|
楼主 |
发表于 2006-5-13 14:48:26
|
显示全部楼层
琼瑶の小説「心有千千結」日本語拙訳です。
中国語の原作を、お持ちの方は較べてください。自然な日本語にするとこんな感じになります。
途中間違いが有りましたら私の能力不足です(^^;
「心有千千結」
第1章
午後の日差しが長い病院の廊下を照らしていた。江雨薇は不安な気持ちを鎮めようとことさらしっかりとした大きな足どりで階段を上り廊下を進み、やがて212号室のドアの前で立ち止まった。
「面会謝絶」の札がかけられたドアの中からなにやら怒鳴り声が聞こえる。彼女はしばらくじっと佇んでいたがやがて肩まである髪を整えナース帽をかぶりなおした。
この病室の患者はいったいどんな厄介者なのかしら。付き添い看護婦を3年やってきていろいろな患者にでくわしそのあしらい方も覚えた。彼女の「雇用主」であるたいていの患者にはもう臆すこともない。けれど今回だけはあのよく出来た婦長の大変な困りようが気になる。彼女は助けを請うように江雨薇に言ったのだ。
「江雨薇、212号室の耿おじいちゃんたった三日で付き添い看護婦をとうとう 11人もクビにしちゃったわ、もうたのみの綱はあなただけよ」
三日で11人!江雨薇はおもわず首を振った。耿克毅。きっとこの老人は顎で人を使うようなひどく傲慢な爺いに違いないわ。金持ちの習性ね。でもなんにしろここで逃げ出すわけには行かない。江雨薇、なんで貴女はよりによってこんな因果を職業を選んじゃったのかしらね。
ため息をつくと彼女はしっかりと前を向き顎を心もちつきだした。そうして勇気とパワーを取り入れるかのように。深呼吸を一回、なんとか自然な笑みが浮かんできた。あたしが12人目ってわけね。どうなることやら。笑みを保ちつつドアをノックした。返ってきたのは荒っぽい怒鳴り声。
「どこのくそったれか知らんがさっさと入れ!」
たいした歓迎だわ。江雨薇はおもわず苦笑した。ドアを開けて室内へ入ると一人の老人が車イスに座りこちらを背にして窓のほうを向いている。彼女の目にとびこんだのは老人のくしゃくしゃの白髪頭。老人のそばでは着飾った人妻らしき若い女が困り果てはれものにさわるように付き添っている。新しい看護婦の出現に彼女はようやくのお役御免と安心したかすぐさま老人にその事を告げた。老人は口をひらいた。
「なにもんだと」
人をすくませ威圧する声。江雨薇はかまわず微笑んだまま答えた。
「あなたの12番目がまいりましたわ」
いきなり老人は車イスごと身体を彼女のほうに向け彼女をにらみつけた。それは江雨薇がこれまで出会った事のない鋭いまなざしだった。相手を射すくめる眼光から凍てつくような冷たさが感じられた。その表情は今にも雷を落とさんばかりに険しい。
「なんだと」
老人は大声で怒鳴った。
「あなたの12番目と申し上げたのですわ」
江雨薇は明瞭に答えた。老人のものすごいけんまくにもひるむどころか彼女は却っておかしさを覚え始めていた。まあ本当、まさに怪物おじいちゃんね。
笑みが彼女の顔全体に広がっていった。
「聞くところによればあなたはたった三日で11人の付き添い看護婦を取り替え たそうですね。私でちょうど12人。もし私も追っ払ったらちょうどまとめて1ダース達成ですわ」
彼女は答えそして笑った。老人はあっけにとられたように頑固そうな太い眉を寄せ、厳しい目つきでうさんくそうに彼女を睨んだ。
「ふん」
老人は吼えた。
「お前はわしに追い出されると決めてるみたいだな」
「そうですわね」
彼女はうなづいた。
「私はあなたの言いなりになる気はありませんから」
「はっ!おい聞いたか!」
老人は傍らの若い女に唸った。
「この看護婦はいきなりわしを脅かしやがる」
女は江雨薇をじろりと一瞥すると媚びるように老人にすり寄った。
「パパ、いやならこんなのまた取り替えちゃえばいいのよ」
江雨薇もそれこそ願ったりだ。
「わかりました、それじゃ13番目の犠牲者を呼んできますわ」
「待て!」
老人が大声で叫んだ。出ていこうとした江雨薇は振り返った。老人がにらみつけている。
「わしの面倒見させられるのはとんでもない不運ってわけか」\
老人は尋ねた。
「ええ。少なくとも先の11人はそう申してますわ」
江雨薇は笑みを崩さずあっけらかんと答えた。老人は頭をかしげ横目で江雨薇を見た。そしてにわかに悪ガキのようないたずらっぽい笑みを口の端に浮かべた。
「よしわかった。12番目、お前はわしを一目見て見放したくなったらしいな。 そうさ楽じゃないぞ。だが13番目はいらん。その不運な犠牲者はお前の役だ」\
江雨薇の眉がかすかに動いたがやはり笑んだまま答えた。
「お決めになりましたの」
「そうだ」老人は怒ったように言った。
「ではそうするよりありませんわね」
江雨薇は肩をすぼめて仕方がないという顔をした。
「但しいつでも追っ払っていただいてかまいませんわ。それに私も」
江雨薇はそっと含み笑いをした。
「始めにお断りしておきますがあなたのわがままに耐えられなくなったら いつでも辞めさせていただきますから」
「なんてこった」
老人はうめいた。
「まだ脅かしやがる」
「脅かしじゃありませんわ」
彼女はひそみ笑いした。
「言いなりになる気はないと申し上げましたわね。後悔するなら今のうちです わ」
「後悔だと」
老人は目を剥き鼻息も荒くわめいた。
「わしに後悔なんぞない。たとえなんであれ自分で決めた事に後悔はせんぞ。わ しから逃げようなんて了見は起こすんじゃない、今からお前はわしだけの看護婦だ。わかったか」
「はいはい。どうやらそうするしかないようですわね」
江雨薇が老人に近寄り口をとがらすと小さなえくぼが現れた。
「仕事もよっぽど考えて選ばないといけませんわね。じゃあおじいちゃんもしも私の間違いでなければこれから歩行の訓練ですけどよろしうございますかしら?」
言うが早いか彼女は壁にかけてあった老人の杖を持った。
「では早速まいりましょうか」
老人はすが目で彼女を見やるとだんだんと狡猾な表情が消えていった。突然顔をあげると笑い出した。それがあまりに唐突だったので横にいた若い女は跳び上がった。女はあわてて老人に尋ねた。
「なにがおかしいのパパ、どうしちゃったの?」
老人は笑い続け、その視線は女を押しのけて江雨薇に注がれた。
「この耿克毅、お前のようなのに出会ったのも一生に一度の不覚だな、12番、入ってきたとたんわしに命令するとは。さからっても無駄なようだ」
老人は車椅子の手すりを叩いた。
「その調子でしっかりわしの世話をつとめあげるんだぞ」
江雨薇も笑みを返した。やれやれどうやら13番は頼まなくていいようね。それにしても先が思いやられちゃうわ、彼女はため息をついた。だが彼女はその時まだ老人がいかに慎重に彼女を観察してるかに気づかなかった。彼女はなぜか頬が赤くなり妙に胸さわぎするのを感じた。
「よし」
老人は真顔に戻ると彼女を上から下までまるで商品を値踏みするように眺めた。そしてようやく得心したのかこう尋ねた。
「他に名前があるなら言ってみろ、12番」
「ございますわ」
彼女は微笑んだ。
「江雨薇と申します。雨に咲く薔薇です」
「江雨薇か」
老人は噛みしめるようにつぶやいた。
「悪くない名前じゃな、だがしおらし過ぎる。似あっとらん」
老人は眉じりを上げるとくるりと向きを変え若い女に冷淡に告げた。
「美珂、お前は帰れ。もう用はない」
女は肩の荷が降りたようにほっとため息をついたがすぐに愛想笑いを浮かべた。
「じゃあ明日は培華と一緒に来るわね」
「もういい、もういい!」
老人は追い払うように手を振った。
