「心有千千結」拙訳です。
最終章
十二月が過ぎやってきた新しい一年。1972年の元旦は希望に満ちあふれる一日となった。まぶしいほどに輝く物語の始まり。
雨薇のうきうき気分は屋敷中に感染し、風雨園全体が笑いで溢れた。彼女は竹の梢に爆竹をしかけて若塵の目を醒まさせ、寝ぼけ眼で起きてきた彼は庭園で甘く笑う蘭の花のような雨薇の姿を見るのだった。彼女は目をしばたたせる彼を怠け者とからかった。彼女の全身から発散される生命の息吹きに彼は頬をゆるめずにはおれなかった。彼は彼女の腕をとった。
「なにをそんなにうきうきしてるんだ」
「新年おめでとう!」彼女はぴょんぴょん跳ねた。
「昨日、唐部長さんに電話したの。今年は注文の山ができてて予定では夏頃に債務がプラスに転じるそうね。帳簿上ではとっくに資産が債務を越えてるって。商売のことはよくわからないけどこれだけはわかるわ、あなたがとうとうやったって。会社は生まれかわったのね、一年前は一文無しだったあなたがもう億万長者!」
「君のおかげさ」若塵は微笑んだ。
「君が後ろから鞭をふるってくれなかったらここまで来れなかった」
「はい、それまで」雨薇はこちこち笑った。
「おだてないで。それに鞭だなんて人聞きが悪いわ。自分ではとってもやさしいつもりなのに」
「うん、この世で一番やさしくて女らしくて可愛い暴君だな」若塵は笑った。
「世界一だなんて言うと次に褒めてくれる時の言葉がなくなっちゃうわ」
「この次か」若塵はそっとため息をついた。
「実際君にあてはまる言葉が少なすぎるよ。古今東西の作家達はあまり形容詞を発明しなかったみたいだ。雨薇、君って人は一言や二言じゃ言い尽くせない」
雨薇は頬を紅く染めた。
「歯が浮いちゃいそう」
彼女は笑って小さな頭をかしげた。
「お願いがあるの。今晩お客様を招きたいんだけど、いいかしら?」
「反対するわけないよ」若塵はそう言ってからすぐに笑った。
「わかったぞ、あのX線だろ」
雨薇はにこやかに軽く首をかしげた。
「どうして私がそんな人に用があるの。肺病でもないのに」彼女は謎めかした。
「さあ、X線以外誰がいるかしら?」
「X線以外の君の男友だちを知らないよ」若塵は鬱々と言った。
「私のこと何も知らないのね」
彼女は髪をかき上げながら顔をほころばせた。
「招くのは・・」彼女は指折り数えた。
「一、二、三、四・・全部で4人、男の人ばっかり」
「男が4人だって?」若塵は眉をしかめた。
「じらさないでくれよ、雨薇、いったい誰なんだい」
「内緒よ!」雨薇は言うと居間へ戻り手に息を吹きかけた。
「手がかじかんじゃった。暖炉に火を起こしましょう」
「おーい。だから誰を招くんだ」若塵も追っかけて部屋に入ってきた。
「気になってしょうがないよ」
「夕方になればわかるわ」
「いいや、聞かないとどうにも落ち着かない」
「みんな私のボーイフレンドよ」雨薇は笑った。
「みんな呼んであなたと較べるの」
「冗談ばかり、舌抜かれたって知らないぞ」
「いいわよ」
「本当に教えてくれないのかい?」若塵は不服そうに上目づかいで見た。
「教えないったら教えない!」彼女はソファーにごろんと転がった。
「とにかく男の人」
「わかったよ」若塵が近寄った。
「それならどうしても言わせてやるぞ」
「きゃっ」
襲ってくる変態男から逃れようと雨薇は笑いながら部屋を走り回り男が追っかけた。二人は一緒になって絨毯の上に倒れ、若塵は雨薇のわきをくすぐった。
「言う気になったかな」
「わかった言うわ、言うから」雨薇は笑いながら転がり長い髪が絨毯に広がった。
「誰なんだよ」
「朱弁護士と唐部長、それに弟達二人」
「なんだそうか、からかったんだな」若塵はちょっと安心した。
「本当に君はいつでも人をはらはらさせてくれる!」
二人は子犬のようにじゃれあった。
「ごめんさい!謝るわ、だからもう笑わせないで若塵!」
「・・」
若塵は笑うのを止め雨薇の顔にかかる髪の毛をそっと払いそっと口づけした。しばらく二人はそうやったまま動かなかったが雨薇がふいに口を開いた。
「やめましょ」彼女は紅くなった。
「見られるわ」
「見られる?」彼は尋ねた。
「誰に見られるっていうんだ」
彼女は顔を見上げた。
「あなたのお父さんよ」
老人からの手紙を思い出して彼女は言った。若塵も暖炉の上の父の肖像を見た。
「なぜいけないんだ」
「だって・・」彼女は言葉を濁し目を伏せた。
「あなたの父さんは私達がこうなる事に・・賛成してなかったもの」
「どうしてそんな?」彼はいぶかしんだ。
「それは・・それは・・」
「それはなんだ?」じっと彼女を見つめる彼の瞳に困惑の影が浮かんだ。
「父さんは君をとても気に入っていた、そうだね」
「ええ、たぶん」
「それに俺を愛してもいた。これも間違いない」
「もちろん。あなたはあの方の寵児ですもの」
「それなら俺達二人が結ばれてなんのいけない道理があるんだ」彼は彼女の瞳をのぞきこんだ。
「私にはそう・・思えないの」
「どうして?」
「それは・・そのわけは・・」彼女はまた口ごもった。
「いいかげんにしてくれ」彼は声を強めた。
「いつもの君はもっとはきはきしてるじゃないか」
彼は彼女の手を握りしめ切実に真実を求めた。
「お願いだ雨薇、本当の事を言ってくれ、君と父さんの間にはなにが?」
彼女の顔色が少し変わった。
「また!」厳しい目をして言った。
「どうしてそんな目で私を見るの」
「違う、雨薇」彼はあわてて弁明した。
