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楼主: bgx5810

中国故事物语(已载完)

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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:41:40 | 显示全部楼层
捲土重来
% p; ~* |7 D. [8 ]! j4 X. ^$ g
" g+ E! _" b% J6 d$ S- [+ Z
 戦後始めて日本に来た京劇の一行が、「覇王別姫」という芝居を見せ
  i% }) z$ n2 o; ?- _  Tた。覇王とは西楚の覇王と称した項羽のことであり、姫とは愛人虞姫の) ^9 M' i& u, t3 l( `
ことである。つまりこれは「四面楚歌」を劇化したものなのだ。
& q) `4 N) P6 a% }0 x, z' P! n 
) J; z7 m, H( d5 z6 Y この芝居を見て、英雄項羽はわが国の義経のような存在ではなかった3 h- h& x% {; M# W" q% z4 g
か、と思われた。英雄の末路に人間的な哀愁を感ずるというのか、とも
; L* _8 u6 c, D+ e+ F8 v; @; wかく項羽は中国の民肖藧郅丹欷皮磕肖胜韦扦ⅳ恧Α8 ]; R# H2 r: \3 \2 g
 
; {$ t& E0 o" u1 \& L0 t, R 文献の上でも項羽はしばしば問題にされて、その人物評は相当多いの* r( _9 R4 o; |& m7 K! Y# K
である。ここに紹介するものは、晩唐の詩人で、杜甫に対して小杜とい$ ]" b2 y7 a* D$ Y) _2 L8 W" L5 N' a4 J
われた杜牧の詩であるが、項羽を詠じた詩の中でも特に有名なものであ
# U% q; j" X0 {る。+ w6 z- Q' t6 k/ i. W0 \
 
, U$ G  ]$ n: |/ K- F* F   勝敗は兵家も期すべからず、
5 h; C1 I$ l, T$ b   羞を包み恥を忍ぶはこれ男児。
  |% \, K* R" ^0 u+ \. I   江東の子弟才俊多し、
8 j8 c/ ^& H, a   捲土重来いまだ知るべからず。) X7 l- e5 ]# H
 / E; M5 O. T" O
    (たたかいに敗るる恥を堪えしのび、
1 t) D$ B) m# ?) p& C8 ^8 A& ~9 Q     いまひとたびの心あらなむ。); T& n% m3 y/ I
 
% Q& `7 W; u3 a7 ? これは「烏江亭に題す」という詩である。烏江(安徽省内)は項羽が亭
) g1 Y' d: P2 Q( M( [" a7 n2 Q4 Q長から、「江東に帰れ」と勧められた所であるが、しかし項羽は「敗戦: Q& m; ?0 G( c2 l0 t% G
の身で江東の父兄に会わせる顔がない」と言って、自らの頸を刎ねた所
9 e& Z& i0 @! q3 Aでもあった。! C3 D: K" \- R; n- b
 
; U% c7 S. H! Y 7 E3 H5 [+ N& c# r- ?5 R0 ]7 B0 U
 項羽の死後千年の月日を距てて、今や杜牧が烏江に臨む駅亭(宿場)に, O2 Q5 Q9 `1 M! G% K# E1 v
佇んでいる。彼は項羽の人となりをしのび、その早かった死(三十一歳)3 j4 M' ^1 d: w' A& K
を惜しんだ。項羽は単純で激しい気性の人であったが、一面虞姫との別
6 l- l0 X$ ~- a1 L+ W離に見えるような人間的な魅力があった。杜牧は考えた。「江東の父兄. A) S' P! p- |; Z: D$ Z2 d
に対する恥を堪え忍べば、優れた子弟が多い所だから、挽回の可能性が
3 z' S4 E/ i$ ?" q* qあったのではないか。」 項羽を愛惜する情が溢れている、といえよう。
+ O2 |0 X: l* H# u* ] . p6 \3 g1 h$ Z$ U2 y. f
 
! k" D& [& g- c しかし項羽を批判する声も多いのだ。まず唐宋八家の一人王安石は、, G3 p' `: r/ P( T7 r( E
杜牧の考えに反対する詩を詠んだ。彼は項羽の頽勢がどうしようもなか
# {# K) p7 S' S) J5 _# Eったと言い、「江東の子弟今在りといえども、あえて君主のために捲土
/ j! b0 ~# Z/ P1 _  o4 D/ @( Eし来らんや」(もはや項羽のために捲土重来などしない)と歌った。
. k+ T: B: e+ T1 l 
4 u7 }. O" l; d0 O4 X+ O$ T 司馬遷も「史記」のなかで、「項羽は力を頼み過ぎた」と述べている1 D$ H$ ^. f. I) P
し、やはり、唐宋八家の一人曾鞏も同じようなことを言っている。
# Q+ c- h; Q4 j6 A' O5 j/ ^ 
8 N6 S# \. y. w- C) U" {5 Y 
  a# R: S3 v+ H1 ]9 i とまれ、項羽は賛否両論相半ばする問題の人物であったことが判る。! ?, j4 }9 [/ M9 x  E+ ~
 
0 H  Y) y) [/ |- O( D% H& \ 
9 U7 q9 M4 n0 Q. e  N 「捲土重来」という言葉は杜牧の詩から生まれ、「土煙を巻き上げて
8 n! ~) t: K5 G重ねて来る」ことから、転じて「一度失敗した者が再び勢力を盛り返す」
" f& t: ?+ s' l& L3 h) q8 \, Q) iことを意味する。元来は「巻土重来」と書く。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:43:57 | 显示全部楼层
季布の一諾

: X2 z# [0 @% [2 |0 P* N9 Z/ a! |/ C2 v/ O( S/ P+ K  K8 T
楚の人、季布は若くして任侠をもって知られ、「諾」と一言いった以
  u- c  M: V+ d3 z+ x上は、その約は必ず果した。のち西楚の覇王項羽が漢の劉邦と天下をか: e! X- l5 E+ P3 o! n
けて戦った時には、楚の一方の大将としてしばしば劉邦を苦しめたが、
" G& Z  j' X* |: Y9 L" Y$ O項羽が亡び劉邦が天下を統一すると、首に千金の懸賞をかけられて厳し
; f& z. M- j- x# S! Y2 K4 ?1 i, P" zく追及された。だが彼を知る者はあえて彼を売るようなことをせず、そ# n  ~. L+ X/ _1 p5 z
ればかりか、高祖(劉邦)に取りなしてくれた。おかけで赦されて郎中/ Q  {3 m+ `# M' h* w  O
となり、次の恵帝のときには中将朗となった。
4 a2 r+ \# f( Z) E3 Z7 f 
3 U; G- `% V7 A* \! D 権中g策の渦巻く宮廷の人となっても、しかし彼は是を是とし非を非
$ S6 |: ^4 o$ P) n2 I( |/ Hとして主張する招膜驎窑椁丹护毪长趣胜ⅳ蓼工蓼谷摔俗鹬丐丹欷俊4 p# f6 q7 |' Y$ C+ F: ]- `
そうした彼のエピソードの一つ。+ w) M; F, J% P6 B, j2 j
 1 ~* _0 m) }; R$ |( R& M. ^' @* w
 匈奴の酋長単于が、時の権力を一手に握っていた呂太后を馬鹿にした
% h# b3 U! E* ]& A7 b, R! g% o不遜きわまる手紙を朝廷に寄越したことがあった。8 R" G7 v( c* x6 s5 U" Y. P
 " I! y  ~" G, O: Y
 「不埒千万な、どうしてくれよう。」# T  W- B4 L. B* W
 : P, z, ^6 R/ R9 {. P# P  v
 と、激怒した呂后は、さっそく将軍たちを召して御前会議をもよおし1 i7 ]* `) Q: G/ l, m
たが、まずせせりでたのが上将軍樊カイ、
( o( I$ I. w/ h, [! D 0 m7 ^$ I- F7 Q8 K/ \  W6 B0 K
 「それがし十万の軍勢をもって、
/ i  {; D0 Z" i9 c  匈奴の奴らめを散々に打ちこらしてお見せしましょう。」
2 C' _3 ?; b# x; } 8 m% k) e4 t( ]3 U
 なにせ呂氏一門でなければ夜も日も明けぬ時のこと、まして樊カイは
1 m; D1 q+ @+ C8 ?その一門の娘を娶って呂太后のおおぼえめでたい将軍である。呂太后の. d9 z; u1 R, {" O4 Z# y
顔色ばかりうかがっている腰抜け武士たちが異口同音に、& _( A: Q0 }' k% S: R  L3 d. V7 S
 
4 \7 B  q( t* C$ A2 w0 R 「それが宜しいと存じます。」* b* b) C. M+ u8 Y
 7 P  Z4 K: g. l1 R0 u
 と言ったのも無理はない。
1 z' M" A! F7 O3 B1 M 5 k1 ~2 s# _8 R: M; y
 その時である。7 L5 {6 f/ _0 R$ h) p
 6 _, H& ~6 O1 @
 「樊カイ斬るべし。」
" `  S, m  F; K; ^% y 
3 U. R9 c0 A  v. O: a1 \- Q と大喝した者がある。見れば季布である。
3 J8 A. \. _( j- j" F* y$ }/ b7 H 
5 o, T% }6 n8 s 「高祖皇帝ですら四十万の大軍を率いられながら、平城で彼らに包囲3 E# y! m9 C; d" G: T0 ^
  されたことがあるではござらぬか。それをいま、樊カイの言うとこ
) }+ l6 [4 `" e  ろでは十万で打ち破るとか。いやはや大言壮語もはなはなだしい。& b/ `+ J7 i! W8 I
  皆を盲人だとでも思っているのか。だいたい秦の亡んだのも、胡と# V  r/ U4 m8 W+ _7 [$ x
  事をかまえたために、陳勝らがその虚に仱袱屏ⅳ盲郡长趣槠黏砛
. _! A1 x5 \! L  ったのですぞ。彼らから蒙った傷は、まだ今日においてすら完全に
4 K* n* c* X% x9 C3 o  なおっておらぬと申すに、樊カイはお上に媚びをうり、天下の動揺8 E- c: k; V) W. l1 `6 v
  を招こうとしておる者といえましょうぞ。」
% a) ]' z. F4 W. f: k. i" h0 ^ / `3 ~7 ^2 ]+ C$ h4 l# S' P4 C& V
 一同はさっと顔色を変えた。季布の命もこれまでと思ったのである。
# z- V3 T) {5 o) Z" xだが、呂太后は怒らなかった。閉会を命じると、以来二度と匈奴討伐の
( I: x% c$ [" [- \' u, T: e9 zことを言い出さなかったのである。
6 r9 U5 k( f3 }  e7 T ' o+ T' o5 x6 ~* _1 W
 時に楚の人で、曹丘という者があった。すこぶる弁の立つ男であった5 X9 j6 L/ w3 K! ^9 p+ D2 s& L" c
が、権勢欲と金銭欲の強い男で、朝廷に陰然たる勢力をもつ宦官の趙談' P" N3 C3 k' j3 i2 v7 O
に取り入っており、また時の皇帝であった景帝の母方の叔父にあたる竇
6 m# J0 S6 ~2 K$ E$ G. T3 U長君の許に親しく出入りしていた。これを耳にした季布は、竇長君に手+ \5 e# f' h+ Z# }) i
紙を書き、「曹丘生は下らぬ男であると聞いております。交際はおやめ8 {8 l% V' M! ~# C3 p5 Z1 A
なされ。」と親切に言ってやった。折しも曹丘はよそへ行っていたが、
4 M2 Q& U6 m5 B( E; y" S# d帰京すると竇長君のところへ来て、季布への紹介状を書いてくれと言っ
+ J3 I- X# U. D) T( W. Rた。竇長君が、
* F1 H# K) {: @  F- a 
& I% y, |# T* O, x$ Q( E$ F! o6 ] 「季将軍は君が好きではないらしい。
" ?- }1 r/ L7 ^" Q3 @9 l  行かぬ方がよいのではないか。」# ]' B% }$ ~4 @
 