「お前らには来ていらん。わしにはすでに看護婦もいるしな。心配はいらん。わしは当分死なんし御機嫌とりもたくさんだ」
「パパったら!」
人妻はすこぶる不満のようすでじろりと江雨薇をにらんだ。
「どうしてそんなこと言うの、あたし達はただ・・」
「お前らの考えはわかっとる!」
老人は女の言葉をさえぎったがすぐ柔和な顔に戻った。
「よいよい、お前は2時間もわしの近くで針のむしろに座ったんだからもう十分だ。これ以上我慢せんでいい。さあ帰んなさい」
女は唇を噛んだ。江雨薇は彼女の目に浮かんだかすかな恨みの光を見逃さなかった。この時はじめて江雨薇は彼女をまじまじ観察した。
パーマのかかった短い髪、濃く塗られた眉、美しいと言ってよい瞳、均整のとれた身体、誂えられた旗袍(チーパオ)はピンク地に淡いブルーの縁取りがしつらえられ、女は全身から裕福さを漂わせていた。しかしその裕福の正体は傲慢と卑俗。金持ちの娘という看板をまるで鼻からぶら下げているかのよう。
江雨薇は老人と女の間にかすかな葛藤があるのを敏感に感じとった。三年間、付き添い看護婦をやってきて様々な人間に出会った。わかったのは人と人の奇妙で複雑な関係においてなにがあっても不思議ではないということだ。
「わかったわ」
女はハンドバッグを手にすると憤然と鎌首をもたげてその大きな目で冷たく江雨薇を見据えた。
「じゃあ後はよろしくお願いしますわね江さん、父をおまかせしますから間違っても粗相のないように」
「安心しろ」
老人は横から口を出した。
「この子なら毒を盛ったりせんだろうからな」
女は一瞬唖然として何か言いかけたが遂に無言で部屋を出ていった。江雨薇はドアを閉めると自らの雇用主に向き直った。
「娘さんに冷たすぎるんじゃありませんか」
彼女は素直に述べた。
「娘だと」
老人は鼻で笑った。
「おかげさまでそんなもんはおらんよ。美珂は息子の嫁だ。わしが死ぬのが待ちきれんらしい」
江雨薇はまっすぐ老人を見つめた。
「あなたは誰にでもそんな憎まれ口をきかれるんですか」
老人は厳しい目で見返した。
「どうしてだ」
彼は反問した。
「わしを責めるのか」
「私が?」
江雨薇は含み笑いした。
「私はあなたに雇われただけですわ、責める権利なんてありません」
「もうとっくに責めてやがる」
老人は言い放った。
「お前の顔も態度も全部わしを非難しておる。こんな爺は嫌いだろうが」
「私は付き添い看護婦としての職務を全うするだけです。御主人様を好きか嫌いかは関係ありません」
「お利口な答えだな」
老人はふんと鼻をならすとますます眼光を鋭くして彼女の目をのぞきこんだ。
「わしは気が短いんだ、いい加減むかついてきたぞ」
「私をクビにするならまだ間に合いますわよ」
「いいや」
老人はゆっくり首を振った。
「そんなことは考えるな。わしはもう決めたんだ。さあ」
老人はいらつくように大声で言った。
「なにをぼやぼやしとる、仕事をはじめろ、わしを立ち上がらせるんだ、一生こんな車椅子の上なんてまっぴらだ」
江雨薇は進み出るとステッキを老人に手渡した。立ち上がるのを助けようと彼女が老人と視線をあわした時彼女はふっと当惑を感じた。なぜならその酷薄な老人の目の奥に意外なぬくもりを見たからだ。だが彼女がそれをたしかめようとした時そのぬくもりは再び氷のような冷酷さへ変わっていた。
「もっと肩をこっちへ近づけんか」
老人は命令した。彼女はさらにそばへ寄り老人に肩を貸した。苦労して立ち上がり杖に力をこめて老人はようやく身体を動かし、そして大声で呪いの言葉を吐いた。江雨薇は老人の腕を支えながらそのあまりのか細さに驚いていた。もしやこの老人の体力は今まさに失われようとしているのでは。それなのにこの眼差しから感じられる生命力の強さはどうだろう。
「ぼさっとするな」
老人は特に彼女に聞かせるためでもなくしゃがれ声でつぶやいた。
「もって後1年。医者がはっきり言いおったわ」
彼女はおもわず顔を上げて老人を見つめた。その言葉の真偽をたしかめようと。老人の眼はそれが冗談でないことを告げていた。
「だがたとえ一ケ月だろうと寝たきりになんぞなってたまるか」
老人は彼女に促した。
「わかったか、だからわしを支えろ、ちゃんと歩けるようにな」
彼女の介助する手に力がこめられた。しばらく彼女は動転し言葉を失っていた。これまで色々な患者に出会ったがこれほど・・耿克毅のようにこれほど強い印象を与える患者は初めてだった。彼女は一歩づつ老人に寄り添い歩いた。
それは生きる為というよりむしろ死への道を一筋に進んでいるようだった。だが彼女は感じていた。老人にとってはもはや立ち止まる事は許されず歩き続けるしかないことを。
第2章
江雨薇は椅子に腰かけ老人の寝ている姿をじっと眺めていた。彼女が老人の担当になって二日目の午後である。
彼女はすでに黄医師と婦長から老人の病状を聞いていた。老人のベッドの上には掛けられた札には簡単にこう記されてある。
<耿克毅、河北出身、68歳、男性、病名:両足麻痺>
だが老人の本当の病名は「心臓動脈腫瘍及び肝硬変」。四日前に老人は別の大病院からここへ移送されてきたのだ。老人はその病院が台北でも最高級であるにかかわらずその設備をこき下ろし病室が最低だとさんざんけなした。老人はそこで半月以上治療を受けかなり回復していたという。老人は自ら余命1年以内と告げた。しかしまた老人は誰もが驚くような速さで歩行能力を回復していた。黄医師は理解できないという風に言った。
「どんな医師でも治せやしないよ。よしんばつかのま歩けるようになっても それからいったいどれだけもつっていうんだ」
江雨薇だけは深く理解していた。たとえ一日でも一時間でも一分でも老人は歩く権利を取り戻そうとしていたのだ。永遠にくじけず屈さない、老人はそういう人間なのだろう。
老人は眠っていた。午前中いっぱい要した注射と服薬、物理治療、電気治療・・それら諸々は人を疲れ果てさせるには充分だ。さらに老人はその間じゅうずっと治療にあたった医師とその現代医術を罵り続けた。そして自分の自由にならない両足を罵り車椅子を罵りおまけに口のへらない生意気なこの付き添い看護婦を罵った。
さすがに疲れ夢のあいだをさまよう老人であったがいったいどんな夢を見ていることであろう。その表情は穏やかと言うにはほど遠く苦しげに眉はつり上がり口は堅く結ばれ肌は堅くこわばり、老人が悪夢をさまよっていることをはっきりと示していた。あるいは老人が潜在意識下で死の恐怖と戦っているのだろうか。もしやそうなのかも。老人の寝顔にはただものならぬ苦悩と孤独が滲んでいた。
彼女はぼんやりとその顔をみながら考えた。この数年付き添ってきたのはよほどの重病人かあるいは金持ちの患者。それゆえ患者のたどる道はいつも二つだ。一つは無事退院。もう一つは霊安室。そして耿老人はどちらをたどるのだろう。黄医師はこう言った。
「彼の足がもう少しよくなったら退院できる。それから注射と投薬を続けて療養するわけだがおそらく一年以内にいつ「その日」が来てもおかしくない」
彼女は老人が早く退院してくれる事を願った。霊安室で老人と相対するのだけはとにかく避けたかった。なぜだろう、これまで少なからぬ数の臨終に居合わせ人が死に翻弄されるのを眺めそして誰もが遂に霊安室へと向かった。看護婦になりたての頃患者の死に出会うたび食事は喉を通らず心苛まれ吐き気に襲われ患者の家族と共に泣いた。そしていつしか彼女もそれに慣れ動揺することもなくなった。彼女は悟ったのだ。死は誰にもいつかはやってくる。逃れる術はないと。
けれどこの老人の死だけはなぜそうして受け入れる事が出来ないのだろう。彼女にはどうしても理解できなかった。なぜ?
