o" s8 B& r, Z1 [6 R5 D
 彼は常に危機にある楚を憂え、祖国を誤らす佞臣を憎み、彼の堅持し
' k6 e4 _3 w4 P7 j' x7 B( m9 wた孤高の心情を熱情的に歌った。あるいは彼の詩の背後には、郭沫若氏4 U* L" Z0 R' n/ t( v' m% W
の描く史劇「屈原」のように、「苦しみ慨く人民」の姿があったのかも# N) A* J1 P# D2 M8 `
知れない。その高く節操を持した屈原の片鱗は、次の詩にも見える。3 e: C$ Y$ l0 \5 R) o% x
 5 T8 h8 f% N+ x6 Y5 F
   熱羮に懲りて韲を吹く、
0 c( k* h% v. Z4 r   何ぞ此の志を変ぜらんや。
' q  ^1 Y& U# r5 Q, W& u# [   階を釈てて天に登らんと欲す、5 o1 R2 ~9 C$ g5 s. _: O- D
   なおさきの態あるなり。
: f' u0 B* L& H& { 
( B) F! _5 N/ a, O. f      (あつものに懲りてあえものを吹くは、
- f. H6 O9 d, b) S& e       世の人のよわきさがなり。4 g# e; p* h) ]9 m0 k6 ?
       われひとり天にも登る心もて、8 w% A: d8 D# y. C) D$ h- @
       守りこしみさおぞ変えじ。)9 |! `$ B! y, C# t. t" O, [
 + O1 e, c' Y9 q& m$ Z5 j
 これは、『楚辞』の「九章」中の「惜誦」と題する詩の一節である。
1 C) z. a; i4 p2 |「惜誦」は、屈原が彼以上に「君」を思い忠栅蚴膜κ郡韦い胜い长趣騖( a9 o' j6 L3 P' I# }& T
歌い、にもかかわらず腥摔睡E外されたことを憤り、更にどうしょうも
! T- M6 D' z& M1 B. Vない孤独を慨きながらも、その節操だけは変えないという、慷慨の心を4 B/ p, u$ _) p& C4 L
吐露した詩である。なお、彼の代表作には「離騒」や「天問」がある。) I6 [! n6 e- r5 W
 
. _" k3 h! I: [; q9 [ 5 i% _: J  C) {, P+ l1 K
 「羮に懲りて膾を吹く」という語は、この「熱羮に懲りて韲を吹く」
% g8 r$ U, M3 hから出たもので、羮は熱い汁、膾は細かく切った生肉、韲は酢や醤油で! ^( O7 s( |$ r7 d- i+ S
和える細かに切った野菜、膾も韲も冷菜だ。従って「一度失敗したのに5 c2 ?3 G. [  s5 Q' |
懲りて度の過ぎた用心をすること」を意味する。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:37:21 | 显示全部楼层
危きこと累卵の如し
, s! M5 U* S3 H

$ ~3 D; B7 `1 o3 Z5 K- y1 a' d* @ 時はまさに戦国時代である。一芸一能に秀でた者は、全て実力で世に! u# P4 N" n! ?; P- K
立とうと必死の努力を続けていた。中でも従横家と呼ばれる、諸侯の間7 R5 V$ C# l2 P( Q
を遊説して歩く弁舌の地位は、空前絶後と言っていいほど高かった。& U2 d3 S- {5 l3 o- H
 8 V, Q  z: ?8 I. z
 - R) Z$ J4 v, R8 {* T, e" W) \+ D0 e
 魏の国の貧乏人の子に生まれた范雎もまた、従横家を志す者の一人だ/ F% ^" g- V, o0 q0 x+ c
った。だが幾ら実力主義の世の中が来たからとはいえ、氏も名もない男
, _$ A. y- v* f$ `8 E5 Tが出世の糸口を見つけだすのは容易なことではない。まず故郷の中大夫  J* f) Z7 a$ a1 C: w/ [( `4 Q4 y
の須賈に仕官したが、斉にその供をして使者に立った時に、家来の范雎% X  w) ^/ n7 w9 W. [
の方が受けがよかったので、すっかり須賈の機嫌を損じてしまった。そ% H0 k! \# j1 K" a2 B+ S
れで帰国後、須賈が魏の宰相魏斉に、あることないことを悪し様に告口: S3 ]# G, F) c6 j, I4 L/ Y$ ?2 o
したから、さァたまらない。) V4 ~; p' ^7 m  W) j5 z; b
 
