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发表于 2006-9-8 23:59:08 | 显示全部楼层 |阅读模式
本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:14 编辑

今年10月分考高级日语(二),为了方便那些没买到教材的考友能够自学,我整整花了一个星期,一个字一个字地把高级日语(二)1-7课的内容输到电脑上做成了文件了。第八课以后因太多古文,日文打起来很吃力,故免了。
希望我的心血能助大家一臂之力。
祝各位考友能够考出好成绩。
第一課 姨 捨
私が初めて姨捨山の棄老伝説を耳にしたのは一体何時頃のことであったろうか。私の郷里は伊豆半島の中央部の山村で、幼児私はそこで育ったが、半島西海岸の土肥地方にも、往時老人を山に棄てたという話が語り伝えられており、おそらくはその話と一緒になって、姨捨山の伝説は私の耳にはいり、私の小さい心を悲しみでふくらませたようである。
私はその時五つか六つくらいではなかったかと思う。その話を聞いて縁側へ出ると、私は声を上けて泣き出した。その場所が何処であったか記憶していない。ただうろ覚えに覚えていることは、祖母だったか母だったか、とにかく家人が急に私が泣き出したことを訝つ、縁側へ飛び出して来て、何か二言三言言葉をかけてくれたことである。私は勿論物語そのものは理解できなかったが、母を背負って、その母を山へ棄てに行くという事柄の悲しみだけが抽象化されて、岩の間から滴り落ちる水滴のように、それが私の心に滲み入って来たのである。私は自分が、母と別れなければならぬという悲しみに耐えかねて泣き叫んだのである。
姨捨山の説話をはっきりと一つの筋を持った物語として受取ったのは、十か十一の時のことである。当時十里程離れている小都市に住んでいた叔母から、時々絵本を送って貰ったが、その一冊に「おばすて山」というのがあった。
姨捨山の棄老伝説というものは、少しずつ細部が変わって何種類か流布されているらしいが、私が知っているそれは、全くこの絵本に依ったもので、それをなんら修正することなしに今日まで持ち続けている。絵本「おばすて山」が少年の私の心にいかに強烈な印象をもって捺印されたかが窺える。私が幼時聞いた物語の中で現在に到るもなお忘れないでいるものは、高野山に父を訪ねて行った石童丸の物語とこの姨捨山の物語である。共に親と子の哀別離苦をその主題としている。
後年大学時代、私は夏の休暇に郷里に帰省し、偶然土蔵の戸棚の中からこの絵本「おばすて山」を発見し、改めてこれに目に通したことがある。最初の一页の挿絵だけが着色され、他の页にはそれぞれ凸版の挿絵がついていて、子供には幾らか難しすぎると思われる文体で、姨捨山の説話が書かれてあった。
昔信濃の国に老人嫌いな国主があって、国中に布告して、老人が七十歳になると尽くこれを山に棄てさせた。ある月明の夜、一人の百姓の若者が母を背負って山に登っていった。母が七十歳になったので棄てなければならなかったのである。併し、若者はどうしても母親を棄てるに忍びず、再び家に連れ戻り、人眼につかないように床下に穴を掘って、そこにかくまった。
この頃国主の許に隣国から使者が来て難題を持ちかけた。三つの問題を示し、これを解かなければ国を攻め亡ぼすというのである。その三つの問題というのは、灰で縄をなうこと、九曲の玉に糸を通すこと、自然に太鼓を鳴らすことというのである。国主は困って国中に触れを出してこの難題を解く知恵者を求めた。若者は床下にかくまっている母親にそれを話すと、母親は即座にそれを解く方法を教えてくれた。若者はすぐ国主のもとに申し出て、ために国の難を救うことができた。国主は若者の口から、それが老母の智慧であることを知り、老人の尊ぶべきを悟ってさっそく棄老の掟を廃するに到ったという。
----こう言う物語である。最初の着色してある页には、烏帽子のような頭巾をかぶった若者が老いた母親を背負って深山を分け登って行くところが描かれてあった。母親は頭髪だけは白かったが、その顔はひどく若々しく、それが少し異様に感じられた。満月の光は木も草も土も辺り一面を青く染め、二人の人物の影はインキでも流したようにくっきりと黒く地上に捺されてあった。粗雑な低俗な絵ではあったが、併し、物語のその場面の持つ悲しみは、やはり、この場合にも、絵柄の表面から吹き出していて、子供の心には十分刺戟的であろうと思われた。
私は実際には長いこと篠井線の姨捨駅も、その附近も知らなかった。この地方に旅行することはあったが、いつも、夜にぶつかることが多く、昼間の場合は気がつかないうちに姨捨駅を通過していて、姨捨山という土地には縁がないままに過ぎていた。

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 楼主| 发表于 2006-9-9 00:01:19 | 显示全部楼层

高级日语(二)课文

本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:14 编辑

その後、姨捨の棄老伝説が私の頭によみがえって来る機縁を作ってくれたのは母であった。
母は何かの拍子にふと、
「姨捨山って月の名所だというから、老人はそこへ棄てられても、案外悦んでいたかも知れませんよう。今でも老人が棄てられるというお触れがあるなら、私は悦んで出掛けて行きますよ。一人で住めるだけでもいい。それに棄てられたと思えば、諦めもいいしね」
そう言ったことがある。母は七十歳だった。母の言葉はそれを聞く家人の耳には、一様に皮肉に響いた。その座には私の弟妹たちも居たが、みなばっとして衝かれたような表情を取った。戦後の何かとう物の足らぬ時でもあり、家族制度への一般の考え方もヒステリックな変わり方を見せている時で、老人夫婦と若い者たちの間に起こる小悶着は、私の家庭でも決して例外ではなかったが、併し表だってこれと言って母親に家庭脱出を考えさせるような何の問題もあるわけではなかった。おそらく母は、自分が姨捨の説話の世界では、丁度山に棄てられる七十歳になっていることに気付き、生来の自尊心の強さと負けん気から、その説話にと言うより、それに何か似通って来ている戦後の時代の雰囲気というものに瞬間挑戦する気になったのではないかと思われた。
子供の絵本に描かれてあった老婆のように、母親は髪こそ白いが、艶々とした肌と皺一つない若々しい顔を持っていた。私は暫く言葉もなく、その母の顔を見守っていた。生来老人嫌いの母であったが、今や彼女自身年齢から言えばれっきとした老人であった。私は、自分の老齢を意識し、それに反抗しようとした、そんな母が哀れに思われた。
信濃の姨捨というところが、私に妙に気になり出したのはそれからのことである。
私はその頃から仕事の関係で旅行する機会が多くなり、信濃方面にも年に何回となく出掛けるようになったが、中央線を利用する時は、丘陵の中腹にある姨捨という小駅を通過する度に、そこから一望のもとに見降ろせる善光寺平や、その平原を蛇の腹のような冷たい光を見せながらその名の就如く曲がりくねって流れている千曲川を、他の場所の風景のように無心には眺めることができなかった。また信越線に依る時は、列車が逆に中央線から眺め渡した低い平原の一部を走るので、戸倉駅附近になると、窓越しに、僅かに屋根の赤さでその存在を示している姨捨駅を向かい合っている丘陵の斜面に探し出し、その附近一帯を、あの辺りが姨捨なのかといった一種の感懐をもって、眺め渡すのが常であった。
勿論、私は観月の場所としての姨捨には殆ど関心らしい関心は持っていなかった。信濃の清澄な空気を透して、千曲川、犀川を包含した、萬傾一碧の広野に照り渡る月の眺めはなるほど壮観ではあろうと思ったが、戦時中満州の荒涼たる原野に照る月を眺めた私には、姨捨の月がそれに勝るものであろうとは思われなかった。
私が姨捨附近を通過する時、例外なく私を襲って来る感慨は、必ずその中に老いた母が座っていた。ある時私は姨捨駅を通過する時、自分が母を背負い、その附近をさまよい歩いている情景を眼に浮かべた。
勿論時代は太鼓である。丘陵の中腹から裾に点在している現在の人家の茂りは見られず、荒涼たる原野が広がっている。しかも夜で月光が絵本「おばすて山」の挿話のように辺り一面に青く降り、私と母の影だけが黒い。
「一体、私をどこへ棄てようと言うの?」
と、母は言う。七十を過ぎて体全体が小さくなり、その体重は心細いほど軽いが、私はともかく一人の人間を背負って方々歩き廻った果てなのでひどく疲れている。一足歩く度に足許がふらつく。
「ここらにしますか。この辺に小さい小屋を建てたら--?」私が言うと、
「厭、こんな場所!」
母の声は若い。体は弱っているが、気持ちは確りしていて、生まれつきの妥協のなさは、自分が棄てられるこのような場合にも、いささかの衰えを見せていない。
「崖の傍では、雨の時山崩れでもしたら危ないじゃあありませんか!もっと気の利いたところはないものかしら」
「それがないんです。大体、お母さんの望みは贅沢ですよ。やはり、先刻見た寺の離れを借りることにしたらどうですか」
「おお、いや、厭!」
母は背中で、わが儘な子供のように手足をばたつかせる。
「あそこは夏には藪蚊が多いと思うの。それに建物も古いし、部屋も暗くて陰気じゃあありませんか。他人のことだと思って、不親切ね、貴方は」
私は途方に暮れてしまう。
「それなら、やはりいっそのこと家へ戻りましょう。こんなところに住むより、家へ帰って、みんなと一緒に賑やかに暮した方がどんなにいいか判らない」
「また、そんなことを言い出して!折角家を出て来た以上、わたしは、家へだけはどんなことがあっても帰りません。又みんなと一緒になるなんてまっぴらですよ。家の者も厭、村の者も厭、もう私は老い先短いんだから、気のすむように一人で気随気儘に住まわせておくれ」
「我が儘ですよ、お母さんは!」
「我が儘ですとも。我が儘は生まれつきだから仕方ありませんよ。それにしても、私の顔さえ見れば、貴方は我が儘だ、我が儘だと言う。棄てられるというのに何が我が儘です」
「いくら困ったって、私は家へなんか帰らないから。早く棄てておくれ」
「棄てたくても、適当な場所が見当たらないじゃないですか」
「見当たらないのは探し方が悪いからです。一人の母のために、棄てる場所ぐらい探してくれたって罰は当たりますまい」
「先刻から足を棒にして探しているじゃあありませんか。私がふらふらしていることは知っているでしょう。一体、どのくらい歩いたと思います。当ってみた家だけでも十軒はありますよ」
でも、私にはどこも期に入らないんですもの。大体、住めそうな家を借りるのは諦めて、気に入る場所を探し、そこへ私が小屋を建ててあげようと言っているでしょう。それを、どこへ言っても文句ばかり言って」
「文句だって言いますよ、老人ですもの。----ああ、ほんとうに何処か一人きりで静かに住める場所はないものかしら。もっと親身になって探しておくれよ。----ああ、腰が痛いわ。もっと軽くふんわりと背負っておくれ。おお、寒くなった。月の光がちくちくと肌を刺すような気がする。」
「暴れないで静かにしていて下さいよ。私も疲れているんです。お母さんは背負われているからいいが、私の方は背負っているんですからね。お願いです。やはり、家へ帰ることにして下さい。みんなもどんなに安心するでしょう。
「厭!」
またしてもぴしゃりと母は言う。
「厭でも知りません。こんなところを一晩中うろついていられますか。本当に私は帰りますよ」
すると、母は急に打って変わった弱々しい声を張り上げる。
「堪忍しておくれ。それだけは堪忍しておくれ。どうか家へだけは連れ戻さないでおくれ。もう何にも言いません。どんなところでも結構です。棄てておくれ。我が儘は言いません。あそこに小屋が見える。あそこでもいい。あそこへ棄てておくれ」
「あの小屋は先刻見た時隙間が冷たいとおっしゃったじゃあありませんか。それに雨漏りもする!」
「どうせ気には入らないが、でも、仕方がない。もう辛抱します。一軒家だから、その点は静かにのんびりと住めるでしょう」
「だが、あそこはやはりひどいですよ。子供として母親をあそこには棄てられません」
「ひどくても構わない。さ、早く、あそこへ棄てて行っておくれ」
そう母は言う。こんどはそこに佇んでいる私の体に、月光が刺すように痛く滲み込んで来る。
----私の眼に浮かんで来たのは、こうした私と母との一幕である。私と私の背に負われている母との会話は自然にすらすらと私の脳裡に流れ出て来たものである。母は我が儘であるが、その表情には真剣なのもがある。棄てておくれ、棄てておくれと言っている母のせがみ方には、ある実感がにじみ出ている。
私はわれに返ると、空想の中の母に、いかにも自然に母らしい性格がにじみ出ていることが可笑しかった。姨捨を舞台とした私の空想の一幕物は、例の棄老説話の持つ主題とはかなり遠く隔っていた。私の場合は母自らが棄てられることを望んでいるからである。棄てられたいと言い張ってきかないのである。私はそんな背の上の母を持て余して、姨捨の丘陵地帯をさまよい歩いているのであった。併し、その可笑しさとは別に、自分の心のどこかに氷の小さい固魂のようなものが置かれてあるのを私は感じた。可笑しさが消えると、それに替わって、冷んやりした思いが次第に心の全面に拡がって来そうであった。
私は自分が棄てられたいとせがんでいる母を想像したことが厭であった。むしろ自分が母を棄てようとしている場面を想像する方が、まだしも気はらくであるかも知れなかった。
それにしても、私はどうしてそんな母を想像したのであろうか。私の長い間そのことを考えていた。そして私は私の背の上に、母に替わって自分を置いてみた。私が老人になったら、今空想した母のように或いは自分はなるかも知れないと思った。

