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楼主: bgx5810

中国故事物语(已载完)

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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:44:11 | 显示全部楼层
折 檻
" f/ G5 [7 H2 L# S/ D+ y* W; C  x
0 f' B4 p, m: O) V/ ?$ J
前漢第九代の孝成帝の世。この頃から、中国古代史にしばしば出て来$ f( S5 M1 c6 F: d- [
る宦官と外戚たちが勢力を得、政治までも支配するようになってきた。
+ M1 |6 g: b0 i孝成帝の時の外戚は王氏で、一族いずれも立身出世し、政治を思う通り
$ s  d( J2 u3 E4 n0 Dに動かしていた。この有様を見て憤慨したのは南昌(江西省)の長官、梅& {, R( `1 H, Z# X% \' N* n6 y" N
福という気骨のある男、帝に上書して言った。
  n! r5 k1 M" @4 R2 w ; K4 q. j, @$ V, d# \  S1 t
 「いま外戚の権力が日に日に盛んとなり、
+ b8 B6 T% ], i' V6 m0 v1 O2 d  そのために漢室の威光は地に落ち、
0 O( l% Z! _+ T7 D2 w5 }  帝の威令もサッパリ行われていません。
+ e9 F1 `* U+ _3 [# z5 P  陛下はこの実情を何と思召すか。
- d9 k: M$ @0 y: x  先帝以来の忠臣石顕を追放されて以来、  K0 c6 {9 y: D" J5 w% ]  w& }
  日食や地震が多く、- ]% n% @" ~  s$ [# ]
  水害に至っては数え切れません。
# a( k/ o0 W1 n: Q7 {5 \2 M3 l! H  あの天下が乱れた春秋時代にさえなかったほどの、; s: r6 v, w5 j5 I1 e' M$ |0 Q
  天変地異のありかたです。" F' u' e) o- l. J5 j# B
  これは政治が正しく行われていない証拠です。」
) t' a1 x- v. P2 y ' ~- d. J, k9 y8 ]" _
 だが、帝は一向反省する色もなく、ますます王氏一族を重用し、安昌4 h8 H9 J5 B3 l
侯張禹までが、帝の師である故をもって、政治にまで参画するようにな$ @! L. n7 b2 |& R: D6 @
った。いままで黙っていた官吏や人民もこの乱脈ぶりには、ついには非  K# _: O2 i9 h. S4 B: b3 O: L' Z
難の声を上げるようになり、帝の許へはその非を諫める上申書が殺到し
$ `/ f& {" `1 R8 V5 t. X! i( v1 o3 f( Cた。; ~; j! \- U# C/ t2 U3 l
 
$ g( C: I4 y2 V) t さすがの帝も多少あわてて師の張禹の所へ出かけ、これらの上申書を6 x) t1 @4 l: a" [5 Q- `
見せ、「どうしたらよいか?」と相談した。ところがこの禹先生、名前は3 b1 T- I( E- M4 z* O) r2 I9 d
むかし黄河の水を治めて聖人とたたえられ、天子にまつり上げられた夏
/ F" A1 Z; m  ]# a1 Aの禹王と同じだが、その了見は月とスッポンほどにも違う腰抜けのイン" J0 |( |, q6 d. z. [" H
チキ学者、「もしや王氏の一族に恨まれでもしたら……」と心配し、
/ |' ~9 I! T6 J( c$ E9 u: | 
5 P: I  Z; V/ K 「恐れながら、
) W( |6 U7 ^0 _. @5 y: f  春秋時代の日食や地震は、9 b5 H: n& a! A; h0 D! F
  諸侯が互いに殺し合ったり、& M  k" H0 u1 \2 m$ O2 D; D6 F
  外敵が侵入したりしたせいであろうかとも思われますが、8 Z% {6 R/ S+ w% L
  何しろ天変地異の意味は深遠で、2 E" Z) c! J. _% |
  とてもうかがい知ることはできません。/ V7 G; a. v: O' K* o/ x
  ですから聖人孔子も、
4 W1 I! i* Y: W! m% f3 O  あまりこうしたことには言及しておられませんし、
: Q4 P' w# }3 D% P: Y* a  I; X# g& }  性と天道については、
; `; a7 ?8 @4 Z4 S1 J7 M  愛弟子の子貢でさえ教えてもらえなかったほどです。
$ B# Z5 o; t- Q/ F  それをろくろく学問のこともわからぬ小人どもが、
- }* D+ q3 {( L& b  とやかくいって人を惑わすとは、  `, W% a5 J0 c1 ?: a) c0 f3 b
  まったくけしからぬことです。
5 b# Q# v2 i/ ^$ C  そんな輩のいうことなんぞ、. r7 k4 T1 |; c% u' e, ~
  一切気にされる必要はありません。」
$ r$ K; J! f2 U, ]% L! _) R 
7 P  y& F! F! s' q2 f と、まことしやかに答えた。帝も、「なるほど」と思って、一そう王氏& Z8 W2 ]9 I5 H
一族や禹を信任した。そこで業をにやした槐里の知事の朱雲という男、" u9 h3 x$ H% M" I" G# M
帝の前にまかり出、6 ^* G$ }  d$ C2 H" ~8 j
 
3 C: r+ n0 A5 P! x' J# v1 o% E1 A 「願わくば陛下の御物蔵にある鋭利な剣をいただいて、
7 ^4 P( s4 a" R  i  悪人の首をはね、
: b4 `  W3 Q/ a# s/ y; m  ほかの者への見せしめにしたいと思います。
8 u. O, h( ?9 g: a+ f( Z2 _, E  何とぞお許しのほどを……。」
: q/ R$ x9 e* O2 _: S1 C/ q " E. F8 ?% b" }
 と願った。帝はたずねた。
/ E, b& u0 j8 H: v4 ~1 z6 l ; J, f6 _4 }* I' e2 i3 o% U9 T
 「それは一体だれじゃ?」" x$ s5 j- M6 D! d/ n3 X' t
 
* }5 d  Y8 |+ N. P' f2 l 「安昌侯張禹にございます。」
6 A  f1 ]4 C* T2 R- a2 t 
7 O5 `5 ?9 \6 q- p; _* d 帝は真っ赤になって怒った。; k1 O6 C5 f' v  h$ V" w5 z
 
+ X& U- d$ \7 T- r7 U 「黙れ、無礼者、0 q1 M7 X3 f; g' X! v* P3 X8 n
  おのれは卑しい分際で、
# Z: l- `4 i( C# k3 X# m' N$ P  朕の師を満座の中で良くも侮辱しおったな。- E/ ~( l* Y1 O. W& Q
  もはや許さぬ。( z$ U' f2 ~5 w& b, I, ]
  こ奴を引っ立てて首をはねい。」
- D  s# ?, ^7 D% G3 M8 w2 P 
- B( n3 O& a" h( a9 D; C 「ハッ。」と答えた御史(官吏の罪を糾明する役目)はいきなり雲を殿上
; x; M4 q/ T% ^  |1 F8 nから引きずり下ろそうとした。雲は必死に手摺り(檻)に掴まり、なおも
5 u; Y8 D( t$ u. b& g叫んだ。2 K" ]0 Z' e  }8 y% N! I- y- |
 6 v4 M4 m$ c, v* C9 A0 f4 o+ s
 「陛下、しばらく臣の言うことをお聞き下さい。」
3 C0 Z" f7 Q( w; x, N6 S& I: I3 x4 G 
5 B, V4 [- L2 Y8 {9 l; V 御史も力いっぱい、雲を引きずり下ろそうとする。雲は手すりを離さ* x  u, N* q8 d
ない。とうとうその手すりが折れ、二人は壊れた手すりもろともドウと
. n- z3 H" v( L- ?- c+ z地面へ落ちた。& }& z  \4 Z2 H6 i* L
 
8 c5 t9 A4 ~6 T 「臣のこの身はどうなろうともいといません。1 x" b  i# X, b% x
  ただ陛下の御代が気に掛かるばかりでございます。2 C8 |* w1 i1 O. ?
  何とぞご明察のほどを……。」" o: N6 L# {% C/ X
 - r5 n5 o3 i" ]+ H- {0 I1 ^
 と血涙にむせびながら訴え続けた。; P+ k, {% w$ k. }. b/ h
 
0 F! W5 \5 S+ _" _" h' L この有様を見ていた将軍の辛慶忌、雲の態度に打たれたが、パッとそ
$ n  r( ^& C7 \1 B- |( b9 f/ Aのそばへ飛び降り、頭を地面に叩きつけ、額からタラタラ血を流しなが3 d" l  k; z% j4 z, _
ら、帝にその無证蛟Vえ、思い止まるよう諫めた。初めはカッとなった
: v( y3 l, d$ J6 n* u! S$ X5 h; a* d帝も、二人の国を思う真心に感じ入り、- f2 {' A4 c- r4 d7 j
 
) }4 T$ K! V; s; y$ R) F 「朕が悪かった。2 J; r4 I+ k) _* o6 @' e; ~; T
  すんでのことに、
) @6 Z  ]+ r) O. Z6 }% V/ X: `' k! y2 s  あたら忠臣を失うところであった。
! a' _2 R2 d0 v; w  _  よくぞ身を挺して諫めてくれた。」# U& ~+ k6 A5 p5 l! y3 n/ k; z
 
, R* m0 j; d+ j6 F8 r と機嫌を直して奥へ入っていった。4 r6 v( r; e, `5 Q
 & [- e* {+ G0 H; a" x% p
 その後、家臣がこわれた手すりを直そうと帝に願い出たところ、9 Q. t; o. M: {1 g, L" o% Y. Q. }" N
 " ?/ q) S# H' I# I  W# `
 「いや直すには及ばぬ。5 e! e! [* D0 X$ |" d0 e' n
  それは直諫の忠臣の記念だ。" N& P. A/ @( I1 V
  あれを見るたびに、& P# n( w$ V6 v9 X$ t& l* T+ t! ~
  当時のことを思い出し、1 v7 Y4 c4 b4 x
  政治を正すいましめとしよう。」9 E1 K; B4 u( ^6 ^
 
$ Y: D' b$ f& r% o と、修理するのを許さなかったので、帝の在位中はそのままにしてお
$ z4 z  D, w) O5 l( Q4 S2 rかれたというが、こんなことぐらいで王氏一族の専横がやむものでもな
9 S9 {/ A5 m0 r5 g) `く、逆臣王莽に帝位を奪われて、前漢は亡びるのである。% v6 g) v- D  t. V6 i. c6 D4 m
                   (「漢書」朱雲伝、「十八史略」)
! Q7 g6 ?( o6 }3 p$ a 7 V& r2 R2 ~1 E" s: s4 P4 c
 7 \9 |$ E7 g( j* H& S8 P
 なお、折檻と同じ意味で「切諫」という言葉が使われているが、これは
: X+ z' w7 e( S「史記」の「主父偃伝」にある、「明主は切諫(厳しい諫言)をにくまない」と
4 C9 G' i- Q! Hいう言葉から来たものである。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:44:44 | 显示全部楼层
前車の覆轍は後車の戒
/ z5 y& y5 a4 \- e2 G4 ^

. Z8 M, C6 w# B8 p/ n. ~前漢の第三代の皇帝を孝文皇帝という。文帝は高祖劉邦の庶子、第二( P6 E$ f1 s+ A3 L
代恵帝の弟で、諸侯の一人だったが、漢室の内紛のため、群臣に推され; u% g2 Y; g  @+ `0 {
て帝位についた人。4 g/ q3 z( I0 Z, I" }
 0 }6 ]0 a: s, y" O
 そのころの名臣の一人に賈誼という逸材がいた。誼は洛陽の人、十八
* f+ S. ?3 T' \8 k4 b歳で詩や文に通じ、すでに並ぶ者がなかった。そこで河南の守呉公が、8 D( e0 A: |8 \0 i+ y5 _
人物を見込んで門下に召致したところ、そのうわさを聞いた文帝が都に
: c: N2 [( v' o" z召し、誼が二十幾歳のとき、博士とした。- I4 b. K$ }! D
 & u$ s' X9 N1 A' x# M
 文帝は何しろ諸侯上がりであったため、強大な諸侯の中には、その命
) P- }4 Q( W; E" G+ Uを重んじない者も出てきたので、帝は賈誼や陳平・周勃らの名臣を重用
! |$ A  R0 F% c$ m( P8 L; P7 _して、諸侯対策をはじめ、国政の刷新に力を入れた。賈誼はこの新帝を
: }7 \" c) F# I0 o  @扶けて、政治を行うに当り、中国最古の国である夏以来、秦に至までの) A& G: w# m4 @$ a
各国の興亡のあとに鑑み、諸侯の力をそぎ、民力を養い、政道を正すこ
$ u7 {2 o5 K# wとについて、多くの献策を行ったが、その中に次のような文句がある。6 \& P* j: V' i* u" j
 