「疑ってるわけじゃないんだ、ただ君の態度が不自然過ぎるんだ。どうして父さんが喜んでいない理由を素直に言えないんだい」
雨薇は身体中の力を抜き手を若塵の手に重ねた。
「若塵、遺書を開いた日を覚えてる?」
「ああ」
「あの時お父さんから私達に別々に手紙を託されたわね」
「そうだったな」
「私はあなたのお父さんの意図が理解できなかった。お父さんは手紙で私にあなたからの求愛を受け入れないように警告したのよ。だから私はあの方が決して喜ばれないだろうと・・」
「それは本当か?」若塵は困惑した。
「本当よ、お父さんは私にあなたの女遍歴に注意しなさいって。だから教えて。他にまだ私の知らないなにかがあったの?」
「紀靄霞のことは君も知ってるとおりだ、たしかに俺は自堕落しまくってた,だが君に隠し事なんてなにもない」
彼はじっと彼女を見つめた。
「おそらく父さんはそんな俺を知っていたから君にとりあえず警鐘だけは鳴らしておこうと思ったんだろう。決して結婚に反対とかいう事じゃない」
「そうかもしれなけれど」彼女は少し考えてから顔を上げた。
「でも紀靄霞の時はどうだったの。本当に愛したんじゃないの?」
彼はそっと彼女の口を押さえた。眼が燃えている。
「その名前はもう出さないことにしようじゃないか。俺もX線の事はもう言わない」
「でも私はX線とは本当になんでもないのよ」
「本当か?」彼は尋ねた。
「君は父さんから貰った手紙を覚えているな?」
「今私が言ったんじゃない」
「父さんはこう書いてたんだ。調べさせたところ君とX線の関係はもう動かし難い。やめとけ。横恋慕するだけ無駄だって」
彼女は眼を丸くした。
「嘘よ。X線とは恋愛なんかじゃなかった。なんでそんな事を?」
「同じだろう。心配したんだ」そして彼はさばさばしたように叫んだ。
「でもいいさ、きりきりまいさせられたけど。あのX線に焼きもちやかせてやれたんだから」
「まったく」雨薇はため息をついた。
「父さんがそこまでするなんて本当にあなたはよっぽど危険人物なのね」
彼はちょっと紅くなった。
「誓うよ。もしも俺が君に悲しませた時は必ず・・」
彼女は彼の口を塞いだ。
「誓わないで。あなた自身がいればいいの。あなたがたとえどうでも私はそのとんまのまぬけを好きになっちゃったんだから」
「雨薇」
彼は彼女を抱き寄せ口づけをした。長く熱く。その時突然ドアをノックする音がして雨薇は思わず離れ薔薇のように頬を赤らめた。入ってきた李媽は一目見て、あららと去りかけたが若塵がすぐに呼び止めた。
「行かなくていいよ、李媽」
李媽はいささか居心地悪そうに立っているがそれでも嬉しそうにエプロンで手をふきながら訥々と話した。
「あの、江お嬢さん、御夕飯の支度は十人分でよろしいんでしょうか」
「足りないよ」
返事をしたのは若塵のほうだった。
「最低でも十二人分は用意してくれなくちゃ、李媽」
雨薇が驚いた。
「どうしてそんなにたくさん?十人で十分なのに無駄は良くないわ」
「ちょっと豪華にしたいのさ」若塵は雨薇に言った。
「もし同意してくれるなら今晩二人の婚約発表をしよう」
「ええ!」李媽が大声で叫んだ。
「本当ですかぼっちゃん、江お嬢さんおめでとうございます!どおりで今日ははしゃいでらしたんですね、本当になんておめでたいのかしら本当に!」
李媽はエプロンで眼を拭いながら早くも走り出そうとしていた。
「みんなに知らせてきますよ、趙と老李に、きっと喜びますよ、ああ本当に旦那様が生きていればどれだけ、生きていれば・・」
嬉し泣きしながら李媽は駆けて行った。
「あんまり急だったかな。雨薇、もし君が望むならあらためてもっと盛大にやってもいいんだけど」
雨薇はうっとりとしながら若塵を見つめた。
「今日が一番」彼女は小さく囁いた。
「新しい一年の始まり。今日からなにもかも始まるの」
彼女は彼の手をとった。
「俺はどうにかこうにか一人前の男になれたかな」
若塵は少しおずおずしながら尋ねた。
「どう?」
「では言います」雨薇は熱っぽく彼を見つめた。
「あなたは一目見た時から私にとってずっと最高の男性でした。あの病院の廊下で会った時からあなたは生粋の正真正銘の一人前の男性です!」
彼はしばらくじっと彼女の瞳を見つめていたがやがて頭を下げその細い手をとり敬虔にそっと口づけた。あたかも慈悲を請うごとく。
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その夜、客は続々とやってきた。
食事前に全員が客間に集った。暖炉の火は暖かく酒が酌み交わされ部屋にはなごやかな気が満ちた。立群と立徳にとっては今回がはじめての晴れの訪問である。前も来るには来ているのだがほんの少し雨薇と会って帰ったのだ。今彼らは豪華な客間で李媽の恭しい接待と若塵の暖かい歓迎を受け更に姉の幸せな笑顔を見てお互い目配せをしあうのだった。立群が姉の耳元で囁いた。
「耿さんはあのX線よりよっぽどいけるじゃないか、僕たちも大賛成さ、絶対逃しちゃだめだよ」
「悪ガキ達!」雨薇は小さな声で叱った。
「あんた達になにがわかるの」
「僕たちもう子供じゃないよ、姉さん」立群は笑って答えた。
「もう大学二年だしね、ガールフレンドだっているんだ」
「本当?」
雨薇は驚いて背も高く大きくなった二人の弟を見た。本当だ、もう子供じゃない。父が死んだ時なにもわからず泣いていた八歳と九歳の弟が今はもうこんなに大きくなったのだ。彼女は思わず笑みを浮かべて言った。
「嵐に耐えた小さな苗もいつのまにかすくすく育ったのね」
「姉さんのおかげだよ」立群が言った。
