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楼主: 小丢湫

[原创作品] 拜求日文原版<<こころ>>!!

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发表于 2006-12-1 17:55:56 | 显示全部楼层
     五

「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の住居《すまい》には、新しい主人として、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするより外《ほか》に仕方がなかったのです。
 叔父はその頃《ころ》市にある色々な会社に関係していたようです。業務の都合からいえば、今までの居宅《きょたく》に寝起《ねお》きする方が、二|里《り》も隔《へだた》った私の家に移るより遥かに便利だといって笑いました。これは私の父母が亡くなった後《あと》、どう邸《やしき》を始末して、私が東京へ出るかという相談の時、叔父の口を洩《も》れた言葉であります。私の家は旧《ふる》い歴史をもっているので、少しはその界隈《かいわい》で人に知られていました。あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では由緒《ゆいしょ》のある家を、相続人があるのに壊《こわ》したり売ったりするのは大事件です。今の私ならそのくらいの事は何とも思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家《うち》はそのままにして置かなければならず、はなはだ所置《しょち》に苦しんだのです。
 叔父《おじ》は仕方なしに私の空家《あきや》へはいる事を承諾してくれました。しかし市《し》の方にある住居《すまい》もそのままにしておいて、両方の間を往《い》ったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといいました。私に固《もと》より[#「私に固《もと》より」は底本では「私は固《もと》より」]異議のありようはずがありません。私はどんな条件でも東京へ出られれば好《い》いくらいに考えていたのです。
 子供らしい私は、故郷《ふるさと》を離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。固よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人《たびびと》の心で望んでいたのです。休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ後《あと》、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
 私の留守の間、叔父はどんな風《ふう》に両方の間を往《ゆ》き来していたか知りません。私の着いた時は、家族のものが、みんな一《ひと》つ家《いえ》の内に集まっていました。学校へ出る子供などは平生《へいぜい》おそらく市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために田舎《いなか》へ遊び半分といった格《かく》で引き取られていました。
 みんな私の顔を見て喜びました。私はまた父や母のいた時より、かえって賑《にぎ》やかで陽気になった家の様子を見て嬉《うれ》しがりました。叔父はもと私の部屋になっていた一間《ひとま》を占領している一番目の男の子を追い出して、私をそこへ入れました。座敷の数《かず》も少なくないのだから、私はほかの部屋で構わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の宅《うち》だからといって、聞きませんでした。
 私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外《ほか》に、何の不愉快もなく、その一夏《ひとなつ》を叔父の家族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口を揃《そろ》えて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。二度目には判然《はっきり》断りました。三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。彼らの主意は単簡《たんかん》でした。早く嫁《よめ》を貰《もら》ってここの家へ帰って来て、亡くなった父の後を相続しろというだけなのです。家は休暇《やすみ》になって帰りさえすれば、それでいいものと私は考えていました。父の後を相続する、それには嫁が必要だから貰《もら》う、両方とも理屈としては一通《ひととお》り聞こえます。ことに田舎の事情を知っている私には、よく解《わか》ります。私も絶対にそれを嫌ってはいなかったのでしょう。しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡《とおめがね》で物を見るように、遥《はる》か先の距離に望まれるだけでした。私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた私の家を去りました。

     六

「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の周囲《ぐるり》を取り捲《ま》いている青年の顔を見ると、世帯染《しょたいじ》みたものは一人もいません。みんな自由です、そうして悉《ことごと》く単独らしく思われたのです。こういう気楽な人の中《うち》にも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされて、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、四辺《あたり》に気兼《きがね》をして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。後《あと》から考えると、私自身がすでにその組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。
 学年の終りに、私はまた行李《こうり》を絡《から》げて、親の墓のある田舎《いなか》へ帰って来ました。そうして去年と同じように、父母《ちちはは》のいたわが家《いえ》の中で、また叔父《おじ》夫婦とその子供の変らない顔を見ました。私は再びそこで故郷《ふるさと》の匂《にお》いを嗅《か》ぎました。その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました。一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
 しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。ただこの前|勧《すす》められた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと肝心《かんじん》の当人を捕《つら》まえていたので、私はなお困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘すなわち私の従妹《いとこ》に当る女でした。その女を貰《もら》ってくれれば、お互いのために便宜である、父も存生中《ぞんしょうちゅう》そんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました。父が叔父にそういう風《ふう》な話をしたというのもあり得《う》べき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、始めて気が付いたので、いわれない前から、覚《さと》っていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく解《わか》りました。私は迂闊《うかつ》なのでしょうか。あるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に無頓着《むとんじゃく》であったのが、おもな源因《げんいん》になっているのでしょう。私は小供《こども》のうちから市《し》にいる叔父の家《うち》へ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。あなたもご承知でしょう、兄妹《きょうだい》の間に恋の成立した例《ためし》のないのを。私はこの公認された事実を勝手に布衍《ふえん》しているかも知れないが、始終接触して親しくなり過ぎた男女《なんにょ》の間には、恋に必要な刺戟《しげき》の起る清新な感じが失われてしまうように考えています。香《こう》をかぎ得《う》るのは、香を焚《た》き出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた刹那《せつな》にあるごとく、恋の衝動にもこういう際《きわ》どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、馴《な》れれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん麻痺《まひ》して来るだけです。私はどう考え直しても、この従妹《いとこ》を妻にする気にはなれませんでした。
 叔父《おじ》はもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。けれども善は急げという諺《ことわざ》もあるから、できるなら今のうちに祝言《しゅうげん》の盃《さかずき》だけは済ませておきたいともいいました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。私はまた断りました。叔父は厭《いや》な顔をしました。従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません。結婚の申し込みを拒絶されたのが、女として辛《つら》かったからです。私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛していない事は、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。
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发表于 2006-12-1 17:56:17 | 显示全部楼层
     七

「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年|経《た》った夏の取付《とっつき》でした。私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷《ふるさと》がそれほど懐かしかったからです。あなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の匂《にお》いも格別です、父や母の記憶も濃《こまや》かに漂《ただよ》っています。一年のうちで、七、八の二月《ふたつき》をその中に包《くる》まれて、穴に入った蛇《へび》のように凝《じっ》としているのは、私に取って何よりも温かい好《い》い心持だったのです。
 単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断る、断ってさえしまえば後《あと》には何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托《くったく》した覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。
 ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好《い》い顔をして私を自分の懐《ふところ》に抱《だ》こうとしません。それでも鷹揚《おうよう》に育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母《おば》も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
 私の性分《しょうぶん》として考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、鈍《にぶ》い私の眼を洗って、急に世の中が判然《はっきり》見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくなった後《あと》でも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっともその頃《ころ》でも私は決して理に暗い質《たち》ではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊《かたま》りも、強い力で私の血の中に潜《ひそ》んでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
 私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪《ひざまず》きました。半《なかば》は哀悼《あいとう》の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。私も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。
 私の世界は掌《たなごころ》を翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかったのです。私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。何遍《なんべん》も自分の眼を疑《うたぐ》って、何遍も自分の眼を擦《こす》りました。そうして心の中《うち》でああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気《いろけ》の付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができたのです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目《めくら》の眼が忽《たちま》ち開《あ》いたのです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
 私が叔父《おじ》の態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄然《がぜん》として心づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私の眼に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、自分の行先《ゆくさき》がどうなるか分らないという気になりました。

     八

「私は今まで叔父|任《まか》せにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ父母《ちちはは》に対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい身体《からだ》だと自称するごとく、毎晩同じ所に寝泊《ねとま》りはしていませんでした。二日|家《うち》へ帰ると三日は市《し》の方で暮らすといった風《ふう》に、両方の間を往来《ゆきき》して、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいという言葉を口癖《くちくせ》のように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間の掛《か》かる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を捕《つら》まえる機会を得ませんでした。
 私は叔父が市の方に妾《めかけ》をもっているという噂《うわさ》を聞きました。私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも怪《あや》しむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚《おぼ》えのない私は驚きました。友達はその外《ほか》にも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他《ひと》から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
 私はとうとう叔父《おじ》と談判を開きました。談判というのは少し不穏当《ふおんとう》かも知れませんが、話の成行《なりゆ》きからいうと、そんな言葉で形容するより外に途《みち》のないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから猜疑《さいぎ》の眼で叔父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
 遺憾《いかん》ながら私は今その談判の顛末《てんまつ》を詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいます。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこへ辿《たど》りつきたがっているのを、漸《やっ》との事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆を執《と》る術《すべ》に慣れないばかりでなく、貴《たっと》い時間を惜《おし》むという意味からして、書きたい事も省かなければなりません。
 あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を。あの時あなたは私に昂奮《こうふん》していると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人に変化するのかと尋ねました。私がただ一口《ひとくち》金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎悪《ぞうお》と共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐《ちんぷ》だったかも知れません。けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は冷《ひや》やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体《たい》が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。
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发表于 2006-12-1 17:56:43 | 显示全部楼层
     九

「一口《ひとくち》でいうと、叔父は私《わたくし》の財産を胡魔化《ごまか》したのです。事は私が東京へ出ている三年の間に容易《たやす》く行われたのです。すべてを叔父|任《まか》せにして平気でいた私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊《たっと》い男とでもいえましょうか。私はその時の己《おの》れを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が口惜《くや》しくって堪《たま》りません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は塵《ちり》に汚れた後《あと》の私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。
 もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父《おじ》は策略で娘を私に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑《げび》た利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです。私は従妹《いとこ》を愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。胡魔化《ごまか》されるのはどっちにしても同じでしょうけれども、載《の》せられ方からいえば、従妹を貰《もら》わない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、少しは私の我《が》が通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細《ささい》な事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気《ばかげ》た意地に見えるでしょう。
 私と叔父の間に他《た》の親戚《しんせき》のものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していませんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を欺《あざむ》いたと覚《さと》ると共に、他《ほか》のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ賞《ほ》め抜いていた叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理《ロジック》でした。
 それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切《いっさい》のものを纏《まと》めてくれました。それは金額に見積ると、私の予期より遥《はる》かに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取って公沙汰《おおやけざた》にするか、二つの方法しかなかったのです。私は憤《いきどお》りました。また迷いました。訴訟にすると落着《らくちゃく》までに長い時間のかかる事も恐れました。私は修業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の結果、市《し》におる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の形《かたち》に変えようとしました。旧友は止《よ》した方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷《こきょう》を離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
 私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。
 私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経《た》った後《のち》の事です。田舎《いなか》で畠地《はたち》などを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないものでした。自白すると、私の財産は自分が懐《ふところ》にして家を出た若干の公債と、後《あと》からこの友人に送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては固《もと》より非常に減っていたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に陥《おと》し入れたのです。

