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发表于 2005-6-22 13:46:24
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曲学阿世
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前漢第四代の考景帝は即位と同時に、天下に賢良の士を求め、まず詩' R' h/ ]! o- |; a
人として聞こえていた轅固生を召して博士とした。固は山東の生まれ、8 c9 ~; A) M7 P9 k
当時九十歳だったが、帝の召しに感激し、「若い者なんかには負けない3 D- z' M) J8 h' t# Y9 X
ぞ」と白髪頭をふりふり出て来た。
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* x e. V0 t+ i- y+ R0 t8 ` だが、この直言一徹居士に来られては、煙ったくてたまらぬオベンチ. Y9 E8 S. `9 V
ャラ屋のエセ学者たち、なんとかして帝に思い止まらせようと、必死に/ ]7 _9 z% W2 @8 a8 g
なって固の悪口をならべ立てた。
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「あの老いぼれはもう役に立ちません。/ x0 h( m+ Z+ s/ W: Q/ O
田舎へあのまま置いておき、9 E2 l7 {9 S' S; N9 A ]
ひい孫の守りでもさせた方がようございます。」( w8 n* ~' s5 D7 ?, x; O
6 [: E- u& C1 v# P& i3 Z# w しかし帝はこの中傷を聞かず、ついに固を召し抱えることにした。こ* V% Q- s& y2 k) h+ g: F- Z. v
の固と同時に召されたのは、同じく山東の公孫弘という少壮の学者。こ
2 `; Y. B& `, c& Q; jの公孫弘は、(このヨボヨボじじい奴が・・・・)という目つきで固をにらみ8 Z, m0 p; w4 `' @ n7 Q2 o
つけていた。だが固は一向に意に介さず、公孫弘に言った。
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「いま学に道が乱れ、俗説が流行している。
) ~, s' f+ z+ J; Q このまま放置すれば、由緒ある学の伝統は、- Q4 X; L7 X4 a: v( w( p" e
ついに邪説のため姿を失うに至るだろう。- ]- t& M, e* Q' g# `' s
君は幸いに若いし、好学の士と聞く。
, w! _9 l" }9 r* o$ o& ]3 S3 ^ どうか正しい学問をしっかり勉強し、
: D9 B, T. p& J0 d+ y$ q" C 世に押し弘めてくれたまえ。4 ?- h2 E" L. l I
決して自己の信ずる学説を曲げ、" m- _: q+ z8 k7 u; p( Z {
世の俗物どもに阿(おもね)らないように・・・・。」
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6 O* Y5 o3 B, s3 s& g9 `3 ^3 c これが曲学阿世の言葉の起こりとなった。/ ^" l" `' o# \& x' F
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このじじい・・・・と思っていた公孫弘も、節を曲げない固の立派な人格
* L1 f0 V' Q3 ^4 u! [5 f9 C' v4 Dと、豊かな学識に打たれ、大いに恥じ入り、さっそく無礼をわびて、固
4 k8 W1 p! @; z5 g" b g7 t; Fに弟子入りした。固が生れ、大半の生涯を過した山東では、詩を学ぶ者
' K* Q; N; a, U9 W# rは、みんな固を手本にしたし、当時の名ある詩人はみんな固の弟子だっ
6 I% H# [- q1 y1 o/ kたという。
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ところで、固の剛直ぶりを物語る一つのエピソードがある。& B' ^6 m5 \1 j9 Q a
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景帝の母親竇太后は大の老子好き、ある時博士の固を呼んで訊ねた。8 ^! @* F& B8 X) b$ |( ^
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「そなた、老子のことを一体どう思うな?」& y1 X) `2 `6 s3 i( }
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問われた固、ほめるのも平素の信念にもとると、
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「老子などは下男や奴隷と同様下らない男です。8 n% x, D' i2 q) S5 i# i0 b7 V5 M- c
だからあれのいうことはみんな、; A# [) ?, g! |
いいかげんなごまかしに過ぎません。
0 P* K- u/ c1 ~! A いやしくも天下国家を論ずる士が、6 Y. M7 p& q7 W, I2 [; d
問題にする価値のある本ではありません。」
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と恐れるところもなく申しのべた。
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果たして太后は真っ赤になって怒った。
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「この不屈者、
3 v4 _" w" f( {! R: j2 Y みずからの尊敬する老子をインチキ呼ばわりするとは憎い奴。
3 h( h% \6 I9 C$ x3 w! g この男をすぐ牢に入れておくれ。」) x* o d9 i; [8 t( f
1 V" J; w; ~5 j; C9 [ 牢に放り込まれた固は、罰として毎日、豚殺しをやらされることにな
/ d' \7 K6 `$ w, K8 U2 s/ Yった。太后にしてみれば、九十を過ぎた老人の固に豚殺しはむずかしか8 S/ A3 H2 p9 ~7 f' z, Z
ろう。できなければできないで、また他の罰を下す理由ができる・・・・、: i- Q2 p4 c7 d$ q# q
という気持ちからだった。嫌がらせの年齢のばあさんの考えることは、$ k& r# D9 U `: r' @) a: n# ?
いまもむかしも変わりはないようだ。* U3 E% \/ V$ j: Z1 m
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ところで、可哀想に思ったのは帝、鋭利な刃物を獄中の固に賜り、豚
% D& c& i, t/ Z$ r8 Q1 K' ^を刺させたところ、たった一突きでうまく心臓を貫き、豚はドウとたお
& u! c7 I# X/ `# j! A% O# Aれ、そのまま息絶えた。これを聞いた太后、固の泣き面は見られなかっ; E1 J. u+ e! D ]5 U
たし、自分の子とはいえ、皇帝がこんなことをしたのでは、これ以上固- J6 a$ N" S! S
をやっつけることもできないと、不承不承、固を赦して牢から引き出し
( v0 k1 ^$ g8 E6 ^た。固は再び博士にもどった。
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1 ~* Y H4 A( Y& y7 h この悪びれぬ、権力を恐れず直言する態度に感心した帝は、固を三公
* L9 a# U, E& R; z8 {: y/ z8 fの一つである清河王太傅に昇進させ、ますます信任はあつく、「もう老3 M* x- G/ x. T. P ?- T- }
齢ですから・・・・」といくら頼んでも免官にせず、固が病気になり、出仕* L) R# O0 n" X1 Z
ができなくなって、やっと免官のお許しが出るという信任ぶりだった。6 `2 G: T" g2 S( u* r
(「史記」儒林伝)
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# y& _* j: K1 ] 戦争中、軍部のお先棒をかついで「八紘一宇」などと吹聴した輩は、こ
# ]0 b. X+ i8 J/ {" Fの曲学阿世の最たるものだろう。近くは吉田元ワンマン首相、全面講和
; G6 L% q u/ Q L; `. L0 c$ rを主張する学者を「曲学阿世」とキメつけたが、学を曲げ、世におもねっ+ \# c* D! i2 ]) G. S; L, r
たのは一体どっちだったろうか。 |
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