|
发表于 2006-6-28 16:48:37
|
显示全部楼层
半世紀近く前のことである。学校からの連絡や保護者の短文を載せたガリ版刷りの学年通信が、時折配られた。ある時、万葉集から山上憶良の歌を引きつつ我が子への愛をつづった、ひとりの母親の随想があった。
还是半个世纪前的事。那时我偶尔会收到一种油印的校内通讯刊物,通常刊登一些学校发的通知或者监护人写的短文。其中有一期登载了一个母亲写的随笔,从万叶集中山上忆良的诗歌着笔,诉说了自己对孩子的爱。
〈銀(しろがね)も金(くがね)も玉もなにせむに優(まさ)れる宝子にしかめやも〉。母親の率直さに驚きながらも、大きな愛に包まれているだろうこの生徒の家を想像した。
“金银珠宝,不敌无宝儿”。我惊讶于那母亲的坦率,猜想这个学生的家一定洋溢着浓浓爱意。
憶良の歌は、子どものかけがえのなさや、やむにやまれない親心を表している。そうには違いないが、いにしえの世からこの歌が光り輝き続けていることの裏には、この宝の、一筋縄ではいかない扱いの難しさがあると思う。
亿良的诗写出了孩子的无比珍贵以及父母对孩子无条件的爱。这是没错,然而这首古到今一直为人称颂的诗歌背后,我能了解这种爱是多么的不容易。
親は、子のためと思って、時には厳しく子どもに接する。子どもは、従うか、無視するか、抵抗する。子が、親の厳しさを自分のためと思うか、親自身のためと思うか。この辺りが一つの分かれ目だろうが、厳しさの案配は悩ましい。
父母有时会对孩子比较严厉,认为这是为孩子好。而孩子呢,或听从,或不理睬,或反抗。孩子如何看父母的严厉呢,他会认为父母为了自己好吗,还是认为是为了父母自己呢。这里是关键,很多父母因为不知道如何掌握好这个度而烦恼不已。
「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)」(サン=テグジュペリ『星の王子さま』岩波書店・内藤濯訳)。大人は必ず子どもを経て親になるが、子どもに親の経験はない。当たり前のことだが、難しさの根本は、こんなところにあるのかも知れない。
“大人都是从小孩过来的。(可是好像没有几个家长记得这回事了)”(圣休伯里『小王子』岩波書店・内藤濯訳)。大人曾经当过小孩,可是小孩却没有当大人的经历。谁都明白的道理,看起来很简单,然而也许这才是导致父母烦恼的根源所在。
サン=テグジュペリは、こうも述べている。「子ども時代、だれもがそこから出てきた広大な領域!」(『戦う操縦士』みすず書房・山崎庸一郎訳)。それぞれがたどってきた広大な領域を思い起こしながら、ゆっくりと、深呼吸でもしてみようか。
圣休伯里还这么描述,“孩童时代,一片广阔的天地,每个人都从这里走出!”(『战斗飞行员』美铃書房・山崎庸一郎訳)。希望每个人回想一下各自曾经到达过的那片广阔天地,慢慢地、深深地呼吸一下。 |
|