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楼主: bgx5810

中国故事物语(已载完)

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 楼主| 发表于 2005-6-20 17:43:10 | 显示全部楼层
飛んで火に入る夏の虫

, x! M) l6 i" D7 ?! T1 _& Z+ O' q9 Z9 A* S- Z2 p- O5 Z
これはみずから滅亡をまねくこと、禍わに身を投じていくことにたと3 j8 D+ T. ]% t1 C0 z* r+ W; a
えられ、よく博徒のけんかなどの科白に、
3 e* N7 }& F! _5 J" w* c- V. a1 J 
! x3 _4 _9 u! r" e, r) d 「飛んで火に入る夏の虫たァおめえのことだ、- ~1 b  ~" a6 V) ?: ^- e
  しゃらくせい、
$ r, Z, c, ^! Q! |9 f; f$ A$ C! J  やろうどもたたんじめえ。」) Z& k( Z+ R! k* ^# i- Q9 B
 - ]) q3 }4 \0 C* Y4 T
などというのがあるが、もとの話はちょっとちがい、『梁書』の「到漑
% L: i" f4 g0 x9 y* W' Q6 n伝」に出ている。9 X! t  [, a0 p5 W5 G% ?* {3 [# P9 J
 7 U% r2 |5 p2 X: f. C$ ?2 P+ R
 5 t# u& b/ w8 G: G" R( g
 梁の到漑は字は茂灌といい、謹直で聡明、学に秀でて高祖の信任が厚& X  X0 t+ n3 @. a
かった。鏡という息子があったが早世して、孫のジンが後をつぎ、やは8 g  f+ A; g' ?, c5 o$ z  ?
り聡明で高祖のお気に入りであった。
! A, s: ~1 u- |$ _/ B  w 
' y% h/ h# l( c& Q# C) E, b ある時ジンが高祖に従って京口(江蘇省鎮江県)の北願楼に登り、詩を* b' `: T7 D7 C2 N# p: f+ K9 L
賦すよう命ぜられて直ちにたてまつったところ、高祖はそれを見て、漑( f3 x4 \8 ~  P% N6 K% ^1 b- g
に示し、* S2 J& F9 e% W* i6 m2 z& `, b
 
- H6 D1 I4 h; U' w" ^1 C 「ジンはなかなかの才子だ。1 f0 S, n  Y% [; y& N
  そこで思うのだが、
& R% c3 L* u8 M- q+ R  x  おまえのいままでの文章は、/ y4 a- F+ i/ P5 R, W; h# G/ ?0 F
  どうもジンの手を借りているのじゃないかね。」5 O1 x6 ^" f! c' a. d
 5 }- o* z1 E* c$ [
 といって、漑につぎのような文章を賜わった。+ o, e2 a# z$ {# b$ n2 h7 @6 i  Z
 
5 L! W6 W9 B, `- m! q; E- K 「研に墨を磨りて文を騰え、' {/ ?  j# n- |& ?) X- \
  筆は毫を飛ばせて信を書するも、
8 z/ X; a7 x$ b! Z' \  飛蛾の火に赴くが如くして、
2 Y# ~* Z' Z. Z8 a  あに身を焚くをトドむべけんや。
0 k; h7 ]3 O, @( U+ k; E) g- `+ c  必ず耄年にそれ已に及ぶ。
  i% c; d5 K! i7 ^* w. e. L9 |. x% _  まことにこれを少ジンに仮せ。」" b/ d+ w$ n9 h+ f' y) e) O% g
             (これが「飛んで火に入る夏の虫」の出所)
/ O2 y$ g! Q7 L+ M% Y! {# ]4 B  H ! j; ^% Q! d, ]: c
 おまえももうすっかり老人になった。いくら苦心して名文を作ったと
. A, S1 I5 B0 g( c3 L* m# Eころで、自分の損になるばかりだ。もうかわいい孫に名をゆずってやり" L$ n6 U5 ]! U- h
なさい、とでもいうところである。
+ S$ L+ G( v1 _5 K5 `. B) ~   `5 j+ S2 r1 N/ b) g5 {: M
 + e. D9 d( v0 s( S$ w/ c; e8 g
 漑が湘東王の繹に仕えていたころ、高祖は王に言ったものである。
2 {; S- C- O: u7 x) m7 U* n  T: j 3 O5 l, J  L& m8 R0 `0 w% e: E5 ]
 「漑はおまえに仕えているような人物ではない。
' t: E8 @6 U" G: R; Z& X  おまえの先生なんだ。
9 h5 i9 M# q  H6 X! ^1 ~  なにかの時はいつもきっと相談しなさいよ。」5 a% p$ u4 M, o9 [. _, U
 0 {' o1 d. E. ^9 p5 A( j" A0 t0 S
 だいたい、漑は身の丈は八尺もあり、威風堂々として挙措も端正であ
' E& O" i6 k9 u3 {% a' q0 gった。それに清廉潔白で事にのぞみ、みずから修業につとめて倹約をむ
& O7 P" u1 s$ cねとしていた。室はがらんとしてこしかけが一つきり、侍女もおくわけ
, Q4 D* @- s, g/ }0 _ではなく、賜わった車服以外はきらびやかにすることなく、かぶり物、
- p+ A& \6 m) m/ S' a" ]履き物は十年に一ぺんかえるきり、出仕の服でもつぎが当ててあり、天& q2 I( d! S* t/ H; E
子出御のための通行止めにひっかかると、朝官のしるしを見せるといっ
- ]9 s# p7 R. T* g" p( T7 w" ?: \; p5 l! rたぐあいであった。
7 }  W8 O' r5 v& W( Y. ] 7 b. w( _) l  m: U
 高祖は漑が特にお気に入りで、いつも将棊の相手をさせ、日暮れから
; b% z8 L: D4 I9 P暁け方に及ぶこともまれでなかった。漑の家の庭の築山に変った石があ
5 p- ~& X& H$ A4 |1 @ったので、高祖はたわむれにこの石と『礼記』一部とを賭けさせたとこ7 m6 n, r" T% c# E9 m- u
ろ、漑がすっかり負けてしまったが、一向に差し上げない。そこで帝は+ }2 i2 A" e% ~: N! `& ]
賭けたものを早くもってくるようにと漑に催促した。漑は、陛下にお仕
& M" _( _5 c7 s$ Y! ?7 Sえ申し上げている身が、何で礼(礼記とかけていった)を失うことができ9 T2 z9 f3 {2 J8 B5 _3 d
ましょう、とこたえたので、帝も大笑いしたというのである。
" v* ^- o+ M2 S  T5 z3 Z# h$ y9 `; w / a. N6 \# |# z( s
 漑の一家はみなむつまじく、特に漑と弟の洽とは仲がよくて、はじめ: U& w1 f' n+ R( U# }0 Z. U7 ^
のころいつも一緒にいた部屋を、洽がなくなると寺へ寄進し、自分は終
. O2 i4 H  r4 _: K身なまぐさをとらず、朝夕僧をよんで供養したといわれている。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 17:43:37 | 显示全部楼层
虎を画きて成らず反りて狗に類す

' k5 q1 j+ s3 M+ m0 F& A: k
% w  K) ?6 @, ?9 S/ b後漢の建武十六年、伏波将軍馬援は兵一万余兵をひきいて交趾(イン
8 F+ v8 I+ d! i$ y2 s# E$ Bドシナの東京・河内地方)に南下した。徴側・徴弍という強力無双の姉# c# o. q/ q' E  L; G& N
妹が漢の植民政策に叛旗をひるがえし、城をぬくこと六十五、勢いはさ
* \5 Z: W9 k' Y% }+ |& |& A# A( @かんで徴側は王と称していた。馬援はこののち三年ごし叛乱軍と苦戦す3 u  \! D6 u  n3 _6 ^
ることになる。- Y# R6 f& y" X( U/ \' M
 
6 J/ V  x5 S! q1 d この馬援が交趾から都におくった手紙がある。兄の子馬厳・馬敦にあ
1 W" S0 W3 _2 ?( oてて、二人が遊侠の風をこのむというのをいましめたものだ。人の過失  L$ X# W; Q, `
を聞くのはよいが自分から言いたててはならぬ、国政を軽々しく批評し
* Y5 I; ]6 C  D$ {てはならぬ、といってから、馬援はこう書いている。1 {* ]: Z* Y6 s# d' V
 : r  {; _* l& S; e5 J
「竜伯高はその人となり重厚かつ慎重、また謙遜で節倹である。わた
0 n! ?$ i' L* y9 `9 y8 ~ しは彼を愛し、重んじ、そしておまえたちに彼を見ならってほしい: F7 I) A- u- f; B6 K
 と思っている。杜季良は豪快で義侠にとみ、人の憂いを憂え、人の
: q+ x! x" h$ s 楽しみを楽しむ。それゆえ彼の父が死んだときは、数郡の人があげ
; S4 i) R, K% s6 O8 m9 a て来り、弔ったほどである。わたしは彼を愛し、重んずる。だがお3 J! R4 g1 x3 j, e$ v8 f: D% v* s
 まえたちに見ならってほしくはない。竜伯高に見ならえば、そこま
3 I/ ]# L( V. Y; B& w ではいかなくても、少くとも謹直の士にはなろう。いわゆる、鵠を
7 ^; |$ Z, e( _) Q6 K 刻もうとして成らずとも、なお鶩には似るたぐいだ。だが、杜季良+ b1 G& c+ p# z  p9 j! Y. B3 E
 のまねをして、そのとおりにならなかったなら、ただ軽薄の才子に
3 G" L% W- K  u" t* w" P0 r0 b$ {& ] おわるだけだろう。いわゆる、虎を画いて成らず、かえって狗に似; r5 A  s# Y7 P' a
 てしまうたぐいだ。心してほしい。」     (「後漢書」馬援伝)5 n6 x1 @$ h1 G( g/ N( e
 1 B# C  m0 e1 s* b+ W
 
