「そう」
詩史が言い、酒壜の並んだ棚に視線をさまよわせる
「本は最近あんまり読んでいない」
透は忠実に続けた。
「いま考えていることは」
あなたと寝たいと考えている。
「考えていることは?」
振り向いた詩史の、化粧けのない顔。
「なにも思い浮かばない」
詩史は声をたてずに一瞬だけ笑い、
「私の通った小学校の裏庭にあじさいが咲いていた。」
「小学校?随分さかのぼっちゃうんだね」
詩史は首をかしげ、グラスの氷に指先で触れる。
「大学の庭にどんな植物があったか、全然思い出せないの。一つも、おかしいわね」
「一人で歩かなかったからじゃない?」
透はいい、その声に含まれた嫉妬の響きに自分で困惑した。詩史はそれには気付かなかったらしく。
「そうね、そうかもしれない」と、悪びれずに認めた。
2目杯の酒をそれぞれ注文し、二人はしばらく黙ったまま飲んだ。
あの時の電話は本当に母親あてだったのだろうか。透は考える。
「あら残念、近くまできたから、一緒にお酒でもって思ったんだけど」
不在と告げると、寂しそうにそう言った。
「そのかわりに、あなたを呼びだしたりしったら、陽子さんに叱られちゃうかしら」
「そんなことはないと思いますけど」
透は言うと、詩史はその店の名前と場所を告げ、それから思い出したように
「あ、でも、あなたお酒飲める」と、聞いたのだった。
透は懐かしく思いだす。詩史に敬語を使って話していたころ。
そんなふうにして出会ったとき、透には女性と付き合った経験などがなかったし、詩史がすでに結婚していた。子供がなく、かわりに店と自由を持っていた。 |