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 楼主| 发表于 2006-9-9 18:06:17 | 显示全部楼层

高级日语(二)课文

本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:14 编辑

第二課 短歌の鑑賞
作家の創作活動の成果である作品に対して、読者の側から働きかけて、それを味わうという作業が作品鑑賞である。食物を味わうということは食物を口中に入れ、それをかみ砕いたり、舌頭に乗せたりして、その食物の味わいをいろいろに味わい分けることであるが、文学作品を味わうのもそれと少しも変わらない。
作品に直面したらまずそれにぶつかっていって、自分の歯でよくかみ砕き、自分の舌で味わうことが大切である。人が味わった結果の報告を聞き、そのような味のものなのかということを知って、それで味わったような気持ちになっている人もあるが、それは本当に味わったことにはならないのである。牛肉はたいへん栄養価が高いと聞き知っただけでは、少しも自分の体の栄養にはならないのと同じように、人の鑑賞の言葉をいくら聞いても、本当に自分の感性を磨いたり、人生を豊かにすることはできないのである。牛肉は食べてみなければうまさも栄養価も分からない。そのように、文学もまた自分自身で味わってみなければならないのである。
作品にぶつかって、よく高級すぎるとか、あるいは複雑すぎるとかの理由で、途中で投げてしまう人がある。優れた作品がみんな難しいというわけではないが、優れた作品のようさというものはそんなに簡単に味わいきれるものではない。我慢強く何度もかみしめ、舌頭にころばしているうちにだんだんとその味が分かってくるのであるから、途中で投げてしまうことは浅はかである。味わうということは鍛錬であることを知らなければならない。鍛錬によって鑑賞力は高まっていくのである。
こうした鍛錬を回避し、他人の舌を借りてばかりいては、一生本当に文学鑑賞の楽しさを知らないでしまうことになる。その楽しさを知らないでは、やがて人生とか会社とかに対する本当の理解や判断ができないことになってしまうのである。
短歌は五句三十一音という短い形式の中に、煮つめた内容が盛られている文学であるから、一読してすぐにその味わいに徹するというぐあいにはいかない場合が多い。努力して何度も読んでみなければならない。言葉の中に難しいものがあったら、辞書を繰れば分かる。しかし言葉の意味が分かったからといって、一首のすべてが氷解したということにはならないこともある。作者のものの考え方、感じ方、あるいは全体の気分などについて考えてみなければならない。それらはおおむね言葉の外にある場合が多いのであるが、そういったところまで深く立ち入らなければ、本当の味わいに徹したとは言われないのである。
わが指の、高き節見よ、世に経るは、難しといはし、手を出しぬ父----窪田 
この歌をよく読むと、父のことを歌ったものであるということが分かる。そして「わが指の高き節見よ世に経るは難し」というのは父の作者に言った言葉であることが知られる。そこで父はそう言って作者の目の前にその手を差し出したという事実を歌ったものだということがはっきりしてくるわけである。
さて次は、父の言葉の吟味に入っていかなければならない。節の高くなっている指を見よというのはどういうことを意味しているのか。それは、働いて働いて手を指を労して苦しんできたために、こんなに節が高くなったのだということを知れということなのである。次の、世の中に生きていくことは難しいことだという言葉は、その苦しみの体験から得た父の人生観であることが自然に納得されるであろう。結局生易しいことでは人生を渡っていくことはできないのだぞと、父は作者に諭したのであるということが感得される。
これで大体この歌の意味は分かったが、これだけで鑑賞が終わったとは言われない。作者がこの歌を作った動機はなんであったのかを考える必要がある。おそらくこの歌を作ったとき、その父はもう亡くなっていたのであろう。父に死別してから、作者は世に出ていろいろな苦しみを経てきたにちがいない。そして父の生前に示してくれた教えがしみじみと分かってき、父が慕わしく懐かしくなって、この歌を作ったのである。父が真剣に生きた姿の尊さを思い、子のために世に生きる覚悟を諭してくれた有り難さに感謝し、強く生きていこうと決意している作者の姿が、ここにまざまざと浮かび上がってくるのである。その姿に我々は感動しないではいられない。そして、そこから自然な形で我々は世に生きることに対する一つの指針を得るのである。
ここまできて、この歌の鑑賞は一応達せられたのではないかと思う。なお付け加えれば、作者の父は農に従い生涯を終わった人ではなかったかということが、節高の指ということから想像される。
真実を歌った歌であれば、一首の歌からも作者がどういう人であるかということなどまでも、鑑賞によって大体のことが分かるわけである。もちろん作者がどういう人かということを、略伝などによって知ることも大切であるが、そういったいわば作品の周辺ばかりつついたところで、鑑賞は遂げられない。何よりも作品そのものに体当たりしていって、作者の感動の根元を突き止め、その感動を自らのものとして、そこから作者を知ることが大切なのである。

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 楼主| 发表于 2006-9-9 18:07:07 | 显示全部楼层

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本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:14 编辑