$ E! x5 s& Q4 H9 z# J4 W 物ごとを学んでやりそこなうことや、素質のないものがすぐれた人の
0 J  D3 H# Q4 m3 Kまねをして軽薄にふるまうことを、「虎を画きて……」と言いならわす
* M2 D) E1 f/ x' U* b. Hのは、ここから出ている。そして馬援のこの言は、たしかに彼自身の体
9 L( e! u  |, I3 |( r験からにじみでたもののようである。彼は郡の巡察官であった若いころ) c0 \# D6 I3 G+ S1 n" G
に、囚人護送を命じられたが、哀れんでこれを解き放ち、じぶんは北に. C- a3 H% @" [8 p! `  z( Z
亡命した。やがて北方の地でおおくの客をあつめ、家畜数千頭、米穀数8 \, n+ @- E6 e0 f
万斛をもつ身になったころ、財を貧人に散ぜざればただ守銭奴のみ、と0 X9 U+ [, H3 u8 ?  Q3 J8 `8 O0 u! A
いってことごとくの財を人にわけ、西方に奔って動乱の天下にとびこん
5 H2 {9 y( d+ G) N& c( V# mだ。隗囂につかえ、のち劉秀につかえる。こうしてみずから豪傑の風を9 ~& k$ Z( J, ~# X9 E
知る彼が、豪傑の猿まねをむしろにがにがしく思ったのは、自然のこと
0 D+ _" Q% [) P. ^- `# Oでもあろう。彼はその弊を目で見ていたのだ。だが、この手紙は、それ
* I9 c$ h6 b6 M2 k. Cぞれにどんな役割をはたしただろう。
3 A9 T2 l/ i) p 
* a. h, i; b5 j7 K* O. a 馬厳はその後を謹直な、しかし事にあたって節をまげない人としてす
) J# w: A1 |$ B) L/ `ごし、八十をこえる一生を終っている。馬敦もほぼ同様である。二人と
9 Y- C# K" K" S; v6 l5 E6 W: Zも狗に類しはしなかったようだ。だがこの手紙は思いもかけぬことを馬5 A* ^7 U* N; |6 u7 s$ b, P5 d  v1 U
援にもたらしている。杜季良は、この手紙を材料にして人にそしられ、) d% x. ?) O* U" g/ D; i+ F" U
本官を免ぜられた。そのとき光武帝(劉秀)の婿である梁松も、季良と親
5 y: V& D5 A, J& \8 F( _6 p) X, `  cしかったためにあやうく連座しかけ、そのためひどく馬援をうらむよう3 X% ?+ z/ z  q5 r6 Q3 h, o
になった。そして建武二十四年のことである。馬援はいまの湖南省にい; D4 a; f2 [0 u5 A3 f
た武陵蛮を討つために遠征し、戦い敗れたまま、軍中で死んだ。このと4 A* t9 E0 _: r5 P0 y
き梁松は光武帝に馬援のことをあしざまにいい、ために馬援は、死んで2 y9 o- j' v. W
から印綬をとりあげられるうき目にあうのである。一つの手紙も、さま
+ Y' H9 b3 V: _; x/ R3 B6 C% }4 `( gざまな波紋をくりひろげた。
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发表于 2005-6-20 17:49:11 | 显示全部楼层
太厲害暸~~~~~~~~~~
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 楼主| 发表于 2005-6-20 18:02:57 | 显示全部楼层
虎の威を借る狐
1 p& R# l$ s) o: k9 @4 q# W
6 n1 ~' A) e0 h
「いいえ、王様、- `4 t, F- Y! S! e9 @# V" {
  北の国々がなんで一宰相の昭奚恤などを恐れまするものか。) A. @/ E& H2 u( [5 w
  まず、お聞きくだされませ。
1 Z5 m9 b5 x% m, @+ f/ H! P# H* ?& h ( I- C' D7 x1 n) p
  もとより虎は百獣の王、. Z  W* f' N" |/ V# _
  ほかの獣を見れば、- g, V' @, Y- G2 r- @
  ただちに取ってこれを食らいます。
0 [% x# w3 a% z  f4 O7 f! C% Y  あるとき、この虎が狐をひっとらえたと思しめせ。
( g4 v# l1 n, }6 x4 G- f$ z  とそのとき狐が申しましたそうな。/ [5 Y, `0 q- g' A& v6 G
  天帝はこの狐をば百獣の長と定められている、6 {: P  ~0 a3 L2 W0 z
  よって、もしこのわしを取って食らうなら、* x; X5 k- w$ h, {# Q7 t
  天帝の命にそむくものよ。: C: ~. H( h0 h. J# D
  もしおぬしがそれを信じぬなら、. C4 ]4 N" O+ {! A! B# v, H3 \* U0 G
  まあわしのあとについて来られい、8 ^4 `6 t% O( b5 y
  わしの姿を見て逃げ出さぬ獣は一匹もないぞ。# o0 v# Z: Z* \6 h' @
  それを見れば得心がいこうよ……
7 N+ A. ~+ `$ m; ?- q8 R  _# j  と申しましたげな、9 x" n8 f. J# g+ W" w
  なるほど道理じゃ、と虎は思いました。* F; u! o. @: H  a4 @3 T
 
% U5 m# v. j5 R! D( `  さて、狐が先にたち、- r. y5 ?8 U/ U  z
  虎はそのあとについてまいりました。
, i1 w! J% M( H5 W+ `/ N  g  一匹の獣に出あいまする。
( T. Y  Q( u7 l' r$ k5 g  そやつはとんで逃げました。
2 N( p6 v# x0 ]1 v" i3 u& O  つぎの一匹、これもふるえあがって逃げだす。, v- j+ l0 U+ v9 i( _
  ……はて、なるほど狐をおそれて逃げるわい、* i2 z8 Q( w  `4 J, h
  と虎は思いこんだそうでござります。6 S% ]6 S, u! v& b" a9 ?3 e. ]
  その実、獣どもをおそれ走らせたのは、8 `- f2 T: O( z1 O0 p% V% H
  狐の後ろにいる虎の姿であったのでござりまするがな。$ @7 w5 V6 o1 ]+ R& Z
 5 j1 }* K8 p5 R0 {$ j, q! [
  さて事はおなじでござりまする。# E# v7 a+ A3 @% }8 T# h
  北の国々が、
5 Q$ K# y# O- u8 k: I$ E5 t' ]  なんで昭奚恤ずれを恐れまするものか。6 z& Y7 |$ O) d- U2 u( j  m% |/ d3 ?  e
  恐れますのは、
" |0 Q! F8 m5 {& |) ~) G4 V$ _  その背後にある楚国の軍勢、# }  B' o' C' i0 i* ]3 w
  すなわちわが君の強兵でございますぞ。」   (「戦国策」楚宣王)& t9 S  b6 ]$ \
 2 L$ O2 C+ _+ ?3 o9 M% Z
 & u7 ]' {6 n: G% J- l. Y6 L* P6 |' ~
 戦国時代のある日のことであった。楚の宣王が群臣にむかって、
8 u9 F$ [/ n- T' S4 n  r 4 r$ ]* s6 A! {9 r: g6 c. Z
 「北方の国々は、
7 x/ ?$ c, g0 @3 h# r4 b  y  わが宰相の昭奚恤を恐れておるかな?」- _5 ]+ C$ J8 r1 s
 , x3 C8 F7 p0 N# R  u& Q
 とたずねたとき、江乙というものが、この答えたという。これが「虎( _; `# o' K* f* a- y" T7 c6 y
の威を借る」とか、「虎の威を借る狐」とかいうことばのはじまりとな
  ^! ^5 U; i8 k! s& C! ^った。小人が権力をかさに着ていばりちらすこと、また、その小人のこ( @. p' ?4 K8 {& g
とを、これらのことばであらわしている。
  K/ p  t: n$ o- @% j) s2 q 
  |: s, y" O4 y& q  m$ c; A ところがである。まだあるのだ。この話だけだと、昭奚恤は君側の侫: g: _3 b7 P3 l- U& K% @
臣で、江乙は厳然たる大忠臣みたいだ。その江乙が問題なのだ。彼はも
& s9 D: `$ @# I" C- ^, S) W! x4 hと魏の国につかえて、魏の使いとして楚にきた男である。それがそのま
6 m& Z7 x! x# L% o4 fま居ついて、楚につかえるようになった。うまいこと取り入って、王の9 Z5 e: Q! @8 c2 Q
側近になったらしいが、そのあいだも、魏と内々で連絡していたけはい9 \3 P# b' b$ M
が濃いのだ。ところがその彼にとって、目の上のこぶになるのがいる。7 a: \. e0 C$ O( s# Y0 x* x) p+ g$ u- M
昭奚恤である。昭家は楚の王族の出で、代々の重臣である。そして昭奚4 d; Q4 N5 `8 J1 N% e
恤は、大岡裁きに似た逸話があるように、ただのお坊ちゃん宰相ではな* j4 M. x& E6 A0 V# Z3 v1 G
いらしい。しかもその奚恤は、江乙が魏に内通しているとにらんでいた
6 G3 e3 r, c# v0 C4 B! z$ V$ Cらしいのだ。これでは、江乙が昭奚恤をじゃまにするのは、まったく当
0 T8 A$ k' Q/ B! l6 t然だろう。
+ J  h1 ]% {% _& m 
0 h* \$ }6 v! g+ n" q$ r 江乙は、やっきになっていた。「戦国策」でもわかるように、彼はな
/ S) y" E4 B( Z( ~, y& A( K2 [んとかして昭奚恤を蹴おとそうと力をつくしている。「虎の威を借る狐3 y, c$ e& g: J9 M7 p# v3 m# U, I
でございます」、「奚恤は魏から賄賂をとりました」、「わたくしを除けも
( u' _8 n9 d6 w  [のにいたします」……あらゆる機会をとらえて、宣王の耳に悪口をつぎ
7 f1 C2 P; V3 k: Kこんでいた。なんのことはない、江乙こそ、「虎の威」を借りたくてウ
( d  f% r3 R# b8 jズウズしていたのだ。この話をしたのも、そのためなのだ。隠すよりあ
! @3 @& @7 M" W( Oらわるるはなし、というものである。0 G7 s3 O4 e/ n$ {. \" a7 A
 
