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[天声人语] 天声人语(5,11)

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发表于 2006-5-11 07:24:52 | 显示全部楼层 |阅读模式
 公園の梅の木の下に、青い実が落ちている。先刻の小糠(こぬか)雨で実の皮にできた滴が、5月の東京の空を映す。やがて雲間から日が差し、木々の若葉が光り始めた。    公园的梅树下,青色的果实掉落。果实外皮上还残留着方才飘零的牛毛细雨,一滴滴照映着东京五月的天空。很快阳光从云的隙缝间渗下,树木的嫩叶开始熠熠发亮。  「若草の上をあるいてゐるとき、/わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく……ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして」。萩原朔太郎は、この季節を愛した。「若くさの上をあるいてゐるとき、/わたしは五月の貴公子である」(『月に吠える』)。    “踱于萌生的青草上时/我的鞋子留下白色的足印……啊,将所有忧愁抛诸脑后。”秋原朔太郎深爱着这个季节。“踱于萌生的青草上时/我成了五月的贵公子。”(《吠月》)  20代の頃に妹に送った手紙には、新緑は、夏の盛りのどす黒いような不快な青とは違うと書いた。「見るからに晴々した透き通る様な青です」。朔太郎は、昭和17年、1942年の5月11日に55歳で他界した。    朔太郎20几岁寄给妹妹的书信中,写到新绿与盛夏里黑乎乎的令人不快的青色不同。“看上去很明快,很清澈的青色。”朔太郎于昭和17年,1942年5月11日与世长辞,享年55岁。  詩誌「四季」の追悼号には、高村光太郎や斎藤茂吉、室生犀星らの文が並んでいる。中に、「師よ 萩原朔太郎」と題する三好達治の詩があって、毎年この時期になると読み返す。    诗刊《四季》的追悼号中登载了高村光太郎、斋藤茂吉和室生犀星等人的作品。其中,有一首三好达治所写的以“师父啊,秋原朔太郎”为题的诗歌,每年到了这一时期笔者都会去重读。  詩人としては認められていたが、世間の常識とは大きな隔たりを痛感しつつ生きた朔太郎に、まず「幽愁の鬱塊」と呼びかける。「あなたのあの懐かしい人格は/なま温かい熔岩(ラヴア)のやうな/不思議な音楽そのままの不朽の凝晶体」だったとうたう。    尽管作为一名诗人,朔太郎已经被世人认可了,但他深深感受到自己与人间常情产生了很大的隔阂。达治诗中首先将这样的朔太郎称为“幽愁的极端阴郁者”,其中吟颂到:“你那另人难以忘怀的人格/像是微温的熔岩般/那是奇异的音乐凝成的不朽的晶体”。  「夢遊病者(ソムナンビユール)/零(ゼロ)の零(ゼロ)」と書き、「あなたばかりが人生を ただそのままにまつ直ぐに 混ぜものなしに 歌ひ上げる」と記した。確かに朔太郎の詩句は、詩の源泉からわき出る、混じりけのない流れだったかも知れない。逝って64年。自らを貴公子と呼んだこの季節には、若草の上をゆく姿が、薫風の中によみがえるような気がする。    此外还写道“梦游患者/零中的零”,“只有你 忠实而率直地 不容一丝混淆地 歌颂着人生”。朔太郎的诗句或许确实是从诗的源泉中涌出的不掺任何杂质的清流。逝去的64年。在他自称贵公子的这一季节,笔者感觉他踱于青草上的身姿像是在和风中重生了。
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发表于 2006-5-11 10:07:31 | 显示全部楼层
公園の梅の木の下に、青い実が落ちている。先刻の小糠(こぬか)雨で実の皮にできた滴が、5月の東京の空を映す。やがて雲間から日が差し、木々の若葉が光り始めた。 青青的果实落在了公园里的梅树下。刚刚下过的毛毛细雨,在果实上形成的水滴,映照着5月东京的天空。不久,阳光穿透云彩的缝隙,树木的嫩叶开始闪闪发光。  「若草の上をあるいてゐるとき、/わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく……ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして」。萩原朔太郎は、この季節を愛した。「若くさの上をあるいてゐるとき、/わたしは五月の貴公子である」(『月に吠える』)。 “当我行走在嫩草之上/鞋子留下白色足印……啊,断然抛去所以烦恼”。萩原朔太郎,深爱着这个季节。“行走在嫩草之上/我是五月的贵公子”(《吠月》)。  20代の頃に妹に送った手紙には、新緑は、夏の盛りのどす黒いような不快な青とは違うと書いた。「見るからに晴々した透き通る様な青です」。