9 U& ^  i# d9 L2 N, l と言ったが、彼は無理矢理頼みこんで紹介状をもらうと、まず手紙で. W" [" R9 X5 v5 K" f- u, x; ~
訪ねたいと言いやっておいて出かけて行った。季布がカンカンになって# \4 z4 c8 S8 }- l
待ちうけるところへ訪ねた曹丘は、挨拶を終わると口を切った。: i3 }4 _; E/ }2 P+ d% D1 v+ A- j
 ! h: _0 A2 K' R- M
 「楚の国の者たちは、『黄金百斤を得るは、季布の一諾を得るに如か
  |; g7 H' m0 k8 y, {% b) v, X+ i  ず』と言いはやし、もはや諺にまでなっておりますが、いったいど  T' _9 h- u/ {8 ~( S1 c0 l7 l
  うしてこうも有名になられたのです。ひとつお聞かせ下さらぬか。& I1 x8 i+ _1 p* |+ c( x$ p
  もともとわれわれは同郷人ではあり、そのわたしが、あなたのこと1 ?) G, V9 G) o: V, m/ e
  を天下に吹聴して廻ったらどういうことになると思います。今はた" l' p* u* `, U' z
  かだか梁と楚の国ぐらいしか聞こえておりませぬが、わたしが廻っ
/ X* d' O% t" t3 I  たらおそらくあなたの名は天下に轟くことになりましょうぞ。」
3 ?. C& n/ l3 D7 {, O 
1 |5 c% o/ A. ~( N 自分の名が天下に響くと聞くとさすがの季布もすっかり喜んだ。賓客
5 L0 K! \# h! \として自分の家に数ヵ月もひきとめ、下へも置かぬもてなしをしてから# f, [5 @8 }: v% L, I
送り出した。この曹丘の舌によって、季布の名はますます天下に伝わる. K9 d; X8 m- G" o+ O0 n: g
こととなるのである。$ {5 Y5 R# ]. E1 o( ^1 X
 ; m# ~& N, D; I
 「季布の一諾」、略して「季諾」とは、今日、たしかに承知すること, [( b% d* K: q+ J8 [2 ?
の意に用いられている。また「金諾」とも言う。 (「史記」季布伝)
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:44:20 | 显示全部楼层
杞 憂

# \  k' i7 Q6 k3 ?2 U
1 |. }1 }4 F1 r4 t9 D- w' `杞国(周の時代に河南省開封の近くにあった国)にある人がいた。その
1 U  Z: y# z7 ?" j3 a$ M8 r人は、もしも、天地が崩壊したならば、身の寄せ所がなくなってしまう
6 }" B% i% g: J$ @, {と、そればかりが心配で夜の目も見ず、飯ものどを通らなかった。一方5 ^1 h8 Q6 _( E3 Y: r: _
その人の心配しているのを心配する人があった。そこで出かけていって9 y- k# }% E/ |+ ]) U$ I1 r. E6 k
言いきかせたのである。
3 y4 v1 U: [2 |) ^2 \* u0 J 
7 j0 e* _# M( K) Y# I% m5 Y 「天は空気が積もっただけなんだ。
- z. G8 b; r, U2 x; v  空気のない所なんてありゃしないよ。" v) H# E9 Y0 [6 u
  からだの屈げ伸ばしだっていつも天の中でやってるんだから、
/ ^0 \8 z. Q% ]5 L. t5 k. s  どうして天が崩れ落ちるなんて心配するんだね?」2 A' s5 E! w' w. d  @
 
! j% M2 t6 |) V) Z  ? 「天がほんとに空気の積もったもんなら、; L% b6 w1 ?) E( l& R3 @5 W
  日月宿星なんて、落ちてくるんじゃないかね?」0 _9 S! N2 F1 P2 E/ U
 # ?+ J, H4 w8 s, T/ m: j
 「日月宿星というものもやはり、
( B0 g% n+ Y6 N- C# w  積もった空気の中を輝いているもので、
$ U1 I2 E& P  D/ O7 `  落ちてきたにしても、中って怪我をさせることなんかないよ。」
( g. S. X1 A9 m, T. U  H 
( h2 B, q. E9 W 「どうして大地は壊れないんだね?」$ ^" v* s/ b8 A8 x" W8 d1 x- [* }% [; U
 ) P( n' ~' U% ^+ q
 「大地は土くれが積もっただけなんだ。. L! h' w; |, L* g
  それが四方にみちみちて、土くれのない所なんかない。1 h6 C. B  j* t  l0 S# J9 ^4 V
  とんだってはねたって、いつも地上でやっているじゃないか。5 A7 K( [. q! d0 l
  なぜ大地が壊れるのを心配するのかね?」
* w4 d- T2 X( E, S2 S5 X 
# e* x" S5 [* T) z3 l/ m そこで、はじめに心配していた人は胸がさっぱりしてたいそう喜び、" @" `" r* h# ~8 L; [4 ?
言いきかせた方の人も気がはれて非常に喜んだ。列子は、これを聞いて3 |/ h5 h  y2 F3 T
笑って言った。6 k" i( M, m1 U
 / p, m; W# }) t# s
 「天地が壊れないと言う者もまちがっている。
' l5 Y/ y' m8 O3 }  壊れるとか壊れないとかは、
/ u- V7 S" ]' u9 O* C. ^  われわれの知ることができないところのものなのだ。2 j1 Q# P0 y; \; D/ z' @
  そうはいっても、. g. F" i8 [" I) S; `; ~1 d
  壊れると言う者にも一つの道理があり、
; f) w; h4 y6 J1 ~# `  壊れないと言う者にも一つの道理がある。$ o# H  \3 ?( `5 D, x
  それだから、生は死を知らないし、死は生を知らない。# W. w7 T. F$ p2 o' s" F- X" i
  将来は過去を知らないし、過去は将来を知らないのである。9 D2 {% S7 N$ t
  天地が壊れるとか壊れないとかいうことを、
" B8 V2 g+ I  o* K8 \" C  われわれがどうして心に容れて考慮しようか」と。2 f" L; x* |( b( H6 {( U
 
1 q, a+ ~4 |5 D  c5 J3 ~ 「杞憂」とか「杞人憂天」とかいう言葉は、この「列子」の「天端篇」に' i  t1 I6 b# h: q" c: B# G
見え、「かれこれといらぬ取越苦労をする」とか、「いわれのない心配; G. m. {* ~9 l& j' C& s2 y
をすること」のたとえにされている。李白の詩に、「杞の国は無事なれ
8 _% r- s  v2 @$ lや、天の傾くを憂うなり」という句があるが、そこには上に述べた取り
" H( d3 A9 M4 J# }% ?越し苦労などと言う味気ないことのたとえにとるのと比べて、古代人の2 J  M# G% `1 Q4 S/ r' D+ a8 @+ D6 [
実直さ、虚心をそのまま暖かく肯定しようとする李白の人間性がにじみ8 ~3 P3 j1 S; B
でている。
5 r1 A( ]; X! K! w- R7 R5 b! l 
4 X& V. [) v; Y/ f* I 列子は名を禦寇といい、戦国時代の鄭の人で、老子の系統を受け継い- o) i7 E4 Q! H. A
だ。「列子」はその著といわれるが、後人の偽作が多く加わっていると+ h3 U( X- X, n( y) d
いうのが定説である。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:44:45 | 显示全部楼层
九牛の一毛

8 R. M5 Y9 M$ t8 W$ C% K6 j& P; d- V  m/ Y' L3 a; k/ M+ O/ ^+ u0 e
司馬遷が李陵を弁護したばかりに、宮刑(男としての資格を奪う刑)に- g$ L: r8 A* c. E: q9 d% E. i
処せられたことについては、こんな事情があった。
8 k' x& @* @  e/ h7 b 
* n  V. Q4 N4 C! w1 a& D 天漢二年、李陵は弐師将軍李広利の別働隊となって、匈奴征伐に行っ
% h7 g, }& I/ _4 ]8 L0 D: q* X$ T5 Dた。彼は辺彊に名を馳せた李広の孫である。李陵は僅か五千の兵を率い7 a) W& W" k( L+ q$ t* z
ていたに過ぎず、それに騎馬は武帝から与えられていない。にもかかわ
  e, R4 `$ i4 |8 }% @( rらず敵の主力とぶつかったのだ。彼は何十倍もいる敵軍と十余日にわた; W! v1 C* n6 c* I6 e& s5 E
って連戦した。彼から報告の使者が来ると、都では天子をはじめ皆祝杯
) ?6 I4 O  W& m' Fをあげて喜んだ。しかし彼が敗北したという知らせは、天子や大臣をな
8 [& R2 r" K2 [; ]& ^& Wす所もなく悲しませた。
8 h3 ^8 q$ M' J0 |7 z 
" F: u- s2 y, m7 B, S2 t その翌年のことである。死んだと思った李陵が匈奴にくだって、厚く; G) l, Z5 u! K& ~/ n8 z4 ~
待遇されているということがはっきりした。漢の武帝はこのニュースを
5 n7 B$ j; O. u聞くと怒り心頭に発し、李陵の一族を皆殺しにしようとした。群臣は一$ j- `, Q  V7 i3 Q. R$ K
身の安全と利益のために、武帝の顔色をうかがい、誰も李陵のために言
* o$ f3 o- {# }/ V) T5 X8 ]う者がなかった。晩年の武帝の朝廷にはそろそろ暗雲がたれこめていた2 B* K& {3 w/ J# z; y) Y0 o
のである。この時ただ一人、李陵を弁護したのが司馬遷であった。司馬
1 G9 ~$ d$ r" b/ L6 y遷はかねてから、「李陵という男は、生命を投げうっても国難におもむ4 g$ I0 J2 U- B  L" m) G( ]# f* d
く国士である」と考えていた。彼は歴史家としてのきびしい目で事の真" s7 U& M6 N) D4 K! |* q# o. \
相を見抜き、大胆率直に言わないではいられなかった。
* d& r7 H* A% L& G9 Z 
$ g7 l& W. l% d9 [, E 「恐れながら申しあげます。( J7 P) \. p! L+ `( K3 I
  李陵は僅かな兵で億万の敵と戦い、エビスの王を震撼させました。: l5 s1 v1 p* _% q! Q0 W4 G
  しかし援軍は来ず、
. N% i, `# I) U0 S9 N  味方に裏切る者が出たのではやむを得ないと思います。0 P' s8 Q% Q4 C7 \& ?1 ^
  けれども李陵は兵卒たちと辛苦を共にし、
. f  `7 z: B3 \' F; b3 g; f  人間として極限の力を発揮した、
4 d7 ~7 g) H2 v  名将と言っても過言ではありません。& P% f2 N/ v, r( K5 u
  彼が匈奴にくだったのも、
" l, E3 \, p$ Q; y9 _$ x" l$ v4 A6 l4 r  恐らく後に漢に報いる意図があるのでしょう。1 P9 O" u8 A4 B* O: v+ ~* `
  この際李陵の功を大いに天下にあらわして下さい。」
5 R% x) M! ^! D; j, G " x  z' L: o) m) R& r
  これを聞いた武帝は憤然として、「遷は李広利の功をはばんで李陵; e1 J# f  G- T/ p$ k
のためにする」と邪推し、司馬遷を入獄させたばかりでなく、あげくの
$ E6 U  e+ N/ c9 aはては宮刑に処してしまった。
1 z6 `4 D7 m+ f  H2 y5 _ 
% U# X4 g/ p" D, f' I/ f# T8 R 宮刑はひげが落ち顔はのっぺりとして、性格まで変ると言われた刑罰
1 v, _% j; K- b6 P+ mである。司馬遷自身も「最下等の恥辱」と言っている。また彼は、「世
/ e% |( D. X- V  j& B人は私が刑せられたことなど、九牛が一毛を失うぐらいにしか感じない- F$ z- g  ?4 `7 T$ a- {
だろう」とも言っている。しかし司馬遷はなぜ生き恥をさらしながら生) e, e$ {& [" S2 m; k. }
きなければならなかったのだろう。「奴婢といえども自害する」ことが1 ]! Z* W$ g7 ~( y+ q
あるのに、なぜ一命を絶たなかったのか。, W- W/ r- f8 O$ D) C& p
 3 p5 P6 ^6 x! m
 それこそ「史記」を完成するためにほかならなかった。彼の父司馬談
4 M; h' b2 r5 c1 i6 q( i  sは泰山における封禅に病気のため参加できず、太史令という職務を思う8 U" f& F1 D& F3 c) G4 E, E
につけても自噴やるかたなく、そのため死んでしまったというが、その
9 @- W+ v& b* y: }8 ?9 _( ?時「通史を記録せよ」と息子の遷に遺言した。
1 `; T" h0 i' I0 g 司馬遷にしてみれば、「史記」を完成しなくては死ぬにも死ねないの8 H/ E$ V2 g* A- c* O# L& f
であった。父の怒りと息子の怒りが結合して司馬遷の執念となった。彼
/ f3 ^) D" f" C" sはたとえ世人の嘲笑の的となっても、或いは、「一日に腸が九度よじれ
3 G1 C* `2 A& w  Y4 y0 kる」ような思いをしても書き続けた。「俗輩にわからぬ苦汁」をなめな
) M* K( i% A7 u# x9 i7 hがら、「史記」百三十巻ができ上がったのである。
. ]0 R% V. z, ]" k9 [ 
( K4 s; U% C  K" E  w. F+ U 以上は司馬遷の「任安に報ずる書」(「文選」と「漢書」にある)によるが、
" c% j' E& {2 k- p& N: @. ?「九牛の一毛」は文字通り九匹の牛の毛の中の一本で、「多数の中のご& m8 x* F3 u: E+ n4 W% R
く少数」「物の数にも入らぬこと」をいう。なお同書から出た言葉に、: a! ~  e$ {  J5 k' w3 Q5 r9 C
「死或いは太山より重く或いは鴻毛より軽し」というのがあるが、これ/ U/ g# j$ W- W5 S! b
は、「死を重く見て軽々しく死ねない時もあるし、軽く見て一命を捨て! S. @  X! u/ T6 \
る時もあり、いかなる時に死ぬかが問題である」ことを意味する。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:45:54 | 显示全部楼层
九仞の功を一簣に虧く
) D; e5 K" |, M: J( [2 N- M