3 X4 p/ i9 G4 {1 j そして、これが戦国というものだろう。一皮むいてみれば、やさしげ
8 ?/ Y0 k8 U1 }2 n- t0 Qな羊の皮の下に、狐がいるか、狼がいるか、虎がいるか、わかったもの
2 P/ P9 ?' s4 J( U; m% a5 i! y% yでない社会、はてはどれが狐で、どれが虎かもわからなくなる世の中…
! `2 O1 a  M) P! W…、いや、これは戦国だけではないかもしれなかった。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 21:48:37 | 显示全部楼层
塗炭の苦しみ
. ~1 P6 R. T: U
( B1 o8 C8 h) _  G' b
妖艶な美女妹喜を溺愛し、「酒池肉林」の淫楽をほしいままにした夏の
" ^# t0 H: r2 L桀王は、殷の紂王とともに、古来、非道亡国の帝王として、桀紂と並び
! w" s( F* ]3 ]) K$ H称されている。この夏の桀王の虐政に叛抗して、兵を挙げ、桀王の大軍* V9 I; v9 f( [* L) K/ ~
を鳴条山に破り、桀王に代って位についたのが、殷の湯王である。
4 F1 j7 j$ y! W8 c6 u5 ^! M0 K 1 Z; h; ]" S% d% x* g4 G1 F4 E. j0 Z
 湯王は、挙兵にあたり、領地亳の群肖颏蓼à摔筏啤⒊鲫嚖问募sを切' N; l% u( B+ ^, c# v/ S  \7 o
々と、つぎのように宣布した。" r% p2 J$ [/ I# t  P
 
9 q+ i$ [" R0 o4 G. M3 n1 A 「来たれ、なんじもろもろよ、
+ U& C4 j; C7 V8 K  ことごとくわが言を聞け、2 u6 O, K7 b6 [5 x
  われは敢えて乱をあぐるにあらず、
3 G& H; }" A- X3 |7 i6 t  夏の罪多くして、
+ V2 h( {( _( r/ L; w9 P& G  天命これを討たしむるなり。」* x; T9 N0 K2 d. `) S$ m6 Z5 b: l2 I
 8 L7 Y' B1 Y( b3 Y% r' M6 q8 p
 この湯王の誓詞は、いま「書経」の「湯誓篇」としてのこされている; l( S7 A2 \: q$ m0 u" O
が、さらに、桀王と戦って大勝し、亳に凱旋したとき、湯王は、ふたた
; s, b/ o4 l. W) @+ Q! H  mび諸侯にたいし、桀王の無道を攻撃して、
4 u3 i6 J' d$ W8 q  K0 d: ~ 6 Q! U( F  ^+ x
 「夏王、
& |4 a& N+ d% x4 a9 _* R9 S+ h! w  徳を滅し、
) H5 N  E1 W* R6 i) ~  W# t" ?  e  暴威を逞しくし、- X9 {% b. h, Q' }3 t  {
  なんじら万邦に百姓にたいし虐政を加えたり。' i! w- f. N2 B& t7 X; q) ~$ ?
  なんじら万邦の百姓、
! B0 Q: K0 c' K4 V  M  その凶害を蒙りて、
% |1 \5 Y3 S  Q! w& e8 E  荼毒の苦しみに堪ええず、$ I/ f: r0 \$ D6 X
  無辜の苦しみを上下の神祗に告ぐ。
$ Q# X" r. Y; o) X: E$ u  天道はつねに善に福いし、
4 j8 N" y- R- c% _4 C  淫に禍いす。
! Q( C+ P" R8 |1 {  z8 V+ w  天は災いを夏に降し、2 I; L; f1 \8 X1 R0 S
  もってその罪を彰らかにせり。」        (「書経」湯誥篇)
7 K5 }) e2 j9 } 
. y, M. u/ j8 U. H3 I と言葉はげしく桀の罪をならし、天命が夏を去り、殷に下ったことの
0 u* o4 o0 l1 A0 p" l. h- \# ~正当性を証明しようとした。桀王の悪虐を非難した言葉は、このほか、
2 j6 |2 M1 N: V  r# f古典に数多くみられるが、同じ「書経」の「仲キ之誥」(仲キは湯王の臣1 _$ t1 l3 p6 o9 b0 X& n. a
下で、仲キが湯王に告げ、また広く民肖烁妞菠垦匀~だという。)では、
8 c+ j, L3 W& C8 R5 ?& O0 ] 7 E& G# v0 j5 f6 k& t- F- [# Y* W% t
 「有夏昏徳し、民塗炭に墜つ」& @# x: I& _! u2 K3 ?2 E
 
2 B6 f* i. k* w0 r; m といった。
; z% l" P' W" Q, {4 w+ r( ?5 G 
& g6 Z1 A5 S. e8 z7 X3 o 桀王の不徳・悪虐の行為によって民のうけた異常な苦難を、ここでは
* S9 i5 Y  ^- f4 P8 l2 l一言で、「民塗炭に墜つ」といったのである。これが、今は「塗炭の苦
5 f/ ^" ]* b4 f/ Vしみ」という言葉の語源とされているものである。, y2 I" {6 J# r% X
 6 E9 L* e" H  ^0 y# `  ^
 5 o7 m2 a# C) M0 J8 L
 民が塗炭の苦しみにあえいだのは、たんに桀王の時ばかりではない。$ M0 z3 R. h6 e: ^+ h' h
殷の紂王や、古来の多くの帝王の時代にもそうであった。極言すれば、
! }( g9 Z* d' |6 g2 `有史以来、数千年の歴史は、絶えず民肖螇T炭の苦しみの繰り返しであ
3 ^3 _: B- b6 x9 H' Eったとさえいえよう。されば、「書経」に最初にみられる「塗炭」の言% C4 e: t; u! \# p6 a. ?: j
葉は、その後、中国の史書だけでなく日本の文献にも、頻繁に使われて. I0 r0 ]! f1 |7 x5 v: q
きた。たとえば、「太平記」の資朝・俊基、関東下向のくだりは、& T6 Z2 V5 }% m- \: Y
 
7 @7 U( [  ~2 Q4 o3 \5 r6 y, \7 U 「時澆季に及んで道塗炭に落ちぬといへども」
% [' U$ W. H. z0 Q/ D 
2 V5 Z  g$ T" R と、混乱した末世の苦悩をえがいている。2 C" g6 @$ E, h, d* J  A$ U
 - i/ k4 S. n; O( L
 
- z  h1 p& g% S8 u, b" y 塗炭の塗とは泥水のこと、炭とは炭火のこと、塗炭の苦しみとは、あ
7 k; P+ Q- {1 `  |1 aたかも泥水や炭火のなかにおとしいれられたような水火の苦しみという+ i0 h" h# E' @5 x% ~# K
意味である。また、塗炭の苦しみを塗地の苦しみともいう。塗炭苦しみ0 ~, k0 t1 ?8 |0 E  N
から解放されたいという人々の願いが、多くの文献に塗炭の文字をのこ0 @+ A- A# Y' B. g
しているといえるのではないか。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 21:49:16 | 显示全部楼层
独眼竜
, ?: J! ]+ B; T) s5 n. ?% c, S

0 O9 _5 L/ Z& e: z& ?唐の懿宗の末年、山東・河南の地方は大水害に見舞われたが、翌、僖4 W4 i  A9 C# s  m1 M) q  Z
宗の乾符元年には、同じこの地方が、前年とはうって変わって大旱害に& U0 Z5 k7 y) _$ Q( W
襲われる不幸があった。しかるに州県の税の取り立てはきびしく、農民
/ b- ?: x: K4 E% _# ~3 Vたちはやむなくその妻を売り、子を売って、僅かに苛税に堪えていた。
, r! h2 L3 I- g- uだがしかしこれとても限界があった。
9 `0 G! w* i/ Q1 ^5 w3 [" F 
0 X; d8 n. |2 n) p4 I 山東の一角に燃え上がった農民起義の火は、ついに曹州の出身、一代# h7 G: R9 C) `6 O) N% e/ P
の風雲児黄巣を蹶起させた。黄巣はそれにより早くすでに乱を起こして( T+ M2 @  g6 q# u5 E1 F
いた。同じく山東の王仙芝と手を握り、各地を転掠するごとに来り投ず# j& d' v* ?4 G! j9 I4 H
る者たちを呑み、急速にその兵力を増強していった。やがて兵数十万を/ E8 v6 M: N- M6 ]
称するに至った巣は、広明元年十一月、洛陽を抜いて、怒濤の進撃を続
/ L- n5 k' k3 S" U& ]  tけ、ついに唐の都長安を陥れ、忻瘠螝Z呼のうちに長安に入城し、自ら0 z$ F6 C2 [' K
斉帝と号し、大斉国を樹てた。; k. I3 Y$ i- F  ^
 , U3 B2 t' \- A! G
 しかし一方、興元(陝西省)から成都(四川省)へと乱を避けていた僖宗
" A' o5 t3 }% u) B% f2 A! _( ^の側にも着々と反撃の態勢は進んでいた。すなわち唐軍の猛将李克用の
% B. M5 y; \, J- K9 q1 Q登場である。克用は突厥の沙陀部出身で、胡地にひそんでいたが、黄巣
6 g& r' z, A% R- T5 [' ~6 G# Q討伐に起用され、四万の兵を率いて河中(山西省)に進んだ。この克用は
" s% P+ F, t9 F3 j1 S3 R6 L一方の眼が眇であったため「独眼竜」といわれた。) c. [8 f, j% g6 Y
 
3 j2 z( E& o# V% U4 e 
: {3 G* |# F5 ~4 Z1 u「李克用少なくして驍勇、軍中号して李ア児という。其の一目眇なり。
, Y/ X2 `7 k; j# s% ^/ x 其の貴となるに及ぶやまた独眼竜と号す」     (「五代史」唐記)
  v+ E5 H/ Z5 t9 e* q; G/ l% d 4 p; {1 H- a& @: J9 a
 また1 G# C* Q& c# T1 {( ^
 