     十

「金に不自由のない私《わたくし》は、騒々《そうぞう》しい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる婆《ばあ》さんの必要も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅《うち》を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束《おぼつか》なく見えたのです。ある日私はまあ宅《うち》だけでも探してみようかというそぞろ心《ごころ》から、散歩がてらに本郷台《ほんごうだい》を西へ下りて小石川《こいしかわ》の坂を真直《まっすぐ》に伝通院《でんずういん》の方へ上がりました。電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃《ころ》は左手が砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の土塀《どべい》で、右は原とも丘ともつかない空地《くうち》に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何心《なにごころ》なく向うの崖《がけ》を眺《なが》めました。今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の趣《おもむき》が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な宅《うち》はないだろうかと思いました。それで直《す》ぐ草原《くさはら》を横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好《い》い町になり切れないで、がたぴししているあの辺《へん》の家並《いえなみ》は、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした。私は露次《ろじ》を抜けたり、横丁《よこちょう》を曲《まが》ったり、ぐるぐる歩き廻《まわ》りました。しまいに駄菓子屋《だがしや》の上《かみ》さんに、ここいらに小ぢんまりした貸家《かしや》はないかと尋ねてみました。上さんは「そうですね」といって、少時《しばらく》首をかしげていましたが、「かし家《や》はちょいと……」と全く思い当らない風《ふう》でした。私は望《のぞみ》のないものと諦《あき》らめて帰り掛けました。すると上さんがまた、「素人下宿《しろうとげしゅく》じゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静かな素人屋《しろうとや》に一人で下宿しているのは、かえって家《うち》を持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
 それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清《にっしん》戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷《いちがや》の士官《しかん》学校の傍《そば》とかに住んでいたのだが、厩《うまや》などがあって、邸《やしき》が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人《ぶにん》で淋《さむ》しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人《びぼうじん》と一人娘と下女《げじょ》より外《ほか》にいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極《しごく》好かろうと心の中《うち》に思いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、素性《すじょう》の知れない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念《けねん》もありました。私は止《よ》そうかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい服装《なり》はしていませんでした。それから大学の制帽を被《かぶ》っていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれどもその頃の大学生は今と違って、大分《だいぶ》世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子に一種の自信を見出《みいだ》したくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなしにその軍人の遺族の家《うち》を訪ねました。
 私は未亡人《びぼうじん》に会って来意《らいい》を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て差支《さしつか》えないという挨拶《あいさつ》を即坐《そくざ》に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、また判然《はっきり》した人でした。私は軍人の妻君《さいくん》というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性《きしょう》でどこが淋《さむ》しいのだろうと疑いもしました。
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发表于 2006-12-1 17:57:00 | 显示全部楼层
     十一

「私は早速《さっそく》その家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。そこは宅中《うちじゅう》で一番|好《い》い室《へや》でした。本郷辺《ほんごうへん》に高等下宿といった風《ふう》の家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間《ま》の様子を心得ていました。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです。
 室の広さは八畳でした。床《とこ》の横に違《ちが》い棚《だな》があって、縁《えん》と反対の側には一間《いっけん》の押入《おしい》れが付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り南向《みなみむ》きの縁に明るい日がよく差しました。
 私は移った日に、その室の床《とこ》に活《い》けられた花と、その横に立て懸《か》けられた琴《こと》を見ました。どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や煎茶《せんちゃ》を嗜《たし》なむ父の傍《そば》で育ったので、唐《から》めいた趣味を小供《こども》のうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういう艶《なま》めかしい装飾をいつの間にか軽蔑《けいべつ》する癖が付いていたのです。
 私の父が存生中《ぞんしょうちゅう》にあつめた道具類は、例の叔父《おじ》のために滅茶滅茶《めちゃめちゃ》にされてしまったのですが、それでも多少は残っていました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預かってもらいました。それからその中《うち》で面白そうなものを四、五|幅《ふく》裸にして行李《こうり》の底へ入れて来ました。私は移るや否《いな》や、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いった琴と活花《いけばな》を見たので、急に勇気がなくなってしまいました。後《あと》から聞いて始めてこの花が私に対するご馳走《ちそう》に活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう。
 こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠《かす》めて通るでしょう。移った私にも、移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした邪気《じゃき》が予備的に私の自然を損なったためか、または私がまだ人慣《ひとな》れなかったためか、私は始めてそこのお嬢《じょう》さんに会った時、へどもどした挨拶《あいさつ》をしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。
 私はそれまで未亡人《びぼうじん》の風采《ふうさい》や態度から推《お》して、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君《さいくん》だからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、悉《ことごと》く打ち消されました。そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の匂《にお》いが新しく入って来ました。私はそれから床の正面に活《い》けてある花が厭《いや》でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
 その花はまた規則正しく凋《しお》れる頃《ころ》になると活け更《か》えられるのです。琴も度々《たびたび》鍵《かぎ》の手に折れ曲がった筋違《すじかい》の室《へや》に運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頬杖《ほおづえ》を突きながら、その琴の音《ね》を聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく解《わか》らないのです。けれども余り込み入った手を弾《ひ》かないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して旨《うま》い方ではなかったのです。
 それでも臆面《おくめん》なく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも活方《いけかた》はいつ見ても同じ事でした。それから花瓶《かへい》もついぞ変った例《ためし》がありませんでした。しかし片方の音楽になると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、一向《いっこう》肉声を聞かせないのです。唄《うた》わないのではありませんが、まるで内所話《ないしょばなし》でもするように小さな声しか出さないのです。しかも叱《しか》られると全く出なくなるのです。
 私は喜んでこの下手な活花を眺《なが》めては、まずそうな琴の音《ね》に耳を傾けました。

     十二

「私の気分は国を立つ時すでに厭世的《えんせいてき》になっていました。他《ひと》は頼りにならないものだという観念が、その時骨の中まで染《し》み込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する叔父《おじ》だの叔母《おば》だの、その他《た》の親戚《しんせき》だのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は沈鬱《ちんうつ》でした。鉛を呑《の》んだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く尖《とが》ってしまったのです。
 私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因《げんいん》になっているように思われます。金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私ならば、たとい懐中《ふところ》に余裕ができても、好んでそんな面倒な真似《まね》はしなかったでしょう。
 私は小石川《こいしかわ》へ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛《くつろ》ぎを与える事ができませんでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を見廻《みまわ》していました。不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。私は家《うち》のものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に坐《すわ》っていました。時々は彼らに対して気の毒だと思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に注《そそ》いでいたのです。おれは物を偸《ぬす》まない巾着切《きんちゃくきり》みたようなものだ、私はこう考えて、自分が厭《いや》になる事さえあったのです。
 あなたは定《さだ》めて変に思うでしょう。その私がそこのお嬢《じょう》さんをどうして好《す》く余裕をもっているか。そのお嬢さんの下手な活花《いけばな》を、どうして嬉《うれ》しがって眺《なが》める余裕があるか。同じく下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより外《ほか》に仕方がないのです。解釈は頭のあるあなたに任せるとして、私はただ一言《いちごん》付け足しておきましょう。私は金に対して人類を疑《うたぐ》ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから他《ひと》から見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。
 私は未亡人《びぼうじん》の事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます。奥さんは私を静かな人、大人《おとな》しい男と評しました。それから勉強家だとも褒《ほ》めてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく解《わか》りませんが、何しろそこにはまるで注意を払っていないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を鷹揚《おうよう》な方《かた》だといって、さも尊敬したらしい口の利《き》き方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」と真面目《まじめ》に説明してくれました。奥さんは始め私のような書生を宅《うち》へ置くつもりではなかったらしいのです。どこかの役所へ勤める人か何かに坐敷《ざしき》を貸す料簡《りょうけん》で、近所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。俸給が豊《ゆた》かでなくって、やむをえず素人屋《しろうとや》に下宿するくらいの人だからという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう。奥さんは自分の胸に描《えが》いたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといって褒《ほ》めるのです。なるほどそんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。しかしそれは気性《きしょう》の問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。奥さんはまた女だけにそれを私の全体に推《お》し広げて、同じ言葉を応用しようと力《つと》めるのです。
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发表于 2006-12-1 17:57:16 | 显示全部楼层
     十三

「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ付かなくなりました。自分の心が自分の坐《すわ》っている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれました。要するに奥さん始め家《うち》のものが、僻《ひが》んだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました。
 奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風《ふう》に取り扱ってくれたものとも思われますし、また自分で公言するごとく、実際私を鷹揚《おうよう》だと観察していたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方で胡魔化《ごまか》されていたのかも解《わか》りません。
 私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。奥さんともお嬢さんとも笑談《じょうだん》をいうようになりました。茶を入れたからといって向うの室《へや》へ呼ばれる日もありました。また私の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。私は急に交際の区域が殖《ふ》えたように感じました。それがために大切な勉強の時間を潰《つぶ》される事も何度となくありました。不思議にも、その妨害が私には一向《いっこう》邪魔にならなかったのです。奥さんはもとより閑人《ひまじん》でした。お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。それで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。
 私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。お嬢さんは縁側を直角に曲って、私の室《へや》の前に立つ事もありますし、茶の間を抜けて、次の室の襖《ふすま》の影から姿を見せる事もありました。お嬢さんは、そこへ来てちょっと留《と》まります。それからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」と聞きます。私は大抵むずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、傍《はた》で見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。しかし実際をいうと、それほど熱心に書物を研究してはいなかったのです。頁《ページ》の上に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。そうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強ですか」と聞くのです。
 お嬢さんの部屋《へや》は茶の間と続いた六畳でした。奥さんはその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さんの部屋にいる事もありました。つまりこの二つの部屋は仕切《しきり》があっても、ないと同じ事で、親子二人が往《い》ったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。私が外から声を掛けると、「おはいんなさい」と答えるのはきっと奥さんでした。お嬢さんはそこにいても滅多《めった》に返事をした事がありませんでした。
 時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこに坐《すわ》って話し込むような場合もその内《うち》に出て来ました。そういう時には、私の心が妙に不安に冒《おか》されて来るのです。そうして若い女とただ差向《さしむか》いで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。しかし相手の方はかえって平気でした。これが琴を浚《さら》うのに声さえ碌《ろく》に出せなかった[#「出せなかった」は底本では「出せなかったの」]あの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。それでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼にはよくそれが解《わか》っていました。よく解るように振舞って見せる痕迹《こんせき》さえ明らかでした。

     十四

「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと一息《ひといき》するのです。それと同時に、物足りないようなまた済まないような気持になるのです。私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょう。しかしその頃《ころ》の私たちは大抵そんなものだったのです。
 奥さんは滅多《めった》に外出した事がありませんでした。たまに宅《うち》を留守にする時でも、お嬢さんと私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです。私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を能《よ》く観察していると、何だか自分の娘と私とを接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、或《あ》る場合には、私に対して暗《あん》に警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。
 私は奥さんの態度をどっちかに片付《かたづ》けてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明らかな矛盾に違いなかったのです。しかし叔父《おじ》に欺《あざむ》かれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏み込んだ疑いを挟《さしはさ》まずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、どっちかが偽《いつわ》りだろうと推定しました。そうして判断に迷いました。ただ判断に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味が私には呑《の》み込めなかったのです。理由《わけ》を考え出そうとしても、考え出せない私は、罪を女という一字に塗《なす》り付けて我慢した事もありました。必竟《ひっきょう》女だからああなのだ、女というものはどうせ愚《ぐ》なものだ。私の考えは行き詰《つ》まればいつでもここへ落ちて来ました。
 それほど女を見縊《みくび》っていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。私の理屈はその人の前に全く用を為《な》さないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、気高《けだか》い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし愛という不可思議なものに両端《りょうはじ》があって、その高い端《はじ》には神聖な感じが働いて、低い端には性欲《せいよく》が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕《つら》まえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事のできない身体《からだ》でした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭《にお》いを帯びていませんでした。
 私は母に対して反感を抱《いだ》くと共に、子に対して恋愛の度を増《ま》して行ったのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。その上、それが互《たが》い違《ちが》いに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを忌《い》むのだと解釈したのです。お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の萌《きざ》さなかった私は、その時|入《い》らぬ心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。
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发表于 2006-12-1 17:57:34 | 显示全部楼层
     十五