0 x( g; G  n- p& l9 V 周の武王が、殷の紂王を討ち、殷を滅ぼして新に周朝を創めてから間! V2 g6 J5 p" k2 B( x& Z& W
もなくのことである。周の威令は遠く四方の蛮夷の国々にまで及び、各
% u+ N/ \3 O8 m- j9 S: ]地から貢物が献上されてきた。当時、西方に旅という国があったが、旅0 c0 A  E" t7 v/ a
からもゴウが献じられてきた。ゴウとは高さ四尺に及ぶ大犬のことで、
+ |4 a8 {. d1 k6 N( V能く人の意を解すという珍獣であった。この贈り物をまえにして、武王
- t5 I4 m: s9 \! u+ }は大いに喜んだが、その時、召公が、珍奇なものに心を奪われて、せっ
* y& _- _9 i9 ^/ H0 B0 r, Zかくの周王朝の創業を危うくしてはならない、と諄々として武王を諫め
- R* F7 {2 e/ X1 C2 ]! Dたと伝えられる言葉が、「書経」の「旅ゴウ」篇にのこされている。
! z6 X/ ^5 \4 V) t  Q9 g  o # Q9 h# g+ T# J9 i" |  \
 「ああ、明王徳を慎めば、四夷ことごとく賓す(来朝す)。」9 i/ \7 E3 |8 }  t% G) n) a
 5 w1 A) [5 Q% G% L
 という言葉にはじまるこの一篇は、' c3 j4 d! G8 K! m( W! K. O
 
3 G. J. E9 N  m8 g 「耳目に役ぜられざれば、百度惟れ貞し、+ J! Q8 }6 Z8 ~8 i4 w
  人を玩べば徳を喪い、物を玩べば志を喪う。」
) W. B# s0 z1 H+ u  H8 y 
! i/ ]1 _" k% k; B7 Z と述べ、つまり、耳目の欲、物質的な欲望に溺れてはならない、また
% {7 E4 ]3 p3 O人をもてあそび物に心を奪われてはならない、そんなことをすると、徳/ P( C2 p6 G" x- S! T
を失い、道に志すの念を喪失してしまう、と述べて、さらに、つぎのよ
5 S. C2 H4 L5 X' {  ~' H) M/ y- o& xうにいっている。1 v) ?+ ], a6 k+ g
 * s4 M" L: N- v. d; J
 「嗚呼、夙夜勤めざるあるなかれ、6 _" X6 M# M, `
  細行を矜まずんば、終に大徳を累せん。
  [0 z6 `1 k, C' \9 F  山を為ること九仞、功を一簣に虧く。」" |1 z; Q6 b4 A* j& {" N
 
" ~' i% Z# D; o 王者たるものは、朝早くから夜遅くまで、つねに徳にはげまねばなら: H2 K% C: N& y( G$ \# F2 l/ {# d
ない。些細な事だといって慎まないならば、ついには大きな徳をも傷つ9 I% y5 I  A- W3 v5 w# ~1 r' O
け失うことになる。と、召公は語りつつ、せっかくの周王朝創業のため( x! S- a6 _3 U- v) |5 ]- k& P6 ~
の功績が、たった一つのゴウに心奪われるという行いによって、台なし
7 @1 r* Z% d9 E# T; t% pになってしまうことを諫めて、「山を為ること九仞、功を一簣に虧く」: j( y* c- q9 l8 U4 p' [
と述べたのである。
. Q8 q  W- [: ~3 F1 @& E* l6 p , Q- r# x$ x" D6 l9 X/ o" P! K
 この九仞の仞とは八尺(または七尺)のこと、九仞とはその九倍、ひじ
' A& F% _* T( M5 dょうな高さを形容していった言葉である。たとえば、山を築く場合に例
7 l$ i3 D$ Q7 {! M# b, Y" nをとる。せっせと九仞の高さまで山を築きながら、いま一簣――簣は土, O4 w% s! ^3 E3 E
を撙只のこと――で完成というところまできて、その一簣を怠れば、9 @2 A' P' a0 o  f
それは山を完成したことにならない。山はできないままに終わるのであ
/ L$ M. C2 z6 e& `って、それまでの山を築いてきた努力もなにもならなくなる、というの( L8 V  L- F8 I
が、この「九仞の功を一簣に虧く」という言葉の意味である。新たに王
( D; G6 h3 K' j" M6 p8 a7 i" A$ R朝を開いた武王の今後を諫める比喩として、まことに巧みな、一言でよ  M2 `( [; H7 Q0 b$ t
く全体を理解させる名言だといえよう。そのため、今日まで、この言葉
% C* a  k5 V8 R7 u% Y. J6 wは、ちょっとした油断で大事を誤るのを諫める場合とか、いま一息とい' [# z. y1 O# w: s5 z2 o+ V
うところで失敗した事例をたとえる場合とかによく使われる。; r3 S* o/ J, J- U' `
 
7 r0 l3 v- I7 I9 F0 ]( ]8 b) E7 m 「書経」だけでなく、その他の古典にも、この言葉はよく出てくる。
/ m! ]3 f# n3 f" `- K; M% gたとえば、「論語」の「子空篇」に、孔子の言葉として、
& w* r3 s4 x+ S- @ ! ?. ^; }+ J! B- D
 「子曰く、譬えば山を為るが如し、8 x1 O+ o" m/ j8 x4 K* X
  未だ成らざること一簣なるも、止むは我止むなり。」+ o/ Q3 A; d' B! k. g5 i4 @( ^
 
2 l8 X4 s' M  v6 M# O7 u とあるのは、「書経」と同じく、目的に向かって止むことなく不断に/ x! m9 i; ?9 ~
努力をつづけ、進歩を求めるよう人々に教えたのである。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:46:24 | 显示全部楼层
曲学阿世

" I# c) r: z% j' a& w: |) G# c& Z3 s8 _: v) ~
 前漢第四代の考景帝は即位と同時に、天下に賢良の士を求め、まず詩
$ h/ d! K5 v5 B. c& K人として聞こえていた轅固生を召して博士とした。固は山東の生まれ、
2 o  _; n$ p0 R3 p- x当時九十歳だったが、帝の召しに感激し、「若い者なんかには負けない
: v) K3 i- K4 l6 s# j3 P  D0 `3 Dぞ」と白髪頭をふりふり出て来た。! }& }; m% _" g
 
6 A8 e- J# \  r だが、この直言一徹居士に来られては、煙ったくてたまらぬオベンチ5 |1 b0 V. M1 L$ R; b# [2 K
ャラ屋のエセ学者たち、なんとかして帝に思い止まらせようと、必死に: v9 V7 j/ A% g+ j
なって固の悪口をならべ立てた。2 A; S/ ?7 s; `  i4 c- x5 k
 
- e2 R/ ^  U$ Y7 t1 V9 A 「あの老いぼれはもう役に立ちません。
3 c: J( ~, Q) s9 P  田舎へあのまま置いておき、. N& M4 W- C' @  x# \. X9 P
  ひい孫の守りでもさせた方がようございます。」
/ i9 I$ P/ K9 Q  A 1 g' \" g4 o0 F4 v6 l% C7 w. k( _
 しかし帝はこの中傷を聞かず、ついに固を召し抱えることにした。こ
( P2 B5 `/ S& Y' H, Y0 Uの固と同時に召されたのは、同じく山東の公孫弘という少壮の学者。こ1 A; i5 e4 i+ t, d# ?/ t1 `
の公孫弘は、(このヨボヨボじじい奴が・・・・)という目つきで固をにらみ
* W) {8 O! `( m& c' tつけていた。だが固は一向に意に介さず、公孫弘に言った。
. A9 x$ c' g2 I, w2 g+ U1 m4 Y/ q. \ $ A3 B1 Q7 U  z% ]
 「いま学に道が乱れ、俗説が流行している。" Y/ g' K: M9 \7 ~0 S, l) N' q
  このまま放置すれば、由緒ある学の伝統は、
" M4 M- s( ]7 K. |: b  ついに邪説のため姿を失うに至るだろう。0 G/ H: ]8 u* F0 ^; m6 _
  君は幸いに若いし、好学の士と聞く。$ t4 e) C% S! C8 W0 l
  どうか正しい学問をしっかり勉強し、' u+ Y& W# J" W% s  ~
  世に押し弘めてくれたまえ。. X1 E* t' m3 h9 {, i
  決して自己の信ずる学説を曲げ、% S: \1 d8 k% [: q8 ?1 g& n5 ?' B: m
  世の俗物どもに阿(おもね)らないように・・・・。」
! _0 A. N! [" \' n* _  L * N) e8 \& S% q' {7 u0 j  m$ f
 これが曲学阿世の言葉の起こりとなった。
1 ]7 y4 ^$ C. Y7 J) ?0 } ! ]( t$ N; ]9 G, b, Y2 x# `3 A' U
 このじじい・・・・と思っていた公孫弘も、節を曲げない固の立派な人格6 T1 }2 L- {( P, |! d
と、豊かな学識に打たれ、大いに恥じ入り、さっそく無礼をわびて、固+ r# M/ G# f- ?$ _: U
に弟子入りした。固が生れ、大半の生涯を過した山東では、詩を学ぶ者5 z& O8 L! ^: ^2 Y! M. h
は、みんな固を手本にしたし、当時の名ある詩人はみんな固の弟子だっ
* V- _- H# g7 f5 U% q9 Y! S# b; Rたという。7 r( ]5 n& L* D& G/ h* k/ w
 
