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发表于 2006-4-18 10:42:35
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第9章 絆 legame
手紙を書いたことで、そしてそれを投函してしまったことで、ぼくはなぜか全てを納得してしまったかのように、あおいのことを忘れる決意のようなものができた。今日まで、ぼくの中にはずっとあおいのことがあり、それが日常を執拗に浸食していた。なのに、今は風邪が峠を越したような軽さを取り戻すことができた。いやこれは軽さではない、むしろ逆、重さと言った方がいいかもしれない。重すぎるから、諦めることができるのかもしれない。
崇がぼくに告げた真実は、過去の謎と疑念を晴らした。
「稽留流産?」
「どっちみち助からなかったんだ」
崇は小さく首を振りつづけた。
「しかし彼女にそうさせたのは他にもっと大きな理由がある」
ぼくはじっと彼の次の言葉を待った。判決を言い渡される被告の面もちで……
「あおいの前に現れた君の父親がおろすように迫った」
「そんな」
崇はまっすぐにぼくを見つめた。
たまたまぼくがいない時に、アパートを父が訪ねた。そこに産婦人科から帰ってきたばかりのあおいがいた。当時の父の愛人、つまりぼくの新しい母親が、テーブルの上の胎児が写った超音波写真を見つけてしまったのだ。父は散々彼女を罵った挙句、順正には相応しい人を嫁にと考えていた、と言った。こそこそと同棲なんかをするような女に息子をくれてやる気はない。親に内緒で子供を作るような子ではなかった。どうやって息子を誑かした。なにが目当てだ。遺産か。遺産なら君にも、そのお腹の子にもびた一文渡す気はないからな。
そんなことを父が言った。あの人なら言いかねない。祖父阿形清治の持つ絵画コレクションを父はずっと狙っているのだった。あの新しい母は父以上にそれを望まなかったはずだ。
あおいに謝罪の手紙を書きながら、彼女がどれほど苦しんで過去を一人で乗り越えたかを知った。そして、この過酷な歴史の中で、彼女はぼくを呪っているに違いなかった。できることなら時間を戻し、彼女の目の前で頭を下げたかった。しかし今はもう、長い年月の果てをぼくも彼女も泳いでいる。謝罪が"いまさら"になりかねなかった。
幸福に生きている彼女の人生を二度汚すことは許されなかった。ぼくは、だからイタリアに謝りに行くのは止めたし、せめてもと思い手紙を書いた。ぐったりと疲れきり、自分を呪いながら、静かに筆を進めた。
ポストに投函した瞬間、ぼくは大きなため息をつき、それからその場にうずくまった。涙が乾くまで一歩たりと動くことができなかった。何も知らずにいたその責任は大きすぎた。なんという人生を生きてきたのか、と赤すぎるポストに凭れて、取り戻すことのできない日々を悔やんだ。
真実を知ってから、ぼくはもう妄想を抱かないようにして暮らした。あおいの三十歳の誕生日にフィレンツェのドゥオモで再会を果そうというとんでもない約束は、小さく消えてしまいそうな微光しかなかった。
祖父の見舞いに出掛けた。祖父はなんとか日常生活を送るほどに回復していたが、倒れた時に頭を打ち、軽い言葉障害を起こしていた。ぼくの言葉は理解できたが、返事は期待できなかった。ベッドに座り、窓の外を眺める祖父の姿は痛々しく、ぼくも芽実も言葉が続かなかった。
午後、祖父は娘の文江が用意していたスッケブックを開き、絵を描き出した。唇を貝のように結んだままの祖父だったが、筆先は饒舌であった。芽実と絵を覗いた。祖父が握りしめる鉛筆の芯先が真っ白な画用紙の上をするすると移動した。そしてそれは次第に一つの輪郭を拵えていったのだ。
「あ、これ」
芽実はぼくの方を急いで振り返った。ぼくは祖父の横顔を見つめる。頬骨が張って、逆に目元が窪んでいたが、眼光は鈍く、視線は時折窓ガラスの向こう側にはないはずの、建築物を見つめていた。