「私は奥さんの態度を色々|綜合《そうごう》して見て、私がここの家《うち》で充分信用されている事を確かめました。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。他《ひと》を疑《うたぐ》り始めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、欺《だま》されるのもここにあるのではなかろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていたのだから、今考えるとおかしいのです。私は他《ひと》を信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。
 私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件については何もいわなかったのです。私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうと力《つと》めました。ところがそれでは向うが承知しません。何かに付けて、私の国元の事情を知りたがるのです。私はとうとう何もかも話してしまいました。私は二度と国へは帰らない。帰っても何にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。お嬢さんは泣きました。私は話して好《い》い事をしたと思いました。私は嬉《うれ》しかったのです。
 私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。それからは私を自分の親戚《みより》に当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。私は腹も立ちませんでした。むしろ愉快に感じたくらいです。ところがそのうちに私の猜疑心《さいぎしん》がまた起って来ました。
 私が奥さんを疑《うたぐ》り始めたのは、ごく些細《ささい》な事からでした。しかしその些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。私はどういう拍子かふと奥さんが、叔父《おじ》と同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようと力《つと》めるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に見えた人が、急に狡猾《こうかつ》な策略家として私の眼に映じて来たのです。私は苦々《にがにが》しい唇を噛《か》みました。
 奥さんは最初から、無人《ぶにん》で淋《さむ》しいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。私もそれを嘘《うそ》とは思いませんでした。懇意になって色々打ち明け話を聞いた後《あと》でも、そこに間違《まちが》いはなかったように思われます。しかし一般の経済状態は大して豊《ゆた》かだというほどではありませんでした。利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかったのです。
 私はまた警戒を加えました。けれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。私は一人で自分を嘲笑《ちょうしょう》しました。馬鹿だなといって、自分を罵《ののし》った事もあります。しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに済んだのです。私の煩悶《はんもん》は、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくって堪《たま》らなくなるのです。不愉快なのではありません。絶体絶命のような行き詰まった心持になるのです。それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました。私にはどっちも想像であり、またどっちも真実であったのです。

     十六

「私は相変らず学校へ出席していました。しかし教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような心持がしました。勉強もその通りでした。眼の中へはいる活字は心の底まで浸《し》み渡らないうちに烟《けむ》のごとく消えて行くのです。私はその上無口になりました。それを二、三の友達が誤解して、冥想《めいそう》に耽《ふけ》ってでもいるかのように、他《た》の友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした。都合の好《い》い仮面を人が貸してくれたのを、かえって仕合《しあわ》せとして喜びました。それでも時々は気が済まなかったのでしょう、発作的に焦燥《はしゃ》ぎ廻《まわ》って彼らを驚かした事もあります。
 私の宿は人出入《ひとでい》りの少ない家《うち》でした。親類も多くはないようでした。お嬢さんの学校友達がときたま遊びに来る事はありましたが、極《きわ》めて小さな声で、いるのだかいないのだか分らないような話をして帰ってしまうのが常でした。それが私に対する遠慮からだとは、いかな私にも気が付きませんでした。私の所へ訪ねて来るものは、大した乱暴者でもありませんでしたけれども、宅《うち》の人に気兼《きがね》をするほどな男は一人もなかったのですから。そんなところになると、下宿人の私は主人《あるじ》のようなもので、肝心《かんじん》のお嬢さんがかえって食客《いそうろう》の位地《いち》にいたと同じ事です。
 しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただそこにどうでもよくない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければお嬢さんの室《へや》で、突然男の声が聞こえるのです。その声がまた私の客と違って、すこぶる低いのです。だから何を話しているのかまるで分らないのです。そうして分らなければ分らないほど、私の神経に一種の昂奮《こうふん》を与えるのです。私は坐《すわ》っていて変にいらいらし出します。私はあれは親類なのだろうか、それともただの知り合いなのだろうかとまず考えて見るのです。それから若い男だろうか年輩の人だろうかと思案してみるのです。坐っていてそんな事の知れようはずがありません。そうかといって、起《た》って行って障子《しょうじ》を開けて見る訳にはなおいきません。私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。私は客の帰った後で、きっと忘れずにその人の名を聞きました。お嬢さんや奥さんの返事は、また極めて簡単でした。私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで追窮《ついきゅう》する勇気をもっていなかったのです。権利は無論もっていなかったのでしょう。私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と、現にその自尊心を裏切《うらぎり》している物欲しそうな顔付《かおつき》とを同時に彼らの前に示すのです。彼らは笑いました。それが嘲笑《ちょうしょう》の意味でなくって、好意から来たものか、また好意らしく見せるつもりなのか、私は即坐に解釈の余地を見出《みいだ》し得ないほど落付《おちつき》を失ってしまうのです。そうして事が済んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろうかと、何遍《なんべん》も心のうちで繰り返すのです。
 私は自由な身体《からだ》でした。たとい学校を中途で已《や》めようが、またどこへ行ってどう暮らそうが、あるいはどこの何者と結婚しようが、誰《だれ》とも相談する必要のない位地に立っていました。私は思い切って奥さんにお嬢さんを貰《もら》い受ける話をして見ようかという決心をした事がそれまでに何度となくありました。けれどもそのたびごとに私は躊躇《ちゅうちょ》して、口へはとうとう出さずにしまったのです。断られるのが恐ろしいからではありません。もし断られたら、私の運命がどう変化するか分りませんけれども、その代り今までとは方角の違った場所に立って、新しい世の中を見渡す便宜も生じて来るのですから、そのくらいの勇気は出せば出せたのです。しかし私は誘《おび》き寄せられるのが厭《いや》でした。他《ひと》の手に乗るのは何よりも業腹《ごうはら》でした。叔父《おじ》に欺《だま》された私は、これから先どんな事があっても、人には欺されまいと決心したのです。
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发表于 2006-12-1 17:57:53 | 显示全部楼层
     十七

「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物を拵《こしら》えろといいました。私は実際|田舎《いなか》で織った木綿《もめん》ものしかもっていなかったのです。その頃《ころ》の学生は絹《いと》の入《はい》った着物を肌に着けませんでした。私の友達に横浜《よこはま》の商人《あきんど》か何《なに》かで、宅《うち》はなかなか派出《はで》に暮しているものがありましたが、そこへある時|羽二重《はぶたえ》の胴着《どうぎ》が配達で届いた事があります。すると皆《みん》ながそれを見て笑いました。その男は恥ずかしがって色々弁解しましたが、折角《せっかく》の胴着を行李《こうり》の底へ放《ほう》り込んで利用しないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せました。すると運悪くその胴着に蝨《しらみ》がたかりました。友達はちょうど幸《さいわ》いとでも思ったのでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、根津《ねづ》の大きな泥溝《どぶ》の中へ棄《す》ててしまいました。その時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達の所作《しょさ》を眺《なが》めていましたが、私の胸のどこにも勿体《もったい》ないという気は少しも起りませんでした。
 その頃から見ると私も大分《だいぶ》大人になっていました。けれどもまだ自分で余所行《よそゆき》の着物を拵えるというほどの分別《ふんべつ》は出なかったのです。私は卒業して髯《ひげ》を生やす時代が来なければ、服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのです。それで奥さんに書物は要《い》るが着物は要らないといいました。奥さんは私の買う書物の分量を知っていました。買った本をみんな読むのかと聞くのです。私の買うものの中《うち》には字引きもありますが、当然眼を通すべきはずでありながら、頁《ページ》さえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に窮しました。私はどうせ要らないものを買うなら、書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。その上私は色々世話になるという口実の下《もと》に、お嬢さんの気に入るような帯か反物《たんもの》を買ってやりたかったのです。それで万事を奥さんに依頼しました。
 奥さんは自分一人で行くとはいいません。私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さんも行かなくてはいけないというのです。今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若い女などといっしょに歩き廻《まわ》る習慣をもっていなかったものです。その頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少|躊躇《ちゅうちょ》しましたが、思い切って出掛けました。
 お嬢さんは大層着飾っていました。地体《じたい》が色の白いくせに、白粉《おしろい》を豊富に塗ったものだからなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。
 三人は日本橋《にほんばし》へ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったより暇《ひま》がかかりました。奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々|反物《たんもの》をお嬢さんの肩から胸へ竪《たて》に宛《あ》てておいて、私に二、三歩|遠退《とおの》いて見てくれろというのです。私はそのたびごとに、それは駄目《だめ》だとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。
 こんな事で時間が掛《かか》って帰りは夕飯《ゆうめし》の時刻になりました。奥さんは私に対するお礼に何かご馳走《ちそう》するといって、木原店《きはらだな》という寄席《よせ》のある狭い横丁《よこちょう》へ私を連れ込みました。横丁も狭いが、飯を食わせる家《うち》も狭いものでした。この辺《へん》の地理を一向《いっこう》心得ない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。
 我々は夜《よ》に入《い》って家《うち》へ帰りました。その翌日《あくるひ》は日曜でしたから、私は終日|室《へや》の中《うち》に閉じ籠《こも》っていました。月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から調戯《からか》われました。いつ妻《さい》を迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。それから私の細君《さいくん》は非常に美人だといって賞《ほ》めるのです。私は三人|連《づれ》で日本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます。

     十八

「私は宅《うち》へ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いました。しかし定めて迷惑だろうといって私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、男はこんな風《ふう》にして、女から気を引いて見られるのかと思いました。奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。私はその時自分の考えている通りを直截《ちょくせつ》に打ち明けてしまえば好かったかも知れません。しかし私にはもう狐疑《こぎ》という薩張《さっぱ》りしない塊《かたま》りがこびり付いていました。私は打ち明けようとして、ひょいと留《と》まりました。そうして話の角度を故意に少し外《そ》らしました。
 私は肝心《かんじん》の自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました。奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に大分《だいぶ》重きを置いているらしく見えました。極《き》めようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。それからお嬢さんより外《ほか》に子供がないのも、容易に手離したがらない源因《げんいん》になっていました。嫁にやるか、聟《むこ》を取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。
 話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれがために、私は機会を逸《いっ》したと同様の結果に陥《おちい》ってしまいました。私は自分について、ついに一言《いちごん》も口を開く事ができませんでした。私は好《い》い加減なところで話を切り上げて、自分の室《へや》へ帰ろうとしました。
 さっきまで傍《そば》にいて、あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に行って、背中をこっちへ向けていました。私は立とうとして振り返った時、その後姿《うしろすがた》を見たのです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。お嬢さんがこの問題についてどう考えているか、私には見当が付きませんでした。お嬢さんは戸棚を前にして坐《すわ》っていました。その戸棚の一|尺《しゃく》ばかり開《あ》いている隙間《すきま》から、お嬢さんは何か引き出して膝《ひざ》の上へ置いて眺《なが》めているらしかったのです。私の眼はその隙間の端《はじ》に、一昨日《おととい》買った反物《たんもの》を見付け出しました。私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
 私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ解《わか》らないほど不意でした。それがお嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然《はっきり》した時、私はなるべく緩《ゆっ》くらな方がいいだろうと答えました。奥さんは自分もそう思うといいました。
 奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入《い》り込まなければならない事になりました。その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を来《きた》しています。もしその男が私の生活の行路《こうろ》を横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必要も起らなかったでしょう。私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です。自白すると、私は自分でその男を宅《うち》へ引張《ひっぱ》って来たのです。無論奥さんの許諾《きょだく》も必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです。ところが奥さんは止《よ》せといいました。私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せという奥さんの方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。だから私は私の善《い》いと思うところを強《し》いて断行してしまいました。
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发表于 2006-12-1 17:58:13 | 显示全部楼层
     十九

