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发表于 2005-6-20 17:43:10
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飛んで火に入る夏の虫
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これはみずから滅亡をまねくこと、禍わに身を投じていくことにたと3 j8 D+ T. ]% t1 C0 z* r+ W; a
えられ、よく博徒のけんかなどの科白に、
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! x3 _4 _9 u! r" e, r) d 「飛んで火に入る夏の虫たァおめえのことだ、- ~1 b ~" a6 V) ?: ^- e
しゃらくせい、
$ r, Z, c, ^! Q! |9 f; f$ A$ C! J やろうどもたたんじめえ。」) Z& k( Z+ R! k* ^# i- Q9 B
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などというのがあるが、もとの話はちょっとちがい、『梁書』の「到漑
% L: i" f4 g0 x9 y* W' Q6 n伝」に出ている。9 X! t [, a0 p5 W5 G% ?* {3 [# P9 J
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梁の到漑は字は茂灌といい、謹直で聡明、学に秀でて高祖の信任が厚& X X0 t+ n3 @. a
かった。鏡という息子があったが早世して、孫のジンが後をつぎ、やは8 g f+ A; g' ?, c5 o$ z ?
り聡明で高祖のお気に入りであった。
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' y% h/ h# l( c& Q# C) E, b ある時ジンが高祖に従って京口(江蘇省鎮江県)の北願楼に登り、詩を* b' `: T7 D7 C2 N# p: f+ K9 L
賦すよう命ぜられて直ちにたてまつったところ、高祖はそれを見て、漑( f3 x4 \8 ~ P% N6 K% ^1 b- g
に示し、* S2 J& F9 e% W* i6 m2 z& `, b
- H6 D1 I4 h; U' w" ^1 C 「ジンはなかなかの才子だ。1 f0 S, n Y% [; y& N
そこで思うのだが、
& R% c3 L* u8 M- q+ R x おまえのいままでの文章は、/ y4 a- F+ i/ P5 R, W; h# G/ ?0 F
どうもジンの手を借りているのじゃないかね。」5 O1 x6 ^" f! c' a. d
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といって、漑につぎのような文章を賜わった。+ o, e2 a# z$ {# b$ n2 h7 @6 i Z
5 L! W6 W9 B, `- m! q; E- K 「研に墨を磨りて文を騰え、' {/ ? j# n- |& ?) X- \
筆は毫を飛ばせて信を書するも、
8 z/ X; a7 x$ b! Z' \ 飛蛾の火に赴くが如くして、
2 Y# ~* Z' Z. Z8 a あに身を焚くをトドむべけんや。
0 k; h7 ]3 O, @( U+ k; E) g- `+ c 必ず耄年にそれ已に及ぶ。
i% c; d5 K! i7 ^* w. e. L9 |. x% _ まことにこれを少ジンに仮せ。」" b/ d+ w$ n9 h+ f' y) e) O% g
(これが「飛んで火に入る夏の虫」の出所)
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おまえももうすっかり老人になった。いくら苦心して名文を作ったと
. A, S1 I5 B0 g( c3 L* m# Eころで、自分の損になるばかりだ。もうかわいい孫に名をゆずってやり" L$ n6 U5 ]! U- h
なさい、とでもいうところである。
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漑が湘東王の繹に仕えていたころ、高祖は王に言ったものである。
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「漑はおまえに仕えているような人物ではない。
' t: E8 @6 U" G: R; Z& X おまえの先生なんだ。
9 h5 i9 M# q H6 X! ^1 ~ なにかの時はいつもきっと相談しなさいよ。」5 a% p$ u4 M, o9 [. _, U
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だいたい、漑は身の丈は八尺もあり、威風堂々として挙措も端正であ
' E& O" i6 k9 u3 {% a' q0 gった。それに清廉潔白で事にのぞみ、みずから修業につとめて倹約をむ
& O7 P" u1 s$ cねとしていた。室はがらんとしてこしかけが一つきり、侍女もおくわけ
, Q4 D* @- s, g/ }0 _ではなく、賜わった車服以外はきらびやかにすることなく、かぶり物、
- p+ A& \6 m) m/ S' a" ]履き物は十年に一ぺんかえるきり、出仕の服でもつぎが当ててあり、天& q2 I( d! S* t/ H; E
子出御のための通行止めにひっかかると、朝官のしるしを見せるといっ
- ]9 s# p7 R. T* g" p( T7 w" ?: \; p5 l! rたぐあいであった。
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高祖は漑が特にお気に入りで、いつも将棊の相手をさせ、日暮れから
; b% z8 L: D4 I9 P暁け方に及ぶこともまれでなかった。漑の家の庭の築山に変った石があ
5 p- ~& X& H$ A4 |1 @ったので、高祖はたわむれにこの石と『礼記』一部とを賭けさせたとこ7 m6 n, r" T% c# E9 m- u
ろ、漑がすっかり負けてしまったが、一向に差し上げない。そこで帝は+ }2 i2 A" e% ~: N! `& ]
賭けたものを早くもってくるようにと漑に催促した。漑は、陛下にお仕
& M" _( _5 c7 s$ Y! ?7 Sえ申し上げている身が、何で礼(礼記とかけていった)を失うことができ9 T2 z9 f3 {2 J8 B5 _3 d
ましょう、とこたえたので、帝も大笑いしたというのである。
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漑の一家はみなむつまじく、特に漑と弟の洽とは仲がよくて、はじめ: U& w1 f' n+ R( U# }0 Z. U7 ^
のころいつも一緒にいた部屋を、洽がなくなると寺へ寄進し、自分は終
. O2 i4 H r4 _: K身なまぐさをとらず、朝夕僧をよんで供養したといわれている。 |
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