' i0 L$ h6 V3 E. _5 p 1 C2 l" D5 i( y- c" w
 ところで、固の剛直ぶりを物語る一つのエピソードがある。8 w- g4 a# k  a; p( d2 Q" B- l
 4 O" ^6 D0 y( [* ^" C. m
 景帝の母親竇太后は大の老子好き、ある時博士の固を呼んで訊ねた。
1 u: `* n* [1 E& ~ 
! j. \, r- h. i% z 「そなた、老子のことを一体どう思うな?」
5 U3 Z' m+ K8 c$ t2 l ( X' R" c* N. h* U% O
 問われた固、ほめるのも平素の信念にもとると、! ]$ O+ D6 |- o
 ' U, l! W0 W0 W6 `- P
 「老子などは下男や奴隷と同様下らない男です。5 o* ]- l7 t$ K) d6 d
  だからあれのいうことはみんな、
' N  S# I3 p' T0 Q  いいかげんなごまかしに過ぎません。& m( N0 O+ G6 Z/ \
  いやしくも天下国家を論ずる士が、& A8 ~* w& y/ ~5 l+ r% h
  問題にする価値のある本ではありません。」" @+ \8 S9 X$ V  x/ W% o
 
1 F1 F  i# `8 y6 u と恐れるところもなく申しのべた。$ D8 o' \1 W( ?2 \9 O3 K1 P
 
: Q5 q; u- g- q, Y5 F 果たして太后は真っ赤になって怒った。" L2 y! i  g+ _
 
1 w9 e& |4 h8 l5 T9 B 「この不屈者、
* z* j( e) @, D' R* W  みずからの尊敬する老子をインチキ呼ばわりするとは憎い奴。
- S; V' `7 s$ s, G- h4 c  この男をすぐ牢に入れておくれ。」% O; D/ v3 F9 G7 x8 ]% c- }
 
3 y5 q% @1 t: N0 s 牢に放り込まれた固は、罰として毎日、豚殺しをやらされることにな% p2 ]  b1 }, @' q! r
った。太后にしてみれば、九十を過ぎた老人の固に豚殺しはむずかしか
; R, v: M" [+ V( J& m& p* mろう。できなければできないで、また他の罰を下す理由ができる・・・・、
9 |2 h3 Y5 p' Hという気持ちからだった。嫌がらせの年齢のばあさんの考えることは、) J0 e2 Y5 q; }: n: S" `3 M
いまもむかしも変わりはないようだ。$ n3 G. e4 k" O% N% C0 [* |) O
 
$ T, q1 ~8 `& \5 p0 G ところで、可哀想に思ったのは帝、鋭利な刃物を獄中の固に賜り、豚
; q2 b! |% V4 |5 R8 e# Yを刺させたところ、たった一突きでうまく心臓を貫き、豚はドウとたお1 b: y. o8 `9 s3 ~$ h  l# r: L; d
れ、そのまま息絶えた。これを聞いた太后、固の泣き面は見られなかっ
/ ?: }! k' t8 W3 U2 Q+ sたし、自分の子とはいえ、皇帝がこんなことをしたのでは、これ以上固. `$ U# E$ h3 k7 d6 B8 K
をやっつけることもできないと、不承不承、固を赦して牢から引き出し$ s/ w1 E- d( E9 P/ k9 ^! ^
た。固は再び博士にもどった。
* V: J2 \# R8 C2 H( _5 N: g& w2 d 
/ _5 u% f8 d  G6 [ この悪びれぬ、権力を恐れず直言する態度に感心した帝は、固を三公4 y, P: C; p8 w9 o7 p2 r
の一つである清河王太傅に昇進させ、ますます信任はあつく、「もう老+ x8 T6 g" f: N9 u0 b
齢ですから・・・・」といくら頼んでも免官にせず、固が病気になり、出仕3 Y  a5 \/ f3 I1 ^7 F3 o, o
ができなくなって、やっと免官のお許しが出るという信任ぶりだった。, ]6 d& `& K$ e$ j7 F1 N& V% s4 M1 i
                         (「史記」儒林伝)
0 W( C! B* z' j& i: [$ D+ U 
) u$ m- p* v% u 戦争中、軍部のお先棒をかついで「八紘一宇」などと吹聴した輩は、こ+ S+ P5 Y3 ~# F: _  J* }
の曲学阿世の最たるものだろう。近くは吉田元ワンマン首相、全面講和; x) y7 I* a! h3 \4 N
を主張する学者を「曲学阿世」とキメつけたが、学を曲げ、世におもねっ* e& r, n. @9 \$ \- n/ Z
たのは一体どっちだったろうか。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:46:45 | 显示全部楼层
跼 蹐

  z  A) U+ e  l0 v* g  s& b/ S9 \) b5 ?8 f
跼蹐とは、“跼天蹐地”の意で、頭が天にふれることを恐れて“天に: e7 C0 a  f1 X/ @5 C
対して跼り(背をかがめ)”地が凹むことを恐れて“地に対して蹐する”
: A+ q7 S1 L4 P' m# Xこと、すなわち、びくびく恐れおののいて身のおきどころもない、とい
3 [) u! y2 Z7 C' T' lった状態を形容する場合に用いる。六朝時代の宋の范曄の著した「後漢  g; J# S* a: W" l- S6 G
書」の「秦彭伝」に、# J6 A7 ~% {7 L0 N
 : o, U$ n* I5 [% k% F
 ――姦吏跼蹐して、詐を容るる所なし。
. E9 k  g4 E( m5 g   (公式な秦彭を迎えたため、不徳義な役人共はちぢみ上がり、# G: a1 z' G  x- w8 ]5 @
    不公平の哂盲工胗嗟丐胜胜盲俊#‐2 m9 X# F) |+ \# {7 R
 ! T* _3 v2 L. i; r/ |8 d  `
 という用例がある。. E, R  i4 P5 @' r
 1 b6 C* a" c. V! F, d7 s: r
 また、“跼天蹐地”の方には、六朝の梁の武帝の長子昭明太子の編ん
6 Z* Z, [% l/ B6 L8 ^9 Aだ「文選」に収められている、張衡の「東京賦」に、
; p+ m. P: d' c, P& s( C; [' I( M; x + [1 ~7 ~5 |5 X. \$ V% B3 c' d, z6 Q
 ――豈徒らに高天に跼り、厚地に蹐するのみならんや。3 r0 V3 |9 b) N7 v7 ~8 t. p) L+ K1 J
   (どうしてこの高い空の下で背をかがめ、ガッチリと厚い大地の' n1 s4 ]6 c" a0 W$ g
    上でぬきあしする程度だろうか、それどころか、もっと恐れお) ~3 ]- z: N) T& g
    ののいているのだ。)# W* c# g4 c. O3 q
 , a' M: M/ q' ]2 j& I
 という句が見える。
: N: k6 ~" @7 t+ g# W$ ` 
' s0 W/ H2 {0 ~" n1 K+ m: q この跼蹐という言葉は、「詩経」の中の「小雅」という、周の朝廷の
5 n( E# \4 y1 g" r) H6 @$ Y, c' n賀歌を収録した篇にある、「正月」という詩中の句で、そこでは、
6 o7 C5 @) p) Q( [# U 
, |* Q  G+ Z0 \6 E) v$ x$ f   天を蓋し高しと謂えども、
$ y$ u8 P! B3 c# N% c/ q   あえて跼らずんばあらず。
+ e/ y8 Q! t3 [  A4 l  N- `$ t   地を蓋し厚しと謂えども、- h5 c; S9 Z) ]
   敢て蹐せずんばあらず。7 h. B' s& }& h7 s( A
   維れ斯の言を号ばう、* M9 w$ g- X" c7 f2 W
   倫あり脊あり。
5 x7 C/ X9 D$ _8 K2 D   哀しむらくは今の人、
) p8 r1 S5 r% O   なんすれぞキ蜴なる。' P! I9 V) L7 I1 y: o
 
/ \; e4 G1 V4 E+ D" N7 s& H; x         大空は高いけど、
6 T! X! d6 R+ \* G% X% v# U/ L         背をかがめ行くべかり。8 E' \0 l% S' Q1 b2 f8 D
         大地はも厚けれど、
3 T0 s& g+ O' p         ぬきあしし行くべかり。
- @% L# _3 Y( D: r! \7 o         いまここにかく言うは、2 j% u4 W$ T, `! d
         ことわけのあればこそ。& K1 H% E' g9 O& f! B. f
         哀しきは今人の、8 q' f6 d3 Y1 X
         むしのごと毒もてる。: C" {# O: j/ n8 M+ r' a% ~
 
$ @( k7 M9 ~( Y% L& D9 @4 g* k とあって、奸臣が国政を乱し、義の士が“高天に跼り厚地に蹐して”* _4 y" ^( p- t, }8 B. d# V
禍いに遭わぬよう恐れおののいている、という意味に用いている。: A, Y6 k+ n' W' n# M- D
 
' `* Y0 e( W2 f; I, o9 }4 H' r. l& N 最近の調査によれば、今日の日本のホワイトカラー族は、案外政治に
! z- w- S* ^! R& v8 H8 f$ |; T積極的な関心を抱いているようであるが、このひとびとがかつての“青
5 b& V9 ^+ }3 `! @: n白きインテリ”のように、官憲を恐れて跼蹐する社会の来ぬよう、「正: A& p1 T/ |# l1 U
月」の作詞者とともに衷心から願わずにはいられない。
8 U. i6 P; B  Y; m 
+ F/ k; z9 z* ]4 n6 S なお「誰か鳥の雌雄を知らん」という言葉も、この「正月」の中の句& Q- c" S+ c8 O' W  ^7 e( x- v+ t5 e
で、他の句が「詩経」通例の四語なのに、この句だけは字余りで六語に
* ~2 W) d- S+ _なっている。奸臣が権力を握っているため、王が故老や卜官に何を問う
, Y9 g! A, }; Y( Nても、真実を答えるはずがないから、“誰か鳥の雌雄を知らん”すなわ
0 T1 c( n( }& D4 cち、誰に奸臣・義臣の区別ができようか、と義の士の嘆きを訴えた言葉
  J4 D7 c7 v7 v: f5 kである。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:47:15 | 显示全部楼层
玉石混淆

- y. g  T* S( Q
' \. u5 D7 Y8 f 「玉石混淆」という言葉は、玉、すなわち硬玉や軟玉が、石といりま% `# |* y9 A7 B) P3 o4 D" p0 [
じっていることから、良いものとわるいもの、すぐれたものと劣ったも9 j4 U; ~6 I  k
の、人でいえば賢愚がいりまじり、いっしょくたになっていることを指6 ~# U* f! I$ }; n+ m( a8 u
している。
) J5 q; V$ e# h! ^" H 
( A* H- C9 ~4 {/ o6 W. E  D 晉の葛洪が著した「抱朴子」に、あらまし次のように言っているが、  n. |0 ~  S9 q: C+ S8 m/ r4 I8 n
その中に見える「玉石混淆」の語がこの出典である。
1 `! L# j4 v& L 0 l3 c# T9 j- [+ C
 「詩経とか書経とかいった正経(経典)が道義の大海であるとすれば、! @% a; {+ C( ]2 z& s& Y
  諸子百家(戦国時代の儒家以外の思想家)の書はそれを増し深める川
+ K) U4 Y' B0 }9 Y* Q6 W1 F  の流れであり、方法はちがっても、同じく徳を進めることに変りは/ q6 |8 Z9 }3 m! u3 V7 U
  ない。古人は才能の得がたいのを嘆いて、崑山の玉ではないからと; c5 H8 Q( g9 g
  いって夜光の珠を棄てたり、聖人の書ではないからといって修養の2 D3 G6 N6 Z4 t; T  Q2 g
  助けになる言を見捨てたりはしなかった。
2 |6 ?# e5 X' Y   ところが漢魏以来、嘉言が多くでているのに、その品定めをする
# Q$ F+ }8 e4 W( _  b5 V  U9 P; g  聖人があらわれず、見識の狭い連中は、上っ面のせまい所にとじこ
: W& I% m) [$ ?  められ、字義の解釈だけにとらわれて、奇異であるのを軽んじ、不1 u- O6 @# l$ ^$ w4 U" N; |
  要なものとして、小道にして見るに足りないとか、広博で人の考え
$ c/ k$ R, a7 K& ~6 p6 u  を乱すとかいったりする。塵もつもれば山となり、多くの色が集ま
  n" b# W6 a! P9 D  って目もあやな美しさをかもし出すことを知らないのだ。浅薄な詩
' ?5 `6 k: W# j0 b  賦をめでるかと思うと、意義深い子書(諸子の書)をかろんじ、ため1 @# f& j! h# @& [$ |5 e
  になるりっぱな言葉はばかにして、そらぞらしい口先に感心する。
: g# N2 \$ h6 t' O! y  真と偽とがさかさまになり、玉と石とが混淆するというもので、雅6 V( j+ f* J1 W9 M0 |
  楽も俗楽も同じに、美しい服もぼろ服も一緒に考えて皆のんびりし/ j' K7 P& M0 w. q4 d
  ているのは、まことになげかわしい次第である。」(外篇、尚博)
- u' {- l1 h5 f8 }; H ( V0 c& W. M# w3 H0 c- k; W: E, Y1 D
 葛洪は字は稚川といい、若い頃苦学して儒学を学んだが、神仙養生の( X; X/ F! O- z& i& x, L& t
道に非常に興味を持っていた。祖父のいとこである葛玄が仙人になって
) i) s3 v5 e0 R- [3 v' L葛仙翁とよばれていたころから、彼は小葛仙翁とよばれ、自分では抱朴9 S2 w% C1 O' B/ ~. p
子といっていた。玄の弟子の鄭隠が玄の煉丹の秘術を受けついでいたの
0 h0 y( C8 z. k& cで、彼は鄭隠についてその秘術を習得したのであった。; R7 O3 N! ^" @  ?/ c# p0 w/ k" ?
 
