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楼主: syuunfly

[原创作品] 冷静と情熱の間(全书完)

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 楼主| 发表于 2006-4-18 10:39:36 | 显示全部楼层
 翌日ぼくは思いがけない友人の訪問を受けることになった。朝の十時に玄関ベルが鳴らされ、絡みついた芽実の腕を払いのけて、寝ぼけ眼を擦りながら出てみるとそこに大学時代の同級生が立っていた。
 「いるとは思わなかったよ」
 同級生も驚いた顔をしている。なに、だれ、と背後で芽実の騒ぐ声がした。まるで時間が一気に学生時代に戻ってしまったような錯覚に陥った。
 「なんだよ、どういうこと?」
 「ニューヨークにいるのかと思ってた」
 「じゃあ、なんで、え、どうして、なんだよ、どういうこと」
 「この、本当にここのすぐ近くに用事があって、そこに資料を取りに来たんだ。それで、前を通ったら、この建物がまだ昔のままあったからさ」
 「びっくりした」
 「表札がAGATAってなってたから、もしかして、と思ってさ、まさかお前が出てくるとは思わなかった」
 「いやー、ひさしぶり」
 ぼくらは抱き合った。パジャマ姿の芽実が奥から出てきて、だれ、なに、どうしたの、と男同士抱き合うぼくたちを不審がった。
 
 安藤崇は大学時代の同級生であった。いわゆる優等生で、彼のお陰でぼくは卒業できた、と言っても過言ではなかった。
 「テストのたびにカンニングさせてもらった」
 崇は、昔とちっとも変わらない、生真面目で真剣で一生懸命だったあの当時、いや当時よりもさらにいっそうまっすぐな視線でぼくを見つめ返すと、同じ年なのにどこか年長の者のようなゆたりのある笑顔で大きく頷いて見せた。
 「感謝しろよ、今のお前があるのは俺のお陰なんだからな」
 「今の俺か、今の……、すまない。謝っておくべきかな」
 「なんだよ、頭なんか下げて」
 「プータローなんだ」
 二人はもう一度お互いの顔を覗き合って笑った。
 芽実が昼ご飯を拵えると言い出したのを断って、外に出ることにした。あまり所帯染みたところを崇に見せたくなかった。芽実のことは「恋人」と説明しておいたが、その瞬間明らかに崇の視線が過去を彷徨うのが分かった。
 ぼくらは懐かしい大学時代の思い出で盛り上がった。しかしそこには不在の人物がいた。芽実の前では決して話題にすることのできないひと。

 駅前のビストロで昼間からワインを傾けて乾杯をした。思い出話は咲きつづけた。
 大学祭の夜、酒を飲みすぎたぼくが上級生と喧嘩になり、みんなの見ている前でこてんぱんに殴られたときのことや、学生ホールで放課後仲間たちと下らないお喋りをして過ごしたこと、短歌や俳句のサークルを二人が中心に作ったこと。崇に勧められてボランティア活動に参加したこと、そこで知り合った女性と崇が恋に落ちたことなど……
 「順正はその当時どんな人と付き合っていたの?」
 ぼくたちはずっと一つのことを隠して会話をしていた。本来ならそのことを真っ先に語り合わなければならないはずなのに、まるでわざと遠回りをして家に戻ろうとしているようなうすのろな歩き方で様子を探り合っていた。ぼくらは同時に芽実の方を振り返った。場を取り繕うように、崇が声を出して笑い出してしまった。
 「俺には理解できないんだけど、こいつはやたらもててたな。いつも大勢の女性に囲まれていた」
 ぼくは笑うことができなかった。
 「俺のほうがずっといい男なのに」
 崇ははぐらかそうとしないぼくに気がつき、必死で笑みを消さないように頑張っていたが、その努力の甲斐も虚しく間もなく顔がコばったまま動かなくなってしまった。芽実は素早くぼくらの顔を交互に見比べ、最後にぼくの目を睨みつけた。
 「何か隠してる」
 崇は、なにを、と惚けてみせた。
 「芽実、そんな顔をするなら先に帰ってくれないかな。折角崇との再会が台無しになる」
 どうして、という表情で彼女はぼくを見返ったが、ぼくはいつになく厳しい目で彼女を逆に睨みつけてしまった。旧友に、特にあおいとの事を一番よく知っている崇に今のぼく芽身の曖昧な関係をあまり覗かれたくなかった。
 自分が仲間外れにされていることにヒスを起こし、芽実がそっぽを向いてしまった。ぼくと崇は不貞腐れた芽実を放ったまま、差し障りのないそれぞれの現在についてひそひそ語るしかなかった。
 「仏教? いまだに大学生? 本当にお前は勉強好きだな」 
 と僕が言うと、彼は爽やかに微笑んでみせた。
 「正確には宗教学なんだけどさ、ただ俺が一番興味を抱いているのは仏陀の教えなんだ」
 崇が大学院を卒業した後、改めて宗教の勉強をするために大学を受け直すまでの心の推移について語りだすと、突然芽実が立ち上がり、ぼくらを残して店から出て行ってしまった。
 「いいのかい」
 と崇は心配そうに芽実の後姿を見つめて呟いた。
 「いいんだ。いつもああだから。」
 ぼくは振り返らずに、崇の顔を見つめたままそう答えた。崇はいつまでも芽実の後姿を追いかけていたが、「可愛い子だな」と消えそうな声で呟いた。崇の目の中を覗きこんでだ。崇が見ていたのは芽実の後姿なんかではなかった。それは学生時代のあおいの孤独の影。 
 「そういえば、あおいに会った」
 崇から唐突に飛び出した言葉は、幾分安心しかけていたぼくを不意に震えさせた。きっと二人きりになったなら、彼から何かしらあおいの話題が飛び出すだろうことは想像していたし覚悟もしていた。しかし崇の吐き出した言葉は、あおいの消息の手掛かりではなく、まさに現在の彼女の日常そのものだった。
 「会った?」
 「どこで? 何をしている」
 学生時代、ぼくがあおいと付き合うようになるきっかけを作ったのが崇だった。あおいと崇は二人とも帰国子女で、しかし同じミラノの日本人学校の同級生だった。ぼくと崇が同じクラスだったことも会って、ある時崇にあおいを紹介された。一目ぼれだった。ぼくは現在も同様、昔から決して勇気のある方ではなかった。いつも晩生で、自分から女性を口説いたこともなかった。あおいへの思いは日増しに強くなり、最初にこの気持ちを相談したのは崇だった。情けないことに、あおいがぼくのことをどう思っているかを崇に聞いてもらい、ぼくはやっと恋心を告白することができたのだ。
 崇は試験の時だけではなく、ぼくにとっては大学生活全てにおいて恩人でもあった。
 「ミラノ」
 「そうか、ミラノに戻っていたんだ」
 崇は一瞬、余計なことを喋った、と思ったのか、口を噤んでしまった。
 ぼくは身を乗り出し、彼の口が開くのをじっと待った。
 「今あいつがどんな人生を生きているのか聞かせてくれないかな」
 言葉を慎重に選んで訊ねた。崇の瞳の奥で光が静かに息づいているのが見えた。過去を突き破るための現在。息を呑み、彼の次の一言を待った。
 長い沈黙の後、崇の口から飛び出してきた現在のあおいを象る言葉にぼくは震えずにはおれなかった。それらは全くぼくの知らないあおいだった。アメリカ人の同棲相手のことは何より大きな衝撃となって打ち寄せた。
 「子供は?」
 崇は首を左右に振った後、いないみたいだな、と呟いた。
 「いいか、順正。もう全ては過去のことだろ。お前とあおいの二人に起きた悲しい出来事は、全て記憶の中でのことだ。今のそれぞれの人生に影響を及ぼすなら、俺はもうこれ以上のことは言いたくない。彼女には新しい人生があるし、お前にだって」
 ぼくは嘆息を零した。
 しばらく心が落ち着くまで待ち、それか小さく、分かった、と付け足した。
 あおいの三十歳の誕生日にフィレンツェのドゥオモの頂上で待ち合わせようという約束はこれで本当にただのたわいのない口約束に終ることが確定してしまった。二人が一番幸福な時の約束だ。その後不幸が訪れ、それからそれぞれの人生を歩き始めた現在の二人には、あの時交わした冗談のような小さな約束が果される可能性はもう一パーセントも残ってはいないようだった。可笑しくて笑うしかなかった。笑い出したぼくを見て、崇が同情を含んだ視線を投げかけてきた。
 ぼくたちは羽根木公園を歩いた。梅が咲き誇る公園には大勢の人が詰め掛けていた。二人はそれらの人々の間をぬって、崇が資料を借りに来たという宗教学の権威の家の方角を目指した。
 公園の出口で崇は財布の中から、いつかどこかで渡さなければと思ってこうしていつも忍ばせていたんだ、と説明しながら一枚の紙切れを取り出した。
 「でもお前にこんなに簡単に再会できるなんて思ってはいなかった世。これじゃ、まるでキューピットだな」
 そこには住所らしきものがかかれていた。見覚えの字。それがあおい自ら書いた字であることにぼくが気がつく前に崇は、あおいから手渡されたんだけど、と告げた。どうしろ、と言うんだ、と反射的に聞き返していた。彼は力なく首を振った。
 「別れ際、あおいに無言で手渡された。お前に渡せとは勿論言われていない。でもその時、彼女の瞳の奥を流れる一筋の光があった。それが気になった。俺の勝手な思い込みなんだと思う。でも例えばこうして俺がお前とこの街で、まるで昔のようにすんなり会ってしまうことなんかは、ただの偶然だとは思いたくない。俺が今必死で勉強しているのはそういうことをきちんと学問として説明しようとしていることなんだ。これはある意味で仏様が俺に与えてくれた試練の一つかもしれないな」
 そう言い終わると崇はくすりと微笑んでみせた。自分自身に言い聞かせるように。それから彼は微笑むのを止め、崇らしい偽ることのできない真っ直ぐな表情で、きっぱりと告げたのだった。
 「一つだけ言っておかなければならないことがある」 
 崇がぼくの前を遮るような形で立ちはだかった。突然現れた旧友。そしてその懐かしい友に不意に告げられたあおいの消息。ぼくは過去から未来へと激しく逆流していく記憶の川面の上を泳いでいた。
 「お前に内緒で彼女が勝手にあんなことをしてしまったと思うのは大きな誤解だ」
 崇はぼくの知らないあおいの事を語り始めた。風の中で昔日の出来事が風鈴のように揺れては乾いた音を響かせた。氷と氷がグラスの中でぶつかり合うような冷かな音色であった。
 崇の後姿をいつまでも見送りながら、ぼくはそこから動き出すことができなかった。目を瞑った。そこに十代のあおいがいる。一人で暗い道を歩いていくあおいの姿があった。ぼくは声を張り上げそうになった。か弱く、心細そうに、そして今にも倒れそうな孤独な彼女の姿だった。
 その夜、ぼくはいつまでも眠れず、結局一人ベッドから起き出すと、芽実に隠れてあおいに宛てた長い手紙を書いた。 
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 楼主| 发表于 2006-4-18 10:42:35 | 显示全部楼层
第9章 絆 legame