老人は寝返りをうつと軽い寝息をたてた。今は熟睡しているのか表情から凶暴さは消え穏やかな好々爺のようだ。季節も秋を迎えたが依然暑く額には汗の粒が浮かんでいる。江雨薇はそっと立ち上がるとテーブルの上のガーゼを取り額の汗を静かに拭いた。かすかな感触だったが老人はそれをきっかけに急に寝返りをうつと二文字の単語を口にした。
「若成・・・」
若成?いったいなんの名前かしら。人?会社?あるいはもっと他のなにか?江雨薇は老人を見つめ直した。老人の穏やかだった寝顔にしだいに不安の色が広がっていく。表情はゆがみ痩せた指先はシーツをかく。老人は不明瞭なつぶやきを苦しそうに洩らしたが彼女がようやく聞き取れたわずかな数語は呪詛の言葉だった。
「この馬鹿め・・くそったれ・・たわけもんが・・・」
まあ、夢でも罵ることを忘れないのね。江雨薇は思わず苦笑した。しかし老人は身体を一瞬痙攣させたかと思うと突然大きく叫んだ。まるで傷ついた野獣が悲しげに咆哮するように。
「若成!」
その一声はあまりに明瞭でしかもすさまじく江雨薇をひどく驚かした。だが彼女があわてて近づくと老人の顔は再び静かな眠りのそれへと戻った。そして今度はやさしくささやくようにつぶやいた。
「シァオシァ、行かないでくれ、おねがいだ・・」
シァオシァ??小佳かしら?彼女は身も知らぬ誰かに思いをめぐらしつつやはり老人の顔を眺め続けた。今度はいったい誰なの。行かないでくれだなんてこの性格強固な老人に言わせるなんて。夢の中でかつての恋を思い出しているのかしら。もちろん恋の一つもしない人なんているはずもないけれど。彼女はぼんやりとそう考えた。
その時老人はあくびを一つすると突然目覚めた。老人は瞼を開け一瞬視線を泳がせたがすぐに江雨薇を認めると頭をふりながらぶつぶつといつもの調子でつぶやいた。
「・・お前はどこのくそったれだ?」
江雨薇はあきれた。やれやれ目が覚めたらいきなりこれだわ。おまけに彼女が誰だったかまで忘れてしまうなんて。彼女は小さく息を吸い込むとおだやかに微笑みかけた。
「お忘れですか。あなたの12番目ですわ」
「12番目」
老人は目を見開きようやく気がついたようだ。
「そうだ、お前はあのへんてこな看護婦だったな」
彼女は婉然と微笑むと身を翻し浴室に入りタオル手にしてきた。特等病室なのでほとんど一流ホテルと変わらない。
「よく眠ってらっしゃいましたわ」
彼女はタオルを老人に手渡すとベッドから身を起こすのを助けた。
「少なくとも2時間はお休みでした。睡眠はあなたの場合とても大切です」
彼女は笑んだまま続けた。
「夢の中でも怒鳴るのを忘れませんのね」
老人はぎょろりと彼女を睨んだ。
「寝言でも言ったか」
「ええ」
彼女ははじけるように笑った。
「まるで子供みたいに」
「ふん」
老人は鼻をならすと戒めるように言った。
「わしを子供扱いするんじゃない」
「あれもいけないこれもいけないが多すぎますわ」
彼女はシーツを整えながらやはり笑いながら答えた。
「あなたのような我が儘な病人は初めてです。本当にあなたのまわりの人で癇癪玉をぶつけられない人はいるのかしら」
「わしの精神分析でもしたいか」
老人はさらに眼光を増して彼女を見据えた。
「言っとくがわしについてきれい事のごたくを見つけようたって無駄だぞ。わしは人ぞ知る極悪爺いだからな」
「そう思いこんでおられるだけじゃありませんの」
江雨薇は素直に思ったままを言った。
「思いこむとはどういうことだ」
「誰でも必ずひとつは心やさしくなれるなにかを持っているものですわ」
老人の濃い眉の下の目が獰猛に光った。
「聞いたふうな事ぬかすな。わしのどこにそんな甘ったるいもんがある」
彼女は頭を上げるとにこりと笑った。
「小嘉(シァオシァ)さんてどなたですの?」
突然老人の眼が冷たく光り刃のように彼女を貫いた。まるで殺意さえ感じられるほどに。
「なんでその名前を知っている」
彼女は一瞬ひるんだがすぐに毅然と答えた。
「あなたが自分でおっしゃいました」
「わしが言っただと」
老人は吼えた。
「ええ、寝言でその名前を口にされましたわ」
彼女はじっと老人の目を見据えて答えた。
「寝言?」
老人はしばし呆然とすると首をかしげ信じられないとでも言いたげに彼女を見た。しだいに表情から凶暴さは薄れ元のやつれた老人らしさがとって現れた。
「馬鹿馬鹿しい」
老人は吐き捨てるように言った
「うわ言を真に受けるんじゃない」
「あら、夢は正直ですわ」
すかさず彼女は反論した。老人はもういちど彼女をにらみつけた。
「このくそたわけのばかもんが」
老人は吼えた。
「なんでお前みたいなのを付き添いに選んじまったんだ」
「いつでもクビになさってくださいな」
「ふん」
老人は一言大きく唸ると窓の向こうに目を移した。戸外の陽光を眺めながらひととき考え事をしていたがやがて彼女を見て探りを入れるように尋ねた。
「他になにか言ったか、わしは」
「人を罵ってましたわ」
彼女は答えた。
「はっ」
老人は当然という顔をした。
「罵り足りることはないからな」
「それからもう一言・・・若成・・と」
そう言った瞬間だった。老人は青ざめたちまち凶暴な形相に変わると手を伸ばし彼女の腕を掴んだ。その手には信じられないほどの力がこめられ彼女は腕に焼けるような痛みを感じた。そして取って食わんばかりの激しさで彼女に向かって罵りたてた。
「誰がその名前を口にして良いと言った!ええ誰だ!もしもういちどその名前をわしの前で言ってみろお前を八つ裂きにしてやる!わかったかこの馬鹿野郎!くそったれが!ぶち殺すぞ!・・」
まるで潮のように老人の口からはとめどなく罵詈雑言が吐き出された。その形相は凶暴で血の気がなく江雨薇は驚きと恐怖と怒りにうちのめされた。それは彼女にとって忍耐の限度をはるかに越えるものだった。何年か看護婦をしてきてこれほどの侮辱を味わったことはなかった。彼女はどうにか手をふりほどき逃れたが身体の震えと動揺は収まらなかった。
「あなたはまるで野獣ですわ・・私はもう・・」
彼女が「辞めます」と叫ぼうとしたまさにその時、ドアを叩く音がした。よかった、たぶん回診の時間だわ。彼女は医師にありのままを話そうと思った。この老人は身体以外に精神に異常があるに違いない、いえもうほとんどキじるしだわ。
しかし彼女が急いでドアを開けるとそこにいたのは医師でなく身だしなみ良く背広を着た二人の中年の男性だった。
「あっ」
彼女は言いかけた言葉をのみこむと看護婦の職業本能で無意識に答えていた。
「耿さんは面会謝絶です」
「私たちは客ではありませんよ」
背の高いほうの一人が微笑して言った。
「耿克毅の息子です」
「あっ、はい」
江雨薇はあわてて身をひくと二人を招き入れた。まださっきの恐ろしいショックから醒めやらぬ彼女だったがたちまちまた耿克毅のあの罵声にみまわれるはめになった。
「ふん、親孝行な息子ども。何の用だ」
「お父さん」
背の高いほうが腰をかがめ近づいた。
「ご機嫌如何です。なにかまたお気にさわることでもありましたか?」
「お前らの知ったこっちゃない」
老人は冷たく言い放つと彼らに背中を向けた。
「培中、培華、少しでもわしを思いやる頭があるならわしにかまうな。静かにすごさせろ。わしはお前たちの顔もお前の嫁たちも見たくはない」