3 n5 J: Z5 U& m% e5 ^  p 元帝が丞相だった時、その下で軍功をたてて関内候に封じられたが、& B4 l# ]5 u1 g, J' b- e; T- t
その後、交趾に丹砂が出ると聞いて出かけ、羅浮山で丹を練っていた。2 @3 |$ }9 E. a* n% v
あるとき彼を尊敬していた広州の刺史トウ嶽に、「師を尋ねて遠くへ出
  {" E+ E# K* L5 @  T8 [5 @& a4 _' y- yかようと思う。日をきめて出発する」と言ってきたので、嶽がとるもの& Z: P3 R# ~* d  }9 y4 q4 b
もとりあえず、別れにかけつけてみると、葛洪は坐したまま昼になると2 {6 X5 \3 k3 v! }
眠るがごとくしてなくなった。顔色は生きているのと変わらず、死体も5 `5 Y4 J9 ^9 L
軟らかくて、死体を棺に入れようとするときには、ぬけがらを持ちあげ
; O9 n. C" H$ J0 N+ Gるように軽かったといい、世間では尸解、つまり体をのこして仙人にな
2 M$ D4 S* c; O" _' F2 R# sってしまったのだといった。八十一歳であった。
( ]) W8 J4 ~, C" C4 i# j 
$ {* n: d* H" |. N& \! G 葛洪の著には「抱朴子」内外篇七十巻や「神仙伝」などがあり、「抱
/ c* N6 K9 R$ x  ~* y; Z朴子」は内篇には神仙の道を主として説き、外篇では政治、道徳などを
9 q* T; O+ h& I5 o$ e+ q  m論じている。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:47:38 | 显示全部楼层
漁夫の利

: ~2 O1 u& O" D. o2 i) u  d
. }" A, Y8 C+ v' L 戦国時代の燕は中国の北東にあって、西は趙に南は斉に接していたた1 s9 `3 W) {# c/ I7 \7 `9 f& z) b
め、絶えず両国にねらわれていた。燕の昭王と言えば、楽毅を将軍とし
5 a/ P3 B" ?& y6 u7 @  K! yて斉を攻めた話で有名だが、趙に対しても警戒を怠っていなかった。あ# l* {; [& f4 e9 ^
る時趙が、燕の飢饉などの弱みにつけこんで侵略しようとした。昭王と
& X4 I# ~9 \  ^" B2 n# c# kしては多数の兵を斉に送っていた時でもあり、趙と事を構えたくない。
8 g' @3 x8 B4 q) \9 a, mそこで蘇代に頼んで趙王を説得してもらうことにした。
: Z% U3 e6 s& b" }) [* Y" Y 5 L" E" [. x3 d& s/ L
 蘇代は合縦策で有名な蘇秦の弟で、兄の死後その縦横家としての事業8 _6 _$ B8 w5 S
を継ぐために、燕王カイ(昭王の父)に巧みに取り入り、昭王の世になっ
; f3 |$ ~3 F# p7 s# W/ P: Sてからも斉にあっていろいろ燕のために尽くした男である。彼は蘇秦ほ
2 F9 S# I3 M5 U4 \4 Pど大きなことはできなかったが、その弟らしく舌先三寸で種々の策略を
# V  h6 K5 `, L5 i+ r, @' V+ A) n# h; E弄した。この時も趙の恵文王に得々と話して聞かせた。
& J$ ~0 Z% T1 X/ g& X3 x5 @+ q   \4 U3 |. v9 I8 d
 「私は今日お国に参ります時、易水(山西から河北へ流れ、燕と趙の
, |  ~2 E4 d2 F9 K/ G' Y5 I6 N+ @: h  u  国境を成す)を通りましたが、ふと川辺を見ますと、蚌が口を開け
1 h/ Y/ v4 \  T3 [$ x* H0 [. Y  て日向ぼっこをしております。そこへ、鷸(雨が降るのを知る鳥と
6 K# J5 ^+ c# J5 \- d  言われる)がちょうど来合わせて、その肉をついばんだので、蚌は
6 \5 U0 Z; H$ F) R  怒って急に貝殻を閉め、そのくちばしをはさんで離そうとしません- G0 O! h% l, n( z) e7 Z4 Q
  でした。どうなることか、と思わず立ち止まって見ていますと、鷸
0 z- O0 W2 n/ l5 S  が、
# q, N) n" R# j8 `" D4 }& _ 
# u3 ~. ]) k! J6 e! d   『このまま、今日も雨が降らず、明日も雨が降らなかったら、
; X+ F) L5 q5 m# p; P6 R" g    お前は死ぬだけなんだぞ。』, ~8 y: Q* N4 m& B9 O1 K% B, L7 J
 ) T7 U4 `$ N& g/ |5 ~
  と言います。蚌も負けてはいません。, f2 M! r. j# [: \+ K
 
) ~# i6 F9 X; d1 G/ @   『おれが今日も離さず、明日も離さなかったら、
0 [1 [3 `) i6 X& B+ l    お前こそ死ぬんだぞ。』0 F1 T: K4 ]3 @5 l' Y" L# Y
 
7 e6 T) n* W, u  両方とも意地をはって言い争うばかりで、お互いに和解しようとは% ^! B- B+ J: _) J+ N
  しませんでした。そうこうしているうちに、撙铯毪瘽O師が来たも
: x' ^: S! e% }/ W' P  のですからたまりません。両方とも簡単につかまえられてしまった. l* }: ]0 `' o" z* b; C# |
  のです。+ ]8 c4 L/ Q$ v
 
5 y$ S) b; ~3 Q; v7 S  私はハッと思い当たりました。王は今燕を攻めようとしておられま
! ]+ |! e6 i- g9 L1 S5 J  すが、燕が蚌なら、趙は鷸です。燕と趙が徒らに争って人民を疲弊% ^1 K4 |- \8 g' ?  b
  させれば、あの強大な秦が漁師となってうまい汁を吸うことでしょ8 t8 {( C7 H7 x' \+ m
  う。」- P% W7 q% e5 w
 
- a! c1 C% U! K8 n1 u# x! |! V: v* k 趙の恵文王も藺相如や廉頗を用いた賢明な王だったから、蘇代の言葉
: P/ X: ]5 r$ Z$ ^' rがわからぬはずはない。趙と接している秦の威力を考えれば、燕を攻撃4 T& X# W! z1 T& S( R
するのは得策ではないと思い、侵攻を中止したのである。
- G# R, a  U- T5 U+ k+ i) U5 }0 P 
1 H  a. D) l, E* y6 v 4 c' o; H' _+ l1 g
 この話は「戦国策」にある、これから「鷸蚌の争い漁夫の利をなす」: @$ Q, d# c" j( G0 K) M( k1 t
という言葉が生まれた。「鷸蚌の争い」も「漁夫の利」も「両方が争っ& i$ ?, ^( [& j
ている時第三者に利益を占められること」を意味する。今日では「漁夫7 d5 q  J4 ]" d- ]
の利」という。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:48:01 | 显示全部楼层
琴瑟相和す

# s/ _& }. n9 Y( y: w# y. T& x4 @* x; Y, ~+ ?
「詩経」の「小雅」の「常棣」篇に「妻子好く合うこと琴瑟を鼓する
" Z: a* c- `3 V: t  d8 P* kが如し」とある。則ち、瑟は大ごと、琴はこと、この両者を奏でたと( t, O5 ?" U5 t! n& d$ E
き、その音調が好く整って両者の響きが相応じ相和し、楽しい雰囲気
! a1 c( A  Q( d: Nを醸し出すように、夫婦仲の好いことを言うのである。! s: {1 X% J6 w: |
 / K' H, _" U4 K) f
 また「詩経」の「周南」の「関雎」篇に、「窈窕たる淑女は琴瑟も
3 M5 H0 P' S8 s$ ?$ q) [6 ~て之に友しまん」とあり、これから、一般に夫婦仲の好いことを「琴
( n" Z% d$ i: d0 T瑟相和す」という。
) S; e9 n3 b1 a/ U % v6 F- X5 T  `
 * P' A/ h" \7 M) X4 C
 この「常棣」は兄弟一族を集めて宴飲する様を歌ったもので、周の. F* O# |7 M+ G" D, B
武王の弟、周公旦がその兄弟の管叔鮮と蔡叔度が、道を過って周に叛% b( O- e! }6 K0 E' ^+ Y
き誅されたことを憐れんで作った詩とされている。また一説には、周! V. u) q% c. p
の属王の時、宗族が不和だったので、召穆公が一同を集めてそのとき& o. ^$ f, Y- Q6 N% E$ _
作ったとも、その席で周公の作を歌ったのだとも言われている。1 ~+ l/ ~' q0 i$ X# P  m
 . s' W0 ~2 w" v, \* p' r
 
5 }, h; c( E0 Y9 m' @$ C. K2 K 管叔・蔡叔というのは周公の兄と弟にあたり、殷の紂王の後を継い
! q# B% [" M" P+ ~6 C' e! Lだ武庚の大臣となっていた。武王が崩じた後、周公が幼い成王の摂政5 ]( d" I8 i5 U6 S/ G% T% L
をしていたのだが、周公を快く思わなかった管叔と蔡叔は、周公は成7 [1 ~9 U! ~* i' Z; M
王に逆心を抱いていると言いふらさせ、周公を王から遠ざけた。しか8 ^1 @, P: A# P2 [0 z% Q$ y  B
し、周公が再び召し還されたのを見て、管叔と蔡叔は懼れをなし、武
/ l! {- I" V' D! r+ E庚を上に立てて反乱を起こしたが、王命を奉じた周公のために、武庚9 l( q1 u4 m/ }$ d
と管叔は誅殺され、蔡叔は放逐されてしまったのである。
% b1 \" F1 C) i 
0 k4 }6 y2 s* G- F$ [0 \ 詩は各章四句、八章から成っているが、大意はおおよそ次のようで
+ f( k( Z! t& H8 ?( i' n# nある。9 ]  L- _9 E9 p8 w2 E' F. n
 