 手紙を書いたことで、そしてそれを投函してしまったことで、ぼくはなぜか全てを納得してしまったかのように、あおいのことを忘れる決意のようなものができた。今日まで、ぼくの中にはずっとあおいのことがあり、それが日常を執拗に浸食していた。なのに、今は風邪が峠を越したような軽さを取り戻すことができた。いやこれは軽さではない、むしろ逆、重さと言った方がいいかもしれない。重すぎるから、諦めることができるのかもしれない。
 崇がぼくに告げた真実は、過去の謎と疑念を晴らした。
 「稽留流産?」
 「どっちみち助からなかったんだ」
 崇は小さく首を振りつづけた。
 「しかし彼女にそうさせたのは他にもっと大きな理由がある」
 ぼくはじっと彼の次の言葉を待った。判決を言い渡される被告の面もちで……
 「あおいの前に現れた君の父親がおろすように迫った」
 「そんな」
 崇はまっすぐにぼくを見つめた。

 たまたまぼくがいない時に、アパートを父が訪ねた。そこに産婦人科から帰ってきたばかりのあおいがいた。当時の父の愛人、つまりぼくの新しい母親が、テーブルの上の胎児が写った超音波写真を見つけてしまったのだ。父は散々彼女を罵った挙句、順正には相応しい人を嫁にと考えていた、と言った。こそこそと同棲なんかをするような女に息子をくれてやる気はない。親に内緒で子供を作るような子ではなかった。どうやって息子を誑かした。なにが目当てだ。遺産か。遺産なら君にも、そのお腹の子にもびた一文渡す気はないからな。
 そんなことを父が言った。あの人なら言いかねない。祖父阿形清治の持つ絵画コレクションを父はずっと狙っているのだった。あの新しい母は父以上にそれを望まなかったはずだ。
 あおいに謝罪の手紙を書きながら、彼女がどれほど苦しんで過去を一人で乗り越えたかを知った。そして、この過酷な歴史の中で、彼女はぼくを呪っているに違いなかった。できることなら時間を戻し、彼女の目の前で頭を下げたかった。しかし今はもう、長い年月の果てをぼくも彼女も泳いでいる。謝罪が"いまさら"になりかねなかった。
 幸福に生きている彼女の人生を二度汚すことは許されなかった。ぼくは、だからイタリアに謝りに行くのは止めたし、せめてもと思い手紙を書いた。ぐったりと疲れきり、自分を呪いながら、静かに筆を進めた。
 ポストに投函した瞬間、ぼくは大きなため息をつき、それからその場にうずくまった。涙が乾くまで一歩たりと動くことができなかった。何も知らずにいたその責任は大きすぎた。なんという人生を生きてきたのか、と赤すぎるポストに凭れて、取り戻すことのできない日々を悔やんだ。
 真実を知ってから、ぼくはもう妄想を抱かないようにして暮らした。あおいの三十歳の誕生日にフィレンツェのドゥオモで再会を果そうというとんでもない約束は、小さく消えてしまいそうな微光しかなかった。
 祖父の見舞いに出掛けた。祖父はなんとか日常生活を送るほどに回復していたが、倒れた時に頭を打ち、軽い言葉障害を起こしていた。ぼくの言葉は理解できたが、返事は期待できなかった。ベッドに座り、窓の外を眺める祖父の姿は痛々しく、ぼくも芽実も言葉が続かなかった。
 午後、祖父は娘の文江が用意していたスッケブックを開き、絵を描き出した。唇を貝のように結んだままの祖父だったが、筆先は饒舌であった。芽実と絵を覗いた。祖父が握りしめる鉛筆の芯先が真っ白な画用紙の上をするすると移動した。そしてそれは次第に一つの輪郭を拵えていったのだ。
 「あ、これ」
 芽実はぼくの方を急いで振り返った。ぼくは祖父の横顔を見つめる。頬骨が張って、逆に目元が窪んでいたが、眼光は鈍く、視線は時折窓ガラスの向こう側にはないはずの、建築物を見つめていた。
 これ、フィレンツェのドォオモでしょ。この半円形の塔はブルネッレスキのクーポラ。おじいちゃんには見えるのね、この窓の向こう側にフィレンツェの街が―
 祖父は黙々と描きつづけた。ドォオモを描き終わると、今度はアルノ川に架かるヴェッキオ橋を描き出した。それからサンタ・クローチェ教会の中庭を描き、最後に女性を描いた。それはマリア像だったが、顔には見覚えがあった。
 ジョバンナ……
 呟くと、祖父がちらりとぼくを見た。口元は固まったまま動く気配もなかったが、目元は僅かに微笑んでいた。祖父の記憶に先生のことを鮮明に焼きついているに違いない。
 阿形清治は絵を描き終わると目を瞑った。何かを思い出そうとしているのかと思い、様子を覗くと、間もなく頭がくらりと下がり、そのうち鼾をかきだした。
 ぼくは先生の似顔絵を掴み、厳しかった日々を思い出した。いろいろと先生から教えてもらった修業時代を思い出していた。身につけた修復士としての技術をぼくは今、腐らせようとしている。このまま何もしないつもりなのだろうか。
 祖父は先生やフィレンツェの街の絵を描くことでそれをぼくに思い出させようとしたのかもしれない。
 ぼくは祖父が見ていた窓の外へ視線を向けた。そこには武蔵野の緑に包まれた景色が広がっていた。フィレンツェの歴史に封じ込められた記憶の街を心の筆は勝手になぞりはじめていた。

