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发表于 2005-6-20 21:52:21
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陶朱猗頓の富
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- A1 Y' z9 O, x. i陶朱とは越の名臣范蠡の後年の名である。8 y6 N6 v h6 }3 z9 m
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周の敬王の二十六年 B.C.497、越王勾践は、范蠡の諫止をきかず呉王5 ~) k0 q. G1 V4 e- ?' L
夫差と夫椒山(江蘇省太湖の西洞庭山)に戦って大敗し、数千の敗残兵を+ o" m# E& ]5 a' L) K' }' A
ひきいて会稽山(浙江省紹興県の東南)に逃れたが、呉軍に包囲されてい
. s! k2 K( o( z, k+ O$ b: Kかんともすることができなかった。勾践は范蠡の諫言をきかなかったこ, t( n- a4 f3 ]
とを悔い、その助言を求めた。范蠡は、いかなる屈辱にもあまんじて和* O8 H& N! ?+ y0 a7 g. r" o
を請い、再起をはかることをすすめた。勾践はそれに従って呉に降伏し' k2 @$ A P ?! E, y
た。以来、范蠡は勾践をたすけてひたすら国を富ませ兵を強くすること3 U9 V2 u0 |, `
に努め、刻苦二十年の後、ついに呉をほろぼして「会稽の恥」をすすぎ E3 _# _# B% K2 @4 s- X
(周の元王の三年 B.C.473)、越をして天下に覇をとなえしめた。
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勾践が覇者となると范蠡は上将軍と称された。だが范蠡は、「大名の
) N7 F# G& P( Qもとには久しく居りがたい」と思い、勾践のひととなりが「ともに患難
" Z. H( w/ r- C; f1 cを同じくすべきも、ともに安きに居りがたい」ことを思って、その一族
* w, S1 g# ?$ P f" N. V' hとともに越を去って斉に移った。& g% }# a; n; ^ e6 z3 B8 F6 z
7 r* E1 b J& B8 | 斉で范蠡は姓名を変え、鴟夷子皮と号して売買に従事し、かつて越の1 L; [2 |! X6 R- U4 z4 Z4 Y
国を富ましめた計然(一説に范蠡の著書の名とされているが、しばらく8 }$ r# t! |* T0 b4 e
通説に従い范蠡の師としておく)の策にのっとって、物資の過不足を考) \( l. s, a: D. W+ @( Z
え、高いときには糞土を捨てるように惜しみなく売り、安いときには珠/ {. _- c6 d4 r; m# w1 h
玉を求めるように惜しんで買い入れ、たちまちのうちに数千万の富をき1 ]! T7 m& O6 c$ L, M2 d l! W
ずいた。号の鴟夷とは皮袋のことで、不要のときには小さくたたむこと c* \, `0 ]3 q S, s
ができるが物を入れるときには大きくふくらむという意味である。斉で) ]% {) i* _" j( J% j" Z1 D* K8 y1 I( U
は彼の賢才を見込んで宰相に迎えようとしたが、彼は、「家にあっては6 j8 q4 n. k G; a: f3 S# w
千金をもうけ官については卿相となるのは栄華の極み。久しく尊名を受
7 y2 ~; S9 x# F* [けることは身のためではない」と、それをことわるとともに、数千万の
+ f2 y5 V' F* E; f0 m財をもことごとく人々に分けあたえて、陶(山東省定陶)へ去った。
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陶で彼は再び売買をはじめた。この地をえらんだのは、ここが諸侯の
* K9 T1 E, D/ [3 \国と四方に交通する物資の中心地だったからである。ここで彼は名を朱7 i0 m l- }* I; T# H
と変え、よく取引の相手をえらんで時機を見て物資を流通し、またたち
& O3 Y6 Y7 s6 y8 ~! X; V: Gまちのうちに数千万の富をきずいて、陶朱公と呼ばれた。彼は十九年の
9 j0 r1 ]" l5 r) J# _3 Nあいだに三度も巨万の利を得、そのうち二度までこれを散じて貧しい人, {7 ~( r2 H. b$ C, C
々に分けあたえた。後年老衰すると家業を子孫にまかせたが、子孫もま
4 l0 u7 N* s& T1 P" }た巧みに生業をいとなんでますますその富を大きくしたという。/ }1 I* ?0 E: X3 T5 g% A
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2 K6 U& M- Z$ L& w8 ~2 D6 m' N) q 猗頓は春秋の魯の人。もと窮士であったが、塩と牧畜によって富をき
( o$ r/ W3 Q3 N1 {5 [9 ?ずき、猗氏(山西省安沢県)に居して王公をしのぐ生活をした。そのため
4 ?. }3 V# z! w# dに猗頓(頓はたくわえの意)という。ここから、世に富を云々する者は、+ x' l, j2 o1 s& R! G( l4 D1 [
あるいは陶朱公を引きあいに出し、あるいは猗頓の名を言った。
, Q6 s- c, S. z' x, G- I (「史記」貨殖伝)& X8 b0 d" P7 s \9 {5 }/ A/ T
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+ ?4 X- S$ m/ k3 V2 K! j ここから富者をさして「陶猗」と言い、その富をたとえて「陶朱猗頓
0 |/ F+ r L( Jの富」ということばが起った。 |
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