山坊の、夜語りに更けて、向く僧は、精進食を、たもつ歯のきよくあり----中村
この歌には「比叡山」という題がある。題のある歌は、その題を初めにはっきりと頭に入れて味わう必要がある。ここで山坊というのは比叡山の山坊であることは言うまでもない。比叡山は、天台の本山の延歴寺のある所であることはだれでも知っている。その寺の僧たちの住んでいるところが山坊で、その坊には寺に参詣した人々を宿泊させる設備ができている。一読してこの歌は、作者が比叡山に登りその坊に泊まった夜に得た一つの感動を歌ったものであることが知られるのである。
坊に泊まった夜、夕食を終えて、僧と作者はいろいろと語り合っている。夜更けの暗いともしびの下でこちらを向いて話し掛けている僧の歯の美しさが、作者にひどく印象的であった。ものを言うとき、異様なまで白かったのである。僧の歯のそのように清らかなのは、直観でその僧が肉食をしないで専ら野菜食をしているからであるということを知った作者は、ためらうことなく「精進食をたもつ歯」と言ったのである。ひとときその歯の清らかさに魅せられ、そしてその感動を一気に歌ったのである。
俗界にある人間が、たまたま法の山に登り、その山に修行している僧と一夜を過ごし、その清浄の生活を眼の当たりにしたときの驚きとでもいったものが、こうした一首を成さしめたのである。
僧の清らかな歯によって、法の山の清浄さが象徴されている。そして俗界に身を置く者の、法の山に生きる人の清浄な生き方、ひいては更に法の山のものに対する謙虚な賛嘆の思いが込められているのである。
旅をしてその地の風景などをスケッチ風に歌にすることは、さして難しいことではない。しかしそういった歌は、その地に売っている絵はがきとさして変わりのないものである。この歌などは、旅の歌として、深い心でとらえた旅の地の特殊な雰囲気と、自らの心情との溶け合った深い境地を示したものであると言ってよいであろう。
芋の葉に、こぼるる玉の、こぼれこぼれ、小芋は白く、凝りつつあらむ----長塚
難しい言葉は何もない。作者は、今、里芋の畑に立ち向かっている。そして、広葉にたまった露の玉のころころと土にこぼれこぼれしている状態を見ている。目に見ているのはただそれだけである。しかし作者の心眼は、こぼれた露で潤った土の中に刻一刻と育っている小芋を映像させているのである。そこで、露の潤いでかれんな小芋が親芋のめぐりに白く固まっていっているであろうと言ったのである。小芋の姿など、実際見える道理はない。けれども作者の畑の作物に対する鋭く、そして優しい愛情は、土の中に育っている小芋の生命を探り当てているのである。里芋が小芋を土中に育んでいくころと言えば、ようやく秋の気配が地上に動き始めるころである。この歌からはそういった秋気がさわやかに感じとられると同時に、作者の自然の推移に対する行き届いた鋭い感受性にひきつけられる。芋の葉から露がこぼれて土を潤しているぐらいのことならば、だれにでも歌うことができる。その様子を写せば足りるからである。しかし、不可視の小芋までこうしてとらえることは容易ではない。心が深くなくてはできないことである。更に言うならば、土というものに本当の愛情を持っている人でなければこういう歌は成し得ないのである。
この作者は実は農家に生まれ、農事に従った人であるが、そういったことを知らなくとも、鑑賞眼を深めれば、やはり土に心から親しんでいる人の歌であることを見抜くことができるのである。
街をゆき、子どもの傍を、通るとき、蜜柑の香せり、冬がまた来る。----木下
この歌もまたその意味をなんの抵抗もなく汲み取ることができる。街を歩いていて、そこに遊んでいた子供の傍を通った。すると思いがけず蜜柑の匂いがしたのである。作者はその匂いをかいだとたんに、鋭く冬の季節を感じたのである。そして、「ああ今年もまたもう冬がやって来るのだ。」と言う感慨を覚えたのである。
十月の声を聞くともう蜜柑は、八百屋の店先に姿を現す。しかしまだその皮は真っ青である。そして日を経るに従って、黄色を帯びたものが出てくる。この歌は恐らく、まだ青みの勝った蜜柑の出回っているころの印象であろうと思う。成熟した蜜柑よりも、はしりのそれのほうがはるかに芳しいものである。作者は「冬がまた来る」と冬を予望しているのであるから、そのことからも、季節の冬のやって来るのにはまだ少し間ある時期の経験であるということが知られるのである。
表現の上から言って、「冬がまた来る」という口語が大胆に使われていることに注意される。「蜜柑の香せり」という文語表現に続いていながら、なんの不自然さも感じさせないというところにこの作者の技術の巧みさが見られるのである。
わたしはわたしの歯や舌で四首の歌を味わって、その味わいを綴ってきたのであるが、これはあくまでわたしがわたしの力で味わったものであって、他の人の味わった言葉などはいっさい借りていない。また人にこのわたしの味わい方を押し付けようとも思わない。しかしわたしが全力でぶつかっていって味わおうとしている態度は、少なくとも、短歌を鑑賞しようとする人々の参考にはなるであろう。
繰り返して言うことになるが、鑑賞は人のためにするものではない。自らのために自らが作品に働き掛けていって、正しく直観し、確かに享受することである。そして自らの人間形成に役立て、自らの人生を豊富にすることである。単なる知識を得るためにするものでもなければ、功利のためにするものでもないのである。鑑賞に入るために、作者に対する知識とか、作者の流派とか主張とか、あるいは時代とかに対する解説とかを先行させることは決して正しいことではない。作品そのものにぶつかって鑑賞を全うした後に、そういったことにも及ぶというのが正しい順序である。

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 楼主| 发表于 2006-9-9 18:10:31 | 显示全部楼层

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本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:14 编辑

第三課 鵜
十二月初旬の或る日暮れ近く、わたしは北国の或る海岸の浜辺を、旧友の某(としておこう)と二人で歩いていた。
私は某を最初から訪ねる予定ではなかった。偶々ある用事のためA市へ行った私は、そこでふと彼がそっちの方面のKという村にいることを思い出したのである。聞くとKはそのA市から四つ目の駅から一時間ほどバスで行った海岸にあるとのことで、それは私が帰りにどうせ通る沿線であった。私は珍しくも東京からはるばるAくんだりまで来ながら、その近所の自分の所へ知りつつ立ち寄らなかったことが後で分かったとしても、それをわるく思ったりする彼でないことは知っている。しかし折角ここまで来た序のことでもあり、このまま彼の顔を見ずに帰って了うのも心残りであった。
某は医者であるが、本来臨床医家ではない。しかし戦争中郷里に疎開していた間に、その近くにあるK村が無医村だというので、頼まれてそこで開業し、それきり居ついて了った形のようであった。細君は終戦前に亡くなり、私の次女と同い歳であるただ一人の愛嬢R子も、無論疾うに片づいているので、今は彼一人きりのわけと思われた。彼も私も共にひどく筆不精な上、別に用事もないので、文通することも滅多にない。人の話によると、細菌学者としての彼は「大したもの」なのだそうで、あんな田舎に捨てておくのは勿体ない。無医村だというなら若い代りの医者はいくらもいる。何も大ものの彼である必要はないとさえいう。しかし私は彼の仕事の方のことは皆目無知であり、彼も亦私の書くものなぞ、読むことはないらしい。しかしそんなことはどうであろうと数十年来の友誼というものは格別である。何年に一度という位にしか顔を合わせる折もなく、会ったといっても、他愛ない思い出ばなしくらいしか話の種はない。世間話すら、彼は私以上に知らなさすぎるので、はずまないのである。むろん愛想らしいことなぞはどっちも何一つ言うではないが、それでも互いの理解と信頼とには何の変わりもない。ただ行儀わるく寝転んで相対しているだけで、二人は何となく落ちついた気安さに浸るのである。
私と同じく、彼も少量ではあるが酒は嗜む。それで私はA市でもとめたサントリー一本をみやげに、特に普通列車に乗り、K村に着いたのが三時ころであったか。
「Nだよ」
何べんも読んだ挙句、二階から降りて来て、度の強い眼鏡越しに訝るようにこっちを見据えている彼に、私はいった。
「Nか。何だ。だれかと思った。どうしたんだ」
私は来たわけを話し、六時何分に夜行の急行列車の停まるO駅へ行かねばならない予定を告げた。彼はただ「そうか」といい、「散らかっているが」とその二階へ私をつれて上った。
前よりは一層禿げ、相変わらずの無精鬚もそのまま延びて、僅かに残っている頭髪とともに真っ白になっている。敷きっぱなしの寝床、どこということなく書籍類の雑然としている中に、電気スタンド、顕微鏡、書きかけらしい原稿、灰皿などの散らかっている机、薬棚、箪笥。その他には何もないといっていい殺風景な様は、勤勉な貧乏書生の下宿さながらである。
およそ装飾になる色気のある物の何一つない、そうした荒涼ともいうべき部屋の中に、ただ一つ燦然と輝いているのは、顕微鏡で、商売道具とて、一町歩の土を売った値で買ったという、ツアイス製とかいうその顕微鏡は素人目にも普通の品よりも大きく、複雑らしく見え、彼が「命の次に」大事なものというだけあると思われた。
「東京が何でそんなにいい。喧しくて、うるさいだけじゃないか」
こんな所でも住めば都かね、という私の言葉に、彼は答えた。もともと昔から変わり者で、仲間と賑やかに談笑するなどということはなく、いつも独りで何か考えている。それが別に孤独というのではなく、他を見下しているわけでもなく、超然とした風であった。今でも場所の淋しいとか、不便とか、無刺戟で退屈だとかいうことに、あまり痛痒を感じないことは、私とはややちがう。衣食住にかけてはどれ程簡素でも平気なのだ。だから東京の雑っとうの中にいればいるで又一向平気なのだが、音響のうるさいことだけは苦手で、だからラジオも無論引いてはない。それに一度銀座かどこかで踏切りの規則のあることをつい失念して、のこのこ横断し、自動車に跳ね飛ばされて大きな頭をしたたか撃ったのに懲りて以来、東京に反感を抱いていることは事実なのである。
「東京へ帰ろということはたびたび勧められるし、こんな片田舎で村夫子然と一生くすぶって終わるつもりもべつにないんだがね。馴染みになったものや患者たちが、しきりに離れないでくれといって、親切にいろんな物を持って来てくれたりすると、つい居てやりたくなるし、第一、この辺にはトラホーム患者がまだ相当多いんで、研究のためには却って東京より都合はいいんだ。それにどこにいたって結局自分に出来ることはおんなじだと思うもんだからね」
まだトラホームの研究を続けているのかという私の問に、
「さあ、もう何年になるか、まだいつまで続くか」と天井を仰いで、彼はそうつづけた。何でも同じ名の病原菌によるこの眼病の治癒には、世間の研究かはもう匙を投げてしまったらしのだが、無類に根気のいい彼はまだ匙を投げず、厭きずしがみついていると見える。そんなことも一つは経済的に彼が保証されているためであることも争われないであろう。大地主の家の後継ぎに貰われ、その方は終戦後の改革で大痛手を蒙ったわけと思われるが、それでも学究以外に何の余念もない無欲な彼一人の糊口を塗する位のことは何でもないのであろう。それに、私は、あれはどういうひとかひとかなどと、訊こうとはしなかったが、五十格好と見える品のいい婦人が、茶や火鉢の炭を持って来たりしたのが、彼の身の回りの世話を焼いているのだろうと思われた。洋服に穿いている足袋の孔がちゃんと黒糸でかがってあり、自分でそんなことをする彼でないことからもそう察しられた。果たして後に聞き知った噂によると、それは戦死した或る艦長の未亡人だとのことで、その人に対する彼の言葉の親しさからも、私はその時、心ひそかに彼のために祝杯を乾したのだった。