「ずっと姉さんが僕たちの命の支えだった。姉さんがいなきゃ今頃僕達二人とも西門町の繁華街で物乞いでもしてたろう」
「もういいわ、姉さんを聖人みたいに言わないで」雨薇は微笑んだ。
「あたしにかまわず、あんた達は思った通りの道を行きなさい」
「おいおい」若塵が大股で彼らに近づいて来た。
「君達姉弟はそこでなにをひそひそ話してるんだ、俺にも聴かせてくれないか」
「今話してたんですよ」立群が姉の顔をうかがいながら言った。
「姉には人をその気にさせる妙な才能があるんです。自分だけは信じるとか言い含めてね」立群は若塵に言った。
「そう思いませんか」
「わかってるじゃないか!」若塵は嬉しそうに立群の肩を叩いた。
「君達もガールフレンドを選ぶなら姉さんを基準にするんだぞ。それに俺にも会わせるんだ、なにしろ俺は君達よりも姉さんを理解してるからな」
「あらま」雨薇は顔を赤らめた。
「二人ともどっかおかしいじゃないの、くだらない話はやめなさい」
そして雨薇は朱弁護士、唐部長、それに立徳の近くへ近づいた。立徳はすでに学校を卒業し兵役に入っているのだが赴任地が台北の北部なので風雨園にも来れるのだ。彼の専攻は幼児教育だったが今まさにその議論が白熱していた。実は唐部長の子供が知能障害で十歳を過ぎてもまともな話が出来ないので学校にも行っていない。立徳は非常な興味を示し唐部長の話に熱心に聞きいっていた。
「たとえば客を招いた時、彼らは子供に料理をとりわけてくれてこう尋ねます。『赤トウガラシは食べる?」って。すると子供は『赤トウガラシを食べる、緑のトウガラシも食べる』などと答えます。そこまでは全く正常なんですがそれで終わらずに『黒いトウガラシも食べる、黄色いトウガラシも、白いトウガラシも・・』言い続けるんですよ。妻はもう卒倒寸前でした。どうでしょう、こんな子供は」
「医者に連れていかれましたか?」立徳が尋ねた。
「駄目でした。よくならないんです」
「僕の考えですが」立徳は熱っぽく語った。
「子供さんは知能障害じゃないと思います。色の概念を持ってるわけだし質問にもちゃんと答えている。特殊な訓練さえすれば治るかもしれません」
「どこでそういう子供の面倒を見てくれるんでしょうか」唐部長は気持ちをたかぶらせた。
「残念なことに台湾にはまだその施設がないんです。それに訓練の出来る人材も少ない。もしも僕に資金があるなら必ず同じ症状を持つ児童の為に学校を作るでしょう、それに孤児院も併せて。僕は十三歳で孤児になりましたからその辛さがわかります、孤独ほど容易に子供の精神をおかしくするものはないんです。家庭の暖かみが必要なんですよ」
朱弁護士が興味深げに話の輪に入ってきた。
「学校ができても人材がいないのかい」
「訓練できる人を見つけるのはそれほど難しくありません」立徳は臆せず答えた。
「姉などは良い例です。辛抱強くて知識があり、惜しまず温かさを与えることが出来る。僕はこの訓練に参加してもらえる仲間も募れます。ただ問題は資金面なんです」
若塵は知らず知らずこの議論にひきつけられていた。
「君の試算だと、立徳」若塵は尋ねた。
「その学校を建てるためにいくら必要だい」
「そうですね・・」立徳は少し考えて言った。
「規模にもよるのではっきりとは言えません。でも決して些少の額じゃありません。なぜなら学校にはもちろん医師と看護婦が必要です。半分学校で半分病院なんですよ。それに特別の教材と部屋も。皆さんは自虐症を知っていますか?あらゆる方法で自分を傷つける症例です。火傷に頭突き、自分で自分を噛むし刃物で切ったりもする。この症状の児童には全面が軟らかいクッションで覆われた部屋が要るのです。あれこれ考えていけばいったいいくらになるか見当もつかない」
「残念だな」若塵はため息をついた。
「もしも俺が大富豪ならなんとかなるのに」
唐部長がすばやく朱弁護士と視線を交わしあった。
「もしもそのおつもりなら決して不可能じゃありませんよ」唐部長が言った。
「社の利益は今や天井知らずの勢いです。厳密に言えばあなたはもう大富豪と呼んでもおかしくありません。そう思われませんか」
若塵は腰をおろした。
「よくわからないんですけど」雨薇が尋ねた。
「もう負債はなくなったのですか?」
「こういう事ですよ」朱弁護士が説明した。
「大きな企業には多かれ少なかれ負債があります。でも負債は資産でもあります。一年前なら耿克毅の会社は一千万の価値しかありませんでしたが今では売りに出せば八千万になります。
「なぜです?」
「会社が利益を上げているからですね。それは信用があることも意味している。理由は受注額が負債を越えているから・・このへんは後でゆっくり説明してあげましょう。ただ一つ一番重要なのは若塵がすでに億万長者になったってことです。彼は今や台湾最大級の衣料メーカーのオーナーなのです。」
「でも会社を売るわけにはいかないね」若塵が言った。
「それはそうだけどね。まあ急がずにやることだ。君は将来も大変な成功をおさめるだろう。その時は学校だって夢じゃない」
「学校を建てるなら僕を忘れないで!」立群も口をはさんできた。
「僕は子供が大好きなんだ。残念ながら教育学を習ったわけじゃないけど。でも辛抱強いよ」
「もしも本当に学校が出来たなら私はきっと教員になるわ」雨薇も言った。
「私にまた経理部長させてください」唐部長も言った。
「ははは」
朱弁護士が大きく笑った。
「君達みんなもう学校が出来たようなつもりでいるんだな、じゃあ私は法律顧問だ。立徳君は校長で若塵は理事長だ。それでいいだろ?」