6 ^5 c& b' R2 ~/ v( c# [' | 「俗に; N& z: g4 L, X. T9 p" U3 w
  『前の車のひっくり返ったわだちの跡は、
7 x5 z' A6 w( y; Y) K; ~   後から行く車にとってよいいましめだ』
& f- D3 C) S$ W! e; E) I0 q4 ?! v3 l  (前車の覆轍は後車の戒)といわれています。
" S% }% ?  m' ?- w: Z5 M  われわれが模範としている古き良き時代である夏・殷・周の三代は、1 N! L% V5 p% ?$ B
  いまや遠い昔とはなりましたが、# x7 U6 [9 B! U" O
  そのよく治ったわけは明らかに知ることができます。
# U, F# m1 H$ J9 q- L/ |% |& Y  この先訓に学べない者は、
- m5 G* r! C; z3 m, P  聖人の教えに背く者で、
; t2 T4 P: K4 N  こんな者が長続きする道理はありません。6 H! e, G, O( c2 V
  さきの秦が早く亡びたのを、
$ v# u+ s* B6 Y1 P- t  われわれは目のあたりに見ております。' x; O6 `- Y* Y, {& `6 A& O! _
  われわれがもしこの愚を避けなければ、
8 G4 D6 m/ c( k. p& e  その前途も暗いものとなることは必定です。# _2 b4 Y, U# s
  国家の存亡・治乱のカギは一にかかって、% `9 u+ |+ n$ Q" ]/ M
  ここにあるのです。」( p9 a  w4 o1 ?- M3 y% |* v* k
 9 Q, u& r5 h- E2 j& W2 B) b
 文帝はこの言を聴き入れ、諸侯の地を削り、大国を小国に分割したほ
& E. d( e5 A0 K/ x9 c. S8 fか、農業を奨励し、田租を免じ、極刑を廃止して、仁政を施した。さら
# D0 Q9 K' a1 s, H* Hに質素倹約の風を奨励し、官女が珠玉を飾ったり、裳裾を引きずって歩
2 U+ F" G7 }2 B& x" B* E0 Qくことをも禁止したため、世の中はよく治り、太平と豊年が続き、全国
0 i: G" g9 v' G. M* m/ Qの倉庫には穀物がギッシリとつまって、民は富み、官吏は仕事に精を出
8 o( k( U( S: E" D" I8 mした。法の網はゆるやかだったが、国民は自重して法にふれることを恥
) Y1 N) e- V  h& ~じるという世になった。              (「漢書」賈誼伝)8 p2 ^7 s# i) s2 r' Z0 J
 , H$ i7 X/ t7 _8 O1 d
 
" P( K$ u. |# ]1 N2 o 戦国時代の七国の一つの魏の文侯が、あるとき、公伈蝗胜趣いο陇肻
1 d6 I0 j4 k. i- g; J* a7 A8 e4 r4 y$ R端役人に酒席のとりもちをさせて、大臣たちと酒宴を張った。文侯は言6 |8 Z- b' W1 m. f6 D
った。
: H: j/ ^& _+ e  G3 S 
- D; ^. n. f+ m4 i. F! s& } 「ただ飲んでも興味がないから、
' z  U/ c: s3 S; q3 |5 s  一つ、味わわずに飲んだ者に、
. z; H2 u6 V$ U$ `7 }0 N  罰として大杯で一杯のませることにしよう。」
5 y+ \6 j' a' _# q2 O9 g1 V 4 t$ Y7 s; c% a. S. Q
 大臣たちも賛成した。ところがその禁を文侯が真っ先に自分から破っ3 a$ W* w$ U! Z% m/ @% Z! u! o
た。そこで不仁はさっそく、大杯を文侯にさし出した。文侯はチラッと+ ~" k8 Q: {% x1 u
見ただけで、どうしても受けとらない。家臣は、
0 }" ]) J/ @; b; i4 Y7 [0 ~4 x 9 D9 a- K0 n1 q- w% t
 「不仁、いいかげんにしろ。% v/ O* ~4 i' m( c$ N
  わが君はいたくご酩酊だ。」
# W; d  Z, ]+ {  {$ o 
) A: g% i* M/ }" W  V とやめさせようとした。すると、不仁は言った。
4 F! j( [6 `2 [* K4 v 
, t9 \8 H) e4 {& c2 m; `/ B 「前車の覆轍は後車の戒ということわざがあります。  F% ^% M7 i, J# ]8 _' M
  前例に鑑みて、4 m  W8 A5 s! M; @. [2 F; s( C6 N
  気をつけろといましめたものです。
. D( y# _+ H: c4 N( w( Q  l4 z  家臣となることも、
. s# h1 O, e/ r! l  主君となることも、
: r, i2 P4 [% I; n! [; d6 v! J1 n: p  ともにやさしいことではありません。1 F7 u( h9 d( s8 [0 w
  いま君が法を設け、
8 M' d5 o% {0 S/ X0 |+ |  その法が守られないような先例を作られては、9 t% p$ X8 u' ?4 f" G
  一体どういうことになるか、
. R% X) j; U* B% p  よくお考えになって、: y' j: u/ m0 q2 w  a+ B- M1 n
  どうしても罰杯をお受け下さい。」9 \0 @# v( c# [9 f! L
 8 E2 Y: l+ w7 h* Q% m
 文侯も「なるほど」と思って、いさぎよくその大杯を受けてグッと干
, j+ X) m4 V% l! Oし、この不仁を以後重く用いたという。        (「説苑」善説)
  @9 y6 U& f5 B' d- m4 g 
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:45:36 | 显示全部楼层
推 敲
" Y6 y9 l; n4 H# H+ H8 |# @

$ p5 {: ^8 f/ ^. }7 Z驢馬の背にゆられながら、なにやらブツブツつぶやきながら、しきり$ R8 F. p' h* I: n3 P# F  d
に妙な手つきをしている男があった。往きかう人々は、無遠慮にジロジ9 r, {( N3 K6 c  |4 U" R& h4 I
ロ見るのであったが、彼は放心したように、驢馬がどこへゆくのかも知3 z7 A& ~1 g: L5 E1 h
らぬげな様子だった。
$ K8 C, p( o* v) ]# k 
2 F1 @6 z3 _4 h 賈島は、驢馬にのってゆくうちに、詩ができたのであった。「李凝の) ^# q5 }5 Q: d  `" _. g5 L
幽居に題す」というので、
5 _) b! o6 N5 }  \' d1 w. v6 q7 @2 t 3 s- a) G% y. i9 z/ T  K
   閑居隣並少なし" s. i0 U  i! m: O$ A9 `) s
   草径荒園に入る- f4 c1 T  S: a4 o3 ~0 z: d* H
   鳥は宿す池辺の樹1 \0 G: [. Q% b7 [
 7 }1 d8 w: A; `! I! Y8 r, @
 ここまではスラスラとできたのだが、さてそのつぎの句を「僧は敲く
0 ]) {$ z# s: b! a月下の門」としようか、それともこの「敲く」を「推す」にした方がよ3 D; w+ p1 T( _, A' s* ~
いか、ここでハタと迷ってしまったのであった。この二つを口に出して
7 \) T7 Y) o5 g; X+ B# xいってみては、手で門をたたく仕ぐさをしてみたり、推す真似をしてみ
( {  C, }- ?$ _たりしているのである。
# R: _  q! V( G; v7 t4 Z# E 
( C* j6 J( a$ |& Z' Y) Z 夢中になっていた賈島は、向うから高官の一行らしいのがきたのに気
1 I- D0 j3 W' Sづかなかった。相かわらずブツブツいって、手真似をしながらゆくうち
4 @! ^$ R& S1 ^9 X5 X5 X/ |* Nに、驢馬がその行列につっこんでしまった。
! S  u) s' M1 J0 ~" A, M # g. F6 r& R. D; V. A1 q$ i( Y8 K; n9 h
 「無礼者め、なに奴だ!」
" U$ r2 o# l+ B; Z 「控えろ、権の京尹(副県知事)韓退之さまをなんと心得る!」
3 k% }( U' \3 F) D- X( e 
$ w* F2 b& @( A) E2 B$ @9 v 衛兵たちは口々にののしりながら、賈島をひっとらえて韓愈の前に引
3 K! Z3 G7 }; ]/ ]; I+ Aきたてていった。賈島は驚いて詩に気をとられて無礼に至った事情をの
2 H$ ~8 N7 ?' Iべてひたすら詫びた。韓愈は馬をとめて、しばらく考えていたが、& K$ o+ A+ y% ]) z
 8 R2 K9 B( z# U% J) ]9 e* {5 X4 B) U
 「それは君、『敲く』とした方がいいな。」' @) u" I5 x& p/ U8 S* Y
 3 J1 t; q, q7 g3 e5 |+ h
 といった。これが縁となって、韓愈は賈島の無二の詩友となり、庇護) M8 S6 L1 U: n/ T6 Q2 y6 g
者となったのであった。
+ C! M& U  a1 s0 g& X0 X! W- A 9 K$ I1 C4 ^7 G6 p
 2 F. y9 l- _& x1 `. a8 h) p
 これは「ショウ素雑記」による、中唐の詩人賈島の「推敲」の逸話で: T/ N& W, S# @  w2 q7 R
ある。詩文の字句を練ることを推敲というのはここにはじまる。賈島の( u% O- X% I/ T' z: H; ~
詩は文字通り推敲を重ねたものだが、あまり字句の表現に凝りすぎて、
& l) b; G% w+ I+ M( R意味の通じないものがあるとも非難されている。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:46:32 | 显示全部楼层
水魚の交わり

