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发表于 2004-10-20 05:35:19
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10月20日2 e: S0 c* f4 v/ S, e
6 v5 h1 j+ s$ @+ ^3 H% w 自分の名前を間違えられて、不快に思う人とあまり気にしない人がいる。高名な哲学者の名前のつづりを間違えて書いてしまい、冷や汗をかいたことがあった。後に謝罪すると、彼は「よくあること」といったふうに穏やかに応対してくれた。 ; k- e* [9 Q r [" ?- B0 j
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先日、74歳で亡くなったフランスの哲学者ジャック・デリダ氏である。インタビュー記事でジャックを英語風に表記したのだが、もちろんフランス語であるべきだった。彼の本名が、ジャッキーというアメリカ風だったことを後日知り、複雑な思いにとらわれもした。 ( U: j! ^2 @/ a; D# Y0 {# z
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20世紀後半、最も影響力の大きい哲学者のひとりだった。彼の哲学がなぜあれほどもてはやされたか。死後、しばしば考える。著書の難解さにもかかわらず、意外に平易な「処世訓」に焼き直すことができるのも一因か、と門外漢は勝手に思う。
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たとえば誰かが「誤解を恐れずにいえば……」と気色ばんで発言する。デリダなら「すべては誤解の上にある」とかわすだろう。正統な解釈、確固とした真実などない、という前提から彼は考え始める。 , B3 z5 K e* E& S$ u. ^7 B
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あるいは「見るべきほどのことは見つ」と人生を振り返るとする。デリダは、人類はすべてのことを見尽くし、考え尽くしたという前提から出発する。哲学者は何か新しい知見を加えるのではなく、思考の文脈をずらすことしかできない、と。
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このごろ本屋で哲学書をよく見かける。不安定さを増す世界で、よりどころを求める気持ちが強まっているのか。誤解を恐れずにいえば、「誤読を恐れるな」がデリダ風の哲学の勧めである。 |
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