これ、フィレンツェのドォオモでしょ。この半円形の塔はブルネッレスキのクーポラ。おじいちゃんには見えるのね、この窓の向こう側にフィレンツェの街が―
祖父は黙々と描きつづけた。ドォオモを描き終わると、今度はアルノ川に架かるヴェッキオ橋を描き出した。それからサンタ・クローチェ教会の中庭を描き、最後に女性を描いた。それはマリア像だったが、顔には見覚えがあった。
ジョバンナ……
呟くと、祖父がちらりとぼくを見た。口元は固まったまま動く気配もなかったが、目元は僅かに微笑んでいた。祖父の記憶に先生のことを鮮明に焼きついているに違いない。
阿形清治は絵を描き終わると目を瞑った。何かを思い出そうとしているのかと思い、様子を覗くと、間もなく頭がくらりと下がり、そのうち鼾をかきだした。
ぼくは先生の似顔絵を掴み、厳しかった日々を思い出した。いろいろと先生から教えてもらった修業時代を思い出していた。身につけた修復士としての技術をぼくは今、腐らせようとしている。このまま何もしないつもりなのだろうか。
祖父は先生やフィレンツェの街の絵を描くことでそれをぼくに思い出させようとしたのかもしれない。
ぼくは祖父が見ていた窓の外へ視線を向けた。そこには武蔵野の緑に包まれた景色が広がっていた。フィレンツェの歴史に封じ込められた記憶の街を心の筆は勝手になぞりはじめていた。
しばらく祖父の寝顔を見ていたが、いつまでも起きないので帰ることにして、支度をしているとドアが開き文絵が顔を出した。その表情は陰鬱としたもので光を吸い取って暗く沈みこんでいた。
どうしましたか、と告げた直後、彼女の背後から父阿形清雅が顔を出し、口先が凍りついてしまった。父の後ろから、新しい母も顔を覗かせた。勿論、この女を母だと認めたことは一度もない。
「おお、元気そうじゃないか」
父は笑顔でそう言った。嘘に塗れた方頬笑みである。顔の半分は長年の嘘のせいですっかり凝固してしまい、彫刻の失敗作そのものだった。父の目は芽実へと移行した。それから彼女の全身を眺め回し、まるで匂いを嗅ぐように鼻で吸い込んだ。
「こちらは? 新しい彼女?」
相変わらず無礼な言い方だった。ふと、あおいの顔が頭を過った。あの日、父が言った一言がぼくとあおいの歴史を切り刻んだのだ。ぼくとあおいの絆を切断した。この男がぼくたちの幸福を叩き壊した。
次の瞬間、父に飛び掛っていた。それから先のことはよく覚えていない。女たちの叫び声が辺りを包み込み、芽実と文江が必死になってぼくを背後から押さえにかかった。父は、出直してくるから、こいつの頭を冷させておけ、と文江に向かって叫んで出て行った。
すぐに看護婦たちが駆けつけてきて、極度に興奮しているぼくは結局、空いている病室へと連れて行かれ、そこで安定剤を注射されてしまうのだ。
ぼくが放った数発の握り拳のうち、一発が父の顔に命中した。その感触は腐った木を殴りつけたときの、鈍く不愉快な感触に似ていた。
薬が効いたせいか、眠りこけてしまったらしく、目が覚めるとそとはすっかり暗くなっていた。病室の灯も消され、小さなオレンジ色の室内灯だけが仄かに灯っていた。
横に芽実がいた。自分がなにをしでかしたのか分かってくるに従い、彼女をまっすぐに見つめることはできなかった。
「聞いていいかな」
しばらくして芽実が呟いた。質問すると言うのではなく、自分に言い聞かせるような淡々とした口調である。
「あおいって誰?」
ぼくは答えに困った。
「あおいに何で言ったんだ。あおいに謝れ、とお父様に向かって叫んでいたわ。ねえ、あおいって、誰? 順正が、前にたくさん似顔絵を描いていた昔の同級生のことでしょ。随分と昔に、その人と私のことを間違えたでしょ。抱き合っていた時に、私をあおいと間違えて呼んだ。ねん、あおいって誰なの?その人のことが今でも忘れられないの? 順正とその人の間になにがあったの。ぼくとあおいの子供を返せと叫んでいたけど、それは……」