全員が笑い部屋の中の暖かい気分はさらに高まった。朱弁護士は若塵の肩を叩き熱く語りかけた。
「見てごらん、君さえその気ならこの世に不可能なんてないんだ。君の父さんが残した借金を君はほとんど返し終わった。おそらく父さんも天国で眼を細めているだろう」
誇り高く強情きわまりなかった老人。思い出した者はしばし感傷に浸った。沈黙の後、若塵が口を開いた。
「本当言えば俺はまだよくわからないんだ。どうしてこんなに早く会社の危機を打開できたのか」
「ビジネスとはそんなもんですよ」唐部長が言った。
「成功と失敗は往々にして一夜で決まります。一件のオーダーで大儲けできもすれば一件の焦げ付きが原因で潰れもする。そんなもんです」
「そういうことだから」雨薇が若塵を諭すように言った。
「大金持ちって得意になっちゃいけないわよ。まじめにこつこつと働いてこそうまくいくんだから」
「それに後ろからは君が鞭で追い立てるしな。頑張らないわけにかいけないじゃないか」
若塵は笑った。
「なによそれ」雨薇は小さく抗議して頬を染めた。
「うん?鞭がなんだって?」
朱弁護士が敏感に二人の会話を聞き取ってわざと大きな声でからかうように尋ねた。
「どんな意味だい?おい、みんな聞かせてもらおうじゃないか」
「この人の馬鹿な話を聞くことありませんわ、もうでたらめばっかりなんだから」
雨薇はそう言って小さな頬をさらに紅く染めた。若塵がそれでもかまわず大笑いするのに雨薇はふくれっつらで応えたがそうすると若塵はさらに笑った。居合わせた者達は誰もがそこに心を許しあったお互い最良の伴侶としての二人を見るのだった。笑いの絶えない客間に李媽がやはり満面笑みを湛えながらやってきて食事の用意が出来たことを告げた。
ようやく解放された雨薇が着席を勧め全員が席についた。卓上には李媽が腕をふるった四種のオードブル、油炸松子、酔鶏、炒羊肚糸、和血蛤、等々各地方の料理が並べられていた。やがて若塵は酒の瓶を持ち客一人一人に注いでまわった後李媽にさらに杯を三つ用意させて酒を満たし言った。
「老李と趙さんを呼んでくれないか」
李媽ははっとしたがすぐに駆け出して行った。客達はなにごとかと顔を見合わせたが朱弁護士が各人の気持ちを代表して口にした。
「どうやら今日招かれたのはなにか理由があったようだな。なんだい、誰かの誕生日かな?」
「ちょっと待ってもらえませんか」若塵が答えた。
「皆さんもうすぐわかりますよ」
李媽が老李と趙運転手を伴って戻ってきた。彼らもなにかあるをうすうす感じて口元がゆるみっぱなしだが客人の面前なので多少窮屈そうでもある。若塵は彼らにも杯を渡しそれぞれに注ぎ終わると厳かに宣言した。
「どうか杯を干してください。今宵は皆さんに重大な発表をします。自分と雨薇は今日婚約しました」
みんながどよめいて立ち上がった。若塵が豪放に叫んだ。
「二人の為に乾杯してください!」
こんな状況なのだから言われなくても誰もがそうした。若塵は雨薇をひきよせるとポケットから小さなケースを取り出しフタを開け指輪をつまみ上げた。
「一ヶ月も前に買ってたんだ。この機会に君に渡そうと思ってね。その時は自分がリッチになってるかどうかなんてわからなかったから石も小さいけど、でも俺の気持ちはもっと大きいつもりだ」
みんながまたどよめき拍手喝采を送った。雨薇は眼をうるませながら手を差し伸べで若塵に指輪をはめさせた。老李と趙運転手はそそくさと進み寄って慶賀の言葉を述べるとまた出ていった。
そしてその時門のチャイムが鳴った。若塵がいぶかしげに尋ねた。
「雨薇、君はまだ誰かを招待してたのか?」
「いいえ」雨薇が答えた。
「あなたが呼んでるなら別だけど」
「俺は呼んじゃいない」
全員が笑うのを止めた。車が入ってくる音がしたのだ。若塵が眉をしかめた。
「まさかあいつらじゃないだろうな」
だが雨薇はすでに車のクラクションの音を聞き分けていた。彼女は背筋をぴんと伸ばし心の中で唇を噛みしめた。まったくこんな時にまさに招かれざる客。ソファーに座った唐部長の手に持った煙草はすでに消えている。朱弁護士も杯を置きソファーに埋まって何事かを思案している。立徳と立群の兄弟はなぜ急に空気が変わったのか分からず顔を見合わしている。和やかさは一瞬にして消えあたりを重苦しさが支配した。
やがて扉が開き培中培華兄弟が現れた。彼らは部屋に一歩足を踏み入れるとそこに大勢の人々が集まっているのに驚きぎょっとしながらも朱弁護士に話しかけた。
「朱さん。あなたを探していたんですよ。奥様からここだとうかがったので来ました」
「結構なことだな」朱弁護士は冷ややかに答えた。
「それでなんの用だ、友好的な目的かね、それとも仕事か」
「少々教えて頂きたい事がありまして・・」
「じゃあ、法律上の問題だな」
培華が言いかけたのを朱弁護士が断ち切った。
「そうです」
「それなら明日事務所に来なさい。今はプライベートの時間だ、君達に話すことはない!」
朱弁護士はぴしゃりとはねつけた。
「ふん」培中が冷笑した。
「若塵にも関係があることなんでね。皆さんがお揃いなら都合がいいと思ったんですよ」
そして室内を見渡した。
「えらくにぎやかでご同慶の至りと言える」
「それがどうした」若塵は冷たく答えた。
「今日は俺と雨薇の婚約を発表したんだ。まさかお前達も祝いに来てくれるとはな」
「婚約だと?ははっ」培華が叫んだ。