 しばらく祖父の寝顔を見ていたが、いつまでも起きないので帰ることにして、支度をしているとドアが開き文絵が顔を出した。その表情は陰鬱としたもので光を吸い取って暗く沈みこんでいた。
 どうしましたか、と告げた直後、彼女の背後から父阿形清雅が顔を出し、口先が凍りついてしまった。父の後ろから、新しい母も顔を覗かせた。勿論、この女を母だと認めたことは一度もない。
 「おお、元気そうじゃないか」
 父は笑顔でそう言った。嘘に塗れた方頬笑みである。顔の半分は長年の嘘のせいですっかり凝固してしまい、彫刻の失敗作そのものだった。父の目は芽実へと移行した。それから彼女の全身を眺め回し、まるで匂いを嗅ぐように鼻で吸い込んだ。
 「こちらは? 新しい彼女?」
 相変わらず無礼な言い方だった。ふと、あおいの顔が頭を過った。あの日、父が言った一言がぼくとあおいの歴史を切り刻んだのだ。ぼくとあおいの絆を切断した。この男がぼくたちの幸福を叩き壊した。
 次の瞬間、父に飛び掛っていた。それから先のことはよく覚えていない。女たちの叫び声が辺りを包み込み、芽実と文江が必死になってぼくを背後から押さえにかかった。父は、出直してくるから、こいつの頭を冷させておけ、と文江に向かって叫んで出て行った。
 すぐに看護婦たちが駆けつけてきて、極度に興奮しているぼくは結局、空いている病室へと連れて行かれ、そこで安定剤を注射されてしまうのだ。
 ぼくが放った数発の握り拳のうち、一発が父の顔に命中した。その感触は腐った木を殴りつけたときの、鈍く不愉快な感触に似ていた。
 
 薬が効いたせいか、眠りこけてしまったらしく、目が覚めるとそとはすっかり暗くなっていた。病室の灯も消され、小さなオレンジ色の室内灯だけが仄かに灯っていた。
 横に芽実がいた。自分がなにをしでかしたのか分かってくるに従い、彼女をまっすぐに見つめることはできなかった。
 「聞いていいかな」
 しばらくして芽実が呟いた。質問すると言うのではなく、自分に言い聞かせるような淡々とした口調である。
 「あおいって誰?」
 ぼくは答えに困った。
 「あおいに何で言ったんだ。あおいに謝れ、とお父様に向かって叫んでいたわ。ねえ、あおいって、誰? 順正が、前にたくさん似顔絵を描いていた昔の同級生のことでしょ。随分と昔に、その人と私のことを間違えたでしょ。抱き合っていた時に、私をあおいと間違えて呼んだ。ねん、あおいって誰なの?その人のことが今でも忘れられないの? 順正とその人の間になにがあったの。ぼくとあおいの子供を返せと叫んでいたけど、それは……」
 芽実はそこまで一気に喋ると、涙を目に溜めて黙ってしまった。ぼくは視線を逸らした。
 「もう昔の話だ。ぼくが学生時代に付き合っていた人だ」
 「二人の間に子供がいたの?」
 「ああ、ほんの一瞬だけど、いた。でももういない。流産だった。」
 ぼくは自分が発した言葉に緒と驚き、悲しみが胸をついた。もういない。もういないのだ。人間のエゴが子供を殺した。それはきっとぼくが殺したも同然なのだ。
 静かな病院にも規則正しい時間が流れていた。時計の秒針が時を刻んでいる。病院特有の臭いは最初の印象ほど嫌ではなかった。エタノールの薬臭い海に、精神が病んだ自分が、どっぷりと浸っているイメージが頭の中に浮かんだ。
 あの時、あおいは一人で病院に行き、一人で処置をした。ぼくには内緒で全て一人で行動したのだ。どうしてぼくを必要としなかったのだろう。苦しい時に誰かに頼ることはできない人だった。いつも自分一人で決めてしまう芯の強さがあった。そこにぼくは惚れ、憧れ、同時にそこを呪った。
 「今もあおいさんのことが忘れられないんでしょう」
 芽実の声は闇の中で震えていた。忘れられない、と言い掛けて口を噤んだ。
 「もう二度とぼくらは会うことはない。二度と愛し合うことはない。それでいいじゃないか」
 自分の言葉に少し酔っているな、と感じ、悔しさにこっそりと舌打ちした。
 「でも順正の心の中には間違いなくあおいさんがいるじゃない」
 「いつもどうすることもできないことはあるんだ」
 「いるのね」
 ぼくは返答に困った。黙っていると芽実の声は次第に感情的になった。
 「二人の間になにがあったのかは分からないし、むごいような言い方だけど、でもはっきりと言う。私には関係のないこと。忘れられない人がいるのに、私をそばにおいて、まるで代替品のように扱うのね」 
 必死で堪えていた感情の堰が切れて、芽実が泣き出した。洟を啜る音が室内に響く。ぼくは芽実の顔を覗き込んだ。
 「言っておくけど、わたしはわたし、誰の変わりもできないし、そんなこと絶対にしたくない」
 「芽実、ぼくはそんな風に思って君と付き合ったことはないよ」
 しかし芽実の感情はもう誰にも抑えることができないほどに激しく撓んでいる。声は次第には荒々しくなっていった。芽実の心模様が手に取るように分かった。
 「同情もされたくない。女にとって同情されて付き合われることくらい酷い仕打ちはないのよ」
 「ちょっと待てよ」 
 行こうとするめ実を呼び止めた。起き上がろうとすると、昼間暴れた時の後遺症らしき痛みが胸を走った。芽実はドアを開けたところで立ち止まるとこちらを振り返った。廊下の光が差し込み、彼女はシルエットになった。ずっと彼女はぼくにとってシルエットだったのだろうか。そんなはずはない。しかしそれを否定すべき言葉が喉元をついて出ては来なかった。彼女がいったいどんな顔をしているのかは判断できなかった。
 「わたしはあおいさんがいなくなった後の空洞を埋めるために順正を愛してきたじゃない。順正が過去を引きずっている限り、わたしはもうやり直すことはできない。侮辱されることがどんなにわたしにとって苦しいことか」
 芽実は言葉を濁したまま出て行った。ドアが再び閉じられ、室内は暗くなった。なんていう日だろう、とため息が零れた。修復士としてまずなにから修復していくべきか、と考えた。この壊れた絵のどこを直すべきだろう。ワニスを塗り直すべきか、板絵の反りを直すべきか、それとも虫穴を塞ぐべきか、木枠を替えるのが優先されるべきか、或は裏打ちをやり直すべきか……。皆目見当がつかず、大きな疲れが波のように間隔を開けては打ち寄せてくるのだった。
 ぼくは起き上がった。いつまでもここで横たわっているわけには行かないと思いながら…… 
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 楼主| 发表于 2006-4-19 10:55:01 | 显示全部楼层
 深夜、家に戻ると、留守番電話の灯が点滅していた。ゆっくりと電話機の前に進み、ボタンを押す。用件が再生されたが、無言だった。湯を沸かし、コーヒーを淹れた。芽実からだろうか、とぼんやりと考えた。
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 楼主| 发表于 2006-4-20 13:37:12 | 显示全部楼层
テーブルに座り、壁に掛けられた祖父の絵を見上げながらそれを啜った。それからもう一度立ち上がると、電話機のところまで歩き、留守機能のボタンを押してみた。
 用件は一件です。と機械が答え、テープが巻き戻されると、再生が始まった。一秒、二二秒、三秒、相手は黙っている。ぼくは耳を近づけてみた。シュー、という微細な音が背後から届いた。
 相手は随分と遠くから掛けてきているような感じをする、と思った次の瞬間、それが不意にあおいからの電話ではないのかと直感し、身震いを覚えた。電話が唐突に切れたので、もう一度ぼくは再生のボタンを押した。テーブルは巻き戻された。さらに耳を電話機に押し当ててみる。シューという音は単なる回線のノイズではなく、その向こう側にどうやら雨の音が隠されているようだ。東京は快晴だった。天気予報によると、今日は全国的に晴れているはずじゃなかったか。
 再生が始まってすぐ、誰かが息を呑むような微かな呼吸音が聞こえる。あおいのような気がしてならない。手紙には住所しか書かなかった。しかしその住所は十年前と変わっていないのだ。ここの電話番号を彼女が覚えているならかけてきても不思議ではない。まさか。
 ぼくはもう一度留守機能の再生ボタンを押してみた。テーブルが巻き戻され、カチッと音がした後再生が始まった。雨の音、息を呑む音、それから硬い音も聞こえた。電話が切られる直前に、背後で戸が閉まるような硬質な響きが録音されていた。
 ぼくは受話器を掴んだ。気がついたらイタリアの国番号を叩いていた。芽実のルームメイトのインスーが出た。今イタリアが何時なのかすぐには判断できなかった。どうしてこんな簡単にインスーが出るのかも知らなかった。半分は夢のような現実味のない、久しぶりのイタリアとの連結である。
 彼女はぼくの電話を喜んでくれた。どうしているの? 芽実は元気? とイタリア語でいろいろと聞かれ、ぼくはとりあえず上の空の状態で相槌を打った。こちらでの生活や、芽実との関係などを簡潔に伝えた。そうね、どこにいても生活をするのは大変なことよ、とインスーが笑った。受話器の向こう側のことが気になって仕方なかった。シューという国際電話特有のノイズがぼくの鼓膜を執拗に引っかきつづける。ぼくは聞いた。
 「今は晴れてるけど、えっ、ミラノ? ミラノの天気が知りたいの? ちょっと待っててね、 今新聞を取ってくるから」
 インスーが受話器を置いた。がさがさというノイズがした。いったい自分のこの落ちつかない気分はなんだろう、と考えた。落ち着け、と言い聞かせようとした。冷静になれば分かることだろう。あおいが電話なんかするはずがない。ぼくは彼女に酷い仕打ちをしたんだ。手紙くらいで、彼女が許してくれるとは思えない。しかも今あおいは幸福の絶頂の中にいる。過去の不幸を思い出したくはないはずじゃないか。
 そう思うと、気が楽になった。何もかもぼくの思い込みが起こした幻想に過ぎないのだ。馬鹿なことはもう考えるのはよそう。
 再び、がさがさという音がして、インスーの笑い声が聞こえた。
 「久しぶりに電話を掛けてきたかと思ったら、ミラノの天気を教えろだなんて」 
 ぼくは、すまない、と謝った。
 「雨ね」
 インスーの声がそう告げ、ぼくは動けなくなった。
 「雨となっている。こっちは晴れているけれど、向こうは一日中雨みたいね。北ヨーロッパの方から冷たい雨雲が南下し始めているのね。この様子だと、ここも明日辺り雨かな」
 「……ありがとう」
 「どうしたの?」
 「いいや、なんでもない。また電話するよ」
 「もう切るの? 芽実は元気? そこにいないの? あの子は君を追いかけていったのよ」
 「さっきまではここにいた。でも今は出て行った」
 「出ていった?」
 「ああ」
 「どうして? ねえ、突然電話をかけてきて、ミラノの天気を聞くだけ? このまま君が電話を切ったら、私を混乱したまま過ごさなければならない。芽実はどうしているの?」 
 ぼくはゆっくり目を閉じた。それから、
 「芽実はね、ぼくに、いまだに忘れられない人がいることを知ったからここを出ていった」と答えた。
 インスーに別れを告げて受話器を置き、もう一度留守番電話の再生ボタンを押してみた。テープが巻き戻された。スピーカーから雨の音が流れ出した。
 