( Y; i* V0 W, H8 E3 m$ P
0 s* c* Q. K. |! N9 ]) }0 g 後漢の末の中平六年将軍董卓は、霊帝のあとを継いで即位したばかり
8 a0 C. C, z# p8 l. U$ kの皇帝辨を廃して陳留王協(献帝)を立て、みずから宰相となって専横暴) r) t0 c% a( m3 b9 w2 \+ g
虐を極めた。そのため天下は乱れて、しばらく群雄割拠の時代がつづい
7 ?7 N, n9 f3 l4 _+ Y( \1 _) ]たが、やがて次第に天下の趨勢は曹操(魏)・孫権(呉)・劉備(蜀)に三分5 d. d  k, d; P1 t2 U( Y, O3 j4 B# r
され、いわゆる三国鼎立の時代に移っていった。/ @/ O" V, @" c3 h  q, B
 ' {. y6 e, a* u
 このなかで最も立ち遅れたのは劉備であった。すでに曹操が江北を平8 M+ w- L. [- R. C. u* X* t
らげ、孫権が江東に勢いを得ているとき、劉備にはまだ拠るべき地盤が
% D/ [7 h* N2 e4 `1 }1 l3 C/ o8 X# E* \なかった。彼のもとには関羽・張飛・趙雲らの勇将はいたが、ともに事
2 h- D. ^$ M: Eをはかるべき策略の士がいなかった。それを痛感した劉備が、彼こそと. G) v) R5 X$ b1 y0 F
見こんだ人物が諸葛孔明であった。
- K3 n' J$ w- c 
( {5 \1 u- o+ k4 `: \$ `& \ 孔明は戦乱の世を避けて、襄陽の西、隆中山の臥竜岡という丘に草廬" R) l8 e$ s, t' S" R+ _3 S3 ]" I1 Q
を結んでいた。劉備は礼をあつくし辞をひくくして訪ねていったが、孔
2 j3 i# v2 g1 B" h1 x7 r5 W  m明は不在とのことで会うことができなかった。数日後、劉備はまた訪ね3 H) K* P: ?; d4 R" U8 W: T. I/ {
ていった。だが、やはり会うことはできなかった。しかし劉備は、何故; o  n/ B3 F! [
にそれほどまでに身を屈するのかと咎める関羽や張飛をおしとめて、三( ?  C5 i! K: g; D' w
度孔明を訪ねてようやくその目的を果した。
. K; G/ |" w5 @( B" ~ % \9 a* X, k6 L8 g" K% |
 「すでに漢室は傾き、8 ]! _* a% ^! D) U- t8 t
  奸臣が天下をぬすんでおります。+ o& M& c" ^. v* T: G6 p! ?% D( R
  私は身の程もわきまえず、
" t# ]' |. |! l7 ~2 K/ }8 j8 N  天下に大義をのべようと志しながら、
/ ~/ k& y6 i7 g' ^$ O. e  知力あさく、
! Y# H: Z0 E; [& B7 k; t' `  これという働きもできないまま今日に至りました。$ a8 ^1 r" e4 R" {
  しかし、まだ志は捨ててはおりません。
3 n( N# m7 F; X) W' |) V  どうかお力添えをいただきたいと存じます。」0 C& `1 n1 R, N  ]7 h
 ' v3 B% ^! {! Z* X
 いわゆる「三顧の礼」をつくして、劉備は孔明の出廬を懇請したので( ]# T7 p  ]  ~3 x; h2 ~- H& [. k
あった(これを「草廬に三顧す」ともいう)。孔明もその知遇に感じ、草廬& M: k5 t  L. w% a0 f
を出て劉備のために事を证霙Q心をした。草廬に世を避けていたとはい4 Y* L: C0 }" k# z. f
いながら、孔明の時勢に対する眼は劉備の期待を裏切らず鋭かった。劉
" ^) F, }; O& ]! }8 U備の問いに答えて孔明は漢室復興の大計をこう述べた。
/ c$ L8 y7 S* `0 Y- k 
9 }1 s, A; \! J# q9 j) C 「荊州と益州の要害(湖南省洞庭湖以西四川に至る範囲)を' \# L* K/ g, ]' J! @- K. s
  おさえてここを根拠地とし、8 W' U# v- \3 P% R- t# p
  西方南方の蛮族を慰撫して後顧のうれいを絶ち、5 J3 s5 D+ Y' b: D0 R8 _1 `! C
  内は政治をおさめて富国強兵をはかり、
& Q5 p; G5 H1 M  X+ n+ E: Z  外は孫権と結んで曹操を孤立させ、* T6 p! u( H! H% ]/ w8 L
  機を見て曹操を伐つ、
5 ~3 D1 K" ^! M: a  これが私の考えている漢室復興の大計です。」
. R+ I* S/ e& G; p) V, q4 F$ @* ~ 4 {6 a/ ]: R1 W. t4 j9 N5 r( J/ _$ ~
 劉備の信となった孔明はこの基本政策に従って着々と漢室復興の歩を8 R6 J& c  Y8 z  r: ^0 W
進めていった。まさにそれの成ろうとするとき五丈原に陣没して、つい
  ^2 Y$ o' E8 C" X; p/ o  Aに果し得なかったけれども。2 P% ~7 Y1 q3 b$ c' z% h: G
 6 y6 h( V1 k2 h# j1 j% v2 Q! \: }
 孔明を得た劉備は、その才幹に傾倒して孔明を師としてうやまい、寝+ d' y. }+ T/ M/ g# _
食をともにした。孔明も全能力をしぼって劉備のためにつくした。はじ2 H4 M) X* n. |. N1 c$ i# p
めころ関羽や張飛は、弱輩(出廬したとき孔明は二十七歳であった)の孔
/ q, A2 M$ r# _' G1 d5 `& ~( G2 J5 U: `明に対する劉備の傾倒ぶりをねたんで、「孔明をうやまいすぎる」と非- `" Z. C' H. O  K" R
難した。そのとき劉備はいった。, g, ^1 R2 I" J0 ?' y
 
4 J5 E6 R( Q# Q 「孤の孔明あるは猶魚の水あるがごとし、9 @: l$ a' I9 r4 k+ q# M
  願わくは復言うこと勿れ。」
. Q, ?7 M" w8 r2 y( c/ E" c . f+ h# C7 P+ @/ S
  (孔明を得たことを、: Y6 k! B! D) d
   自分は、魚が水を得たことでもたとえたいほどだ。
9 v# m/ \- Z$ t# h8 U   二度とそんなことはいうな。)1 S. z. v7 ]3 B1 f% \2 r5 b4 \8 ~
                    (「三国志」蜀志・諸葛亮伝): j# C* Y/ ^2 Z( z: N
 0 A/ }: T' F2 m- Z
 % n) K$ f' q$ d) P2 L; J5 ^* i0 ]" S8 v
 君臣の間柄の親密なことをさして、「水魚の交わり」というたとえが
; M: a" T& U2 Z# \できたのはここからである。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:47:22 | 显示全部楼层
唇歯輔車
4 s' U  W8 g0 l1 i
3 O7 h( h) B4 h
晉の献公というと、驪姫を愛する余り、太子申生が殺され、重耳(後
% a& L" G. P- Sの文公)は亡命するという話で有名だが、歴史的に考えると、後の覇者1 y; }+ V0 ?+ H" ?
晉の文公(重耳)のために基礎を築いてやった人だと言える。献公は斉の" Y8 F0 S; O  R
桓公が覇業を建てていた頃、少しずつ周囲の小国を併呑して行った。こ. N' Q" c  t- l0 |& a' s
れから述べるのは、献公が虞とカクを滅ぼした時の話である。
& H/ Z8 U3 P* |3 L; `& ` + c/ W& L0 H5 v! m
 
: W4 U6 q' |% y+ X; K 献公はかねてからカクを伐とうとしていたが、それには虞を通らなけ
8 I7 E& a  J. g8 Eればならない。かつて良馬と美玉の賄賂を虞公に与え、カクを伐ったこ
- U5 }$ O9 }: S* iとがあった。しかし今度こそ本当にカクを滅ぼしてしまいたいと考え、7 v1 }( Y/ P$ j* [# h$ ^
また道を借りたい旨虞に申し込んだ。周の恵王二十二年のことである。
- K. d; T  O1 j; Z 6 v4 w! t! Q) D& W
 虞の国では、宮之奇という賢臣が、盛んに虞公を諫めていた。
3 M0 G( i2 \0 A& ` 
7 w8 [; ?- M; |0 G( O2 F& s 「カクと虞は一体ですから、- Z8 [) |; M! @, V: D
  カクが滅びたら虞も滅びることでしょう。5 n3 K) Y- W! f7 i+ c
  諺にも《輔車相依り、唇亡ぶれば歯寒し》と申しますが、) e+ Q, r7 y8 B) Y6 \
  (車の両側を挟む木と車とが一緒になって物を撙证韦坤贰& S" J* g+ n2 Z: g. E  r& D5 v$ e
   唇と歯は二つの物だが切り離すことはできない)
6 V9 n( Q% Y5 [7 ~8 J2 Z% k8 a/ f  虞とカクの関係を言ったものと思われます。$ q( Q7 O& [) e3 ~- r
  寇とも言うべき晉の国に、5 E. R0 J  S: j) }4 r: T, O
  わが国を通過させるなど、もってのほかです。」, K2 W2 G/ r2 \* E  h
 
4 }- k# m  u0 G) z, ]: d8 C; z" ` 「いや、晉はわが同宗の国(共に周より出た国)であるから、: }/ U4 x7 q$ W' Z
  害を加えたりするはずがないよ。」
0 d# j  V7 i# A3 Y1 q4 W   i' @% ^8 b1 Y: V# N& E
 虞公がのんきなことを言うので、宮之奇はさらに説いた。& g4 \, J$ |8 _
 " j) K5 O# ~- e
 「家系を言ったら、カクもまた同宗ですよ。4 S* @) K1 u1 p4 [" H2 R( s* k
  それなのにどうして虞だけに親しみましょう。. v, n7 u* Y+ k+ b
  それに晉は従祖兄弟に当る、0 P# }4 H7 l, R2 r' X- n
  桓公・荘公の一族を殺したではありませんか。3 [. i! J& t/ j
  よしんば親しくとも、
- ^; B& g/ L' `2 P  N+ d  このように恃むに足りません。」
7 p, m$ F% `" O( B! Q. l 
+ m- d0 o: d5 k. y. _- r+ b, N 「だが、余は神に仕えるのに、! P$ I- \% _( n- W1 }7 _
  いつも立派なものを捧げ、
6 g* F6 g) z/ y5 K7 J. l  ~  清らかであるように努めているから、
/ ]5 l2 T) C* y' s; U7 t  神が余を安んじてくれるだろう。」* L. h! \  o1 d' F9 H
 2 ?2 @9 z: z/ @8 A  X' U( H! v
 「神は個人を親愛するのではありません。
" h/ I+ X) V' a7 b) w! J% a  その人の徳のあるのを見てから親愛するのです。1 X* t/ b- q# j
  徳がなければ民が安んずることもないし、
% K* n. d4 D3 A  ^3 r+ s# c; G  y  神もその祭りを享けません。+ o( V( t% x! Z- g0 b
  神を恃んではいけません。」( s& A( `6 t5 x6 q5 Y3 H; E+ S
 
. K/ N9 `  O$ M2 R# Y しかし、いくら説いても、賄賂に目のくらんだ虞公は同じであった。
8 J" G, Y) }' ~結局、宮之奇の言に従わないで、晉の使者に道を貸すことを許した。宮
) A! G5 C3 n8 E. ^0 t$ S7 C之奇は線の細い男であったから、禍の身に及ぶのを恐れて、一族をひき
3 U% o, R# `) J* y; Z8 zつれて虞を去った。国を去るに及び、
' U1 W6 o' ~% u& |3 M$ C2 u 
0 g0 C4 A; ]4 w2 X  S 「晉はカク征伐のついでに、必ず虞を滅ぼすであろう。」
' ~$ X1 O% F& d$ D 
( p8 `* [, h/ X! ^* t. m と予言した。8 c7 Q/ r& `: ~0 j
 3 t' r3 j. `. V9 V
 果して冬十二月、晉は虞の領土から攻めこんで、カクを滅ぼした。カ+ R8 }/ m( A" t2 }2 c
ク公は周の国に逃げた。晉軍は帰途虞に宿営し、不意を襲って虞を滅ぼ. r! N, y4 f3 S4 {0 k% t
し、虞公とその大夫井伯を捕えた。そしてこの両人を、晋侯の女が秦の6 C; Q+ F  L' x
穆公に嫁するとき、付け人としてやってしまったという。
4 I# ?# p  u1 i6 j# j , [, }, e1 W/ N; _2 v
 
! A- v. {5 B. U2 ~3 B" W 右の話は「左伝」の「僖公五年」にある。標題の語は「輔車相依る」とも言
' f; F7 s6 g% m' B3 x% ^2 h$ }い、どちらも欠くことのできない密接な関係をいう。
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 楼主| 发表于 2005-6-21 08:57:35 | 显示全部楼层
助 長
+ t! x" k2 T6 A/ O; [
7 X% {5 l# r' V+ P4 P% [  a! }
公孫丑は、新たに斉の国へやって来た孟子に弟子入りをすると、まず6 o: Z1 R' ~8 u7 B* y: Y
斉の往年の名宰相だった管仲・晏子の覇業についてたずねた。王道政治. {8 s& w3 m  I1 H* a! b7 ~9 g
を説く孟子は、覇業をいやしめて、民が虐政に苦しんでいる今、斉が仁
' R% T- A9 f* t) Y3 m2 G政を行う絶好の機会だと説いた。そこで公孫丑がきいた。
9 V# M8 `. d, Z) i2 Q/ X* V& [ " }; X9 |5 N  z4 s" V4 |
 「先生がもし斉の卿相になって政治的成功をおさめられる、' r* v2 H. I) o6 @1 g
  その場合でも先生はお心を動かされませんか?」
" }5 N% F$ b+ [7 J 
( ]' q% \$ k: u' |3 p- s" X0 |. J3 N, g 「わしは四十をすぎてからは、
! r1 v  L5 }( N, l! H  もう心を動かさない、
; y5 D' G& K+ `5 u* {" D" ^% t  誘惑にも負けんよ。」2 D1 K2 |' `2 J
   p( ?' U6 j0 X0 @% J' F: m
 ここで孟子は不動心を説いた。
3 e4 l, j4 P# H  z) e0 w! D ' \; g6 L& _( O/ v9 m2 ?
 「先生の不動心はどういう点に長じておられるのですか。」: }" e6 f* D% I" q- d
 