0 R  ?2 h0 u% S( Q0 f 
+ f/ W! T. c' K 常棣の咲満ちていることよ。なべてこのように美しく栄えているも
; d) p( n5 ~; c4 pので、今の世では兄弟の情愛にまさるものはない。生死の脅威に晒さ& h6 n5 ~3 ?% Z4 V; \
れても兄弟は相思い、野と沢が集まるように兄弟は相求める。鶺鴒が) K) Z! C) _0 F2 }1 Q
水辺を離れて野原で苦しんでいるような困苦の際でも、兄弟は助けに
" N/ C( @2 T1 b9 X  M. Y; \2 R急ぐが、友人では親しくともそうはいかない。内では兄弟げんかはし6 e8 z! J3 L, g1 D2 }
ても、外部に対しては兄弟は庇い合うが、友人では親しくともそうは
  g8 T( ]* `- T4 p/ A$ vいかない。無事平安の時には兄弟なんぞ役に立たぬ、友人の方がはる. N: E5 D% ]7 m9 F# g' S
かに助けになると思うこともある。しかしどうだ、兄弟皆集まって珍
9 g  x3 @: }8 Z3 o3 I+ E# ~味を並べ酒を喰らうことの楽しさは。妻子ともに睦まじく琴瑟の音の2 L/ @, n+ u4 b4 k. ~) T' {* K
ように相和し、兄弟集まり終わって和やかな気分は続く。家も栄え妻
+ W1 q( V8 c/ O* k子も楽しむ、その訳はと尋ねるならば。兄弟和合がそのもとなのだと
' r# o7 L# X( l) N2 A  u納得がいくだろう。―――
' M. q5 x; h3 _* T - y8 D9 Z# P9 Z2 _& j  n( X! ?# ]
 5 j& q- p* n8 ^. j/ b
 「小雅」というのは、周の朝廷で饗宴の際などに用いられた歌であ
- r# R# U' b: _- j0 L* |& `0 uるが、これには、周の宗族の和合を進めたこの「常棣」などのように6 ^- ^4 r. c2 P5 R! [0 A) }- y
純然たる宮廷歌と見られる物のほかに、恋愛や軍役の歓苦を歌った民6 ~7 n* S' U9 r. S  W
歌から取り入れられた物も少なくない。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:48:27 | 显示全部楼层
愚公山を移す
! U+ n+ F% t3 c2 P: y
& R7 I; G( B6 Q$ N
 太行山と王屋山は、四方七百里、高さ一万仞もあって、もとは冀州の
; B7 R3 I* x* O5 Z& X; ]! R南、河陽の北にあった。* ]- q# X1 B6 `: J4 T0 k- W
 
4 i4 v6 q+ N5 r7 Y. g+ E/ ]2 `3 I4 x7 W 北山の愚公という人は、年がもう九十に近く、この二山に面して住ん: m- i$ q" t+ e5 S
でいたが、山が北に塞っていて往来に不便なのに閉口し、家中の者をよ3 c, h4 a! b+ Q7 y# m
びあつめて、こう相談をもちかけた。
: ]) W  |) U: z% ]8 l 9 M' d# V% D6 W; X
 「わしはお前達とありったけの力を出しあって険しい山を平らにし、. s6 F0 a+ t8 }# ^) f# m( }7 S
  予州の南まで一本道をきり開き、" e; P, K8 i8 ?8 ^
  また漢水の南まで行けるようにしたいと思うんだが、
" b5 Y- v3 {& w) P* r3 U  どうじゃろう。」
: G  u5 y$ J  k) E 
2 C) B8 [& A  C 一同はうち揃って賛成の意を表したが、その細君だけが疑いをさしは
4 {: R5 g% `  ^! o$ t8 H4 @. bさんで、7 r# }5 P- T% K: {. s9 t
 ! J+ A6 X9 L  \: c5 Y
 「あなたの力では小さな丘でさえ、
$ d5 M7 T) g9 j  切り欠くことも出来ないでしょうに、+ _: [8 L! m! F, d* Y' y5 b8 a
  太行や王屋のような大きな山がどうなるものですか。
1 n" c2 c8 r/ W# ~3 F: b6 j, R  それに切りとった土や石をどこに置こうというのです。」
  \/ V% F$ W7 P' \. i1 F' w* R; b 
7 @+ O$ f2 ?8 M: N+ O% g. T1 J1 Y と言った。しかし外の者たちは、
% c* ?9 S- \# b2 V3 j  Z9 B 
9 c5 ?/ G& N5 g$ s$ d" q( | 「その土や石は勃海の浜、隠土の涯てにでも投げすてるさ。」
2 T  d4 ~) E' j; R3 @  I - K! R. Y6 \7 c  `9 U! D) p
 と大変な意気込みで、とうとう相談がまとまり、愚公は三人の子供や- _9 S) @$ S0 \' G' k7 p4 P8 Y
孫を荷担ぎに引きつれ、石を叩き割り土を掘りかえし、箕や畚でそれを" w7 F% T4 j. H$ I; s
勃海の浜に撙婴悉袱幛俊5 L/ t. m1 O/ C
 
" z) M3 \& Q0 e$ _& i) \9 M 愚公の隣家の京城氏の後家さんには、やっと七つか八つになった男の& R6 O8 r' @3 I$ V. T4 t) |4 ?
子があったが、その子も大喜びで助太刀に参加し、一年たってやっと勃
* R7 ^/ S1 s0 Q, h8 @海まで一往復をすますというありさまであった。# S' Z# ~' B) H% I
 
  m" i! u0 W1 n9 s: P( k+ n0 T 黄河のほとりに住む智叟という人は、それを見て、笑いながら愚公に
" n7 n; g8 ^$ L忠告した。
0 B2 e% m; E: t& T% d( Q ! u# v5 \: P' d  k' c6 F- h
 「あんたの馬鹿さ加減も大したものだ。1 K2 N  j# X3 ]. {! ]/ q
  老先き短いあんたの僅かな力では、/ V! X% I/ e, O" V$ h% }0 r# `$ j
  山の一角さえ切り欠くことはできまいに、
: d2 `7 F$ u  u% c3 A, E0 q  こんな大きな山の土や石をどうしようというんだ。」
5 a2 I! ~5 T3 v; @4 y* R 0 q/ F. [+ h1 [* C  n9 K, H8 C
 すると北山の愚公は哀れむように嘆息しながらこう答えた。: q0 M* L0 ?* N$ M6 X
 
+ w% ?1 f0 T, E0 G! t! S 「お前さんみたいな浅はかな心の持主には到底わかるまいな。
  L! P7 i1 o* H1 c  E) p5 l- U  お前さんの知恵はあの小僧っ子にも及ばんわい。6 n) e8 d( b0 ~' X" i
  よいかな、たとえ老先き短いわしが死んだとして、
2 x, e5 w5 P6 a  子供は残るし、子供はまた孫を産み、孫はまたその子供を産み、
+ y, D  @6 G, y" k4 o) w  その子供にまた子供ができ孫ができして、. f$ e( U4 N( \$ J
  子々孫々とだえることはあるまいて。+ h( z: w& v; B1 B3 A7 t
  ところが山の方はふえるもんじゃあない。; O( R, a# u- \9 ^6 r
  とすれば、) k3 n  {7 C5 W3 q. c& l5 f
  いつかはきっと平らかになる時が来ようはずじゃああるまいか。」9 S+ q6 R% \  Q6 `1 T
 ; L6 l6 u  Q, B4 o. h
 智叟もそれを聞いて二の句がつげなかったが、もっと驚いたのは二山
; Z" o3 B$ r$ F7 S' ^5 Z. ~) Bの主である蛇神である。山の切り崩しがいつまでも続けられてはかなわ
# N) ?1 [# j: Z) N$ U1 R1 `ぬというので、その事情を天帝に訴え出たので、天帝は愚公の真心に感
9 t. I+ i; o4 R. e9 r心し、力持ちの神である夸娥氏の二子に命じ、太行・王屋の二山を背負
! v' t) _$ Z! E! sわせ、一山を朔東の地に、一山を雍南の地に遷してやったので、それか' ]+ I. u) w4 H1 r+ h# n' f  S
らというもの、冀州の南、漢水の南には、小高い丘さえも在しなくなっ
3 A) e0 s5 c$ P. d# u# ~た。
5 s+ z; o) n( k . [$ I6 w- f. O9 h
 & ^2 T6 I/ ^" ]! }/ Z2 Y
 以上が「列子」の「湯問篇」に語られた「愚公山を移す」の寓話のあ
7 ]7 u: L& k) J  {0 Iらましである。平野開拓を主題とする土地伝説としての民俗学的意義も- h; l: |4 e0 G6 K
十分に認められるが、それよりも勉めて已まざれば大事も必ず成功する3 W: V+ _; b( R) W0 ^
という譬喩として読むほうが面白いし、愚公と智叟と、いずれが真の愚
0 g* C/ |* Q; |2 X! p  ]# P/ E' dであり智であるかも問題である。だから邦儒室鳩巣も、その著「駿台雑
$ Y; l2 a3 j+ Z: R+ l話」にこの寓話を批評して、) }# X: d: p) Q- H# Z
 4 a  q" q3 z6 D- d
 「およそ天下の事、$ \7 y" l2 N/ c% E8 R8 f; m3 [
  愚公の心ならば遅くも一たびは成就すべし。
  t4 H; Z% E, X# l6 D& |  然るに世に智ありと称するほどの人は、おほかた智叟が心にて、
) j  B" c, Z1 ?, Q9 t" U- i/ f  愚公が山を移すやうなことを聞きてはその愚を笑うほどに、
1 S( _& G, c: z: u  何事もその功を成就せぬなるべし。
  f3 v8 \( c3 k2 ?' S  然れば世のいはゆる愚は却って智なり、/ [4 [+ `! K( R; ~, Y% N
  世の智は却って愚なり。」9 c$ o8 P3 l3 @
 * \! p: ?" h  d6 m
 と言っている。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:48:56 | 显示全部楼层
国破れて山河在り
6 Z: D& f  \: j. k  a+ o4 m( P- r

4 W; n# N5 `# D/ R# R; e+ h これは、唐の杜甫の五言律詩「春望」の最初の一句である。
4 O) c3 V- J: D+ F+ J- P5 J, j , f' X/ a+ p( }0 O7 G! J+ w
 杜甫が仕官という年来の希望が叶って、右衞卒府冑曹参軍なる官職
1 d# u! ?9 R1 v- B! w+ s* J1 D1 i, mを与えられたのが四十三歳の時であった。どうにか希望がかない、こ
2 L  [/ y! R1 T6 g; C6 `! A5 \れから安定した生活が出来ると思った矢先に、突如、安禄山が反乱を* P/ F5 `+ Y: @+ F: @) _% W4 e
起こした。/ V9 N- Y/ b: i0 f
 4 {. [1 H% y! ]" c6 {& V  y
 安禄山は北東方の節度使として十八万を越える兵力を握り、今の北
" X: e9 e4 D1 _' P% I4 u京に近い范陽にいたのだったが、玄宗皇帝の左右にはべる不忠の臣を1 U3 F5 ?% Q7 s: E7 n% L- z% `* n
討つと称して兵を挙げた。七五五年の十一月のことである。破竹の勢0 b3 \1 M% f* l1 B3 I
いをもって南下した彼は、正月に東都の洛陽を陥れて大燕皇帝と称し6 ~  R2 Y4 F4 o; Q' x: e
た。その年の五月、長安の都も危機に見舞われ、玄宗皇帝を始め長安* v- |* Y( d1 S1 Z
に住まう官吏や貴族たちは都落ちのやむなきに至ったのである。
8 L  q, z: x9 h# ]2 \: o 
8 {( d+ _$ ?5 N* |" O, P7 F. m 杜甫もまた妻子の居た長安の東北方の片田舎へ命からがら脱走した
8 a! U+ K; |  z1 H6 S8 [のであった。その田舎も安全とは観られなかったので、更に辺鄙な羌
0 l' s- Y* f' }- c; Q) S村という田舎へ妻子を疎開させた杜甫は、当時玄宗の太子で西方の霊
( ^0 z% _( K' E/ J/ L' W. {: J武という片田舎で即位した粛宗の朝廷へ参内すべく出発したのだった
; X/ c2 L6 ?- Y0 u" x  N+ B3 ~  `" zが、しかし忽ち俦问证瞬钉蓼辍⑶羧摔趣筏崎L安に送られてしまっ
% }6 g2 V1 S; z* V# J( B- qた。
+ i& B  G% m! {8 K6 M" W' T' w. j + C0 }' ?9 b. A! l
 彼はこうして囚われの身となったが、幸いなことに彼の官位はあま
5 J2 g6 G4 a4 w* v. uり高くはなく、また白髪頭の弱々しい老人であったから、生命を許さ. @" P% ]/ s" ]% c. o8 \. m2 y* K
れたばかりでなく、監視も比較的緩かった。杜甫は兵禍にみまわれ、1 D% B; G$ N: ^- }: X
見る影もなく荒らされた都の姿を身をもって体験することが出来たの- T* Y" S5 ^, k' S+ C5 b
だった。
* x1 {6 J3 w  g8 J& I # L$ G1 T2 A7 b% J
 安禄山は元来胡人である。従って彼は胡人から組織された軍隊を養+ t' k" Z8 z% x' V' |2 l, c
っていた。猛々しい胡兵が我が物顔に馬を仱昊丐贰D女子は怯えお4 ^" x0 i9 f( c$ A% F$ x; |  d
ののき、乞食に身を落として街に顰みうろつく王孫公子達もあった。
  d8 q" l& n5 ]0 V3 I% I杜甫自身もまた人目を憚るように長安の街を歩き、悲しい風物を観、
8 o7 I2 U% @& d5 N+ [+ `そしてその悲哀を多くの詩に歌ったのである。
) d- O0 d2 v5 d5 z2 s' H9 I「春望」もまたその一つである。, Q. ~9 k& Z/ _: w; d7 t
 + t; k2 w% e: d1 G7 K
   国破れて山河在り―――2 y9 f' L) ~$ i
 