 翌日から、ぼくは待つ人となった。
 部屋から出ずに、ずっとあおいから電話がかかるのを待ちつづけた。しかし一週間経ても電話はかかってはこなかった。芽実も戻っては来なかった。殴りつけた父はどうしているのだろう。祖父は元通り元気になるのだろうか……
 時間だけがぼくの前で冷たく過ぎていく。ぼくは人を愛するということの意味を考えた。苦しくてならなかった。手紙を出したことで、やっと解放されたと安堵していたのに、前よりもいっそう苦しくなった。いなくなった芽実のことも気掛かりだった。何もかもが一緒になってぼくに打ち寄せてきては、ぼくを底なしの沼に溺れさせようとしているかのようだった。
 
 芽実の荷物は置いたままだった。彼女は東京に知り合いがいたのだろうか。芽実とあおい。ぼくの目の前に、二人の女性が全く違った像となって立ち塞がっていた。
 仕事をしなければ、と考えた。これらの全てから解放されるためには仕事をするしかなかった。仕事に打ち込んで全てを忘れるしかなかった。せっかく学んだ修復の技術をここで腐らせることはなかった。
 祖父から紹介されていた修復所を訪ねようと考えた。祖父の容態が安定しているうちにぼくは未来を見せてあげたかった。ちゃんと働いている姿を見せたかった。いや、それはまたしても甘えだ。ぼくはぼくのために働かなければならない、と誰かのために働くのではなく。そう自分に再度言い聞かせた後、着替えた。
 壁に掛けられた祖父の絵は人間にとって一番大切なものが絆であることを物語っている。人間そのものはこの作品にも描かれてはいなかったが、南米の寂れた村の一角が丹念に描きこまれている。幾重もの光が空から注がれており、地面に到達し、その路地の暗がりの中に寄り添う野生の花を浮かび上がらせていた。
 ぼくは絆を取り戻せるだろうか、と考えた。そして靴を履いた。
 電話が鳴ったのは、ドアノブに手を掛けた瞬間だった。反射的に振り返り慌てて靴を脱ぎ部屋に上がると受話器を掴んだ。しかし相手は勝手な予想に反して、祖父の娘文江だった。
 ぼくは落胆を隠しながら、これから就職活動に出掛けるところだったのです、と告げた。
 「おじいちゃんに紹介されていた修復所があるんです。そこの所長さんに一度会いに来いと言われていました」
 「なによりだわ」
 文江の声はいつも冷静な彼女の声に戻っていた。
 「父も今日、退院することになったのよ。まだ言葉障害は残っているけど、日常生活には差し支えがないから、家に戻って構わないってお医者さんが言うものだからね」
 「そうですか、それは良かった」
 「修復所に行った帰りにでも寄ってくれると父も喜ぶと思うんだけど」
 「でも」
 「お兄ちゃんなら、もうニューヨークへ戻ったわ。父が元気になった姿を見たら、さっさとよ」
 文江は鼻で笑った。ぼくは、そうですか、と呟いた。
 「阿形清治が死ぬことを望んでいたんだろうけど、当てが外れたわけね。元気になって安心したよ、なんて言ってたけど、浮かないくらい顔をしていた。最後まで遺言はあるか、とそればかり言ってた」
 ぼくは嘆息を零した。
 「ぼくのことは何か言ってましたか?」
 「いいえ、何にも。反抗したい年頃なんだろうとは言ってたかな」
 「まさか」
 「そうね、でもね、君は少しゆっくりと生きた方がいいよ。君を見ていると、昔の自分を見ているみたいだわ」
 「昔?」
 「うん、昔の私はいつも心がささくれ立って暴れていた。表向きは穏やかなんだけれど、ここの中にいつも満たされないものを持っていた。最初は自分が女だから画壇は私を認めなんだと悩んだものでね。傑作を描いても、認めてもらえない。絶対に差別があると思った。中には父の名を使って画壇でのさばっている、なんて陰口を言う輩もいて、そういう連中は今でもいるけどね。でもそういうのに限って才能のない奴らが多いものだから気にはしなくなったわ」
 文江が珍しく自分のことを喋っていることにぼくは少し驚いた。
 「あの頃、女じゃなかったらな、とよく腐ったものよ。でもそれも今は間違った考えだったと自覚した。いい、芸術家はね、余計なことでくよくよしないで自分さえ信じていれば絶対に登っていけるものなのよ。男だとか女だとか、名声とか成功だとか、それは創作活動には全く関係のないこと。もっとナチュラルにならなければ、と考えて、私は父を真似て、前の夫と離婚した後、世界を放浪したの。いい経験になった。少しは人間というものが分かってきたところよ」
 「どうしてそんなことをぼくに話すんです」
 「え、なにが?」
 「今まで、そんなこと話したこともなかった」
 「私は余計なお世話というのが嫌いだからよ」
 「じゃあ、何で今は余計なお世話をするんですか?」
 「いいじゃない。血がつながっているからよ」
 ぼくは、血か、と呟いた。
 「今の君を見ていると、しがらみが多すぎて苦しそう。それは昔の私そのもの。芸術家はしがらみに支配されていては駄目」
 鼻で笑った。
 「しかし、ぼくは芸術家ではありません。技術家だ。芸術家が作ったものを直すだけの修復士です」
 「いいえ、そうとは思わない。あなたが選んだ仕事は芸術を単に蘇らせるだけの魔法使いのような仕事ではないはずよ。時間を創作する芸術なんだと思う。修復士は立派な芸術家だわ。しかも時間を素材にした」
 そうかな、とぼくは言い、それ以上は何も言わなかった。文江は、修復の仕事に戻りなさい、と告げて電話を切った。
 ずっとどこか分江のことを父の同類のように考えていたが、それはぼくの大きな誤解のようだった。まるで父がぼくに言わなければならないような台詞を親ではない文江が口にしたことが、ぼくに静かな一条の光を投げつけた。ふと顔を上げると、祖父の作品「絆」が目に留った。
 そこでもう一度電話が鳴った。受話器を掴み、はい、阿形ですけど、と告げた。すぐには返事が戻ってこなかった。心の中に冷たい風が吹き抜けていき、逆に心臓が勝手に高鳴っていくのが分かった。
 「すみません、間違えました」 
 数秒の空白の後、相手はそう言い電話は切れた。不意に長かった空白が見えた、気がした。
 「あおい」
 ぼくは受話器に向かって声を張り上げていた。しかし既に回線は閉じられており、受話器からは規則的な信号音だけが漏れていた。
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 楼主| 发表于 2006-4-20 13:38:20 | 显示全部楼层
第10章 青い影 