のっぽのほう_耿培中_は歳の頃四十、鼻筋とおった美男だった、彼は上品に微笑むと振り向いて言った。
「わかりました。培華、それじゃあ行こうか。無理に居座ってもお気に召されないなら仕方がない。お父さん。くれぐれもお大事に。」
「安心しろ、わしはまだ死にきれん」
老人は陰々滅々と答えた。
「お父さん」
もう一人_耿培華_が口を開いた。彼は兄より背も低くまた太っていて、そして兄ほどの自制心もないらしかった。
「父さんはどうして僕たちのところへ来て一緒に暮らさないんだよ」
「早く出ていけ」
老人は振り向きもせず手を振った。
「わしの邪魔をするな、わしはもう眠るぞ」
「わかったよ」
培華はベッドのそばで憤懣やるかたなく言い放った。
「行くさ、俺たちはいやがられるだけだ。どうせ父さんのお気に入りは若成だけなんだろ!」
電光石火の速さで老人はふりむいた。江雨薇がいったい何事が起こったのかを認める間もなく鋭いビンタの音が響いた。老人が培華を殴りつけていたのだ。耿培中はすばやく培華を引き寄せひそひそとささやいた。
「培華、辛抱しろってあれほど言ったじゃないか・・」
兄弟二人はさっさと出て行きドアは再びぴしゃりと閉められた。江雨薇はそこに佇んだまましばらく呆然としていた。息子が二人慌ただしく見舞いに来て帰った。まさに一瞬!こんな家庭、こんな親子関係があっていいのだろうか。やがて彼女はたった数分前に老人からひどい侮辱を受けた事を思いだした。彼女は振り返り耿克毅を見た。辞めますという言葉は喉まで出かかっていた。しかし彼女は新たな局面に出くわし激しく驚いた。あの冷酷、頑固で非情きわまりない筈の老人が今は枕に顔を埋め弱々しく打ちひしがれているのだ。その両眼には涙さえ光っている。泣いてるんだわ。泣いてる。それはなによりも江雨薇を驚かせた。この鬼のような老人の眼にまさか涙を見るなんて。彼女はベッドに近寄り身をかがめると急いで尋ねた。
「耿さん、大丈夫ですか」
老人は身震いを一つすると彼女を見上げた。老人のその眼の奥にはただ真摯さと辛労とそして悲しみがあった。
「辞めないでくれ・・」
老人はかすれ声で言った。
「ここにいてくれ・・わしらは仲良くやれる筈だ」
老人は彼女の気持ちを見通していたのだろうか。彼女はそっとシーツを軽くなでつけるふりをした。
「辞めるだなんて・・誰がそんなことを?」
彼女は口ごもりつつ答えた。彼女は少し視線をさまよわせたが次ぎに発せられた声には決意が込められていた。
「さあ歩行練習ですわ。もし一生車椅子のままがお嫌でしたら!」
老人が彼女を見た時すでにその眼から涙は消え、彼は再び頑強きわまりない鉄の老人に戻っていた。その口元には一種賞賛の笑みさえ見られた。______
老人は愛おしささえ込めて言った。
「わしの娘になれ」
「はい?」
彼女はぽかんとした。
「お前をわしの娘にすることにした」
老人はにんまり笑った。
「あらら」
彼女はやれやれと言うように
「そうするとまた私にいっぱい憎まれ口をたたくことができますものね」
二人は眼をあわせるとどちらともなく笑い出した。
「口のへらん奴だ」
老人はそう言うと手を彼女にさしのべた。
「さっ手を貸せ起きるぞ」
その日はそうして和やかに過ぎた。彼女は再び老人の家庭とそして”若成”の謎には触れなかった。夜になり彼女は夜勤担当の付き添い看護婦に引き継いだ。(まったく、彼女は毎晩別の看護婦を頼まなければいけなかったのだ)
彼女はようやく212号室を後にした。
言いようのない疲労と気分を抱えて彼女はゆっくりと長い廊下を通り階段に向かった。その廊下のつきあたり階段のそばに置かれたソファーに一人の若い男が座っていた。彼は突然立ち上がると彼女の前に立ちはだかった。
彼女は驚きその見知らぬ男を見据えた、背はすらりと高く、瞳は光を放ち、黒い髪はくしゃくしゃだが鼻筋は通り唇は薄く意志の強さを示していた。そり残しの顎髭と開いたシャツの襟、破れた古いGジャン、洗いざらして白くなったGパン。身なりのだらしなさと、いかにもきかん気の顔だちにかかわらずかえってそれが独特の男っぽさを漂わせていた。
「なにか?」
彼女はいぶかしげに尋ねた。
「あんただね、耿克毅の付き添いをしてるのは」
彼は尋ねた。
「ええ」
「彼の病気はどんな具合だ。それだけ教えてくれ」
若い男は彼女に向かいぶっきらぼうに聞いた。
「あなたはどなたです」
「俺が誰だっていいじゃないか!教えろよ」
唇を噛んだ若い男の眼に一抹の影があった。
「彼は死ぬのか」
「あなた・・」
彼女はためらいつつ答えた。
「お知りになりたければ主治医の先生におたずねになってください。私よりもご存じですわ」
「でもあんたもおおよそは知ってる筈だ、そうだろ」
彼は荒々しく言うと非常な剣幕でせきたてた。
「今は良好です、でも・・おそらく一年以内の命だとか・・」
有無を言わさぬ彼の気迫に彼女は抗しきれないまま真実を述べた。彼は一瞬打ち震えるとすばやく彼女に背を向けた。彼女は彼が手の甲を口に持ってゆき噛みしめるのを見てとった。彼の身体はこわばり震えた。まるで激しいショックを受けたかのように。けれどすぐに向き直ると青ざめた顔色以外いかなる動揺も見いだせなかった。
「ありがとう看護婦さん」
かすれた無愛想な声で彼は言った。
「俺が来たことは言わないでくれ。喜ばれやしないからな」
「でも・・あなたはいったい誰?」
彼はじっと彼女を見た。彼のその眼差しは沈み謎を秘め、寂寞と空虚と凄惨で満たされていた。
「名無しのゴンベさ」
彼はぽつりと答えた。
「ええ?どういうこと?」
彼女は眼を丸くして聞き返した。
「もしも呼びたけりゃ”若塵”と呼んでくれ。字はゴミ同然て意味の塵さ。わかるかい。なんの値打ちもなけりゃ重みもない。風に吹かれて飛んでゆきそれでオシマイって意味さ。」
彼は自嘲の笑いをうかべるとまた言った。
「あんたには感謝するよ」
振り向くと彼はまたたくまに階段を駆け下りやがて見えなくなった。彼女はそこへ佇んでいた。若成・・ルオチェン・・若塵・・やはりルオチェン。この不思議な名前の一致は?今まで彼女は”若成”だと思っていたが本当は”若塵”なのかも。まるでゴミ同然・・。あなたはいったい誰?耿一家!不思議な老人!彼女がこの職について以来始めて知る変わった人物であることに間違いはない。
第3章
「夕べの看護婦はわしを殺そうとしやがった」
耿克毅は車椅子に座って吼えた。
「でくのぼうのとんまめ、あいつはお前の教えたことをちっともわかっとらん、まったくお前たちは何年看護婦の訓練をしてきた。いったいどうやればあんなできそこないができるんだ。一昨日の奴なんぞわしがほんのちょっと怒鳴っただけでいきなり泣き出しやがるし」
江雨薇はベッドの整理をしながら背中で聞いていたが老人に向き直ると言った。
「看護婦は普通の患者さんを想定して訓練しますわ、あなたのような方は例外です、耿さん」
「要するにわしのほうが異常だって言うことか」
「そうじゃありません、あなたは例外だということです」
「どう例外なんだ」
「ご自分でおわかりになりませんの」
彼女は少し考え込んでから言った。