「そんな事だと思ってたぞ、お前はこれで風雨園も会社も両方手に入れたわけだな、おめでとう、実に羨ましいよ」
「とりあえず礼を言っておこうか」若塵は唇をゆがめて笑う仕草をした。
「なにしろお前は全財産を引き継いだんだからな」培華は高笑いした。
「お前の妻も父さんのお下がりとくるし、全くお前達親子はそっくりだ!」
若塵の力こぶが盛り上がったがそっと駆け寄った雨薇が彼の腕をとり耳元で囁いた。
「今日だけは喧嘩しないでね、お願いだから」
若塵は怒りを抑え朱弁護士のほうを向いた。
「朱さん、これは家宅侵入罪です。警察へ通報してもらえませんか」
「ちょっと待ちなさい」朱弁護士は培華と培中に言った。
「とにかく君たちがなんの為に来たのか聞こうじゃないか」
「いいでしょう、じゃあ単刀直入に言いましょう」培中は朱弁護士の目を見据えた。
「あなたは父の遺産執行人だった。そうですね」
「その通りだ」
「あなたは言いましたね、父の紡績会社は破産寸前だと。それなのにたった半年で事態は一変して今や名高い一流企業だ。このからくり芝居の中であなたは一体どんな役を演じたんですかね?」
「会社が破産寸前だったのは疑いのない事実だ。それは君もよく調べたんじゃなかったかね。本当なら君は素晴らしい弟に礼を言わないといけないよ。二人の兄が投げ出した会社を粉骨砕身の努力でたてなおし債務を返したんだ。まさか君たちはようやく持ち直した会社を嫉んで横取りに来たのかね」
朱弁護士は厳正な裁判官の立場で二人を睨み付けた。
「培中、君も世間知らずじゃない筈だ、さんざん生きてきたのにこんな事さえわからないのか」
「若塵みたいなろくでなしがたった半年で会社を立て直せるもんか!」培中が叫んだ。
「絶対ありえない!片時さえじっとしていられない奴が商売なんかできるか、陰謀に決まってる、きっと証拠を掴んでやる!」
「勝手にしたまえ」朱弁護士は冷ややかに培中を見た。
「忘れたかね、君達は遺産相続書にサインして今後いかなる事情があっても文句は言わないという事に同意したんだ。もしも申し立てがあるならあの時出すべきだった。今となっては全てが無効だ。それに若塵に能力がないだって?」
さすがの朱弁護士も些か興奮して言った。
「馬鹿を言うのもほどほどにしたまえ!若塵は普通なら誰もが不可能な事を成し遂げたんだ、子を知るに親にまさる者なしというが耿克毅の目に狂いはなかった。会社を君たちではなく若塵に任せたんだからな。もしそうでなければとっくに会社は潰れてただろう」
「それが計略だって言うんだ!」培華が怒鳴った。
「最初からおかしいと思ってた!」
「じゃあ何故サインしたんだね」朱弁護士は厳かに続けた。
「培中、君はもう少し話がわかるだろうから教えてあげよう。税務署で調べてみたまえ耿克毅紡績工場にわずかでも申告漏れがあるかどうか」
「そう言われるとは思ってましたよ」培中は皮肉な笑みを浮かべた。
「なんの手がかりもつかめやしなかった、たいしたもんだ!」
彼は培華に呼びかけた。
「行くぞ。俺達がうかつだった、最初から弁護士に調べておいてもらうべきだったんだ、とんだ無駄足だ」
「おそらく君達のいいなりになる弁護士はいないだろう」朱弁護士は冷たく言った。
「ふんっ!」培中は吐き出すように鼻をならした。
「培華、帰るぞ」
「待ちなさい!」
突然澄んだ声が響きわたった。前に進み出て培中と培華の前に立った雨薇の表情は粛然として、その輝く瞳は二人をきっと見つめている。彼女の声はいたって落ち着きはっきりと室内にいる全員の耳に届いた。
「今日折しも私達二人の婚約発表に出会わしましたあなた方に。以前なら私はあなた方と対等に話す立場になかったかも知れません。けれどもう今から私も耿家の一員としてお話します!」
雨薇の臆することない視線に対し培中は最初さげすむような顔で、培華は憤懣やるかたない顔で応えた。けれど何故か彼らはしだいに背筋が寒くなりじりじりと後ずさるような感覚を覚えるのだった。雨薇は続けた。
「この風雨園に足を踏み入れ、あなた方のお父さんから遺産を受け継いでからも私はあなた方からの侮辱に甘んじて耐えてきました。でも今こそ言います。私が神にかけて純血無垢の身で耿若塵に嫁いだことを!
あなた達こそ胸をはってものが言えるのですか?今日も若塵の財産を横取りしようとやってきた培中さん、あなたはすでに大きな建築会社の社長ですね、培華さん、あなたも決して小さくないプラスチック会社の経営者で裕福な筈。なぜまだ遺産をかすめ取ることに汲々とするのですか。それにあなた方の会社は当初誰の資金によって始められましたか。みんなお父さんのおかげではありませんか。胸に手をあてて考えてください。若塵はあなた方にかわってそのお父さんの債務を継いだのです!
でももうこれ以上は言いません。たとえなんにしろあなた方は若塵の兄であり同じ耿克毅の息子です。骨肉相争うのは人の物笑いにしかなりません。しかもその理由はお金。あなた方のどちらも金に困っているわけでもないのに、これが笑い話でなくてなんでしょう。私はこれまでずっと貧しかったけれど金銭は人に安楽をもたらすものだと思っていました。それなのにあなた方は金銭を憎悪の理由に換えてしまう。あなた方は貧しい小娘であった私に目を開かせてくれたのです。
ここではっきり私の立場を述べましょう、この風雨園は私のものです。今後あなた方が若塵の血をわけた親族としてここへ来るなら私は一切を忘れ暖かく迎えましょう。けれどもしまだ挑発に来るなら私は容赦なくあなた達を訴えます、たとえどのような結果になろうとも!