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 楼主| 发表于 2006-9-9 18:11:24 | 显示全部楼层

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本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:14 编辑

それにしても私には時間が切迫していた。それで久しぶり彼と持参の酒を二三杯汲み交わした後、彼の案内でここの海岸を見にぶらつき、そこからバスの停留所へ廻ることにした。私が彼に何もすすめないと同様、彼も亦何年ぶりに逢った私の忙しない辞去を強いて引きとめはしない。それでも私の訪問が彼を悦ばせたことは十分わかっているのである。
半ば老い枯れた松並木の高い砂丘が丁度堤防のように蜿蜒とつづいているので、砂丘に登らないと海の眺めは見えない。その代わり、それが防風の用をなしているので、村は割りに安静なのだろうか、それにしてもそれは珍しい光景であった。
人っ子一人見えない海岸にはおよそ岬というものが見えず、殆ど真一文字のようにのべたらな浜辺は何里つづいているかと思われる。港とか入江とかいうものはこの近所にはどこにもなく、舟の停泊のしようがないから、漁船の影一つ見えない。
日はすでに黄昏に近く、凍てついたような重い暗灰色の雲の下の水平線に近く、淡い焔いろに夕陽の映えた断層が一条、炉中の剣のように流れている。その仄かな光をうけて、水面には、冬らしい霧を透してほんのり桃色が夢のように射している。
「大洋なのにいやに静かだね。まるで湖水だ」
砂浜に彼と並んで腰を卸した私はいった。
「これなら音のきらいな君も滔の音に弱らされることもないだろう」
「ここの海は波打際からいきなり深いんだ。もちろん風の強い日はかなり高く海鳴りはするがね、四五十年前に大海嘯があったという話で、一旦荒れたら怖ろしかろうと思うが、ふだんは大抵こんな小さいな波がぴたぴた寄せるくらいのものだ。一度大きな帆前船が難破してこの岸へ打ち寄せたことがある」
しかしじっと動かずにいると寒いので私達は又静かな渚づたいに歩き出した。
一匹の野犬が私たちの近づいたためか、長い尾を垂れてとぼとぼ逃げていった。鱶らしい巨大な魚の死体が、半ば骨を露わして転がっていた。それをくらい厭きらしい。
「あれは何だ」
夕闇の水にそこはかと浮かんでいる一羽の大きな鳥をふと見つけて、私は指さした。
「鵜だ、あれはよく来るんで、僕はお馴染みなんだ」
「あれってことが判るほど、お馴染みなのか」
「判る。いつでも一羽で、年をとっているのか、背中に羽の禿げたところが目印になっているんでね」
「鵜はたいてい群れをなしている禽ではないのか」
「何だか知らんが、あれはいつも一羽だ。ギャアギャアいう厭な声だが、ときどき寂しい声で鳴くよ」
「普通のより大きいようだね。潜っている間も格別永いようじゃないか」
実際私はその呼吸のつづく永さには驚かざるを得なかった。姿がなくしたかと思うと、うんと遠く隔った所に又ぽかりと浮かぶそれまでの時間は、非常な永さに感じられた。
「水禽だもの。あれ位当たり前だよ。でなくちゃ餌は獲れやしない」
彼は驚く私を笑った。しかしそれにしてもそれは異常に私には思われた。鵜は私の見ている間に四度もぐった。そして四度目にもぐった時は、もう白っぽい霧の中に吸われて了ったように、再び浮かび上ったその姿を認めることは出来なかった。鵜はもう遥か沖の方へでも行って了ったのであろうか。そんなこともどっちとも判らず思われた。友は外套のポケットから「バット」を出して私にすすめた。かの空の茜色の断層は、見る見るというほどの速さで、いつの間にか蒼茫とした灰白色に色退せていた。寒さに颤える手でやっと燐寸をすって、二人は吹かした。その火は赤く見えた。時計を出すとまだ少し時間の余裕はあったが、私達は海岸を去り、停留所の方へ歩いた。一軒の荒物屋で私は煙草を買った。が、「どうぞおあたり下すって」といって、そこの主人が火鉢を押してすすめたりするのが、土地の人気のよさとともに、某が「先生」としていかに皆から愛敬されているかを語っているように思われた。そこで暫く待った後、私はバスに乗って、彼への別れの帽子を振ったのであった。
彼奴もあの鵜みたような奴だ。
このどことなく非凡な男について、バスの上の私は、そんなことを思うのだった。歳の癖でついふと、「又再び----会うことがあろうか?」なぞと。

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 楼主| 发表于 2006-9-9 18:12:24 | 显示全部楼层

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本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:14 编辑

第四課 かけす
夜明けからかけすが鳴き騒いでいる。
雨戸をあけると、目の前の松の下枝から飛び立ったが、またもどって来たらしく、朝飯の時は羽音が聞こえたりした。
「うるさい鳥だな。」と弟が立ちかかった。
「いいよ、いいよ。」と祖母が弟を止めた。
「子供をさがしているんだよ。昨日雛を巣から落ちしたらしいよ。昨日も夕方暗くなるまで飛び廻っていたが、わからないのかね。でも感心なものさ、今朝もちゃんとさがしに来るんだもの」
「お祖母さん、よくおわかりになるわね。」と芳子は言った。祖母は目が悪い。十年ほど前の腎臓炎のほかには病気らしいものをしたことはないが、若い時からのそこひで、今はもう左眼だけがかすかに見えるか見えないくらいであった。茶碗も箸も手渡してやらねばならない。勝手知った家の中は手さぐりで歩くけれども、庭へひとりで出ることはない。
ときどきガラス戸の前に立っていたり、座っていたりして、掌をひろげながら、ガラス越しの日ざしに五本の指をかざして、とみこうみしている。根限りの生命をその視力に集中している。その時の祖母が芳子は恐ろしかった。うしろから呼びたいように思うが、そっと遠くへかくれてしまうのだった。
そんな目の悪い祖母が、かけすのなき声を聞いただけで、眼に見たように言ったので、芳子は感心したわけだった。
芳子が朝飯の後かたづけに台所へ立つと、かけすは隣の屋根で鳴いていた。
裏庭には栗が一本と柿が二三本ある。その木を見ると細かい雨の降っているのがわかる。葉のしげりをバックにしないと見えないような雨である。
かけすは栗の木に飛び移って、それから低く地上をかすめて飛んだかと思うと、また枝にもどった。しきりに鳴く。
母鳥が立ち去りかねているのだから、雛鳥はこのあたりにいるのだろうか。
芳子は気にかかりながら部屋へはいった。朝のうちに身じまいをしておかねばならない。
昼すぎに父と母とが芳子の縁付く先の母親をつれて来ることになっている。
芳子は鏡台の前に座って、爪の白い星をちょっと見ていた。爪に星が出来るのはなにかもらうしるしだと言ったものだが、ウィタミンCかの不足だと新聞に出ていたのを思い出した。化粧は割りに気持ちよく出来た。自分の眉も唇もみんな可愛くてしかたがなくなって来た。着物も楽に着られた。
母が着付けの手伝いに来てくれるかと待つ思いもあったが、ひとりで着たほうがよかったと思った。
父母は別居している。二度目の母である。
父が芳子の母を離婚したのは、芳子が四つ弟が二つの時だった。母は派手に出歩いて金遣いも荒かったということだが、ただそればかりでなく、離婚の原因はもっと深刻なものであったと芳子もうすうす感づいていた。
弟が幼いころ母の写真を見つけ出して父に見せると、父はなんとも言わなかったが、恐ろしい顔をして、いきなりその写真を引き裂いてしまった。
芳子が十三の時、家に新しい母を迎えた。後に芳子はよく十年も父がひとりでいてくれたと思うようになった。二度目の母はいい人で、和やかな暮しが続いた。
弟が高等学校に上って寮で暮すようになると、義理の母への態度が目に見えて変って来た。
「姉さん、母さんに会って来たよ。結婚して麻布にいるんだ。すごく綺麗ななんだぜ。僕の顔を見て喜んだよ。」
弟に突然言われて芳子は声も出なかった。顔を失ってふるえ出しそうだった。
向うの部屋から母が来て座った。
「いいよ、いいよ。自分の生みの親に会うのだもの、悪いことじゃない、当たり前よ。こんな時が来るだろうってことは、母さんだって前からわかってたんだもの。別になんとも思いやしないよ。」
母は体の力が抜け落ちたようで、芳子には痩せた母が可哀想なほど小さく見えた。
弟はぷいと立って行った。芳子は思い切り打ってやりたかった。
「芳子さん、あの子になんにも言うんじゃありませんよ。いうだけあの子を悪くするんだから。」と母は小声で言った。
芳子は涙が出た。
父は弟を寮から家へ呼び戻した。芳子はそれですむだろうと思っていたのに、父は母をつれて別居してしまった。
芳子は恐ろしかった。なにか男の憤怒か怨恨かの強さに打ちひしがれたようだった。前の母につながる自分達も父は憎んでいるかと疑った。ぷいと立って行った弟も男の父の恐ろしさをうけついでいるかと思えた。