「短気で怒りっぽくて神経質で強情で傍若無人でむらっ気で近寄り難い。こういう人には大概の者は辛抱できません。決して彼女らを責めないでください。いじめられるのを我慢するのは業務外ですわ」
「おいおい」
老人はほとんど白目を剥いた。
「人を暴君扱いしやがる」
「そう言ってもいいかもしれません」
彼女は少し考えた。
「誰でも自分の心の王国では暴君でかまいません。けれど王国を一歩出ればもうその権利はなくなります」
老人はまるで不思議なものでも見るように彼女を見つめた。やがてしばらく黙って考えこむと車椅子をくるりと動かし窓に向かいそっとつぶやいた。
「変わった女だなお前さんは。ユニークきわまりない」
「別にユニークじゃありませんわ」
彼女はおかしそうに答えた。
「普通よりはちょっとしぶといでしょうけど。くじけるのが嫌なだけなんです」
「だからわしをこらしめるってわけだな」
「どうしてです?」
彼女は眉をしかめた。
「あなたは絶対にくじけるような人ではありません。あなたの担当を勤めるのは私にとってこの仕事を続ける上でのひとつの試練でもあります」
「それに他につとまる者もおらんしな」
「そういうことです」
老人は窓のところからとってかえすと彼女が慣れた手つきでシーツを取り替えるのを、彼女が忙しげに部屋を片づけるのを見守った。それから老人は彼女の溌剌として意志が強く機知にあふれた面立ちを見やった。聡明で表現力豊かな瞳、小さくよく動く口、細長い眉、ちょこんとした鼻、頬のえくぼ・・老人はその時初めてこのへんてこな看護婦が人をして振り返らせるほどの魅力を備えていることに気づいたのだ。老人はふいに笑って言った。
「お前さんもやっぱり自分自身の王国じゃ暴君なのかね」
「私ですか?」
彼女は少しぽかんとしたがすぐに眼差しを伏せた。
「私の世界なんてあまりにちっぽけです。暴君が住むほどの値打ちもありません」
「ちっぽけでくその値打ちもないだと」
老人は彼女を見つめた。
「そんな事はあるまい。お前みたいな良くできた娘ならもっと大きな可能性が
あるはずだ」
彼女は老人の言葉が意味するところに感づくと少し頬を赤らめてうなづいた。
「ええ、おっしゃるように私も大きな望みがありますわ。でもそれはやはり自分
の思い通りにはなりません」
「わしが保証してやろう、いつかどこかの若いのがお前さんの王国を独り占め
にしようとやって来る筈だ」
老人は笑った。
「それともとっくにのさばっとるか」
江雨薇は儀礼的な笑みをかえした。
「では耿さん、お話しが長くなりましたがそろそろ治療室に向かう時間ですわ」
「まだ半時間もあるじゃないか」
老人は時計を見た。
「まだまだ話す時間はやまほどあるぞ。お前さんの彼氏はどんな奴だ、言っても減るもんじゃなかろう」
彼女は仕事をする手をぴたりと止め、老人を正面から見つめるとベッドの縁に腰をおろした。
「わかりました。私の素性をお知りになりたいのですね」
彼女は両手でスカートのひだをなでつけ老人から眼をそらし語った。
「あなたは経済界の重鎮でらっしゃいますわね耿さん。そして大富豪。私はあなたが裸一貫からここまでの地位を築かれたことを知っています」
「おいおい、そうじゃないぞ。わしはお前さん自身のことを聞きたいんだ」
老人は眉をしかめた。
「わかっています」
彼女はゆっくりうなづいた。顔からはすっと血の気がひいていくように見える。
「私の父もそうでした。同じ裸一貫から事業を興したのです。でもあなたは成功し父は失敗しました。母は私が幼い頃に世を去りましたが私と二人の弟はずっと苦労も知らず育ちました。父の事業が順調だと思いこんでいたのです。けれ
ど私が中学生になった頃、父は破産し工場は没収されました。家は競売に出され父はその痛手から立ち直れずとうとう自らの命を絶ちました。15才の私と幼い二人の弟とそして永遠に償いきれない債務を残して」
彼女はそこで言葉を切った。大きな瞳はやはり目の前の老人から視線をそらしたままだ。老人は眉をよせて彼女のまだ幼さの残る顔をじっと見つめている。
「私には悲しんでいる暇などありませんでした」
彼女は続けた。
「私は弟たちに告げました。もう甘えてはいられないと。私は看護学校に 入り夜はノート写しや謄写のバイトもしました。上の弟は毎朝自転車で新聞を 配達し下の弟はまだ幼いながら私達二人のためにご飯をつくり弁当をこしらえ
てくれました。私達は勉強を続けるためにどんな人よりも苦労しましたがかえってそれは私達の絆を強めたのです。
そうして私は学校を卒業してから迷わず付き添い看護婦になり、いろいろ様々な患者さんに接し経験を重ねました。休暇は取らず毎日残業をしたおかげで普通の付き添いよりも多くの稼ぎになりました。それでようやく弟は新聞配達を
しなくてすむようになったのです」
彼女はそこで微笑むと心持ち誇らしげに顎をすっと上げた。
「そして今、上の弟は師範大学教育課三年に在籍し下の弟はこの夏とうとう台湾大学の中国文学科に合格しました」
彼女は言い終わると老人を見た。
「これで私の全てをお話ししましたわ」
老人はじっと仔細深げに彼女を見ながら言った。
「お前と弟さん達は一緒に住んでるのか」
「いいえ弟達は学校の宿舎です。私達に部屋を借りれるお金はありません。私は病院の近くのアパートを看護婦寮にしています」
老人は彼女を見つめ続けた。
「お前は今いくつになる」
「22歳です」
彼女はすらすらと答えた。
「私と弟達とはそれぞれ2歳づつ離れています。20歳と18歳。以上。」
彼女の眼差しはいきいきと輝いていた。
「もっとお知りになりたいことがありまして?」
「好きな男の話はまだしとらんぞ」
「あはは」
彼女は小さく笑うと首をかしげしばし考えてから言った。
「笑っちゃいますけどこれまで一人も好きな人はいませんでした。きっとあんまり忙しすぎたから恋をする暇もなかったんだわ」
「しかし言い寄って来る奴はいただろう」
「あはは!」
彼女はもっと笑った。
「少なくとも1ダースくらいは」
「ろくな奴はおらんのか」
「たぶんその中の一人と結婚するかもしれませんわ」
彼女は言った。
「それが誰かまだはっきりしませんけど・・でも80%くらいは医者だと思います。」
「どうして?」
「だって看護婦と医者の夫婦。一番ありふれてるじゃありませんか」
彼女はベッドから立ち上がると突然とまどいを覚えた。いったいどうしてかしら。これまでこんな話は誰にもしたことがなかったのに、どうしてこのお爺ちゃんに?彼女の笑顔は消え眼差しは沈んだ。彼女は首を振ると小さくため息をついた。
「これぐらいでいいでしょう。私の身の上話なんて聞くだけ無駄です。さっ、治療の時間ですわ。」
老人は今度は反抗しなかった。彼女の言うがままに治療室へ向かうと注射、物理治療と続けて行った。その日の老人は素直で忍耐強く癇癪を爆発させることも咆哮することもなかった。ただじっと江雨薇を見ては考え事をして彼女を落ち着かなくさせてはいたが。日も暮れた頃彼女は老人に尋ねた。
「今日はとても大人しくてらっしゃいますのね」
「考えてな」
老人は言葉を選びつつ言った。
「たしかにわしには暴君として振る舞う権利はない。それにお前の肩の荷をこれ以上重くする必要もない」
彼女は驚きすぐに老人の顔を見た。老人の眼には最初の日に彼女が感じた慈愛と優しさの光りがあった。どうしてあの凶暴なうわべから想像できよう。彼女は身をかがめると思わず言葉が口をついて出た。