' F; n2 j# B$ L* u; Z- U& [& o それは都の建物が破壊されたとか、唐室が安禄山に負けたというだ7 X& w7 d! \! X6 J9 Y+ D$ `
けでなく、国が壊された、秩序も破棄され、機構も破られ、人民のよ- U5 t0 K1 l% o2 \0 ?  i$ z. i" \
りどころは全くなくなってしまった、という悲しみをさしているよう7 }- `. k& e" H$ i$ G% |: ]6 x
である。3 A9 r5 ^6 Y" {- }5 h
 
1 o' _, ]2 o3 ~- s 安禄山の乱はその後、史思明親子の乱となって後を引き、完全に片; `% j: j, J# h  k8 P7 r
が付くのには九年間かかった。しかも当時にあっては世界随一の大国
+ d4 N6 Z; B  A0 u家であったろう唐朝は、この乱によって極盛期の秩序と威力とを回復
! B1 S7 j+ s" A! ?$ ]2 h) u% E) jする実力を失い、武人は割拠し、ずるずると沈滞していったのだった。; _. O/ S1 v4 m
つまり唐朝の基盤はこのとき破れたといってよい。( h, J( E0 a( X: G% f
 7 j, m; `; x* D  r
 国は破れたのである。
! W" a& b  Y; r, I, L , D0 J+ C: x! s* S1 w& D  x9 }! z
   Y4 s+ a+ r; P  r* O1 h
 6 r" u; |3 c/ ]+ c$ N
     春 望0 `; d- u2 y! x/ a3 W# S
 2 L5 I! t/ y) _9 Q) R9 d
       五言律詩。長安の僦肖摔ⅳ盲啤⒋氦翁鳏幛蚴訾伽搿  {9 W5 P9 p& V! N3 b9 d! t  s2 g
 + c4 F: O+ W" y( h0 M" t7 O( k
  国破山河在   国破れて山河在り& b$ N4 V) i# r) S, y% \
  城春草木深   城春にして草木深し, ?% w5 v7 v7 o5 Q( o  C
  感時花濺涙   時に感じては花にも涙を濺ぎ) v' ~, [8 Y$ u
  恨別鳥驚心   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
# ~2 }  T3 I- u- d' `# u5 E  烽火連三月   烽火 三月に連なり3 \$ L' y  a' g4 F; B
  家書抵万金   家書 万金に抵る
/ A! \% t7 @, Z  F: }  白頭掻更短   白頭 掻けば更に短く  i. B: x% K  c. y3 X2 h/ w
  渾欲不勝簪   渾て簪に勝えざらんと欲す
# D$ u* |4 ~! R# V! U- M 
! F3 p3 [8 q; Z$ N9 b' \. M 8 }% D3 p( ^+ u
 都は滅茶苦茶になってしまったが山や河は昔のままであり、
5 _" `5 h, _2 p/ t4 {  Y 長安には春が訪れて草や木が深々と生い茂っている。
; N' z; p& B3 W8 q 世の中の有様に心を動かされて花を観ても涙をはらはらと零し、1 @% C: T; }- c, [# ]: A6 ]$ s, T
 家族との別れを惜しんでは鳥の声を聞いても心を傷まさせている。- W4 L/ W7 m  O& `
 打ち続く狼煙火は三月になってもまだ已もうとせず、# k4 E; ^* |: B' ]
 家族からの便りは万金にも相当するほどに思われる。
, K0 T. [& t( Z 白髪頭は掻きむしるほどに抜けまさり、
( Q8 k2 g1 |: ^# `" k5 c まったくもって簪を受け留めるのにも耐え兼ねそうだ。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:49:38 | 显示全部楼层
敬 遠

9 O0 |+ F0 v0 U" t/ L
3 t- Q  R  \  ?7 t% l6 Z孔子は、両親の“野合”の結果生れた子だった。則ち、両親は“天”7 p7 J* Z% O) ^: ]& a* s; H- r
も祭らずに男女関係を結び、“祖宗の霊”にも告げずに孔子を生んだの
8 ]) C2 J; l' e; z) Y& @' yだ。/ W" c" O4 I$ @9 _" D4 I6 [& s( T
 9 \$ f7 ^$ Q. |4 u; Q* U: R' B$ _9 N
 ――自分は禽獣同様の交わりから生れた子だ。
' F" u# ^  O3 `- k: I) s" A 
& K# s, F( J" V; N2 M このインフィリオリティー・コンプレックスを克服するためには、正  i0 \! z, p" V; o
常な夫婦関係から生れた人間以上に、道徳的に完全な人間にならねばな# O/ Q3 Y- r1 Y% ~- F& l- }
らない。孔子の異常なまでに執拗な自己修業は、このような決意の下に
) M. d8 F( G' B  f1 A: x3 W始められたのだった。" @( [: ]. K: Q  W& m0 f( l
 1 m9 J; C0 N5 v  @$ z
 が、道徳的に完全な人間であろうとして、父母の行為を否定すれば、
, ^, Z2 N+ ^8 b: x7 `, z1 }% v“不孝”という罪を犯さねばならず、“不孝”という罪を避けて父母の
9 J2 V% q* Z8 d$ L6 N行為を容認すれば、“背徳”という行為を是認することになる。近代の
' k8 P- q1 l: z6 F知性には、当然二者択一を強要するこの窮境にあって、孔子はしかし、/ G2 o' E$ h* @* i' b. d: w
まことに独自な態度に出た。というのは、道徳は道徳として敬して、親* m2 ]: [% R" {2 ]0 ]* }$ c
は親として敬して、親と道徳との関係については関与しない、という処! Q+ n4 e- u9 ]' A, f
置をとったのだ。言わば、自身だけは如何なる対象に対しても正しくあ7 S8 N/ g* ~- k+ |
りたい、という自己中心主義を堅持したのである。$ [/ x& B/ U, G9 C
 ! q, N; p# u: ?: X& r
 この結果、孔子は、当世の道徳と人間精神の対立という問題を見喪っ6 x+ W( d& B, O
て、倫理観に新たな創造を加える契機を逸し、“天”や“祖宗の霊”や、3 E2 v& p- l' Y) {
“天”によって人間に課された道徳律等、人間の意志を超越して存在す
( }+ g/ @/ l) E5 h: V2 M& x6 j" A! F, pる一切の権威に、従順にぬかずくこととなったのだった。従って、孔子
. F# @- f  s! L" x8 y5 B: D3 x1 w& f: `  Vの“教え”といわれるものは、これらのものがどうして“人間の意志を1 p2 v6 k& Z5 m& l: P3 f
超越”していながら、しかも“権威”であるか、という秘密を追求する
3 Q- k' m& C; E3 ?; R6 @# l7 Gものではなくて、如何にしてかかる“権威”に服するか、という実践論
2 M, R6 _3 p/ s/ lに終始せざるを得なくなったのである。
( C/ j8 N" U$ e2 [; k- t% ^ 
8 D; Z- ^6 j+ ^, m2 D& ^) ~7 g ――子は怪・力・乱・神を語らず。1 v, q$ o( a: b3 |! I* x+ X
  (子不語怪・力・乱・神)
% x% [4 @$ F, M* ]' h                         (「論語」述而篇)
0 m7 E& B9 q& V7 Z& ` 
+ P0 F9 O3 {6 A+ t) V% c (先生は、怪異と武勇と世の乱れと、神業については語らなかった)、, j" Y' P: J; i2 C7 u, X  G
とあるように、“力”と“乱”はその文治思想に基づくが、“怪”と
7 Y5 D- g5 P3 {* g5 E4 P“神”という超越者には、順う以外の態度を採っていない。しかも、孔
+ W7 g3 X6 t' M" u5 M子は、このような態度こそ“知”(叡知)なのだ、と確信していた。9 i' x5 A$ |& U9 ]% K" }" X
 
$ b. S9 M/ K# Y' [( E ――樊遅知を問う。
; F; ?- B7 i9 [/ H) P3 S9 Q  子曰く、民の義を努め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂うべし。
/ q! q7 U$ ^9 D# R3 t (樊遅問知。子曰。務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣。)
4 r( s; I! \  `                         (「論語」雍也篇)  d' B' z7 ~# q7 A* \7 w/ I
 
" g" s% i( t* Z2 w3 J  (弟子の樊遅が“知”について尋ねた。. j" L2 B3 e* @' r6 S
   子がいうには、己れ自身の為すべきことだけに努力し、
. Y) ~1 W8 K# A# d   鬼(人間の霊魂)や神(天に在る超越者)は敬しつつ遠ざけておく、
+ K0 _7 h2 A( }) R  B   こうすれば“知”といえるだろう。)) J9 C; e7 ]) r
 
% y" H5 O& f9 d9 I: T2 ?- M; j 「敬して之を遠ざく」とは敬って狎れ親しまぬこと、要するに神頼み  ?* y3 o, e" [5 \- W# k3 M
などせぬことを意味し、ここに孔子の、超越者の客観的な公正さに対す; n7 j$ ~, C6 e( c$ |1 a; ?
る絶対的な信頼をうかがわれる。今日「敬遠」(敬して遠ざく)という言
+ B: i# c3 J, G葉が、「憚って避ける」という意味に用いられていることを知ったら、
% V( t. P0 Y' [9 K; Jおそらく孔子は驚倒するであろう。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:52:35 | 显示全部楼层
苛政は虎よりも猛し