「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供《こども》の時からの仲好《なかよし》でした。小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、二人には同郷の縁故があったのです。Kは真宗《しんしゅう》の坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです。私の生れた地方は大変|本願寺派《ほんがんじは》の勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんは他《ほか》のものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その女の子が年頃《としごろ》になったとすると、檀家《だんか》のものが相談して、どこか適当な所へ嫁にやってくれます。無論費用は坊さんの懐《ふところ》から出るのではありません。そんな訳で真宗寺《しんしゅうでら》は大抵|有福《ゆうふく》でした。
 Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。また修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纏《まと》まったものかどうか、そこも私には分りません。とにかくKは医者の家《うち》へ養子に行ったのです。それは私たちがまだ中学にいる時の事でした。私は教場《きょうじょう》で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。
 Kの養子先もかなりな財産家でした。Kはそこから学資を貰《もら》って東京へ出て来たのです。出て来たのは私といっしょでなかったけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。その時分は一つ室《へや》によく二人も三人も机を並べて寝起《ねお》きしたものです。Kと私も二人で同じ間《ま》にいました。山で生捕《いけど》られた動物が、檻《おり》の中で抱き合いながら、外を睨《にら》めるようなものでしたろう。二人は東京と東京の人を畏《おそ》れました。それでいて六畳の間《ま》の中では、天下を睥睨《へいげい》するような事をいっていたのです。
 しかし我々は真面目《まじめ》でした。我々は実際偉くなるつもりでいたのです。ことにKは強かったのです。寺に生れた彼は、常に精進《しょうじん》という言葉を使いました。そうして彼の行為動作は悉《ことごと》くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬《いけい》していました。
 Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。これは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、解《わか》りません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは遥《はる》かに坊さんらしい性格をもっていたように見受けられます。元来Kの養家《ようか》では彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。しかるに頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。私は彼に向って、それでは養父母を欺《あざむ》くと同じ事ではないかと詰《なじ》りました。大胆な彼はそうだと答えるのです。道のためなら、そのくらいの事をしても構わないというのです。その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう。私は無論解ったとはいえません。しかし年の若い私たちには、この漠然《ばくぜん》とした言葉が尊《たっ》とく響いたのです。よし解らないにしても気高《けだか》い心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする意気組《いきぐみ》に卑《いや》しいところの見えるはずはありません。私はKの説に賛成しました。私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。一図《いちず》な彼は、たとい私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。しかし万一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、子供ながら私はよく承知していたつもりです。よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが至当《しとう》になるくらいな語気で私は賛成したのです。

     二十

「Kと私《わたくし》は同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の好きな道を歩き出したのです。知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした。
 最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。駒込《こまごめ》のある寺の一間《ひとま》を借りて勉強するのだといっていました。私が帰って来たのは九月上旬でしたが、彼ははたして大観音《おおがんのん》の傍《そば》の汚い寺の中に閉《と》じ籠《こも》っていました。彼の座敷は本堂のすぐ傍の狭い室《へや》でしたが、彼はそこで自分の思う通りに勉強ができたのを喜んでいるらしく見えました。私はその時彼の生活の段々坊さんらしくなって行くのを認めたように思います。彼は手頸《てくび》に珠数《じゅず》を懸けていました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する真似《まね》をして見せました。彼はこうして日に何遍《なんべん》も珠数の輪を勘定するらしかったのです。ただしその意味は私には解《わか》りません。円い輪になっているものを一粒ずつ数えてゆけば、どこまで数えていっても終局はありません。Kはどんな所でどんな心持がして、爪繰《つまぐ》る手を留めたでしょう。詰《つま》らない事ですが、私はよくそれを思うのです。
 私はまた彼の室に聖書を見ました。私はそれまでにお経《きょう》の名を度々《たびたび》彼の口から聞いた覚えがありますが、基督教《キリストきょう》については、問われた事も答えられた例《ためし》もなかったのですから、ちょっと驚きました。私はその理由《わけ》を訊《たず》ねずにはいられませんでした。Kは理由はないといいました。これほど人の有難《ありがた》がる書物なら読んでみるのが当り前だろうともいいました。その上彼は機会があったら、『コーラン』も読んでみるつもりだといいました。彼はモハメッドと剣という言葉に大いなる興味をもっているようでした。
 二年目の夏に彼は国から催促を受けてようやく帰りました。帰っても専門の事は何にもいわなかったものとみえます。家《うち》でもまたそこに気が付かなかったのです。あなたは学校教育を受けた人だから、こういう消息をよく解しているでしょうが、世間は学生の生活だの、学校の規則だのに関して、驚くべく無知なものです。我々に何でもない事が一向《いっこう》外部へは通じていません。我々はまた比較的内部の空気ばかり吸っているので、校内の事は細大ともに世の中に知れ渡っているはずだと思い過ぎる癖があります。Kはその点にかけて、私より世間を知っていたのでしょう、澄ました顔でまた戻って来ました。国を立つ時は私もいっしょでしたから、汽車へ乗るや否《いな》やすぐどうだったとKに問いました。Kはどうでもなかったと答えたのです。
 三度目の夏はちょうど私が永久に父母の墳墓の地を去ろうと決心した年です。私はその時Kに帰国を勧めましたが、Kは応じませんでした。そう毎年《まいとし》家《うち》へ帰って何をするのだというのです。彼はまた踏み留《とど》まって勉強するつもりらしかったのです。私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました。私の郷里で暮らしたその二カ月間が、私の運命にとって、いかに波瀾《はらん》に富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。私は不平と幽欝《ゆううつ》と孤独の淋《さび》しさとを一つ胸に抱《いだ》いて、九月に入《い》ってまたKに逢《あ》いました。すると彼の運命もまた私と同様に変調を示していました。彼は私の知らないうちに、養家先《ようかさき》へ手紙を出して、こっちから自分の詐《いつわ》りを白状してしまったのです。彼は最初からその覚悟でいたのだそうです。今更《いまさら》仕方がないから、お前の好きなものをやるより外《ほか》に途《みち》はあるまいと、向うにいわせるつもりもあったのでしょうか。とにかく大学へ入ってまでも養父母を欺《あざむ》き通す気はなかったらしいのです。また欺こうとしても、そう長く続くものではないと見抜いたのかも知れません。
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发表于 2006-12-1 17:58:33 | 显示全部楼层
     二十一

「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親を騙《だま》すような不埒《ふらち》なものに学資を送る事はできないという厳しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを私《わたくし》に見せました。Kはまたそれと前後して実家から受け取った書翰《しょかん》も見せました。これにも前に劣らないほど厳しい詰責《きっせき》の言葉がありました。養家先《ようかさき》へ対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうが、こっちでも一切《いっさい》構わないと書いてありました。Kがこの事件のために復籍してしまうか、それとも他《た》に妥協の道を講じて、依然養家に留《とど》まるか、そこはこれから起る問題として、差し当りどうかしなければならないのは、月々に必要な学資でした。
 私はその点についてKに何か考《かんが》えがあるのかと尋ねました。Kは夜学校《やがっこう》の教師でもするつもりだと答えました。その時分は今に比べると、存外《ぞんがい》世の中が寛《くつ》ろいでいましたから、内職の口はあなたが考えるほど払底《ふってい》でもなかったのです。私はKがそれで充分やって行けるだろうと考えました。しかし私には私の責任があります。Kが養家の希望に背《そむ》いて、自分の行きたい道を行こうとした時、賛成したものは私です。私はそうかといって手を拱《こまぬ》いでいる訳にゆきません。私はその場で物質的の補助をすぐ申し出しました。するとKは一も二もなくそれを跳《は》ね付けました。彼の性格からいって、自活の方が友達の保護の下《もと》に立つより遥《はるか》に快よく思われたのでしょう。彼は大学へはいった以上、自分一人ぐらいどうかできなければ男でないような事をいいました。私は私の責任を完《まっと》うするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。それで彼の思う通りにさせて、私は手を引きました。
 Kは自分の望むような口をほどなく探し出しました。しかし時間を惜《お》しむ彼にとって、この仕事がどのくらい辛《つら》かったかは想像するまでもない事です。彼は今まで通り勉強の手をちっとも緩《ゆる》めずに、新しい荷を背負《しょ》って猛進したのです。私は彼の健康を気遣《きづか》いました。しかし剛気《ごうき》な彼は笑うだけで、少しも私の注意に取り合いませんでした。
 同時に彼と養家との関係は、段々こん絡《がら》がって来ました。時間に余裕のなくなった彼は、前のように私と話す機会を奪われたので、私はついにその顛末《てんまつ》を詳しく聞かずにしまいましたが、解決のますます困難になってゆく事だけは承知していました。人が仲に入って調停を試みた事も知っていました。その人は手紙でKに帰国を促《うなが》したのですが、Kは到底|駄目《だめ》だといって、応じませんでした。この剛情《ごうじょう》なところが、――Kは学年中で帰れないのだから仕方がないといいましたけれども、向うから見れば剛情でしょう。そこが事態をますます険悪にしたようにも見えました。彼は養家の感情を害すると共に、実家の怒《いか》りも買うようになりました。私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果《ききめ》もありませんでした。私の手紙は一言《ひとこと》の返事さえ受けずに葬られてしまったのです。私も腹が立ちました。今までも行掛《ゆきがか》り上、Kに同情していた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。
 最後にKはとうとう復籍に決しました。養家から出してもらった学資は、実家で弁償する事になったのです。その代り実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。昔の言葉でいえば、まあ勘当《かんどう》なのでしょう。あるいはそれほど強いものでなかったかも知れませんが、当人はそう解釈していました。Kは母のない男でした。彼の性格の一面は、たしかに継母《けいぼ》に育てられた結果とも見る事ができるようです。もし彼の実の母が生きていたら、あるいは彼と実家との関係に、こうまで隔《へだ》たりができずに済んだかも知れないと私は思うのです。彼の父はいうまでもなく僧侶《そうりょ》でした。けれども義理堅い点において、むしろ武士《さむらい》に似たところがありはしないかと疑われます。

     二十二

「Kの事件が一段落ついた後《あと》で、私《わたくし》は彼の姉の夫から長い封書を受け取りました。Kの養子に行った先は、この人の親類に当るのですから、彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、この人の意見が重きをなしていたのだと、Kは私に話して聞かせました。
 手紙にはその後Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。姉が心配しているから、なるべく早く返事を貰《もら》いたいという依頼も付け加えてありました。Kは寺を嗣《つ》いだ兄よりも、他家《たけ》へ縁づいたこの姉を好いていました。彼らはみんな一つ腹から生れた姉弟《きょうだい》ですけれども、この姉とKとの間には大分《だいぶ》年歯《とし》の差があったのです。それでKの小供《こども》の時分には、継母《ままはは》よりもこの姉の方が、かえって本当の母らしく見えたのでしょう。
 私はKに手紙を見せました。Kは何ともいいませんでしたけれども、自分の所へこの姉から同じような意味の書状が二、三度来たという事を打ち明けました。Kはそのたびに心配するに及ばないと答えてやったのだそうです。運悪くこの姉は生活に余裕のない家に片付いたために、いくらKに同情があっても、物質的に弟をどうしてやる訳にも行かなかったのです。
 私はKと同じような返事を彼の義兄|宛《あて》で出しました。その中《うち》に、万一の場合には私がどうでもするから、安心するようにという意味を強い言葉で書き現わしました。これは固《もと》より私の一存《いちぞん》でした。Kの行先《ゆくさき》を心配するこの姉に安心を与えようという好意は無論含まれていましたが、私を軽蔑《けいべつ》したとより外《ほか》に取りようのない彼の実家や養家《ようか》に対する意地もあったのです。
 Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の中頃《なかごろ》になるまで、約一年半の間、彼は独力で己《おの》れを支えていったのです。ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して来たように見え出しました。それには無論養家を出る出ないの蒼蠅《うるさ》い問題も手伝っていたでしょう。彼は段々|感傷的《センチメンタル》になって来たのです。時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で背負《しょ》って立っているような事をいいます。そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。それから自分の未来に横《よこ》たわる光明《こうみょう》が、次第に彼の眼を遠退《とおの》いて行くようにも思って、いらいらするのです。学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅に上《のぼ》るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍《のろ》いのに気が付いて、過半はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦慮《あせ》り方はまた普通に比べると遥《はる》かに甚《はなはだ》しかったのです。私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一《せんいち》だと考えました。
 私は彼に向って、余計な仕事をするのは止《よ》せといいました。そうして当分|身体《からだ》を楽にして、遊ぶ方が大きな将来のために得策だと忠告しました。剛情《ごうじょう》なKの事ですから、容易に私のいう事などは聞くまいと、かねて予期していたのですが、実際いい出して見ると、思ったよりも説き落すのに骨が折れたので弱りました。Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まるで酔興《すいきょう》です。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼はむしろ神経衰弱に罹《かか》っているくらいなのです。私は仕方がないから、彼に向って至極《しごく》同感であるような様子を見せました。自分もそういう点に向って、人生を進むつもりだったとついには明言しました。(もっともこれは私に取ってまんざら空虚な言葉でもなかったのです。Kの説を聞いていると、段々そういうところに釣り込まれて来るくらい、彼には力があったのですから)。最後に私はKといっしょに住んで、いっしょに向上の路《みち》を辿《たど》って行きたいと発議《ほつぎ》しました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪《ひざまず》く事をあえてしたのです。そうして漸《やっ》との事で彼を私の家に連れて来ました。
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发表于 2006-12-1 17:58:55 | 显示全部楼层
     二十三