( Y( O, L7 ]' s# q) N8 c" R+ O. J「僖宗の時黄巣叛を造す。李克用之を破る。時人其の一目眇にして勇有
4 b3 \: w9 N! [, h るをもって《独眼竜》と号す」             (「唐書」)
0 a+ E6 G7 C6 B# ^: L$ F5 u7 d! j   \& D/ y) j# \6 O: r3 i3 `& z/ {% }* o
 とあるのをみても、相当の畏怖と尊敬の念をもってこう呼んでいたわ, I! {8 l1 |3 J1 [- l
けである。) R. |) z3 \6 x8 S2 |! ^
 
" P; d+ V# Q% D) h7 F( ~! b   g+ K; S0 p" o8 |
 さてこの独眼竜・李克用の軍はすべて全身に陇蚶pっていたので、# b4 D3 y* X) F
巣軍はそのすさまじい進撃に「鴉軍来る!」といって恐れおののいたと
# f/ W% o: }& @9 }# c: |, W2 R" yいう。しかし衰えたりとはいえ、未だに猛威を振るう巣軍は、山東・河
- E, N, ~% l; m6 h5 E  `5 E内方面の唐軍を席捲しているので、克用は五万の兵を発して自ら唐軍の9 H1 l" Z9 d5 [$ E4 b  n0 F( \3 {
統帥として山東に入り、黄河を越える巣軍に一大鉄槌を加え、ついに瑕
9 ]' K, t3 u6 p2 H丘(山東省滋陽県)で決定的に巣軍を潰走させた。ここにさしもの起義軍! z: b3 W4 F. X/ ^2 ^$ y! ^+ G
も伐ち果され、黄巣もまた敗死してしまった。
2 T9 |" v7 s2 ]$ Y 1 v0 ]: K4 S$ p( i0 {8 s" i
 克用は、その功により隴西(甘粛)郡王に封ぜられたが、巣軍の起義に
. F* V# t# s: Z" |5 Vよりまったくその威令を失った唐朝である、克用と仇怨啻ならぬ朱全忠- }& {% X$ s% m2 C2 U3 K# R
(名は温。はじめ巣軍に投じ、勢い傾くや朝に帰順す)との両虎は、朝政
8 _( J7 @) |" y( {% \7 d0 ^の実権をめぐって激しく対立したが、やがて朝政は全忠の専らにすると5 Z  c6 x& O1 S* O$ W7 l" B
ころとなり、全忠が哀帝の位を奪って自ら帝位につき、国号を梁と号す6 S8 P" _9 z0 }, F2 w$ U9 E  F% D
るのだが、独眼竜・克用は失意のうちに世を去った。
: C  L0 c- w3 U, H  g 0 W3 t5 D4 c; k! n
 
. ~* R2 j! C% s: v. d$ t6 @「独眼竜」は隻眼で勇ある人、転じて隻眼高徳の人をもこう称するが、/ b% P2 `& X6 w' y/ A) u
わが国では伊達政宗の独眼竜が有名である。: W2 L3 E. T6 ~7 g2 k' n+ p
 / L( U! J( S  T2 }, z
(なお全忠の樹てた後梁は、克用の子存勗が倒し、後唐を樹てた。)
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 楼主| 发表于 2005-6-20 21:49:49 | 显示全部楼层
蟷螂の斧

% ~$ h* o' y$ U* O. }; N
$ W- z- I; G3 R8 ^2 G6 L' E' o" n  ?" m蟷螂が獲物を狙うときに前の両足を頭上にかざす姿が、斧を振るうの
; _( y1 v, n3 {に似ている。虫の世界ではその斧は大きな脅威ともなろうが、いくら蟷
! w) i5 _1 }1 U  j! a螂の向う気が強くとも、これしきの斧をもってしては、小虫以外の、も
7 c% ]# `0 @% a% C) t5 I6 M$ Nっと大きな相手に対してはまったく威力のあろうはずがない。即ち、
/ [4 C0 P9 A2 [. N3 Y* f「蟷螂の斧」とは、弱者が自分の分や力をわきまえないで、ただ気ばか( I: @$ P& a: ^4 `. t; e
り壮にして大敵に当ったり、盲進したりするのことをいうのであるが、
6 y/ m& H3 Q4 d0 q' P「文選」には陳琳(孔璋、三国時代の人)が、《曹操すでに徳を失い依る
0 `+ L( J; \& {  G% M+ bに足らず故、袁紹に帰すべし》という趣旨を劉備らに書き送った檄の中/ c+ q9 G& t& W7 J
に、曹操軍の劣弱な様を諷して「蟷螂の斧を以て隆車(大車)の隧(轍)を; |, i. W3 y' P. |7 p: h
禦がんと欲す。」といっている。
- F7 }" _+ d' _4 K/ A8 K4 z9 [- P 
4 ~& r8 s8 R6 m また、「荘子」の「天地篇」には「猶お蟷螂の臂を怒らして、以て車
' n; W! A5 s; j1 k+ D5 h* B; x, P/ Q轍に当るがごとき、即ち必ず任に勝えざるなり。」と見える。; y( j4 n& ?+ o; p% A& V
 
7 S% r3 B1 U, i また「韓詩外伝」には次のような話がある。0 {  Q: R1 U$ x, d( T, D! W
 
6 R% k  y2 @" ?# M- n2 g1 Y 或る時、斉の荘公が猟に出たが、一匹の蟷螂が、あわや踏みつぶされ
+ h& q# M: W7 Aそうになりながら、その両足を振るって荘公の車を撃とうとした。いち
5 {. x& p: L% F" K4 T( x- C早くそれを眼にとめた荘公は、* X! U% Z+ Y0 U. f
 
0 q- ?8 m6 `; e( h 「ほほう、元気な奴じゃ、これは何という虫かな?」2 J: b. ]# x. Q* h
 ( h0 Z+ C* _) q8 z' T- x
 と左右の者に訊ねた。
, E+ z5 ^- d, f$ S) x+ ^ + i; M# Y1 |2 C, z( K8 W, I) ]; ^
 荘公の御者が答えた。8 f! ]- X; ]% y, v
 
" c6 c3 M; y1 L5 x! X( {* o3 d. w 「これはカマキリという虫でございますが、
, @: `; F5 H' u1 I  この虫は進むことしか知らなくて、
7 b6 ~0 g  P4 Y# }" L$ I1 \2 f3 `  一向に退くことを知りませんし、- ?# S/ x) `9 C6 O( Y" q
  自分の力のほども弁えずに、
1 p2 u4 `) E% A2 h8 }6 c; b  一途に敵に当る奴めでございます。」7 v7 [2 \% d: w7 T/ R3 J
 * e* ^7 ]4 C0 P+ u' H) |' L3 F
 荘公はこの言葉を聞いて、# A: p& n) m$ @* K! q2 E  Q) Y
 8 ]6 G) m. s9 F8 w$ T# j
 「この虫がもし人間であったとすれば、1 Q$ }1 ]: i% G; a/ H- k
  それは必ず天下に並びなき勇士であったろう。」7 S( K/ o& |9 B6 i
 
; ]8 X  m, [+ ]; Z2 x, d+ F といって車を戻させ、わざわざ蟷螂を避けて進んだという。9 }# f" x0 b* n  W' e' |3 h, a( o
 
- Y8 [. c9 W; A- C! u 
( i  t6 F4 n' I- Y なお「蟷螂の衛」という類語は、大敵に対する微弱な兵備のことを指
5 b0 b2 \' s2 ?. \- ~す。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 21:51:08 | 显示全部楼层
登竜門
$ k1 i' |2 q6 R! z, m

: t# @! M) J3 Q, @: o 後漢もすでに終わりに近い桓帝のころである。《跋扈将軍》と異名を' F' w" m5 x+ }. c! G  D- e5 W3 M
とった横暴な外威梁冀が誅に伏し、代って單超らいわゆる《五邪》の宦
. N, e' [9 m/ S: h官が暴虐をほしいままにしはじめたとき、一部の正義派官僚たちはこれ; n8 `1 `8 c8 }# I6 [$ V# N+ X2 A
に対して果敢な抗争を展開し、ついにいわゆる《党錮の禍い》とよばれ
+ i9 _1 j( t, b) mる大規模な弾圧をもひきおこすのであるが、この抗争の中心となり、正
1 W4 K7 P6 H8 `2 L  C義派官僚中の領袖と目された人物に李膺という人があった。
4 X7 J9 R2 y3 {* y* N* | / d% @& q6 L, g- p0 f
 李膺は字を元礼といい、潁川襄城(河南省中部、今も同名)の人。は2 t& s" I% C; P$ q4 Z3 F1 K
じめ同郷の名儒筍淑に学び、官途に就いては青州の刺史から、漁陽・蜀
' m1 ?* F8 b: K& h$ Z郡の太守を歴任し、また、烏桓校尉・度遼将軍などの軍職も勤めて令名9 j* s( v1 k4 p$ D' v. m
あり、ついで河南の尹に遷って宦官の忌諱に触れ、一時は獄にも下った/ A8 p6 h; F# {! o' d$ ?1 c# A
が、のち先輩陳蕃の推薦によって司隷校尉(警視総監)となった。時に宮$ L% ^# R4 Q5 i/ ?$ j
廷は宦官の跋扈によって綱紀頽廃の風が著しかったが、李膺はひとり名
7 U( L) c7 z" T6 T8 M教の護持者を以て自ら任じ、厳然と節操を保ったので、名声いよいよあ
" f" V+ M. l7 F% N( u$ ]がり、大学の青年学生たちは、彼を敬慕して「天下の模楷は李元礼」と: ]0 U4 A% W8 R5 B
評判し、新進の官僚士人たちも彼の知遇・推輓を受けることを非常な名' h) A5 _' ?# W; A
誉として、これを《登竜門》と称した。      (「後漢書」李膺伝)
. o9 G- `$ y, ?* F $ u2 u3 m; v/ _$ J) u) j0 r* p
 