 ぼくの広場。
 かつてそう呼んで愛した女性がいた。周囲とうまく溶け合うことができず、行きにくそうにしていたぼくにとって、彼女はまるで路地の突き当たりにある、突然視界の開けた都会の広場のような涼しい存在だった。用もないのにぼくは、時間を持て余した老人たちが好んでそうするように、毎日そこを訊ねる。
 アメリカで生まれ、十八歳まで祖国を知らずに育ったぼくにとって、同じ顔をした同輩たちはみんな違った心の回路を持った異人たちでしかなかった。考え方がまるで違い、神経をすり減らすことばかり。
 ここはアメリカじゃないんだぞ、とそれまでの生き方まで批判されたことがあった。大学生活の中でやっと心を休めることができる広場を発見した時、ぼくはこれが初めての愛だと知った。だから全力で彼女を愛し、そのせいで力加減が分からなくなって、つい愛しすぎてしまった。
 急がないで、と常にクールなその人は言ったのに、ぼくはその人の全てを欲した。
 夏の光は、永遠ではなく儚い、そしてどうしてこんなにい臆面もなく無垢でいられるのか。夏が来るたび、その明るさに目のやりばを失い、つい日陰を選んで歩いてしまう。それがぼくのこれまでの生き方だった。
 
 芽実がここを出て行ってひとつの季節が過ぎようとしている。ぼくのいない時を狙って、荷物を引き取りに来た。置手紙には、古い友達の家に世話になるから心配しないください、と思ったより淡々とした筆致で書かれてあった。それっきりぼくは彼女には会っていない。
 かつて、同じようにこの梅ヶ丘のアパートから出ていった人がいた。いや、正確には追い出してしまった女性がいた、と言うべきだろう。折角手に入れた自分だけの広場だった、心を癒す場、未来を考える場所……
 なぜ別れなくちゃいけないの?
 玄関口に佇み、震えるような小声でその人は言った。冷静さを失っていたぼくは、彼女が何か言うたび、一人でどんどん傷ついて、壊れるしかなかった。愛しすぎたがために、元に戻れないこともあった。
 なぜだって? 君っていう人は、信じられないな―
 頭の中が真っ白になって、聞く耳などとっくになかった。
 今までと同じようにやっていけると思っているのか。呆れるな。自分がしたことがどれほどのことなのか、分からないのか。出て行ってくれ。もう二度とここには立ち寄らないでくれ―
 興奮していた自分とは裏腹に、彼女はずっとぼくの足元ばかりを静かに見つめていた。それから、視線をあげることもなく、音もなく、玄関の外へと消えた。
 広場を失った後、人生の終焉を待つ最晩年の老人のように、ぼくはもう散歩に出掛けることもなくなり、再び孤独の部屋の窓辺で降り注ぐ陽の光や、流れる雲だけをぼんやりと見上げるようになった。心に鍵を掛け、誰とも会わないようになるのだ。
 
 午後、ぼくは仕事に出掛けた。祖父に紹介された千駄ヶ谷にある修復所に勤めるようになって、三ヶ月ほどが経っていた。新しい工房は千駄ヶ谷の森に隣接する涼しげな場所にあり、ちょうどぼくの作業をしているところから外苑の木立が正面に見えた。
 日本とイタリアの修復の仕方には多少の違いがあったが、紹介者が祖父と言うこともあり、またイタリアの技術を持っていることも珍しがられ、給料面や時間面で、思ったよりも待遇のいい再就職となった。
 修復術というものがあるとしても、実は個人によってかなり手法に幅があった。これが正しい修復法である、と教科書的に決め付けることもできたが、実際にはその作品の壊れ具合や制作された時代、さらには画家の独特な手法などによって、修復方法もまちまちなのが普通だった。それに加え、修復士それぞれが開発した技法などの違いによって修復術など、修復士の数だけあるといって過言ではなかった。
 ぼくが日本の修復所にすんなりと迎え入れられたことも、驚くどのことではなかったのかもしれない。むしろ多くの経験と実績があるぼくは重宝された。
 
 久しぶりに工房の匂いを嗅いだ時、不思議なことに心が癒された。ワニスや画材の独特な香りが臭覚神経を伝わって、脳の、記憶を司る場所を刺激し、ジョバンナの工房で働いていた頃の最も楽しかった修業時代を思い出させた。
 新しい工房の作業場は贅沢なスペースが各修復士たちに与えられており、ぼくに与えられた空間はかつてジョバンナの工房で与えられていたものより三倍は広く、隣とはきちんとした間仕切りがあって、プライバシーまで保たれていた。
 静かなクラシック室内楽が邪魔にならない程度の低い音量でスピーカーから流されていた。天井も高く、作業台や照明器具やクレーンなどの近代的な設備も揃っていた。
 ぼくは最初から予想外の仕事を任された。
 たまには有名な美術コレクターが他界し、その人物が所有する名画を一気に展示しようという企画が持ち上がった。その中にかなり損傷の激しい一枚の絵があった。フランチェスコ・コッツアの最晩年の油彩画である。
 この因果めいたコッツアとの再会はぼくを大いに驚かせた。

 一六〇五年、イタリア・カラブリアのステイロで生まれ、一六八二年にローマで死んだフランチェスコ・コッツアは日本ではほとんど無名である。しかし美術史にはしばしば名を登場させている。こっつあのことを十七世紀中頃における最も重要な画家と位置付ける評論かもいる。イタリアでは彼についてのモノグラフィーも出版されている。
 現在はアムステルダムの国立美術館とコペンハーゲン国立美術館、ローマの国立美術館などで作品を拝むことができるが、もともと寡作な画家だっただけに、作品の数は極端に少なく、後は個人の所蔵か或は教会の所蔵ということになる。
 日本で今回のようなケースでコッツアの修復にめぐり合えたことは非常に珍しいことだと言わざるを得ず、同時に某かの縁を感じないわけにはいかない。あのじけんがあったあとだけに、さらには日本に戻って自分の道を選択に迷っていた時期だっただけに、突然現れたコッツアの作品に何かしら神の意思を覚えずにはおれなかった。
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 楼主| 发表于 2006-4-21 10:56:32 | 显示全部楼层
 コッツアの絵は、長いこと適切な保存をしていなかったために、多分湿気の多い場所にでも立てかけられていたのだろう、小さな浮き上がりと剥落が画面全体に散在していた。大きなものは丁度中央部に十センチ四方で剥落が集中していた。
 所有していた人物の品位まで疑われかねない保存状態と言える。しかし画家は日本では無名でも、十七世紀を代表するフィレンツェの天才画家である。企画した美術館の館長がぼくの噂を聞きつけてやって来て、どうしてもこれを蘇らせたいと言った。しかも保存の状態の悪さを一般には知られないように密かに蘇らせてほしいというのである。コレクターとの関係上、こういう話はイタリアでも珍しいことではなかった。
 工房にも多くの優秀な修復士がいたが、幾つかの大きな仕事にかかりっきりで、飛び込みの仕事にまで手を回すゆとりはなかった。そこにぼくの存在がいっち合致した。自分の地味で垢抜けない二十代ともう一度きちんと向き合うためにも、気持ちを新たにして、コッツアの修復に没頭することを決めた。
 
 作品には、いつの時代にかは計りかねたが修復が施された後があった。三百年程前の作品なので、その間にコレクターが修復士に修復を依頼したのだろう。美術館の館長によると、現在のコレクターがこれを購入してからは一度も手を入れてはいないということだったので、多分本国イタリアの修復士によるものに違いない。
 
