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楼主 |
发表于 2005-6-22 14:24:03
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骸骨を乞う
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漢王劉邦(後の高祖)が天下を統一するには、幾多の苦難をなめなけれ
8 o5 j, z+ u/ K) }ばならなかった。なんと言っても楚の項羽は強敵であり、しばしば窮地0 C' o% K2 I" P( |$ v
に追いこまれたのである。
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それは漢の三年のことであった。漢王はケイ陽(河南省ケイ陽県)に陣
6 d7 a+ O1 T% D' u$ u! k取って、項羽に対抗していた。前年、北上する楚軍をここで食いとめて3 P; _. s$ e/ w3 m6 O
から、漢王は持久戦を計ることにした。それにはかんじんの食糧を確保
4 q6 R) _2 Q$ g4 k& Nしおかなければいけない。そこで輸送路を作ることに心砕き、まず道の$ R+ G' z' A) e A: x
両側を塀で囲い、その道を黄河に続けて、ケイ陽の北西に当る河畔の米$ X& J& c8 P8 d1 j/ f
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しかしこの輸送路は項羽の攻撃の的になり、漢の三年には幾度も襲わ0 d4 U9 f2 Y+ x5 [ x8 K4 L
れて強奪された。漢軍は食糧が乏しくなってしまい、重大な危機に見舞8 F/ V% g) N* j! b3 L, Y; `
われたので、漢王はやむなく講和を申し入れて、ケイ陽より西の方を漢5 j. Y, m: L$ ]
として認めてもらうよう願い出た。項羽もこの辺で和睦したいと考え、
# F* L" G# R+ n3 B; s0 zそのことを亜父(父に亜ぐ者)として一目おいている范増に相談した。し& t( G; S1 ?9 D
かし范増は反対した。$ n( W( S7 c( @; B1 R Q; T4 z. A
' k/ M- U0 Y# G7 {- `* F& q 「それはいけません。今こそ漢は御しやすい時です。
, w3 o1 j" [' q- R) D3 U6 B ここで討ち取らなければ、必ず後悔しますぞ。」* u5 ?/ ^+ N% o
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この反対にあって、項羽もその気になり、急にケイ陽を包囲した。さ% ]" W6 I" [5 h& I
あ困ったのは漢王である。しかしここに陳平という人物がいて、一策を
& M8 n4 n/ ~ i" J5 k' _1 h計ることになった。陳平はかつて項羽の臣であったが、後に漢王の下に
$ G: g- ]% G* C- i走った人で、智略にすぐれていた。彼は項羽の気短かで早合点する気質6 v0 _4 p7 ?. M+ S$ x- N0 O, ~
を身をもって知っていたから、項羽と范増の間を割けばよいと考えた。5 A. c4 `& f: n* U2 \/ w& r# K% [
まず部下の者をやって楚軍の中に「范増は論功行賞のないことを怨み、% @/ F% ^4 T, i, e! D, G9 E9 M
項羽にはナイショでひそかに漢と通じているのだ」というデマを飛ばさ
+ y8 a% x2 v1 e |% A, s3 d( @8 u3 Dせた。
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3 d& G! T+ H$ ^* N3 W, w0 s$ ? 単純な項羽はそれだけで動揺し、今度は范増にナイショで、講和の使% g, A1 \' M! i) B* m7 O3 O
者を漢王の所へ寄こした。陳平は張良ら漢の首脳とともに、慇懃丁重に
V- F: [3 l j4 ^: }, n使者を迎えた。また牛や羊や豚の肉をまぜた飛び切り上等の料理を出し$ a8 o3 a9 ]. _9 V9 [& Y: k) {
て厚くもてなした。そして何げなく、- u* q! p/ P! L5 I9 @+ |3 d
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「亜父はお元気ですか」と聞いた。; {, z, w+ `* x2 x) m% d. T) w
使者は第一に范増のことを聞かれたので、いささかむっとして、! _: q$ @# y$ d5 t3 X0 Z; y( A4 F
「私は項王の使者として参ったのです。」
8 u6 Q3 w/ D1 y2 a, c% f2 ]" e, _ と言い返した。すると陳平はわざとびっくり仰天して、+ j" T1 S$ M) R, ^4 N8 |# [- Q0 {
「なあんだ、項王の使者か。
& ?8 e1 }: `- d3 u7 { 私はまたすっかり亜父の使者だと思っていたのに。」
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陳平はいまいましそうに一旦出した料理をしまわせ、お粗末な食事に
& v4 E n; H2 ~/ \) P+ J変えさせて、そのまま退出してしまった。
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8 U) M6 [* {) r- S; I% O8 P この事を聞いてカッとなった項羽は、その鉾先を范増に向け、漢と内7 O& h) L" s$ M4 c# N' c
通しているに違いないと判断し、范増に与えた権力を奪ってしまった。9 _% y3 A" H w* ~7 n
范増は激怒した。
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「天下の大勢は定まったも同然ですから、王御自身でおやりなさい。
! e9 N' Z1 S- M7 h5 N 私は骸骨を乞うて民間にうずもれることにしましょう。」/ e, T0 z" f6 {3 f( {
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項羽は直ちにこれを認め、愚かにも陳平の策略にかかって、唯一の智' {" A* Z* |. y1 A7 E
将を失った。范増は楚都彭城(江蘇省徐州)に帰ろうとしていたが、途中( W# k3 S. R4 p- D7 `. N0 o3 n
激怒が過ぎたのか、背中に疽(悪性のはれもの)ができ、七十五歳で死ん) g% N) k0 L7 ?
だという。 v' X) ?( P- L7 h1 b
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4 |0 O1 T0 C2 |- d1 f 以上は普通「骸骨を乞う」の出典と見なされる『史記』の「項羽本紀」
9 M. k+ a# ~* U+ [1 K, p+ eによったものだが、原文は「骸骨を賜いて卒伍(平民)に帰せん」となっ
- _8 V6 T/ K5 p& ~$ {: jている。「乞う」という文字が見えるのは、『晏氏春秋』や『史記』の* W8 u6 t1 n. S9 V: m4 N' u
「平津候伝」などであるが、ここでは不問にふしておく。
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- F/ N% V, _: ?. P6 j0 N S 「骸骨を乞う」というのは、自分の一身は主君に捧げたものだが、そ+ v; k) X2 V K) ^+ d6 |% Q. l
のムクロを自分に下げ渡して欲しい、ということで、結局「老臣が辞職: {! a& l; t: D' f3 R5 r4 U
を乞うこと」「役人が辞職を願い出ること」を意味する。 |
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