9 f' h$ g" v$ S" |# F6 P 「お前は斉に通じていたのか?」5 r5 B1 T2 f6 t5 M
 # d9 H7 t0 g0 V7 ^' o7 _
 と、たちまち下役人どもに命じて散々に打ちすえさせたかと思うと、
7 A% E' |  G2 l! V今度は簀巻きにして便所に放り出すという仕打ちだった。范雎はすきを* V5 v$ D/ d0 e5 x8 r9 _2 C, `, t
見て番人に渡りをつけ、漸く同情者の鄭安平のもとに潜伏して名を張祿+ v5 N6 i0 h4 U+ S
と改めた。いつか折りがあれば秦に入ろうと、それとなく心がけている
# L& `  M9 {) Z- b% D; Vと、秦の昭王の使いで王稽という者が来た。鄭安平はさっそくその宿舎  R- Z; g3 C% k. v& P) |6 g
を訪れた。' |! L+ ?5 f  [+ C
 6 X6 i- R& h1 h  ?
 「あなたに推薦いたしたい立派な人物がおります。" Z/ x; y9 h2 w; }. Z+ m+ H
  ただ、その人には仇があって、; |+ w. W3 K+ X" K
  昼間お連れすることが出来ません。」
" _$ Z' k7 J8 _: [. }   Q+ M% p0 @; c1 z
 夜陰訪れた張祿を見、彼は、苦心惨憺してて鄭と共に本国へ連れ帰っ1 r; o0 @+ v0 b, ^
て、こう言上した。) E7 H/ r& b* J7 g; M2 Y
 6 q7 i/ L4 R$ L# ?; H- i- w( R
 「魏の張祿先生は天下の外交官です。$ d/ F7 Y* `. J4 I. G3 P8 o5 E
  秦の政治を批評して( \5 G7 X. }9 R+ |1 B
  『秦王の国は累卵(卵を累ねること)より危うし』といい、
8 l  {+ W# P& j" ]! F  『しかしこの私をお用いになれば、御国は安泰でしょう。4 J# `/ {4 P8 _4 ~% k3 ~1 X: ~7 o
   不幸にして手紙を差し上げようにも、
/ H0 m1 a2 s. |- i   今まで機会がありませんでした。』と言っております。
+ x$ f1 U$ u* A' E" l# E. \  これが臣が先生をお連れした理由です。」8 M6 M8 l  b/ I* x& E
 : g: ~/ C; a! d! }
 秦王はこの不遜な客を厚遇しようとはしなかった。しかしさすがに戦
+ R" V/ b! h/ R1 C国の王者らしく、別に処罰するようなこともせずに、一応下客の列に加' J/ w; F" v- N1 b1 ?' d/ u+ P
えておいたのである。范雎が真の才能を発揮しだしたのは、それから間
; v4 o1 }% t3 l7 L# y" bもなくのことだった。(『史記』范雎伝), g; V7 R% e! D7 ?, ^( ^5 g
 