: ^; i% r, }) x6 X) \3 y; F; e 竜門は黄河の上流にある峡谷の名で、一名を河津ともいう。このあた
0 R8 J  W7 A- g! y2 w$ bり非常な急湍で、流れを遡る大魚も容易にはこれを仱辘欷胜ぁ¥窑萛
9 s8 V  _8 ~. d" s: ~たびこれを仱辘欷恤~たちまち竜に化すると伝えられたところ。従っ- ^, q5 Z. V2 R3 L7 v
て《登竜門》――竜門に登る、とは非常な難関を突破して躍進の機会を
* g* ^" m/ o' M$ L( t得ることを意味するのである。8 e, o; e. y- b: o! J- h+ ]
 & b. e7 N, v* r  R8 z3 x( B3 v
 李膺の門に集まり来った新進官僚たちの場合は、天下の名流に伍して
# i% O; C5 Z1 M正義の政治に身を献げ得るという純真な動機の感激が、このことばを生
( F: A/ {; r+ aんだのに違いない。しかしもっと俗めかして言えば、すべて出世街道の
$ E& h1 j. u/ E$ {* [いとぐちを掴むことが《登竜門》である。中国ではことに「進士」(高等$ t$ ^* R3 k" l
文官)の試験に合格することが、立身出世の第一歩という意味で《登竜0 i! d6 q) s; ^% ~5 |9 d" F
門》とよばれた。日本でもかつての高等文官試験はこうであったが、官
# y2 A3 `+ m3 {. \4 X8 [僚の権威地に堕ちた今日では《公務員試験》を《登竜門》になぞらえて' q) Q7 z" P4 p. Z0 H  [
感激する人はあまりあるまい。それでも予備校あたりで、大学入試の難( w3 j+ X' G6 X5 \+ B% M4 g, u# _
関突破を《登竜門》と呼ぶのはその名残ともいえよう。( p- v' U5 i8 Q7 S3 r
 
/ T0 }- I1 k$ j 
5 W8 S1 i# O; p) a なお《登竜門》の反対を意味することばに《点額》というのがある。
1 `1 |  z4 }3 ?! n. U; Q0 z* h& }  z, V額はおでこ・ひたいであり、点は傷つけるの意。竜門を登ろうとして急, ]: X- o) N! k9 s
流に挑んだ魚どもが、水勢にうちまけ、あたりの岩角に額をぶちつけ、
# e3 r- S& ?6 c' Dふらふらになってまた下流に転落すること、つまり出世競争の敗北者、/ s3 w' C  t1 l  i/ ?8 \
落第坊主の謂である。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 21:51:33 | 显示全部楼层
桃李言わざれど下自ら蹊を成す

* t: L7 d8 ~, m9 j  r4 j5 E/ J0 n1 A
さしも強盛を誇った漢帝国も、いつまでもその武威が衰なかったわけ
; n7 f) H' H0 nではない。ことに北方の騎馬民族の匈奴の存在は、悩みの種だった。高) w% ^: d6 S2 T
祖にしてからが、多額の貢物を納め皇女をおくって匈奴王の妻の一人に: R% i1 a+ z- p) G  ^7 y
するという甚だ不名誉な講和条約を結んでいるくらいだから、歴代の皇8 G" f9 T- F( Z* x- f: f5 l( g
帝や政府の首脳部の苦労のほども察せられよう。6 `2 e9 _4 @) L3 u8 K1 o9 a
 
+ M6 x+ A8 M  S; y" A* f さて四代目の文帝の時に、甘粛省の隴西に李広という勇将があった。
7 I# w4 D+ b+ G例の「猿臂」の豪傑である。この李広将軍のたてた手柄は数多くあるが、
1 o. B! _, o+ W$ ]景帝の時代の次のエピソードは有名だ。匈奴の勢力圏深く、百騎ばかり( |- ~1 B& ~) ~2 }/ F
の精鋭を選って奇襲攻撃を試みた時のことである。目ざす敵は倒したも
7 N' I9 _0 b. G( w$ dのの、知らぬ間に遠巻きに敵の大部隊が近づき、たちまち戦闘態勢に移
. m6 ^# N; O* Q+ z! e( Kりはじめた。味方の軍が浮足立ち、算を乱して逃げようとした時に、立; X- l" b* E# y
ちふさがった李広は、: P" l3 v+ b# \, b8 ~0 o
 
) D6 Y' x4 Q) C" B- I1 ^" O 「落着け、0 v+ z# l" X$ r& P8 T+ N
  下手に逃げては、匈奴の好餌になるだけだ。4 q% D% M6 S2 }0 I1 b
  踏み止まってこそ、生きる道がある。
0 W& M2 O& C# ^  落着くのだ。
* b+ n* D- [. l# r8 N  そして誘いの部隊だとおもいこませることが大切だ。」
, X* w( X1 j* ]1 L, T9 g . g+ `! w5 F6 ~" A
 信頼する将軍の理にかなった、死中に活を求めるこの言葉に一同は安* x1 L( h# o' b# ]/ N
んじて従った。李広は逃げるどころか馬首をめぐらして敵に近づき、部
6 O- q$ `2 {. U% e' ~下に命令をくだすのだった。
+ c0 X4 q; t7 \0 K' R 
  Y. F6 M! O, p7 _ 「馬から下りて鞍を解け。」% u+ Z4 `  g" {$ @1 Z) F0 g6 d9 _
 
' k+ A; U9 h' o$ t4 ~: x1 x あまりの大胆不敵な振舞に、匈奴の大軍もすっかり気を呑まれて攻め5 A. \& |7 R. k: E% L% q
寄せてこない。李広将軍のことだから、計略があるのだろう。伏兵に掛
0 L# \* ]8 K/ a# Z) K+ v0 tかってはたまらない。敵のひるむのを見てとった李広は、十数騎の剛の6 J  K( p3 t2 t, ]# a2 l: w
者と共に馬の腹帯をしめなおし、疾風のように匈奴の陣にあらわれ、先- l( S4 a: x6 w* R" q2 n
頭に立って指揮をしていた敵の大将を射殺してしまったのだった。大将; j7 }2 l( J; \$ t' S& s
を討たれておじけづいた大軍を尻目に、一兵も損なわずに李広の一隊は
9 J1 H5 s" P' t% \. V3 n% P戻ってきたのだった。「史記」の「李将軍列伝」の賛に言う。2 W0 _+ G& l$ m' J! H1 i( o
 
' D" a, l( e$ i( C! s3 z 「将軍は口はうまくなかったが、& \; ^! l2 l5 ]5 Q% }; n
  その諏gさは天下に知られていた。5 y: U2 G5 ]7 h2 ^5 d( p6 L: k  f
  桃李言わざれども下自から蹊を成すと世の諺にもあるではないか。」6 s9 V0 t, V  \( v' n
 . Q: i" A* U+ r1 p
  (桃李は、李広の姓の李にも通ずる)
# ]) M- B- A! P$ `' t  (桃や李は何もいわないが、人はその花の美しいのを見に来て、- y" l; g+ ^5 V& U
   下に自然とこみちができる)
, M8 J* C) w! Z2 n& U8 _- q 0 C( w/ m6 o' L2 }4 p9 Z( @
 
9 H3 C1 s/ p( `1 t3 d$ ? ちなみに言う、成蹊学園の校名の出典も、ここにある。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 21:51:56 | 显示全部楼层
道聴塗説
* A" c0 z. B( T; @& k8 X

& U  b3 M5 n5 n( C) x" L「さきの道で聞いたよい言葉(道に聴き)を心に留めて自分の修養のか1 ?' R$ H9 t% ^; L+ }, h8 @
 てともせずに、後の道ですぐほかの人に説いて聞かせる(塗に説く)0 V! U0 M( y  k4 ?# A' Q6 ~: g9 d
 ことは、自分からその徳を捨てるようなものだから、善言はすべて
! T6 G4 ]: P7 g 心によく留め、自己のものとしなければ徳を積むことはできない。」8 Q, V& |7 n$ f9 z/ J
 . F+ {$ X' g7 f7 z; x; v4 B
 孔子は「論語」の「陽貨篇」でこういましめている。
. `% }$ u! l( H7 q. H& V 
, i, z1 v7 O# }' h! Z3 B) p 身を修め、家をととのえ、国を治め、天下を平らげ、天の道を地上に
! a: @' w+ G( n  y' M& |9 G行うことを理想とした孔子は、そのためには人々が厳しく自己を律し、% A% [, ]% a7 D: }3 ?0 Y" j8 L
仁徳を積み、実践して行くことを教えた。そして徳を積むためにはたゆ
, O9 B8 H# Z! Qまぬ努力が必要であることを「論語」でさとしている。
) p% L$ n. N7 z 
$ E* u+ Q2 l8 ]. g 
9 i, G/ R1 k0 T5 l1 F/ c2 G* N/ f 後漢の班固の撰した「漢書」の「芸文志」には、1 c6 D5 l  ~# _: Y
 
# W$ S! h! T2 S# T) D. D「およそ小説というものの起りは、君主が下々の風俗を知るため、小役
; P% a: G' w; |' v# F人に命じてのべさせたことに始まる。つまり町の話や、ちまたのうわさ
" i' @$ u: U. Nは、道に聴いても塗に説くやからが作り出したものだ。」
# J. p7 x# C3 L0 x, a6 m 
9 n3 D# i% Q& L) m+ z7 F と書いてある。小説という言葉はこの意味から、もとは《稗官(小役
: u5 v* x+ w- Z人のこと)小説》といっていたが、のちにただ小説といわれるようにな, l' |1 F3 S4 d
った。
( h8 O/ d: W6 c1 L& _ + ~) _# |. n6 U6 S
 
