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发表于 2005-6-21 08:36:42
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樽俎折衝 % L# U$ R6 x( g. P. L! {
6 P4 ~/ Q% J G/ O春秋の頃、斉の荘公が家臣の崔杼に殺されるという事件がおきた。荘- d2 g" s x3 D/ T7 L4 y
公が無道であって、崔杼の妻と通じたから、義を正すために討ったとい4 ~" O/ w. u" Z
うのであった。事の真意はわからない。が、荘公が殺されたのは事実で
g$ d U* L* Y" f0 ?あった。そこで、荘公の弟が立って景公となった。しかしその時には、1 K/ a( A4 D3 z
もう崔杼やそのなかまである慶封の力がつよく、おさえることは出来な
5 J. r# c7 H6 B6 F% p/ Lい。それどころか景公は、崔杼を右相に、慶封を左相にし、この二人に
% N# Z/ } o4 p$ Z* x3 M反対のものは殺さんと盟うことになった。群臣は皆その勢いに従って、& S7 g, }) \' B9 A% L
つぎつぎに盟った。
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ただ一人、盟わないものがあった。晏嬰(字は平仲、晏子)という。霊! d, u; G( l/ z \& q0 @0 }
公、荘公の二代につかえて、人望もあった。彼は天をあおいで、こう嘆2 P/ u* @! m6 L5 U: l
じただけであった。……君に忠であり、国に利となるものになら従いま
# v( q. k& J# c& t7 Q0 F ?4 u( _する、と。慶封はこれを殺そうといったが、崔杼にとどめられた。
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- g( S4 m0 x, s5 R 斉の内紛はなおつづいた。が、まず崔杼が殺され、やがて慶封も、風3 `/ T4 m+ Q' x$ F' f' O
をくらって呉の国にのがれた。このとき、さきの晏嬰が斉の相国になっ* q8 R4 s, l$ j# s
て、国政をあずかることになる。これが、春秋時代に名だかい名相、晏2 r4 t! \/ ?- u$ _; N) \7 n- i
相国である。* W5 d0 X- s$ O: H$ W' U; g7 ]
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春秋のころには、大国だけでも十二の名があげられる。小国をかぞえ
2 D* ~: x7 c* c; L( B! K2 t/ rれば、百をこえる。晏嬰は、国内ではこみいった派閥の騒ぎをしずめ、
/ u- C/ ]3 i6 q2 P" F+ ~外に対しては、このように雑然とした情勢のなかで、斉の地位を安泰に* w6 r2 L# V$ R, @6 H0 {7 ~' Z+ P
しようと心をくいたのである。その人となりはおだやかで、くらしは質
F2 k/ u; P; D. Z. a! b素だった。同じ狐裘(狐の毛皮でつくった皮ごろも)を三十年も着ていた% ]% S% K) o6 b1 v( I5 X0 j
というのもこの人である。景公が広い土地をあたえようとしたとき、彼
( S* j, j A1 i" I+ y3 Kは、
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6 H; s' S0 z! j! J7 Y! R1 i 「欲に足りれば、; \0 n) P9 S4 d% Q3 q0 u% X; x+ \
亡びる日が近うございます」( _, r3 K# i: ~9 ]! {% |
H* }7 Z+ z2 F& K といって、辞退している。
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0 ]- s+ s' u, L- \6 y7 x 晏嬰は、しばしば他国に行って会談した。また諸侯の使いがくれば、2 |1 a+ z1 Q4 S: o; V
これと応待して、くるいのない外交手腕をしめした。こんな話がある。
/ j: f7 b/ H/ n- a* tそれは、彼が景公にしたがって、強大をほこる晉国にでかけけたときの
' h; I/ h4 {/ Y# j& @ j* y! ^ことだ。0 x K# u$ O1 i6 X
5 L* w. l3 ?) l& i7 ? 余興として投壺をすることになった。矢を投げて壺に入れる遊びであ+ B8 I7 B: g+ y [* y, C; @' h J
る。晉の家臣がすすみでて、1 B; D! S9 @) i, ~5 Q- |, J
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「もしわが君がお中てになれば、3 ?7 m4 Z0 ^4 z
諸侯の師となるしるしなり」
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と、讃辞をのべた。
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晉の公平は投げて、中てた。やんやの喝采だった。この時、晏嬰は進6 Z( R- r5 h' P) {' \
み出て、8 d0 g8 O/ A7 w- D! }# h
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「もしわが君がお中てになれば、% f1 K) W# h$ I T9 w
斉は晉に代わって興りましょう」
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とのべた。
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/ n* ?$ m& m$ d, i* r5 l 景公は投げて、中てた。晉の公平は怒り、家臣たちもすわとばかり立* Y. r" p3 D! H7 F- P/ `; H }
ちあがった。しかし晏嬰は. k8 a; Y) w) G, l& y' t
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「投壺はたのしみごと、
4 {3 s! S6 u( d# ^( g 賛辞はざれごとであって盟いではありませぬ」
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! b* t4 C. v; Z/ m1 V q と押しかえし、景公とともに、しずかに退出した。8 e$ i0 y; H# ^! S. c5 t. _/ ^: k
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これは晏嬰の外交をほめるための作り話かもしれない。晏嬰が外交に, e8 L) f$ k! H+ `& P/ Q
あたって心をくだいたのは、もっと複雑で、大規模な力の関係を調整す4 L: f) J: \7 O5 ]6 r
ることであったろう。だが、ともかく晏嬰は、斉国の舵をしっかりとと! v( ^- S8 |1 \
って、からみあった諸国のあいだを進んで行ったのである。そのことを
& R6 d: _) _; c+ V5 v l晏嬰の言動をしるした「晏子春秋」は、こう書いている。. ^, f9 @, p7 o5 r
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「樽俎の間を出ずして、
+ }+ \4 [6 m- r. a0 T* J 千里の外に折衝するとは、
& H4 f5 n/ a* G5 _ それ晏子の謂なり」
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酒だるをおき、いけにえの動物(俎)をならべ、こうして宴席で談笑し* V" @4 R, y( s
ながら、敵の先鋒をさけて有利に話を決めてしまう、いわば千里のかな2 ]( x* {9 p% D# x) x
たから敵の攻撃(衝)を折いてしまうとは、まさに晏子のことである。
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/ ~2 b9 Y2 B, q. A# x- V. P" y' p 酒席でなごやかな外交交渉をおこない、有利にことを結ぶことを「樽1 R, l$ E. ]' o. `1 ]
俎折衝」というのは、ここから出ている。転じて、談判やかけひき、国" a2 S$ J; h( \3 _0 ]3 R' l! T# r
際上の会見などをこの語で言うようになった。おなじ酒席であっても、
; e% R. A% a$ H# }本来は待合政治のことではない。 |
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