「私の座敷には控えの間《ま》というような四畳が付属していました。玄関を上がって私のいる所へ通ろうとするには、ぜひこの四畳を横切らなければならないのだから、実用の点から見ると、至極《しごく》不便な室《へや》でした。私はここへKを入れたのです。もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて、次の間を共有にして置く考えだったのですが、Kは狭苦しくっても一人でいる方が好《い》いといって、自分でそっちのほうを択《えら》んだのです。
 前にも話した通り、奥さんは私のこの所置に対して始めは不賛成だったのです。下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商売でないのだから、なるべくなら止《よ》した方が好《い》いというのです。私が決して世話の焼ける人でないから構うまいというと、世話は焼けないでも、気心の知れない人は厭《いや》だと答えるのです。それでは今|厄介《やっかい》になっている私だって同じ事ではないかと詰《なじ》ると、私の気心は初めからよく分っていると弁解して已《や》まないのです。私は苦笑しました。すると奥さんはまた理屈の方向を更《か》えます。そんな人を連れて来るのは、私のために悪いから止《よ》せといい直します。なぜ私のために悪いかと聞くと、今度は向うで苦笑するのです。
 実をいうと私だって強《し》いてKといっしょにいる必要はなかったのです。けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、彼はきっとそれを受け取る時に躊躇《ちゅうちょ》するだろうと思ったのです。彼はそれほど独立心の強い男でした。だから私は彼を私の宅《うち》へ置いて、二人前《ふたりまえ》の食料を彼の知らない間《ま》にそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。しかし私はKの経済問題について、一言《いちごん》も奥さんに打ち明ける気はありませんでした。
 私はただKの健康について云々《うんぬん》しました。一人で置くとますます人間が偏屈《へんくつ》になるばかりだからといいました。それに付け足して、Kが養家《ようか》と折合《おりあい》の悪かった事や、実家と離れてしまった事や、色々話して聞かせました。私は溺《おぼ》れかかった人を抱いて、自分の熱を向うに移してやる覚悟で、Kを引き取るのだと告げました。そのつもりであたたかい面倒を見てやってくれと、奥さんにもお嬢さんにも頼みました。私はここまで来て漸々《ようよう》奥さんを説き伏せたのです。しかし私から何にも聞かないKは、この顛末《てんまつ》をまるで知らずにいました。私もかえってそれを満足に思って、のっそり引き移って来たKを、知らん顔で迎えました。
 奥さんとお嬢さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や何《なに》かをしてくれました。すべてそれを私に対する好意から来たのだと解釈した私は、心のうちで喜びました。――Kが相変らずむっちりした様子をしているにもかかわらず。
 私がKに向って新しい住居《すまい》の心持はどうだと聞いた時に、彼はただ一言《いちげん》悪くないといっただけでした。私からいわせれば悪くないどころではないのです。彼の今までいた所は北向きの湿っぽい臭《にお》いのする汚い室《へや》でした。食物《くいもの》も室|相応《そうおう》に粗末でした。私の家へ引き移った彼は、幽谷《ゆうこく》から喬木《きょうぼく》に移った趣があったくらいです。それをさほどに思う気色《けしき》を見せないのは、一つは彼の強情から来ているのですが、一つは彼の主張からも出ているのです。仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの贅沢《ぜいたく》をいうのをあたかも不道徳のように考えていました。なまじい昔の高僧だとか聖徒《セーント》だとかの伝《でん》を読んだ彼には、ややともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました。肉を鞭撻《べんたつ》すれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあったのかも知れません。
 私はなるべく彼に逆《さか》らわない方針を取りました。私は氷を日向《ひなた》へ出して溶《と》かす工夫をしたのです。今に融《と》けて温かい水になれば、自分で自分に気が付く時機が来るに違いないと思ったのです。

     二十四

「私は奥さんからそういう風《ふう》に取り扱われた結果、段々快活になって来たのです。それを自覚していたから、同じものを今度はKの上に応用しようと試みたのです。Kと私とが性格の上において、大分《だいぶ》相違のある事は、長く交際《つきあ》って来た私によく解《わか》っていましたけれども、私の神経がこの家庭に入ってから多少|角《かど》が取れたごとく、Kの心もここに置けばいつか沈まる事があるだろうと考えたのです。
 Kは私より強い決心を有している男でした。勉強も私の倍ぐらいはしたでしょう。その上持って生れた頭の質《たち》が私よりもずっとよかったのです。後《あと》では専門が違いましたから何ともいえませんが、同じ級にいる間《あいだ》は、中学でも高等学校でも、Kの方が常に上席を占めていました。私には平生から何をしてもKに及ばないという自覚があったくらいです。けれども私が強《し》いてKを私の宅《うち》へ引《ひ》っ張《ぱ》って来た時には、私の方がよく事理を弁《わきま》えていると信じていました。私にいわせると、彼は我慢と忍耐の区別を了解していないように思われたのです。これはとくにあなたのために付け足しておきたいのですから聞いて下さい。肉体なり精神なりすべて我々の能力は、外部の刺戟《しげき》で、発達もするし、破壊されもするでしょうが、どっちにしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、よく考えないと、非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら、自分はもちろん傍《はた》のものも気が付かずにいる恐れが生じてきます。医者の説明を聞くと、人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。粥《かゆ》ばかり食っていると、それ以上の堅いものを消化《こな》す力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。だから何でも食う稽古《けいこ》をしておけと医者はいうのです。けれどもこれはただ慣れるという意味ではなかろうと思います。次第に刺戟を増すに従って、次第に営養機能の抵抗力が強くなるという意味でなくてはなりますまい。もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみればすぐ解《わか》る事です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全くここに気が付いていなかったのです。ただ困難に慣れてしまえば、しまいにその困難は何でもなくなるものだと極《き》めていたらしいのです。艱苦《かんく》を繰り返せば、繰り返すというだけの功徳《くどく》で、その艱苦が気にかからなくなる時機に邂逅《めぐりあ》えるものと信じ切っていたらしいのです。
 私はKを説くときに、ぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。しかしいえばきっと反抗されるに極《きま》っていました。また昔の人の例などを、引合《ひきあい》に持って来るに違いないと思いました。そうなれば私だって、その人たちとKと違っている点を明白に述べなければならなくなります。それを首肯《うけが》ってくれるようなKならいいのですけれども、彼の性質として、議論がそこまでゆくと容易に後《あと》へは返りません。なお先へ出ます。そうして、口で先へ出た通りを、行為で実現しに掛《かか》ります。彼はこうなると恐るべき男でした。偉大でした。自分で自分を破壊しつつ進みます。結果から見れば、彼はただ自己の成功を打ち砕く意味において、偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではありませんでした。彼の気性《きしょう》をよく知った私はついに何ともいう事ができなかったのです。その上私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少神経衰弱に罹《かか》っていたように思われたのです。よし私が彼を説き伏せたところで、彼は必ず激するに違いないのです。私は彼と喧嘩《けんか》をする事は恐れてはいませんでしたけれども、私が孤独の感に堪《た》えなかった自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤独の境遇に置くのは、私に取って忍びない事でした。一歩進んで、より孤独な境遇に突き落すのはなお厭《いや》でした。それで私は彼が宅《うち》へ引き移ってからも、当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにいました。ただ穏やかに周囲の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。
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发表于 2006-12-1 17:59:11 | 显示全部楼层
     二十五

「私は蔭《かげ》へ廻《まわ》って、奥さんとお嬢さんに、なるべくKと話をするように頼みました。私は彼のこれまで通って来た無言生活が彼に祟《たた》っているのだろうと信じたからです。使わない鉄が腐るように、彼の心には錆《さび》が出ていたとしか、私には思われなかったのです。
 奥さんは取り付き把《は》のない人だといって笑っていました。お嬢さんはまたわざわざその例を挙げて私に説明して聞かせるのです。火鉢に火があるかと尋ねると、Kはないと答えるそうです。では持って来《き》ようというと、要《い》らないと断るそうです。寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだといったぎり応対をしないのだそうです。私はただ苦笑している訳にもゆきません。気の毒だから、何とかいってその場を取り繕《つくろ》っておかなければ済まなくなります。もっともそれは春の事ですから、強《し》いて火にあたる必要もなかったのですが、これでは取り付き把がないといわれるのも無理はないと思いました。
 それで私はなるべく、自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかるように力《つと》めました。Kと私が話している所へ家《うち》の人を呼ぶとか、または家の人と私が一つ室《へや》に落ち合った所へ、Kを引っ張り出すとか、どっちでもその場合に応じた方法をとって、彼らを接近させようとしたのです。もちろんKはそれをあまり好みませんでした。ある時はふいと起《た》って室の外へ出ました。またある時はいくら呼んでもなかなか出て来ませんでした。Kはあんな無駄話《むだばなし》をしてどこが面白いというのです。私はただ笑っていました。しかし心の中《うち》では、Kがそのために私を軽蔑《けいべつ》していることがよく解《わか》りました。
 私はある意味から見て実際彼の軽蔑に価《あたい》していたかも知れません。彼の眼の着け所は私より遥《はる》かに高いところにあったともいわれるでしょう。私もそれを否《いな》みはしません。しかし眼だけ高くって、外《ほか》が釣り合わないのは手もなく不具《かたわ》です。私は何を措《お》いても、この際彼を人間らしくするのが専一だと考えたのです。いくら彼の頭が偉い人の影像《イメジ》で埋《うず》まっていても、彼自身が偉くなってゆかない以上は、何の役にも立たないという事を発見したのです。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性の傍《そば》に彼を坐《すわ》らせる方法を講じたのです。そうしてそこから出る空気に彼を曝《さら》した上、錆《さ》び付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。
 この試みは次第に成功しました。初めのうち融合しにくいように見えたものが、段々一つに纏《まと》まって来出《きだ》しました。彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟ってゆくようでした。彼はある日私に向って、女はそう軽蔑《けいべつ》すべきものでないというような事をいいました。Kははじめ女からも、私同様の知識と学問を要求していたらしいのです。そうしてそれが見付からないと、すぐ軽蔑の念を生じたものと思われます。今までの彼は、性によって立場を変える事を知らずに、同じ視線ですべての男女《なんにょ》を一様に観察していたのです。私は彼に、もし我ら二人だけが男同志で永久に話を交換しているならば、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうといいました。彼はもっともだと答えました。私はその時お嬢さんの事で、多少夢中になっている頃《ころ》でしたから、自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。しかし裏面の消息は彼には一口《ひとくち》も打ち明けませんでした。
 今まで書物で城壁をきずいてその中に立て籠《こも》っていたようなKの心が、段々打ち解けて来るのを見ているのは、私に取って何よりも愉快でした。私は最初からそうした目的で事をやり出したのですから、自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。私は本人にいわない代りに、奥さんとお嬢さんに自分の思った通りを話しました。二人も満足の様子でした。