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 楼主| 发表于 2006-9-9 18:12:57 | 显示全部楼层

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本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:14 编辑

しかしまた、前の妻と別れてから後の妻を迎えるまで十年間の父の悲しさと苦しさも、芳子は今になってわかるようにも思えた。
そうして別居している父が縁談を持って来た時、芳子は意外だった。
「お前には苦労をかけてすまなかった。こうこういうわけの娘ですから、お嫁というよりも、楽しい娘時代を取りもどさせてやってくださいと先方の母親によく話してある。」
父にそんなことを言われると芳子は泣いた。
芳子が結婚すれば、祖母と弟とを世話する女手がないから、父達は祖母達と一つになるということであった。それが先ず芳子の心を動かした。父のことから結婚を恐ろしいとは思っていたが、実際の話にぶっつかるとそう恐ろしいとは思わなかった。
身支度がすむと芳子はそぼのところへ行って立った。「お祖母さん、この着物の赤いのお見えになって?」
「ぼうっとそこらの赤いのはわかるよ。どれ。」と祖母は芳子を引き寄せて着物や帯に目を近づけながら、
「もう芳子の顔は忘れたよ。どんなになっているのか、見たいねえ。」
芳子はくすぐったいのをじっとしていた。祖母の頭に軽く片手をおいた。
父達の来るのをその辺まで出迎えたく、芳子はぼんやり坐っていられないので庭へ出た。掌を開いてみたが濡れるほどの雨ではない。裾をからげて、小さい木のあいだや熊笹のなかを丹念にさがしていると、萩の下の草の中に雛鳥がいた。
芳子は胸をどきどきさせて近づいたが、雛はじっと首をすくめたままだった。たやすくつかまえた。元気がなくなっているらしい。あたりを見廻したが母鳥はいない。
芳子は家へ走りこんで、
「お祖母さん、雛鳥がいたわ、つかまえたわ。弱ってるわ。」
「おや、そうかい。水を飲ませてごらん。」
祖母は落ちついていた。
茶碗に水を汲んで嘴を入れてやると、小さいのどをふくらませて可愛く飲んだ。それで元気を取りもどしたのか、「キキキ、キキキ??????。」と鳴いた。
母鳥が聞きつけたらしく飛んで来ると、電線に止って鳴いた。雛は芳子の手の中で身もだえしながら、
「キキキ??????」と呼んだ。
「ああ、よかったね、早くお母さんに返しておやり。」と祖母が言った。
芳子は庭へ出た。母鳥は電線を飛び立つたが、向うの桜の梢からじっと芳子の方を見ていた。
芳子は掌のなかの雛を見せるように片手を上げてから、そっと地上においた。
ガラスの戸蔭から様子を見ていると、空を仰いで悲しげに鳴く雛鳥の声を頼りに母鳥が次第に近づいて来た。すぐ傍の松の下枝まで母鳥がおりて来た時、雛は飛び立たんばかりに羽ばたきして、その勢いでよろよろと前に歩くと、ひっくりかえりそうに倒れながら、鳴き立てた。
それでも母鳥は用心深くなかなか地上に降り立たない。
まもなくしかし、すっと一直線に雛の傍へ来た。雛のよろこびようはない。首を振り振り、ひろげた羽をふるわせて、甘えるようである。母鳥は餌をやるらしい。
芳子は父や義理の母二人が早く来てくれて、これを見せたいものと思った。

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 楼主| 发表于 2006-9-11 16:07:38 | 显示全部楼层

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本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:14 编辑

第五課 龍舌蘭
一日じめじめと、人の心を腐らせた霧雨もやんだやうで、静かな宵闇の重く湿った空に、何処かの汽笛が長い波線を引く。さっき迄「青葉茂れる桜井の」と繰り返していた隣のオルガンが止むと、間もなく門の鈴が鳴って軒の葉桜の雫が風のないのにばらばらと落ちる。「初雷様だ、明日はお天気だよ」と勝手の方で婆さんが独り言を云う。地の底空の果てから聞えて来る様な重々しい響が腹にこたえて、昼間読んだ悲惨な小説や、隣の「青葉茂れる桜井の」やらが、今更に胸をかき乱す。こんな時には何時もするやうに、机の上に肱を突いて頭をおさえて、何もない壁を見詰めて、あった昔、ない先の夢幻の影を追う。何だか思い出さうとしても、思い出せぬ事があってうっとりしている、雷の音が今度はやや近く聞えて、ふっと思い出すと共に、ありあり目の前に浮かんだのは、雨に濡れた龍舌蘭の鉢である。
河野の儀さんが生まれた歳だから、もう彼是十四五年の昔になる。自分もまだやっと十か十三位であったらう。来る幾日儀雄の初節句の祝いをしますから皆さん御出で下さるやうにチョン曲げの兼作爺が案内に来て、其の時に貰った紅白の餅が大きかったことも覚えている。いよいよその日となって、母上と自分と二人で、車で出掛けた。折柄の雨で車の中は窮屈であった。自分の住まっている町から一里半余、石ころの田舎道を揺られながらやっと姉さんの宅へ着いた。門の小流の菖蒲も雨に萎れている。もう大勢客が来ていて母上は一人人々に懇ろに一別以来の辞儀をせられる。自分はその後に小さくなって手持ち無沙汰で居ると、折りよくここの俊ちゃんが出て来て、待ち兼ねていたという風で自分を引張って鯉池の鯉を見に行った。姉さん処には池があって好いと子供心にうらやましく思うて居た。池は一寸した中庭に一杯になっていて、門の小の水が表から床下を潜ってこの池へ通ひ裏田圃へ抜けるようにしてある。大きな鯉、緋鯉がたくさん飼ってあって、この頃の五月雨に増した濁り水に、おとしなく泳いでいると思いと折々凄まじい音を立てて跳ね上がる。池の囲りは岩組になって、痩せた巻きかわしが少しあるばかり、そして隅の平たい岩の上に大きな龍舌蘭の鉢が乗っている。姉さんがこの家へ輿入れになった時、初めてこの鉢を見て珍しい草だと思ったが、今でも故郷の姉を思い度にはきっとこの池の龍舌蘭を思い出す。今思い出したのはこの鉢であった。
池を隔てて池の間と名の付いたこの小座敷の向い側は、台所に続く物置の板部の、この上が一寸しやれた中二階になっている。
あの頃の田舎の初節句の祝宴は大抵二日続いたもので、親類縁者は勿論、平素は余り往来せぬ遠縁のいとこ、はとこ迄、中には随分遠くからはるばる泊りがけで出て来る。それから近村の小作人、出入りの職人まで寄り集めって盛んな祝いであった。近親の婦人が総出で杯盤の世話をし、酌をする。その上、町から芸者を迎えて興を添えさせるのが例なので、この時も二人来ていた。これも祝いのある内は泊まっているので、池の向うの中二階はこの芸者の化粧屋にも休憩所にも又寝室にもなっていた。
夕方近くから夜中過ぎるまで、家中唯目のまわるほど忙しい騒がしい。台所では皿鉢の触れ合い音、包丁の音、料理人や下女等の無作法な話声などで一通り騒がしい上に、猫、犬、それから雨に降り込められて土間へ集まっている鶏までが一層の賑やかさを添える。奥の間、表座敷、玄関ともいうはず、一杯の人で、それが一人人々に御辞儀をしてはむつかしい挨拶を交換している。
この混雑の間をくぐり、御辞儀の頭の上を踏み越さぬばかりに杯盤酒肴を座敷へはこぶ往来も見るからに忙しい。子供等は仲間が大勢出来た嬉しさで威勢よく駆け回る。一体自分はこの頃から陰気な性で、こんな騒ぎが面白くないから、いつもの様に宵の内いい加減ご馳走を食ってしまうと奥の蔵の間へ行って戸棚から八犬伝、三国誌などを引っ張り出し、おなじみの信のや道節、孔明や関羽に親しむ。この室は女の衣装を着更える処になっていたので、四面にずらりと衣かうを並べ、衣紋竹を掛けつらねて、派手なやら、地味なやらいろんな着物が、虫千の時のように並んでいる。白粉臭い、汗臭い変な香りが籠もった中で、自分はしのが浜路の幽霊と語るくだりを読んだ。夜の更けるにつれて、座敷の方は段々賑やかになる。調子を合す三味線の音がすると、清らかな女の声で唄うのが手に取る様に聞える。調子はずれの鄙歌が一度に起こって皿をたたく音もする。一しきり唄がやんだと思うと、不意に鞭声粛々と誰やらが厭な声でわめく。
信のが腕を拱いて俯いている前に片手を畳につき、片袖を銜えている浜路の後に、影の様に現れた幽霊の絵を見ていた時、自分の後の唐紙がするすると開いて、入って来た人がある。見ると年増の方の芸者であった。自分にはかまわず片隅の衣かうに懇ろにいる着物の袂をさぐって何か帯びの間へはさんでいたが、不意に自分の方をふり向いて「あちらへいらっしゃいね、坊ちゃん」と言った。そして自分の傍へ膝のふれるほどに坐って「お、厭だ、お化け」と絵をのぞく。髪の油が匂い。二人でだまって無心にこの絵を見ていたら誰かが「清香さん」とあっちの方で呼ぶ。芸者は黙って立って部屋を出て行った。
俊ちゃんと二人で奥の間で寝てしまった頃も、座敷の方にまだ宵のさまであった。