芽実はそこまで一気に喋ると、涙を目に溜めて黙ってしまった。ぼくは視線を逸らした。
「もう昔の話だ。ぼくが学生時代に付き合っていた人だ」
「二人の間に子供がいたの?」
「ああ、ほんの一瞬だけど、いた。でももういない。流産だった。」
ぼくは自分が発した言葉に緒と驚き、悲しみが胸をついた。もういない。もういないのだ。人間のエゴが子供を殺した。それはきっとぼくが殺したも同然なのだ。
静かな病院にも規則正しい時間が流れていた。時計の秒針が時を刻んでいる。病院特有の臭いは最初の印象ほど嫌ではなかった。エタノールの薬臭い海に、精神が病んだ自分が、どっぷりと浸っているイメージが頭の中に浮かんだ。
あの時、あおいは一人で病院に行き、一人で処置をした。ぼくには内緒で全て一人で行動したのだ。どうしてぼくを必要としなかったのだろう。苦しい時に誰かに頼ることはできない人だった。いつも自分一人で決めてしまう芯の強さがあった。そこにぼくは惚れ、憧れ、同時にそこを呪った。
「今もあおいさんのことが忘れられないんでしょう」
芽実の声は闇の中で震えていた。忘れられない、と言い掛けて口を噤んだ。
「もう二度とぼくらは会うことはない。二度と愛し合うことはない。それでいいじゃないか」
自分の言葉に少し酔っているな、と感じ、悔しさにこっそりと舌打ちした。
「でも順正の心の中には間違いなくあおいさんがいるじゃない」
「いつもどうすることもできないことはあるんだ」
「いるのね」
ぼくは返答に困った。黙っていると芽実の声は次第に感情的になった。
「二人の間になにがあったのかは分からないし、むごいような言い方だけど、でもはっきりと言う。私には関係のないこと。忘れられない人がいるのに、私をそばにおいて、まるで代替品のように扱うのね」
必死で堪えていた感情の堰が切れて、芽実が泣き出した。洟を啜る音が室内に響く。ぼくは芽実の顔を覗き込んだ。
「言っておくけど、わたしはわたし、誰の変わりもできないし、そんなこと絶対にしたくない」
「芽実、ぼくはそんな風に思って君と付き合ったことはないよ」
しかし芽実の感情はもう誰にも抑えることができないほどに激しく撓んでいる。声は次第には荒々しくなっていった。芽実の心模様が手に取るように分かった。
「同情もされたくない。女にとって同情されて付き合われることくらい酷い仕打ちはないのよ」
「ちょっと待てよ」
行こうとするめ実を呼び止めた。起き上がろうとすると、昼間暴れた時の後遺症らしき痛みが胸を走った。芽実はドアを開けたところで立ち止まるとこちらを振り返った。廊下の光が差し込み、彼女はシルエットになった。ずっと彼女はぼくにとってシルエットだったのだろうか。そんなはずはない。しかしそれを否定すべき言葉が喉元をついて出ては来なかった。彼女がいったいどんな顔をしているのかは判断できなかった。
「わたしはあおいさんがいなくなった後の空洞を埋めるために順正を愛してきたじゃない。順正が過去を引きずっている限り、わたしはもうやり直すことはできない。侮辱されることがどんなにわたしにとって苦しいことか」
芽実は言葉を濁したまま出て行った。ドアが再び閉じられ、室内は暗くなった。なんていう日だろう、とため息が零れた。修復士としてまずなにから修復していくべきか、と考えた。この壊れた絵のどこを直すべきだろう。ワニスを塗り直すべきか、板絵の反りを直すべきか、それとも虫穴を塞ぐべきか、木枠を替えるのが優先されるべきか、或は裏打ちをやり直すべきか……。皆目見当がつかず、大きな疲れが波のように間隔を開けては打ち寄せてくるのだった。
ぼくは起き上がった。いつまでもここで横たわっているわけには行かないと思いながら…… |
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