! e: o2 W$ M2 m. [8 n+ S4 U' H 
2 y& O0 Q: t+ @% p5 X$ ~ また次のような話もある。春秋の頃、曹という小国が晉と楚の間に挟
8 ]! e' B3 d$ L2 A4 B! c) uまれてどうにか独立を保っていた。晉に内紛があり、公子重耳は亡命の
3 X" n: \; E% b5 l; k* D: z& P" G& a途中、曹を過ぎた。その時の曹公の態度が甚だよくない。かねて重耳の8 g' ?) |, N0 B6 d, G/ p1 A: z9 U2 W
肋骨はつながっていて、あたかも一枚の骨のようだとの噂を聞いていた
3 W- [7 g6 B! g, E7 `曹公は、公子を裸にしてわざわざこれを観た。ただ曹の大臣の釐負羈だ
& W9 R8 {# H" {2 Y9 k- Qけは密かに夜中人をやって黄金を贈った。/ p1 }* d) J. S2 i: {
 ! t" T& O) ]$ D( s0 K4 f* R- y) \+ E
 「私の見ます所では、
" v8 K! ]$ q5 H3 A- a4 }  晉の公子は万仱尉郡毪摔栅丹铯筏ぁ) X  y6 C- B- p9 y' O
  立派なお顔をしていらっしゃいます。
& \+ I% h' U! \" t2 n  再び国に迎え容れられるようなことがありますと、) F8 H: x* l+ M% O3 p, u( C5 a
  必ず曹の無礼を誅されるに相違ありません。: S$ C8 H: O+ c7 `
  今のうちに公子に志を通じておかれた方が将来のお為です。」" N- k1 ^( B+ |
 7 e9 p5 I3 v% P( S9 o9 R3 _
 と言う妻の言葉をもっともだと思ったからである。
5 k8 [( N3 i$ ?. o1 h7 R' g 
& x, W# W2 k; l6 U; v) ~! O それから十年、今は秦に身を寄せている公子は、その援助で晉に入り
6 M4 A6 {' C9 c- l8 _% f晉君となった。これが春秋五覇の一人、晉の文公である。更に三年、文
: s8 Z+ k, z$ ?公ははたして兵を挙げて曹に攻め込んできた。釐負羈が攻撃を免れたこ0 m7 X3 c/ g$ @  v# W
とは言うまでもない。6 U+ }& m+ }2 a* H
 
  B' r$ y4 V+ L) t/ x 
" b! ?' u  H$ E/ a だからこそ礼は大切なのだ。曹は小国で晉・楚の間に挟まれている。6 P9 C- D6 W- |, N! a, v; V
その国の危うきことは、累卵のごときではないか。そのくせ無礼な態度) S8 o& p$ M4 R
をとったのが、そもそも間違いだったのである。- p, C* D# m6 ~4 H7 B+ R! g
と、これは韓非子の「十過」に見える挿話である。
- }1 |' }; n2 c. ^, _1 q4 [ 
, i; b) L' c: ^ なお、これを鄭という小国のことだとする説もある。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:37:40 | 显示全部楼层
過ちては則ち改めるに憚ること勿れ
/ S5 ?3 P- ~( Q$ B

2 }+ _4 k  }- O% q3 L" E0 [) g+ \, i孔子が弟子達に「君子」の心得を教えた言葉
" O" {5 e4 v- b  X5 d+ F 
4 F" U8 c) s! D     君子不重則不威、学則不固。
) |, W$ K/ Z8 B; k6 z, Q     主忠信、無友不如己者。
# o2 I: D  O+ Q8 P& v1 P     過則勿憚改。7 B' v  n; w4 B, I7 t
 
/ K. ?* A. u4 M   君子重かざれば則ち威あらず、学べば則ち固ならず。$ ]- B# p/ _  u- C, ]
   忠信を主とせよ、己に如かざる者を友とすること無かれ。0 ^, f% ], {7 e- p- T. P
   過ちては則ち改めるに憚ること勿れ。    (「論語」学而篇): T4 B' M! }# h  M
 