「耿さんおかまいなく。私の苦労なんてあなたの悩みに比べればとるにたりない事ですわ。癇癪おこしたければいつでもどうぞ。私ぜんぜん平気です」
老人の眼つきが沈んだ。
「なんでお前がわしの悩みを知っとる」
老人はかすれ声で唸りだした。眉が真ん中によってくる。これこそ癇癪の前ぶれだ。
「今日でもう四日間担当を勤めました。私にも眼と耳がありますからそれなりの観察は出来て当然ですわ」
彼女は老人の痩せた背中にそっと手を載せ柔らかく暖かな眼差しで見つめた。
「お悩みなのでしょう。耿さん」
「でまかせを言うな」
老人はたちまち噴火した。
「お前なんかに何がわかる」
「本当の事はわかりません」
彼女はうなづいたがもう一度繰り返した。
「それでもやっぱりわかります。あなたが苦しんでることが。事業に成功し大金持ちで子供も車も家もなにひとつ不足はない。人も羨む生活。でも・・あなたはやはり幸せそうには見えません」
老人の眼つきが厳しくなった。
「わしに説教するつもりかな。江お嬢さん」
氷のような冷たさで老人は言い放った。
「たいした度胸だが、わしの胸のうちを探ろうなどと金輪際考えるな。わしが一番嫌いなのは人が隠しているものを剥ぎ取ってさらし者にしようとする奴だ。これほど無礼なことはない!」
「御忠告有り難うございます」
彼女はすっくと背を伸ばした。
「私はかまわないかと思ってましたわ。なぜなら誰かさんが先に私にそうなさいましたから。ほんと意外です」
彼女は唇をきっと閉じると出口に向かった。
「やっぱり暴君でらっしゃいます!」
老人は一瞬あっけにとられたがあわてて言った。
「どこへ行く」
「今日のご奉公はもう終わりです。耿さん。夜勤番の看護婦がすぐ来ますわ」
「待たんか」
老人はいらついて叫んだ。
「まだ話は終わっとらんぞ」
「看護婦は病気の面倒を見るのが仕事です。お喋りのおつきあいではありません。それに専政暴君と楽しい会話ができるでしょうか。不平等な身分で言論の自由もないのに」
彼女はドアのノブに手をかけ今にも出ていこうとした。
「おいおいおい」
老人はさらにけたたましく吼えた。
「行くことは許さん」
「どうしてです」
彼女は振り向いた。
「もう退社時間です!」
「割り増しを払うぞ、どうだ?」
「生憎です」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「今日は残業したくないんです!」
彼女はドアを開けすばやく部屋をとび出ると後ろで怒鳴るのもかまわずぴしゃりとドアを閉め気かんぼう老人を閉じこめた。そして彼女が廊下を歩こうとした時思わず男性とぶつかりそうになった。立ち止まって見ると歳の頃は50、縁の広い眼鏡をかけ大きな業務鞄を持っている。見るからに聡明で有能。著名な朱正謀弁護士だ。耿克毅の顧問弁護士でもある。彼は以前も一度耿克毅に面会に来たことがある。仕事抜きでも二人はすこぶる気のおけない友人だった。
「おや!江さんこれは失礼」
彼は彼女を支えた。
「耿さんに会われるのですか」
江雨薇は尋ねた。
「そうです。いろいろと業務上の相談がありましてね。それで彼はまだ面会禁止でしょうか」
「いいえ、面会は昨日から許可されています。回復がとても順調ですから。でも」
彼女はちょっと間をおいた。
「もしも私でしたら相談はまた今度にしますわ」
「なぜ?」
「あの方は今大癇癪を起こしたばかりですから」
朱正謀は笑った。\
「彼が癇癪をおこしてない時なんてありますか」
尋ねる眼鏡の奥の瞳が光った。耿克毅を知り尽くしているのだ。
「ときたまあるようです」
「私はそのときたまを待っていられないのですよ。そうでしょ」
江雨薇も笑った。
朱正謀が耿克毅の部屋に入ろうとドアを開けたとたん江雨薇は耿克毅のいつもの咆哮が響きわたった。
「どこのくそったれだ、入ってこい!」
彼女は首を振りながら苦笑した。本当にユニークで寂しいおじいちゃん。ちゃんと二人の息子と何人かの孫もいるのにどうしてこれほど孤高でなければならないのかしら。いくら首をひねってもわからない。不可解な人の性、不可解な人生。
階段を降りロビーを抜け彼女は病院を後にした。今晩は約束がある。相手の名は呉家駿。詳しく言うと呉家駿医師、彼が彼女を華国ナイトクラブに誘ったのだ。
とりあえずは彼も花婿候補の一人ではある。彼女は宿舎に戻り着替えと化粧をしようと急いだ。
けれど病院の角を曲がった時、彼女は突然湧いて出たような一人の人物に道をふさがれた。
「江さんだったね」
低いかすれ声、どこか沈んだ面もち、破れジャケットに洗い晒したジーパン、くしゃくしゃの髪型、印象的な瞳・・あの謎の若者、「ゴミ同然」の若塵だわ!
「あなたはあの・・」
彼女はしばしあっけにとられた。
「そう俺さ」
彼は視線を落としたまま道ばたの石ころを蹴った。まるでことさら関心のなさを現したいかのように。
「あんたの患者はどんな具合だ」
「耿克毅さんの事?」
「他に誰がいるってんだ」
彼はぶっきらぼうに言った。見るからに短気ですぐに眉をしかめる。この気性、この態度は誰かと良く似てる・・江雨薇はそれが誰か思い出そうとした。
「あの方はだいぶ良くなられました。」
彼女は答えた。
「あと一週間もすれば退院できそうです」
「あんた言ったよな。」
彼の眼が鋭く光った。
「爺さんはもう大丈夫なのか」
「そうじゃありません」
彼女は憂鬱げに答えた。
「持ち直したと言ってもそれは一時のあいだです。一年以内にいつ・・亡くなられても不思議ではありません・・」
「なんで治してやらないんだ?」
彼は頭を上げると激しく問いかけた。眼の中でめらめらと炎がゆれている。
「爺さんみたいな金持ちならどんなクソ高い薬だって買えるだろ、なんであんた達は治せないんだ?」
「仕方がないんです」
江雨薇は丁寧に言ってきかせた。若者の激しい表情が彼女に強い動揺を与えた。
「医師団はあらゆる手を尽くしていますが耿さんの病いは今の私達の手に負えるものじゃないんです」
「あんたは爺さんが死ぬしかないって言うのか」
彼は大声で叫んだ。その表情は歪み目つきはすさまじい。
「断言してるわけじゃありません。それなら医師の先生にきいてください」
「あんたら医者も看護婦も役立たずばかりだ!」
彼の声は荒々しくて、かすれていた。
「最初からあんたらに任せるのは間違いだと思ってたんだ!」
「・・」
江雨薇はじっと彼を見つめるとこの粗暴な若者にことさら冷静に尋ねた。
「それほど心配しているのならどうしてもっと自分でかかわろうとしないんですか」
「俺が心配してるだって」
若い男は彼女をじっとにらみつけた。顔の肉はぴくぴく動き目つきはぞっとするほど刺々しい。押し殺したような声で彼は一言づつはっきり言った。
「あんたに言っとく、あいつは俺にとってこの世で一番憎い奴だ。それにあいつにとっても俺が一番憎い筈だ。わかったか?」
江雨薇は呆然とした。これほど恨みのこもった声も目つきも初めてだ。彼女にはこの”ゴミ同然の若塵”と耿克毅の関係が理解できなかった。でも人間どうしがこれほど憎みあう理由って。それに耿克毅を憎んでいるのならどうして命の心配をするの?