     二十六

「Kと私《わたくし》は同じ科におりながら、専攻の学問が違っていましたから、自然出る時や帰る時に遅速がありました。私の方が早ければ、ただ彼の空室《くうしつ》を通り抜けるだけですが、遅いと簡単な挨拶《あいさつ》をして自分の部屋へはいるのを例にしていました。Kはいつもの眼を書物からはなして、襖《ふすま》を開ける私をちょっと見ます。そうしてきっと今帰ったのかといいます。私は何も答えないで点頭《うなず》く事もありますし、あるいはただ「うん」と答えて行き過ぎる場合もあります。
 ある日私は神田《かんだ》に用があって、帰りがいつもよりずっと後《おく》れました。私は急ぎ足に門前まで来て、格子《こうし》をがらりと開けました。それと同時に、私はお嬢さんの声を聞いたのです。声は慥《たし》かにKの室《へや》から出たと思いました。玄関から真直《まっすぐ》に行けば、茶の間、お嬢さんの部屋と二つ続いていて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、という間取《まどり》なのですから、どこで誰の声がしたくらいは、久しく厄介《やっかい》になっている私にはよく分るのです。私はすぐ格子を締めました。するとお嬢さんの声もすぐ已《や》みました。私が靴を脱いでいるうち、――私はその時分からハイカラで手数《てかず》のかかる編上《あみあげ》を穿《は》いていたのですが、――私がこごんでその靴紐《くつひも》を解いているうち、Kの部屋では誰の声もしませんでした。私は変に思いました。ことによると、私の疳違《かんちがい》かも知れないと考えたのです。しかし私がいつもの通りKの室を抜けようとして、襖を開けると、そこに二人はちゃんと坐《すわ》っていました。Kは例の通り今帰ったかといいました。お嬢さんも「お帰り」と坐ったままで挨拶しました。私には気のせいかその簡単な挨拶が少し硬《かた》いように聞こえました。どこかで自然を踏み外《はず》しているような調子として、私の鼓膜《こまく》に響いたのです。私はお嬢さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひっそりしていたから聞いて見ただけの事です。
 奥さんははたして留守でした。下女《げじょ》も奥さんといっしょに出たのでした。だから家《うち》に残っているのは、Kとお嬢さんだけだったのです。私はちょっと首を傾けました。今まで長い間世話になっていたけれども、奥さんがお嬢さんと私だけを置き去りにして、宅《うち》を空けた例《ためし》はまだなかったのですから。私は何か急用でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。お嬢さんはただ笑っているのです。私はこんな時に笑う女が嫌いでした。若い女に共通な点だといえばそれまでかも知れませんが、お嬢さんも下らない事によく笑いたがる女でした。しかしお嬢さんは私の顔色を見て、すぐ不断《ふだん》の表情に帰りました。急用ではないが、ちょっと用があって出たのだと真面目《まじめ》に答えました。下宿人の私にはそれ以上問い詰める権利はありません。私は沈黙しました。
 私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も帰って来ました。やがて晩食《ばんめし》の食卓でみんなが顔を合わせる時刻が来ました。下宿した当座は万事客扱いだったので、食事のたびに下女が膳《ぜん》を運んで来てくれたのですが、それがいつの間にか崩れて、飯時《めしどき》には向うへ呼ばれて行く習慣になっていたのです。Kが新しく引き移った時も、私が主張して彼を私と同じように取り扱わせる事に極《き》めました。その代り私は薄い板で造った足の畳《たた》み込める華奢《きゃしゃ》な食卓を奥さんに寄附《きふ》しました。今ではどこの宅《うち》でも使っているようですが、その頃《ころ》そんな卓の周囲に並んで飯を食う家族はほとんどなかったのです。私はわざわざ御茶《おちゃ》の水《みず》の家具屋へ行って、私の工夫通りにそれを造り上《あ》げさせたのです。
 私はその卓上で奥さんからその日いつもの時刻に肴屋《さかなや》が来なかったので、私たちに食わせるものを買いに町へ行かなければならなかったのだという説明を聞かされました。なるほど客を置いている以上、それももっともな事だと私が考えた時、お嬢さんは私の顔を見てまた笑い出しました。しかし今度は奥さんに叱《しか》られてすぐ已《や》めました。
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发表于 2006-12-1 17:59:34 | 显示全部楼层
     二十七

「一週間ばかりして私《わたくし》はまたKとお嬢さんがいっしょに話している室《へや》を通り抜けました。その時お嬢さんは私の顔を見るや否《いな》や笑い出しました。私はすぐ何がおかしいのかと聞けばよかったのでしょう。それをつい黙って自分の居間まで来てしまったのです。だからKもいつものように、今帰ったかと声を掛ける事ができなくなりました。お嬢さんはすぐ障子《しょうじ》を開けて茶の間へ入ったようでした。
 夕飯《ゆうめし》の時、お嬢さんは私を変な人だといいました。私はその時もなぜ変なのか聞かずにしまいました。ただ奥さんが睨《にら》めるような眼をお嬢さんに向けるのに気が付いただけでした。
 私は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は伝通院《でんずういん》の裏手から植物園の通りをぐるりと廻《まわ》ってまた富坂《とみざか》の下へ出ました。散歩としては短い方ではありませんでしたが、その間《あいだ》に話した事は極《きわ》めて少なかったのです。性質からいうと、Kは私よりも無口な男でした。私も多弁な方ではなかったのです。しかし私は歩きながら、できるだけ話を彼に仕掛《しか》けてみました。私の問題はおもに二人の下宿している家族についてでした。私は奥さんやお嬢さんを彼がどう見ているか知りたかったのです。ところが彼は海のものとも山のものとも見分《みわ》けの付かないような返事ばかりするのです。しかもその返事は要領を得ないくせに、極めて簡単でした。彼は二人の女に関してよりも、専攻の学科の方に多くの注意を払っているように見えました。もっともそれは二学年目の試験が目の前に逼《せま》っている頃《ころ》でしたから、普通の人間の立場から見て、彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。その上彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって、無学な私を驚かせました。
 我々が首尾よく試験を済ましました時、二人とももう後《あと》一年だといって奥さんは喜んでくれました。そういう奥さんの唯一《ゆいいつ》の誇《ほこ》りとも見られるお嬢さんの卒業も、間もなく来る順になっていたのです。Kは私に向って、女というものは何にも知らないで学校を出るのだといいました。Kはお嬢さんが学問以外に稽古《けいこ》している縫針《ぬいはり》だの琴だの活花《いけばな》だのを、まるで眼中に置いていないようでした。私は彼の迂闊《うかつ》を笑ってやりました。そうして女の価値はそんな所にあるものでないという昔の議論をまた彼の前で繰り返しました。彼は別段|反駁《はんばく》もしませんでした。その代りなるほどという様子も見せませんでした。私にはそこが愉快でした。彼のふんといったような調子が、依然として女を軽蔑《けいべつ》しているように見えたからです。女の代表者として私の知っているお嬢さんを、物の数《かず》とも思っていないらしかったからです。今から回顧すると、私のKに対する嫉妬《しっと》は、その時にもう充分|萌《きざ》していたのです。
 私は夏休みにどこかへ行こうかとKに相談しました。Kは行きたくないような口振《くちぶり》を見せました。無論彼は自分の自由意志でどこへも行ける身体《からだ》ではありませんが、私が誘いさえすれば、またどこへ行っても差支《さしつか》えない身体だったのです。私はなぜ行きたくないのかと彼に尋ねてみました。彼は理由も何にもないというのです。宅《うち》で書物を読んだ方が自分の勝手だというのです。私が避暑地へ行って涼しい所で勉強した方が、身体のためだと主張すると、それなら私一人行ったらよかろうというのです。しかし私はK一人をここに残して行く気にはなれないのです。私はただでさえKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが、余り好《い》い心持ではなかったのです。私が最初希望した通りになるのが、何で私の心持を悪くするのかといわれればそれまでです。私は馬鹿に違いないのです。果《はて》しのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが仲へ入りました。二人はとうとういっしょに房州《ぼうしゅう》へ行く事になりました。

     二十八

「Kはあまり旅へ出ない男でした。私《わたくし》にも房州《ぼうしゅう》は始めてでした。二人は何にも知らないで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか保田《ほた》とかいいました。今ではどんなに変っているか知りませんが、その頃《ころ》はひどい漁村でした。第一《だいち》どこもかしこも腥《なまぐさ》いのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦《す》り剥《む》くのです。拳《こぶし》のような大きな石が打ち寄せる波に揉《も》まれて、始終ごろごろしているのです。
 私はすぐ厭《いや》になりました。しかしKは好《い》いとも悪いともいいません。少なくとも顔付《かおつき》だけは平気なものでした。そのくせ彼は海へ入るたんびにどこかに怪我《けが》をしない事はなかったのです。私はとうとう彼を説き伏せて、そこから富浦《とみうら》に行きました。富浦からまた那古《なこ》に移りました。すべてこの沿岸はその時分から重《おも》に学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど手頃《てごろ》の海水浴場だったのです。Kと私はよく海岸の岩の上に坐《すわ》って、遠い海の色や、近い水の底を眺《なが》めました。岩の上から見下《みおろ》す水は、また特別に綺麗《きれい》なものでした。赤い色だの藍《あい》の色だの、普通|市場《しじょう》に上《のぼ》らないような色をした小魚《こうお》が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが鮮やかに指さされました。
 私はそこに坐って、よく書物をひろげました。Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。私にはそれが考えに耽《ふけ》っているのか、景色に見惚《みと》れているのか、もしくは好きな想像を描《えが》いているのか、全く解《わか》らなかったのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしているのだと聞きました。Kは何もしていないと一口《ひとくち》答えるだけでした。私は自分の傍《そば》にこうじっとして坐っているものが、Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事がよくありました。それだけならまだいいのですが、時にはKの方でも私と同じような希望を抱《いだ》いて岩の上に坐っているのではないかしらと忽然《こつぜん》疑い出すのです。すると落ち付いてそこに書物をひろげているのが急に厭になります。私は不意に立ち上《あが》ります。そうして遠慮のない大きな声を出して怒鳴《どな》ります。纏《まと》まった詩だの歌だのを面白そうに吟《ぎん》ずるような手緩《てぬる》い事はできないのです。ただ野蛮人のごとくにわめくのです。ある時私は突然彼の襟頸《えりくび》を後ろからぐいと攫《つか》みました。こうして海の中へ突き落したらどうするといってKに聞きました。Kは動きませんでした。後ろ向きのまま、ちょうど好《い》い、やってくれと答えました。私はすぐ首筋を抑《おさ》えた手を放しました。
 Kの神経衰弱はこの時もう大分《だいぶ》よくなっていたらしいのです。それと反比例に、私の方は段々過敏になって来ていたのです。私は自分より落ち付いているKを見て、羨《うらや》ましがりました。また憎らしがりました。彼はどうしても私に取り合う気色《けしき》を見せなかったからです。私にはそれが一種の自信のごとく映りました。しかしその自信を彼に認めたところで、私は決して満足できなかったのです。私の疑いはもう一歩前へ出て、その性質を明《あき》らめたがりました。彼は学問なり事業なりについて、これから自分の進んで行くべき前途の光明《こうみょう》を再び取り返した心持になったのだろうか。単にそれだけならば、Kと私との利害に何の衝突の起る訳はないのです。私はかえって世話のし甲斐《がい》があったのを嬉《うれ》しく思うくらいなものです。けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば、私は決して彼を許す事ができなくなるのです。不思議にも彼は私のお嬢さんを愛している素振《そぶり》に全く気が付いていないように見えました。無論私もそれがKの眼に付くようにわざとらしくは振舞いませんでしたけれども。Kは元来そういう点にかけると鈍《にぶ》い人なのです。私には最初からKなら大丈夫という安心があったので、彼をわざわざ宅《うち》へ連れて来たのです。
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发表于 2006-12-1 17:59:50 | 显示全部楼层
     二十九