; k& O& E$ }7 d7 v' L3 J/ B/ |5 H1 h+ n    君子は慎重でないと威厳がない、7 v7 X% ^) Y7 v; D8 e5 t
    他から学ぶようにすれば啓発される。
5 N8 O' f: R$ e% S    言行に偽りのないようまず心がけること。
' Y' N  R( f1 i' @" a    他人の、自分より劣った点に狎れるな。6 Q; D  U' y( H) m1 E2 m
    過った場合は改めるのに躊躇してはならぬ。
! p! c! p0 m" Z3 s# K# P 7 @% B4 S$ ]" T8 X, K
 孔子にとって「過ち」という言葉は、人間の自由意志を越えて客観的
4 G8 U+ \8 `$ ?8 V  A: ^$ ]に存在する「道」にそわぬ思惟と行動そのものを意味する。孔子の「過. l; H2 i$ a% f" |2 {
ちを少なくする」という努力は、「道」という権威に対して、自己を虚  B9 M" Q6 H- j+ Q* v$ Y2 v
しくすること、我執を去ることに帰着する。
5 H+ y$ _- h+ }+ P 
% u! c! z  l, R3 y0 e! H' k  F) b 
& {+ ~  `, V* m6 H( h 孔子の生涯の夢想は、「従心所欲不踰矩」(心の欲する所に従って矩を) h4 ]9 \- J1 W. |3 J
踰えず。)とあり、「思うままに振る舞って「道」に外れない」人間にな
% A5 h7 |4 ?9 b* O' T, L; w  j: n) B$ Pることが目標であった。: g8 ]1 C" ]4 F3 G3 ^
 4 V8 k; t9 ?- b- `6 q" B
 過ちを少なくするため、我執を取り除こうと努力することは、夢想の3 G8 d/ b  L0 \  ?8 Y; f
人間に近づくことで、孔子はこの様な努力をする人を「君子」と呼んで* P; T- l3 R9 s& }, E. Q# U
いた。
/ K# m" Q& L' \: M. W: h 
5 K) Z! Q+ G2 d 1 V0 j% ^! l# p  n2 E0 W' x
 躊躇は己の考えに執着すること[我執]から生じる。過ちては則ち改8 j& U8 X6 f7 a' V6 ]5 j" A1 c
めるに憚ること勿れとは、君子たり得たるための、最も基本的な教えで
" Y; l& y; i  E: p5 G7 F: P3 Iあった。7 \1 U$ I* |. ?
 
/ |: o# p( H. `+ G2 r9 q, [6 V% i - N% D/ ?0 F, p0 \# P3 P* ], e5 W
 現代に生きる私達も自分の間違いを認めることは難しく、自分の考え
/ j( L3 F6 o3 q$ a6 d, R7 Qに固執する人が多い。自分の間違えを訂正することが、躊躇することな. h3 m" E/ C6 n4 a) o
く出来ても、間違えが多くては人としての尊厳が保てない。
' @: w: w( \4 J6 C' C - G! X1 X% T0 M0 M$ U1 D2 u
 ; \: j" ?3 i" F. _+ ^; f3 {* J" G
 「過ちては則ち改めるに憚ること勿れ」に触れたら、この言葉の真の
6 `! o0 x( b" O) g6 Q* C意味を思い起こして欲しい。
0 T! k1 @; o+ r- t' [ ) k6 k; _; i' v' r) C- m6 u
 
7 i- q, Z1 m7 O  B% G! Y 「人は言動を慎重にし間違いを少なくしなければ威厳はない、
9 o9 G% i& {* Y9 r  多くを学べば柔軟な考えが持て、
2 h3 P8 W( T8 u2 W. K  一つの考えに固執することがない。' ~; d4 ?/ O6 g$ z: O$ f% j6 V
  自分自身に偽ることなく信念を保ち、3 [3 L5 b  _: `
  他人の間違った事柄に流されて、
! R# h& L0 Y& z0 q/ P  自分自身を見失ってはいけない。: P6 o/ y4 ^0 E# ^
  自分自身の言動に間違いを感じたら、8 {8 p0 v: [$ Z& q4 r
  それを訂正することに躊躇してはいけない。」
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 楼主| 发表于 2005-6-22 14:38:04 | 显示全部楼层
石に漱ぎ流れに枕す
' b' a0 ~: J$ F& E  k& B

  p6 ]$ @6 g- U7 |9 ? 晉の初めの頃、孫楚という男があった。字は子荊と言って、文才豊か% f4 U) b/ U1 O& E6 d% Q
で肖摔踏螭扦皮い俊8袱庾娓袱庀嗟堡矢吖伽诉Mんだ家柄に生まれた& D2 m; l- p( s7 \4 J% \
が、郷里では一向にパッとしなかった。ある時、前の人材登用官である; s: l* K! N; k. j7 s# h
大中正が孫楚の友人の王済に、楚の人物について尋ねたことがある。そ
' _2 S9 _5 b8 p1 {れに対して王済はこう答えた。
; [! h1 ]* x5 a# B8 I3 F* b 
5 v/ u# _  s, }" C5 E& Q- E 「あの男は、あなたが直接ご覧になったところで、0 D0 a+ A" K# B3 d
  判るような人物じゃございません。: k; P1 @$ C  w
  私がひとつ言ってみましょう。& r0 B' n. i; _+ {
  楚という男は、天才英博、もの凄くずば抜けていて、
+ E9 ]- E  E' P  B  他人と一緒くたには出来ない、と言った具合ですかね。」0 J. z6 f- Z  Z+ W. f0 F
 