: h; k& z4 e5 V3 }# @5 e1 T 「言葉を知ることと、
& }0 w: n1 h' W/ h4 R) R  よく浩然の気を養うことだ。」; X3 p6 }* D6 }6 s9 |" e
 ( Y" J$ E7 V$ b! D- y. ~& P, o! n, n
 ここで孟子は浩然の気について説き、この気を養う方法について明快
0 M& }# [: `/ x& @& n- T$ d! @3 G: Qに答える。流れるような一問一答だった。孟子は続けた――: l9 d2 x2 \: t' i. D
 
$ S% |& k8 z8 u8 F' _. f 「浩然の気を養うについては、
0 _* q. k# n8 i- b7 Z& ^7 U) Z, n  その行うところがみな道義にかなうことが必要なんだが、; P: d, T$ J% V: M
  気を正とする、
- @8 D* }( {: b" W* B  つまり気だけを目的にして養ってはだめだ。, a% t5 R  N) a4 }6 Z6 @) Z( m  {
  かといって養気の方を全く忘れてしまうのはむろんよくない。
  p. e" P5 I6 @- A7 E5 A- W  宋人のようにあせって無理に助長しようとするのもよくない。
; U3 ~7 m& a* t# h: }  (心の道義の生長にしたがって徐々に養っていく必要がある。)」
2 T4 g3 U/ [6 b+ y- y8 P: P2 M 
' e& L* h, P6 r 孟子はここでまた次のような得意の比喩を引いた。卸愚かなことをす, `) K* B+ `/ q5 O' {
る例としてよくあげられる春秋時代の宋(河南省商邱県)の国の百姓の話5 V9 ]) C1 |+ r3 d# _7 Z6 \
だった。(「待ちぼうけ」の「守株の愚」の話もこの国の百姓の仕業である)
2 {' j0 B( P, Q; { 
/ Y$ z/ s  P0 H4 o9 z3 n ( p; ?7 C) f7 s  p
 宋の国のある百姓が苗を植えたが、この苗がなかなか伸びない。どう
2 `9 |0 ^+ o! B9 M* h# [したら早く伸びるだろうかと苦にしたあげく、そうだ手で伸してやるべ  D, \/ l. b( c9 I2 [8 _
えと思った。そこで苗を一本ずつ引っこ抜いて伸してやった。一本ずつ. A; x) h' ?! \7 c% e" ~5 d4 h9 f
根気よく引っこ抜いて伸すのだから大変な仕事だった。百姓はへとへと
! @% b# O. `* Q" c: rに疲れ切った様子で家へ戻ってくると、家の者に向って言った。
7 k- l& z) L8 T9 Z5 l+ j ) V1 z. O& a8 P/ R8 K& A/ e
 「ああ、今日はえらく疲れただ。4 v  Q/ z7 v* G5 |& C! n
  苗があんまり小せいもんで、
/ |7 Y, J/ Y8 p3 M  苗の伸びるのを助けてきただ。(助苗長)」
( B1 D, j1 s  x7 [/ ^0 R. ^ 
5 X. e' ^# j; ~2 i これをきいた子供がおどろいて、いそいで田へ行ってみたところ、苗/ J4 Q8 I# @) X2 ?1 R" c! F
はもう全部枯れてしまっていた。
4 ]+ @: n8 `$ I" _8 J 
: D+ y# ]' g: z+ v+ Y1 C 「馬鹿な話だが、
' r7 |  P' ?' ]9 g  世の中には苗を助長する――& A" G9 E* p2 A4 `
  苗を助けて伸すような余計なことをするものが少なくないのだ。
  ^4 q+ R4 ?) t4 t' d4 Y8 ~5 H6 |/ o  もっとも、2 d0 N3 J7 w8 u8 D! h+ o) }8 }( M
  はじめから気を養うことは無益だとして捨ておくものもあるが、$ n! e) x: N) W& E8 X( O/ J6 w3 z
  これは苗を植えながら草ひきもしないで放っておくもので、
6 e8 h' W# w0 {! g" x# p3 C# Z  苗は十分生長できない。
) M: u% o3 E7 s. J) K! _( M4 k  j9 t  さればといって、2 r- z4 l* U  Q* a, @8 x. {  m
  気を養うべきものだと知って、! Z/ @& k: ^" j2 o
  この生長を助長するのは、
' U4 i$ b" f; _1 ?  苗が早く伸びないからといって、/ }$ \1 A1 Q2 J, z7 x1 J( j
  苗を助長する――苗を助けて伸すのと同じなのだ。
6 R: D$ H) [( k& C  少しも益がないばかりか、, V' l* ~1 q  f+ N
  その物を根本から害ってしまうものだ。」(「孟子」公孫丑上篇)! A% g: Q1 |( n5 u: y6 {
 
. b- p. g/ {* {1 @: b" k1 g& C5 p ! e( k8 U" H, z5 Z& ^
 忘れてもいけないし、助長してもいけない、と孟子は説く。普遍的な  g  N# k& I) c5 p; r# M- l
戒めをのべたのだった。「助長」は――「助けて生長させる」意だが、「急
1 X  F- |7 u$ d3 X6 r9 jに大きくしようとし、無理に力をそえて反って害する」という戒めの語
( e* H9 H* j1 u7 A/ h% X4 Y感もある。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 08:32:03 | 显示全部楼层
酒池肉林

- ^: K1 D& C8 v% `& X% y. m7 I" C/ d
「殷鑒遠からず」の項で語られたように、桀・紂(夏の桀王・殷の紂王)
' ?2 K3 |1 T9 i6 ]. V6 l/ qの二王は、古代中国に於ける暴君淫主の典型である。彼らはともに人並
9 v# }6 ^0 a4 o" pみすぐれた才智武勇の持主であったにもかかわらず、その最後は妹喜と
% O  n1 X- r4 Z8 x姐己という稀代の艶女毒婦に魂を魅せられて、理性を失い、酒色の享楽* B; k+ y+ K4 L
に耽溺して、身を亡ぼし国を滅ぼしたのである。彼らは寵愛する女性の
6 j: D0 ~9 y" H, e; U3 S歓心を買うために、帝王としてのおのれに与えられた限りの権力と富力
% X2 G% Z1 e3 Lを傾けつくして、奢侈淫佚を事とした。「酒池肉林」の遊びというのも、1 G7 k2 ]3 C6 t/ Q0 Q' Y9 K
この帝王の絶大な権力と富力の背景なしにはとうてい考えられない、野6 r9 }  ?) P3 ~2 Z3 Z9 _
放図で豪奢な「ぜいたくごと」のひとつであろう。
6 b' U+ g1 |# f6 j$ F8 @% p6 r 4 ~5 c# q: o6 W, E1 F7 B  b
 " q: Q- K- F9 H
 夏の桀王はおのれが討ち亡ぼした有施氏の国から、貢物として献ぜら
/ S4 b, Q3 G  r) tれた妹喜のために心を奪われた。彼は妹喜のために宝石や象牙をちりば+ z; s/ S: X& s" j* X
めた豪壮な宮殿を営み、その奥深い一室には玉のベットをしつらえて、
  w, E5 G& |$ \; u: F夜ごとの逸楽に耽った。また彼女の望みにまかせて、国中から三千人の
" f7 U. q: L' m, f, C8 t3 E3 U美少女をかり集め、これに五色のぬいとりの衣をまとわせて、一大舞楽6 o3 H1 B" ~) m  v
を催すこともした。だがその目もあやな舞楽も見慣れてくれば、もはや
6 e( I% w) y$ N物足りない。刺激は刺激をよび、奢侈は奢侈を招く。こんどもまた妹喜
5 r3 W* w" E* H+ @/ Q/ n: k1 X6 nの提案に従って、王は宮園の一角に大きな池を掘らせた。底に真白な砂1 ?9 D9 E# \9 F% s6 j3 `
利を敷つめられたその池には、芳醇な香を放つ美酒が惜しげもなく注ぎ
1 r" L2 v% v; e+ r. G満たされ、池のまわりには丘になぞらえて肉の山が築かれ、立木がわり
$ ~" H/ K5 I$ b5 v- o' e0 vには脯肉の林が作られる。王は妹喜とともに小舟にうちのって酒の池に
+ h5 L' @& P0 o3 R, Q- u8 x7 W浮かび、三千の美少女たちが池のまわりで楽の音にあわせて舞い踊り、
4 o7 |: q- @$ H$ W; ]# [. A合図の鼓が鳴れば、池にかけよって酒をのみ、林の脯肉をむさぼり食う5 g9 S  g- P# O1 R, ^
のを心地よげに眺めては妹喜と挑み合う。
) _3 `1 s  `- M 
# H( h4 ~/ _! T* g3 J2 X/ x このような奢侈の生活の連続がたちまち国庫を窮乏させ、人心の離反4 W5 x; e9 M& o- ?" W! Q9 X
を招いて、夏朝の滅亡を来たしたのは必然の成行きである。
3 Q! U5 u6 y5 P( k  ^1 X% M: A : {  H1 D! h& J6 n- R- e+ q
 
/ {% m) V# G1 h6 d/ Q, y 「殷鑒遠からず、夏后の世に在り」――夏の后桀の前例に鑑みて、婦人; Y' l2 c8 i9 K, e! z6 G: A
の色香に迷われますな、奢侈逸楽をお慎みなされませ、という西伯はじ) k0 \% d8 X' b' I: e$ J& L* ~
め忠義のひとびとの諫めをよそに、否それどころか桀王の振舞いをその0 f9 Y+ q+ E  E' }3 l
まま己の鑑として、殷の紂王もまた奢侈逸楽に耽った。桀王の妹喜に代
6 H3 p7 S" k/ ^: l. _: fわって、紂王の心を虜にしたのは、有蘇氏の国から献上された、世にも3 {% u2 ]8 h% f: B1 \. L- e
稀なる美貌と淫奔さを併せ備えた毒婦姐己である。この女性のあくこと) u& W$ M4 m) Y
を知らぬ欲望を満足させるために、紂王はまず苛斂誅求を事とした。鹿
/ X" R6 k- t/ S台・鉅橋の倉庫には人民からとりたてられた銭帛や米粟が山と積まれ、
! [% [5 d9 m6 ^- k* O0 Q国中の珍獣奇物は続々と宮中に召しあげられ、また莫大な物資と人力を$ T7 Q6 {5 k' Q% r# |/ B  R
消耗して、豪壮な宮殿園池が造営される。池には酒を満たし、酒糟を丘
5 a  Z6 j+ w! {. {1 _7 aとし、肉を吊りさげて林になぞらえる。楽師に命じて新しく作らせた北
4 u1 e9 R- N  p& P/ m' w: Y里の舞・靡々の楽など、身も魂もとろけさすような淫らな音楽のしらべ
( S' z2 w; Z% m! }5 S# Tにあわせ、一糸まとわぬ男女の一隊が、そのあたりを追いつ追われつお
+ b* G3 ]8 p) sどり狂い、それを観るひとびとは忘我の恍惚感にひたりながら、池の酒5 [; l+ z5 i& `' D# Y& J! c! D
をガブ飲みし、林の肉をむさぼり食う。その狂態をうちみやりながら、4 |$ g, {" |- f+ q$ |, Z
しどけなく紂王の膝にしなだれかかった姐己の頬にもやがて淫らな満足
. h* M; B  l1 b6 i: ^5 q$ Yのほおえみが浮かぶ。しかもこのような狂宴は、百二十日もの間、昼夜
/ F! Q, b+ ]% c+ e5 v  Aを分かたず繰りかえされ、これを「長夜の飲」と呼びならわしたともいわ6 x1 s, |4 C/ W2 V
れる。
$ C7 _4 h' j: y- _* X9 R 
+ g7 \. f6 z2 @4 r: K 
9 [4 b- B  W; j; E8 z* h 豪奢といえば豪奢、だがその狂態はすでに常軌を逸する。心あるひと+ s# g- i6 F2 X- D% Q7 q
びとの諫めも聴かばこそ、却って帝王の行動を誹謗する者として残忍な9 {9 ], r) |9 [
「炮烙の刑」が課せられる。そして膏油を塗った銅の柱から火中にすべり
; H8 p% c7 y4 ?/ x7 E& v7 B落ちて焦れ死にする犠牲者の姿までが、残忍な姐己の淫欲をそそる糧と
$ {$ S! t6 r5 Y% n8 X( r% bされるありさま。かくて暴君淫主の名をほしいままにした紂王も、やが
! ?$ q+ A% P2 sて桀王の前例そのまま、周の武王の革命の前にあえなく屈し去る呙騖1 J5 a0 ?- ^3 [, Z7 _1 j
歩んだのである。                  (「十八史略」)
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 楼主| 发表于 2005-6-22 08:32:38 | 显示全部楼层
春宵一刻直千金