 ぼくはじっとコッツアと向かい合うことから始めることにした。作品そのものから、自分はどうされたいのか、を聞こうとしたのだ。修復士が技術におごって勝手に修復をするのではなく、絵に宿った魂の声にまず耳を傾け、その声と調和しながら修復をするのが、ぼくが信じるベストの方法である。
 まず全体を眺めて感じた印象は、コッツアの作品にしては色が重く沈んでいるような気がした。前の修復本来の持ち味が殺されてしまっている気がしてならなかった。
 古典主義に深く帰依していたコッツアであったが、アカデミズムからは遠く孤高な人物であったという。彼の作品からはどこか霊的な力を感じた。前の修復士はそういうコッツアの魂の部分を無視して自身の印象を優先させて色を塗布した感じがあった。
 X線写真や紫外線蛍光写真などを使った修復前の下調べによって、前の修復の時の補彩(リタッチ)のしすぎで、かなり濃厚に絵の具が原画の上にまぶされているのを発見した。また絵の具層は明るい部分に特に厚く塗られ、逆に暗いところは薄かった。
 絵の表面に厚く塗られているワニスと前の修復士が行った手術とも言える補彩部分はできる限り除去することにした。ワニスの洗浄はミネラルスリットで上層を、下層はエタノールで行った。エタノールのつんと鼻を突く匂いに懐かしさを覚えながら、十七世紀の天才の魂に寄り添った。
 旧補彩の除去もエタノールを使った。ある程度の除去が終ると、絵の具層の表面に茶褐色の新たな汚れが付着していることが分かり、それは希アンモニア水で落としていった。
 洗浄は一種のカタルシスを修復士につれてくる。作業中でも地味なものだが、ぼくはこの時に気持ちが浄化されていくのを覚えることが多い。絵画がかぶってきた時間的、或は政治的、宗教的な汚れを一端洗い流すことで、絵を元の、絵が描かれたときの純粋な状態へ戻してあげるのであった。
 エタノールで前の修復士の邪念を拭き取っていく行為の中に、自分の心を洗うような瞬間を覚える。人間の業を洗い流していくような清々しさ。心と静まり返った境内を一本の箒で掃除をしているような静かな感動があった。
 その時、絵画の方は、床屋の主人に髭を剃られている客だった。椅子の上に横たわり身を委ねている一人の純朴な客であった。じょりじょりと剃り落とされていく汚れの下にスベスベとした皮膚が待っていた。
 
 全ての洗浄後、雨雲のような汚れの下から美しい原画の青空が出てきた。その瞬間、ぼくはコッツアの霊にこれまでの人生を許されたような気がしたのだった。
 原画がもともと持っていた色は予想を上回る見事なものであった。
 青空はイタリアの瑞々しい青の印象をいまだに内在していた。暗い木々のシルエットと対照的な突き抜けるような青い空である。
 遥か彼方の山の稜線か空と微妙な一線を画し、その上を漂う雲が淡々空に滲んで、次第に空色と溶け合うようは実に美しかった。
 木枠の虫食いの処置を施し、支持体の張り直しをした後、ぼくは自身の魂をコッツアの霊魂に近づける作業に入った。画家と時間を超えて一体化する素晴らしい瞬間である。
 画面に防腐剤を塗布し、溶剤型のアクリル絵の具を使用した。補彩こそ修復作業の花形ではあるが、実はここに至るまでの厳密な施行処置の結果が補彩という大イベントを華やかに打ち上げるのだった。
 ぼくは細い筆を握り始め、手首の力を抜いたり込めたりしながら、補彩を開始した。孤高の画家コッツアが静かにカンバスと向かい合った当時の気持ちを心に描きながら、色を点じていった。長い修復の過程、じっと抑えてきた喜びがここに来て一気に浮上してくる。ぼくの一番好きな瞬間でもある。タイムマシーンに乗って十七世紀に戻っていくのだ。会ったこともないコッツアその人と自分が一体になる。彼が見て、感じて、興奮して、瞑想した、その時代の息吹に出会うのだった。ぼくはシャーマンになる。
 筆が自然に動き出していた。自分の能力を超えて、まるで天国にいるコッツアの霊魂とつながったかのように一体感を覚えた。修復士だけに与えられた至高の一時。

 切り裂かれたコッツアの絵を思い出した。もう何度も悪夢の中で見た絵である。しかし、この修復によって、あの痛みからもやっと立ち直ることができ、コッツアとも和解することができた。
 ぼくはやはり修復士として前に進むしかない、と考えた。過去といっそう和解しながら未来へと登っていくしかないのだった。
 与えられた、単調だがデリケートな手作業を黙々とこなしていくうちに、肉体のささくれは少しずつほぐされていった。短期間で新しい職場に馴染むことができたのも、修復という技術の、温もりと深みのある仕事のお陰でもあった。

 日本人の修復士たちはみな静かで穏やかな連中だった。仕事が終ると、時々駅前の居酒屋にのみに出かけたが、私生活のことや、画壇では名の知れた存在である祖父について、誰も必要以上のことは口にはしなかった。
 広い工房の区切られたそれぞれの空間に、作業着を着た修復士たちがぽつぽつと立っている姿は、まるで彼ら自身が展示された貴重な彫刻作品のようでもあった。それは修復所でしか嗅ぐことのできない尊い空気感の彫像とでも言うべきもの、だった。
 真夏の夜、修復所の仲間たちと珍しく夜遅くまで飲んだ。話題はずっとラッファエッロについてだった。誰かが、君はラッファエッロの顔に似ているな、と言ったのがきっかけで、話はルネッサンス期のフィレンツェ美術全般に及んだ。前にもイタリアの美術館で同じように言われたことがあったことを思い出し、自然相好が崩れた。ちょっとぼうっとしているところが似ているのかな、と告げると、控えめな笑いが起きた。
 ラッファエッロの描く聖母像が好きだった。他のどの画家の聖母よりも優しくふくよかで、理想的な美しさを持っていたからだ。
 ラッファエッロの描く聖母像について話しながら、ぼくはあおいのことを思い出した。彼女はずっとぼくの聖母だった。出会ってから別れるまで、いや、或は未だにそうなのかもしれない。別れて七年もの歳月が経つのにますます彼女の存在は心から離れなくなって大きく膨らんでいた。
 