5 s4 a0 P( ^4 Z' x* W* Q
( K. V, z$ ?4 Y2 d 車はゆっくりと進んでいる。車上には孔子が静かにすわっていた。4 d" b( D. P7 w) h& a/ @8 _- ]
孔子を中心に幾人かの弟子の顔も見える。) x8 l# T' J3 `' _+ g
 + V! Z4 K0 X$ E' K2 p1 ?
 あまり人の通らない道のようだ。泰山(山東省泰安県の北)がひときわ; ]/ ]7 V+ Q' ?( J# _+ R
高く聳え、あたりはしんかんとしていた。
% V  ~3 x' f0 A3 |- u* K/ r + [4 O  V! r$ `
 一行はふと、婦人の泣き声が静寂を破って伝わって来るのを聞いた。9 t8 D0 u. k5 p. X: R: T' W
その声は前方のお墓のある所から聞こえるらしい。孔子もはっとわれに% t" g2 `1 f) A: S; t1 t
返ったかのように、身を起して耳を傾けた。車は心持ち早くなった。: }3 z/ a/ z3 x. z: @
 6 S7 Q' P& f9 @/ {
 確かに婦人は道のかたわらにある、三つの粗末なお墓を前にして泣い
8 m. G2 ~& i: `0 U- _) tていた。その声は悲痛な叫びにも似て、切々と人の胸を打つものがあっ
" w* q0 [; }# ~: m% H: sた。慈悲深い孔子はそのまま過ぎ去ることができず、車前の横木に身を
" t, {& U& u+ z8 O寄せて婦人に敬意を表してから、弟子の子路をやってこう尋ねさせた。8 y/ c% F2 r8 v( }% g' z5 {, n
 + J2 @8 e1 B! [- Y
 「どうしてそんなにお泣きになるのです?1 c0 g# a, \' }- f6 z2 H
  何度も悲しいことがあったようですね。」
/ d+ U' J+ Y. x0 T, O8 |9 F 4 G; A8 {2 G4 [+ w1 @6 o
 婦人は驚いて顔を上げたが、そのやさしい言葉に幾らか救われたらし! L; r2 `% D( D6 E
かった。
- C) d  u% n/ s, N & v: W1 h: d) I5 s# B+ S  B
 「そうです。この辺は本当に恐ろしい所なんですわ。# Z8 Y2 ~3 L# a& j- D* @# n
  昔私の舅に当る人は虎に食われて死にましたが、
; {2 l0 a4 x( E' R( x# P5 G  続いて私の夫が殺され、
2 A3 \$ J. i2 p+ a% _6 s. K  今度は私の子供がたべられてしまいました。」8 c8 s0 e' n7 V. Q" `* T! P! a% t
 
7 t3 L" O6 o, Q9 I 「そんな恐ろしい所をどうして離れないのですか?」
* |( D# R/ u& ?8 d, l 
! Z7 A2 F( b4 W# k# d2 a; u 「いいえ、この土地に住んでさえいますなら、
+ r3 J2 @. V% b2 F# K! Z  酷たらしく租税を取り立てられるような心配がございませんの。」
# M; L* ]$ f) u( C0 k6 \; E 
+ i( a# c9 k2 r2 g5 [+ ] 孔子はこの言葉を聞いてすっかり感じ入り、お供の門人達に言った。
) A7 F3 B& D% @* d  x 0 g* D9 `* h3 U6 j; t' ]
 「よく覚えておきなさい、『苛政は虎よりも猛し』ということを。」
4 V/ c& Y! p1 Z & m1 Z6 E, z# B& U# u
 この話は『礼記』の「檀弓篇」に出ているが、孔子の生きた春秋末期
0 D0 t, `: @* K! r3 i) Fの世相の一面を語っていよう。この時代はいわゆる下克上の時代で、孔! d% P9 {3 O9 U! r3 ]
子の生まれた魯の国でも大夫の季孫氏が人民の犠牲の上に勝手なことを+ |0 O% C" v3 p9 d3 u2 [; Y
していた。孔子は「季氏(季孫氏)は周公より富めり」(『論語』先進篇)
! t1 n+ S; P$ vと言い、季氏の振舞を「是をしも忍ぶべくんば、孰れか忍ぶべからざら
% f9 o9 D5 T& d7 P0 O0 t$ }ん。」(『論語』八イツ)と憤ったのである。これが孔子をして「苛政は7 R, s/ K) `8 \4 ~
虎よりも猛し」と言わせたのであり、苛酷な政治の及ぼす害悪を、猛獣1 O7 R! O5 g% H" ^' k. V9 r
と比較して端的に述べている。7 p- c! B$ \6 ~
 
" m- q- V4 r$ F4 [0 V3 c4 ~6 C なおこの話の唐版ともいうべき文章がある。それは唐宋八家の一人柳/ G/ |0 c) @! S/ ?7 W
宗元の「蛇を捕うる者の説」である。これは猛蛇の話で、孔子の言葉を  s+ H- ^! z0 p0 |1 i
引用した上で、
4 {0 @( ]4 W2 J" O  _5 a& y' C3 z: H 
& D" s4 f" L! p 「ああ賦斂の毒、この蛇より甚だしきものあるを知らんや」& Y- w. x; t( f5 w  B2 u! ^
  (苛斂誅求の害毒はこの猛蛇よりももっとひどいのだ)$ o, h% x0 d; p  G8 H1 l* L7 G
 : b/ ~/ B: U* Y* W3 |8 U' g
 と述べている。
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 楼主| 发表于 2005-6-22 13:53:06 | 显示全部楼层
風蕭蕭として易水寒し

+ I% \3 @5 I6 {) J: }$ I2 I2 c* ]! d# [& B+ r9 U& S
 春秋戦国の時代には、敵国の王侯を刺殺するために、一本の匕首
, o- K8 o' X' y(短剣)に全てをかけて敵地に入り込む刺客が、ことに多かった。そ
* F  v( T  k, ?/ u; xの最も著名なのが荊軻である。
9 P+ c% E6 |# F& g7 q+ m & R1 D1 P7 ]  D# i  M
 荊軻は衞の生まれだったが、祖国に用いられず、国々を遍歴して燕! c: J- p, x. c: o' M
に行き、そこで巷に人望の高かった任侠の士・田光の知遇を得ていた。
& {% L) F2 M  A7 {, [% A彼はまた筑(琴に似た竹製の楽器)の名手の高漸離と意気投合し、い4 v$ |1 S, q$ ]
つも二人で酒を飲み歩き、酔うと高漸離は筑を鳴らし、荊軻はそれに; k, N6 j6 k! [4 V
和して歌い、傍若無人に振る舞っていたが、巷に酔いしれているかと4 I$ Z* l2 S/ N( n
思えば独居して書を読み、また剣を磨くことも怠らなかった。: G0 }9 E' O( V8 B7 f* H0 I( ^5 m
 9 z; T3 y4 s. X5 Z0 P! @
 秦が着々と天下統一の歩みを進めている頃であった。韓を滅ぼし、
* u# ^# N# d, |* C- X趙を滅ぼした秦は、趙と燕との国境を流れる易水に臨んで、将に燕に4 o/ c; @4 w. X
攻め入る態勢を整えていた。その時燕の太子の丹が秦王・政を刺すべ6 O8 X6 X$ B* T
き刺客として選んだのは、田光であった。だが田光は自分の老齢を考
" O5 K4 X5 |4 {- cえて、荊軻を薦めると、その決意を励ますために、自らは首をはねて" p) e: ~: d' X$ n2 a
死んだ。大事を命じられながら果たし得ない老骨の身の、それが太子
9 N$ [: \6 s* X1 d* q, w( Qのためになし得る唯一の道だと思ったのである。" z- _3 l! ^1 E0 x0 t, H
 
& @3 [. m5 S+ Y, E7 D! N0 W そのころ、秦から樊於期という将軍が燕に逃れてきて太子丹の元に
2 d1 R/ |$ A; m. _6 E0 Y身を隠していた。荊軻は秦王が莫大な賞金をかけて樊於期の首を求め# j9 W0 g- R! o/ h
ているのを知ると、その首と、燕の督亢の地図を持って行けば秦王は
! U) F5 z9 ~  n& D; {. J心を許して引見するに違いないと考え、そのことを太子丹に申し出た。9 t+ ^7 O' L2 C
太子丹は荊軻を一刻も早く秦へやりたいと焦慮しながらも、樊於期を
. [9 R8 j3 x, j0 r7 T5 F斬るには忍びない様子である。荊軻はそれを知ると、自ら樊於期に会2 ~4 U# \$ Y) U, V7 L1 ^/ S
って死を求めた。それが秦王に対する樊於期の恨みを晴らし、太子丹8 ^; W4 \! [, W( R# h0 h& H+ k
に対する恩にも報い、かる燕の憂いを除く道であると説いたのである。
/ @8 n' c1 n* t8 M& {# h―――樊於期は田光がしたのと同じように、荊軻の前で自ら首をはね2 b* ^4 F' J" a9 h$ {7 F
て死んだ。3 J! N5 b! R" j5 S$ F
 
# `$ d) a' j3 v8 L3 Z% a8 e 樊於期の首と、督亢の地図とのほかに、荊軻はともに秦へ行くべき2 N" K% t" Y2 k1 w( ^
友人を待っていた。太子丹は秦舞陽と言う若者を副使として荊軻につ3 W2 Q) ]# W$ `  T* g( U3 |* G
けたが、荊軻には秦舞陽が頼みとするに足りる男とは思えなかったの6 |1 K* t8 e8 |6 i; m6 b% Y2 D  R& l
である。友は遠方に居てなかなか来なかった。太子丹は、既に出発の
: Q) w+ p/ b4 N準備を整えながら荊軻が立たないのを見ると、いよいよ焦慮して、秦
' Y( t) u" C8 @4 [/ B0 O舞陽一人を先に行かせようとした。荊軻は心ならずも友を待たずに行
& |0 ?/ P5 f6 h$ ^$ m& }( jくことに決めた。秦舞陽を一人やることは危ないと思ったからである。. ?; G( V. l) j% a
それに時期も切迫している。太子の焦慮も解らぬではなかった。
% J# r, {* p( Q+ K4 O7 L. I % S- \  Q% e% B2 u6 P- A1 {9 T) g9 l
 太子丹をはじめ、事を知っている少数の者は、服を喪服に替えて荊; g$ T2 v9 ]+ o+ @, V
軻達を易水のほとりまで送っていった。いよいよ別れの時である。高- j9 U+ n& \% C5 o
漸離は筑を奏で、荊軻はそれに和して歌った。易水の風は冷たく人々
1 q, W* P" C1 R  Q8 e+ e  U% ?の肌を刺し、高漸離の筑と荊軻の歌声とは悲壮に人々の心をふるわせ( a5 l, l' K3 l8 Q5 h
た。秦へ行けばおそらく生きては帰れないであろう。これが荊軻を見% G1 f4 L# J0 G7 K
る最後かと思うと高漸離は暗然と涙ぐみ、密かに涙を拭いかつ筑をか
- Q! b6 K+ ?! G; ^9 aき鳴らして友を送った。荊軻は進みながら歌った。, Z3 _6 @  i* ^
 
% I  G8 ?2 ]. t    風蕭蕭として易水寒し、
( y5 B  i! ~1 J    壮士ひとたび去ってまた還らず。1 X0 v8 A- N8 R) v% ~1 m$ Z% K
 
: B# ?3 U# ~9 k4 L# ^# l  J+ h その声は人々の肺腑をえぐった。人々は皆、眼を怒らして秦の方を
/ J3 b. U, F9 b7 J睨み、髪逆立って冠を突くばかりであった。―――すでにして荊軻は2 o& x; P7 }* f$ `. Q
去り、ついに振り向くこともなくその姿は遠くなっていった。
8 S, J, l, }: w5 \6 a 
% K5 a- b* E8 k8 k 秦へ行った荊軻は、樊於期の首と督亢の地図とを伴って、秦王政に7 h! \7 c8 L* Q
近づくことを得たが、匕首一閃、秦王は身を引いて、荊軻の手にはた
2 j5 P2 v: J! b; K' w) S0 p+ Aだ王の袖だけが残った。後ろから王を抱きとめるはずの秦舞陽は、も
$ u! \. D% b; Y' rろくも人々にねじ伏せられていたのである。荊軻はついに志を遂げる! X2 R' b3 c$ q/ |; F
ことが出来ず、自ら自分の胸を開き、指さして秦王に刺させた。秦王
" m* u- m4 O0 m1 z政の二十年、燕王喜の二十八年、紀元前二二八年のことであった。政
( t% g+ ?$ T% h7 A# O; Rが天下を統一して始皇帝と号したのは、それから七年の後である。* w9 n2 V& Y+ |/ t- |4 M7 s. b
                      (「史記」刺客列伝)
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