: f7 u1 }% o2 b5 K6 M) M 当時は老荘の学が盛んであり、隠逸を求める傾向が強く、世俗の道徳- y4 o/ K% T  H" U2 J2 d
名聞を軽視して老荘の管理を談ずることが重んぜられ、これを清談と称
. v$ Q' S6 x" B6 ^5 _して士大夫の間に流行し、その最たるものに阮籍・稽康らの竹林の七賢+ {0 d+ p  w8 T& t0 f) g; C
というグループがあった。孫楚も若い頃、そういった風潮を慕って山林# k  r3 ]( x1 |) r2 V
に隠れようとしたが、四十過ぎてから石苞の下で参軍をつとめ、石苞の
" n1 t& W" g  ~5 p2 e1 [; c1 e# q! l8 jために、呉主孫皓に宛てた投降勧告文などを作っている。のちに馮翔の, |( S6 |8 J% y
太守となって元康三年に卒したと言うから、六十にはなっていたに違い3 D: k7 d( g$ s  i- z2 I; i' ^
ない。9 z) a. c. \* I& k  m! Z4 e7 l1 U
 - W0 W' _$ c0 B! N: a
 その孫楚が若かりし時である。俗世を離れて山林中に隠れようとしき
  ?0 ]* _& W1 ]% Mりに思い、親友の王済に胸中を打ち明けた。その時、「石に枕し、流れ
7 ^: |4 h! r+ `, W8 I- mに漱ぐ」、つまり石を枕にごろっと横になり、谷川のほとりで口を漱ぐ; I0 y" T: i" X" J
ような生活を送りたいと言うところを、間違えて「石に漱ぎ、流れに枕4 P; K- G' ~5 i; e9 d
す」と言ってしまった。王済はこれを聞きとがめて、! B3 B+ |7 J6 `  z
 
' h2 k: U8 p: S  f: I! [6 m 「流れが枕に出来るのかね、石で口なんかすすげるのかね?」
3 s* v8 K; e0 v4 Y  V: l 
6 K* J  O) f# _6 m3 J と言って笑った。すると、孫楚はすかさず答えたものである。. N. a4 k0 V/ Q5 O  ]
 
) N: K5 _$ q3 h0 X( s 「流れに枕するというのは、きみ、昔の隠者許由のように、6 ?7 |5 m5 N% \2 D. ]2 ?# G" J
  つまらんことを聞いたときに耳を洗おうとするのだし、
. o% Y- g$ Z5 L4 {2 L  石に漱ぐというわけは、歯を磨こうとするのさ。」: ^# U5 n: h8 }8 k  J! A! d# ~
 : L( s; x2 m; A! w6 U8 w/ y5 M
 この話は「晉書」(孫楚伝)、「世説新語」の中にあるが、負け惜し/ q* u9 V7 v4 x0 ?* w! }3 R
みの強いことを言う言葉として古来もてはやされ、「さすが」と言う言7 s, W! s9 i! i- t) S4 ^# ~
葉に「流石」と充てるのも、おそらくこの故事から来たものであろう。
! _; n. Y8 d$ U3 \' u, d夏目漱石の号もここに由来している。
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发表于 2005-6-23 13:45:37 | 显示全部楼层
可能发给我一份吗????????water-moon5@sohu.com
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发表于 2005-6-25 22:38:28 | 显示全部楼层
楼主的贡献好大哦; i( a$ j. M" ]3 ^/ k
' v% K, ~1 {/ s, b" g3 b2 V
顶顶:)
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