7 H4 E: V1 F/ l8 _' M また周代の荀子の書いた「荀子」の「勧学篇」には、
. m* ?0 T4 Y: O8 o4 b 6 ^' ~2 w/ H* _$ f2 p
「小人の学問は、耳から入ってすぐ口から抜け、少しも心に留めおくこ% ~9 s5 T( m4 l: d3 J/ Z
とをしない。口と耳との間には、約四寸の距離があるが、こればかりの
) [2 `* z. [" p+ b' W8 H距離で、どうして七尺の身体を美しくするに足りようか。むかし、学問* U1 z- f' ~% S9 G: Z
をした人は自分のためにしたが、いま学ぶ人は、学んだことをすぐ人に$ M4 Z/ N. o7 U! L& S
告げ、自分のためにしようとはしない。君子の学は自分自身を美しくす9 S% z+ p; c  B5 i& l
るのに反し、小人物の学は人間を動物にしてしまう。だから問われもし4 {; I! \0 z2 X
ないことを告げる。これをやかましいといい、一を問われて二を告げる9 |& G. ~5 |) _$ d# N- y3 \
のをおしゃべりという。どちらもよくない。本当の君子は、問われなけ: d. j' o% h' v  {' T* P0 p
れば答えず、問われればそれだけ答える。」
! E& d) u" ~3 p: T% m6 t. e- @' h 
% ^2 `! S( I- p( R$ I- r6 @ として、多言をいましめている。
" O8 S! B: I) V; v! o ' I7 T- E- M$ M
 + P6 J, H% I& E+ f& r, b: q+ c
 いつの世でも、右から聞いたことを、すぐ左へ伝えるおしゃべりや情
2 o2 a0 W+ U/ V* P8 ~! {5 V3 r報通が多い。しかも口から口へ伝わるうちに、だんだん尾ヒレがついて
6 o! u7 c- u; tくる。こんな輩は世のためにならぬと孔子・荀子はいましめている。
2 q9 I' }: J) o4 X! T1 w$ z* } 
) a: D0 l! q/ k! t0 S% _ また、自分の学のあるところをひけらかす者、いわゆる衒学――ペダ
. L& L+ E8 K! R6 F: yントリーも君子としてはつつしむべきだというのである。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 21:52:21 | 显示全部楼层
陶朱猗頓の富

) q$ d6 R0 l  R4 H( h2 ?( V4 J8 r' i
陶朱とは越の名臣范蠡の後年の名である。
7 A( `6 w9 i% H9 ?2 S8 x 
; }3 i; D% q% a2 C0 K/ m 周の敬王の二十六年 B.C.497、越王勾践は、范蠡の諫止をきかず呉王9 z) |+ z5 L  O+ h, j
夫差と夫椒山(江蘇省太湖の西洞庭山)に戦って大敗し、数千の敗残兵を! Y5 }8 Z; [! E$ A# Q! S
ひきいて会稽山(浙江省紹興県の東南)に逃れたが、呉軍に包囲されてい& k1 L1 e0 I- j7 k4 H
かんともすることができなかった。勾践は范蠡の諫言をきかなかったこ
8 o% ^  A) f+ v2 l; m9 ?とを悔い、その助言を求めた。范蠡は、いかなる屈辱にもあまんじて和0 k/ L' N) A& g6 E
を請い、再起をはかることをすすめた。勾践はそれに従って呉に降伏し: ]4 m$ S2 U5 z( `
た。以来、范蠡は勾践をたすけてひたすら国を富ませ兵を強くすること3 ~: y* r  z: L7 S& p$ h- l7 Q
に努め、刻苦二十年の後、ついに呉をほろぼして「会稽の恥」をすすぎ
; v0 V( D* i7 L: Q) X(周の元王の三年 B.C.473)、越をして天下に覇をとなえしめた。2 R: w( Z, `, X' |: z' y
 
0 k* U% r3 T; E  n3 z5 }- W 勾践が覇者となると范蠡は上将軍と称された。だが范蠡は、「大名の9 H" _' j& p8 M1 u) F! u. ~
もとには久しく居りがたい」と思い、勾践のひととなりが「ともに患難! p$ U# q) _& {. R6 f8 ?
を同じくすべきも、ともに安きに居りがたい」ことを思って、その一族9 Q! O# g( A8 n% v, x
とともに越を去って斉に移った。
# h4 w- @$ y% f0 u6 y  U; U, l 0 ^7 N( A0 Q$ p/ }9 ^
 斉で范蠡は姓名を変え、鴟夷子皮と号して売買に従事し、かつて越の7 v3 A" P0 f& y  k0 w  Z
国を富ましめた計然(一説に范蠡の著書の名とされているが、しばらく) h' @; e' m% H  g: z8 A
通説に従い范蠡の師としておく)の策にのっとって、物資の過不足を考% h  P* t* z7 M0 K3 ]- V
え、高いときには糞土を捨てるように惜しみなく売り、安いときには珠
6 o  j7 ]$ I+ v  S0 ]+ p& W4 B& F玉を求めるように惜しんで買い入れ、たちまちのうちに数千万の富をき; j2 Y8 \9 H) y8 k( g: m2 \1 Z
ずいた。号の鴟夷とは皮袋のことで、不要のときには小さくたたむこと# t  i. m) Y1 I: g2 F: w
ができるが物を入れるときには大きくふくらむという意味である。斉で! a" F& k. \# m& Q# m3 d" m# h
は彼の賢才を見込んで宰相に迎えようとしたが、彼は、「家にあっては
; F' O6 l3 ?2 q( u# i# q千金をもうけ官については卿相となるのは栄華の極み。久しく尊名を受
( ]! m* T7 q# J: o5 H* Cけることは身のためではない」と、それをことわるとともに、数千万の
6 m0 h6 G; t- s% ^財をもことごとく人々に分けあたえて、陶(山東省定陶)へ去った。7 ]; |# j8 I/ w4 N
 * h3 d! y/ U' h7 \
 陶で彼は再び売買をはじめた。この地をえらんだのは、ここが諸侯の
0 E: s, s  Q' D' d国と四方に交通する物資の中心地だったからである。ここで彼は名を朱
  n% d) P1 M& `1 K+ r2 [5 gと変え、よく取引の相手をえらんで時機を見て物資を流通し、またたち
: f4 [2 e, h6 c; Fまちのうちに数千万の富をきずいて、陶朱公と呼ばれた。彼は十九年の
+ o5 b) ^, h3 a$ m7 F5 [/ c, B* nあいだに三度も巨万の利を得、そのうち二度までこれを散じて貧しい人
# w: ?! H& e9 Z2 D々に分けあたえた。後年老衰すると家業を子孫にまかせたが、子孫もま+ @3 ~9 [4 ?$ l" F6 N1 }
た巧みに生業をいとなんでますますその富を大きくしたという。, Q8 E/ B) V# y- S+ @
 0 N3 V9 H# w+ Q8 g
 4 D# g" C1 l3 C" V$ Y
 猗頓は春秋の魯の人。もと窮士であったが、塩と牧畜によって富をき. k3 n, p2 B" m  d3 {" x9 r; t) _
ずき、猗氏(山西省安沢県)に居して王公をしのぐ生活をした。そのため9 P; \+ I6 X% g5 v/ F8 d# L6 s# r
に猗頓(頓はたくわえの意)という。ここから、世に富を云々する者は、$ G8 |7 ?1 \! _$ @2 n
あるいは陶朱公を引きあいに出し、あるいは猗頓の名を言った。
! \/ v, z- u0 {( z  H% q                         (「史記」貨殖伝)
# s  n! {4 e6 s 
, d& |0 z5 p; @$ @; u 2 l% u, S2 J# D9 w7 o1 k* E
 ここから富者をさして「陶猗」と言い、その富をたとえて「陶朱猗頓
- G# @9 D$ B  e( J  {の富」ということばが起った。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 21:52:57 | 显示全部楼层
桃源境
# ?5 G" a! r  R; G- x
& s: a$ w- J& d, w' |/ N
晉の太元(孝武帝、376~396)のころ――。6 s( `3 [6 ?  Z( b; O
 
  r, C: l8 M2 Y' b% [" L 武陵(湖南省常徳府)に一人の漁師がいた。漁師は或る日、いつものよ$ f% x5 R! ^) {: ?; g
うに小舟を操り、魚を求めて山峡の川に上っていった。どれほど舟を進& w' o: q. n: n& r
めたことだろう、ずいぶん遠く、見覚えのない所へ出た。と、そこらあ
: W3 ], u1 U- J6 @/ ?たり一面に桃花の林が広がっていた。その広さはどうやら数百歩ほども
3 x) c5 N1 m" V/ }あろうか。だがその中には一本も雑樹は見当らず、桃の木ばかりが得も* I' e- h" T' M6 R' a3 A3 f; h
言えぬ甘美な香りを漂わせ、美しい花片が華やかに舞っていた。& v, m5 y3 D! h8 d
 