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 楼主| 发表于 2006-9-11 16:08:42 | 显示全部楼层

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本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:14 编辑

翌る日も朝から雨であった。昨夜の騒ぎにひきかえて静か過ぎる程静かであった。男は表の座敷、女同士は奥の一間集まって、しめやかに話している。母上は姉さんと押入りから子供の着物など引きちちして何か相談している。新聞を拡げた上に居眠りを始めている人もある。酒の匂いの籠もったおもくるしい鬱陶しい空気が家の中に満ちて、誰も彼も、とんと気抜けのしたような風である。台所では折々トン、コトンと魚の骨でも打つらしい単調な響が静かな家中に響いて、それが又一種の眠気をさそう。中二階の方で、つま引の三玄の音がして「夜の雨もしや来るかと」とつやのある低い声で唄う。それもじき止んで五月雨の軒の玉水がトタンのとゆにのんでいる。骨を打つ音は思い出したように台所に響く。
昼から俊ちゃんなどと、ぢき隣の新宅へ遊びに行った。内の人は皆姉さんの方へ手伝に行っているので、唯中気で手足の利かぬ祖父さんと雇い婆さんがいるばかり、いつもは賑やかな家もひっそりして、床の間の金大郎や将器も‘淋しげに見えた。十六むさし、将碁の駒の当てっこなどして見たが気が乗らぬ。縁側に出て見ると小庭を囲う低い土塀を越して一面の青田が見える。雨は煙のようで、遠くもない八幡の森や衣笠山もぼんやりにじんだ墨絵の中に、薄く萌黄をぼかした稲田には、草取る人のみのかさが黄色い点を打っている。ゆるい調子の、眠さう草取歌が聞える。歌の詞は聞き取れぬが、単調な悲しげな節で消え入るやうに長く引いて、これを聞いているとひとふしが終わると、しばらく黙って又ゆるやかに歌い出す、これを聞いていると何だ胸を押さえられるやうで急に姉さんの宅へ帰りたくなったから一人で帰った。帰って見るともうそろそろ客が来始めて、例のうるさい御辞儀が始めっている。さっきから頭が重いやうで、気が落ち付かぬようで人に話しかけられるのが厭であったから、独りで蔵の間へ入って八犬伝を見たが、すぐ厭になる。鯉でも見ようと思って池の間へ行って見た。縁側の柱へ頭を持たせてぼんやり立つ。水かさの真下稲田から流れ込んだ浮草が、ゆるやかに、廻りながら水の面へ雨のしづくが画いては消し、書いては消す小さい紋と一緒に流れて行く。鯉は片隅の岩組の陰に仲よく集まったまま静かに鰭を動かしている。龍舌欄の厚いとげのある葉が濡れ色に光って立っている。中二階の池に臨んだ丸窓には、昨夜の清香の淋しい顔が見える。窓の縁に頬杖をついたまま、なにやら物思わしさうに薄墨色の空の彼方を見詰めている。こめかみに貼った頭痛 にかかる後れ毛を撫でつけながら、自分の方を向いたが、軽くうなずいて片頬で笑った。
夕方母上は、あんまり内を空けてはと言うので、姉上の止めるのにかかわらず帰ることになった。「お前も帰りませうね」と聞かれた時、帰るのが何だか名残り惜しいような気もして「ウン」と鼻の中で曖昧な返事をする。姉さんが「この子はいいでせう。ねえ、お前もう一晩泊っておいで」とすすめる。これにも「ウン」と鼻で返事する。「泊るのはいいが姉さんに世話をおかけでないよ」と言っていよいよ一人で帰る支度をせられる。立場迄迎えにやった車が来たので姉さんと門まで送って出た。車が柳の番所の辻を曲がって見えなくなった時急に心細くなって、一緒に帰ればよかったと思う。「さあ御出で」と姉さんは引き立てる様に内へはいる。
頭の具合がいよいよ悪くなって心細い。母上と一緒に帰ればよかったと心で繰り返す。煙る霧雨の田圃道をゆられていく幌車の後影を追いような気がして、懐かしい我家の門の柳が胸に揺らぐ。騒々しい、殺風景な酒宴に何の心残りがあって帰りぞこなったのか。帰りたい、今からでも帰りたいと便所の口の縁へ立ったまま南天の枝にかかって塗る紙のてるてる坊さんに祈るやうに思う。雨の日の黄昏は知らぬ間に忍び足で軒に迫って早い日ともし頃の侘しい時刻になる。家の内は段々賑やかになる。はしゃいだ笑声などが頭に響いて侘しさを増やすばかりである。
姉上に、少し心持が悪いからと、言うにくかったのをやっと言って早く床を取ってもらって寝た。萌黄地に肉色で大きく鶴の丸を染め抜いた更沙団が今も心に残っている。頭がさえて眠られさうもない。天井に吊るした金銀色の蝿除け玉に写った小さい自分の寝姿を見ていると、妙に気が遠くなる様で、体が段々落ちて行くような何とも知れず心細い気がする。母上はもううちへ帰りついて奥の仏壇の前で何かしていられるかと思うとわけもなく悲しくなる。姉さんのうちが賑やかなのに比べて我家の淋しさが身にしむ。いろんなことを考えて夜着の襟を噛んでいると、涙が目じりからこめかみを伝いて枕にしみ入る。座敷では「夜の雨」を歌うのが聞える。池の龍舌欄が眼に浮かぶと、清香の顔が見えて片頬で笑う。
この夜凄まじい雷がなって雨雲を蹴り散らした。朝はすっかり晴れて強い日光が青葉を射ていた。早起きして顔を洗った自分の頭もせいせいして、勇ましい心は公園の玉投げ、樋川の夜振と駆け巡った。
義ちゃんは立派に大きくなったが、龍舌欄は今はない。
雷はやんだ。明日は天気らしい。

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 楼主| 发表于 2006-9-11 16:11:14 | 显示全部楼层

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本帖最后由 xumh0916 于 2015-8-28 02:14 编辑

第六課 画の悲しみ
画を好かぬ子供は先ず少ないとしてそのうちにも自分は子供の時、何よりも画が好きであった。(と岡本某が語りだした)。
好きこそ物の上手とやらで、自分も他の学課の中画では同級生の中自分に及ぶものがない。画と数学となら、憚りながら誰でも来いなんて、自分も大に得意がって居たのである。しかし得意ということは多小競争を意味する。自分の画の好きなことは全く天性といってもよかろう、自分を独りで置けば画ばかり書いて居たものだ。
独りで画を書いて居るといえば至極おとなしく聞えるが、その癖自分ほど腕白者は同級生の中にないばかりか、校長が持て余してしばしば退校を以って嚇したのでも全校第一ということが分る。
全校第一腕白者でも数学でも。しかるに天性好きな画では全校第一の名誉は志村という少年に奪われていた。この少年は数学は勿論、其の他の学力も全校生徒中、第二流以下であるが、画の天才に至っては全く並ぶものがないので、僅かに塁を摩そうかとも言われるものは自分一人、其の他は悉く志村の天才を崇めを奉っているばかりであった。ところが自分は志村を崇拝しない、今に見ろという意気込で頻りにと励んでいた。
元来志村は自分より歳も兄、級も一年上であったが、自分は学力優等というので自分の居る級と志村の居る級とを同時にやるべく校長から特別の処置をせられるので自然志村は自分の競争者となっていた。
然るに全校の人気、校長教員を初め何百の生徒の人気は、おとなしい志村に傾いて居る、志村は色の白い柔和な、女にして見たいような少年、自分は美少年ではあったが、乱暴な傲慢な、喧嘩好きの少年、おまけにいつも級の一番を占めていて、試験の時は必ず最優等の成績を得る処から教員は自分の高慢が癪に触り、生徒は自分の圧制が癪に触り、自分にはどうしても人気が薄い。そこでみんなの心持は、せめて画でなりと志村を第一として、岡本の鼻柱はしらを挫いてやれという積りであった。自分はよくこの消息を解していた。そして心中ひそかに不平でならぬのは志村の画必ずしもよく出来ていない時でも校長をはじめみんながこれを激賞し、自分の画は確か上出来であっても、さまで褒めて呉れてのないことである。少年ながらも自分は人気というものを憎んでいた。
ある日学校で生徒の製作物の展覧会が開かれた。其出品はおもに習字、図画、女子は仕立物等で、生徒の父兄姉妹は朝からぞろぞろと押しかける。取り取りの評判。製作物を出した生徒は気が気でない、皆なそわそわして展覧室を出たり入ったりしている。
自分もこの展覧会に出品する積りで画紙一枚に大きく馬の頭を書いた。馬の顔を斜めに見た処で、無論少年の手には余る画題であるのを、自分はこの一挙によって是非志村に打勝うという意気込だから一生懸命、学校から宅に帰ると一室に篭って書く、手本を本して生意気にも実物の写生を試み、幸い自分の宅から一丁ばかり離れた桑畑の中に借馬屋があるので、幾度となく其処のうまやに通った。輪郭といい、陰影といい、運筆といい、自分は確かにこれまで自分の書いたものはものは勿論、志村が書いたものの中でこれに比ぶべき出来はないと自信して、これならば必ず志村に勝つ、いかに不公平な教員や生徒でも、今度こそ自分の実力に圧倒さるるだろうと、大勝利を予期して出品した。
出品の製作は皆な自宅で書くのだから、何人も誰が何を書くのか知らない、又、互いに秘密にしていた殊に志村と自分は互の画題を最も秘密にしてしらさないようにしていた。であるから自分は馬を書きながらも志村は何を書いているかという問を常に懐いていたのである。
さて展覧会の当日、恐らく全校数百の生徒中尤も胸を轟かして、展覧室に入ったものは自分であろう。図書室は既に生徒及び生徒の父兄姉妹でいっぱいになっている。そして二枚の大画(今日の所謂大作)が並べて掲げてある前は最も見物人が集っている。二枚の大画は言わずとも志村の作と自分の作。
一見自分は先ず荒肝を抜かれてしまった。志村の画題はコロンブスの肖像ならんとは!しかもチョークで書いてある。元来学校では鉛筆画ばかりで、チョーク画は教えない。自分もチョークで画くなど思いもつかんことであるから、画の善し悪しは兎も角、先ずこの一事で自分は驚いてしまった。その上ならず、馬の頭と髭髯面を被う堂々たるコロンブスの肖像とは、一見まるで比べものにならんのである。且つ鉛筆の色はどんなに巧みに書いても到底チョークの色には及ばない。画題といい、色彩といい、自分のは要するに少年が書いた画、志村のは本物である。技術の巧拙は問う所でない、掲げて以ってみんな展覧に供するべき製作としては、いかに我慢強い自分も自分のほうが良いとは言えなかった。さなきだに志村崇拝の連中は、これを見て歓呼している。「馬も良いがコロンブスは如何だ!」などいう声があっちでもこっちでもする。
自分は学校の門を走り出た。そして家には帰らず、直ぐ田圃へ出た。止めようと思うても涙が止まらない。口惜しいやら情けないやら、前後夢中で川の岸まで走って、川原の草の中に打つ倒れてしまった。
足をばたばたやって大声を上げて泣いて、それで飽き足らず起上って其処らの石を拾い、四方八方に投付けていた。
こう暴れているうちにも自分は、貴奴何時の間にチョーク画を習ったろう、だれが貴奴に教えたろうとそればかり思い続けた。
泣いたのと暴れたので幾らか胸がすくと共に、次第に疲れて来たので、いつか其処に一寝てしまい、自分は蒼々たる大空を見上げていると、川瀬の音がそうそうとして聞える。若草を薙いで来る風が、得ならぬ春の香りを送って面を掠める。良い心持になって、自分は暫時くじっとしていたが、突然、そうだ自分もチョークで書いて見よう、そうだという一念に打たれたので、其の儘飛び起き急いで宅に帰り、父の許を得て、直ぐチョークを買い整え画板を引っ提げ直ぐ又外に飛び出した。

