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发表于 2007-3-6 17:25:14
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【天声人語】2007年03月06日(火曜日)付
あの少年使節たちは、このスペインの古都にも来ていたのか。トレドの丘でそんな感慨を覚えたのは20年ほど前だった。16世紀の終わりごろ、九州のキリシタン大名が遣わした天正遣欧使節の4人のひとりが、ここで病に倒れ、手当てを受けたと聞いた。
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トレドの後、4人はローマで法王に謁見(えっけん)し、出国から約8年後に帰国する。激動の時代で、17世紀に入ると徳川幕府の鎖国令があり、キリシタンへの弾圧が強まった。
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使節のひとりで、帰国後に司祭として布教していた中浦ジュリアンも捕まり、長崎に送られた。掘った穴の上に逆さづりにし、信仰を捨てて「転ぶ」合図をすれば助命するという拷問に耐え、ついに息絶える。( d9 M, o( X& S6 r7 O% A
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中浦を含む、この時代に殉教した日本人188人をローマ法王庁が「福者」とするという。従来、福者は男性の指導的な信徒が主だった。今回は一般信徒がほとんどで、女性や子どもにも多く光が当てられる。
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8 _$ a& z, j: }5 H( H6 g/ l 『クアトロ・ラガッツィ——天正少年使節と世界帝国』(集英社)を著して大佛次郎賞を受けた若桑みどりさんは、その中で、4人の悲劇は日本人の悲劇だったと書く。「日本は世界に背を向けて国を閉鎖し、個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由を戦いとった西欧近代世界に致命的な遅れをとったからである」。そして「ジュリアンを閉じ込めた死の穴は、信条の自由の棺(ひつぎ)であった」とも記す。3 N9 ^/ @: f' ~% H5 P
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約400年たったが、信条の自由が世界中に行き渡ったとは、まだ言えない。自由の貴さ、そして人間のむごさと強さを改めて考えさせられる。 |
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