6 M9 {! l9 B* O 見事な景観に、漁師はしばらく見惚れていたが、やがてその林のもっ1 c" T4 Y" I, A% \
と先をつきとめてみたくなった。どんどん進んで行くと水源のあたりで/ \  N0 I2 r6 r7 ]$ F) E8 X" i
山につきあたった。その山には小さなトンネルが口を開き、ボンヤリと8 b/ _" h% E$ Q
明るいので、漁師は舟を下りてその口からさらに中に入っていった。始
4 d3 ?) c" c! @# z0 S3 C+ mめはやっと一人の人間が通れるほどの広さが、五・六十歩も歩くうちに
+ D  O2 g2 r8 w俄にパッと四囲が明るく開けた。
7 f! B9 v% w  f, m, x9 I 5 k( Y# i& p" O' F6 t3 P
 眩しい眼を見開いて眺めると、土地は広々と広がり、住居がきちんと6 \; |% n8 W5 R4 r
建ち並び、遠近に地味豊かな田畑があり、桑や、竹も育っている。田の- ^: S! _& G; Z: `
中の路も縦横に通じ、鶏や犬の鳴き声も聞えるし、畑仕事の人々や往来' a# H" G0 v+ ^+ M( i
する男女は皆異国人のような装いをし、黄髪の老人も子供たちも皆にこ4 X$ Y, H7 s5 _- P' E3 h$ h
やかに楽しそうであった。# e) ^4 E; R$ S- P1 n3 i. ^- G
 ( Z1 u7 N& \$ X" i
 ボンヤリとつっ立っている漁師に気づいた人々は、見慣れぬ男に驚い
3 @" l0 v- t* n1 `' |て、どこからやって来たのかと訊ねた。漁師がありのままをつぶさに答
4 D5 d! o  x  {/ P2 ]* U3 Oえると、さっそく彼を一軒の家に案内し、酒をつけ、鶏をつぶして馳走
8 Y5 c( c& _% M4 D# J  ~% B& p( W3 }をつくり、大いに歓待するふうであった。やがて漁師のことを伝え聞い0 f- p) C; d' `" l5 `5 c
た村中の人々は、皆集まってきて交々彼に訊ねるのであった。そしてそ% B0 W0 S" ], |. K! \
の人々の言うのには、
: Y0 A. T2 t6 t( |- M& C) Y# U5 Q 
3 t5 I8 |2 K/ M$ { 「私どもの祖先が、
" E; e$ Z4 D: n! Y, G  妻子ともども村の者たちと秦の世の戦乱をのがれて、; S& t3 }& M3 @9 q/ B
  この絶境に来て以来、
9 y. w) ~8 T; `( ?( x  一度もここを出ませんので、
' I9 B1 V: p+ s5 u  o! A  とうとう他所の人々と全く関りあいがなくなってしまいました。
: y8 w/ L' m$ F8 Y! f. K& v  ところで、
. j) w' Y' |0 F* R  今は一体どういう時世なのですか?」. S" B+ f/ j: p+ d
 0 Q9 x" Q& V* D. e9 F* o
 と、漢のことも知らなければ、もちろん、魏・晉のことも知らない。) B! x. E- R: ^8 _/ C
漁師が詳しく説明すると、皆感に堪えたように聞いている。こんなこと
, w! \. p4 b! ?" y6 j9 xで、漁師は家から家へと連れて行かれ、酒食を振舞われては人々に話を
: T! {/ b; u& N8 Aするので、四・五日もいてしまった。やっとその村に別れをつげて、も. ^0 ], A# V5 \3 B
との舟を繋いだ所に出、川沿いに帰路についた。帰り際に、『私どもの/ |' Q9 |- Z8 G
ことは言うほどのこともありませんから、他所さまにはお話にならない
- p0 w1 u. K+ u; Q1 q6 [で下さい。』と言われたものの、途中所々に目印しを残しておいた。) U4 `7 g) }" a8 b7 \
 2 r& V* v% Y" q
 さて家へ辿り着いた漁師は、さっそく郡の太守のもとへ行き、自分の: _7 w$ a0 R1 \; A
珍しい体験談を話した。太守も大いに興を覚え、人を差しむけて再びそ# F* v' t) Y- _0 X) d' G
こへ案内させた。しかし、帰途につけた目印はいくら探しても見当たら/ ?$ x2 g! k1 K5 d0 }
ず、前に行った路を見出すことはできなかった。& q& K" d+ [' q( J$ ^- N6 S' t
 
2 t) M( C3 I' A  { たまたま南陽に劉子驥という君子がおり、この話を伝え聞き、欣然と+ @% S. Y8 V+ b2 b! A0 ?9 L5 G8 h
してその仙境へ行こうとしたが、その志を果たさぬうちに病で世を去っ. m3 b) I4 t0 r3 G: J/ {* l, t
た。のち再び赴こうとする者はなかったということである。
2 M; f/ P, i* ]# Q7 G) V                      (陶淵明「桃花源記」)- c* I# j% Z4 |! P. \
 ! i/ x# r, E: D
 この話から、「武陵桃源」「桃源境」は仙境の意に使われ、転じて理想
" o7 v8 B: E. }郷の意となる。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 21:53:22 | 显示全部楼层
天網恢々疏にして漏らさず

- G; {  ?; O6 N8 |% G2 q
! |1 F6 G  s6 @7 m7 |5 b物事を、断乎としてやることに勇気があって人を平気で殺し、断乎と
1 }/ C7 \4 U9 ]1 lしてやらない方に勇気があって人を生かす。生かすのと殺すのと二つの# h' B* N) ~# U$ V1 L$ p
内、一つは利があり、一つは害がある。だが、天が憎むのは必ず殺の方
0 H: u! `  h0 V6 `だ。とすれば、物事を、断乎としてやることに勇気があって人を殺す者! f) ]+ E; J, w5 @! Y
は、天の意思にそくことになるわけだから、当然、天の罰を受けていい
5 K2 M9 L+ |- Rはずだが、世間のことは必ずしもそうは行かない。反対に、人を生かし
6 D/ Q" ^% P' C; O" o# Sた者、必ずしも天の賞を受けるわけではない。大勢の人を殺して、天罰6 I& I9 E/ s/ a! `0 D
を受けない者もある。6 n( Q) @! |0 {: V; L
 
6 v: @, ]- e5 U, p- L+ Q  j だから人々は、この活殺二つの利害と、天の憎むところが一体どちら2 A$ Q- R: d6 x: X' Y
にあるかがわからなくて迷うし、聖人でさえも、この点がハッキリしな( `+ A! z. t- Y. o2 w1 [
くて困っている。+ d0 o  Y( g4 q) n8 a
 
1 E8 r$ P# g: }# ^+ A- h4 _ だが、長い目で見れば、この二つの利害と、天の憎む所が一体どちら  h" v8 p# P2 H( {* h" S; X
にあるかは、自から明らかである。天の道は争わずして勝ち、言わずし2 }- I& G; c1 j' s- p! ~3 _
てよく応じ、招かずして自から来、緩やかであってよく证胨摔ⅳ搿
3 }. g4 O4 }& p: S. }, `' k% k# D% I 
% `: T# |0 ?; O8 ]! p7 k7 v だから悪撙螐姢い趣稀ⅳ胜毪郅梢粫rは天にそむいても、罰を受け& U$ n: P: V. _# h  f
ないこともある。しかし、結局は天の罰を受けることは必至だ。天の網% N7 A- ~7 N( ?* N
は恢々として広大であり、その網の目は疏だけれども、善悪の応報は必  ^2 k4 A! M  k( l
ず下し、決して失敗することはない。   (天網恢々疏にして失わず)7 ]( D/ {8 }8 w2 x8 X" O
 ; Y/ G/ l* f& r! N
 * M- J$ I, M9 S; N6 ?/ b5 B
 以上の文句は、「老子」第七十三章にある。この章は、天道が生を好
: V! Z- k& U$ x3 o: t6 ~. Q6 q; W1 ?み、殺を憎むことを、老子一流の論法でのべたもの。俗にいう「積善の1 C6 ?3 U, ?/ Y
家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃(わざわい)あり」(「易経」
' S7 X$ A# u: q9 `5 g: E9 r+ B文言)とか、「悪事千里を走る」(北夢瑣言)とかいうのは、このへんの事) _( C/ |% {( C5 k- V7 x
情を物語るものであろう。1 ~' P! J. E$ U! ^9 ^
 
$ p$ ?7 b  @! @) t5 `+ [1 y; E 老子は楚の苦邑(河南省)の人で、孔子よりやや年長、周に仕えた。あ
* ^1 p% t9 x- _2 M( bるとき孔子が訪ねて行って、礼を問うたところ、% s* O% U6 S0 y+ g. {- l
 
! W) D( F" }: I: p3 j 「お前の飾りつけと、6 H  P$ V/ V8 c$ g: a
  欲ばり根性と、; O) k7 v, I  i7 {: C' Y6 f
  みだらな心を捨てよ。% l* V1 I+ z8 D7 H  P! h1 a) ]
  いうことはそれだけだ。」9 u" \4 W' Y' p% @0 B: Y3 g
 . P0 _' t% O) x: G* Z
 と叱りつけ、さすがの孔子をして、& e1 |1 I( p2 F# V; p  _. }
 
0 O# V! k9 G; _- I 「今日は初めて竜というものを見た。」
: r4 Z! K' G, D( C2 A( d+ u, a2 Y 3 D5 J4 ~" @$ p/ A
 と嘆息させたという。後に官職をやめ、西に向かって函谷関を通った
  r( B7 x3 S! }/ v% p: n7 aとき、関令の尹喜が頼んで書き残してもらったものが、今日に残る「老
" J8 x/ a. h+ x  X4 i3 A. Q子道徳経」五千余言だという。6 ]: J5 U# x4 G1 X
   v" Q5 ~' u+ o, q+ O+ F# u
 老子の教えは《無為自然》にある。つまり赤ん坊のように天真素朴、
1 ]$ m- w2 b7 x1 v! e/ t! }無欲であれば、世の中には何の問題も起らない。礼楽だの、仁義だの、
, {. {% V- v  z' m1 c) |& \+ ^考悌だの、性理だの、つまらぬ区別を言い立てるから、かえって世も乱
/ R  Z$ N3 o# X5 n+ Z4 Yれ、人倫もおかしくなる。すべてに無抵抗主義こそ望ましいというので
7 n% V) ~% Q4 S+ Kある。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 21:53:45 | 显示全部楼层
天道是か非か
8 Z6 \9 x6 {; h, ?, @& k, s$ M

" v( _9 L1 ?) j( T7 C/ ~漢の武帝の天漢二年に、太史令(記録官の長)であった司馬遷は、「李7 o$ t! L. B: y/ j! T* ?
陵の禍」によって腐刑(宮刑ともいう。去勢する刑罰)に処され、獄に下5 D1 i1 l; J& t; E  q
された。0 a0 n* A: g7 P; ^
 