「いったいあなたは耿さんのなに?」
彼女は驚きながら尋ねた
「仇敵さ」
彼はすぐに答えた。
「じゃあ」
江雨薇はわざと氷のように冷たく言い放った。
「喜びなさい。あなたの仇敵はもう長くはないわ」
若い男の眼は大きく開かれたちまち顔色は蒼白になった。唇を噛みしめたまま眼は血走っている。彼は恐ろしい目つきで江雨薇をにらむとまるで喰い殺しそうに歯の間から言葉を吐き出した。
「お前みたいな奴にわかってたまるか!」
そう言うと彼はくるりと向きを変え大股で街中へと消えていった。
江雨薇は街角でしばらくぽかんと立ちすくんでいた。黄昏が男の姿を包みやがてその他のあらゆるものを隠して見えなくしていった。彼女はその深い謎の闇の中でただ途方に暮れていた。
第4章
時は否応もなく過ぎてゆき江雨薇が耿克毅老人の看護を始めて十日がたった。この十日間というもの江雨薇はほとんど日課のように耿克毅と口喧嘩の一戦を交えた。老人はとにかくまれにみる瞬間湯沸かし器だったのだ。けれど看護時間が終わってみると彼女は不思議と老人からいつも新しいものを吸収している事に気づいた。物事の見方とか感情のありよう。それは彼女の心に深く浸みて老人の短気も癇癪もおおよそほとんどの欠点を忘れさせ彼女に看護婦でいることの励みさえ与えた。そして彼女も気づいていた。老人も老人なりにあれでもなるだけ我慢してこのへんてこりんな若い看護婦にあわそうとしていることを。
そうやってこの十日間二人は過ごした。時に打ち解け時にいさかい時に良し時に悪し。それは彼女にとって実り多い十日間でもあった。
この日江雨薇は出勤の際ひどく気が滅入り落ち着かない気分だった。耿克毅の退院がとうとう翌日になったからだ。彼女はもちろん情の移った患者との別れにも慣れていた。一人の患者が終わるとまた新しい患者を迎えるその繰り返し。その中でも耿克毅は扱い難く怒りっぽくはあったけれどそれ以上に見識と知性とユーモアをもっていた。甚だしく手こずらせられたがでも微塵も味気なさや退屈を感じなかった。次ぎはどんな患者かしら。どこかのお喋りお婆さんか末期癌患者、あるいは事故による肢体不自由者か。江雨薇に言えることはたとえ誰であろうと耿克毅以上に印象深い患者は考えられないということだ。
それともうひとつ、出勤する途中でまたあの若塵と出会ってしまった。今日の彼はボロいバイクにまたがり電信柱に身をかくして彼女を待ち伏せしていた。彼女は彼を認めると訊かれるまでもなく答えた。
「耿さんはもう歩けます。杖は必要ですけど。明日退院できます」
若塵は黙ったまましばらく彼女をその愁いのこもった瞳で見つめていた。なにかを問いたげに。彼女は付け加えた。
「それからはもう幸運を祈るしかありません・・けれど私達もせいいっぱい頑張ったんです!」
彼は小さくうなづくとやがていつものかすれ声できっぱりと言った。
「有り難う」
彼は唇を噛むと歯のすきまから絞り出すように言った。
「爺さんの面倒をみてやってくれ」
そう言うが早いか彼はバイクを走らせると放たれた矢のようにたちまち街中へ消えていった。面倒を見てやれですって?彼女はあっけにとられた、老人は明日退院するというのにどうやって?そんな事もう一度入院して来ないかぎり・・そう考えた彼女は突然身震いした。その時こそ老人がもはや余命の尽きた時なのだ。彼女は老人のそんな姿を見たくはなかった。患者の死には慣れもできる、でも”友人”の場合は別だ。彼女にとって老人はすでに友人以外なにものでもなかった。
それにしても若塵、あなたは老人のなんなの。あれほどに”仇敵”の身を心配する人がいるかしら。あのふさぎ込んだ様子と一途な態度。まったくどこまで悩ませてくれのよ。彼女は考えるほどに胸がさわぐのを抑えられなかった。
首から重りをぶらさげられた気分で彼女が病室に入った時、窓際でじっと立ちすくみ外を眺めていた老人はすばやく振り向き江雨薇はいきなり老人の強い眼光と白くこわばった顔にでくわした。老人は彼女をじっと見つめてせかすように尋ねた。
「今そこでお前と喋ってたのはなにもんだ」
彼女は”若塵”の二文字が喉まで出かかったがようやく飲み込んだ。老人の近くへ歩み寄るとそこからはさっき彼女と若塵がいた場所がはっきり望める。でも誰かまではわからない筈と彼女は思った。
「えっと、見知らぬ人に基隆通りまでの道を聞かれたんです」
彼女はつとめてなにげなさを装った。若塵の名前を出して良かったことなんてこれまで一度もない。
「そうか。見知らぬ人か」
老人は独り言のようにつぶやくと急に杖を持つ手から力が抜け倒れそうになり、彼女はあわててかけよるとベッドに座らせた。額を手で支える老人からは衰えと疲弊がはっきりと見てとれる。
「見知らぬ人・・」
老人は再度つぶやいた。
「わしはてっきりあいつかと思った」
「どなたと思ったんですか?」
江雨薇はマズいと思いつつもやはり聞かないわけにいかなかった。
「わしの」
老人は歯を食いしばるように言った。
「仇敵が来たかと」
また仇敵!なんでこの二人は申しあわせたように同じ事を言うのよ。江雨薇はつくづく呆れた。耿克毅は再びその表情に力をみなぎらせ眼の奥に癇癪と怒りを蓄えている。
「敵があちこちにいらっしゃるんですね。耿さん」
江雨薇は若塵の愁いのこもった瞳を思いだしながら注意深く尋ねた。
「うむ」
耿克毅はうなった。
「人間ってものはとかくいろんな理由で争うもんだ。たしかにわしを憎んでいる 奴はごまんといる。あいつもその一人だ」
「あいつって?」
彼女がそう言うと老人がぎょろりとにらんだ。
「今日はいったいどうしてそんなに聞きたがる」
老人は冷ややかに言った。
「お前には関係ないことだ」
「もちろん私には関係ありません」
彼女は背すじを伸ばすとシーツを直し始めた。そして負けず冷ややかに答えた。
「もうしわけございません、つい身分を忘れてしまいましたわ。旦那様」
老人は彼女があれこれ用事をするのを見ていたがとうとう気まづい沈黙に耐えかねて口を開いた。
「おいおい江さん、今日はもめないでおこうじゃないか。これからも長いつきあいなんだから仲直りしょう。ずっと敵になんぞなりたかないぞ」
これから長いつきあいって?本当にわからないおじいちゃん。彼女は笑ってふりむいた。
「大丈夫です。その心配ありません。だって明日退院されるじゃないですか」
「わかっとる」
老人は答えた。
「だから今日はお世話する最後の日です」
「いや」
老人は首を振った。
「お前はわしと一緒に帰ることになっておる」
「はい?」
彼女は驚いて問い返した。
「どういう意味です?」
「黄医師は言っておったな。わしには必ず付き添い看護が必要だと。注射やら薬やらの為にわざわざここまで来れんわい。だからしてお前がわしの付き添いになる」
江雨薇は立ち止まったまま瞳を見開いて老人をじっと見つめていたがやがてゆっくりと言った。
「いつ私に打診しました?それに私が引き受けるかどうかもわからないのに」\
「お前の仕事は付き添い看護婦。そうだな?」
老人も彼女を見つめたままゆっくりと言った。
「そうです」
彼女はうなづいた。
「この病院内で仕事するのとわしの家で仕事するのと違いはなかろう」
老人は尋ねた。彼女は眉をひそめて口ごもった。
「少し考えさせてください・・」
「考える必要なんぞない!」
老人は彼女の言葉を問答無用とさえぎった。
「わしは聞いたぞ。付き添い看護婦は病院に属さないでフリーだと。それならわしの頼みを妨げる理由はないじゃろ。わしの家へ来てみろ、でかい部屋とでかい花園がお前を待っとる。きっと気にいる筈だ。とっくに用意はさせとるから明日お前は身の回りのものだけ持ってカバン一つで来ればいい。他のもんはいらん。そうしてお前は黄医師の指示のもとわしの面倒を見てくれ。もう10日間つきあったんだ。問題はなかろう」
江雨薇は老人の口調があまりに断言的なのについむかっときた。
「では、私が断るのも自由なことはご存じですね」
彼女は冷ややかに答えた。
「もちろん、お前にも権利はある」
老人は少しもひるまなかった。
「言い忘れておった。給料だが今の三倍でどうだ。お前が物入りなのは知っておるからな」
彼女はじっと老人を見つめた。
「用意周到でらっしゃいますのね」
彼女は冷笑を浮かべた。
「大きな花園に居心地の良い部屋、三倍のお給料。あなたは私が断る筈はないと思っておいでですね」
「賢いやつなら断らんぞ」
「ええ、でも私はあなたがいつもおっしゃっておられる様にとんまでまぬけです」
彼女は言い放った。
「ほう、そうだったかのう」
老人は聞き流した。彼女は一種矛盾した感情に翻弄された。確かに良い条件、彼女がこの依頼を断る理由はなかった。けれど金銭を持ち出した老人への反感を彼女は捨てきれなかった。じっと黙ったままの彼女に老人はたたみかけた。
「今すぐ決めんでいい」
老人は言った。
「夕方までに返事してくれ。実際それほど長い間にはならんじゃろ。お前も知っているように今のわしがくたばり損ないだとしたらそれほど長く面倒もかけない筈だ」
彼女は背筋に冷たいものを感じた。老人は自分の命の短さを暗示させながら切実に彼女を必要としているのだ。むげに断るのはあまりに難しかった。
「しばらく考えさせてください」
彼女は答えた。
「お話がいきなり過ぎますし。それにご家庭の事情がちょっと・・」
「おや、そうだったか?」
老人は驚いて言った。
「わしの家族のことをなにも話していなかったか」
「何もうかがっていません」
彼女は老人の二人の息子とその嫁を思い出した。あんな人種とうまくつきあっていける筈がない。
「息子と嫁のことは心配するな」
老人はまたも彼女の気持ちを見透かしたように言った。
「あいつ達とは別居してるからな。妻は何年も前に死んだ。我が王国にはわしと4人の使用人がいるだけだ」
「4人ですって?!」
彼女はつい叫んでしまった。たった一人の老人の為に4人の使用人。そのうえまた看護婦が一人!