% U2 l) \! p7 S5 x$ N6 K: b
2 |% N0 z4 o$ _0 {+ \, N) z; k これは、宋代第一流の詩人蘇軾の七言絶句「春夜」の起句である。/ V8 {2 v$ G, n3 i; |+ \- ^  y' [
 , n7 P. {' u% ^& O, }- H( ?
   春宵一刻直千金、
, d2 e. [7 w& T( A+ C: P) z   花に清香あり月に陰あり。( x* r* x" e% a( O4 H- K2 B* u( d! c$ ^
   歌管楼台声細細、, \2 R6 P0 M( W5 b
   鞦韆院落夜沈沈。
+ d: l& k" k* m6 m . U& w3 w; O5 ]8 m1 u* n
 蘇軾の号は東坡、父を洵といい弟を轍といい、それぞれ唐宋八家文の
/ ^+ X$ C1 o) Z) M5 `; w' ^, c) [一人として有名である。また蘇軾は有能な官吏として活躍し、その反対" [4 P2 E6 n, d4 E' F2 B- D5 E
派におとしいれられてしばしば地方官に左遷されるなどした。また学者
% p7 h+ n7 D2 v1 ?2 Gとしては欧陽脩門下として名をはせ、歴史的立場から古典を解釈し批評, N5 a6 @8 |$ W5 `9 ~
するすぐれた業績を残した。5 m; c: }: u# {0 O
 4 d$ }4 I1 t, d* y
 
+ j9 p' K. o5 o- T8 Z: H! F5 ` 当時はこの蘇軾父子をはじめ、王安石・欧陽脩・司馬光・程明道・程5 P9 u: X' S" R1 i0 U9 I/ Y
伊川などという逸材が多く輩出した異彩ある一時期であり、学問と文化
5 ?) ^! x5 R, I! n, A# K3 L6 cの歴史の上で一つの新しい境地を現出した。当時のこうした代表的人物% J. g* J# A" w3 Y% W7 c, v! Q
たちはいずれも、能吏であり、碩学であり、文豪であって、いろいろな* i9 l# l) X- E; \# N. {6 y
面に才能をしめし、しかも各自はそれぞれ特徴ある個性の持主ではあっ
* u# s! U) r$ x% R4 L' g; fたが、その底には共通した考え方や感じ方が流れている。それは人間の
. k- b1 i" r) Z% ?存在、或いは心の活動というものを宇宙の中の一存在として客観的に見' n3 o; v- ~" \$ V: l
ようと努力したことである。そこから生れて来る彼らの人生哲学は、他
- t& `( C3 R2 [! e$ \の時代の人たちにくらべ哲学的であり、思索的であり深みがあった。ま  S3 y! X, R" I7 B2 R! H! [, T, A  R; k
た自我にとらわれるという生き方を、もしくは現象にとらわれ或いはこ8 i$ U8 I9 ]. E9 _. E2 |
だわりすぎるという考え方を止揚できたから、その生活感情にはのびの  v6 q. ~4 N0 E# ~. W) O9 g
びとしたところがあり、文人気質を持っていた。蘇軾はそういう面で殊
. L9 @2 j4 N0 w/ {3 Z, @に代表的である。「春夜」の詩にもその生活感情と文人気質が強くあら
' v; }" t2 n$ \* l/ B( L# K: u- lわれている。" q/ z2 X, a& s5 H7 D6 B. F
 
( c  i; V& W9 c2 D & Z3 Y& A5 h. l) R. i& b1 E
 過ぎやすい春の夜の一刻一刻を千金の値あるものとして買い取り味わ
4 p0 R0 _- [& r8 rっている作者は、ただ「春宵はよいものだなぁ」といっているだけでは
- X) o7 g& ]" w6 V8 E4 O" Gなさそうだ。今すぎてゆく一刻一刻にこそ人生を充足させるすべてがあ5 C0 e  h8 ]7 a
るといっているのであろう。そのすべてとは何か? 花であり、花の清
# ?7 c' K/ E* B4 [7 l/ o香であり、それを照らす月であり、その光を映す葉であり、庭のかすか
0 k  e% z1 J! C& \% Zにゆれる月影であり、寒くもなく暖かくもなく、なまめかしい空気であ
. M5 B- V9 X$ m8 kる。人間のあらゆるいとなみがこの刻一刻にくらべて何ほどの価値があ
( g4 l, [: C2 Nろう。
$ w7 R+ ?9 n$ U+ n0 A  a 
3 P) `, H% Q5 e1 X2 ]" a 楼台の歌も管弦も院落(庭のこと)に立てば、細く遠くから聞こえてく; |. a1 H# E: F8 G2 h4 ^
る。それは管弦の場所にあって聞き、あるいはみずから歌い弾ずるより
) I, y0 f  K* r* ?& P8 f4 z3 H+ uはおもむきがあるというもの。おもむきがあるというよりは作者の心に7 Q2 m9 Z: J( F$ K$ H: i
深くふれる何かであり、離れて聞こえてくればこそ、その何かがしみじ: ^/ Z9 @9 T( L5 q: E
みとわかるというものか。
* y8 F; C  [- {4 V' `$ ^ 
; j6 a6 F! e/ K0 \/ Z- L8 y 庭の鞦韆は仱胍遗猡胜拼工欷丹搿4工欷丹盲苿婴踏蓼蕖
& B8 F+ V! N! N  p春の夜は、手をふれればこわれそうなもろい姿をして、沈沈とふけてゆ; _5 X8 [! B& G+ |4 M4 S" m
く。; b6 u) L3 T: j. P
 
$ @, ?# c& T  a 
) c& z8 w% b$ O  y, j+ ?  o5 M8 h 蘇軾の詩はさわやかで飄逸だといわれる。行雲流水のごとく自然でた9 M1 }9 Y9 s2 Q: _" R2 S
くらみがないといわれる。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 08:33:25 | 显示全部楼层
春眠暁を覚えず
: Q5 z4 u- [: E! g3 V; R

  X7 Q- _' v% N, b& H唐朝は詩の時代といわれる。なかでも玄宗が位にあった開元・天宝の: s) P. M- y" X6 X5 F8 V1 r
盛唐といわれる時期には、唐朝の充実した力がおのずから外に溢れ出た
9 e. k6 r- F! T+ Kような、内容豊かでのびのびした力量の詩人たちが多く出ている。しか
. @. s% {; {' N* c- d+ aも多くの詩人たちが、それぞれ強い個性と相異なる性格や感受性やを持1 W# v/ G, a! M
ち合わせ、まさに百花繚乱の態であった。また李白のごときはよく一つ! R6 @! ^! J3 `0 C% h2 s  d+ q
の個人のうちに相異なる傾向を持ち、時には華麗な白牡丹のごとく花咲
% I% F0 o; J, Y9 {1 @2 g2 eき、時には路傍のむらさき露草のごとく可憐であった。杜甫は雪かぶる) o& }! K; K, I" D
断崖の松のごとく、あるいは霜うける清流の荻花のごとくであった。岑! b) @! ^! y! F
参や高適は豪放派であった。
# ?8 K: v+ g9 F5 [6 M; o 
5 z) G* Q* z# E 
1 g$ C0 j$ w0 j1 Q8 L1 W2 N ところで「春眠暁を覚えず」という名句を吐いた孟浩然は、岑参や高適: Y1 G1 |- `7 g  b1 R0 N% R
と対蹠的な幽静派である。幽静派の雄は王維であったが、孟浩然はこの
9 A8 f5 S1 h  [* `! g5 B# }$ r王維に才を認められた詩人であった。しかし彼は飾りけのない性格と、$ E' k) Z" G; w  N+ @+ t- w
放縦と、生来の無欲がたたって良い地位につくことができず、五十二歳
/ V* A! |0 e+ B; k0 pで貧窮のうちに病死した。幽静派の詩の傾向は「静」「幽」「清」「淡」という
( L" s9 X* g8 r4 M3 L# B言葉で表現できよう。その対象は広大な動的な世界ではなく、小さく奥  }. T3 V) F) h; p1 \
深く静かなのである。つまり繊細な感覚が自然の微妙を観照し、そこに
! }5 `% m1 P* M写し出された世界がこの人たちの詩なのである。
' e- M$ Q. x, I/ i% {: p" W$ H; g: h& z 0 y' k# N8 ?: ]5 L6 ^* X
 
% ^# H: ]1 l/ m1 i# c5 W) Y   春眠暁を覚えず、* n) E% h) Q# L( |9 @. ~- t1 N
   処処啼鳥を聞く。$ c- l( b; [4 q2 Q& [
   夜来風雨の声、
4 k4 _6 y7 Z4 J   花落ちること知らんぬ多少ぞ。
$ A% [* w6 h5 r$ p 5 A9 I' D+ z) U: @
 
5 s: Z; Q! @2 S9 M9 }" M この「春暁」という詩も静かで妙なる自然の観照である。ごく平凡な光' D3 h. v& s1 Z4 i% G
景ではあるが、その平凡が平凡ではなく写し出され、つきざる妙味とし
) X1 l$ Y$ i0 E% P$ X2 Iて千二百年後ものわれわれの胸にしみいる力があるのは、やはり孟浩然
! n  A3 m5 M5 [, P: \" A% |の自然に対するするどい観照力のおかげである。
+ g% X6 z5 i1 s2 m% V  D& \ * {! k9 r! `2 d
 
. r( n- @, x# [2 H ずいぶんたくさん落ちたことだろうなと、うつらうつらしている春暁5 \$ |; ]% f- W# U
の寝床はまさに二十世紀の現代人にも涅槃の楽しさである。庭には桃の
2 M, o0 H8 s6 j* U! T5 y木(中国人は詩で花という場合、多くは桃をさしているようだ)のない方
( v. p$ [- o% r0 r. l々は大変残念なことだが、その時は雀の声をきき、屋根瓦にさす日射し
* f0 I# a( D4 |を想像していればよいのだ。雨が降ってどのくらいカウントがふえただ3 D4 F3 D. a5 o/ B$ O6 i- R2 G; ^
ろうなどと原子爆弾のことを考えたり、税金のことを考えたりしないで! t# c  Y, ]. k
すむひと朝が許されれば、この涅槃にわれわれもはいれる。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 08:34:13 | 显示全部楼层
小心翼々

2 _9 O) c- S+ f( t8 W1 x. Q, J: M0 J, w/ ?; q+ O2 I
《小心翼々》という言葉は、「詩経」の中の、周朝の雅歌を収めた「大雅」
* ^- @0 m6 |/ L1 [1 fという篇にある、「烝民」という詩から出たもので、この詩は、周の宣王
1 d9 Z. \7 I, k1 Y  w8 ]3 s& vが大夫の仲山甫に命じて斉に都城を城かせたとき、同じく周朝に仕えて% r5 Q+ @5 y1 f( N* a6 r( G) W1 S# y
いた名臣尹吉甫が、その行を壮にするため賦して贈ったものとされてい, }4 |" ]4 {- A
る。斉に都城を城かせたとか、尹吉甫が贈ったとかいう言い伝えはとも
/ p- p+ N+ r: S8 E9 H% \かく、この詩全篇は、宰相の高位についた経歴をもつ仲山甫の徳をたた
! n* r+ @4 O  ~: g) N" Q5 fえたものである。* `0 r8 D% l( t9 E) S9 X$ r5 k" W
 