- \4 S4 e) b; ~8 C* N+ P 廉直・忠栅挝浣扦ⅳ盲坷盍辘稀⑽迩Г螝i兵だけを率いて匈奴征伐+ v4 ]# d6 M: H3 J; N1 X" y
にむかい、文字通りの勇戦敢闘ののち、天漢二年に部隊は全滅し、彼自% c/ Q0 b! y) @/ @5 F' T
身は、人事不省におちいっているうちに捕虜にされた。李陵からの勝報9 W$ t8 c2 c4 K: E+ x
がとどくたびに、武帝と漢室の百官とは喝采していたが、ひとたび敗報8 Y  P) J0 j8 c! A
に接すると、口をそろえて非難した。このとき、司馬遷のみ、敢然とし
2 m. `  j. E: ~4 pて李陵を弁護したので、武帝の逆鱗にふれて獄に下された。これが「李
  V: `# F' H- k, Y陵の禍」である。5 I) h8 H9 r- @5 [0 O
 
. _5 X( N2 d0 N3 J 正当なことを正当に主張して刑に処された司馬遷は、何物をもたのま9 {8 r9 ^8 w3 l
ず、みずからの手によって、人間の正当な歴史を書きのこそうと決意し
) R8 j. J! m& S! q) y& Tた。一体、腐刑を受けた人士は、生きながらえるべきではないのに、こ
4 W# b) p( K: N8 j; g' X0 ]の決意のため、司馬遷は、あらゆる恥辱にたえて生きのび、懸命に書き7 F, m, w  Y. [1 K
つづったのが「史記」である。彼のこうした決意は、従って、「史記」- l3 h( t0 Z3 |
 全篇を通じて痛烈に人の心に食いこんでくるのであるが、特に、「伯
3 I6 k* _3 f/ r! f& _: q夷列伝」は、端的にそれを愬えている。彼は言う――。# r! A/ N8 ]0 `% {
 4 z; b. N% N7 A/ z- S
 よく「天道親なし、常に善人に与みす」という人があるが、これは、* U1 v4 W" ]. N9 z1 X
人間が空しく天に期待している言葉である。この言葉のとおりなら、善
4 D0 `- f; a" D+ J% F人はつねに栄えるはずである。ところが、そうはいかない。伯夷・叔斉3 o; p: ^7 e* }0 b4 [
が、仁を積み、行いを潔くしたことは伝えられるとおりだが、しかし、- `9 k7 x2 S$ e& p1 s1 {
彼らは餓死して果てた。また、孔子の七十人の高弟のうちで、孔子が、
  P, V: P* Q& W$ X真に学問を好むものとして賞揚したのは、顏淵ただ一人であるが、その1 T4 `) Z( @: g1 B( I, U+ u  ]
優秀な顏淵は、つねに非常な貧乏に苦しめられ、米の糠さえも満足に食( j8 o* C) P2 w/ ?( k- h+ e
べることができずに、栄養失調にかかって、年若くして死んでしまった, y) `" S5 j( P* B+ q& s
ではないか。これでも、天が善人に与みすといえるのだろうか?また一
3 E2 W& i! l4 {$ L1 h% j方、あの有名な大悪党の盜跖は、日ごとに罪のない人民を殺し、無惨に8 s% u* B! _, C+ p" J# m3 E5 A5 R
も人の肉を膾や脯にもしたほど、ありとあらゆる悪事を公然と行い、数8 @. v3 B! e9 W! S2 s- \# B' I- x
千人にのぼる徒党をあつめて天下に横行したのに、しかも、ヌクヌクと
$ U- u/ L4 O+ T" Sして、長寿を完うしているのだ。これは、一体、どんな徳があったから* Z/ E3 _2 d- g
なのであろうか?
9 S/ o) i- x" j: ^ 
& |9 f1 T* y2 k: d$ J+ i$ p8 t5 O+ t 以上はあまりにも顕著な例であるにしても、これに類似した事柄は、! S: ]6 ]2 K1 Z# F9 m
日常茶飯のあいだに、われわれの周囲にいくらでも起っている。すこし
" c. h) a. ^( P注意してみれば、操行のおさまらないままに世の中の秩序をみだし、し
" R3 H$ Z3 L/ Bかも、一生逸楽して、富を子々孫々に伝えるものも少くないし、その一* X2 N1 B( v! X6 e
方では、また、つねに恭謙に身を持し、正しい道のみを歩みながら、災% @3 A; [* a. ^  z0 H
禍のとりことなるものも、数えきれないほどである。それやこれやを通& Y* K0 m: }7 S, w3 F- T
観してみると、ここに重大な疑問が残る、「天道是か非か」と。/ ^2 {9 v0 F9 O+ G! D
 
8 b6 X5 R$ l7 K( c- k2 o 
% X( x! Y" @. v4 k& j8 R この話は、前半を「史記」の「太史公自序」から、後半を「伯夷列伝」か8 B# J& |& m( [9 J* H: O. a3 k+ i
ら取った。「天道是か非か」という天を疑う悲痛な言葉は、「伯夷列伝」に
0 W& y; W5 W6 K8 Yある。
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 楼主| 发表于 2005-6-20 21:56:36 | 显示全部楼层
多岐亡羊
$ u2 b) f1 u1 X6 \7 A$ o7 i
4 K6 y0 B3 n( W" J6 w
学問には知識の集積と理論分析が必要なことは言うまでもないが、い6 ?9 ?# t/ f$ S+ C
たずらなる枝葉末節のせんさくに堕して、その本筋の目標を見失うのは8 d- I% u% |; O2 j+ _) N+ c
愚かなことであるという意味を諷した寓話で、「烈士」の「説符篇」に見
& k8 [9 _3 J! C' i  I6 `. zえている。
8 [  V1 O9 ^1 I( J  p 
% G% y' T) @' D 楊子の隣人の羊が一匹逃げた。その隣人は一家総出で、楊子の家の小
) t8 G9 T3 W& x! N6 x者まで助太刀に頼み、羊探しに出かけるというさわぎに、楊子が、
7 ?1 @6 p. @& J( w/ ]& K; } 9 U7 d" H5 H. A; w. e8 q
 「たった一匹の羊をなぜそんなに多勢で追いかけるのか?」
) t3 v# ]6 w5 d$ b6 r; p 
2 U( [" {4 {: ]5 T/ o) uと尋ねると、
8 |( D' g( |6 I6 P : @3 _& m7 ?7 w2 w( I8 u1 F$ S
 「逃げた方角には岐路が多いから。」) h% H' w# @$ t$ i6 Z8 d* J1 j% H
 & x* T. u3 A9 j& E3 M  i# D, u" q7 W1 M
という答え。やがて連中はクタクタになって帰ってきて、
# Z: `' c& N6 o# y 4 Z6 l4 H7 {( T3 R8 Q8 ?) r
 「岐路の中にまた岐路があって、$ o0 t; g7 U4 G/ r
  とうとう羊がどこに行ったかわからなくなった。」6 x! ?2 }& e. A% e7 r8 n
 
. H, P  V- L- R/ p- Mと言う。楊子はその話をきくと、すっかりふさぎこんで、しばしば物も% G& f! D5 n- D# K. @0 l  k& _
言わず、その日一日、笑い顔さえみせない。弟子たちは、たかがつまら
0 h3 W6 Y3 F; a- j- c6 b- e6 Vぬ羊一匹、しかも自分のものでもないのに、楊子がなぜそんなにふさぎ) G- T- L' C; h: g' C" O: a2 ]2 B
こんでしまったのか見当がつかず、訳をきいても返事をしてくれない。
9 x. E5 B( S- G  X- @* H 
) f' a- A9 ]9 f5 Y% z 他日、賢い弟子の一人が、このことについて、楊子と問答した結果、4 s( I  k; `5 X7 @$ a9 [. |
目標が羊一匹であっても、岐れ路、岐れ路と迷いこんで追求するようで# \2 y$ X4 x. ~: F$ I
は結局それを見失ってしまう。学問の道もそのようなもので、帰一する6 N2 b. U' @0 D% u; ^% U% U
大事なポイントを見失うような追究の仕方は無意味であるということを3 n. U$ [. Y  a- x
悟ったというのである。学問の分化的傾向の甚しい今日の学者先生たち
5 j& U- Z8 K9 |/ G/ Rにも、よく心得ておいてもらいたい話ではあるまいか。
! V( \& L# i* I: S" c0 p ; o& U. Q- v, T0 K+ G& n  z" k6 D! q6 G
 3 k; x9 v, p7 V) i+ l9 j
 似たような話が「荘子」の「駢拇篇」にもある。ある家に二人の下男が
4 |7 _' p8 X; b/ ?" R3 ]9 b0 {あって、それぞれ羊の番をしていたが、二人とも番をしていた羊を逃が2 s+ M1 c8 Q3 A1 g+ X
してしまった。主人が怒って、; Y% Z3 ?! |/ _$ z! X
 
. ~" t% H: x' o- n. o 「いったい貴様たちは何をしていたんだ。」3 ~' ^3 }% W+ F( x) b" [, ^
 
3 [: v2 d7 N" o$ yときくと、一人は、
1 Z, F+ w1 _; ?* [) n% w" ~ 8 c% r+ Q6 r; V% s
 「本を読むのに夢中になっていたもんで。」
# e& O& N' w% N) r& w6 j, H  a 
& q/ j/ c3 n. h% H  F5 T; u. dと答え、一人は、
/ c! ?3 y& M! A: }3 O 
, }7 A8 P6 H$ |8 e; g% D$ C 「さいころ遊びに気をとられてつい……。」" Q5 m1 Z4 E+ `" D4 W4 j
 
: a8 n0 O0 ]7 M% |( ?* \  J% J0 y$ Wと答えた。" a. S( e( h! E
 , h) t  N. Y( {0 E; v0 H7 `
 なるほど二人のやっていたことには相違がある。しかし羊の番をする) D6 K2 ?" F; e0 V: @% e2 ^
という肝心の目的を見失った結果においては変りがない。要はほんとう
- V8 g" L9 G" k' r5 V8 I0 Mの目的をしっかり把握しておくことだというのである。3 E- Q0 P. G/ j4 \3 V
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 これも学問、いや学問ばかりではない。すべてのしごと、人間の生き* R4 D* D- p; _# }
かたというものについて深い示唆を与える話といえよう。
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