|
|
发表于 2006-4-17 09:05:00
|
显示全部楼层
2006年04月17日(月曜日)付
: h; P* B7 [1 y+ g! @' J7 B& Q9 k1 x9 h( w8 d
島尾優(まさる)さんは徳島県阿南市の漁師だった。とてもやさしい人で、漁から疲れて帰っても2人の子とよく遊んだ。5年前の春、沖合で操業中に漁網の巻き取り機に巻き込まれて亡くなった。45歳だった。% j [: y% ^1 ]" C9 W, F$ t6 L' D4 U" N
! p1 D# y, _$ ~ そうした父の思い出を書いた長女で高校2年の喜美子さんの手記が「メール 空まで届いてほしい——漁船海難遺児と母の文集」に収められた。事故のとき、喜美子さんは小学5年だった。「とても悲しかった」とつづり、「母はショックのあまり、食べ物がのどを通らないほどだった」と書いた。$ q6 U% R& s; ^& ~
, X0 h/ N0 l! z, S# j2 h
どうやって立ち直ったのですか。母親の抄子(しょうこ)さんに尋ねた。寝込んでいた抄子さんのそばで、喜美子さんが「試練はな、乗り越えてこそ完璧(かんぺき)やろ」と言ったそうだ。そんな難しい言葉をどこで覚えたのか。きっと夫が言わせているのだと思った。, u# _! R7 ~* J* d2 c
, n, h8 `4 f' C( i 文集には、一つ違いの弟の敏之君が風景などを描いた絵も載っている。敏之君は自閉症だ。支えてくれた人たちへの感謝の思いを込めて、これまで作品展を2回開いた。: r# J* o! U& _/ z
- _# a: j! Y' _6 P8 m5 W 文集をまとめた漁船海難遺児育英会は1970年に発足した。月に1万1千~5万円の奨学金を幼児から大学生までの約400人に出している。漁船の事故は後を絶たず、毎年200人を超える漁師が海で命を落とす。喜美子さん姉弟も奨学生だ。* {6 r" A- P/ k2 v4 d3 H
" N4 q/ e1 w+ w, A& I
島尾さん宅は目の前が船着き場だ。優さんが乗っていた漁船も見える。喜美子さんは「お父さんがいないからこそ、がんばって、夢を一つ一つ実現させていきたい。それが私たちを支えてくれた人への恩返しだと思います」と語る。 |
|