 あの日、かかってきた電話は本当にあおいからのものだったのか。間違えました、といって切れてしまったが、その声はあおいの声に酷似していた。七年という歳月が流れてはいたが、あおいの声を間違えるはずはない。
 ではどうしてそれを確かめるためにミラノへすぐ出掛けなかったのだろう。あの電話が本当にあおいからのものなら、それは少なからず、過去を手繰り寄せようとする何らかの信号であったはず。ぼくがこれほど忘れられないように、彼女も忘れずに居てくれるのかもしれない。フィレンツェのドゥオモで会おうという約束を覚えていたのかもしれない。
それはもう来年のことなのだから。
 百パーセントの自信があるわけではなかった。急ぐ気持ちをどこかで冷静な自分が押し止める。アメリカ人の恋人と仲良くやっているところへ、のこのこ出かけていって、彼女を困らせる権利はもうぼくにはない、と考えてしまう。かつてあおいを追い出した人間だ。恨まれこそすれ、未だに愛されているなどと思うのは、どうしようもなく愚かな人間が描く妄想に過ぎない。もしもあの電話の主があおいではなかった場合、ぼくは今という時代を生きるあおいの人生に泥を塗ることになる。
 勇気がなかった。会いたい。人目だけでいいから今の彼女を見てみたい。毎晩、ぼくは彼女を思っている。思いながらも、この思いが過去を覆すことができないような気がして、気弱になる。あおいの絵を描いた。一人きりの夜、真っ白な画用紙の上、彼女の記憶の線を無数になぞった。
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 楼主| 发表于 2006-4-25 14:27:47 | 显示全部楼层
修復所の仲間たちと新宿駅で別れ、ぼくは小田急線に乗り換え、梅ヶ丘の駅で下りた。駅は何もかもが学生時代のままで、まるで時間を逆戻りしてしまったか、と錯覚が起きたほどだ。反対側のプラットホームに成城行きの電車を待つ当時の二人が立っているような気がした。
 改札を出て、北側のロータリーに出る。街灯の光が駅前を照らしていた。電話ボックスの辺りで酔っ払った大学生らしき青年たちが騒いでいる。彼らの無邪気な声だけが、夏の夜に響き渡っている。この七年、ぼくはどうやって生きてきたのか、全く思い出せなかった。
 アパートに着くと、玄関先に人影があった。芽実は自分の膝小僧を抱えて丸くなっていた。足音に気づいた彼女が顔を上げ、ぼくを無言で見つめた。
 二人の口から言葉が溢れ出ることはなく、思いはもどかしいくらい慎重にお互いの喉奥を焦がし続けた。長かった髪が耳の上で刈られている。ぼくへの当てつけのように、痛々しいほどに短くなっていた。
 「連絡もよこさないで、どこにいたんだい」
 聞いたが、芽実は答えなかった。それどころか唇を尖らせ、目つきには、決意のようなものが鋭く滲み出ている。
 「はっきりとさせたくてきたの」
 彼女は立ち上がった。ぼくは鍵を開け、ドアを引いた。芽実は何も言わずに中に入った。ソファの上に、あおいの似顔絵が数枚置きっぱなしになっていて、二人の目が同時にその上で止まった。芽実はしばらく立ち尽くし、それらの絵を見下ろしていた。ぼくは慌てることもなく、一枚一枚掴んでは回収していった。
 芽実は、小さくため息を漏らすと、窓辺の椅子に腰を下ろした。ぼくはソファに座り、彼女の言葉を待つ。
 「別れなければいけないんだよね」
 不意に弱々しい言葉が届けられたかと思うと、洟を啜る音が室内に薄く響いた。彼女の横顔を見上げると、芽実の視線はまっすぐに祖父が描いた絵「絆」へと注がれた。
 イタリア人と日本人の地が混じり合って、彼女の骨格はぼくのそれとは微妙に異なっていた。上品な鼻は小さくて形の良い唇の上にあった。大きく輪郭のはっきりとした瞳は電球の明かりを受けて底のほうからいっそう輝いて見えた。東洋人と西洋人の持つ美しい部分を見事に受け継いだ、一つの芸術品のような華やかさを持っていた。彼女はなのに、自分がハーフであることに対して一度もその容姿を喜んだことはなかった。むしろ憎んでいたといったほうが適切だろう。
 「もうおしまいなんだよね」
 フィレンツェで芽実に付き纏われてうるさいと思った日々を思い出していた。でもその少女のような無邪気なところが彼女の持ち味でもあった。子分のようにいつもいつもくっついてくる彼女を鬱陶しく思いつつも、同時に世界でたった一人の妹のように可愛らしいと思うこともあった。
 「おしまいとか、別れとか、そういうのじゃなくて」
 芽実は泣き出した。それから不意に泣くのをやめ、今度は無理して笑って見せた。洟を幾度と啜りながら、必死に自分を保とうとしている。
 「慰められたくない。捨てられるんなら、はっきりそういってくれなきゃ、そうじゃないと、ずっと思いつづけることになるのよ。だって、私にとって、順正はたった一人の、世界でたった一人、本当に愛した人なんだから」
 面倒くさいと考えている自分が許せなかった。この子が自分のことを本気で愛してくれているのを実は誰よりも知っていたから。それなのにぼくは、残酷にも、容赦なくこの関係を終らせようとしている。
 「思い出してくれないかな。いっしょにアルノ川の河畔を歩いたでしょ。手を繋いで、お買い物をして、夕ご飯を食べて、ワインを飲んで、キスをした。何度も何度も抱きあった。順正の肉体の隅々まで知っているよ。誰よりも誰よりも知っている。ねえ、こんなに愛しているのに、別れなければ駄目なの」
 子供だな、といつも思っていた。何をやっても失敗ばかりする芽実に、よく手を焼いた。でも、面倒くさいと思いながらも、同時にそこが彼女の魅力だとも思う。正直、芽実と別れた後、十年後、彼女の事をあおいのように思い出さないとは限らない。彼女の言うとおり、ぼくは芽身に救われたことが何回もあった。この子の子供っぽいところに安らぎを感じたことがあった。
 偽善者め。ぼくは自分の心を批判する。
 「芽実、好きだけどどうしようもないことはある。人間はいっぺんに二人の人を愛せない。このまま君と居るのが気持ちいいから言って、自分を誤魔化し、君を騙して最悪のところへ二人の尊い未来を向かせるわけには行かない」
 芽実がこちらを振り返った。美しい顔だな、と思う。苦悩する人間はもっとも美しい。
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发表于 2006-4-25 16:35:39 | 显示全部楼层
初めのとき、あたしは見たのは中国語の訳文です。なんだかみにくいかんじがあります。今、原文を見たら、はっきりになったと思いました。でも、女のこの考え方はなかなかなっとくできません。。。
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 楼主| 发表于 2006-5-15 16:42:38 | 显示全部楼层
 「その未来がどんなに最悪でも、順正といられるならいいのに。私誰にも負けないよ。誰よりも順正を愛せる自身があるんだもん。大人になるから。ねえ、もっともっと頑張って、もっともっと綺麗になって、そしてもっともっといい女になってみせるから」
 「そうじゃない。君は今のままでいいんだよ」
 「いやよ、私変われるもん。順正に愛されるためなら、なんだって出来るもん」
 
 沈黙が続く。長い空白だった。その間芽実はずっと瞼を閉じていた。時々唇を噛み締めるせいで、顎の肉が微細に震えた。
 「パパと言葉が通じなくて悲しいと思いをしたとき、順正がいるから私はやっていける、生きていけると思えた。君がいない世界なんて何にも意味がないことが分かった。この数ヶ月、私よく考えたよ。またもう一度最初からやり直せるなら、頑張るのに」
 胸が痛む。自分が苦しんでいるのと同じように、芽実も苦しんでいる。苦しさを分け合うのもまた愛の一つの結末なのである。
 「死のうかな」
 「下らない。そんなこと君には出来ない。そんなに弱い人間だったのか」
 芽実は声を出して泣いた。今度は絶えることもなく延々と。
 どうしてあの日、あおいは泣かなかったのだろう。ぼくの前で泣いたことがあっただろうか。いやあったはずだ。泣き崩れたことだってあるはずだ。なのに、印象は、鎧を着たジャンヌ・ダルクのようにいつも凛として強い人だった。
 泣き止んだ芽実は歯を食いしばり、ぼくを睨んだ。
 「じゃあ、私が誰か他の男性と付き合うようになってもいいのね。私のことを順正以外の人が可愛がってもいいのね」
 芽実を抱きしめる見知らぬ男の影が脳裏を過っては、不意に胸元が切なくなった。ぼくの腕の中で子供のように無邪気に眠る芽実の顔を思い出した。
 光の中で、あおいの顔を見たことはなかった。あおいの寝顔には月明かりの印象しかなかった。青い影が顔の表面を包み込んでいる、静かな印象だけがあった。
 「いいかね」
 少し躊躇ってから、頷いた。芽身の顔の中で神経の樹木がすっくと立ち上がる。
 「いいの? いいの? 知らない男の人と付き合ってしまっても。もう戻りたくても私はいないんだよ。いなくなっちゃうんだよ」
 「仕方がないよ」
 「どうして?」
 「それは」
 芽実は立ち上がると、Tシャツに手を掛け、いきなり剥ぎ取るように脱いだ。そのままジーパンにも手を掛けた。
 「おい、何をする。服を着ろよ」
 「いやよ」
 「いやじゃないよ。服を着るんだ。裸になったって、何も変わらない」
 

 
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 楼主| 发表于 2006-5-17 13:54:33 | 显示全部楼层
 芽実の手が止まって、彼女は再び泣き出し、泣きながらも服を脱ぎつづけた。下着を外すと、胸が露になった。短くなった髪のせいで、頭がいっそう小さく見える。
 一糸まとわぬ姿になるとぼくの前に立ち上がり、まっすぐにこちらを見下ろした。心が震える。この子の心がどれほど本気になのか伝わってくるからだ。こんなに誰かに愛されたことがかつてあっただろうか。あおいは?
 芽実の真剣な思いは何よりいとおしく、また大きな厄介でもあった。
 彼女をそっと抱きしめると、温もりと心臓の鼓動が伝わってきた。彼女は身を捩って激しく求めてきたが、ぼくはそれを押さえ込んだ。はがい締めにして、抱きついてこようとする芽実を阻止した。彼女は動物のような唸り声を上げた。何か言いたかったのだろうがそれは言葉にはならなかった。凶暴に興奮する芽実。獣のように全身でじたばたする芽実。顔をクシャクシャにして意味不明の言葉を絶叫する芽実。
 彼女の両腕を左右から固め、じっと動かず、彼女の熱が冷めるのを待った。ぼくが動じなければ動じないほど、芽実は興奮して暴れた。まるで発作を起こしたかのように腕の中で暴れまわった。

 五分ほどすると、芽実は次第に熱が奪われ、腕の中でぐったりとなった。ぼくは彼女が動かなくあるのを待って、抱きかかえるとベッドに運び、そこに横たえた。芽実の啜り泣きだけが耳に絡んできた。それを振り切るように部屋を出る。戸を閉め、小さく息をついた。
 これでいいのか、自分には分からなかった。何もかも失ってしまった気がした。仕方がない、こうするよりほかに自分が正直に生きる道はないのだから。
 ソファで眠り、朝のまぶしさの中で目覚めた。芽実が起きる前に出かけることにした。会わないでいたかった。盗人のようにドアを開けて、外に出る。涼しかった。しばらく青空の先を見上げて、何かを待った。しかし何も起きないことが分かると、ぼくは工房のある千駅ヶ谷を目指して、一人出発した。
 