+ O- B9 R8 ]7 Q+ D 司馬遷の「史記」によれば、宣王はその三十九年に、姜氏という異民族" o7 P) h7 O2 ]
と千畝(山西省介休県)で戦って敗れ、南方から徴集した軍を失ってしま
, t: |* |  o. @8 }ったので、太原(山西省)地方の民を戸毎に点検して、新たに兵を徴集し! y; ?# H6 j( [% \
ようとした。すると、仲山甫が、
9 R* a0 K1 }$ x: U/ D$ X 
% \2 j0 U( `- j# P7 s3 U 「民は料うべからず。」(やたらに精査なさってはいけません。)
$ t, v/ o8 q0 n; A" `1 p( z* _& J* a 
' Y) o1 M4 }7 s1 U& } と諫めたが、王はきかなかった、という記事がみえている。これは宣7 m6 _% |/ s1 L' o" ^+ q: p
王が晩年になって次第に暴君化した事実の、一つの例証として記されて
/ w* T- r& j" g4 y- O  p$ _いるものだが、それだけに、宣王に侍して公論を主張しつづけた仲山甫
( ?) U4 a# q7 L# `  S! _には、おのずから人望が集ったのであろう。「烝民」は、周朝の政を輔け7 o) q3 S+ Q7 b) M; v
しめんがために、天が仲山甫を生んだものとたたえ、その仲山甫の徳を
3 m/ P9 U. k3 c! K: V! v/ uこううたっている。
$ |! M! @# n0 Z! H+ A 5 m& o1 R8 |8 k$ d* h6 M$ c# [8 {
   仲山甫の徳たる
8 b" B, n" S8 A5 r' o" C   柔嘉にして則あり。
+ p% l; q  Y- F0 [: L* r' ^   儀を令くし色を令くし、
+ Z4 \  n- r  N   小心翼々たり。
" [  g: R+ _- `5 u  H+ r( T   古訓これ式り、; p# h7 \. Z* O9 N  I
   威儀これ力め、
5 Q; w1 g" u. Q" c   天子これ若い、
8 x6 T( }6 X. X   明命を賦かしむ。5 P! k* v) f1 h0 p+ @; u" o$ i% P
 
2 G3 |/ s4 n/ d     (仲山甫の床しさや、
5 i+ C) X) R3 \* G2 P      おおどかに折目あり。  u' f5 B% B' H
      挙措容止やすらけく、7 T' L, ]( \; B
      細心につつしみて。8 t* q3 n9 X4 F6 M3 R8 X$ L
      古訓にのっとりつ、& p7 E/ k1 ~  U% x7 b
      威儀はいやつとめつつ、  c/ f8 b' G% l4 \4 o8 f
      天子もしたがいつ、
' ^+ E) y% N' ^: E; m4 \, I      聖命を世にしきぬ。)
( ]; q9 M' p, l6 m5 c 8 _+ F) x* C% W' [
《小心翼々》というのは、従って、「細心に気を配って行いを慎む」とい
# r0 l: W: Q# b( uう意だが、今日では転じて、小胆を形容する語として用いられている。
: v4 k1 y) A) p3 a6 i 
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 楼主| 发表于 2005-6-22 08:36:14 | 显示全部楼层
鹿を逐う
4 C) P8 h- S; }6 h$ J/ Q

4 x. C! v, }" k 漢の高祖の十一年、朝の相国であった陳キが代(山西省代県)で叛旗を+ m) u+ `2 z* H4 h
ひるがえした。高祖がみずからその討伐にむかった留守をねらって、か: y% x( }' c9 z& W, V& M
ねて陳キとしめしあわせていた淮陰侯・韓信が、都で兵を挙げようとし
. |3 B2 u4 ]3 a" h2 @7 F; T/ h( i& ?た。幸か不幸か、ことは事前にもれて、韓信は逆に呂后と蕭何に证椁靄4 J  _3 R3 M. O
て、長楽宮で非業の死をとげた。
4 o2 M6 A" \6 I2 h! v * B& a: r5 N6 `* X
 やがて、高祖は陳キをたいらげて凱旋したが、韓信の死をきいて、さ
1 V2 k$ G7 @$ f( Dすがに感慨をもよおした。漢室の禍がのぞかれたのを喜ぶとともに、あ
& K4 y% i, b" [) \3 d* aりし日の韓信の偉大な功績がしのばれたからである。高祖は率然として
- |( E$ m+ ?  z( P: j4 x呂后に問うた。" F+ ^5 c* {# T- ~" W1 g3 `
 
& B5 a; e- p5 t; _7 ]2 k1 P  w# } 「韓信は、最後のときに何か言ったか?」: I( ~& e* Z% f4 S% V2 }. N
 
$ n6 u) W4 Y& b" o2 V 「はい、カイ通の計りごとを聴かなかったのが残念だと、# M9 A3 T3 R: N" q0 F  [5 Y
  しきりに悔んでおりました。」1 |+ t* O, a4 k$ R0 S) b
 
# t! {" G0 L! `9 O9 A$ M カイ通は斉の言論家で、高祖がまだ項羽と天下を争っていたころ、斉
5 R5 ^% F$ w3 H) f& @/ z王であった韓信に独立をすすめた男である。
1 E) Z1 c! @. H: Z$ {% b0 }2 V + b5 }1 y  c; q5 n1 ]: l  y; _
 「よし、カイ通をとらえよ。」
. c2 T6 n* M6 M9 r3 l3 {  p   S$ p) A5 r0 T5 Z1 `0 w: M( u
 まもなくカイ通は斉でつかまり、高祖のまえに引きだされた。
) r+ l% t3 J0 w% X; O; X$ E   S8 D, u* ~/ `% _3 N/ o) S
 「おまえは、淮陰侯に叛乱をおこせと教えたことがあるか?」( w* D1 o7 B/ g. E: l
 & M& f  `2 Q7 N3 [  K
 「はい、たしかに教えました。
' Z3 f) r) K5 }. @- z# p# G, v  でも、あの小僧は私の策を用いなかったのです。
4 b* j$ G' c8 \& E" L  だから、あのような最期をとげたのです。
" @$ ?& b* r* C) ~  もし、あのとき、私のいう通りにしていれば、
, h+ R/ z7 A# M3 M. R8 z1 g* Z  陛下といえども、やすやすと平らげることは、
9 v! Y1 @1 [- [& R- O( J1 \: O  とてもできなかったでしょうに。」2 v/ T- e% V- F' w+ Q
 / Y, Z* W. I! ~  a( e. U) h) j
 カイ通はしゃぁしゃぁとしている。高祖は大いに怒った。4 |$ W( |3 s1 J3 n
 , D2 o- \! t, B( R
 「こやつを烹てしまえ!」! O* X- ?1 f2 o+ a5 k
 - E+ {6 T% _# D) j+ B/ W
 「いや、とんでもありません。
4 T" P7 r4 ^' [$ _3 b% Z  それは冤罪というものです。
7 ?! [) f1 w! f# Y, x' F& Z  私は、なにも烹られるようなことをした覚えはありません。」( {% l- B) O; n( h5 U( X
 
, p2 M1 T9 U& E9 N' ? 「だって、おまえは韓信に叛乱をすすめたではないか。
0 d/ n1 i* g" ~  これは大変な罪だ。冤罪であるものか。」
' v$ `$ L2 V. c) u, m- d5 x, Z 1 |; J6 g1 a4 g, p+ ~/ E+ g
 「いや、陛下、どうかお聞きください。2 G: Q& r9 q/ u; {
  秦の綱紀がゆるんで、天下は麻のごとくに乱れ、, b" S- M) c% r, m+ O  [; u& H1 O4 j
  英雄豪傑が各地におこりました。
3 z. A  |& w+ P9 }+ h2 F  いわば、秦がその鹿を失ったので、% F3 O  h( X  Y" Z8 M
  天下はあげてこれを逐ったのです。
# a( k% I/ Q$ B( D# P2 t% I8 E' u) k  そのなかで、陛下は最も偉大であられたので、
( p, a; n4 g: P# F. p  見事にその鹿を射とめられたのです。/ p( @/ ^3 [7 s- s4 x
 
) F: G5 J  N+ X# Y! l+ r  さあ、ここです。
$ J, T; C' O; ]' }/ m  G0 ?  あの大悪党の盗跖の犬が堯に吠えついたからといって、
9 f8 F1 H/ @4 A/ ^4 a  それは堯が悪いからではありません。& H( h+ ]; x4 q7 N" }
  犬というものは、自分の主人でないものには、- D* E" t1 A. q, l
  すべて吠えつくものなのです。
# e, q+ y/ ^# Y: {- x4 o  あの当時、私は、ただ韓信だけを知っていて、
4 [. ?2 q& w/ X+ f" ~7 r* v  陛下を知らなかったのです。
7 Z# m8 ~" W3 E( u& J  P  だから、韓信のがわに立って陛下に吠えついたのです。
, X& Y3 ^; B1 O/ w, y 
2 M+ r# Z8 a8 `0 X2 I' x  天下が乱れれば、( o7 W; y- z$ w3 p  v# A
  これを統一して帝位につきたいと思う英傑は数おおくあります。' C4 b4 Q  n! m% P  o0 ?5 ~* S4 m
  つまり、
& R! M8 k  F- A0 n$ e/ q  陛下がなさったことを為しとげたいと思う人は多いのですが、
0 `2 D2 M6 ?1 H  ~1 c  力が足りなくて実現できないだけです。0 s, t% n! u5 X1 Y5 u* V5 h" R+ S
  それを天下が平定されたいま、1 H2 F0 Z4 W/ P  f
  かつて天下をねらったかどで、いちいち烹ますか?
! F* N! O6 \" F" [4 N3 \  とてもできたことではありますまい?5 E2 W8 ]& B% l% M! \6 P
  だから、私にも罪はございません。」$ r) d3 R+ M( S& F: @5 N
 " o+ e  W4 x+ G2 O' i( F
 高祖はカイ通を釈した。  f7 G- T5 W  {- m9 k" d% _* m
 ) k/ l2 J- t! m
 
4 B8 K" D6 S$ U& P1 u. h! b8 g* A この話は、「史記」の「淮陰侯列伝」にある。「鹿を逐う」の本文は、$ S$ E- X! ^' o6 s" }$ d' G
「秦、その鹿を失い、天下ともに之を逐う」である。帝位を「鹿」に例え% l% ~0 z0 F, B- p
たのである。同じ使いかたが「唐詩選」にもある。魏微の「述懐」という
7 I6 q/ T  y* o! ?6 b五言古詩の最初の句、「中原還た鹿を逐う」がそれである。「鹿を逐う」+ p7 d4 V+ u: c
という語は、大利に志す意にも用いる。「淮南子」に、「鹿を逐うもの
) N4 z! Y, T  G* p, H  V; I2 ^% vは兎を顧みず、千金の貨を決するものは、銖両の価を争わず」とある。
6 [2 T& B( K4 N, b* g' e! nまた、利欲に迷う意にも用いる。「虚堂録」に、「鹿を逐うものは山を3 F( |$ J, E4 v4 o2 C& j  P; M9 O
見ず、金を攫むものは人を見ず」とある。同じことを「淮南子」には、5 n. ?, @  k) q2 V. Y: s& b8 g0 Q
「獣を逐うものは、目に太山(泰山)を見ず」とある。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 08:37:52 | 显示全部楼层
鹿をさして馬と為す
7 ~& L: p# Q4 c6 M6 W0 o
, ?( V  E, ?( U+ t
さしも栄華をきわめた秦の始皇帝も、寿命には勝てなかった。彼は不) M# F& ~$ r8 q8 R
老不死の霊薬をもとめてあせりながら、ついに死んだ。遺言では、太子
: ^1 o+ C. [# nの扶蘇を位につけよということだったが、丞相の李斯や、側近の趙高な
0 g; W  y9 [# @# ^8 Yどは、その言葉をいつわり、幼い胡亥を立てて皇帝にした。なぜなら、
! {6 D; o0 W: x2 H& ~' x: J4 r扶蘇が賢いのにくらべ、胡亥は凡庸であやつりやすかったからだ。これ5 N' I  ^! ~6 |! p; g+ O3 R
が秦の二世皇帝である。; Q: G+ i  Z) K! G
 