朔太郎は、昭和17年、1942年の5月11日に55歳で他界した。 萩原在给20多岁时给他妹妹的信中写道“新绿,与那盛夏时期乌黑颜色一般令人不快的绿色不同。”“这是令人看了觉得很是明快通透的绿色。”朔太郎于昭和17年,1942年5月11日去世,享年55岁。  詩誌「四季」の追悼号には、高村光太郎や斎藤茂吉、室生犀星らの文が並んでいる。中に、「師よ 萩原朔太郎」と題する三好達治の詩があって、毎年この時期になると読み返す。      在诗刊《四季》的追悼刊中,有高村光太郎、齐藤茂吉,室生犀星等的文章。其中有一篇三好达治所作、题为《老师啊 萩原朔太郎》的诗作,每年到了这个时期,笔者总要重读此诗。  詩人としては認められていたが、世間の常識とは大きな隔たりを痛感しつつ生きた朔太郎に、まず「幽愁の鬱塊」と呼びかける。「あなたのあの懐かしい人格は/なま温かい熔岩(ラヴア)のやうな/不思議な音楽そのままの不朽の凝晶体」だったとうたう。 作为诗人被他世人所认可,但朔太郎又深深地感受到与世人普遍认识有着巨大隔阂而深感痛苦,他首先喊出了“幽思的极端忧郁者”。诗中写到“你那令人怀念的人格/就像是微温的熔岩/在奇妙音乐中 永不腐朽的结晶体”。  「夢遊病者(ソムナンビユール)/零(ゼロ)の零(ゼロ)」と書き、「あなたばかりが人生を ただそのままにまつ直ぐに 混ぜものなしに 歌ひ上げる」と記した。確かに朔太郎の詩句は、詩の源泉からわき出る、混じりけのない流れだったかも知れない。逝って64年。自らを貴公子と呼んだこの季節には、若草の上をゆく姿が、薫風の中によみがえるような気がする。 诗中还写到“梦游病者/零之零”、“只有你 一如往昔 率直而毫不修饰地 颂扬着人生”。确实朔太郎的诗句,好似从诗的源泉自然涌出,不含任何杂质的水流。他已经过世64年。在他自称为贵公子的这个季节里,笔者似乎觉得他那曾行走于嫩草之上的身姿,在初夏的和风中复苏。
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发表于 2006-5-11 11:14:41 | 显示全部楼层
梅树下青青的果实.......青梅...... TINMEI老师应该多发几条. :)
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发表于 2006-5-11 13:04:49 | 显示全部楼层
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发表于 2006-5-11 17:05:39 | 显示全部楼层
公園の梅の木の下に、青い実が落ちている。先刻の小糠(こぬか)雨で実の皮にできた滴が、5月の東京の空を映す。やがて雲間から日が差し、木々の若葉が光り始めた。 公园里,梅花树下,青色的果子掉落地上。方才的毛毛细雨在果子上凝成一颗颗水珠,水珠映出5月东京的天空。不一会,太阳穿过云层照射下来,嫩绿的树叶霎时熠熠生辉。  「 若草の上をあるいてゐるとき、/わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく……ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして」。萩原朔太郎は、この季節を愛した。「若くさの上をあるいてゐるとき、/わたしは五月の貴公子である」(『月に吠える』)。 “走在嫩绿的青草上,鞋踩过的地方留下白色的足迹……啊啊,将所有的忧愁抛却”。 萩原朔太郎深爱这个季节。“走在5月的草地上,我是五月的贵公子”( 《吠月》)  20代の頃に妹に送った手紙には、新緑は、夏の盛りのどす黒いような不快な青とは違うと書いた。「見るからに晴々した透き通る様な青です」。朔太郎は、昭和17年、1942年の5月11日に55歳で他界した。 20几岁时,他在给妹妹写的信上说,夏天浓浓的墨绿给人的感觉很不舒服,新绿就不一样了。“那是一种看起来很明快、晶莹的绿”。 朔太郎于昭和17年,即1942年的5月11日去世,享年55岁。  詩誌「四季」の追悼号には、高村光太郎や斎藤茂吉、室生犀星らの文が並んでいる。中に、「師よ 萩原朔太郎」と題する三好達治の詩があって、毎年この時期になると読み返す。 诗刊《四季》出了一期追悼刊,登载了高村光太郎、斎藤茂吉、室生犀星等大家的诗歌。其中有一首三好達治的诗,标题是《老师啊 萩原朔太郎》,每年这个时候我都会重读一遍。   詩人としては認められていたが、世間の常識とは大きな隔たりを痛感しつつ生きた朔太郎に、まず「幽愁の鬱塊」と呼びかける。「あなたのあの懐かしい人格は/なま温かい熔岩(ラヴア)のやうな/不思議な音楽そのままの不朽の凝晶体」だったとうたう。 作为一个诗人朔太郎的才华得到了大家的认同,然而他一直痛切地感觉到自己与这个世界格格不入,因此诗中一开始就称他为“幽忧愁团”。