言いたい事はこれで全てです。お帰りください」
彼女は道をあけた。しばらくの間室内は静まり返り培中と培華も圧倒されたまま立ちつくしていた。まさかこの華奢な若い看護婦がこれほど堂々とその思うところを論じ立てるとは。さらに彼らは納得した。おそらく彼女はやると言った以上必ずやるのだと。
朱弁護士も賞賛を込めた眼差しであっけにとられて眺めるばかり、若塵は驚きながらも喜びが隠せずその誇らしげな表情は崇拝にも近い。唐部長は目を丸くし、立徳と立群の兄弟は事態がよくのみこめないまでもやはり姉の姿を頼もしげに見ている。
やがて培中が首をふり培華に言った。
「行くぞ」
彼の声からはもはや入ってきた時のような威勢は消え失せ、かわって現れたのはうら寂しさだった。門を出てゆき車に乗り込む時に培中は培華にぽつりと言った。
「これだけはたしかだな。若塵の女房は俺達のよりもすごい!」
エンジンをかけ車は風雨園を去って行った。
宴は再び盛り上がった。事の経過を尋ねる立徳と立群に兄弟三人の恩讐を仔細に説明する唐部長。若塵はそっと雨薇の肩を抱き言った。
「君にはかなわないよ、雨薇」
朱弁護士も笑いながら立ち上がり祝杯を掲げた。
「江さん、耿克毅があなたを見込んだ理由がよくわかりましたよ。あなたはそんじょそこらの女性とは違う。まさに乾杯に値する!」
そして彼は杯を空けた。雨薇はあちこちからの賛美に頬を紅く染めたが、その恥じらう様子はさっき盛大な啖呵を披露した人間とはまるで別人だった。彼女は手を叩いてみんなに言った。
「さあ、パーティーを続けましょう。アクシデントなんか気にしないで。若塵、もう大丈夫よ。あなたの兄さん達はもう厄介を起こしには来ないわ。みなさんにお酒を注いでまわってね」
「はは!」若塵はうやうやしく腰をかがめ一礼をした。
「拝命いたしました、女王陛下殿!」
一座の者がどっと笑いどよめき室内には幸福な空気が満ち溢れた。
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三月。小鳥がさえずる花の季節に二人は式を挙げた。折しも雨期は去り空は晴れ竹は翡翠色にシナフジは紅に萌え、雨薇が植えたツツジやハイビスカスもところせましと咲き誇った。鳥が朝の訪れを告げ夕べには紅に染まる庭園、そして月光がカクテルライトを投げる真夜中の花達。まさに春の盛り。
式は盛大ではあったが華美に驕らずことさらつつましく行われた。合わせて二十の卓に集まった客の中には意外なことにあの培中と培華の姿もあったのだ。彼らはそれだけでなくしかるべき贈り物も施し慇懃に祝辞を述べた。後で若塵がため息をついて語った。
「これも人生ってもんだな。成功した者には仇でさえ頭を下げる。だが失敗した者は背中を踏みにじられ唾を吐きかけられるだけだ」
「そんなひねくれた見方をするものじゃないわ」雨薇はなだめるように言った。
「あの人達が来たのは和解を表すためよ。なんにしろあの人達とあなたには同じお父さんの血が流れているわ、たとえあなたがいくらしがらみを断ちたくても私はそれだけでやり直して見る価値があると思うの」
「天使だな、君は」若塵は言った。
「あいつらに他の動機があるとは思わないのか。ヒルみたいな奴だ、一旦隙を見せれば血を全部吸い取られてしまいかねない」
「吸い切れないわ」雨薇はこぼれるような笑みで言った。
「あたし達はしぶといもの。最初から無理よ」
「えらい自信だ」若塵は軽く雨薇の顔に口づけた。
「けれどむしろ君は暖かく迎えてやるつもりでいるんだな、そうだろ?」
「だってあなたの御兄弟じゃないの」
「君は奴らの示した蔑視と侮辱を忘れたのか」
「あなたが忘れられないのはわかるわ」彼女は率直に答えた。
「もちろん私も。私達はみんな凡人よ、聖人なんかじゃないしたとえ聖人でも愛憎とは無関心でいられないわ。思ったの、誰もが人生の波頭を乗り越え孤独を耐え忍び同じように痛みと苦しみを経ている。でも幸い私達はこんなにも幸せの中にいるのにどうして敢えて他人を恨まなければならないのかって。この幸せをこの世の不幸な人にわけてあげてもいいじゃない」
「あいつ達は不幸だっていうのか」
「ええ、一番とっても不幸な人」雨薇はしんみり答えた。
「だってあの人達の人生には愛がないもの」
若塵はもう一度きつく彼女を抱きしめ敬虔な眼差しで見つめた。
「やっぱり君は天使だな」
世界中どこにもこの風雨園に勝る蜜月な場所はないと言う雨薇の言葉に若塵が同意した為ハネムーンは無しだった。更に若塵も業務多忙の為一週間しか休みがとれない。二人は毎日ミツバチのように花園を飛び回った。
「俺はずっと運命に逆らってきたけど、今は君と巡り会えた運命に感謝したいよ」
雨薇も思い起こした。あの日の午後、"12番目"の付き添い看護婦として老人の病室のドアを叩いてから全てが始まり様々な紆余曲折を経てとうとう今日に至ったのだ。老人の顔を思い浮かべて彼女はため息をついた。老人が臨終のまぎわに書いたであろう彼女への手紙。それは今も彼女の気持ちのひっかかりとなっていた。若塵は鋭敏にそれを感じ取った。
「どうしたんだい、ため息なんかついて」
「やっぱり気になるのよ」
彼女は答えた。
「お父さんは私達がこうなることを望まれていなかったかも」
「あの手紙の事かい」
すぐに彼も言った。
「雨薇、それはもう考えないことにしないか。父さんがいなくなった以上誰もあの手紙の本当の意図は知るすべがない。ただ俺達が幸せであるなら父さんもわかってくれる筈だ。そうじゃないか?」
確かにそれはそうなのだろう。彼女は長い髪をかきあげ迷いを払拭しようとしたが心の奥底に沈んだ固まりはやはりそこにあり続けた。そして彼らの幸せが深ければ深いほどそれも長い影をひきずるのだった。