% F4 m+ ^3 V- ~% G4 ?3 L9 ` 二世皇帝のもとで、またたくまにのしあがり、秦の実権をにぎったの
  P4 m6 h  o) x/ C/ m' }3 g8 pが、趙高だ。人にいやしまれる。去勢者の宦官である。
: e7 ~% f7 M' n2 K! ] 
2 ~" i5 |3 ?: V, u 胡亥というのは、即位のしたてに、: ]7 Y' Q' C  z$ N* w% A  q
 ( t0 y0 N) w2 R2 u5 g' x% J
 「朕は天下のありとあらゆる快楽をつくして一生をおくりたい。」* e+ T( h6 ^1 j/ g# x
 5 T" W* _  \" v, ]! [$ w' x6 E
 こう言ったという人物だ。趙高はほくそ笑んで答えて言うのに、
0 K$ t0 h$ s/ ]3 c2 \ 
, M2 Z% K; \' l( s) u* R 「まことにけっこうでございます。3 T# F; b/ P( y- k- k: Q
  そのためには、まず法を厳しく、刑を苛酷にして、
- b+ x" X% y5 n- \; [  G( U  法のおそるべきことを知らせるのが第一。
' Z, P. U8 m- c5 V+ k  つぎに、先帝以来の旧臣をことごとく除き、
) j5 x5 L# }& _) w" [- a  陛下のこのむ新人を登用いたせば、
9 V; g% ^' I* ^7 v% G  これらのものは、陛下のため、8 R" }: n2 o4 l1 t
  身を粉にして政治にはげみましょう。
" X6 P/ Y, P) b# W  さすれば陛下は、
8 R5 P( c% b5 p1 J% i- E  心を安んじて楽しみにお耽りになれると申すものでございます。」% Y, ^$ K4 a  E$ o0 k
 
2 ?* m/ o/ m) o8 | 「なるほど、道理じゃ。」
: o% d# d( E& J% t+ \ ; @6 N8 l& K! E5 C
 と、胡亥は答えたという。こうして趙高は、競争者の李斯も殺し、先4 D- j6 [; P9 c
帝以来の大臣、将軍、それに王子までも殺戮して、丞相にのぼり、実権
0 y, n4 }0 i4 R* tをおさめた。そしてついに、胡亥にとって代ろうと企むまでになった。1 j$ i9 W; G5 Q" L
 
' E. @/ T* {6 z/ F: m4 q4 N だがそれには、宮廷の連中がまだ胡亥についているか、それとも自分5 Y$ J; i. d7 E5 Z1 r) d- G
につくかを確かめねばならない。それから、もし自分に従わないと為に9 t1 m# f8 r& R
ならぬぞ、と示す必要もあった。この目的のために、趙高は、まことに
" K5 L* y4 N3 l$ N奇態なデモンストレーションを考えだしたのである。
  _) v8 y& o7 U) b7 Q) h0 s! E 
/ K0 d9 M0 H# q' `+ m* _ 彼はある日、二世皇帝に鹿をたてまつり、そして、+ ?" x3 @8 p1 Z0 B4 A) _
 ( v$ s# v& F9 N& O. [
 「馬を献上いたします。」
& J! D( T. v& H7 \" |) s ) Z7 k' Y, ?- G
 と言ったものである。二世は笑って、
+ }, ^# s: S- I! t& _9 K! I+ [( K 4 y, W) ]  V) a6 \; J: e
 「丞相はヘンなことをいうぞ。5 v$ \( R2 z, V
  鹿のことを馬だなぞと。
$ H( {+ r# A2 ~# ?* z  これは鹿かな? 馬かな?」5 S6 X+ n7 ~9 D+ \
 + f* b4 |9 `' P. _% }
 そう言いながら、左右の臣下を見た。顔をふせて、だまっているもの3 T& Y( _. y( d
もある。趙高におべっかをつかって、馬でござる、と言うものも出た。9 q. S- y2 Y* ^* Z2 V# a$ R  A
だが、「いや、鹿でございます」と直言する臣下もまだ何人かいた。胡亥; l/ _( ]; p1 t9 i( U8 l& q3 O
は、わけがわからず、ぼんやりしていた。趙高は目を光らせて、鹿だと
1 o' O& u) u+ F0 o5 U言ったものを覚えておいた。そして、そのあとで無実の罪をかぶせて、# h8 k6 q* X( E8 t# T- s
その人々を殺してしまったのである。趙高の言に反対するものは、以来
& |# l8 k) e! E: m( l4 \: z宮中にはいなくなったという。
) c$ g7 ^( n2 {5 ]5 V1 ?" m2 m0 H # O) B' c/ E$ l+ m2 M
 といって、趙高にひれふしたのは、全中国ではなかった。かえって、
* n8 F* _2 ]+ k2 A4 B: v9 j各地に反乱の軍がおこる。項羽・劉邦などの面々もあらわれる。こうし
" C) V" q7 C* ^1 A" |4 @+ U0 M' Uた混乱のなかで、趙高はじゃまになった胡亥を殺し、扶蘇の子子嬰をた8 v% N8 q% a) l/ Z5 L1 ?0 V
てて秦王にするが、こんどは自分が子嬰に殺されることになるのだ。, }" R+ w) F, E& g2 S
                  (「史記」秦始皇紀、「十八史略」)' v% E+ `1 Y8 j& L$ A6 R0 S7 s5 K
 " W8 W7 d' @" S! M- z" B7 D
 ( a3 P: b' m) q6 O$ }/ g+ w
 この話から、「鹿をさして馬と為す」ということばが出た。だからそれ
- W2 r( g/ y7 s" |' E  [8 u9 Yは、まちがいを威圧もって押しつけ、人をばかにすることや、人をごま8 y; s- g' \0 a. l
かして理を非とし、非を理として押し通すことを意味する。( O  ?% k4 f; y3 x
 
  J9 C# H, \3 Q; |% {0 a ところで、おなじみの「馬鹿」ということばも、ここから出たという説
' c: O# d0 k$ f* L. pもある。なるほど、という気もする。それに、馬鹿(バロク)ということ5 s6 K0 ~$ V+ R, l6 S* m- b5 G( F
ばはたしかにあって、おろかという意味をもっているのだ。) ~# c( U; c( f2 b6 J+ M/ z
 1 m7 f8 x; O; L1 r. U
「胡亥は詩書も読めず、聖賢の言も遠ざけられていた。それどころか、% K+ D/ X, d/ ^% V' e
 趙高のような宦官に、残酷な政治術をしこまれた。だから、天下の人5 [0 H2 b) ?: l& X9 n
 はみな愚かというのでもなかったが、胡亥のほうは馬と鹿のけじめも0 Z. |2 N- e3 L' d3 L
 つかないことになったのだ。」         (「唐書」元シン伝)" X  }& s# H9 Q$ T9 Y1 P1 \
 
' G. Y; t- L* N4 t+ [" ` というところから、馬鹿(バロク)という。まあ、胡亥には限らない、
$ A8 E9 |4 O# m# e/ _その臣下のなかにも、該当者がそろっていそうだから、バカの出典をこ
3 L: V* `8 P( m6 ]2 ?こにもってきたくなるのは人情だろう。
- Q; @7 U/ v/ E & [& N) s, G. l* a
 しかし、この点どうもはっきりしていない。もとは梵語だという説が
" v! W8 Q* _  U4 \あって、バカの由来するところ、さらに古くなるようなのだ。つまり、
! k- s9 ^' P- c梵語で Maha または Mahallaka というのは無知のことだが、これが慕
( Y* C4 H) @$ d3 N0 J& K) D& _3 Y- I5 e何となり、さらに馬鹿の字をあてがわれたのだという。この説のほうが$ o5 V0 x( D  @
有力だ。まあ、由来の判然としないのも、バカの語にはふさわしいかも/ |7 C! y: @7 ]! z0 W6 @# m; U
しれないが。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 08:41:05 | 显示全部楼层
死せる諸葛生ける仲達を走らす
8 G4 @% h# n# V% Y# Z5 j9 t; r
8 b  ]  \- |. O3 z6 F8 |
拒ぐはたそや敵の軍、9 ]% o5 t! U$ Y3 ~! f( Q% K$ `( l
   かれ中原の一奇才
  ?5 p  F6 D  p+ I4 A4 o2 C8 E   韜略深く密ながら3 d8 P& a8 k# k( h2 O# P2 |. b% @
   君に向かわんすべぞなき。
( h9 w  k9 E& p   納めも受けむ贈られし! w( g% y1 p, P8 x, B: K
   素衣巾幗のあなどりも、
! n% y7 y: ]2 \- o   陣を堅うし手を束ね、7 n6 @: V; d4 k# r  k8 o
   魏軍守りて出でざりき。4 X! @4 Z$ O/ F1 ?
 
* b1 U' t  _6 |' q' O+ L% B: Y 土井晩翠は、「星落秋風五丈原」の中で、こう歌っている。時は建興
" |4 c* z2 ~8 D5 \! L6 ]十二年のことであった。諸葛孔明は六たび祁山(甘粛省西和県)に出て、
; r4 }/ D% X  r: w  }" T) C7 r司馬仲達の率いる魏軍と対した。賢い仲達は、蜀軍の補給路の遠いこと+ O4 i7 Q1 U) G# Y% n1 M
を考えて、持久戦に持ちこもうとした。さすがの孔明も手をやいて、な% C: ~. Z2 ]8 R( c
んとか魏軍の軽挙妄動を誘って、そこを攻めたいと思っていた。
' n/ D0 ~/ c4 s5 V$ Y # Q8 Q; t2 f& Q, ]
 既に孔明は渭水の五丈原(陝西省び県西南)に陣地を移して、遊撃する
, n6 s! ?1 {) jきっかけをつかもうとしていた。そこで仲達の所へ使者をやって、婦人! I3 I( G& g6 Q
の髪飾りと婦人の服(これを婦人の飾りだけと見る説もある)を送った。- [3 ~: ~9 \* d3 l- L- {/ z
これは仲達のやり方を「女々しいぞ」と非難し、相手を憤激させて戦わ
( t! C9 R1 ~* fせようとしたものである。しかし仲達は全く意に介しないで、孔明のこ0 ], u! C5 F. D; K' D, Z
としか使者に聞かなかった。使者は訪ねられるままに言った。
- D* i0 S+ R, X5 i5 F& r - _! b! _, ^, H- T
 「公は朝早くから夜遅くまで起きておられます。/ L  B2 m3 h  b  C" x' X! N
  賞罰は公平を期してみずから当られます。* o% B- I' D+ S  [" e
  お食事はわずかしかいただきません。」6 g) `/ `  b2 Y" E( ~# s; ?
 $ d, a; p- x9 c- }5 F
 仲達はこれを聞いて、まわりの者に、
3 A: _: J6 k1 c3 S, c/ C8 v 4 L9 D! v& D$ o# |
 「あんな激務ではとても長生きできまいぞ。
+ R( W, ^( L" e) D1 v1 U  やがて決戦の時が来よう。」と語った。  T) ?* e. x' N2 c. E
 , W" L: s$ N& r  L4 A* c+ n
 同じ年の秋も深くなって、「清渭の流れ水やせ」る頃ともなった。た' ^0 `& }. Q2 D- k9 b
またま大きな星が赤く燃える尾を引きながら、蜀軍の上に落ちるのが見
7 {# s1 K/ j( D# c3 _えた。仲達は孔明が病に倒れたのではないかと考え、にわかに攻撃しよ
1 c2 Z3 `& o* J( }うとした。死の近いことを悟った孔明は、「おもわやつれし病める身」  e% G; b& n+ w& j- S
を起して、自分の死を魏軍にわからせまいとするのであった。彼はかね
( C; m* {/ ^; h' |. F6 jて作っておいた、彼と等身大の坐像を車にのせて、いかにも彼が陣頭指
( f3 a' Z; H) W# J9 K揮をしていると見せながら、全軍を退却させるように命じた。
4 Q, C- e' N# c  Q$ Q  l 4 L6 V( Y3 n& t0 @1 J
 仲達ははじめ蜀の陣地の変わりないのを見て一旦攻撃を中止したが、
0 k& U- G! Q; }# `9 ^7 g) `6 aひそかに斥候をやって様子をさぐらせた。孔明を失った蜀軍は、今や引
9 a; i6 G& Q- N$ [/ i  D上げの準備に狂奔していた。農民の中にはこのことを仲達に急いで知ら
7 J9 @. Q) c6 v, sせる者もいた。時機到来と思った仲達は、五丈原へと総攻撃の火ぶたを* ~, A& k& H' N# e
切った。しかし蜀の陣営に着いた時、もはや人影はなかった。仲達は先+ {7 x7 K7 p, v% S
頭に立って追いかけた。するとふと、前方の山かげから蜀の旗が見え、
6 A1 y* z. d$ `0 V勇ましい陣太鼓が響いてきた。その上車上に指揮をとるのは、なんと孔
$ e6 ^8 f  t" T; e3 Y明ではないか。まさに蜀軍の押し寄せんとする勢いに、仲達は思わず逃; Y# T$ J7 }; Y
げ出した。実際は孔明の信任厚い姜維のしたことであったが、仲達はす
" A$ q0 ~- F1 ~# Aっかり孔明の計略にかかったと思ったのである。  q- P/ r9 o' Q
 