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 楼主| 发表于 2006-9-11 16:11:48 | 显示全部楼层
この時まで自分はチョークを持ったことが無い。どういう風に書くものやら全然不案内であったがチョークで書いた画を見たことは度々あり、ただこれまで自分で書かないのは到底未だ自分どもの力に及ばぬものとめきらめていたからのなので、志村があの位書けるなら自分も幾らか出来るだろうと思ったのである。

再び先のかわばたへ出た。そして先ず自分の思いついた画題は水車、この水車は其以前鉛筆で書いたことがあるので、チョークの手始めに今一度これを写生してやろうと、堤を辿って上流の方へと、足を向けた。

水車は川向にあって其古めかしい所、木立の茂みに半ば被われている按排、つたかずらが這い纏うて居る具合、子供心にも面白い画題と心得ていたのである。これを対岸から写すので、自分は堤を下りて川原の草原に出ると、今まで川柳の蔭で見えなかったが、一人の少年が草の中に坐って頻りに水車を写生しているのを見つけた。自分と少年とは四五十間隔たっていたが自分は一見して志村であることを知った。彼は一心になっているので自分の近づいたのに気もつかぬらしかった。

おやおや、彼奴が来ている、どうして彼奴は自分の先へ先へと廻るだろう、忌ま忌ましい奴だと大いに癪に触ったが、さりとて引き返すのは猶お厭だし、どうして呉れようと、其の儘突っ立って志村の方を見ていた。

彼は熱心に書いている。草の上に腰から上が出て、其の立てた膝に画板が寄り掛けてある、そして川柳の蔭が後から彼の全身を被い、ただ其の白い顔の辺りから肩先へかけて柳を洩れたい薄い光が穏やかに落ちている。これは面白い、彼奴を写してやろうと、自分は其の儘其処に腰を下して、志村其の人の写生に取りかかった。それでも感心なことには、画板に向かうと最早志村も忌ま忌ましい奴など思う心は消えて書く方に全く心を奪られてしまった。

彼は頭を上げては水車を見、又画板に向かう、そしておりおり左み愉快らしい微笑を頬に浮かべていた。彼が微笑みする毎に、自分も我が知らず微笑みせざるを得なかった。

そうする中に、志村は突然起ち上がって、其の拍子に自分の方を向いた、そして何にも言い難き柔和な顔をして、にっこりと笑った。自分も思わず笑った。
「君は何を書いているのだ。」
「君を写生していたのだ。」
「僕は最早水車を書いてしまったよ。」
「そうか、僕は未だ出来ないのだ。」
「そうか、」と言って志村は其の儘再び腰を下ろし、もとの姿勢になって、
「書き給え、僕は其の間にこれを直すから。」
自分は書きはじめたが、書いているうち、彼を忌ま忌ましいと思った心は全く消えてしまい、却って彼が可愛くなって来た。其のうちに書き終わったので、
「出来た、出来た!」と叫ぶと、志村は自分の傍に来たり、「おや君はチョークで書いたね。」
「初めてだから全然画にならん、君はチョーク画をだれに習った。」
「そら先達て東京から帰ってきた奥野さんに習った。しかし未だ習いたてだから何もかけない。」
「コロンブスは良く出来ていたね、僕は驚いちゃった。」

それから二人は連れ立って学校へ行った。この以後自分と志村は全く仲が良くなり、自分は心から志村の天才に服し、志村もまた元来がおとなしい少年であるから、自分を又無き朋友として親しんでくれた。二人で画板を携え野山を写生して歩いたことも幾度か知れない。

間もなく自分も志村も中学校に入ることとなり、故郷の村落を離れて、県の中央なる某町に寄留することとなった。中学に入っても二人は画を書くことを何よりの楽にして、以前と同じく相伴うて写生に出掛けていた。

この某町から我が村落まで七里、若し車道をゆけば十三里の大回りになるので我々は中学校の寄宿舎から村落に帰るとき、決して車に乗らず、夏と冬の定期休業毎に必ず、この七里の途を草鞋がけで歩いたものである。

七里の途はただ山ばかり、坂あり、田にあり、渓流あり、淵あり、滝あり、村落あり、児童あり、森あり、寄宿舎の門を朝早く出て日の暮らしに家に着までの間、自分はこの等の形、色、光、趣をどういう風に書いたら、自分の心を夢のように鎖ざしている謎を解くことが出来るかと、それのみに心を奪られて歩いた。志村も同じ心、後になり先になり、二人で歩いていると、時々は路傍に腰を下して鉛筆の写生を試み、彼が起たずば我も起きたず。我筆を止めずんば彼も止めないと言う風で思わず時が経ち、驚いて二人とも、次の一里を駆け足で飛んだこともあった。

爾来数年、志村は故ありて中学校を退いて村落に帰り、自分は国を去って東急に遊学することとなり、いつしか二人の間には音信もなくなって、忽ち又四五年経ってしまった。東京に出てから、自分は画を思いつつも画を自ら書かなくなり、ただ都会の大家の名作を見て、僅かに自分の画心を満足さしていたのである。

所が自分の二十の時であった、久しぶりで故郷の村落に帰った。宅の物置に嘗て自分が持ち歩いた画板があったのを見つけ、同時に志村のことを思い出したので、早速人に聞いて見ると、驚くまいことか、彼は十七の歳病死したとのことである。

自分は久しぶりで画板と鉛筆を引っ提げて家を出た。故郷の風景は旧の通りである。然し自分は最早以前の少年ではない、自分はただ幾歳かの歳を増したばかりでなく、幸か不幸か、人生の問題になやまされ、生死の問題に深入りし、等しく自然に対しても以前の心とは全く趣を変えていたのである。言い難き暗愁は暫時も自分をやすめない。

時は夏の最中自分はただ画板を引っ提げたというばかり、何を書いてみる気にもならん、独はりぶらぶらと野末に出た。嘗て志村と共に良く写生に出た野末に。

闇にも喜びあり、光にも悲しみあり、麦藁帽の廂を傾けて、彼方の丘、この方の林を望めば、まじまじと照る日に輝いて眩きばかりの景色。自分は思わず泣いた。
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 楼主| 发表于 2006-9-11 23:34:33 | 显示全部楼层

高级日语(二)课文

第七課 コラム五編

(一)        春暖遅々
きょうは「福は内、鬼は外」で、豆をまく節分の日。神社仏閣が人集めでやる豆まきコマーシャルにはあまり感興を催さないが、家庭ではやらなくなったのはさびしいことだ。

節分に年越という気分がなくなったのが、大きな理由かもしれない。人間が賢くなって、いまどきの鬼どもは豆をぶつけられたくらいで退散するはずはない、と思うようになったのだろうか。それに窓を開け、庭に向けてパラパラと豆を投げるといった住宅事情に恵まれた人は少ない。せっかく追い出した鬼は、お隣さんに移り、また豆をぶつけられてこっちへ戻ってきそうである。

節分で寒が明けると、あす四日は立春となる。一年でもっとも気温の低い時期なのだが、自然はしっかり者で、寒暖計にはごまかされずに春の装いにいそがしい。草の芽がこっそりと、土を割っている。梅の蕾がうまずたゆまず、膨らんでいく。「寝ごころや、いづちともなく春は来ぬ」だと、あらためて感じ入る。

都会でいそがしそうに暮していると、季節の感覚がにぶくなる。少々薄手すぎるかと思った冬のコートが気にならなくなったり。厚手のオーパーが急に重たく感じる日があったときに、ふと気づく程度であろう。が、注意深く辺りを見まわすと、たしかに、今日は昨日の冬ならずだ。日の色に微妙な変化がある。