「運転手の趙と李夫婦、これはもう20年働いてくれている。翠蓮は掃除専門だ。大丈夫、彼らはお前を御主人様と思って仕えてくれるぞ」
「御主人様?」
彼女は眉をつり上げた。
「そんな結構な御身分とは縁がありません」
彼女はよく懲りていた。大きな家の使用人ほど扱いにくいものはない事を。
「うちのもんはみんないいやつばっかりだぞ」
またも彼女は気持ちを見透かされた。
「必ずお前は受け入れられる筈だ」
彼女は注射の用意をしながら言った。
「また後でお話しましょう」
耿克毅はそれから再びその話を持ち出さず一日中お互いどちらも口をきこうとはしなかった。けれど江雨薇はずっと考え続けていた。この話を受けるべきかどうか。
心の奥で反対の声が入れ替わり現れては彼女に囁いた。そうしてやがて黄昏せまる頃とうとう彼女は決断をせまられた。彼女は老人に向かうときっぱりと言った。
「耿さん申し訳有りません。この話はお受けできません」
老人はぴくっと震えると癇癪を起こす前のすごい形相で彼女をにらみつけた。
「どうしてだ」
「別に理由はありません」
彼女は答えた。
「理由を言ってみろ!」
老人は吼えた。
「なんで断るんだ、給料が足りないならもっと出してやるぞ」
「お金の問題じゃありません」
彼女は首を振った。
「じゃ何だ!」
老人は顔を真っ赤にして大声で叫んだ。
「そのかわり他の看護婦を紹介いたします」
彼女は理由に触れたくなかった。
「こんな条件ならいくらでも良い看護婦が見つかりますわ」
「他の看護婦なんぞ要らん!」
老人は怒鳴り続けた。
「お前はまたくそとんまな他の奴をわしに押しつけようってのか。いったい・・」
老人がそう言い終わらないうちにドアが開いた。息子の”耿培中”とその嫁だ。すらりとした目鼻立ちのはっきりしたその女は入って来るやいなやいかにも芝居じみた声で叫んだ。
「あらあ、お父さんどうなさったんですか?そんなに御立腹で。先生が言ってましたわ、この病気で一番いけないのが興奮することだって」
それから江雨薇をにらむと。
「江さん!」
厳しく詰問した。
「あなた、父さんを怒らせちゃ駄目じゃない!」
「私は患者さんの健康状態には責任がありますけど」
江雨薇は冷ややかに答えた。
「患者さんの機嫌にまで責任は持てません」
「あらあ、なんて人かしら!」
”耿夫人”はひきつったように叫んだ。
「こんな看護婦見たことないわ、本当にあつかましい、お父さんが立腹される筈だわ、ねえ培中、どう思うの?他の人に替えてもらわなきゃ!誰だってこんな人我慢できないわよね、良かったわ明日が退院で、さもなきゃ・・」
「思紋!」
耿克毅老人の一喝に女は黙った。
「まだ喋り足りないか」
思紋と呼ばれたその女は一瞬顔をけわしくしたがすぐに機嫌取りするかのように老人に対して腰をかがめた。
「そうよねお父さん、あたしすぐに大声なっちゃうから」
彼女の猫なで声への素早い変わり様を江雨薇はプロの役者なみだと思った。
「機嫌なおしてねお父さん、あたし達明日迎えにくるわ。退院してからのお父さんの事は美珂とも相談したの。あたし達交代でお父さんに付き添うわ。それか・・」
彼女は老人の顔色をうかがいながら言った。
「よかったらあたし達の家に引っ越して・・」
「わはは」
老人はいきなり大笑いして息子と嫁を見た。
「わしが死ぬのがそんなに待ちきれんか」
「父さん、なんでそんな事を」
耿培中は眉をしかめた。
「ぼく達は父さんの為を思って・・」
「わしの為だと?」
耿克毅はしげしげと耿培中の顔をのぞき込んだ。
「培中、たいした息子だなお前は。わしが入院しとる間に会社のカネを20万元ちょろまかしただろ?培華もお前と同じだ。わしの為だと?まあなどっちみちわしとてカネをあの世には持っていけんしな」
「父さん!」
培中は顔色を蒼白にしてあわてふためいた。
「あのおカネはボクの建築会社の資金繰りの為なんだよ、一ヶ月たてば返そうと思ってたんだ」
「まあいい。それで」
老人は彼をさえぎった。
「今日はいったい何の用だ」
「あたし達さっき黄先生に会ってきたんです」
思紋が言った。
「先生が言うには父さんが退院してからも絶対に付き添いが必要だって言うじゃありませんか。あたし達相談したんですよ。うちに来てもらうか、それとも美珂のほうか。翡蓮はバカでしょ。あんな娘には任せられないし」
「もういい!」
耿克毅は息子夫婦を睨みつけた。
「わしはお前の面倒にはならん、美珂にもだ。わしは看護婦が一人いれば充分だ!」
老人は視線を江雨薇に向け問いかけた。
「どうじゃな。江さん」
江雨薇が我知らず一歩前へ出て口を開きかけた時、思紋が横から割り込んだ。
「あらあ、こんなのダメよさっきお父さんを怒らせたばっかりじゃないの。ろくな看護婦じゃないわ、だからさ・・」
「耿さん」
江雨薇は自分の声にゆるぎない決意と情熱が込められていることを感じた。
「さきほどの依頼をお受けします。明日退院してから私はずっと付き添い看護をさせて頂きます。クビになるまで!」
耿克毅老人は眼を輝かせそしてイタズラっ子の様に微笑んだ。老人は勝ち誇ったように息子夫婦に告げた。
「わかったか思紋、どうやら問題は解決したようだ。お前は自分の家で亭主と子供の面倒でも見ていろ。亭主の首に縄つけて子供もグれさせんようにな」
思紋は蒼白になって唇を噛んだがやがてぶつぶつと呟いた。
「そんなのわかってるわ、・・父さんの二の舞はさせるもんですか、だいたいよそに子供つくるなんて・・」
「やめろ思紋!」
培中は思紋の話を思わず遮ると腕をひっぱった。
「もう行くぞ!」
そう言うと振り向いて老人に言った。
「じゃあ明日迎えに来ますよ。お父さん」
「要らん」
老人は言った。
「趙が車で迎えに来てくれる。それにこの江さんも居るしな。お前も培華も誰も来んでいい」
培中は忍耐の限界と言うように歯を食いしばって言った。
「わかりました、じゃお好きなように!」
出て行く時思紋は江雨薇に恨みのこもった視線を浴びせた。ドアが閉まるのも待たず思紋はさんざんわめき散らしながら去っていった。
「あんたの父親はますます手がつけられなくなってきたじゃない!それにあの看護婦とは絶対わけありだよ!」
彼女は唇を噛むと静かにドアを閉め老人の側に近づいた。老人はまるで青年のような清々しい眼で彼女を見た。
「すまないな、江さん」
老人はしみじみと言った。
「なんで心がわりしてくれたのかな」
なぜですって?それはあなたが孤独な王様だから、あなたには誰も心許せる人がいないから、あなたこそ本当は持たざる人だから、あなたの人生の黄昏があまりに荒涼としてるから・・。けれど彼女は笑みを浮かべて答えた。
「さきほどおっしゃったじゃありません?。給料を三倍にしてくれるって」
老人はじっと彼女を見つめた。彼女は老人がなにもかも察していることを理解した。老人は落日を思わせるような笑みを浮かべて言った。
「お前はりこうないい娘だな。雨薇」
雨薇?老人は初めて彼女の名前を呼んだ。それもごく自然に。やがて老人はそっと瞼を閉じた。よほど疲れたのだろう。憔悴しきった瀕死の孤独なこの老人。彼女は目頭が熱くなるのを感じた。布団をかけ直そうと近くへ寄った時彼女は老人のかすかなつぶやきを聞いた。
「若塵、今こそお前が戻る時だ・・」
若塵?・・若塵?・・若塵?彼女は呆然とした。老人がこれほど密かに口にしなければならないなんていったい若塵、本当にあなたは何者なの?
【続く】 |
|