その日の早朝朱弁護士がやって来た。
「結婚プレゼントだよ」弁護士は笑みを惜しまなかった。
「えっ?」雨薇は首をかしげた。
「もういただいた筈ですけれど」
「これは私からじゃない」弁護士の微笑は謎めいている。
「誰からですか?」若塵が尋ねた。
「君の父さんだ」
「なんですって?」
雨薇と若塵が揃って声をあげた。
「どういう意味ですか?朱さん」
朱弁護士がポケットから一通の封筒を取り出して開けると中から出てきたのは一個の鍵だった。彼は二人にそれぞれ目配せすると多少もったいぶりながら言った。
「耿克毅が死ぬ少し前の事を覚えてるかな。私はほとんど一日中彼と一緒にいて遺言の作成に携わったんだ。彼の金銭面も含めてね。彼は死の一月前にこの鍵を私に託した。いつか君たち二人が結ばれた時に結婚プレゼントとして渡してくれとね」
「これは・・なんの?」
「**銀行の貸し金庫だよ。無記名だけれどこの鍵と番号さえあれば開錠できる」
「もしも」雨薇は尋ねた。
「私が若塵と一緒になっていなければこの鍵はどうなったんですか?」
「君たちのあらゆる疑問はこれを開ければ解ける筈だ。今から早速行ってみればいい。とても興味深いものが入ってるよ」
思いがけないプレゼントに秘められた謎に雨薇と若塵は少しの躊躇もなく趙の車に飛び乗った。受け取った貸し金庫の箱を開けた二人の目に最初に入ったのは一通の封筒だった。表には老人の筆跡でこう記されている。
「耿若塵と江雨薇の二人へ」
若塵は雨薇に言った。
「これでも父さんが結婚に反対だったって言うのかい?」
はやる心を抑えつつ封筒を開け中の便箋を取り出した二人は読み始めた。
「若塵そして雨薇へ。
おめでとう。お前達がこれを読んでいる以上すでに二人は夫婦として結ばれ若塵も会社の危機を救っている筈だ。なぜならその二つがこの金庫を開ける条件だったんだからな。どちらか片方が欠ければその資格はない。
きっとお前達はたくさんの疑問を抱いているだろう。なにしろわしはお前達それぞれに別れを促すさんざん意固地な手紙を書いたのだから。はっはっは!まんまとわしの計略にはまったようだな子供達。
雨薇、わしはお前に会った時若塵の相手としてこれほど相応しい娘はいないと思った。そして風雨園での二人を見るにつけその思いはより深まっていったのだ。なにがなんでも一緒にさせんわけにはいかんとな。
だがその一方でわしは少なからず心配もした。それはお前達両方に共通する強い自我とあまりに傷つきやすい感性だ。そこでわしは考えたあげく一計をめぐらすことにした。
風雨園を雨薇に譲り若塵も住まわせ二人が毎日顔をあわせるようしむける。気位の高い若塵は居候の立場を楽しまないだろう。それにあいつの負けず嫌いの性分をよく知るわしはあのX線も利用して嘘の情報を流しわざと若塵の嫉妬心を煽ったのだ。
雨薇も覚えておくがいい。とかく男というものは手強い獲物ほど燃えるものなのだ。それでお前には若塵を安易に受け入れないよう忠告し防波堤をつくらせた。こうしてつかず離れずにしておけば若塵の雨薇に対する思いも自然と深くなってゆく。お前達はこの葛藤の中で本当の信頼関係を築きあげてゆくだろうと。
もちろんこれは逆の結果を生むかもしれん、そうなればわしは策に溺れたまぬけな策士でしかない。けれどお前達がわしの考えるお前達ならきっと最後にはこの気持ちを理解してくれる筈だ。
若塵は子供の頃から天性にめぐまれていたがわしの溺愛のせいで責任感のない放蕩息子になってしまった。どうやってこの野生馬を更生させるかがいつもわしの気がかりだったのだ。わしはお前を最も見込みのある息子だと考えると同時にその性分を安じた。ゆえにわざと二千万元という負債を残した。お前がこの責任を放棄していたなら今この金庫を開けているお前はいない。この試練を克服した時お前は眞にわしの後継になったと言える。
実を言えば会社の業績も危機に瀕してはいたがわしの海外での資産はそれを補ってあまりあるのでなんの心配もなかったのだ。だがわしは敢えて業績を向上させようとはせず課題として若塵に残した。この手紙を読んでいる以上その難題もとっくに解かれているだろう。わしは自分の眼でそれを見ることはできない。だが若塵に雨薇。我が心では今十分にそれを見ている。
この金庫の中にはスイス銀行の預金通帳、およそ五千万元がある。わしのこれまでの海外投資の収益の全てだ。これをお前達二人に授けるので使い道は自由に考えなさい。ははは。若塵、お前の親爺が残したのは負債ばかりじゃないぞ。耿克毅はやはりたいしたやつだろうが!どうだ?
また宝石箱の中には宝石がある。これはわしが暁嘉の為に買ったものだがその時暁嘉はすでに亡くなっていた。だからかわりに若塵の嫁に与える為にしまっておいたのだ。若塵、もしお前が母親の事でわしを恨むならどうか雨薇を大切にしてやってくれ。わしはお前の母には申し訳ないことをしたがそのかわりお前に雨薇をひきあわせたのだ。これでおそらくわしはお前の母に会わす顔も出来たと思う。
お前達はこの思いがけない贈り物を有益に使ってくれ。決して培中と培華には渡すんじゃないぞ。あいつらはわしから一生暮らせるほどの金をむしっていったんだ、その額は数千万元は下らない。だからなんの気兼ねもいらん。それにお前達に渡してこそ金も生きててくるだろう。
さて、これでわしの仕事も全て終わった。この手紙を読んだ以上お前達を邪魔するものはもうなにもないのがわかっただろう。わしには素晴らしい息子とその嫁がいる。なんの心残りがあるだろう。最後にもう一度大笑いさせてくれ、はっはっは!