空地のガラクタにも、それを横切るネコの背中の毛色にも、春は薄く、だが間違いなく輝いている。トタン屋根や高層ビルのガラスに反射する日の色は、先日までの光とはちがっているように感じられる。きびしい寒さが何度もぶり返し、春暖遅々とした中で、その詐術に少しもだまされない自然の歩みは、驚異というほかはない。「花枝 動かんと欲して春風寒し」(王維)といった余寒はまだまだ続くだろうが、冬は次第に老いをみせ、幼い春に少しずつ道をあけている。

(二)        初声前線
南国では先月鳴き始めたウグイスの「ホーホケキョ」が、関東まで北上してきたそうだ。季節に初めて鳴くことを「初声」といい、同じ時期にウグイスの初声が聞かれた各地を地図上で線を引くと「ウグイスの初声前線」ができる。

「梅にウグイス」というように、同じように作った「白梅の開花前線」と、この初声前線はほぼ一致し、日本列島を横に切りながら、初声前線がちょっと遅れ加減で開花前線を追いかける。ウグイスがさえずりだす前の地鳴きは、「チャツ、チャツ」としたつづみを打つように聞える。

それが春の訪れにつれて「ホーホケキョ」になるのだが、一度でうまくはいかない。はじめは「ホーケチョン」になったり、「ホーケヒョン」に聞えたりするが、その日のうちに一人前のさえずりになるのだそうだ。その「ホーホケキョン」も、専門家によると土地によって微妙に違い、鳥なりに九州なまりや東北なまりがあるという。

ウグイス前線と同じようなタイミングで、ヒバリ前線も上っていく。晴天、太陽を目がけて飛ぶヒバリは、お日さまに金を貸してあるでああして利息を取り立てにいくのだという。利息は「日に一分」だそうで、だから「ヒブイチ」とけたたましく鳴く。

ヒバリの後には「カエルの初声前線」が控えているが、ケロケロ、ギャーギャーの季節にはまだちょっと間がある。アメリカ人にカエルのなき声を聞いたら、「クロウク、クロウク」だと教えてくれた。仏の作家ルナールの博物誌「蛙」には「今晩お客をするらしい。君には聞えるか、彼女らのコップを洗っている音が?」という言葉があるが、やはり詩人の想像力だ。

カエル前線の後はニイニイゼミ前線、そしてヒグラシ前線。梅前線の後は桜前線、藤前線とつづく。その色とりどりの線上にチョウが舞い、鳥が歌いながら春が来る。

(三)        白雲愁色
一匹のトンボが夏の終わりを告げるわけではない。一片の白雲が秋の到来を知らせるわけでもない。しかし、里に下りてきた赤トンボを良く見かけるようになった。雲の風情も夕焼け空も、いままでとは違う。そして高校野球の終わりは、夏の終わりを告げる。

「夏の終わり」には、客がいっせいに帰った後の食卓のような、むなしさがある。人の来なくなった海岸のヨシズ張りの小屋で「「氷」ののれんがぱたぱたと鳴るときのような、白々しさがある。夏の情熱を吹き込んで、ぎらぎら燃えていた太陽が、すべてが終わるろうとしているのに、まだ無神経に輝きつづけている。そのそらぞらしさが、夏の終わりなのだろう。

白雲愁色の季節だ、と倉鳥厚「お茶の間歳時記」に、阿倍のことが書かれていた。「明月帰らず、碧海に沈み、白雲愁色、宗吾に満つ」とは、阿倍の死を んだ李白の詩である。阿倍は十六歳で唐に渡った。けんらんと文化の花が咲く玄皇帝の世だった。彼はそのまま長安の都に住みついたが、望郷の思いは断ち難かった。

五十二歳になって、日本に帰ろうとする。船は暴風で沈み、阿倍は水死したと信じられた。李白がこの友人の死を悲しんだのが「白雲愁色」の一編である。実は、阿倍は九死に一生を得て、今のベトナムに漂着した。その後長安に戻った後、ハノイの長官をやったり、帝室図書館長をつとめて七十歳で死んだ。

中国にあること実に五十三年。その間、日本からの留学生の面倒をよくみた。十六歳の阿倍と一緒に、吉備真備も二十二歳で唐に行った。彼は在中国十八年で日本に帰り、政界の荒海を渡って、右大臣にまで出世した。今様にいえば、二人とも奈良時代のフルブライト留学生だったが、命がけの旅だった点が現在とまったく違う。

ジェット機が白雲に乗って、東京—北京間を四時間半で飛び時代となった。
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 楼主| 发表于 2006-9-11 23:35:07 | 显示全部楼层

高级日语(二)课文

(四)        一浪の父
「一浪の父」が、二人で話し合っていた。「会社にいても仕事が手につきませんでね」「いや、まったく」。同じ悩みのせいか、話がよく合う。「浪人の父—--.友の会」を作ったら繁盛だろう、と思わせるほどだ。

「うちは八つ受けるようで」「うちの長男は五つらしいですな」「おかげさまで最初のO大はバスしたんですが、第七志望でしてね。この調子で残りの受験校が全部うまくいったら、入学金や授業料でたいへんです。ざっと二百万が必要だとおどかされています。」

「いやあ、うらやましい。私のところも早く、そういう悩みを持ちたいものです。お恥ずかしいが、毎朝、天神様におまいりしています」「模擬テストの結果は、どうでした」「第一志望は‘志望校の変更が望ましい’で、第二志望は‘もう一歩の努力が必要’と出ました。

「あのコンピューターは無情なもんですな」「ああなんでも、決定されてしまったらみじめです。大学に入って棒を振りまわしたくもなるでしょうね」それにしても、受験問題はどうにかならんのですか。毎年騒がれるだけで、一向に変わりばえがしません」。

「変わりばえどころか、ひどくなるじゃありませんか」「しゃべるわりに、切実に感じる人がいないのじゃありませんか。受験生にとっては受験改革どころの話ではないし、入学した者には、早く忘れたい悪夢ですし----」「受験地獄はまんざらでもない商売も多いですね。生徒がふえる一方の進学塾、入学金や寄付金で無理がいえる大学、不況知らずの受験出版」。

「家庭教師というアルバイトのおかげで、大学生には昨日の悪夢が今日の収入源。うちに来ている学生は「所得再分配」だといっています」「それに、嘆かわしいと書けばよい評論家、おみくじの売れる天神様・・・」「つまりだれもかれも、憂い顔をしているだけなんですよ」。

(五)        役得ゴルフ
「役得ゴルフはやめましょう」と次官会議で申し合わせたそうだが、あれ、またそんなことをいっているというのが、正直な感想だ。自粛令は、毎年毎月のように出されるので、聞かされる方はうんざりする。

「国鉄職員が勤務日に招待ゴルフ」「専売公社が業務費で会員権」「ゴルフ場許認可権を持つ知事が名誉会員」----こういうニュースは数年来、枚挙にいとまない。そのたびに「平謝り」「政府改善を約束」と、ひたすら反省ばかりしている。
では反省の実はあがっているのかといえば、そうでもない。じっと頭を低くしていれば、小言はその上を素通りするという、道楽息子の心根に似ていないか。自粛令の連発は、初心者が砂に埋まった玉をたたくショットのようなもので、いくら打っても球は砂中にめり込むばかりで動かない。

十五世紀のイギリスでは、ゴルフ狂がふえ武芸修行が疎かになるというので、ゴルフ禁止令が出されたという。日本のゴルフは、日露戦争の前年、神戸六甲山頂で第一球が飛んだ。もっとも「飛んだ」というのは正確でない。時の服部兵庫県知事が進み出て、打った処女球を、傍らの「英人グルーム氏が自ら拾い」という記録が残っている。

昭和十九年秋まで芋畑や飛行場への転用をのがれたゴルフ場に、ゴルファーたちは「非国民」といわれながら、唐草模様の風呂敷に道具を包んで通ったというから、その執念たるや壮烈というほかない。

事ほどさようにゴルフは不治の病で、いまや五百万人のスポーツになった。薫風に白球を追うのを悪いとは言わないが----公費でやるべからず。勤務日に行くべからず。蝙蝠傘でフォームの研鑽にははげむべからず。知らぬ人の前でゴルフの話題に熱中するべからず。要は、いささかの恥じらいながるべからず。
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 楼主| 发表于 2006-9-11 23:35:34 | 显示全部楼层

高级日语(二)课文

第九課 漢文の訓読

我が国に中国の書籍が伝わって来たのは四、五世紀ごろからと思われる。固有の文字を持たなかった我々の祖先は、漢字・漢文を学習し、自らも漢文をつづった。また「古事記」「万葉集」などのように、漢字ばかりを用いて日本語を書き表した。その後、漢字から仮名が作られ、今日のような仮名交じり文の道が開けて来た。これと同時に、漢籍に盛られた文学や思想が学び取られ、中国の文化が受け入れられた。こういう点から見ると、漢字・漢文がわが国の言語や文学、あるいは思想・文化に大きな影響を与えたことが想像できよう。

漢文が伝来した当初は音読が行われていたに違いない。しかし、やがて訓読することtが始まった。訓読とは漢文の一語一語に本来の日本語を訳語として当てはめながら、文語文法に従って日本語として読むことである。もっとも、当てはめる訳語がなく音読で済ませた単語もあり、又漢語に慣れるに従って音読する部分が次第に多くなってきたが、日本語への訳語であることは変わりはない。そして漢文の訓読によって日本語の表現が豊かになった。

さて、漢文を訓読する時、その読み方を示すには、日本語として読むためにおぎなった言葉を原文に付記する必要がある。そこで、「孔子聖人」や「開花鳥鳴」を次のように書き表す。
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