诗中写道,“您的人格,令人怀恋/您就象温热的熔岩/您就是那神妙音乐,凝结而成的不朽晶体”   「夢遊病者(ソムナンビユール)/零(ゼロ)の零(ゼロ)」と書き、「あなたばかりが人生を ただそのままにまつ直ぐに 混ぜものなしに 歌ひ上げる」と記した。確かに朔太郎の詩句は、詩の源泉からわき出る、混じりけのない流れだったかも知れない。逝って64年。自らを貴公子と呼んだこの季節には、若草の上をゆく姿が、薫風の中によみがえるような気がする。 说他是“梦游病人/零中的零”,又写“只有在您诗歌中,才能找到纯粹的、不掺任何杂质的人生”。确实朔太郎的诗句可能是从诗之源泉喷涌而出的、没有任何杂质的清流。过逝64年。在这个朔太郎将自己比作贵公子的季节里,他那在嫩草上飘然而过的身姿仿佛在这和煦的春风中复苏了。
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发表于 2006-5-14 13:32:18 | 显示全部楼层
060511天声人語 公園の梅の木の下に、青い実が落ちている。先刻の小糠(こぬか)雨で実の皮にできた滴が、5月の東京の空を映す。やがて雲間(くもま)から日が差し、木々の若葉が光り始めた。 公园里的梅树下,散落着青青的梅子。方才的牛毛细雨在梅子上凝成水滴,水滴映出了5月里东京的天空。不一会,阳光穿过云彩的缝隙照射下来,树上初绿的新叶登时熠熠生辉。  「若草の上をあるいてゐるとき、/わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく……ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして」。萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)は、この季節を愛した。「若くさの上をあるいてゐるとき、/わたしは五月の貴公子である」(『月に吠える』)。 “走过初绿的青草地/留下我那白色的脚印……啊,尽情地抛却所有的忧愁吧”。 萩原朔太郎是深爱这个季节的。“走在初绿的青草地上/我便是五月里的贵公子”(《吠月》)  20代の頃に妹に送った手紙には、新緑は、夏の盛りのどす黒いような不快な青とは違うと書いた。「見るからに晴々(はればれ)した透き通る様な青です」。朔太郎は、昭和17年、1942年の5月11日に55歳で他界した。 在他20多岁给妹妹写的信上说道,新绿不会像盛夏里的墨绿那样使人不快。“那是一种轻松明快、晶莹剔透的绿”。 朔太郎于昭和17年,即1942年的5月11日离开人世,享年55岁。  詩誌「四季」の追悼号には、高村光太郎や斎藤茂吉、室生犀星らの文が並んでいる。中に、「師よ 萩原朔太郎」と題する三好達治の詩があって、毎年この時期になると読み返す。 诗歌杂志《四季》的追悼专刊上,刊登了高村光太郎、齐藤茂吉、室生犀星等人的大作。其中有一首三好达治的题为《先师 萩原朔太郎》的诗,每年到这个时期我都会重温一遍。   詩人としては認められていたが、世間の常識とは大きな隔たりを痛感しつつ生きた朔太郎に、まず「幽愁の鬱塊」と呼びかける。「あなたのあの懐かしい人格は/なま温(あたた)かい熔岩(ラヴア)のやうな/不思議な音楽そのままの不朽の凝晶体」だったとうたう。 作为诗人朔太郎当时就已得到了社会的承认,然而他又与世俗所理解的诗人有着很大的区别,有感于此,三好达治便首先称他为“忧愁块垒”。诗中写道:“你那令人怀念的人格 /就像那火热的熔岩/就像神奇的音乐凝成的不朽晶体”   「夢遊病者(ソムナンビユール)/零(ゼロ)の零(ゼロ)」と書き、「あなたばかりが人生を ただそのままにまつ直ぐに 混ぜものなしに 歌ひ上げる」と記した。確かに朔太郎の詩句は、詩の源泉からわき出る、混じりけのない流れだったかも知れない。逝(ゆ)って64年。自らを貴公子と呼んだこの季節には、若草の上をゆく姿が、薫風(くんぷう)の中によみがえるような気がする。 说他是“一个梦游者/零中之零”,又写道“只有你原原本本地 毫无搀杂地 讴歌着人生”。确实朔太郎的诗也许可以说是从诗之源泉喷涌而出的、不搀任何杂质的涓涓清流。他故世已经64年了。在这个他自诩为贵公子的季节里,他那漫步于新绿嫩草上的优雅身姿仿佛又在醉人的熏风中重现了。 相关链接: 萩原朔太郎Hagiwara Sakutaro (1886-1942)    生于日本群马县前桥市,被认为是第一个成功地将传统日本短诗中的抒情风格与西方自由诗形式结合起来,使日本诗歌从传统中解放出来的诗人。1917年出版的《吠月》奠定了他在日本现代诗坛的地位,1923年出版《青猫》走上象征主义。
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