人生の長く険しい道のりをわしは歩ききった。これからはお前達が歩く番だ。子供達よ、ゆっくりと着実に歩くんだ。つまづくのを恐れるな。誰もがそれからは逃げられない。子供達よ、大きく歩き続けるがよい!
最後に。富める時貧しき時苦しき時、どんな時でも手を携え一緒に歩んでいってくれ。
父絶筆 1971年6月 」
手紙を読み終りお互いの顔を見合わせた若塵と雨薇の瞳にはとめどなく涙が溢れていた。彼らは預金通帳と宝石箱を手にとりしっかりと抱きしめた。やがて若塵は自分の妻に向かいそっと言った。
「父さんは決して反対したんじゃなかっただろ」
「なんておかしくてそれに聡明な耿さん」雨薇は言った。
「まるで全てがアラビアンナイトのようなお話だわ・・私にとって」
若塵が宝石箱を開くとまばゆく輝く宝石の数々が現れた。ネックレス、指輪、ブレスレット、ブローチ・・。若塵はその中から大きな石が載った指輪を一つ取り出した。
「俺が渡したちっぽけなのよりこのほうがいいかな」
「そんなことないわ」雨薇は自分の指輪を隠すように手を後ろにやると頬を紅らめ可愛く笑った。
「これをつけててもいいでしょ、ね?」
若塵は小さな声で言った。
「君は本当に愛さずにはいられない人だ、雨薇」
彼女は若塵の胸に顔を埋めしばらく二人はそうしてじっとしていたがやがて若塵が言った。
「急にこんな大金が手に入ったけどいったい何に使えばいいだろう」
雨薇がにっこり笑って言った。
「とりあえずこのままにしておいて朱さんに会わない?どうかしら」
彼らが屋敷に戻ると朱弁護士が風雨園で待っていた。二人の晴れ渡った表情を見て朱弁護士は心の底からの微笑を浮かべた。耿克毅老人よ、と朱は思った。あなたはさぞ満足だろう。あなたが描いた筋書きはここにようやく完全に幕を降ろした。まっこと羨ましいお方だ。こんなに素晴らしい息子と嫁に恵まれたのだがら。彼は前に進みでて二人を迎えた。
「もう言うことはないだろう。君はこれで名実共に大富豪となった。しかもその若さでね」
「一つだけうかがいたいです」雨薇が言った。
「もし私が若塵と一緒にならずに若塵が会社を立て直していなかったらこのお金とたからものはどうなったんですか」
「耿克毅の遺言によれば三年たっても条件のどれかが満たされていない時は匿名の寄付として慈善団体に贈られることになっていた」朱弁護士は答えた。
「でも予想しなかったよ、一年もしないうちにクリアーするとはね。とうとう今日全ての職責を終えられて私も実に嬉しく思う。これで老友への義務も果たせた」
そう、朱正謀はずっと老人との約束を履行する為に誰知られることなく鍵を預かり続けていたのだ。若塵は朱弁護士を今までとはまた別の敬服のこもった目で見た。朱弁護士は少し考えると二人に尋ねた。
「君達はその遺産をどう使うつもりかね」
「まず」雨薇が答えた。
「趙さんと老李にしかるべきものを渡すのが先ですわ。でもそれを差し引いてもいっぱい残ります。それで私にちょっと考えが・・」
「ちょっと待った!」若塵が遮った。
「俺にも計画があるぞ」
「もしも良ければ私にも提案があるんだが・・」朱弁護士も加わった。
「それじゃあ」雨薇が微笑んで言った。
「口に出さずにそれぞれ思ってることを紙に書きましょう。それで一緒に開けて多数決で決めません?」
「よし!」若塵が三枚の紙を配った。
それぞれが書き記すとまず雨薇が自分の紙を広げた、そこにはあったのはこの文字だ。
「立徳の計画した学校」
若塵の紙を広げた。
「孤児と問題児の学校」
最後に朱弁護士。
「婚約発表の時に話された学校」
三人はお互いの顔を見あわせ次に吹き出した。腹を抱えながら若塵が言った。
「まるで申し合わせたみたいだな、これは乾杯しなきゃ!」
若塵は酒を持ってくると三つの杯に注いでから老人の遺影に歩み寄り杯を掲げ呼びかけるように大声で叫んだ。
「父さんに乾杯!」
三人は揃って老人に杯を掲げた。暖炉の上で穏やかに微笑む老人の遺影は静かにそこにいる者を眺めているようだった。
その夜、明るい月に照らされ若塵は雨薇と手をつなぎ風雨園を散策していた。淡い雲と清涼な風。二人は肩を並べゆっくりと歩を進めた。やがてビーナス像の前で若塵は雨薇に言った。
「雨薇、ひとつ聞きたいんだ」
「なにかしら」
「君の心にはまだもつれがあるかい」
彼があの宋詩のことを言っているのが雨薇には分かった。
「天不老 情難絶
心似双絲網
終有千千結
この世あるかぎり 愛は永遠
心は一対のあざなえる網
やがては千千(ちぢ)にからまれり」
小さく首をかしげ彼女は言った。
「ええ、一つだけ」
些か若塵は不安になった。
「それはどんな?」
「忘れたの?」彼女は微笑んで小さくつぶやいた。
「天不老 情難絶
心似双絲網
化作同心結
この世あるかぎり 愛は永遠
心は一対のあざなえる網
やがては共に結ばれん」
顔を上げた雨薇は囁いた。
「結び目をほどかないで、永遠に」
低くため息をついて若塵は言った。
「雨薇、俺は君に夢中だ。自分でもこわいくらいに」
そして彼女を抱きよせその暖かな胸に顔を埋めた。月光が二つの影を一つに重ねた。星空の下、風雨園は今や風も雨も無くただ静けさだけに包まれた。
もの言わぬ愛の女神はじっとそこに佇み優しく一切を見守っていた。
【心有千千結終わり】 |