 時間だけがいつも静かにぼくを世界と繋いでいる。工房の与えられた作業場で精神を保つために少しずつ仕事をこなしていった。単調な作業がこれほど心を癒すとは思わなかった。壊れたり、剥落している箇所を直しながら、そうすることで自分が正常にも戻っていくようなカタルシスを覚えた。
 
 夕刻、少し早めに仕事を切り上げ、祖父の見舞いに行く。新宿で電車を下り、西武新宿線に乗り換えた。夏の終わり、汗ばむ季節から、心が乾く季節へと移っていくのが、空気の冴え冴えとした澄み具合で分かった。
 
 祖父は木製の古いベッドで寝ていた。入退院を繰り返しているせいもあり、この数ヶ月、目に見えるほどの勢いで体力が落ちていた。
 
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发表于 2006-5-17 15:19:31 | 显示全部楼层
バリバリいいものですね!
お疲れさまでした。
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 楼主| 发表于 2006-5-26 11:34:39 | 显示全部楼层
 祖父は木製の古いベッドで寝ていた。入退院を繰り返しているせいもあり、この数ヶ月、目に見えるほどの勢いで体力が落ちていた。喋るという行為の感覚を何とか回復してはいたが、口元の神経が鈍くなっているせいで、笑みは頬の上で強張りいつもより少なかった。しかしそれは他にも理由があった。可愛がっていた芽実とぼくは別れたことをどうも知っている様子なのだ。或は芽実がここを訪ねたのかもしれない。
 「仕事のほうは順調かな」
 祖父の声は低く、力がなかった。
 「はい、日本の修復の仕方も勉強になります。それにこっちの修復士たちはみんないい人で、思ったよりもうまくやっていくことが出来ています」
 祖父は頷いた。悲しいほどにやつれている。もう彼には時間がないのだろう、と察した。しばらく世間話をしたが、話はかつてほど弾まなかった。
 「馬鹿息子からはその後何か連絡はあったのか」
 「父からですか」
 祖父は無理して笑おうとしたが、そのたび頬の筋肉が引きつり、続いて咳が出て、最後に顔が強張った。
 「いいえ、あれきり」
 「全く、いい気なもんだな」
 「ぼくに父がいることと自体が信じられない。あの人とちゃんと話したこともないし、それに、それに母さんの自殺は父が原因なんでしょ。あの人が殺したようなものなんだ」
 言い過ぎたかな、と思ったが、祖父は、一度目を伏せてから、覚悟を決めたように頷いた。
 「事故のような自死だったと聞いているが、彼女を死へと追い込んだのはむしろあいつだったかも知れなんな」
 「事故のような?」
 「ビルの屋上から落ちた。泥酔いしていた。目撃者によると雪のちらつく日に、ビルの縁をずっと、歩いていたのだそうだ。しばらく行ったり来たりを繰り返して、それから……」
 初めて聞く母の話である。薬を飲んで死んだと父から聞いていた。
 「心が既に壊れていたに違いない。そうさせたのは間違いなく清雅だろう。あいつが今の女と会うようになった頃のことだ」
 商事が半分開いていて、庭の松の木が見える。祖父が最も大切にして育ててきた木だ。阿形清治は視線をそちらへゆっくりと移動した。その頃のことを思い出しているのだろう。ぼくには思い出したくても母の記憶はなかった。
 「私生活のほうはどうだ」
 祖父がしばらく沈黙した後、話題を変えた。ビルから飛び降りた瞬間の母の心の苦悩を想像して、呼吸が出来なくなった。気持ちが落ち着くのを待ってから、いろいろとあります、と言い訳をした。祖父が芽実のことを案じていることは顔つきから分かった。 
 「いろいろとあるのは当たり前だ。でも、後悔しないことだな」
 「はい」
 芽実のことを、結局祖父は口にしなかった。疲れた、と一言呟き、そのまま目を閉じ、眠ってしまった。
 
 祖父が唯一の家族だった。その寝顔を見ながら、思わず涙腺が刺激され、涙がこぼれ出そうになった。母は最初から不在で、父はずっと他人だった。祖父が死んだら、ぼくはまた一人ぼっちに戻ってしまう。芽実もいなくなり、だからといって、あおいとの再会に希望を持つのも難しい。
 あおい。
 何もかもを失った時、ぼくはいったい何をどう修復すればいいのだろう。
 ぼくは今、修復の方法を見失ってしまっている。どんな風に心の穴を塞げばいいのか分からない。いつものようにこつこつ直していくしかないのに、ぼくの手は動かない。未来という名の完成図がまるで見えてこなかった。

 秋の始まり、工房に男が訪ねてきた。阿形君、お客さんよ、と事務の女性がやってきて告げたので作業の手を休め見返ると、彼女の後ろに見覚えのある顔があった。視線が一点に向けて凝固し、思わず肺を囲む筋肉が引き締まる。高梨明はフィレンツェの工房で席を並べていた頃より幾分ふっくらとしていて、そのせいかふてぶてしかった顔は当時よりは妙にコザッパリと見えた。
 「よくここが分かりましたね」
 「君のことが話題になっているからね。この世界は狭いから」
 「それはいい話題ですか?」
 「まあな。またもやうまくやったな、という感じだ。君が修復したコッツアのできばえが評判になっているよ」
 彼は口許に笑みを浮かべた。相変わらず挑発的なところは変わっていなかった。「折角来たんだ、仕事が終ったら再会を祝して乾杯と行こう」仕方なく頷いた。

 青山の交差点から一筋入ったところに高梨の行きつけのロシアレストランがあった。バラライカの奏者が舞台の上でロシア民謡を演奏している。
 「先生とはその後」
 当り障りのない話題が過ぎた辺りで、高梨が呟いた。
 「連絡もしていない」
 「自分の息子のように、あんなに親身に面倒を見てくれてたのにかい」
 「その話はあんまりしたくないな」
 「あの絵を引き裂いたのが先生だからか」
 ぼくはワイングラスに口をつけたまま、高梨の顔を睨んだ。こぼれ出そうになったワインがグラスの中で波うように揺れている。
 「お前に嫉妬していたとはな」
 「そんなことはない」
 「しかし工房の連中はそういっていた」
 「言いたいやつには言わせておけばいい」
 「じゃあ、なぜ先生と連絡を取り合っていなんだ」
 「ジョバンナは……」
 久しぶりに口を突いて出た言葉に驚いた。ジョバンナは、そんな人間ではない。そういうと、ぼくは席を立った。感情がこれほど重たいものだとは気がつかなかった。立ち上がろうとして、目が眩み、その場に崩れそうになった。
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 楼主| 发表于 2006-5-26 11:36:12 | 显示全部楼层
第11章 三月 marzo

 子供のころ、日曜日はずっと嫌いだった。理由は、父が家にいたから。
 父親が家の中をうろつき出すとぼくは決まって子供部屋に避難し、鍵を掛けた。
 父親の存在を掻き消すためにラジオのボリュームを上げた。セントラルパークを健康的に走る人々を窓越しに見ては、自分だけが城の牢獄に繋がれた囚人のような気分になったものだ。
 三月。日曜日の羽根木公園は開花した梅を一目見ようと東京から集まった家族連れで賑わっている。梅を見るのは嫌いじゃなかったが、家族連れを見るのが堪らなく辛く、我慢できなかった。だからぼくは羽根木公園からすこしでも遠ざかろうと電車に乗った。\
 西暦が二〇〇〇という数字を突破したのに、ぼくは八年前を相変わらず引きずって生きていた。人類は希望をいつも未来と重ね合わせる動物だ。しかしぼくはそうじゃない、修復士という職業柄、過去を大切にもって生きる小動物なのだ。
 赤い小さな花を咲かせた梅は桜に比べずっと地味で謙虚な花だ。この花を見上げながらぼくとあおいはいつも未来について語り合った。結婚、出産、育児、家庭、老後……時間のある限りぼくたちは二人の未来を想像しあった。未来を想像するのは、お金のなかったぼくたちにとっては優雅な遊びでもあった。
 「子供は二人ほしい」 
 梅を見ながらまだ学生の彼女はそう言った。そしてまだ学生のぼくは、兄弟がいると楽しいだろうな、と無邪気に同意した。その時はまだ二人とも、行く手に待っている不幸について想像することなど全くできなかった。
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发表于 2006-5-27 18:48:22 | 显示全部楼层
楼主辛苦了。看了你的提议。不错,但是,如果有更新不就跑到上边了吗?
我在考虑考虑有没又好的方法。
另外,多谢对本版的支持。
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发表于 2006-6-4 21:27:54 | 显示全部楼层
お疲れ様

我有这本书的 看来要好好看一下
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