「私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました。もっともこれはその時に始まった訳でもなかったのです。旅に出ない前から、私にはそうした腹ができていたのですけれども、打ち明ける機会をつらまえる事も、その機会を作り出す事も、私の手際《てぎわ》では旨《うま》くゆかなかったのです。今から思うと、その頃私の周囲にいた人間はみんな妙でした。女に関して立ち入った話などをするものは一人もありませんでした。中には話す種《たね》をもたないのも大分《だいぶ》いたでしょうが、たといもっていても黙っているのが普通のようでした。比較的自由な空気を呼吸している今のあなたがたから見たら、定めし変に思われるでしょう。それが道学《どうがく》の余習《よしゅう》なのか、または一種のはにかみなのか、判断はあなたの理解に任せておきます。
 Kと私は何でも話し合える中でした。偶《たま》には愛とか恋とかいう問題も、口に上《のぼ》らないではありませんでしたが、いつでも抽象的な理論に落ちてしまうだけでした。それも滅多《めった》には話題にならなかったのです。大抵は書物の話と学問の話と、未来の事業と、抱負と、修養の話ぐらいで持ち切っていたのです。いくら親しくってもこう堅くなった日には、突然調子を崩《くず》せるものではありません。二人はただ堅いなりに親しくなるだけです。私はお嬢さんの事をKに打ち明けようと思い立ってから、何遍《なんべん》歯がゆい不快に悩まされたか知れません。私はKの頭のどこか一カ所を突き破って、そこから柔らかい空気を吹き込んでやりたい気がしました。
 あなたがたから見て笑止千万《しょうしせんばん》な事もその時の私には実際大困難だったのです。私は旅先でも宅《うち》にいた時と同じように卑怯《ひきょう》でした。私は始終機会を捕える気でKを観察していながら、変に高踏的な彼の態度をどうする事もできなかったのです。私にいわせると、彼の心臓の周囲は黒い漆《うるし》で重《あつ》く塗り固められたのも同然でした。私の注《そそ》ぎ懸けようとする血潮は、一滴もその心臓の中へは入らないで、悉《ことごと》く弾《はじ》き返されてしまうのです。
 或《あ》る時はあまりKの様子が強くて高いので、私はかえって安心した事もあります。そうして自分の疑いを腹の中で後悔すると共に、同じ腹の中で、Kに詫《わ》びました。詫びながら自分が非常に下等な人間のように見えて、急に厭《いや》な心持になるのです。しかし少時《しばらく》すると、以前の疑いがまた逆戻りをして、強く打ち返して来ます。すべてが疑いから割り出されるのですから、すべてが私には不利益でした。容貌《ようぼう》もKの方が女に好かれるように見えました。性質も私のようにこせこせしていないところが、異性には気に入るだろうと思われました。どこか間《ま》が抜けていて、それでどこかに確《しっ》かりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。学力《がくりき》になれば専門こそ違いますが、私は無論Kの敵でないと自覚していました。――すべて向うの好《い》いところだけがこう一度に眼先《めさき》へ散らつき出すと、ちょっと安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。
 Kは落ち付かない私の様子を見て、厭《いや》ならひとまず東京へ帰ってもいいといったのですが、そういわれると、私は急に帰りたくなくなりました。実はKを東京へ帰したくなかったのかも知れません。二人は房州《ぼうしゅう》の鼻を廻《まわ》って向う側へ出ました。我々は暑い日に射《い》られながら、苦しい思いをして、上総《かずさ》のそこ一里《いちり》に騙《だま》されながら、うんうん歩きました。私にはそうして歩いている意味がまるで解《わか》らなかったくらいです。私は冗談《じょうだん》半分Kにそういいました。するとKは足があるから歩くのだと答えました。そうして暑くなると、海に入って行こうといって、どこでも構わず潮《しお》へ漬《つか》りました。その後《あと》をまた強い日で照り付けられるのですから、身体《からだ》が倦怠《だる》くてぐたぐたになりました。

     三十

「こんな風《ふう》にして歩いていると、暑さと疲労とで自然|身体《からだ》の調子が狂って来るものです。もっとも病気とは違います。急に他《ひと》の身体の中へ、自分の霊魂が宿替《やどがえ》をしたような気分になるのです。私《わたくし》は平生《へいぜい》の通りKと口を利《き》きながら、どこかで平生の心持と離れるようになりました。彼に対する親しみも憎しみも、旅中《りょちゅう》限《かぎ》りという特別な性質を帯《お》びる風になったのです。つまり二人は暑さのため、潮《しお》のため、また歩行のため、在来と異なった新しい関係に入る事ができたのでしょう。その時の我々はあたかも道づれになった行商《ぎょうしょう》のようなものでした。いくら話をしてもいつもと違って、頭を使う込み入った問題には触れませんでした。
 我々はこの調子でとうとう銚子《ちょうし》まで行ったのですが、道中たった一つの例外があったのを今に忘れる事ができないのです。まだ房州を離れない前、二人は小湊《こみなと》という所で、鯛《たい》の浦《うら》を見物しました。もう年数《ねんすう》もよほど経《た》っていますし、それに私にはそれほど興味のない事ですから、判然《はんぜん》とは覚えていませんが、何でもそこは日蓮《にちれん》の生れた村だとかいう話でした。日蓮の生れた日に、鯛が二|尾《び》磯《いそ》に打ち上げられていたとかいう言伝《いいつた》えになっているのです。それ以来村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至ったのだから、浦には鯛が沢山いるのです。我々は小舟を傭《やと》って、その鯛をわざわざ見に出掛けたのです。
 その時私はただ一図《いちず》に波を見ていました。そうしてその波の中に動く少し紫がかった鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました。しかしKは私ほどそれに興味をもち得なかったものとみえます。彼は鯛よりもかえって日蓮の方を頭の中で想像していたらしいのです。ちょうどそこに誕生寺《たんじょうじ》という寺がありました。日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでしょう、立派な伽藍《がらん》でした。Kはその寺に行って住持《じゅうじ》に会ってみるといい出しました。実をいうと、我々はずいぶん変な服装《なり》をしていたのです。ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠《すげがさ》を買って被《かぶ》っていました。着物は固《もと》より双方とも垢《あか》じみた上に汗で臭《くさ》くなっていました。私は坊さんなどに会うのは止《よ》そうといいました。Kは強情《ごうじょう》だから聞きません。厭《いや》なら私だけ外に待っていろというのです。私は仕方がないからいっしょに玄関にかかりましたが、心のうちではきっと断られるに違いないと思っていました。ところが坊さんというものは案外|丁寧《ていねい》なもので、広い立派な座敷へ私たちを通して、すぐ会ってくれました。その時分の私はKと大分《だいぶ》考えが違っていましたから、坊さんとKの談話にそれほど耳を傾ける気も起りませんでしたが、Kはしきりに日蓮の事を聞いていたようです。日蓮は草日蓮《そうにちれん》といわれるくらいで、草書《そうしょ》が大変上手であったと坊さんがいった時、字の拙《まず》いKは、何だ下らないという顔をしたのを私はまだ覚えています。Kはそんな事よりも、もっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしょう。坊さんがその点でKを満足させたかどうかは疑問ですが、彼は寺の境内《けいだい》を出ると、しきりに私に向って日蓮の事を云々《うんぬん》し出しました。私は暑くて草臥《くたび》れて、それどころではありませんでしたから、ただ口の先で好《い》い加減な挨拶《あいさつ》をしていました。それも面倒になってしまいには全く黙ってしまったのです。
 たしかその翌《あく》る晩の事だと思いますが、二人は宿へ着いて飯《めし》を食って、もう寝ようという少し前になってから、急にむずかしい問題を論じ合い出しました。Kは昨日《きのう》自分の方から話しかけた日蓮の事について、私が取り合わなかったのを、快く思っていなかったのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だといって、何だか私をさも軽薄もののようにやり込めるのです。ところが私の胸にはお嬢さんの事が蟠《わだかま》っていますから、彼の侮蔑《ぶべつ》に近い言葉をただ笑って受け取る訳にいきません。私は私で弁解を始めたのです。
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发表于 2006-12-1 18:00:08 | 显示全部楼层
     三十一

「その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私が自分の弱点のすべてを隠しているというのです。なるほど後から考えれば、Kのいう通りでした。しかし人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、出立点《しゅったつてん》がすでに反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。私はなおの事自説を主張しました。するとKが彼のどこをつらまえて人間らしくないというのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。あるいは人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくないような事をいうのだ。また人間らしくないように振舞おうとするのだ。
 私がこういった時、彼はただ自分の修養が足りないから、他《ひと》にはそう見えるかも知れないと答えただけで、一向《いっこう》私を反駁《はんばく》しようとしませんでした。私は張合いが抜けたというよりも、かえって気の毒になりました。私はすぐ議論をそこで切り上げました。彼の調子もだんだん沈んで来ました。もし私が彼の知っている通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだろうといって悵然《ちょうぜん》としていました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。霊のために肉を虐《しいた》げたり、道のために体《たい》を鞭《むち》うったりしたいわゆる難行苦行《なんぎょうくぎょう》の人を指すのです。Kは私に、彼がどのくらいそのために苦しんでいるか解《わか》らないのが、いかにも残念だと明言しました。
 Kと私とはそれぎり寝てしまいました。そうしてその翌《あく》る日からまた普通の行商《ぎょうしょう》の態度に返って、うんうん汗を流しながら歩き出したのです。しかし私は路々《みちみち》その晩の事をひょいひょいと思い出しました。私にはこの上もない好《い》い機会が与えられたのに、知らない振《ふ》りをしてなぜそれをやり過ごしたのだろうという悔恨の念が燃えたのです。私は人間らしいという抽象的な言葉を用いる代りに、もっと直截《ちょくせつ》で簡単な話をKに打ち明けてしまえば好かったと思い出したのです。実をいうと、私がそんな言葉を創造したのも、お嬢さんに対する私の感情が土台になっていたのですから、事実を蒸溜《じょうりゅう》して拵《こしら》えた理論などをKの耳に吹き込むよりも、原《もと》の形《かたち》そのままを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だったでしょう。私にそれができなかったのは、学問の交際が基調を構成している二人の親しみに、自《おのず》から一種の惰性があったため、思い切ってそれを突き破るだけの勇気が私に欠けていたのだという事をここに自白します。気取り過ぎたといっても、虚栄心が祟《たた》ったといっても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います。それがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです。
 我々は真黒になって東京へ帰りました。帰った時は私の気分がまた変っていました。人間らしいとか、人間らしくないとかいう小理屈《こりくつ》はほとんど頭の中に残っていませんでした。Kにも宗教家らしい様子が全く見えなくなりました。おそらく彼の心のどこにも霊がどうの肉がどうのという問題は、その時宿っていなかったでしょう。二人は異人種のような顔をして、忙しそうに見える東京をぐるぐる眺《なが》めました。それから両国《りょうごく》へ来て、暑いのに軍鶏《しゃも》を食いました。Kはその勢《いきお》いで小石川《こいしかわ》まで歩いて帰ろうというのです。体力からいえばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ応じました。
 宅《うち》へ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚きました。二人はただ色が黒くなったばかりでなく、むやみに歩いていたうちに大変|瘠《や》せてしまったのです。奥さんはそれでも丈夫そうになったといって賞《ほ》めてくれるのです。お嬢さんは奥さんの矛盾がおかしいといってまた笑い出しました。旅行前時々腹の立った私も、その時だけは愉快な心持がしました。場合が場合なのと、久しぶりに聞いたせいでしょう。