* `. v9 z7 V9 M6 M これを見た民肖稀
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 楼主| 发表于 2005-6-22 08:42:52 | 显示全部楼层
自暴自棄

+ `) y% m2 Z  }& h( M7 Z7 N1 l) e. g6 k+ ^* j, I, s# I1 c
今日〝自暴自棄〟というと、ヤケクソの意味だが、もとは「孟子」の
8 p: H& P6 b; L% s: O6 B中の「離婁上篇」に出ている言葉である。
- J! A, o# p2 r& Z! H, o- i 
% ^) ~: _6 [( J 自暴(自らそこなう)の者とはともに語ることはできない。自棄の者と
. y+ _* ^# P  f6 |, \7 Fはともに行動することはできない。口を開けば礼儀道徳をけなすのを自2 U0 a1 u% j9 z$ h
暴という。一方、道徳の価値を認めながら、仁や義といったものは自分+ j; W. Y4 G" c9 p; a. M
などにはとうてい手の届かぬものだというようなのは自棄である。人の2 p. B6 G* f0 Q- M8 ?- f8 g
本性はもとより善である。だから人によって、道徳の根本理念たる仁は
' j! i3 ]* ?6 j# b+ I安らかな家のようなものであり、正しいみちすじたる義は、人にとって% m7 [8 k* w5 q  s
の正道である。安らかな家をほったらかしにして住もうともせず、正し
+ B8 e0 x0 r* Y! [( s; Kい道をすてて歩こうともしないとは、まことに嘆かわしいことだ。――
- ]! N  h$ w% C5 }4 a5 Y + U3 \3 L/ [* R- y
 
0 O; t( s) A5 S% W3 o/ Z- W5 ] 「離婁」篇には、孟子の言葉が羅列してあるだけなので、これがどんな
. T+ N/ r) f& K+ o  U' V3 j時、誰にむかって語られた言葉であるかは知る由もない。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 08:46:52 | 显示全部楼层
四面楚歌
  Y' d- k: I+ l
/ T7 v; f3 X; y! K
楚の覇王項羽は、漢王劉邦と五年間にわたって天下の覇を争ったが、
. q7 T7 R( T& a- F2 ]「力」と「気」だけに頼って范増のような纸摔蓼且娤蓼椁臁ⅳ筏坤6 g6 n$ h( H- g% `' d. F9 a
に劉邦に圧され、ついに天下を二分してこれと講和した。だが張良・陳$ h2 m( P" g* R0 m
平の計略によって、東へ帰る途中、垓下(安徽省霊壁県の東南)で韓信の# w) ]2 S9 e# I8 f7 w9 j
指揮する漢軍の重囲に陥ってしまった。漢の五年のことである。
  W6 q8 q# S* V8 K 
; `4 Q9 W$ P" U. }, Q9 S8 A' W 項羽は戦いに敗れて、兵少なく、食尽きていた。やがて夜になった。3 I0 Q  _( O/ ^+ q8 ?" n
するとどこからともなく、歌声が起こってきた。あるいは遠く、あるい* `& w! k% F) H. J6 W3 N
は近く、東からも、西からも、北からも、南からも、歌声は起こってく% q6 K$ _# A9 a4 V0 V: U/ t" t
るではないか。耳を傾けると、それは楚の歌声なのだ。張良の計略だっ
7 S/ a0 T! m0 M4 T8 Vた。果たして楚の出征兵――農民たちは、なつかしい故郷の歌声をきい+ Q/ q( V  |. [. I! L" f
て、望郷の思いにかられ、戦意を挫かれて脱落していった。漢軍に下っ
3 N  h1 r8 @, a& h/ cた楚の九江の兵たちが歌ったのだった。
: u7 o1 ?. F; u% d5 v , [- I' ^: A6 w& {
 項羽は四面楚歌するのをきいておどろいて言った。2 f9 K/ G2 M5 f
 
+ m5 o* q6 p3 f2 ^. d5 U 「漢はもう楚を取ってしまったのか。
; [* T" V3 Q6 F! s+ D  何というおびただしい楚人だ!」# w& _# F( S( E8 k( Y
 
2 o3 }: @5 R1 N5 q 四面楚歌――孤立無援の重囲に陥ったのだ。もはやこれまでと思った5 `* @3 h! @) {% c' ^; c* ], K& j2 t# P- C
項羽は、起きて帳の中に入り、訣別の宴を張った。) a& I# f6 i) M* P, Z/ O( }
 
: {) U# L9 g! {: Q1 a: l 項羽の軍中に虞美人という寵姫が居て、影の形にしたがう如く、いつ
- x5 f: {% Z( {0 h7 K/ oも項羽のそばをはなれなかった。また、騅という駿馬がいて、項羽はい
3 Y5 T) g, P* }8 x' [7 \つもこれに仱盲皮い俊/ D1 D! e- l, U# v' u  S3 ~/ g
 ' `' e! e& o. |% H
 項羽は虞美人があわれであった。彼は悲歌慷慨し、自ら詩を作って歌
% H' J& s9 [4 z, s" c' wった――
1 Z( [5 }8 t( c  w( M 2 o1 }" \8 V0 ^
   力、山を抜き、気、世を蓋う。" ]3 M; c' E& w/ G+ F$ F
   時、利あらず、騅、逝かず。
9 U2 C/ T/ l3 A8 `) e% J, g- {   騅、逝かず、 奈何すべき。
$ L* i) \4 |! [8 @! Y# ?   虞や、虞や、 若を奈何せん。
$ T. x5 I# ?  ~- N# Y+ i) l  \: R9 W ( u% [1 i6 R: j* T5 F* ~9 ]4 V# C
 反復して歌うこと数回。虞美人も別れの悲しみを込めて絶え入らんば
) v: `: e- M  v2 Dかりに和して歌った――
& d2 K) J: T6 x# p% a: T7 T5 Y0 a' s 
0 @8 W& P; ]; ~+ t* ~3 g   漢兵已に地を略す、
" M9 K; M' ]/ A6 U  T1 z- S   四方楚歌の声、& @$ n3 d) x# g; N, U5 R8 L
   大王意気尽きぬ、% `/ c2 j/ j- B! T8 l
   賤妾何ぞ生に聊ぜん。
- a4 @& Q$ k) n0 S 
( R; w# R. E7 P% L 鬼をもひしぐ項羽の顔に幾すじかの涙が流れた。左右のものもみな泣% t$ v2 F( C6 n6 C
き、誰一人として顔を上げうる者はいなかった。悲愴の気、堂に満ち、' J- p% F5 k3 L! M% e* B
虞美人はヒシとばかり項羽に取り縋る。だがもはや如何ともしがたい。
0 f3 E. v! S  a- I6 }  }; X$ q& J「何でおめおめ生きておりましょう」そう歌った虞美人は、果たして項羽5 m4 w- G! ]. M: ]9 F
に宝剣を乞うて軟肌に突き立て自決してしまった。0 g- }' ~8 H; u+ v3 b
 , u- w& g! ?1 H0 {+ A0 V
 その夜、わずか八百余騎を従えて脱出した項羽は、翌日、漢軍に突入
; y4 A2 C" y1 J& @/ @し、みずから首をはね、三十一歳で死んだ。故郷に心引かれていったん5 _0 |4 C" @4 }; T! h- D4 V
烏江まで走ったものの、挙兵した自分がおめおめ江東へ戻る心を恥じた& }/ ]% G0 K4 @
覚悟の上の自決であった。            (「史記」項羽本紀)# N0 [  h5 z& [7 r8 d7 f3 V
 
6 t* H. v0 b0 ~ 
, {& K" H" i; V6 X- c& D* k$ d 虞美人の血が滴った土の上に、やがて廻ってきた春、端麗な花が咲い) H; R3 k4 @3 F, x" m
た。その花は虞美人の在りし日の姿のようにやさしく、虞美人の貞潔な* L+ V, n. Y/ p8 e
血のように紅く、英雄項羽の呙騻筏螭烙菝廊摔涡膜韦瑜Δ吮筏瞈. M2 ^% E* G; b9 S' o4 I
に風に揺れていた。人々は、この花を虞美人の生れ代わりと考え、虞美
9 V3 p3 i0 F$ e- W人草(ひなげし)と呼んだ。唐宗八大家のひとり、北宋の曾鞏に、「虞美3 n. `6 w  T3 V: E  j5 K8 h
人草」という一詩がある。その中にいう――/ v$ \0 F% |4 {, ?6 j0 ?( o
 
$ o; L) H5 y6 q0 ], k0 D   三軍散じ尽きて旌旗倒れ、
9 |- S8 T& N0 o$ Q5 e   玉帳の佳人坐中に老ゆ。
' `1 K9 h0 w; D& D* A6 W! Z3 C  d   香魂、夜、剣光を逐って飛び、7 ?- V9 b5 B5 Y! @
   青血化して原上の草となる。4 x* E& ]5 F" x& h4 M3 S
   芳心寂寞として寒枝に寄る、
+ }, I3 S9 R" U+ Q  h0 y. O! v: ~9 q: Q   旧曲聞き来たりて眉を斂るに似たり。
3 n9 m& X) k( @7 A   哀怨徘徊して愁いて語らず、# Z  t) m$ j6 Z
   恰も初めて楚歌を聞きし時の如く。
4 R8 D, b; Z5 _4 A/ k8 n 
; C" E5 x' q6 u3 c, s5 o8 e  _5 } 
, M3 H( K+ n! ?7 w9 y& R- W# e  全軍尽く敗れて軍旗倒れ、, k7 R2 d1 I# G
  玉帳の佳人は敗戦の悲しみに色蒼ざめて、
$ A. s: }+ j/ p# F# K( F  いながらに老けてしまった。( h5 v; h- C. k
  その香魂は、夜陰、一閃の剣光とともに飛び、" w( y8 }' }7 `" r6 F$ w% t
  その碧血は化して原頭の草となった。
$ v# [: P- p7 L$ d: T. C  いま、佳人の魂は侘びしげに、この寒々とした枝に宿り、
8 F+ E; {8 R4 k* P: _, j7 G  紅の花には、# N2 A6 D% D: |+ K5 B+ Q
  項王の歌った「抜山蓋世」の歌を
: R; o; A- }: a) o  }2 `, ?  傷ましげに眉をひそめて聞いていた、5 x& f; @+ k, u
  あの時の虞美人さながらの風情がある。
1 S- t. A; m) U2 y8 Y  さあれ、
6 Q2 D; K2 {4 t  哀怨を抱いて原頭をさ迷う佳人の魂は悲愁のあまり語らない、, }3 |' G8 p8 R% J
  四面の楚歌を聞いたあの敗戦の夜のように。
! M! l. l# e. u8 n2 |- Y0 Q( u  Y 
' Y9 n  Y/ _$ e1 D: D ――というほどの意味であろうか。
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