     三十二

「それのみならず私《わたくし》はお嬢さんの態度の少し前と変っているのに気が付きました。久しぶりで旅から帰った私たちが平生《へいぜい》の通り落ち付くまでには、万事について女の手が必要だったのですが、その世話をしてくれる奥さんはとにかく、お嬢さんがすべて私の方を先にして、Kを後廻《あとまわ》しにするように見えたのです。それを露骨にやられては、私も迷惑したかもしれません。場合によってはかえって不快の念さえ起しかねなかったろうと思うのですが、お嬢さんの所作《しょさ》はその点で甚だ要領を得ていたから、私は嬉《うれ》しかったのです。つまりお嬢さんは私だけに解《わか》るように、持前《もちまえ》の親切を余分に私の方へ割り宛《あ》ててくれたのです。だからKは別に厭《いや》な顔もせずに平気でいました。私は心の中《うち》でひそかに彼に対する※[#「りっしんべん+榿のつくり」、第3水準1-84-59]歌《がいか》を奏しました。
 やがて夏も過ぎて九月の中頃《なかごろ》から我々はまた学校の課業に出席しなければならない事になりました。Kと私とは各自《てんでん》の時間の都合で出入りの刻限にまた遅速ができてきました。私がKより後《おく》れて帰る時は一週に三度ほどありましたが、いつ帰ってもお嬢さんの影をKの室《へや》に認める事はないようになりました。Kは例の眼を私の方に向けて、「今帰ったのか」を規則のごとく繰り返しました。私の会釈もほとんど器械のごとく簡単でかつ無意味でした。
 たしか十月の中頃と思います。私は寝坊《ねぼう》をした結果、日本服《にほんふく》のまま急いで学校へ出た事があります。穿物《はきもの》も編上《あみあげ》などを結んでいる時間が惜しいので、草履《ぞうり》を突っかけたなり飛び出したのです。その日は時間割からいうと、Kよりも私の方が先へ帰るはずになっていました。私は戻って来ると、そのつもりで玄関の格子《こうし》をがらりと開けたのです。するといないと思っていたKの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。私はいつものように手数《てかず》のかかる靴を穿《は》いていないから、すぐ玄関に上がって仕切《しきり》の襖《ふすま》を開けました。私は例の通り机の前に坐《すわ》っているKを見ました。しかしお嬢さんはもうそこにはいなかったのです。私はあたかもKの室《へや》から逃《のが》れ出るように去るその後姿《うしろすがた》をちらりと認めただけでした。私はKにどうして早く帰ったのかと問いました。Kは心持が悪いから休んだのだと答えました。私が自分の室にはいってそのまま坐っていると、間もなくお嬢さんが茶を持って来てくれました。その時お嬢さんは始めてお帰りといって私に挨拶《あいさつ》をしました。私は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞けるような捌《さば》けた男ではありません。それでいて腹の中では何だかその事が気にかかるような人間だったのです。お嬢さんはすぐ座を立って縁側伝《えんがわづた》いに向うへ行ってしまいました。しかしKの室の前に立ち留まって、二言《ふたこと》三言《みこと》内と外とで話をしていました。それは先刻《さっき》の続きらしかったのですが、前を聞かない私にはまるで解りませんでした。
 そのうちお嬢さんの態度がだんだん平気になって来ました。Kと私がいっしょに宅《うち》にいる時でも、よくKの室《へや》の縁側へ来て彼の名を呼びました。そうしてそこへ入って、ゆっくりしていました。無論郵便を持って来る事もあるし、洗濯物を置いてゆく事もあるのですから、そのくらいの交通は同じ宅にいる二人の関係上、当然と見なければならないのでしょうが、ぜひお嬢さんを専有したいという強烈な一念に動かされている私には、どうしてもそれが当然以上に見えたのです。ある時はお嬢さんがわざわざ私の室へ来るのを回避して、Kの方ばかりへ行くように思われる事さえあったくらいです。それならなぜKに宅を出てもらわないのかとあなたは聞くでしょう。しかしそうすれば私がKを無理に引張《ひっぱ》って来た主意が立たなくなるだけです。私にはそれができないのです。
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发表于 2006-12-1 18:00:25 | 显示全部楼层
     三十三

「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私《わたくし》は外套《がいとう》を濡《ぬ》らして例の通り蒟蒻閻魔《こんにゃくえんま》を抜けて細い坂路《さかみち》を上《あが》って宅《うち》へ帰りました。Kの室は空虚《がらんどう》でしたけれども、火鉢には継ぎたての火が暖かそうに燃えていました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳《かざ》そうと思って、急いで自分の室の仕切《しき》りを開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く残っているだけで、火種《ひだね》さえ尽きているのです。私は急に不愉快になりました。
 その時私の足音を聞いて出て来たのは、奥さんでした。奥さんは黙って室の真中に立っている私を見て、気の毒そうに外套を脱がせてくれたり、日本服を着せてくれたりしました。それから私が寒いというのを聞いて、すぐ次の間《ま》からKの火鉢を持って来てくれました。私がKはもう帰ったのかと聞きましたら、奥さんは帰ってまた出たと答えました。その日もKは私より後《おく》れて帰る時間割だったのですから、私はどうした訳かと思いました。奥さんは大方《おおかた》用事でもできたのだろうといっていました。
 私はしばらくそこに坐《すわ》ったまま書見《しょけん》をしました。宅の中がしんと静まって、誰《だれ》の話し声も聞こえないうちに、初冬《はつふゆ》の寒さと佗《わ》びしさとが、私の身体《からだ》に食い込むような感じがしました。私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。私はふと賑《にぎ》やかな所へ行きたくなったのです。雨はやっと歇《あが》ったようですが、空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので、私は用心のため、蛇《じゃ》の目《め》を肩に担《かつ》いで、砲兵《ほうへい》工廠《こうしょう》の裏手の土塀《どべい》について東へ坂を下《お》りました。その時分はまだ道路の改正ができない頃《ころ》なので、坂の勾配《こうばい》が今よりもずっと急でした。道幅も狭くて、ああ真直《まっすぐ》ではなかったのです。その上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞《ふさ》がっているのと、放水《みずはき》がよくないのとで、往来はどろどろでした。ことに細い石橋を渡って柳町《やなぎちょう》の通りへ出る間が非道《ひど》かったのです。足駄《あしだ》でも長靴でもむやみに歩く訳にはゆきません。誰でも路《みち》の真中に自然と細長く泥が掻《か》き分けられた所を、後生《ごしょう》大事《だいじ》に辿《たど》って行かなければならないのです。その幅は僅《わず》か一、二|尺《しゃく》しかないのですから、手もなく往来に敷いてある帯の上を踏んで向うへ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になってそろそろ通り抜けます。私はこの細帯の上で、はたりとKに出合いました。足の方にばかり気を取られていた私は、彼と向き合うまで、彼の存在にまるで気が付かずにいたのです。私は不意に自分の前が塞《ふさ》がったので偶然眼を上げた時、始めてそこに立っているKを認めたのです。私はKにどこへ行ったのかと聞きました。Kはちょっとそこまでといったぎりでした。彼の答えはいつもの通りふんという調子でした。Kと私は細い帯の上で身体を替《かわ》せました。するとKのすぐ後ろに一人の若い女が立っているのが見えました。近眼の私には、今までそれがよく分らなかったのですが、Kをやり越した後《あと》で、その女の顔を見ると、それが宅《うち》のお嬢さんだったので、私は少なからず驚きました。お嬢さんは心持薄赤い顔をして、私に挨拶《あいさつ》をしました。その時分の束髪《そくはつ》は今と違って廂《ひさし》が出ていないのです、そうして頭の真中《まんなか》に蛇《へび》のようにぐるぐる巻きつけてあったものです。私はぼんやりお嬢さんの頭を見ていましたが、次の瞬間に、どっちか路《みち》を譲らなければならないのだという事に気が付きました。私は思い切ってどろどろの中へ片足|踏《ふ》ん込《ご》みました。そうして比較的通りやすい所を空《あ》けて、お嬢さんを渡してやりました。
 それから柳町の通りへ出た私はどこへ行って好《い》いか自分にも分らなくなりました。どこへ行っても面白くないような心持がするのです。私は飛泥《はね》の上がるのも構わずに、糠《ぬか》る海《み》の中を自暴《やけ》にどしどし歩きました。それから直《す》ぐ宅へ帰って来ました。

     三十四

「私はKに向ってお嬢さんといっしょに出たのかと聞きました。Kはそうではないと答えました。真砂町《まさごちょう》で偶然出会ったから連れ立って帰って来たのだと説明しました。私はそれ以上に立ち入った質問を控えなければなりませんでした。しかし食事の時、またお嬢さんに向って、同じ問いを掛けたくなりました。するとお嬢さんは私の嫌いな例の笑い方をするのです。そうしてどこへ行ったか中《あ》ててみろとしまいにいうのです。その頃《ころ》の私はまだ癇癪《かんしゃく》持《も》ちでしたから、そう不真面目《ふまじめ》に若い女から取り扱われると腹が立ちました。ところがそこに気の付くのは、同じ食卓に着いているもののうちで奥さん一人だったのです。Kはむしろ平気でした。お嬢さんの態度になると、知ってわざとやるのか、知らないで無邪気《むじゃき》にやるのか、そこの区別がちょっと判然《はんぜん》しない点がありました。若い女としてお嬢さんは思慮に富んだ方《ほう》でしたけれども、その若い女に共通な私の嫌いなところも、あると思えば思えなくもなかったのです。そうしてその嫌いなところは、Kが宅へ来てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに対する私の嫉妬《しっと》に帰《き》していいものか、または私に対するお嬢さんの技巧と見傚《みな》してしかるべきものか、ちょっと分別に迷いました。私は今でも決してその時の私の嫉妬心を打ち消す気はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面《りめん》にこの感情の働きを明らかに意識していたのですから。しかも傍《はた》のものから見ると、ほとんど取るに足りない瑣事《さじ》に、この感情がきっと首を持ち上げたがるのでしたから。これは余事《よじ》ですが、こういう嫉妬《しっと》は愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代り愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。
 私はそれまで躊躇《ちゅうちょ》していた自分の心を、一思《ひとおも》いに相手の胸へ擲《たた》き付けようかと考え出しました。私の相手というのはお嬢さんではありません、奥さんの事です。奥さんにお嬢さんを呉《く》れろと明白な談判を開こうかと考えたのです。しかしそう決心しながら、一日一日と私は断行の日を延ばして行ったのです。そういうと私はいかにも優柔《ゆうじゅう》な男のように見えます、また見えても構いませんが、実際私の進みかねたのは、意志の力に不足があったためではありません。Kの来ないうちは、他《ひと》の手に乗るのが厭《いや》だという我慢が私を抑《おさ》え付けて、一歩も動けないようにしていました。Kの来た後《のち》は、もしかするとお嬢さんがKの方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えず私を制するようになったのです。はたしてお嬢さんが私よりもKに心を傾けているならば、この恋は口へいい出す価値のないものと私は決心していたのです。恥を掻《か》かせられるのが辛《つら》いなどというのとは少し訳が違います。こっちでいくら思っても、向うが内心|他《ほか》の人に愛の眼《まなこ》を注《そそ》いでいるならば、私はそんな女といっしょになるのは厭なのです。世の中では否応《いやおう》なしに自分の好いた女を嫁に貰《もら》って嬉《うれ》しがっている人もありますが、それは私たちよりよっぽど世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑《の》み込めない鈍物《どんぶつ》のする事と、当時の私は考えていたのです。一度貰ってしまえばどうかこうか落ち付くものだぐらいの哲理では、承知する事ができないくらい私は熱していました。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時にもっとも迂遠《うえん》な愛の実際家だったのです。
 肝心《かんじん》のお嬢さんに、直接この私というものを打ち明ける機会も、長くいっしょにいるうちには時々出て来たのですが、私はわざとそれを避けました。日本の習慣として、そういう事は許されていないのだという自覚が、その頃の私には強くありました。しかし決してそればかりが私を束縛したとはいえません。日本人、ことに日本の若い女は、そんな場合に、相手に気兼《きがね》なく自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものと私は見込んでいたのです。
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